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2012年5月22日 (火)

読書雑記(50)西村慎太郎『宮中のシェフ、鶴をさばく』

 息子が料理を専門的に勉強するために、調理師専門学校に入学したのは数年前です。日本料理を極めるという意気込みでした。今はイタリア料理を勉強中のようです。しかし、和食の勉強からは得難いものをもらったようです。

 その息子の入学式の時、大阪城ホールの舞台では、儀式としての「式包丁」が行われました。確か、生間流だったと思います。烏帽子、袴、狩衣姿の家元が、包丁と菜箸で鯛を捌かれました。

 今でも、息子は私にいろいろな食事を作ってくれます。最近は、糖質制限食を頼んでいます。やはり、和食から得た技術は、さまざまな局面で生きているようです。

 さて、本書『宮中のシェフ、鶴をさばく 江戸時代の朝廷と包丁道』(西村慎太郎、歴史文化ライブラリー344、吉川弘文館、2012年5月、223頁)は、実は私の同僚の著作です。
 
 
 
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 歴史畑の若手研究者として、2年前に国文学研究資料館に赴任した新進気鋭の研究者です。
 ケンブリッジ大学の大学院生が尋ねてきた時も、近世の問題ということもあり私には手に負えませんでした。そこで、西村氏にそのサポートを頼み、貴重な助言の数々をして私の負担を軽減してもらえました。とにかく、気持ちのいい青年です。ただし、本書には少しコメントしたいことがあるので、敢えてここに取り上げます。

 本書は、私にとっては息子との話題の共有にもなればと思って丹念に読みました。最初は、歴史的な記述が続きます。しかし、次第に包丁道の話がおもしろくなっていきます。
 一般の方には、語られる内容が固苦しい感じで読みにくいかもしれません。しかし、教わることの多い一冊です。

 以下、私がしるしを付けた箇所を抜き出しておきます。


もし江戸時代の天皇に「権威」が存在するなら、将軍家は天皇家との血縁を濃くしたいと思うであろうが、それをしている形跡が認められないことからも、天皇に「権威」がないことを前提に考えるのが普通であろう。(16頁)

・安永年間の「安永の御所騒動」が、安永8年に21歳で亡くなった後桃園天皇の死期を早めたのではないか、という指摘は興味深いものです。


皇位は遠い親戚の兼仁親王に移るが、ベテラン「シェフ」の大量解雇と新人の大量雇用が死期を早める淵源となった、といってはいい過ぎであろうか。(54頁)

・天皇の食事スタイルについて。


「明治時代以降の朝食はいわゆるフレンチスタイルで、カフェオレとパンのみであった。(57頁)

・由紀さおりの姉安田祥子の夫は澤田久雄。その久雄の兄信一の妻である堤正子は宮中の魚を担った御用商人奥八郎兵衛の11代目の孫。魚を扱う御用商人奥八郎兵衛は、丸太町富小路東入に店舗を構えた。この家は、清和天皇以来の宮中の魚を担う由緒ある家。奥八郎兵衛は「星ヶ丘茶寮」を建設し、北大路魯山人が美食家の料亭にした。空襲で消失した茶寮は、戦後は東急の五島慶太が東京ヒルトンホテルとし、そこにビートルズが宿泊した。(61頁)

・江戸時代の公家の婚礼では、平安時代のような「三日夜餅」や「露顕」というしきたりはなかったようだ、とあります(93頁)。

 とすると、いつ頃まで伝承していたのでしょうか。食物と儀式に関して、興味のあるところです。

 本書は、江戸時代の料理人を巡る話から、やがて鶴包丁の話になっていきます。長屋王の屋敷に「鶴司」が置かれていたというのですから、古くから鶴は儀式の中などで食されていたようです。献上や下賜に鶴が用いられているのです。
 今では食べることのできない鶴です。どのように調理され、どんな味がしたのか、興味を持って読み進んでいきました。まさに、鶴の解体ショーです。ただし、この鶴の話は残念ですが失速します。

 鶴包丁で使われるのは、タンチョウヅルではなくて、クロヅルやマナヅルだったそうです。具体的になればなるほど、食事とはいえ無縁だった動物なので、イメージが生々しくなります。

 松岡行義の『後松日記』に記されている天保4年(1833)の「包丁ノ稽古」が紹介されています。


「包丁道」という名称をだけ見ると、家元がいて、秘伝があって、複雑な作法があるように考えがちだが、実際はそのようなものがないということがわかる。(129頁)

 包丁道に関する資料が少ないこともあってか、後半は関係者の生き様の話になります。歴史話となり、やや退屈になります。鶴がどこかへ行ってしまったからでもあります。

 資料が少ないことも、この分野を記述することの難しさがあります。

 堂上公家の姿がよくわかりました。四条家の包丁道も、よくわからないながらも興味深く思われました。
 ただし、鶴を捌いた高橋家から包丁道を家職とした四条家の話に移る130頁あたりから、しだいに話の生彩をなくしているように思えます。手堅い歴史の舞台裏を語ることが多くなるのです。やはり、本書の標題となっている〈鶴をさばく〉ことをテーマとして一緒を編むには、決定的に資料の少なさが影響を与えているようです。後半は、なんとか包丁道に関わりのあるネタでつないだ、という読後感が否めません。

 本書は、歴史を包丁道という視点で見る点で、基礎的な問題を取り上げた貴重なものとなっていると思います。しかし、それと本書のタイトルである[宮中のシェフ、鶴をさばく]とが乖離しています。サブタイトルの[江戸時代の朝廷と包丁道]はわかります。このメインタイトルが内容と密接にリンクさせられなかったことは、残念なことだと思われます。
 書名に惹かれて手にして読んだ人は、読み終えてそこに違和感を抱くのではないでしょうか。否、半ばから読み流されてしまうのではないでしょうか。
 書名が良すぎたのです。内容の良さが、この書名には盛られていません。

 しかし、著者は調査研究を積み上げて、今後ともさらなる成果を示していかれるはずです。
 私は、本書が契機となり、著者のさらなる研鑽と進展が楽しみになりました。
 
 
 

2012年5月21日 (月)

国際日本文学研究集会で研究発表者を募集中

 国文学研究資料館主催の「第36回 国際日本文学研究集会」が、今年11月17日(土)と18日(日)に開催されます。
 日本文学に関する国際研究集会としては老舗です。
 ドナルド・キーン先生、ロイヤル・タイラー先生をはじめとして、世界各国で活躍なさっている先生方は、みなさんこの国際集会での実績がある方々ばかりです。

 現在、研究発表の申し込みを受付けています。
 今年のテーマは「再生の文学 -日本文学は何を発信できるか-」です。
 研究発表の申込締切は、6月25日(月)必着です。

 募集要領及び研究発表申込書の様式等をダウンロードして、詳細を確認してください。

 25分の研究発表だけでなく、10分のショートセッションや、A0サイズのポスターセッションもあります。
 奮って参加申し込みを検討してみてください。
 また、お知り合いの方にもお勧めください。留学生の方や、海外で研究なさっている方の参加も歓迎します。

 なお、参加費は無料ですが、来場のための交通費・滞在費は各自の負担となります。
 
 
 

2012年5月20日 (日)

源氏物語の表紙絵に関する報告

 今西館長の〈科学研究費補助金基盤研究(A)「日本古典籍における【表記情報学】の基盤構築に関する研究」〉について、一昨日の18日(金)に平成24年度年度第1回研究会がありました。
 参加者11名によって、有意義な研究発表と報告に対する情報交換がなされました。

  日時:2012年5月18日(金)15:00〜18:30
  場所:国文学研究資料館 第1会議室(2F)

 まず、今西館長の「日本語の表記雑感 ―挨拶に代えて」と題するものです。
 近世の版本を中心として、漢字が書かれている本と仮名で書かれた本に関して、たくさんの資料をスクリーンに映し出しての詳細な発表を伺うことができました。
 その内容は、この科研の報告書(第2号)に収録される予定ですので、いましばらくお待ち下さい。

 次は、私と阿部江美子さん(プロジェクト研究員)が「国文研蔵『源氏物語』古写本の書誌情報について」と題する調査報告をしました。
 阿部さんの報告内容は、昨年3月に国文研の所蔵となった鎌倉時代の古写本15冊の表紙に関するものです。表記情報学とは直結しない内容です。しかし、今後とも貴重な資料となる古写本の基本情報となるものなので、この時点で整理しておく意味から報告してもらうことにしました。
 その資料は、いろいろな問題点を提起するものです。興味のある方との情報を交換する意味から、以下にその資料をPDFとして公開します。この資料に目を通していただき、何か関連することをご存知でしたら、ご教示の程をお願いします。
 
阿部・鎌倉期書写国文研蔵『源氏物語』の表紙絵について
 

 阿部さんに続いて、それを補完する意味から、私が「鎌倉期写本における書写傾向 ─国文研本「葵」の場合─」と題する報告をしました。
 以下、今回の報告用の資料を転記します。
 これは、写本を書き写そうとする人の意識を探ろうとするものです。


鎌倉期写本における書写傾向
  ─国文研本「葵」の場合─

    はじめに

 国文学研究資料館には、鎌倉時代の書写にかかる古写本が十数冊所蔵されている。その中から、平成二十三年三月に収蔵された「葵木」巻をとりあげる。その紙面に記されている物語本文の各丁末文字を見ていくと、どのような状態で改丁されているかで興味深い傾向が見て取れる。文節で切れているか、単語で切れているか、語中で切れているかの三つの場合がある。語中で切れるのは、二割以下であることが多い。
 古写本における書写者の心理を反映するものとして、以下に例示しながら検討を加えていきたい。
 なお、書写された文字の傾向は、『源氏物語別本集成』の文節単位を基本として調査した。

    一、鎌倉期書写の古写本に対する私見

 まず、これまでに『源氏物語』の古写本の調査をしてきての私見をまとめておく。

(1)『源氏物語』の古写本では、基本的に親本に書かれている通りに書写されている。行単位でほぼ同等の文字列として書写される傾向がある。
(2)各丁の末尾(左下)は、語彙レベルで改丁される傾向にある。語彙が泣き別れで書写されることは少ない。これは、書写ミスを避けるために、自己防衛的な心理が働いての結果ではないか。
(3)異文は、傍記本文の混入によって発生することが多い。現在私は、『源氏物語』の諸本に書き写された物語本文を、その内容によって、〈甲類〉と〈乙類〉の二種類に分別する私案を提唱している。
  〈甲類〉とは、これまでに私が〈河内本群〉と称してきたグループである。そこにおいては、傍記が本行本文の直前に潜り込むことが多い。
(4)今回調査対象とした「葵」は、伊藤の分別試案で言えば〈乙類〉にあたる。そのことは、ここでは詳述しない。機会を改めたい。

    二、「葵」におけるメモ

〈1〉改丁箇所(一二六例)のほとんどは文節で切れる場所。

  ■文節切れ 六九例(五五%)
  ■語中切れ 二八例(二二%)
  ■単語切れ 二九例(二三%)

〈2〉大島本の漢字表記の部分が、国文研本ではほとんどがひらがなになっている。

 「車」「給」など

〈3〉后、宣旨、宮す所、随身、前坊、大殿などの呼び名や官職名は漢字になる。
  ただし、上達部はひらがな。

〈4〉変体仮名の「伊」は行頭に、「葉」は行末に書かれる。
 その理由は?

〈5〉撥音便の「ん」が多様される。

〈6〉真ん中の三一丁あたりからしばらく「給」が使われ出す。
  三〇丁ウでは漢字一例、ひらがな二例。
  三一丁オには漢字七例、ひらがな三例。

 これまでにも何度か、古写本では丁替わりする時には、書写される文字列は文節単位で切れていることが多いことを報告してきました。今回は、葵祭の直後だったので、第9巻「葵」を取り上げただけです。それでも、この鎌倉時代末期に書写されたと思われる古写本も、6割近い箇所において文節で切れる文字列を写してから次の丁(頁)に移っていました。また、単語に切れる例も含めると、8割の箇所で言葉のまとまりを意識したかと思われる状態で、頁替わりをする書写がなされているのです。
 質疑応答で、単語に切れる箇所というのを、さらに活用語尾などに細分化して見ると、またおもしろい結果が得られるのでは、という意見を伺いました。今後、検討してみたいと思います。
 とにかく、写本を写す人の潜在意識の中には、言葉のひとまとりまに対する意識があった、といっていいと思います。それが、こうした書写する頁が変わるところで、目と手を離して紙をめくる時に、切れのいいところで切って、それからその続きを写そうとする意識が働いている、ということです。
 まだまだ検討例が少ないので、今後ともこの視点で確認をしていきたいと思います。

 変体仮名の「伊」が行頭に集中し、「葉」は行末に集中して書かれることについては、文字のスペースを確保するために、こうした画数の多い縦長の文字で埋めようとしたのでは、という教示をいただきました。確かに、「葉」は言えます。しかし、行頭の「伊」は、まだその下に文字列を行末まで書くので、最初にスペースの確保をしたというのも考えにくいことです。これについても、さらに考えていきます。

 休憩の後は、上野英子先生(実践女子大学)の「源氏物語諸本間における仏教用語の表記法をめぐる基礎調査」と題する研究発表がありました。
 これは、非常に明快でわかりやすく、またその結論に納得できることの多いものでした。室町時代の写本の検討がなかったので、それを含めての成果が、本年度の報告書に掲載されることでしょう。今後が非常に楽しみな研究発表でした。

 次回の研究会は8月末に開催され、9月にはイタリアで国際研究集会として開催されます。
 折々に、この研究会の報告もとりまとめて記します。
 
 
 

2012年5月19日 (土)

鴨長明のシンポジウムに参加して

 今日は、東京の霞ヶ関にあるイイノホールで、「人間文化研究機構 第18回公開講演会シンポジウム」というイベントが、国文学研究資料館の主催で開催されました。
 プログラムは以下の通りです。


【テーマ】
  不安の時代をどう生きるか
  鴨長明と『方丈記』の世界
【講演】
 「転換期の歌人長明の鬱情」 馬場あき子(歌人)
 「方丈を生きる」 山折哲雄(元国際日本文化研究センター所長)
【シンポジウム】
 「いま長明・『方丈記』を読みなおす」
■パネリスト
 荒木 浩(国際日本文化研究センター教授)
 磯 水絵(二松学舎大学教授)
 浅見和彦(成蹊大学教授)
■コメント
 馬場あき子・山折哲雄
■朗読
 和田 篤(元NHKアナウンサー)
■司会
 寺島恒世(国文学研究資料館教授)

 鴨長明を取り上げているのは、『方丈記』が書き終えられた建暦2年(1212)から数えて今年が800年目だからです。今の世相を見据えたタイムリーな企画です。

 会場は、380名ほどの聴衆で埋まりました。
 会場を見渡すと、いつもこのイベントにいらっしゃる中高年の女性よりも、圧倒的に高齢の男性が多いように見受けられました。鴨長明という人間像や、災害の記事が半分以上という『方丈記』という作品の性格と深く関係していると思われます。

 まず、歌人の馬場あき子さんが「転換期の歌人長明の鬱情」と題して講演をなさいました。
 馬場さんとは、学生時代にある宴席で横に座る機会があり、お話に交えていただいたことがありました。あれから40年近く経っても、あの頃と変わらない艶のある若々しい声です。
 いつもそうですが、今日も明快なお話でした。鴨長明集にあるいくつかの和歌を紹介され、わかりやすく長明の人と形を語られました。

 続いて、元国際日本文化研究センター所長の山折哲雄先生の「方丈を生きる」です。
 旅先での薮蚊の話に始まり、良寛や谷崎潤一郎のことに触れながら、芸術を捨てなかった人間的な鴨長明の生き方を語られました。講演慣れしておられることもあり、ゆったりと淡々と語られました。
 比叡山における修行は「論・湿・寒・貧」に耐えること。法然、親鸞、道元、日蓮たち思想的巨人は、ここから見えてくるのではないか、と。特に「湿度」の問題は重要だとも。そして、親鸞を鴨長明と同じレベルで比較してもいいのでは、と思うようになったそうです。
 そこから寺田寅彦が指摘する「涼しさ」のあり方に展開し、詩歌などで鋭敏な感覚として表現されることへと話はつながりました。これが、鴨長明の『方丈記』の冒頭にある川の流れと関係し、深い意味をたたえているそうです。また、『方丈記』に語られる風もそうだと。芸術と宗教という2つの空間を、鴨長明は数寄者の生き方で通したのです。
 話の最後は、和辻哲郎の『風土』で締めくくられました。モンスーン列島に関する蘊蓄に満ちた語りに引き込まれながら聞き終えました。

 休憩時間に、朝日新聞記者の白石明彦さんが、私がいた席にお出でになりました。『源氏物語』の千年紀を始めとしてお世話になってから久しぶりです。しばらく、お話をしました。
 いろいろな話の中で、私が刊行するはずだった『源氏物語【翻訳】事典』』が、その後どうなったのかを訊かれました。まだ再校正の段階で、と、歯切れの悪いことこのうえなしです。もう5年もかかっているのです。しかし、こうして気にしてくださっていたことを嬉しく思いました。
 白石さんが朝日新聞に署名入りで記事をお書きになったものは、必ず読んでいます。何紙かの、何人かの取材を受けてきましたが、私は白石さんの姿勢に一番好感を持っています。綿密な取材をもとにした上で、わりかやすく簡潔にまとめて書いておられるので、いつもお書きになる記事を楽しみにして読んでいます。
 今回も、この企画を記事になさるようです。これも、楽しみです。

 【シンポジウム】に移りました。テーマは「いま長明・『方丈記』を読みなおす」です。

 今回のイベントの中では、『方丈記』の朗読が3度ありました。プロの読み方は違います。原文が語りとして染み通って来ます。

 パネリストの発表は以下の内容でした。

◎荒木 浩(国際日本文化研究センター教授)
 漱石の『草枕』と『方丈記』を引き合いに出して語り出されました。漱石は『方丈記』を英訳しています。
 いつものようにテンポが心地よい、切れ味のあるお話でした。
 『方丈記』の「恥」については、もっと聴きたいところでした。今春は、京都新聞で連載を担当しておられたので、あの名調子でもっと語ってほしいところです。しかし、時間の関係で話が流れて行きました。
 提示される資料が今につながる新鮮なもので、今後の『方丈記』の研究の楽しさが伝わってくるものでした。
 
 
 
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◎磯 水絵(二松学舎大学教授)
 数寄三昧の生活の鴨長明は、和歌を声を出して歌っていたようです。
 そして、お話を伺っていて、出家者である鴨長明の、神と仏の多面的な世界にどう向き合い、どう整合性を持たせたのか、ということを知りたくなりました。
 『往生要集』を草庵に持ち込んだ鴨長明の神観念も、さらに知りたくなりました。
 つまるところ、究極の生活について考えようという話でした。

◎浅見和彦(成蹊大学教授)
 5つの大きな災厄を引いての『方丈記』に関するお話でした。
 治承4年(1180)4月の辻風について、藤原定家は『明月記』で「北方」と言い、九条兼実は『玉葉』で「三条四条」で発生したとしています。
 これを鴨長明は、「中御門京極」という非常に具体的な場所を指摘しているのです。
 それは、京都御苑の南端で、南南西の風と言っている。ここに、鴨長明の姿勢がわかると言われるのです。これは、火事の後などに、手元にあった地図にしるしを付けていたので、面積は三分の一で扇型と言えたのではないかと。歩き回る鴨長明の姿を語られました。

 ここで、2回目の朗読となりました。会場がピシッと締まります。

 最後のパネルディスカッションになりました。

 3人の発表者同士がお互いの発表に私感を加えられました。
 さらに、馬場あき子・山折哲雄氏のコメントが続きます。そのおおよそを記録しておきます。

・漱石が五大災厄を訳さなかったことの意味について、荒木先生は、面倒くさかったのだと。
・鴨長明は和歌と管弦のどちらがすきだったかという質問に、磯先生はどちらもだと。
・『方丈記』は体験者の記述だということについて。荒木先生は、実際の災害時には俯瞰的な視点にはなれない。長明は出かけて行ったのではなくて、後に追補して書いたのではと言われる。これに対して浅見先生は、当座の印象だと思われる、とされました。
・馬場さんは、長明は和歌よりも琵琶や琴の方を楽しんでいたのではないかと。
・また、神をこんなに簡単に捨てられるか?とも。
・山折先生は、漱石と谷崎の羊羹のことを引き合いに出し、『草枕』と『陰翳礼讃』で共通する問題を提示されました。
・ジャーナリストの資質という視点から見ると鴨長明はどちらか。取材タイプか救助タイプか、という提言もありました。
・『方丈記』の終章をどう読むか?という司会者からの質問に対して。
   荒木先生、唯識と禅
   磯先生、跋文
   浅見先生、仏に縋りたい
   馬場、わからないという結語
   山折、呟くような念仏

 朗読の3回目は終章の部分でした。
 このように原文を読んで確認する進行は、非常に効果的だったように思います。いかにも国文学研究資料館が主催するシンポジウムらしいものになっていた、と思いました。

 全体として、大変中身の濃い、そして充実感を共有できたシンポジウムになっていたと思います。
 私も、専門外とはいえ、いい勉強をさせていただきました。
 
 最後の今西裕一郎館長の挨拶にあったように、国文学研究資料館では来週の5月25日(金)より約1ヶ月間にわたって、立川の1階展示室で「創立40周年 特別展示『鴨長明とその時代 方丈記800年記念』」が開催されます。入場は無料です。
 主な展示資料としては以下のものがあります。


伝松花堂昭乗筆「先賢図押絵貼屏風」 個人蔵(八幡市立松花堂美術館寄託)
「方丈記」 財団法人前田育徳会 尊経閣文庫蔵
「鴨長明座像」 法界寺蔵
「嵯峨本 方丈記」 当館蔵
「方丈記」 当館蔵(川瀬一馬旧蔵)
「発心集」 個人蔵(国文学研究資料館寄託 山鹿積徳堂文庫)
堀田善衞「方丈記私記」自筆原稿 県立神奈川近代文学館蔵

 どうぞ一度脚を運んでご覧ください。
 
 
 

2012年5月18日 (金)

授業(5)翻訳の役割

 渋谷ヒカリエの開店直前に、今日も通りかかりました。男性が数人、開店待ちの列の中にいらっしゃいます。イベントでもあるのでしょうか。

 さて今日は、短歌の解釈について、海外の方々はどのように和歌を理解されているか、ということで、学生のみなさんとの意見交換で盛り上がりました。

 このことについては、イギリスで「日英短歌ソサエティ(A n g l o - J a p a n e s e T a n k a S o c i e t y)」を主宰なさっている中村久司先生の例をあげて、私が知っている範囲での海外における和歌理解について情報を提供しました。

 文学作品の解釈は、その人が馴染み背負って来た生活環境や文化理解に左右されます。そのため、「私はそうは思わない」と言われると、後は話がかみ合いません。自国の作品でも、他国の作品でも、条件は同じです。日本文化の中で育ったから日本文学に対する理解が深い、というものでもないのです。

 外国人に日本文学がわかるか、という理解が正しくないことは言うまでもありません。言葉という壁があるにしても、作品の理解は国境を超えます。ただし、翻訳によっては、置き換えられた言葉や表現の機微が持つ制約から、作品の理解にバラツキが生ずるのは確かです。その意味では、ノーベル文学賞が翻訳に負うところが大なのは、日本文学にとってはハンディーがあるように思っています。あまりにも日本的としか言いようのない、曖昧で微妙な感覚で書かれた表現が、他国の言葉に置き換えらるときに削ぎ落とされる可能性が高いと思うからです。

 翻訳の果たす意義について、さまざまな時代の作品を取り上げてお話するはずでした。しかし、その前段階で意見交換となったので、次回がやりやすくなりました。外国語と翻訳のありように対する基本的な理解が、こうした機会に共有できたからです。

 次回こそ、日本文学の翻訳事典の話です。
 
 
 

2012年5月17日 (木)

『十帖源氏』の現代語訳を楽しむ

 いつものように、新宿アルタの隣のレンタルスペースで、『十帖源氏』を読む会がありました。

 今日は午前中に下鴨神社へ挨拶に行き、それから新幹線の中で何種類かの書類を作成しながらアルタに駆けつけたので、相当疲れた状態での参加でした。しかし、今日もおもしろい問題がたくさん出され、楽しい勉強会となりました。

 今は、第4巻「夕顔」の2回目の現代語訳の確認をしているところです。

 (1)原文「しをん色のうすものも」
 これは、「紫苑色で、袴の上に着用する薄い絹製の裳」のことです。
 この「裳」をどう訳したらいいのかで討論となりました。
 担当者の訳は、「薄紫色の薄い生地のトレーン」でした。
 「夕顔」巻は一度現代語訳を終え、すでに公開しています。しかし、海外の方に翻訳してもらいやすいようにと、さらに検討を重ねているところなのです。
 ここでは、「裳」を「トレーン」ということばで表現していいか、ということです。
 今日集まった中には、「トレーン」は前回初めて知ったことばだけれど感じはわかる、とのことです。私は、教会での結婚式でウエディングドレスの後の方に長く引き摺っている、スカートの裾の部分だと言われ、やっとイメージが湧きました。
 とにかく海外の方々のための現代語訳なので、この「トレーン」でいくことになりました。

(2)原文「手をとらへ給へば、いとなれて」
 そのトレーンを優美に身に着けている中将の君は、光源氏が訪れた六条御息所にお仕えする女房です。この女性が魅力的なので、光源氏はその中将の君の「手をとらへ」たのです。
 この「とらへる」という動作をどう訳したらいいか、ということになりました。
 前回の訳では、「手を取ります」としていました。しかし、ここではもっと恋愛感情が込められている動作なので、単に手を取ったとしたのでは雰囲気が出ないことになります。
 『十帖源氏』の挿絵では、光源氏の手は中将の背中に回っているようです。中将の君も光源氏に撓垂れ掛かっています。
 そこで、「手をとらへ」は「手を握ると」くらいにしておき、それに続く「いとなれて」で工夫をしよう、ということになりました。
 そして、「馴れて」です。
 要するに、中将の君は男との付き合い方がよくわかっているということで、それをどう現代語にするか、ということになります。最初の訳は、「対応に馴れている中将の君」としていました。
 この一時の恋愛遊戯という側面が強い状況で、中将の君は機知に富んだ対応をします。光源氏は、自分がお仕えする六条御息所の想い人なのです。それだけに、その光源氏と自分との関係の微妙なバランスをよく理解し、そして恋愛感情のたゆたいの中で遊ぼうとするのですから、男女の心理ゲームに長けていると言えます。
 そんなことを語り合った後、こんな訳にしました。
 「光源氏が中将の君の手を握ると、男のあしらい方をよく心得ている中将の君は」と。

(3)原文「主人とおぼしきも、はひわたる。」
 これは、夕顔の花の咲く半蔀の家でのことです。表に車の音がすると、若い女性たちはあれが頭中将だとか言い合って、外を覗いているところです。そこで、夕顔の宿の主人と思われる女性も外を見るために「はひわたる」という場面です。
 この「はひ」という接頭語には、赤ちゃんがハイハイするような動作が連想されます。
 最初は「そっと出てきました。」と訳していました。しかし、それでは感じが違います。「にじり寄る」というイメージに近いものがあります。夕顔も、外を通る貴人をできることなら見たいのです。
 そこで、ここは「この家の主人と思われる女も、どれどれと言いながら出てきます。」とすることにしました。
 意訳と言えばそうです。しかし、意訳とは違う、場面と雰囲気が海外の方々に伝わる訳を目指したいものです。

 今日は、現代語訳にする上では細かなところを問題にしました。しかし、これは外国語に翻訳していただくための現代語訳という観点からは、ことばで気持ちを伝える上で非常に大切なところだと思います。

 今後とも、こうしたことばに拘った現代語訳に仕上げる中で、『源氏物語』のお話がおもしろく伝わるようなことばに置き換えて、幅広く提供していきたいと思います。
 
 
 

2012年5月16日 (水)

京洛逍遥(232)葵祭で神仏習合を考える

 昨日とは打って変わって心地よい青空の下、葵祭の路頭の儀が行われました。
 行列は30分ほど遅れていたので、出町の交差点まで下って見物しました。
 
 
 
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 やはり、腰輿(およよ)に乗る斎王代は沿道の注目の的です。
 
 
 
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 お昼は、鯖街道の終点である出町枡形商店街のお総菜屋さんで、私が大好物なしいたけ煮やてっぱいなどを量り売りで買い、賀茂の川原の木陰でいただきました。比叡山が目の前に聳え、右手に如意ヶ岳の大文字を見霽かすいい場所でした。

 行列が下鴨神社に入ってからのことは、一昨年の「京洛逍遙(141)葵祭の社頭の儀」(2010年5月15日)で詳細に記しましたので、そちらをご覧いただければと思います。

 祭儀が終わってからは、下鴨神社で祢宜をなさっている嵯峨井さんからお話が伺えることになっていたので、食事を終えると社務所に向かいました。境内に入ると、ちょうど東游を終えた舞人の方々が和琴を従えて出てこられるところでした。
 
 
 
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 そして、踞と言われる束帯の下襲の後ろに長く引く部分を、三人が協力して石帯の部分に掛け合っておられる姿を見かけました。みなさん歩く時に苦労なさっていたので、なかなか微笑ましい助け合いの風景でした。
 
 
 
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 今年の斎王代は第57代で、四条高島屋の向かいにある老舗呉服店「ゑり善」の敦子さんです。
 嵯峨井さんに葵祭に関するいろいろな話を伺っていた時に、ちょうど斎王代が上賀茂神社に向かわれるところでした。
 今春、娘たちの結婚式で控え室として使わせていただいた重要文化財の供御所から出てこられ、腰輿に乗られる所です。境内内部ということで立ち入り禁止の場所でもあったので、写真が撮れたのは幸運でした。
 
 
 
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 目の前を行く斎王代の眼は、使命を帯びた視線で前を見据えておられ、疲れを見せずに我が家がある方角の下鴨本通りへと出て行かれました。
 
 
 
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 また、西の出口では陪従の方々が馬に乗られる所でした。巻纓の冠を着け、濃い葡萄色の闕腋に獅子・熊・唐草などの蛮絵模様が浮き立つ美事な装束のみなさんと、少しお話ができました。
 
 
 
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 さらに、この行列では最高位である近衛使代の方は、垂纓の冠に、これまたすばらしい束帯姿です。ただし、馬に乗るのは大変そうです。その馬の飾りも美事で、銀面というものを初めて見ました。
 
 
 
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 みなさん疲れを感じさせず、このお祭りが好きでたまらないという勢いで本通りに出て行かれました。

 行列を見送った後は、葵の庭で嵯峨井さんから葵祭の裏話や、かねてより問題意識としてもっておられる神仏習合の話を伺いました。
 大飯殿では、神饌の詳しいことを聞くことができました。
 その中で特に興味を持ったのは、神饌に花がない、ということです。花は仏事中心のものであり、神事には出てこないと。ただし、平安時代の中期から出家神主が多くなるので、一概に仏教色がまったくないのではないようです。その例として、下鴨神社の本殿の中に、仏舎利があったという記録があるそうです。仏教の影響がどのようにあったのか、今後とも研究テーマとして追究していかれるようです。
 また、神事の調理に味付けらしいものは塩だけなので、神さまには味覚がないのでは、という指摘も忘れられません。お下がりに砂糖を加えると、結構おいしいそうです。
 神と香りや味について、今後とも注意してみたいと思います。

 嵯峨井さんは、先年國學院大學で博士号をとられた学者です。長い間、神事に関わってこられた体験を踏まえてのお話であり研究なので、今後とも折々にたくさんのことを教えていただきたいと思っています。
 
 
 

2012年5月15日 (火)

京洛逍遥(231)葵祭が順延となり我が家でお茶会

 楽しみにしていた葵祭の行列「路頭の儀」が、雨天のため明日に順延となりました。15年ぶりのことだそうです。

 「社頭の儀」は勅使を迎えて行われたとのことです。本来なら、祢宜さんから神饌のお下がりの説明を伺うはずでした。しかし、すべてが順延と勘違いした私は今日は脚を向けなかったのです。後で明日の予定を電話で伺うと、すでに神饌は解体され、お下がりを頂いているところだとのことでした。ご一緒にお話を聞くはずだった方々には申し訳ないことをしました。ただし、明日はまた違うところの説明をしてくださるようです。これも、今から楽しみです。

 午後が空いたこともあり、今回の葵祭研修に参加されたみなさんに、我が家でお茶を差し上げることにしました。
 私のお茶の先生とそのお仲間の先生も、八坂神社でのお茶会の帰りに合流してくださったので、急遽未熟な私のお稽古の場となりました。

 学生の方々の前で、それも初心者としてお茶を差し上げるのには緊張しました。
 後ろで先生が囁いてくださる中で、何とか6人のお客様にお茶を点てることができました。
 初級者なりには出来たようです。ホッと安堵の気持ちでお点前を振り返っています。
 炉手前と違い、風炉手前では柄杓の扱いが込み入っています。これは難題です。
 それにも増して、お点前までの水屋での準備の大変さを知りました。もちろん後片付けも。
 先生が手際よく進めてくださったので助かりました。この舞台裏も、実戦を通して学ぶいい勉強になりました。

 私の後は、今春より国文学研究資料館の大学院に入学され、お香をテーマにした研究をなさる方が、遠州流のお点前を見せてくださいました。お香、お茶、書道は一つながりのものであることを知りました。遠州流は裏千家と大きく異なるものであることを間近で見ることができて、これもいい勉強をさせていただきました。

 そして、話題はお香のことに移りました。聞香について、いろいろなことを伺うことができました。源氏香に留まらず、香木や遊びのルールなど、さまざまな仕掛けがあるものです。それを、文学の視点で研究対象にしようとする姿勢に、今後の研究の進展と活躍が楽しみになりました。

 理屈だけではない世界は、時間はかかりますが着実に成果が見えてくることが多いようです。
 弛まずコツコツと、という気持ちの大切さをあらためて思う、実り多いひとときを持つことができました。
 
 
 

2012年5月14日 (月)

京洛逍遥(230)廬山寺のエセ源氏絵展

 芸術家は、芸術という名の下であれば、何を「か(描・書)」いてもいいのでしょうか。
 昨日、驚き呆れる源氏絵の展示を見て、よせばいいのに我慢できずに書くことにしました。
 こうしたことを取り上げるのは不毛なことであり、無視すればいいことです。
 しかし、どうしても愚行を放置して素知らぬふりができないのです。

 お決まりのこととして、『広辞苑 第5版』から「えせ【似非・似而非】」の項目を引きます。


(平安時代には実体の浅薄・劣悪なのを侮りそしる気持を表す語。室町時代以後、悪質・邪悪の意を表すのにも使われた)
(1)似てはいるが、実は本物ではないこと。まやかし。にせもの。「―ざいわい」「―学問」
(2)劣っていること。「―牛」「―太刀」
(3)悪質。一筋縄ではいかないこと。したたか。「―者」

 かつて、「新写本『源氏物語』を平等院に奉納する愚行」(2009年7月 8日)や、「学問とは無縁な茶番が再び新聞に」(2009年8月11日)を、そしてさらには「何故かくも愚行を誇らしげに」(2010年9月26日)を書いて、無知から来る愚かな芸術活動や朝日新聞の記事を批判しました。
 そこでは、活字の校訂本文を元にして、新たな異本『源氏物語』という新写本を書写作成する行為を取り上げました。

 今回は、源氏絵に関して、これまた無知から来る勘違いとしか言えない愚かな展示を見せられることになりました。
 また、そのようなエセ作品の展覧に場を貸すお寺もお寺です。
 この前は平等院で、今回は廬山寺です。共に、評価の高い寺院です。日本文化の一翼を担う寺院として恥ずかしい限りです。
 
 
 
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 とにかく、芸術家を自称する方の一部に意識の低い方がいらっしゃることに対して、言いしれぬ虚しさを感じました。しかも、そのことに気付かないのか、開き直っておられるのか、堂々と展示会をなさっているのです。
 実際にご本人にお目にかかり、お話を伺っても、勉強不足を盾にして逃げの一手です。卑怯です。とにかく注目されれればいい、という程度の認識しか感じられませんでした。先ほど、テレビ局取材があったそうです。どんなナレーションがつくのでしょうか。エセ源氏絵が公共の電波を通して撒き散らされるのです。こんなことでいいのでしょうか。

 『源氏物語』をとりあげて目立ちたいのなら、もっともっと必死に勉強をしてからにしてもらいたいものです。書けばいい、描いてみようでは、とんでもないものが後世に伝えられるだけですし、知らない人に誤った認識を与えます。
 現に、昨日も一人の女性の方が、今回の屏風絵の作者にそのすばらしさから受けた感動の気持ちを語っておられました。絶賛しておられました。何でも『源氏物語』となると、有り難がって見る方も見る方ですが、悪しき前例をこれ以上増やしたくないものです。

 『源氏物語』の受容に関心を持つ者の一人として、いいかげんな二次的な受容の公表が続いていることに辟易しています。書いても切りがないので、以下簡略に述べます。

 廬山寺を紫式部の邸宅跡であり、『源氏物語』が執筆された所だと角田文衛先生が認定されてから、ここは一躍注目されるようになりました。その廬山寺の方丈で、今月5月5日から20日まで、「岡田俊一筆『源氏物語五十四帖』を彩る華麗な屏風展」と題する展覧会が開催されています。
 気になったので、早速行って来ました。そして、その絵のでたらめさに衝撃を受けて帰ってきました。

 第一番目の屏風には、「桐壺」「帚木」「空蟬」「夕顔」の4巻4場面が描かれていました。
 いずれも江戸時代の土佐派の源氏絵のパターンです。中でも特に、「夕顔」の図様に興味を持ちました。
 チラシに印刷されている「夕顔」の一部を引きます。
 
 
 
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 屏風の前に置かれた説明には「六条あたりの夕顔の花咲く家の付近(頭の中将の恋人)」とあります。
 しかし、この絵は夕顔の家でしょうか。作者岡田氏は、京都国立博物館所蔵の土左光吉筆『源氏物語画帖』を見てそれをなぞるようにして描かれたと思われます。『源氏物語画帖』(勉誠社、平成9年)から当該画帖の一部を引きます。
 
 
 
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 右下で垣根にからまる夕顔の花を取るのは童女(原文では男の子の侍童)で、ここは六条御息所の邸です。左下に御息所がいます。高欄隅に立つ男女は、御息所邸から帰る光源氏と御息所付きの女房である中将の君です。
 屏風絵の作者である岡田氏は、完全に勘違いして、夕顔と光源氏と理解されているように思われます。また、この男性も頭中将と思っておられる節があります。

 また、岡田氏は画面右端の母屋に丸柱を描いておられます。しかし、光吉の絵には金雲がかかっています。ここは、この前後から推して角柱のはずです。光吉の源氏絵には、丸柱は一本も描かれていませんので。

 国文学研究資料館所蔵の『源氏物語団扇画帖』の第8図「花宴」では、ここだけには、丸柱が描かれています。丸柱は角柱よりも古式で、格式の高いものでした。宮中や寺院には、丸柱が描かれることがよくあります。この柱が円いか角かは、好き勝手に描いて良いものではありません。
 実際に作者とお話をした時にも、この柱の丸と角については、そもそも違いがあることはまったく知らなかった、とおっしゃっていました。勉強不足で、とのことでしたが、それでは調べてみますという気持ちは微塵も感じられませんでした。

 今回、廬山寺の受付前で売られていたもう1つの岡田氏の『源氏物語絵図屏風 五十四帖の探訪』の名刺大の絵を見ると、至る所に丸柱が描かれています。丸と角の違いを、まったくご存知ないようです。

 また、今回展示されている屏風絵には、国宝源氏絵の模写と言える図様が混在していました。国宝源氏絵は、ほぼそのまま中心部分を金の霞で覆って取り出してあります。

 「東屋」は、国宝源氏絵巻では浮舟が絵を見ている図様として有名です。今回の屏風では、その国宝源氏絵のコピーを描きながらも、浮舟が墨絵の画帖を見ており、侍女も墨絵の画帖を見ています。国宝源氏絵では、浮舟は物語絵を見ており、侍女の右近は詞書きを記した冊子を読んでいることは明らかです。この右近が見る冊子の改変は、作者の芸術的なセンスなのでしょうか。また墨絵になっていることも。

 たまたま作者である岡田氏がその場にいらっしゃったので、上記二点だけに限定してお尋ねしました。

 国宝源氏絵と土佐派の絵を参照し、自分なりに絵画化なさったのだそうです。というよりも、参照ではなくて模倣と言う方が正確ですが。

 衣服のことや柱のことなどを尋ねると、時代考証や服飾の確認はせず、素人なりに自分の勝手な解釈で絵にしたとのことです。勉強不足なので、専門的な眼で見られたら間違いも多いでしょう、と臆面もなくおっしゃっていました。開き直りです。
 「夕顔」に関しては答えがなく、「東屋」に関しては前後の色彩的な変化を考慮して、墨絵にしたとのこと。右近も墨絵を見ている絵にしたのは、これも前後の流れからだ、とのことでした。流れが何なのか、よくわかりませんでした。

 その他もろもろのお話が支離滅裂でした。「須磨」「明石」「澪標」の説明は傑作でした。
 『源氏物語』はお読みになっていないようです。先人の絵をなぞって、そこに勝手な解釈で自分らしさを加味させておられます。その自分らしさが、無知から来る勘違いが随所にあり、こうした源氏絵を有り難がって見る人がいる現状が心配になってきました。

 展示会場として場所の提供をなさった廬山寺は、どのような絵が展示されるのか、確認なさったのでしょうか。
 酷い話です。
 『源氏物語』と銘打っておけば何でも通用するというのでは、文化的な退廃につながります。
 やはり、『源氏物語』を受容した成果を世に問うのであれば、しっかりと勉強して作品に仕上げていただきたいものです。思いつきで人の注意を惹けばいい、という低レベルの二次的作品の作成には、もっと慎重であってほしいと思いました。

 無視すればいいものに過剰に反応していることかと思います。しかし、こうした軽佻浮薄な『源氏物語』の受容傾向に、どうも納得できないので、しつこく記しました。

 作者からの反論があればいいのですが、昨日直接お話しした限りでは心もとない限りです。どなたかが入れ知恵をなされない限りは、芸術の名の下でのこじつけに終始するだけです。
 見る人の目も、こうしたものを通して試されていると言えるでしょう。

 あまりにも目の毒になるものを見たので、もう源氏の庭を見ても何の感興も沸きません。
 
 
 
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 帰りに寺町の一保堂に寄って抹茶を買って帰りました。
 店先には、葵祭に向けた献灯の提灯があがっていました。
 京洛はお祭の準備が着々と進んでいます。
 
 
 

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2012年5月13日 (日)

お稽古帰りに食育について考える

 午前中に下鴨神社で所用をこなし、大和平群にお茶のお稽古に行きました。
 ワンマンカーが走る生駒線の単線電車は、規則正しく往き来しています。
 
 
 

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 今月からは風炉のお点前です。もっとも、すっかり忘れています。
 炉よりも風炉点前の方が手数が多くてややこしいように思えます。

 水屋での準備で、茶巾のたたみ方からまごついてしまいました。
 煤竹の茶筅のことや、東南アジアの小物をお茶の道具として使ったり、いろいろと新しいことがわかりました。

 初めて、お茶菓子を運ぶことになりました。主菓子と干菓子を出した後、少し後ろに左右と居去ってから退席することも覚えました。何げなく見ていた動作が、実は1つの所作としてあったのです。知ると知らないことの違いを、改めて知りました。

 柄杓の扱いが、炉の時よりも風炉には変化があります。
 置き柄杓、切り柄杓、取り柄杓、引き柄杓、となかなか大変です。確か、炉点前では取り柄杓だけだったはずです。

 水差しの蓋を取るのも、炉は二手でしたが風炉では三手です。

 一度覚えたはずなのに、半年も経つとすっかり忘れています。

 お茶を点てる姿勢をいつものように指摘されました。背中を起こして胸を張ってと。
 手元にばかり注意していると、つい背中が丸くなります。
 これは、賀茂川などをウォーキングしている時にも妻からよく言われることなので、最近の一大課題です。

 棗と茶杓の拝見の時、茶杓の名に今の季節なら「葵祭」が使えることを知りました。明後日はその葵祭です。こうした雅語をお茶で取り込んで使えるのは、何よりも楽しいことです。

 先生が一服点ててくださいました。こうして所作が流れるようにつながる日が来るのを夢見て、牛歩ではありますが練習していきます。

 主菓子をいただく時、小皿に一つだけのっていたので、懐紙を出し忘れ、しかも添えてあった黒文字でいただいたりと、失態続きでした。おまけに麩焼き菓子を、小さかったこともあってそのままガブリとかじりました。懐紙で包んで粉が飛び散らないように、紙で挟んで割ってからの方がいいのでは、という指摘も……
 いやはや、これは躾の問題です。

 そういえば、日本では食育がなされていません。学校でも、体育はあるのに、食育はありません。
 食育は家庭で、ということなのでしょう。しかし、家庭で食育がなされているのでしょうか。我が家では、両親からうるさく言われた記憶がほとんどありません。また、私も子どもたちに口うるさく言った覚えがありません。
 日本の食卓での食育は、改めて導入を考えてもいいのではないでしょうか。
 自分の失態を振り返りながら、そんなことを思うようになりました。
 
 
 

2012年5月12日 (土)

突然身体が冷たくなった時のこと

 昨日、新幹線で京都駅に着き、改札口を出て南北自由通路の中程にある京都総合観光案内所(愛称「京なび」)に入った時のことです。

 来週の葵祭の資料をいただいた直後に、自分の身体の変調を感じ出しました。疲れているだけだろうと思い、そのまま自宅に帰ろうとしたところ、急に身体から体温が抜け出しました。吸い取り紙に吸い取られるような感じがしたのです。

 歩きながら、どうもおかしいと思っている内に、さらには脚が前に進まなくなります。そして、身体が氷のように冷たくなり、歩くことができなくなりました。
 仕方がないので、通路の脇に座り込んで様子を見ている内に、これはただごとではないと思うようになり、急いで東京にいる妻に電話をして状況を伝えました。

 電話口で妻からは、温かいものを飲んで水分を補給し、何かおかずになるもので軟らかいものを食べるように、と指示をくれました。
 すぐに近くにあった小さなコンビニ風の店で、温かい無糖コーヒーとカントリーマームを買いました。おかずになるものがなかったので、手近なものとしてクッキーにしたのです。品数のない、手狭な店でした。

 カントリーマームを口に入れながら、何かあってはと思い、真向かいにある京都伊勢丹の入口横にあったベンチに座って休息することにしました。しばらくすると、冷たくなっていた身体が少し温まりました。寒気は徐々に治まってきています。ただし、まだ気だるいので、もう少しジッとしていることにしました。

 スーッと治まっていくようだったので、少し気持ちも落ち着き安心しました。こんなことは初めてです。
 ヒダルガミがついた時に近い感覚です。最近、妻がよくなるようで、急にポカリスエットを飲んで凌いだり、ブドウ糖の粉末スティックをバックに入れて持ち歩いていて、そんな時にサッと飲んでいます。
 しかし、今回の症状はどうもそれとも違います。もっとも、しばらくこんなことはなかったので、突然の低血糖ならば今後の対策が必要になります。

 メールによる妻とのやりとりで、お昼に何を食べたのか聞かれました。
 お昼は、和風ハンバーグと大根おろしとチキンコンソメスープでした。少し量が少なかったかと思ったので、新幹線に乗る前に急いでキオスクで缶コーヒーとランチパックという小さな卵サンドを買い、乗ってからすぐに食べました。これで、普段の食事の量だと思います。

 伊勢丹のベンチで休んでいたところ、突然お腹が空いてきました。さらに何か食べようと思っていたところ、また身体が冷たくなってきたので、伊勢丹の入り口ではなくて中のイスに移動しました。
 中でジッとしていても温まらないので、バスで自宅に帰り、すぐに身体を横たえることにしました。地下鉄はここからはJR駅の反対側にあり、電車を降りてから15分ほど歩きます。伊勢丹のすぐ前から出ているバスなら、自宅のすぐ近くに留まります。
 バスの中でも、寒気に耐えながらジッとしていました。

 昨日の京都は東京と違って、風がとにかく冷たいと感じました。温かかった東京との極端な温度差も関係しているのかとも思われます。もっとも、帰ってからのニュースを見ると、東京も冷え込んでいるようでした。
 先日は竜巻があったり、大粒の雹が降ったり、大風や大水やらで、自然が人間の意に反する姿を見せています。今は、天変地異の何があってもおかしくない状況にあります。気持ちも、何かあるのでは、との思いが隠せません。薄気味悪い自然の営みを見せつけられているようです。
 身体も調子を狂わすはずだと、変に納得したりします。

 息子曰く、新幹線でジッと座っていたのでエコノミー症候群ではないかと。
 これまでにこんなことは皆無だったので、どうも違うように思います。低血糖というのが近いように思われます。クッキーを食べると楽になったので。
 ただし、私は血糖値が高かったので、今は糖質制限食にしています。血糖値を下げる薬は、今までに一度も飲んでいません。突然低血糖になるものなのか、今後とも気をつけて様子を見ていきたいと思います。

 昨日は、お風呂で温まり、温かいものを食べ、お酒を少し口にし、早々に休みました。
 今後とも身体の変調を来したときのために、昨日の状況を時間を追ってのメモとして残しておき、今後の参考になるように記したしだいです。
 
 
 

2012年5月11日 (金)

授業(4)エバーノート活用法

 渋谷ヒカリエの横を通って國學院大學へ行きました。
 ヒカリエの入口は、ちょうど開店2分前ということで、中高年の女性が列を作って待っておられました。こことは無縁な高齢者男性の一人である私は、それを横目に通り過ぎます。
 こうして露骨に排斥されると、何かこのビルとの接点を求めたくなります。中高年女性に無理に合わせることもないとはいえ、社会的な追放感を味わわない程度の接点なら、いつか見つかることでしょう。

 本日の授業は、情報収集と整理用のアプリケーションであるエバーノートの活用法に終始しました。
 学生のみなさんは、手元のパソコンをインターネットにつなげた状態です。
 私は、自分のパソコンをネットにつなげ、その画面をプロジェクターを使って部屋の壁面に大きく映し出しました。

 エバーノートの活用を通して、文学研究にどう連動させるかがポイントであることを強調します。それも、パソコンとモバイルフォンをシームレスに連携プレーする方法です。
 みなさんには、すでにエバーノートをインストールしてもらっています。私とは1つのノートを共有しているので、私からの情報をあらかじめ取得できるようになっています。

 エバーノートの活用は、私にとっては日常的なことです。しかし、学生さんにとっては馴染みのないものなので、少しついて来るのが大変だったかもしれません。しかし、頭でわかれば、後は実際にやってみることです。それだけ、柔軟な思考と対処のできる学生さんたちですから。

 新聞記事の切り抜きや、ホームページの必要な箇所を取り込むことなどを例にして、後はそれをどのように分類して整理するか。また、ウェブブラウザのブックマークの活用法等々。論文作成に留まらない、日常生活の情報整理とその延長線上の研究活動のあり方を、私の場合を例にさらけ出して解説しました。

 非常に実用的な内容だったので、日々の研究活動にはいい刺激になったかと思います。
 同じことをやってみよう、と思ってもらえたら、それで最初の関門は通過です。

 最後に、配布した冊子に収録してある報告を一緒に見ながら、3年前に英国ケンブリッジ大学で開催した国際集会の様子と、現在のイギリスにおける日本文学研究が先行き不透明な状況にあることを話しました。
 ケンブリッジ大学のピーター・コーニツキ先生と一緒にウエブ上に構築して公開している「欧州所在日本古書総合目録データベース」を実際に検索して表示し、ヨーロッパの古典籍の所在がわかるデータベースの実際も見てもらい、説明もしました。

 次回は、日本文学の翻訳事典についてです。
 
 
 

2012年5月10日 (木)

高校教員時代の書類を廃棄

 自宅の荷物の整理がまだまだ続いています。

 大阪府立の高校で教員をしていた11年間、膨大な資料やプリントや試験問題を作っていたことを、あらためて実感しました。指導困難校と言われる学校ほど、プリントが多いと言われていました。確かに、学校に教科書を持ってこない生徒が多いので、勢い教科書を使わなくても授業が成立するように、それを補うための補助教材を配布することが増えます。板書したことをノートに書き取る習慣もないので、何でもプリントにして予習や復習の足しにしました。その結果、プリントが増えるのです。

 廃棄対象となったプリント類は、ダンボール箱に4個分以上ありました。
 自分の過去の一部分をバッサリと捨てることにしました。
 よくやったなー、と、かつての自分の奮闘ぶりを振り返り、若さゆえにできたことと思うことしきりです。

 そんな中に、パソコンと悪戦苦闘していた頃の資料がありました。
 ここに記録として残しておいて、思い切ってこれらも処分しようと思います。

 私がコンピュータに興味を持ちだした昭和55年(1980)は、まだひらがなや漢字がモニタにもプリンタにも表示・印字できませんでした。せいぜい半角カタカナまでで、例外として「年」「月」「日」くらいでした。
 そのような環境の中で、やがて独学でお手製のプログラムを作成し、JIS漢字コードのリストを読み込んで印字できるようにしました。ただし、そのためには、漢字などに対応した文字コードを調べる必要があります。

 当時は、何とかして学級や学年の運営にコンピュータを導入することにより、担任業務を軽減する方途を模索していました。学習指導の何十倍ものエネルギーを生活指導に充てる毎日です。連日の家庭訪問が続いていました。年間に入学生の3分の1の100人以上が退学するので、担任はとにかく学校と家庭とを走り回っていたのです。そのためにも、少しでも担任業務などの軽減が必要だったのです。

 そこで、まずは生徒たちの名前をどの資料にでも、何度でも引用できるようにすることに挑戦しました。それだけで、手書きの手間が助かり、生徒の生活指導の時間に振り分けられます。また、パソコンでできる作業ならば、担任でなくても副担任にお願いしてもいいのです。

 入学式の後は、新入生の名前を一々JIS漢字コードを調べて一覧表にして、必要とする担任の先生方に渡しました。まだ他の先生方はパソコンに親しんでおられなかったので、率先垂範よろしく、私が徹夜をしながら各クラスの名簿をJIS漢字コードに置き換えました。
 
 
 

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 これは、私が担当したクラスの名列表です。例えば、2番の「伊藤」君はJIS漢字コードで表記すると「304B」+「4623」と表現することになります。
 この英数字コードを読み取って漢字表記ができるプリントができるプログラムを作成したのです。

 今なら、日本語ワードプロセッサがあるので、何でもないことです。しかし、当初はこのように漢字1文字を表記・印字するのに、こんな手間がかかっていたのです。

 こうしたJIS漢字コードの文字列がわかると、成績通知表などにも、生徒の名前に漢字が使えます。
 カタカナ表記という不細工なものではなくて、漢字で名前が書いてあると、生徒も成績通知表を貰ったそばからポイとゴミ箱に捨てたりしにくくなります。印刷されたものに対する一定の距離感が、軽率な行動にブレーキをかける働きがありました。

 次のメモは、成績通知表を印字するのに必要な漢字のJIS漢字コードを調べた時のものです。昭和57年(1982)とあるので、私が初めてマイコンキットNEC〈TK-80〉を体験した昭和55年(1980)から1年後には、こうしてコンピュータで漢字を扱うことに熱中していたことがわかります。

 手作業で調べて作成した対応漢字コード表を元にして、さまざまな漢字混じりの処理をするプログラムを作っていたのです。
 次のものは、成績通知表のためのJIS漢字コードの抽出作業メモです。
 
 
 
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 いろいろな先生方の要望を聞き入れながら、折々にJIS漢字コードを調べてメモを貯めていたようです。こんなものも出てきました。
 
 
 
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 この辺りになると、もう学年や学級運営のための資料に、たくさんの漢字が印字できるプログラムを開発していたことがわかります。先生方には、重宝がられたことを覚えています。

 その後のコンピュータの進歩は目を瞠るものがあることは、すでにご承知のとおりです。
 何かと苦労したことの披露ではなくて、学校の現場では、コンピュータで漢字が使えるようになる背後にはこんなこともあったという一例として、ここに記しておきます。
 
 
 

2012年5月 9日 (水)

越智波留香さんの作品展 -2012-

 東京駅前にあるブリヂストン美術館から西に4本目の通り、明治屋の斜め前にある画廊「ギャラリー坂巻」で、越智波留香さんの個展が始まりました。
 
 
 
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 前回同じ場所であった個展については、「展覧会「水の記憶」を見て」(2011年2月 8日)で記した通りです。

 狭いながらもスッキリとしたギャラリーの展示室の壁には、次の文章が掲げられていました。

─廻るもの─

絶え間なく廻る雨や風と時間の流れとを重ね合わせ、日々がそれら

に包まれて静かに在るさまを描きたいと思いました。

 今回も、静かな時の流れが、優しいタッチで表現されています。
 ギャラリーのホームページに、簡単ですが今回の個展の案内があります。
 越智さんが描く絵の感じが、少しは伝わるかと思います。

「廻るもの 越智波留香 個展」

 今後とも、ますますの活躍が楽しみです。
 
 
 

2012年5月 8日 (火)

糖質ゼロのお酒3種

 糖質制限食を、相変わらず続けています。
 最近は、食前に食べるグレープフルーツの効用に興味を持っています。血糖値の上昇を抑えてくれるようです。これは、気長に様子をみたいと思っている、今注目の果物です。

 糖質制限食では、蒸留酒は適量なら呑んでも構わない、とされています。ウイスキー、ブランデー、焼酎等です。
 とすると、焼酎をグレープフルーツで割ったらいいのでしょうか。まだ試していません。楽しみです。

 2年前に胃を全部摘出してから、お酒が呑めなくなりました。元々そんなに呑む方ではありません。どうにかお付き合いできる、という程度でした。

 京大病院の主治医からは、気分転換になるのでどんどん呑んでもいい、と言われています。そうは言われても、少し呑むと自然に止まってしまいます。一合も呑めたらいい方です。

 一時は、養命酒でお酒を呑む練習をしていました。しかし、糖質制限食の生活になってからは、養命酒も飲まなくなりました。

 最近は、糖質ゼロを謳い文句にするお酒を、修行と称して飲んでいます。
 
 
 

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 「月桂冠」は紙パックの大(1.8L)と小(900ml)の2種類があります。
 「大関」は小さな紙パックしか見あたりません。

 また、糖類ゼロの赤ワインもあります。
 ただし、これには炭水化物が100グラム中12.4グラムもあるので、少し敬遠気味に呑んでいます。
 
 
 

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 その気になって探せばもっとあることでしょう。しかし、身近なお店で売っていないと意味がないので、今はこの3種類が私の生活圏にある、ということです。

 この他に、チョコレートや羊羹、ハム、ベーコン等々、いろいろな糖質ゼロを標榜する商品がスーパーの棚に並ぶようになりました。

 最近とみに、砂糖漬けの食品が目に付きます。農耕社会になってからはどうしても避けられない、糖質・炭水化物に依存した食生活になりました。それが身体に良くないと自覚する者には、糖質ゼロ食品の普及は歓迎すべき傾向です。

 折々に、そうした商品を記録として残していきます。
 
 
 

2012年5月 7日 (月)

ウルトラサイン(五十音表)について

 連休中にいろいろと荷物を整理をしていたら、こんなものが出てきました。
 20年近く前に子どもたちと遊んでいたウルトラマンに関するものです。
 ウルトラの国で使われていた文字です。
 子音と母音の組み合わせによる表音式の文字表で、我々人間が使う五十音図と同じだという想定のようです。
 手元にはコピーしかありません。
 『てれびくん』という子供向けの雑誌に掲載されていたようですが……
 ただし、何年の何月号かわかりません。
 とくに急ぎませんが、これに関してご存知の方がいらっしゃいましたらご教示のほどを。
 
 
 
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2012年5月 6日 (日)

新聞に写真が載ったこと

 朝、京都新聞を開くと、昨日の上賀茂神社での競馬会の写真が載っていました。
 15歳の中学3年生が見事に勝ったレースの、ゴール付近の迫力あふれるショットです。
 
 
 

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 報道関係者には、このゴールの場面でシャッターを切ると、観衆が写真の背景にうまく入るカメラマン席が、しっかりと用意されています。そのため、私はいつも、このカメラマン席の近くか向かい側に陣取ることにしています。
 昨日も、私は観客席の一番端のゴール地点の隙間にいました。
 新聞に載っていた写真を見ながら、カメラマンの立ち位置を想像していました。しばらくして、新聞を妻に渡したところ、記事を見るが早いか、「あっ私が写っている!」と言い出したのです。しかも、一緒に行った婿殿と共に。立ち上がったところなので、よく目立っていると。確かに、知っている人が見れば、誰だか特定できます。

 娘は、と聞くと、あまりの暑さで日陰に待避していた時だったとのこと。
 大喜びの妻は、すぐに娘にメールを送っていました。

 インターネットで電子版の京都新聞を見ました。同じ写真が掲載されています。ただし、少し大きくするとぼやけるので、新聞のように顔の判別はできません。

 妻は、5年前の節分の日にも、廬山寺の法楽に行った時の舞台の下にいたところを、鬼の股の間からハッキリと顔が確認できる写真が、同じく京都新聞に掲載されました。

 私も、取材を含めて、何度か掲載してもらいました。家族がこんな形で新聞に載ることは、悪いことをした記事ではないだけに、何となく楽しくなります。しばらくは、家族の話題になります。

 午後、上京するために新幹線のチケットをネットで予約しました。ただし、満席で思うようには取れません。長時間かかって、夜の便がやっと取れました。もちろん、それに乗る気はまったくありません。より早い時間の自由席に乗ります。

 毎週のように、新幹線のチケットはエクスプレス予約で取っています。しかし、駅に着いたタイミングで自由席に乗るので、予約した列車に乗ることはまずありません。予約は安心のための保険の役割を果たしています。私が予約した席は誰も座らないままに、列車は走っているのです。

 もったいないことです。誰か別の人が座れるのに、とは思います。しかし、あの使いにくい予約システムでは、もう一度ネットに接続して変更する気になりません。すぐに乗った後、予約席をどうするのか、具体的な方策は提示されていないようです。JRの方は、みんなが予約席に乗っていると思っているはずはないのに……。

 私なら、もっと使い勝手のいい画面展開にして、さっと実際の席に座れる方式にすることができます。また、自分が予約した席を、それより早い自由席に座った時にキャンセルできるシステムも。
 問題は、iPhone などの、小さな画面で使いやすくすることが先決問題だとも言えます。

 毎度毎度、出来損ないのプログラムをJRはいつまで使い通すのか、興味深く見つめています。
 少なくとも、マックユーザーはあんな不細工で面倒なボタンを画面に配置したりはしません。デザイナーを代え、予約通りに指定席に座っていない実態に即したウエブ予約システムを、一日も早く構築される日を、楽しみに待っています。

 連休最終日ということもあり、のぞみは満杯でした。私は、ひかりに乗り、途中まで立って東京まで来ました。
 通路は人で埋まった状態でした。やっと座れてからも、横で立っている方に申し訳ない気持ちでジッとしていました。
 こんなすし詰めの時は、検札もワゴンサービスもありません。かといって、ずっと前の車両まで買いに行くために席を空けるのも気が引けます。
 腹ぺこ状態でしたが東京駅に無事に着いて、ホッとしました。
 
 
 


2012年5月 5日 (土)

京洛逍遥(229)上賀茂神社の競馬会 -2012-

 葵祭を迎える頃になると、下鴨神社と上賀茂神社でさまざまな神事が行われます。

 端午の節句の今日は、下鴨神社で歩射神事があります。一昨日の3日に行われた馬上の流鏑馬に対して、地上で矢を射ることで葵祭の沿道を清める、魔除けの神事です。

 このことは、「京洛逍遥(67)下鴨神社の歩射神事」(2009年5月 5日)で書いた通りです。

 今日は下鴨ではなくて、勇壮な上賀茂神社の競馬会の方に行きました。
 この競馬会の詳細な説明は、これまた3年前に書きましたので、以下のブログをご参照ください。

「京洛逍遙(68)上賀茂神社の競馬会」(2009年5月 5日)

 たまたま娘夫婦から電話があり、これから競馬会に行くところだと言うと、自分たちも行きたかったとのことで、上賀茂神社前の御園橋で急遽合流することになりました。
 賀茂川に架かる御園橋の近くにあるスーパーで買ってきたおかずや飲み物を、賀茂川の川原にある大きなベンチに拡げて、まずは4人で腹ごしらえです。

 中洲には、顔馴染みの鷺がいつものように、ジッと北山と送り火の舟形を見つめています。
 
 
 
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 涼しい川風が吹き渡ります。木陰に場所を確保しての食事でした。しかし、とにかく日差しがきついので、馬場での暑さが思いやられます。

 会場となっている馬場は、たくさんの人で埋まっていました。
 最初の勝負は儀式としてなされます。赤い装束の左方が勝つことになっています。
 
 
 
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 それに続く競馬は、真剣勝負ということで迫力満点です。目の前を疾駆する馬も人も、必死の形相です。
 
 
 
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 後から迫り来る左方が、前の黒い装束の右方を追う気魄には、鳥肌が立つほどのすごいものがありました。追われる右方の馬上の騎手(乗尻)の表情が、追われる身の怯む姿を物語っています。
 
 
 
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 祭りの後は、三ノ鳥居の横を流れる、ならの小川で水遊びをする子どもたちの歓声が、木々の間をそよぐ涼風と共に届いてきます。
 
 
 
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 帰りに娘夫婦も我が家に立ち寄るというので、我々は自転車で、バスで来た娘たちは賀茂川散歩です。
 家に着くと、早速お茶をいただくことになりました。今月からは風炉釜です。お菓子は、先ほどの上賀茂神社の鳥居前で買った名物の焼き餅と柏餅です。

 初めて使う電気炉をセットし、にわか仕立てのティータイムとなりました。
 まずは娘が3人に点てます。それを見ながら見よう見まねで婿殿が3服点て、続いて私が2回り分以上を点てることになりました。何杯もお代わりがあり、なかなか忙しいお薄のお点前となりました。先週のお稽古で教えていただいた、自分で点てて自分で飲むこともできました。

 今月からは風炉手前になります。娘も私も、炉から風炉に突然変わったこともあり、多分にうろ覚えのお点前です。しかし、喋りながら楽しく美味しくいただきました。素人のまねごとながら、これも立派なお茶会だと思います。
 お茶を取り入れた生活は、肩から力が抜けて気持ちも落ち着き、なかなかおもしろいものです。お作法のことは、こうした機会をたくさん持つことで、少しずつ身についていくことでしょう。

 なお、部屋には娘たちの前途を祝して手に入れた軸を掛けました。
 写真に収めるために並べてみました。
 右が、過日の「色紙の禅語「竹葉々起清風」」(2012年3月13日)で紹介した、大徳寺の前田昌道老師がお書きになった色紙を軸に掛けたものです。
 
 
 
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 左は、一昨日届いたばかりのお軸です。


[回光返照](朱印)

  為君葉々
   起清風
 横梅山主鶴仙俊菫[鶴仙](朱印)[俊菫](朱印)

 この墨蹟は、愛知専門尼僧堂々長、特別尼僧堂々長及び正法寺住職の青山俊菫老師が、障害者福祉向上を願って揮毫されたものです。
 チャリティーの入札で落札し、茶掛けの表装をしていただいたものが、ようやく届いたものです。そして偶然にも、たまたま立ち寄ってくれた娘たちの来訪に間に合ったのです。

 この言葉の意味は、上記のブログ「色紙の禅語「竹葉々起清風」」にゆずります。
 2つの文字を比べると、形式の違いはあるにしても、それぞれに味のあるものとなっています。
 娘夫婦が来た時には、歓待と末永く仲良く過ごすことを願って、この軸と色紙を掛けることにしましょう。
 
 
 

2012年5月 4日 (金)

京洛逍遥(228)鹿ケ谷の安楽寺

 法然院から南へ少し歩いたところに、青紅葉に包まれた安楽寺があります。ここは、お寺であることを忘れさせてくれ、時間を感じさせない自由な空間という雰囲気を持っていました。
 
 
 
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 鎌倉時代に法然上人の弟子の住蓮と安楽が鹿ケ谷に草庵を結びました。そこへ、後鳥羽上皇に女官として仕えていた松虫姫と鈴虫姫がやってきます。あまりに上皇からの寵愛を受けたため、まわりから恨みや妬みを受け、苦悩の果てに出家を決意したのです。『源氏物語』の桐壺更衣とよく似た境遇に身を置いた二人は、心の病気になる前に心の平安を求めて仏門に入るのです。

 このお寺の本堂で、由来と松虫鈴虫の話を伺いました。録音テープの解説ではなくて、実際に語って下さったのです。語りかけられる説明は、実感が籠もっていてそれが伝わってくるのでよくわかりました。

 後鳥羽上皇は、許可なく松虫と鈴虫を出家させたことから専修念仏教団への弾圧を始めます。建永2年(1207)のことです。法然と親鸞は流罪、住蓮と安楽は斬首と、悲惨な処遇と処罰がなされました。ただし、松虫と鈴虫は和歌山の粉河寺に身を移し、さらに瀬戸内海から安芸の宮島の小島で念仏三昧の日々を過ごすのです。
 出家当時は19歳と17歳だった二人も、松虫は35歳で、鈴虫は45歳で亡くなりました。二人の墓は、境内の奥にひっそりとたたずんでいました。
 
 
 
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 やがて荒廃した鹿ヶ谷の草庵は、流罪地の讃岐から帰京した法然が亡くなった住蓮と安楽のために追善の寺「住蓮山安楽寺」とし、今に伝えています。
 
 
 
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 境内の一画には、2年前に飛騨高山の大工さんの力を借りて、立派な客殿「MOMIJI 椛」が造られました。カフェもあり、ゆったりとできます。
 
 
 
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 今日は、左側の応接セットに身を沈め、お薄をいただきました。お菓子は小振りの桜餅と干菓子でした。
 木肌の温もりが直に伝わってくる、日常から切り離された空間を満喫しました。
 ここは、さまざまなイベントにも使われているようです。お寺と言うよりも、宗教や歴史を感じながら日常の延長としてのフリースペースになっています。

 参考までに、松虫鈴虫にまつわる七五調のお話を、安楽寺のホームページから引いておきます。
 
 


安楽寺松虫姫鈴虫姫和讃
 
帰命頂礼 都にて 東山なる 鹿ケ谷 仰いで松虫 鈴虫の あらまし由来を 尋ぬれば 円光大師の 御弟子にて 住蓮上人 安楽は 柴の庵の 明け暮れに 心を澄ます 谷水の 流れを人の 聞き伝え 人里まれなる 鹿ケ谷 なお山深く 分け入りて 柴の庵を 結びつつ 恵心僧都の 御作なる 座像の弥陀を 安置して 不断念仏 なしたまう
 
その頃松虫 鈴虫は 後鳥羽御門の 后にて 容顔美麗に なりければ 御門の寵愛 浅からず 数多の官女の 妬みより とかく浮世を 厭い捨て 菩提の道を 求めんと 一念心を 傾けて 剃髪染衣を 求めんと 夜も深々と 丑の刻 錦の褄を 手に持ちて 徒歩や跣で 二人連れ 潜み潜みて 裏門を 手に手を取りて 出でたまう
 
おりしも九月の 末なれば 月は隠れて 真の闇 足は急げど 夜の道 歩みも馴れぬ 山坂を 辿り辿りて 鹿ケ谷 いまだ東雲 明けざるに 住蓮安楽 二方は はや晨朝の 勤め声
 
朝の嵐か 松風と 宝の起伏 極楽を したう思いの 山寺の 門の扉を 押し開けて いとしみじみと 礼拝し 住蓮安楽 二方は 具に事の 由を陳べ 剃髪染衣を 願いなば 言葉揃えて 御歳は 幾歳にならせ たまうぞと 問わせたまえば 松虫は 歳は十九に 鈴虫は 十七歳と 答えたまう
 
雲居に住みし 女中方 花か蕾を 見るような いまだ年端も いかぬ身で 出家を願う こころざし 最も殊勝の 事ながら しばし時節を 待ちたまえ 示したまいて 剃髪を 止めたまえば 女人らは 余りに儚き 娑婆世界 老いも若きも 諸共に 今に出かくる 未来をば 心に懸けし われわれよ
 
密かに禁裡を 出でしより いとど出家が 叶わずば 哀れ尊き 法のみを 何処の河辺に 沈むとも ふたたび禁裡へ 帰るまじ
 
暇の誓いを たまわれば 住蓮安楽 二方は 詮方なくして 許したまう
 
憐れなるかな 女人らは 緑の黒髪 剃り落し 松虫妙智と 鈴虫は 妙貞法尼と 名を変えて 容顔美麗の 姿をば 松葉の煙に くすべつつ 墨の衣に 麻の袈裟 夜半に紛れて 粉河へと 月の行く影 諸共に 都の露と 消えたまう
 
その後住蓮 上人は 出家を許せし 咎として 建永二年の 春の頃 二月九日 午の刻 衣に邪見の 縄を掛け 辛き憂目の 近江路や 馬渕の里に 曳き出だし ここにて暇を たまわると 西に向かいて 手を合わせ 念仏唱える 後ろより 閃く太刀の 稲妻の 首のあとより 一本の 妙なる蓮の 咲き出でて 消えて儚く なりたまう
 
その後安楽 上人は 倶に籠れる 鹿ケ谷 出家を許せし 咎として 建永二年の 春の頃 二月九日 午の刻 六条川原に 引き据えて 西に向かいて 手を合わせ 日没礼讃 行じつつ 六条河原の 水の泡 消えて儚く なりたまう
 
その後松虫 鈴虫は 加多ヶ浦より 船に乗り 安芸国なる 厳島 光明三昧 院に着き 住蓮安楽 二方の 菩提を弔い たまいしに おりしも松虫 局には 三十五歳の 御歳にて その後鈴虫 局には 四十五歳の 御歳にて 光明輝き 華も降り 紫雲棚引き 極楽の 音楽歌舞と 諸共に 消えて儚く なりたまう
 
かかる謂れを 聞く人は 仏恩報謝の 為にとて 明け暮れ称名 唱うべし
南無阿弥陀仏 阿弥陀仏
 
安楽寺さんの 御詠歌に 身も安く 心も安き 古寺の 深き恵みは 楽しかりける


2012年5月 3日 (木)

京洛逍遥(227)下鴨神社の流鏑馬神事

 葵祭の前儀の一つとして、毎年5月3日には下鴨神社の流鏑馬(やぶさめ)神事が糺の森の馬場で行われます。流鏑馬神事は、葵祭の道中を祓い清める行事とされています。公家の狩装束姿の騎手が、馬を走らせながら「陰陽」と声をかけながら、3つの的を鏑矢(かぶらや)で射ぬきます。
 矢を射る技術の高さだけでなく、その衣装に興味深いものがあります。特に最初の3人は平安の公家の服装なのでなおさらです。4人目からは江戸時代の装束になります。

 馬を走らせながら鏑矢を射ることから「流鏑馬」と言われているのです。明治時代初期までは、騎射(きしゃ)と呼んでいました。明治時代に一時中断したそうですが、昭和48年に復活し、今に至っています。

 社務所の裏では、馬の調教がなされていました。暴走すると危険なので、入念な調整が行われていました。
 
 
 
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 ちょうど同じ時間に、一の鳥居(南口鳥居)と楼門の間の社務所前では、神職などにより安寧を祈っての儀式が行われていました。みなさん、冠り物に葵桂をつけておられます。
 
 
 
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 今年は、一の的の前で見ました。鴨長明の『方丈記』800年記念で話題になっている河合神社が、ちょうど目の前にある場所です。

 馬場には、100メートルおきに的が置かれています。的は三つあるので、馬場は400メートルあることになります。正確には全長360メートルです。的は50センチ四方の杉の板です。
 私が待機したのはスタートしてすぐの場所なので、二の的や三の的のように加速した人馬一体の迫力には欠けます。しかし、当たる確率が高いと思って待機しました。

 下鴨神社では、諸役が平安装束に身を包んでの公家流鏑馬です。ここ以外の全国の流鏑馬は武家流鏑馬なので、これは平安装束の勉強の場にもなります。
 公家の流鏑馬は11世紀末あたりから始まり、武家の流鏑馬は平清盛が熊野詣での帰りに行なったのが最初だそうです。これは、糺の森に流れた解説による情報です。

 新緑に埋め尽くされた糺の森は、多くの観客でごった返しています。昨日の雨もすっかり上がり、日差しが強くなりました。しかし、緑の森に包まれ、吹き渡る風が心地よいので、立ったままで待っていても疲れません。
 ところどころで、脚立から降りろ、とか、子供を肩車するな、とか、お祭りにつきものの小競り合いがあります。

 例年のことですが、フラッシュ撮影は繊細な馬が驚くので危険だとの注意が繰り返しなされます。しかし、性能のいいカメラは普及しても、それを使いこなせない人が多いので、最後までフラッシュは至る所で発光しています。
 隣の人も、数十万円の最高級カメラのシャッターを切っておられます。ただし、フラッシュは頻繁に光っています。
 教えてあげた方がいいものか、相手の素姓が知れないので迷います。結局はご自分では発光禁止にできなかったのか、別の人が解除しておられました。間抜けな話です。
 事故が起こったらカメラメーカーの責任にすれば、その時に初めてメーカーも真剣に対策を立てることになるのでしょう。残念ながら人身事故待ち、というのが現状のようです。

 さて、今年の射手は優秀で、3つとも的に当てる人が何人もいました。中でも、2番目の方は特に美事でした。今年は撮影する角度を変え、射手を迎える角度で写しました。
 
 
 
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 流鏑馬は、飛鳥時代から記録があるそうです。その経緯の詳細は、2年前の記事で紹介した通りです。
 また、この当たりの的は記念に墨書きしてもらえます。

「京洛逍遥(137)糺の森の流鏑馬神事」(2010年5月 3日)

 今年も記念にするかどうか迷いました。しかし、2年前のものを大事に床の間に飾っているので、いただきませんでした。しばらくは、幸運の杉板を引き継いでいきます。
 
 
 

2012年5月 2日 (水)

電動式ひらがなタイプライタの資料

 相変わらず、仕事の合間に蔵書や資料の整理をしています。整理というよりも、ひたすら捨てることに専念です。「放下着」の実践です。ただし、まだ心に迷いがあるので、手が止まることがしばしばです。そして、本や資料に見入ってしまうこともしょっちゅうです。

 今から30年以上前のことです。カード式の情報整理をしていた頃、電動式ひらがなタイプライタを活用していました。コンピュータで文字が扱えるようになる以前のことです。
 このことは、「さまざまな物を整理していて」(2012年3月21日)で書きました。
 さらに詳しくは、拙著『新・文学資料整理術パソコン奮戦記』(昭和61年11月、桜楓社)の30頁をご笑覧ください。
 この電動式ひらがなタイプライタは、昭和59年2月頃に大阪難波のデパートで購入しています。3万円でした。

 その電動式ひらがなタイプライタ「Silver-REED MODEL 8000」の「取り扱い説明書」が出てきました。現物は、すでに5年前に奈良から京都に引っ越すときに処分しました。

 ハンマーの先端に小さな活字が取り付けてあり、そのアームがパチャパチャと飛び出してきて紙を叩くタイプライタなるものを、今では知らない人が多くなりました。しかも、私が使っていたのは「電動式」で「ひらがな」を打つ「タイプライタ」なのですから、その存在を知っている人はさらに限定されます。
 こんなものがあったことを、それを使っていた者としては、どうしても記録として残しておきたくなりました。
 
 
 

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 このタイプライタは、今でも私がコンピュータで文字を入力する時に、ひらがな配列のお世話になっている原点となったものです。このひらがな配列で、私は28年間もキーを叩き続けているのです。今さら、ローマ字入力など無理です。
 20年以上も前にはプログラムを作成していたので、アルファベットのキーは今でも覚えています。しかし、そのアルファベットを組み合わせて日本語にするなど、指も頭もバラバラになります。ローマ字入力をする人を見て、よくも頭が混乱しないものだと感心しています。
 
 
 


2012年5月 1日 (火)

読書雑記(49)谷崎松子『倚松庵の夢』と潤一郎への想い

 本書は、谷崎松子の潤一郎回想記です。昭和40年から42年にかけて書かれた、長短12編の随想が収録されています。谷崎潤一郎の晩年から死に至る背景が、優しい柔らかな文章で綴られています。

 松子夫人は、谷崎潤一郎の妻としては3人目です。いろいろな作品に影を落としていて、『細雪』の幸子のモデルとされています。そのいちいちは知らなくても、本書は充分に潤一郎と夫人の心の通い路が読み取れます。

 全編を通して、傍にいた人としてもっと語ってほしいところです。奥ゆかしさから語られないことや、話がきれいに浄化されていると感じられる箇所があるように思いました。それでも、心のつながりがそうした面をうまく包み込んでいて、読後は爽やかさを感じました。これは、松子夫人にとっての谷崎潤一郎という一人の男を、きれいに語り収めたものなのです。

■「銀の盞」(原題「『源氏』と谷崎潤一郎と私」)
 潤一郎と松子の、『源氏物語』の現代語訳をめぐる日々が語られていて興味深い内容となっています。
■「湘碧山房夏あらし」
 潤一郎の最後の様子が活写されてまいす。松子の文章力に引き込まれました。中絶した男児のことを思い出すくだりは、人の心の揺らぎが美しく語られています。
■「倚松庵の夢」
 谷崎との思い出を大事にしていたことを紡いでいます。谷崎からの手紙がいいと思いました。「盲目物語」や「蘆刈」の裏には、谷崎の松子への思いがあったことがわかりおもしろい内容です。
■「細雪余談」
 谷崎を思い出しながら、「細雪」の中の平安神宮の場面を回想します。特に、最後の一文がきれいな文章となっています。


 今は儚い蝶のような思出かも知れぬが、私には消えるまでの生命の書いても書ききれぬ繋がる絆なのである。読んで下さる方こそ迷惑千万のことゝ、書き終えて身の縮まる思いがするのである。

■「源氏余香」
 これによると、谷崎の『源氏』嫌いは、新々訳を終えてからのようです。『源氏』訳の背後に、貧乏物語があるのがおもしろいと思いました。
■「終焉のあとさき」
 亡き潤一郎に語りかける松子がいます。一方的な会話です。しかし、思い出深い場面なので、様子がよく伝わってきます。病気に追い立てられるようにして、新々訳『源氏物語』は進んでいきます。一人の男の臨終のさまがつぶさに語られていて、人間の温かさがある文章となっています。谷崎のことを思うと、ペンが不思議に走り出すと言っています。さもありなん、と思われます。細やかな愛情に満ちた生活だったことが偲ばれます。
■「「吉野葛」遺聞」
 歌碑をめぐる旅の記です。しっとりとした文になっています。
■「秋声の賦」
 お稽古事を始めとして、何事にも不器用だった谷崎の姿が目に浮かんできます。
■「夏から秋へ」
 走馬燈のように、谷崎との思い出や遺品が点綴されています。
■「桜」
 与謝野晶子が愛でた大島桜が印象的に語られています。
■「桜襲」
 道成寺の桜から歌舞伎へと、話が展開します。松子の奥深い素養がにじんでいます。
■「薄紅梅」
 「台所太平記」の舞台裏が語られます。下鴨にあった潺湲亭のことは、年老いた谷崎の意外な面が見えていておもしろい話です。『源氏物語』に関する一文は、谷崎が『源氏物語』を訳した時の心中が窺えます。そこには、谷崎の松子への深い思いがあるのです。
 最後に次のように書かれています。

京のたよりにきのうもきょうも風花が舞っているという。法然院の墓石は寂として静まり、枝垂桜の咲く日を生きていた日と同じように待っていることであろう。

 この一文を読み終え、そうだ谷崎の墓石がある法然院へ行こうと思い立ち、昨日のブログに記したように自転車を漕いで行ったしだいです。
 左の「寂」の下に、2人は眠っています。
 
 
 
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2012年4月30日 (月)

京洛逍遥(226)法然院と谷崎潤一郎のお墓

 新緑が眩しい法然院に行きました。銀閣寺の南、哲学の小道から少し山際に上ったところにあります。
 谷崎松子の『倚松庵の夢』を読み終え、潤一郎のお墓に行きたくなったのです。

 3年前に「京洛逍遙(70)新緑の法然院」(2009年5月 8日)と題して紹介したように、この季節が一番目に優しくて好きです。

 今日は、白砂壇の模様が違っていました。
 そこに覆い被さる青紅葉も、今年は少し疲れた感じがします。
 
 
 
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 墓地に足を踏み入れ、今日の目的の一つである谷崎潤一郎のお墓にお参りしました。案内がないので、どこにあるのか探すことになります。谷崎は、昭和40年に79歳で亡くなっています。その前年に、湯河原町の湘碧山房に転居し、『潤一郎新々訳源氏物語』を発表したのでした。
 「寂」の墓石は潤一郎と松子夫人の、「空」の墓石は松子夫人の妹重子夫妻のものです。
 
 
 
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 墓石に刻まれた「寂」の自筆文字が印象的です。平安神宮の紅しだれ桜と同じ桜が墓地の中央にあるのが目を惹きます。私はまだこの桜が咲いているところを見たことがありません。楽しみにしている内に、つい日時が経っています。来年こそは、といつも思うのです。自転車で30分もかからないのでいつでも行ける、というのがなかなか果たせない理由でもあります。

 ここには、内藤湖南、河上肇、九鬼周造など、著名な学者・文人の墓もあります。
 このゴールデンウィークでも、あまり人が来ない所です。散策の一つとしてお勧めします。

 谷崎松子の潤一郎回想記である『倚松庵の夢』については、また別に記します。
 
 
 

2012年4月29日 (日)

不運が一転して幸運になった1日

 今朝も賀茂川には、神々しい朝日が比叡山南側の稜線からゆったりと昇ります。
 
 
 
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 京都の曙は、清少納言の言葉を待つまでもなく、感動的なものです。
 我が家からも、額縁のような窓から比叡山が望めます。しかし、こうして河原に出ると、その目を射るばかりの光線の魅力に圧倒されます。

 また今日も、出雲路橋の下では鯉が群れていました。数えると、この真下に21匹いました。少し下流に数十匹いたので、ここ数日に限っても賀茂川を好き勝手に泳ぎ回っている鯉は、優に40匹はいることでしょう。
 
 
 
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 午後から、お茶のお稽古に行きました。
 歩いて地下鉄の駅に行くと、ちょうど出て行く電車の姿を、階段を降りながら見送ることになりました。
 その地下鉄から近鉄京都線に乗り換える竹田駅に電車が入ると同時に、乗り継ぎたかった電車が素知らぬ顔で出て行きました。
 さらに西大寺駅で、近鉄京都線から奈良線に乗り換えようとしてホームに降りる途中で、無情にも電車のドアが閉まりました。つい、ドアを閉めてまだ首を出していた車掌さんを睨んでしまいました。
 近鉄奈良線から生駒線に乗り換える生駒駅でも、15分間隔の単線電車を13分も待ちました。これも、出たばかりだったようです。
 いつもは平群までの道中を2時間と見ています。しかし、今日は3時間近くもかかりました。東京から京都の片道に匹敵する、小さな旅になりました。

 今日のお稽古は、運びの薄茶を2回繰り返してやりました。
 水屋での仕度がよくわかっていなかったこと、お辞儀で頭を上げるのが早いこと、茶碗を置くときの手の離し方が不穏な動作になっていること、歩くときに手を軽く握ること、等々、まだ身に付いていないことが自ずと自覚されます。
 ただし、自宅で昨日も娘から特訓を受けたこともあり、流れるようにとまではいかないまでも、お点前の流れは掴めてきています。どうしてもわからなくて今日も混乱しているのは、釜に水を差すタイミングです。ここがつながると、もっと流れがスムーズになることでしょう。

 今日の最大の収穫は、お茶を点てていて茶碗の縁に抹茶の粉の線が出来た時、「の」の字を書いて茶筅を引き上げるどさくさ(?)に、茶筅の腹で線の際を擦って誤魔化す(?)ことです。これはすぐにマスターできました。みなさんなさっている、ちょっとしたコツなのでしょうが……

 とにかく、1つずつ身体で覚えるしかありません。

 帰りに、先生から筍をいただきました。
 妻が大好きで、先日まで筍の煮物が食卓に並んでいました。平群の筍は立派です。不運だった1日が、オセロのようにこの筍によって、一転して幸運な日に変わりました。すみません。単純です。

 電車で帰る途中、たまたま結婚式帰りだった娘の檀那さんと西大寺駅で待ち合わせ、娘夫妻と私の三人でお刺身を食べながらお酒を飲むことになりました。
 友達の結婚式の様子も酒の肴となって、終電近くまで飲むことになりました。

 それにしても、家族が1人増えるだけで、昨日も今日もこんなに楽しい時間がもてるのです。あまり誉めると何なので控えたいところです。そうは言っても、なかなかいい婿殿が見つかったことは、これまた幸運というべきでしょう。

 これまで自分自身では、いつも代打、代走、ワンポイントリリーフ、守備固め役という控え選手を自認してきましたし、そのように振る舞って来ました。常にサポート要員だったはずなのです。それが、一昨年の夏にガンで命拾いをしてからは、幸運を感じることが多くなりました。

 最近は、仕事のペースも意識的にスローダウンしていて、いろいろな方に迷惑をかけていることはわかっています。しかし、それなりに成果をあげ、スローペースではありますが何とか仕事をこなしていると、自分では思っています。以前のようには、次々と仕事をこなしてはいません。しかし、そうした姿勢をわかってくださる方がいらっしゃることは、甘えるようではありますが、ありがたいことだと思っています。

 最近とみに自覚する腹痛が気になるので、日々の活動を自制しながらも結果に結びつけていきたいと思います。
 我慢しながら見つめて下さっている方々に恐縮しながらも、温かいまなざしに感謝の気持ちを忘れずに仕事をし、生きていきたいと思っています。わがままでですみません。もうしばらく、気長に見ていてください。
 
 
 

2012年4月28日 (土)

京洛逍遥(225)瑠璃光院と我が家でのお薄

 早朝の賀茂川散歩は気持ちのいいものです。
 鷺も鴨も、朝日を浴びて今日一日の活動を始めようとしています。
 木立の向こうには、日の出を受けた比叡山が望めます。
 
 
 
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 出雲路橋の下に、大きな鯉の大群を見かけました。10匹近くがゆったりと泳いでいます。どこから、どうやってここに来たのか、初めて見かける光景です。出雲路橋のたもとに錦鯉の養殖場があるので、そこから迷い出たのかもしれません。とにかく、賀茂川に珍客の出現です。
 
 
 
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 賀茂川の水は、年々清く澄んできています。鯉がこんなにきれいに見えるのは、多くの方々が川を大切にしておられるからです。今朝も、自転車で河原を移動しながら、道々に落ちているゴミなどを拾っておられました。市の職員の方々はもちろんのこと、こうした市民の方も川をきれいにしておられるのです。この川を守り伝えていかなければ、という思いを強くしました。

 お昼には、娘夫婦と出町柳で待ち合わせて、4人で青紅葉がみごとな八瀬の瑠璃光院へ行きました。春と秋には特別公開されるのです。
 これまでに、春と秋にそれぞれ妻と来ました。その時のことは、以下のように記しました。
 
「京洛逍遥(17)八瀬・瑠璃光院」(2007年10月29日)
 
「京洛逍遙(140)初夏の瑠璃光院」(2010年5月 9日)
 
 出町柳駅から叡山電車に乗って八瀬比叡山口駅で降りると、空気がひんやりと感じられます。
 
 
 
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 改札を出てすぐのしば漬け屋さんの店先に、大原女姿のお婆さんが座っておられます。JRの宣伝やテレビで人気の方だそうです。
 
 
 
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 人形の向こうに「アルバイト募集」のチラシが見えます。


アルバイト募集
職種 座ってるだけ
年令 80才以上
身長 150cm以下
備考 元気のない方
   昼寝付
時給 1,000円以上

 お婆さんは88歳です。よく話されます。「元気のない方」というのは採用基準を満たしていません。しかし、ここではそんなことはどうでもいいのです。

 お店の中には、こんなプラカードもありました。
 
 
 
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 なかなか楽しいお店です。

 食事は、高野川の清流を臨みながらいただきました。
 
 
 
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 瑠璃光院には今回で3度目です。いつ来ても、気持ちのいい空間に身を浸すことができます。目と鼻と口と耳を洗い清めることができました。八瀬名物の釜風呂に入れば、それこそ全身のお洗濯です。しかし、これは見学だけでした。お食事をした処にも釜風呂がありましたが、おいしい料理を堪能した後だったので、またの機会としました。

 瑠璃光院には、三条実美ゆかりの茶室「喜鶴亭」があります。娘たち共々、先月の結婚式が無事に終わったことを祝して、お茶をいただくのも楽しみでした。
 数奇屋造りの書院から瑠璃の庭を眺めながら、お茶をいただきました。心が軽くなる一時です。
 
 
 
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 帰りに娘夫婦が我が家に立ち寄ってくれたので、我が家でお茶を点てました。
 結婚式で新郎新婦が両親にお茶を点てた場面の写真をテレビに大写しにしながら、みんなに見られる中でのお点前で緊張したことや、お湯が熱かった等々、話に華が咲きました。お点前の経験が一切なかった新郎は、披露宴会場で衆人環視の中にもかかわらず、勇敢にも私と妻にお茶を点ててくれたのです。なかなか頼もしいところを見せてくれました。
 
 
 
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 お役ご免となった今日は、お茶を点てる苦役もなく、私と娘が点てるお茶を心置きなく口に運ぶことに専念です。
 楽しい中にも静かな時間が過ぎていきました。
 
 
 

2012年4月27日 (金)

授業(3)LAN・共有・エバーノート・翻訳・ヒカリエ

 渋谷はいつ来ても、至る所で学生時代を思い出させてくれる楽しい街です。
 半蔵門線で東南端の改札口を出ます。ここの構内はおしゃれです。当時はなかったデザインです。
 
 
 
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 この改札を出ると、その上が昨日オープンした複合商業施設のヒカリエです。帰りに寄ることを楽しみに、雨の中を歩いて國學院大學へ急ぎました。

 授業では、受講者5名みんなが持参したパソコンを学内の無線LANにつなぎます。次に、アプリケーションのエバーノートを使い、私と共有設定したノートブックをみんなで見ながら本日の話を進めました。

 私からは、あらかじめ4つのノートを共有化する教材として提供しておいたので、昨夜までに一通り目を通してきた人もいます。また、先週休んだ人も、ここでこの前の授業で何が話され、話題になったかもわかります。
また、授業を進めながら、質問に答える形でノートを追加したりもしました。

 まさに、記録が手元に残り、いつでも見られる黒板の役割を、この共有化したエバーノートは果たしています。
 なお、この共有は私と学生5人で設定してあります。ただし、学生は私が提示したノートに書き込みはできません。これは、無料のアプリケーションを使っていることによる制約ばかりではなくて、一人のコメントがみんなに読まれることを避ける効果もあります。個別のやりとりは、閉じられたらツールを使います。当面は個人宛のメールにしています。

 私から公開したノートをみんなで見ながら、海外の日本文学研究に関する情報収集の手段について、さまざまなデータベースを紹介しました。特に、次に列記する国文学研究資料館から公開しているものは、自信を持って紹介しました。星印を付して色づけした項目が、海外における日本文学&文化研究に関するものです。


【国文学研究資料館・公開データベース】

図書・雑誌所蔵目録(OPAC)
☆国文学論文目録データベース
日本古典籍総合目録
☆欧州所在日本古書総合目録データベース
日本古典資料調査データベース
近代書誌・近代画像データベース
連歌・演能・雅楽データベース
和刻本漢籍総合データベース
マイクロ/デジタル資料・和古書所蔵目録
明治期出版広告データベース 基本検索
明治期出版広告データベース 個別広告検索
古筆切所収情報データベース
収蔵歴史アーカイブズデータベース 横断検索
「史料所在情報・検索」システム(簡易版)
「史料所在情報・検索」システム(詳細版)
史料情報共有化システム
伊豆韮山江川家文書データベース
日本古典文学本文データベース
二十一代集データベース
吾妻鏡データベース
絵入源氏物語データベース
歴史物語データベース
古事類苑データベース(テキスト)
歴史人物画像データベース(HTML)
新・奈良絵本データベース(flash)
☆北米日本古典籍所蔵機関ディレクトリ
所蔵機関との連携による日本古典籍デジタル画像データベース
日本実業史博物館コレクション
歴史人物画像データベース
☆日本学研究データベース(SFEJ)
☆イタリア論文データベース
☆フランス語に翻訳された日本文学(Francine HE'RAIL編)
☆フランス語に翻訳された漫画
☆日本学研究データベース(Francine HE'RAIL編)
☆フランス語に翻訳された日本文学(SFEJ)
☆日本学研究データベース(Patrick Beillevire編)
☆日本学論文・翻訳データベース(Patrick Beillevire編)
☆日本学研究データベース(インド)

地下家伝・芳賀人名辞典データベース
伝記解題データベース
古事類苑データベース
館蔵神社明細帳データベース
アーカイブズ学文献データベース
蔵書印データベース
日本古典籍総合目録 館内用
史料情報共有化データベース 館内用

■安永尚志氏(国文学研究資料館名誉教授)による「国際コラボレーションによる日本文学研究資料情報の組織化と発信」(科学研究費基盤研究(S)、2001年〜2005年)の成果として、「日本文学国際共同研究データベース」が国文学研究資料館から公開されている(http://base1.nijl.ac.jp/~kokusai/icjs.html)。

 一例として、インドの論文データベースで「啄木」をキーワードにして検索すると、一本の資料が見つかりました。なぜ1つなのか、これはどんな内容なのか、ということを説明しました。

 1つしかヒットしないのは、入力されているものが少ないからです。その内容は翻訳です。この、データを増やすことは組織的な方策を考えないと実現しません。国文学研究資料館から公開している国文学論文目録データベースの海外版が必要です。これは、かつて私が科研費で挑戦しました。大変な労力のいる仕事になります。いつか、誰かがしなければなりません。

 また、翻訳は海外における文学研究では基本資料です。翻訳の意義についても、私なりの考えを語りました。日本での翻刻・翻字とともに、もっと業績として評価をすべきだということを。

 ブログで紹介した、アーサー・ウェイリーの英訳『源氏物語』についても解説しました。
 また、翻訳されたものを日本語に訳し戻すことの意義も強調しました。

 後半では、科研の報告書である『日本文学研究ジャーナル 第4号』を使って、各論考の視点がユニークであることを指摘しました。楽しい文学研究の環境を提案することも、斜陽化が急速に進む文学研究では大事なことです。研究成果をどのような形で提示していくかも、今後考えていく必要があります。

 この授業では、パソコンを操作して情報を確認しながら進める関係で、学生は忙しい思いをします。そのため、適宜活字を見るように配慮もしています。

 光の点を見ると疲れます。また、モニターから放射される青色は、目に良くないと言われています。これらは、人類が経験してまだ日時が経っていない状況にあります。人間の身体に多大な負荷がかからないように配慮しながら、効率的に進めていくつもりです。

 帰りに、昨日オープンした渋谷のヒカリエに立ち寄りました。
 
 
 


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 ヒカリエの一階入口を入った途端に、息を呑みました。というより、あまりの臭さに息が止まったのです。悪臭が鼻孔を抉ります。
 どこのデパートでも、一階は化粧品という名の薬剤が混合した、私にとっては不愉快な臭さの巣窟です。このヒカリエも、ご多分に漏れずそうでした。
 あまりにも強烈な鼻を突く臭いに腰が引け、地下へ降りて入り直しました。
 匂いに敏感な方は、一階からは入らない方が身のためです。

 レストラン街で、私が食べられそうなお店を探しました。
 まず、押し並べて値段が高いことが特徴でした。1300円が中心でしょうか。
 確かに、お金を節約している学生は排除されたビルです。ヒカリエが客層としてターゲットにしているのは、20代後半から40台の仕事をする女性だとか。これまで渋谷の売りだった若者から離れて、少し大人の、金銭的に自由な女性の懐を狙った意図が、ブラブラと歩くと露骨にわかります。その意味では、なかなかおもしろい区画と言えます。

 オープンの日に来た記念に食事となると、やはり回転寿司屋です。糖質制限食を取り入れてからは、あれほど日常的に行っていた回転寿司屋はご無沙汰です。世界中の回転寿司屋を巡っていたことが、今では夢のようです。
 
 
 
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 入口でお刺身の盛り合わせを注文できることを確認してから入りました。
 酢飯抜きでネタだけをいただきます。おいしい魚でした。あら汁も。それぞれが当たりです。ただし、5皿で1820円だったので、やはり高めと言えるでしょう。

 ヒカリエの感想としては、30代を意識した女性のためだけのハコモノ、という感じです。文化を発信する工夫を見たかったのですが、その視点から見ると残念でした。劇場はそのようです。しかし、もっと何か仕掛けがあるかと思っていたのです。

 かつてここにあった東急文化会館に代わる役割は放棄して、女性からお金を巻き上げるための施設でした。私が学生時代に育った渋谷が、どこか退化していくように感じたのは、年をとったせいでしょうか。
 まだスタートしたばかりです。もう一度足を踏み入れることはないにしても、渋谷を変えようという意欲に、今後を期待したいと思います。
 
 
 

2012年4月26日 (木)

人体実験中にヘモグロビンA1c急上昇

 毎月測定しているヘモグロビンA1cの値が、今日の計測では急上昇していました。

 昨年8月末から、糖質制限食に取り組んでいます。ご飯、パン、麺類を食べない生活をすると、糖尿病の状況を知る指数となるヘモグロビンA1cの数値は下がります。私は、スーパー糖質制限食と言われる、一日3食すべてで炭水化物を摂らない食事をして来ました。その効果はてきめんです。確実に下がります。

 それに気を良くし、今年に入ってからは、欲を出して体重をアップすることにもチャレンジしました。お昼だけは、少し炭水化物を含んでいても、積極的に食べるようにしたのです。

 それよりも何よりも、今年に入ってからは食事の量が多くなりました。ゆっくりなら食べられるのです。ただし、週に1回くらいは、お腹が締め付けられるような痛みに見舞われますが……
 やはり、消化管を無くした内臓機能の働きについては、自分でもまだよくわかっていません。毎日の食事が試行錯誤です。特に体調のよくない日には、人と一緒に食事をすることは避けています。突然腹痛に見舞われたら、多大な迷惑をおかけするからです。

 また最近は、イチゴやグレープフルーツも朝は食べています。今夜は、食前にグレープフルーツ半分を食べてから豆腐主体の鶏肉と筍、ミニトマトを食べました。そして、1時間後に血糖値を測ったら、20しか上がっていません。果物の糖質も、食べ方によるようです。
 昨日は、食前の数値が113で、グレープフルーツ半分を食べてから食事をしました。そして、食後1時間の血糖値は200に跳ね上がりました。しかし、一般的な測定時間とされる2時間後には112に落ちました。
 私は胃がないので、1時間後の数値を基準にしています。あまり乱高下はよくないとされているので、急上昇する1時間後を注視しているのです。
 それにしても、グレープフルーツは興味深い影響を与える果物のようです。

 今日、中野駅にほど近いブロードウェーというショッピングセンターの中にあるワンコイン検診の「ケアプロ」で、いつものようにヘモグロビンA1cを測定してもらいました。1回千円です。7分で結果が出ます。

 結果は予想外に高く、「6.4」でした。「6.1」以上が糖尿病とされる数値です。急上昇したというのは、このことです。

 糖質制限食を少し緩めた関係もあり、体重は確実に増え、先月から目標としていた50キロ台になりました。しかし、血糖値やヘモグロビンA1cはそれに比例して上がっていたのです。やはり、というべきでしょうか。

 なお、今月から、このヘモグロビンA1cの指数の評価基準が変わりました。これまでは、「JDS基準」という、日本独自の判定値を使っていました。上に書いた、「6.4」とか「6.1」というのがそれです。
 これを、今月からは「国際基準」の尺度で表現することになったのです。これまでの「JDS基準」は、しばらくは併記されます。
 「JDS基準」に「0.4」を加えたものが「国際基準」です。今回の私の数値は、「国際基準」でいうと「6.8」となります。「国際基準」では「6.5」以上が糖尿病とされるのです。つまり、私の今日の数値は、明らかに糖尿病患者なのです。

 今後とも推移を見守りながらということを前提に、病院の受診を勧められました。しかし、これまで何度も記したように、現在の大半のお医者さんは糖質制限には消極的であり、あくまでも従前のカロリーコントロールによる対処療法を薦められます。そして、薬を使うことも。
 私は、糖尿病外来にたまには行きます。しかし、血糖値の管理は自分でできているので、行っても血糖のことではなくて、お医者さんは鉄分が不足している話などをされます。
 ほとんどのお医者さんは、糖質制限食と真っ正面から向き合おうとはされないようです。時流に逆行する姿勢のように思えますが、医学界にもいろいろとそれなりの事情があるのでしょう。西洋医学を信奉するのであれば、それでは何が科学的なのかがわからなくなります。糖質制限食による効果は、まだまだ敬して遠ざけられています。しかし、民間療法的な扱いから、しだいに注目されだしていることは確かなようです。

 話を私の例に戻します。
 今年に入ってからは、これまでの「JDS基準」で言うと、「5.6」→「6.0」でした。それが今日、さらに上昇して「6.4」になったのです。「JDS基準」でいうところの「6.0」以下を目標値にしていたので、食生活の見直しが必要です。今日からは、体重よりも食事のし方を引き締めます。

 今の日本では、炭水化物だらけの食堂街やマーケットが至る所にある中で、それを避けて食事を摂るのは非常に困難な環境にあります。しかし、甘い誘惑に負けないで、最適な糖質制限食を自分の身体の変化を確認する中で探し求めていきたいものです。自分なりの方法で、合併症が起きない、より快適な日々が送れるように、無理なく生活改善に取り組んで行きたいと思います。
 
 
 

2012年4月25日 (水)

古写本『源氏物語』に関する新聞報道

 浅岡先生から教えていただいた、昭和初期の「読売新聞」に掲載されていた貴重な情報の第3弾です。
 
(1)読売新聞(昭和6年(1931)5月6日、朝刊4面)


・「国宝級の古書を掘出す 寂恵本「古今集」と八千円の「源氏」」
・「藤原定家自筆本に最も近い古写本としては、現在前田侯爵家に秘蔵されてゐる青表紙本『源氏』二帖が知られてゐるだけである時は昨年秋大阪に開かれた関東西聯合の古本大市に、形は四寸平方の真四角な古写本『源氏』五十二帖(二帖欠本)が、誰の注目もひかずに、歴々の古本商五六十名の目の前に出陳されたのだが、その最高入札が十五円なにがしと云ふので、荷主は遂に売り離さなかつた。一誠堂はこの市にも勿論出席してゐたが、買はずに帰京したのである。それが、つい此程同店の手に入り相変らず冷遇されてゐたのを、偶然、現代唯一の『源氏』蒐集家帝大教授池田亀鑑氏が発見し─同教授は古写本『源氏』を七百種約一万冊を蒐集してゐる『源氏』通であるから─忽ち、それが前田侯爵家の青表紙秘蔵本と対置すべき、稀有の秘籍であると目星をつけ、冷遇されてゐたままの値で買い取つたさうであるが事実、侯爵家秘蔵本の残部五十二帖らしいので、それだと市価八千円の国宝級の稀書である。それが僅か二時間足らずしか一誠堂の店に鎮座ましまさず、とても安く売られて行つたので、この景気に八千円とり逃がし口惜しがること/\。」

 
(2)読売新聞(昭和7年(1932)11月19日、朝刊4面)

・「『源氏物語』大展覧会 今明両日帝大大講堂に開催」
・「現代の源氏研究は、先ず可能の限りに於て根本資料を博く蒐集し、これを精査し、分類し、系統立て、その厳密な批判の上に立つ新研究が樹立されなければならない。已に万葉集には、佐佐木信綱博士をはじめとする諸学者の努力によつて『校本万葉集』の大事業が完成し、万葉学の基礎が確立して。しかるに源氏物語に於ては、まだ諸本の性質や系統はおろか、研究書の種類や性質さへも十分に明かにされてゐない状態である。これはあらゆる意味に於て、犠牲的な努力と忍耐とで、押し進めて行かなければならない大事業であって、何人においそれと引き受けられないからである。
 東京帝国大学の国文学研究室では、校本源氏物語と諸註集成との大事業を企図し、文学士池田亀鑑氏にその忍耐託した。池田氏は七カ年の間、渾身の力をこの一事に集中し、ほとんど一身一家を犠牲として研究を進め、古書の博捜、探訪、書写、校合に努め、収集する所の資料は数千点に及んだ。これ等の中には天下の秘本と称せられて、今までわづか二三部しか知られなかった河内本(鎌倉時代に源光行、親行等の校訂した本)が、四十部近くも発見されて、書写し校合されてゐる。なほ青表紙本(藤原定家の書写した本)の系統の秘本も甚だ多く、学問上幾多の新事実が、これ等の新資料によつて明かにされる。
 本日東大大講堂で開かれる「源氏物語に関する展覧会」には、これ等の資料の一部が陳列される。第一部諸本、第二部諸註、第三部一般研究書、第四部源氏物語の影響に関する資料の四部に分れ、七百点一万冊に及び源氏研究として必要な資料はほとんど網羅されてゐる。恐らくこれほど組織的な巻尾した展観は今後困難であらうと思はれる。殊に今回の展覧会は骨董趣味を主とせず、学問上の体系を主としたもので、学者の参考となるものが少くないと思はれる。」
・【写真】珍本河内本源氏物語 古写本「須磨の巻」
 (伊藤注・手元の資料と照合すると、これは平瀬本です)

 
 
 

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(3)読売新聞(昭和8年(1933)4月15日、朝刊7面)


・「源氏物語 最古の写本発見 五十四帖揃ふ河内本の珍書」
・「昨年暮豊島区目白町四丁目の徳川善親侯邸内に創立された黎明会ではそきごろ来数万冊に上る蔵書の整理中最近図らずも源氏物語五十四帖の写本を発見したので早速池田亀鑑氏など源氏物語研究家の鑑定を仰いだところ間違ひのない本物であることが判つた、善親侯は大喜びでこの写本を文庫に所蔵し自身鍵を保管してゐるといふほどの大切さ、こんどこれを印刷して一般に頒布することになり十五日午後二時から三時まで写本の一部を同邸内で公開することになつた
 源氏物語には昔から青表紙本、河内本などゝ非常に内容のちがつた写本が伝はつてをり現在一般的になつてゐるものは青表紙本であるが、こんど徳川家から発見されたものは河内本で河内守光行、親行の親子が書写したものを鎌倉時代に北条実時が写して金沢文庫に収め更にそれが足利時代に徳川家の所蔵となつたものらしい河内本の写本は大阪の平瀬家及び東山御文庫などにも所蔵されてゐるが徳川家のものはこれよりも古く六百七十年前のもので源氏の写本中一番古く形は大きく大和綴になつてゐる、この写本を閲覧した佐佐木信綱博士は激賞して語る
『五十四帖全部揃つてゐるものとしてはたしかに一番古いものでせう。非常に貴重なものです侯爵がこんどこれを印刷してコツピーを作るといふことは学会のために大変喜ばしいことです』」

 
(4)読売新聞(昭和13年(1938)10月20日、夕刊2面)

・「”源氏物語”の大レコード化」
・「山田五十鈴を起用して 空前・五十四枚盤に」
・「嘗てその劇化が坂東簑助により計画されて果さなかつたが、こんどのこの台本は、内務当局の諒解を得て、舟橋聖一氏が健全なものにアレンヂした、台本はすべて現代語に書き替へ、原文にある歌は、そのまゝ生かして歌謡曲風に作曲され」
・「谷崎潤一郎氏の現代訳千四百枚の『源氏物語』の出版と相呼応して五十四枚の連続レコードは、レコード界空前の壮挙となりさうである」

 
 
 


2012年4月24日 (火)

『源氏物語』の演劇化弾圧に関する新聞報道

 浅岡先生から教えていただいた、昭和初期の「読売新聞」に掲載されていた貴重な情報の第2弾です。
 すでにこの弾圧問題は知られていました。しかし、私は新聞報道という時系列で確認はしていませんでした。今回のご教示を得て報道資料を確認し、報道された情報の収集の大切さを知りました。
 このような資料を、さらに幅広く集めていきたいと思います。
 なお、この一連の事件に後援として関与している紫式部学会を代表する研究者として、池田亀鑑の存在があります。この点については、池田亀鑑が本件に関してどのような行動や発言をしていたのかは、あらためて考えていくつもりです。
 
(1)読売新聞(昭和8年(1933)10月24日、朝刊7面)


・「芝居になる『源氏物語』 各権威の後援で最初の上演」
・「来月廿六日から四日間新歌舞伎座で本邦最初の劇化上演が行はれる
 坪内逍遥、藤村作両博士を顧問に紫式部学会の後援により同物語の『帚木の巻』から『須磨の巻』までを六幕十八場として上演するもので学術的指導を池田亀鑑久松潜一の両氏」

 
(2)読売新聞(昭和8年(1933)11月23日、朝刊7面)

・「期待の『源氏物語』 突如上演禁止 廿六日からの開幕を前に 苦心の研究も闇へ」
・「古典の至宝封殺」
・「四日の一万枚の切符も殆んど全部売り尽くしてあるので去る十八日警視庁の弾圧内意を知つて大いに驚き藤村作博士、久松潜一教授等が藤沼警視総監に面会了解に努めたが遂に容れられなかつたものである」
・「当局の気に病むは 有閑階級の腐敗 紫式部学会では依然応援」
・「死んでも上演したい 坂東簑助氏 泣いて語る」

 
(3)読売新聞(昭和8年(1933)11月26日、朝刊7面)

・「ぜひ上演したい 禁止禍の『源氏物語』 文壇、楽団に呼びかけ猛運動」

 
(4)読売新聞(昭和13年(1938)10月20日、夕刊2面)

・「”源氏物語”の大レコード化」
・「山田五十鈴を起用して 空前・五十四枚盤に」
・「嘗てその劇化が坂東簑助により計画されて果さなかつたが、こんどのこの台本は、内務当局の諒解を得て、舟橋聖一氏が健全なものにアレンヂした、台本はすべて現代語に書き替へ、原文にある歌は、そのまゝ生かして歌謡曲風に作曲され」
・「谷崎潤一郎氏の現代訳千四百枚の『源氏物語』の出版と相呼応して五十四枚の連続レコードは、レコード界空前の壮挙となりさうである」

 
 
 

2012年4月23日 (月)

英訳『源氏物語』に関する新情報

 中京大学の浅岡先生から、「読売新聞」に掲載されていた貴重な情報を教えていただきました。
 こうした情報を一人でも多くの方と共有するためと、さらなる情報の提供を願って、その内容を以下に私の興味の範囲で摘記しておきます。
 
(1)読売新聞(明治23年(1890)9月15日、朝刊3面)


・末松謙澄と依田百川の『源氏物語』に関する激論
・末松「予はそれほど源氏に通暁せるものにあらざれども聊か目を通したる事もあればと云ふが言出しにて今迄の学者は唯源氏を称賛することを知れども其瑕瑾に気付かざるは憐れむべき次第なりと云ふより自分が源氏を英文に翻訳せし時種々の瑕瑾を見出したることを説き起し弥々論鋒を依田氏に向け終に唯源氏に驚くべきは当時何事も唐土の風を摸擬するが習なるに独り小説のみは之を摸擬せざりしは唐には其時代迄小説のなかりしを以て之を知るべく殊に源氏の如きに至ては名文もて此の如き大著述を為しそれで少しも摸擬する所なかりしは頗る感心の至りなり」
・依田「君は源氏を能く読んだのではないどうでも能く読んだのではない君が能く読んで翻訳したれば赤鬚も必ず感心したに違ひないのだ」

 
(2)読売新聞(大正14年(1925)9月25日、朝刊4面)

・「読書界出版界 英訳『源氏物語』 英誌「スペクテーター」評(上)
  ─光る源氏は仕方のない男─」
・『源氏物語』が「大英博物館極東部に勤めているアーサー・ウオレー氏によつて初て英語に完訳されることになつたのだ。」
・アーサー・ウェイリーの若き日の写真が掲載されている。

 
(3)読売新聞(大正14年(1925)9月26日、朝刊4面)

・「読書界出版界 英訳『源氏物語』 英誌「スペクテーター」評(下)
  ─紫式部の心理描写は深刻だ─」
・「此本のうちで最も優れた箇処は、源氏と懇意だった六条院が源氏の夫人の死を聞いて自分が今まで故夫人に対して悪い事あれかしと考へたことがあつたかしらん知らず/\のうちに悪しかれと考へてゐたゝめ、夫人の死を招いたのではなかろか、と恐れ考へるところである。」

 
(4)読売新聞(昭和8年(1933)11月16日、朝刊4面)

・「誤れる日本文学への認識 ウエリ氏の英訳源氏物語 【上】 宮森麻太郎」
・「同氏が某女史の現代口語訳に依つたにもせよ」
・「ざあつと全体を読んで、原文とも対照して見た後の頭の中には残念ながら、評判ほどの代物ではないから買つてはいけないといふ印象が深く刻まれてしまつた。」
・「女御を「腰元」にしてしまつた彼は更衣を腰元よりも身分低い「端女」と解したのであらう。」
・首巻「桐壺」の冒頭部分の訳について、「五十二年の昔に出来た末松謙澄博士の『御名前は解らないが或天皇の御代に』といふ意味の英訳の方が余程ましである。」

 
(5)読売新聞(昭和8年(1933)11月17日、朝刊4面)

・「誤れる日本文学への認識 ウエリ氏の英訳源氏物語 【下】 宮森麻太郎」
・「同氏はこの大切な多くの和歌を省略してゐるか、さもなければ誤解だらけの愚にもつかない散文訳にしてゐる。」
・「末松博士の訳(中略)と比較すると雲泥の相違が発見される。」
・「要するにウエリ氏の日本文学に関する知識素養は浅薄で不完全であり同氏は英詩の書けない人であるから、其翻訳は信を置くことが出来ない。斯ういふ認識不足に基く翻訳は一種の神聖冒涜でもある。国家非常の今日、徒らに日本文学の紹介を訳も解らない外人の手に委ねないで、我国にも外国語の出来る立派な学者が多々あるやうであるから、その人達が一番国家奉仕の意味で奮(?)起して、旺盛なる日本文化紹介の運動を海外に向つて計画実行しては如何か。私はその方がもつと安全で効果的だらうと信じて疑はない。」

 
 
 

2012年4月22日 (日)

江戸漫歩(55)板橋区立美術館の狩野家展

 板橋区立美術館で開催されている「奥絵師・木挽町狩野家 〜お殿さまに仕えた絵師たちの250年〜」を見に行きました。
 地下鉄有楽町線の西高島平駅を降りて15分も歩くと、「不便でゴメンね」という幟が目に飛び込んできます。
 
 
 

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 歩いて15分もかからないので、そんなに遠いとは思いません。しかし、住宅街を横目に歩くので、単調な道でした。この美術館には、地域をはじめとする来館者を思いやる気持ちが、館内の至る所で感じられました。特に、展示物の説明文を読んでいると伝わってきます。ただし、少し煩わしくて余計なお節介と感じる方もいらっしゃることでしょう。私がそうだったので。地域の小学生や中学生を強く意識した対応だと思いました。

 まず受付の前に、写真を撮っていいというパネルが目に付きます。
 早速、そのパネルを撮影させていただきました。
 
 
 

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 海外の公共施設を意識しているのでしょうか。これはいいことだと思います。後で思い出したり、人に話をするときに、展示会場での写真があると便利です。特に、この美術館は自分のところで所蔵する作品を展示しているのです。公費で購入したり寄贈や寄託を受けている作品なので、その点では自由に使えます。
 また、展示されているものをその場で撮影しても、商業利用に使えるほどいい写真は撮れません。その意味でも、来館者のためのこの割り切りには好感を持ちました。

 さて、江戸幕府に仕えた御用絵師である狩野家は、中橋・鍛冶橋・木挽町・浜町の四家に分かれます。将軍にお目見えできる奥絵師といわれる最高の家柄です。その中でも、木挽町狩野家の作品を中心とした作品群が「〜お殿さまに仕えた絵師たちの250年〜」というテーマで展示されていたのです。
 そんな内容が、壁面に掲示されていた説明板にうまくまとめてあったのでアップします。

 私のブログでは、掲載する画像はいつも120キロバイト以内に縮小してアップしています。そのため、文字を読むには難しい解像度です。少し拡大していただくと、どうにか読める程度となっています。あしからず。
 
 
 

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 また、狩野派の絵の修行の様子も説明されていたので、これも説明板をアップします。
 橋本雅邦の「木挽町画所」(『國華』第3号、明治22年)をもとにした略説で、粉本とか模本といわれるものの意義や役割がよくわかる説明です。「学ぶ」の語源である「真似ぶ」ということの大切さを、再認識させられます。
 
 
 

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 木挽町狩野家は、狩野探幽の弟の尚信に始まります。この流れについても、説明板をあげます。
 
 
 

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 また、東京駅に隣接する中央区にちらばっている狩野家の所在場所を示す地図も、今の場所と対比すると参考になります。
 
 
 

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 展示室の一角に「お座敷コーナー」があり、本物の屏風を座布団に座ってじっくりと見ることができます。これは、なかなかのアイデアです。私も初めてこのような見方をしました。目の高さといい距離といい、実際に部屋に置かれている屏風を見る雰囲気で拝見することができました。

 今回この美術館に初めて来て、各絵に添えてある説明文の馴れ馴れしさが気になりました。子供に語りかけるような語尾には、大人の方は馴染めないかもしれません。少なくとも私は、違和感を感じました。初学者にわかってもらおうという親しみからの意図であることはよく理解できます。しかし、これはやりすぎかな、とも思いました。せめて、普段の会話口調での語尾は、もう少し工夫がなされてもいいのではないでしょうか。親しみはいいのですが、もっときれいな日本語にしてほしいな、と思いました。
 また、絵に添えられた作品名が新しい感覚で命名されていることも、私は気になりました。
 狩野探幽の「富士山図屏風」には「いい眺めだなあ」というタイトルが付いていました。狩野安信の「人物花鳥画帖」には「こんな絵も描けますヨ!」、狩野養信の「勿来関図」には「桜よ、散らないでおくれ」、狩野寿信の「徒然草図屏風」には「人生イロイロ」という調子です。
 これは、好みの問題であり、ご覧になった方々の反応が知りたいところです。

 それはともかく、橋区立美術館が所蔵する木挽町狩野家のコレクションは、見応えのあるものでした。図録が品切れだったので、何かの機会にこの美術館の絵を通覧したいと思います。
 入場料が無料というのも含めて、今お薦めする展覧会の一つです。
 
 
 

2012年4月21日 (土)

授業(2)データベース・写本・翻訳

 地下鉄渋谷駅を降りて國學院大學へ向かいます。地上に出る建物は、来週26日にオープンするヒカリエというエリアです。
 かつて、ここに東急文化会館があった頃には、学校の帰りによく立ち寄りました。プラネタリウムにも行きました。今度はどんな施設になるのでしょうか。地下3階、地上34階ということです。
 
 
 

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 中の案内図も、準備が整っているようです。さて、どんな空間になっているのか楽しみです。
 若者を対象にしたお店が中心だと思われます。しかし、買うものがなくても見て回るのも楽しいものです。
 
 
 

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 さて、2回目の授業の中で無線LANを使った教材活用は、学生さんのセッティングが不十分だったので、次回としました。無線LANは、まだ何かと活用には手間がかかるようです。

 講義終了後、事務の方と相談し、次回は有線のハブとケーブルを用意してもらえることになりました。海外のサイトやデータベースを使いながら説明を加えたいので、安定した環境が必要です。設備の整っている場所でも、その活用となるといろいろと工夫が必要です。私にとっても最初のことなので、試行錯誤がつづきます。
 アプリケーションとしてのエバーノートの活用も、次回に持ち越しです。

 さて、昨日の授業は、以下のような内容でした。

(1)受講生の自己紹介を兼ねて各自の研究テーマを聞きながら、いろいろと質問する中で海外の日本文学研究の現状を話しました。

(2)日本語教育に関する研究を目指す人がいたので、国立国語研究所の論文データベースを例にして、研究のための情報検索について考えました。データベースには、それぞれに特徴があります。国文学研究資料館から公開し、研究論文を執筆する人はほとんどが調査と確認のために活用している「国文学論文目録データベース」の場合は、大学院生が実際に当該論文を読んでデータを作成しているのが特徴です。単に、論題や副題などの表面的な情報だけではなくて、その背後に研究支援のための努力があるのです。そのため、驚くべき精度で知りたい情報がヒットするのです。こうした特色を理解していると、検索する上でも有効な活用に結びつきます。

(3)『総研大ジャーナル』(第15号)に私が書いた「先端研究 『源氏物語』本文研究の新しい時代」を見ながら、『源氏物語』の本文の現状について考えました。写本に書かれた言葉を大事にしたいということを確認しました。文学研究の基本は作品の本文の読解にあるので、その基礎的研究の大切さを話しました。この本文レベルの考察では、海外の研究者にもハンディキャップは少ないと思われます。その解釈に入った段階で、日本の文化等に関する理解力が要求されます。まず問題の所在を見つける意味でも、作品の本文に目を向けることは、世界文学としての作品理解のスタート地点に立つことになります。そうした意識の大切さをとりあげました。

(4)ハーバード大学所蔵の鎌倉中期に書写された『源氏物語』の貴重な古写本や、ワシントンの議会図書館に収蔵され昨年から国立国語研究所のホームページで公開している議会図書館本『源氏物語』、そしてイギリスのケンブリッジ大学のコーツ先生がお持ちの源氏絵など、日本の古典籍が海外にあることの実情とその問題点を整理しました。それぞれに海外に流出した事情があります。しかし、とにかく今に伝えられて残っていることの意義を評価すべきです。数百年の時を経ても、読んだり見たりできるのです。こうした資料を、国境を越えて、今後の研究に有効に活用したいものです。

(5)『総研大ジャーナル』(第15号)に掲載された私の「『源氏物語』の翻訳状況」についても確認しました。世界各国で刊行されている翻訳を、今後はどのように研究対象にすべきかは、これからの問題です。言葉と文化の両面から追究できるテーマとなるので、貴重な資料でもあるのです。さらに広く調査を進める中で、まずは海外で翻訳されている作品のリストを作成することが先決問題です。『源氏物語』は私がほぼやり終えました。さらに拡大していきたいものです。

 帰りに、ラウンジでコーヒーを飲み、外に出ると目の前には八重桜が若葉をのぞかせながら咲いていました。
 
 
 

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 18階建ての若木タワーも八重桜と重なって見えました。
 
 
 
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 私がこのキャンパスに通っていた30数年前にあった建物は、今では何一つ残っていません。見違えるほど立派になっています。目に見えるものに、時代の移り変わりを感じます。しかし勉強することの意義や方法は、今も変わってはいないと思います。そうした部分で、後輩たちに考えるヒントやネタを提供し、一緒に考える時間を少しでも共有できたらと思いながら帰路につきました。
 
 
 

2012年4月20日 (金)

ポケット Wi-Fi が使えなかった理由が判明

 ソフトバンクの池袋西口店で、非常に対応のいい方との出会いがありました。
 最初に対応してくださった女性は、どうも言われることに納得しかねました。結論は、私の手にしているポケットWi-Fiは不良品の可能性があり、それは購入した京都の店で対応してもらうしかない、ということでした。要するに、解約するしかない、ということを遠回しにおっしゃる対応だったのです。

 ことの流れはこうでした。
 私が取り出してつながらないと訴えるポケットWi-Fiをいじりながら、これは、無線ではつながらないと言われるのです。ケーブルでつながないと、とおっしゃるので、それは問題解決にならないからと、あくまでも無線での確認をお願いしました。そうでないと、ポケットと言う意味がないからです。この時点で、私はこの担当者にいつ見切りをつけるか、様子を見ながら相談話を進めました。

 さらに、私が持って来たこの機器は反応が非常に遅いとのことです。イーモバイルの電波しか使えない機器だとも。ソフトバンクの製品ではないのですかと聞くと、これは古いタイプのものだとのことでした。ということは、私は変な不良品を渡されたのかと聞くと、否定はされないながらも、とにかく購入した京都の店で対処してもらうしかないということになりました。
 いま私が京都のソフトバンクに電話をして、そしてここで起こっている症状を説明してもらえないかとお願いすると、京都の店で購入したものを池袋の店から製品の不具合を報告することはできない、というわけのわからないことをおっしゃいます。もう、逃げるしかないという態度でした。

 また、この機器はマックOSXの10.6(スノーレパード)までしか対応を謳っていないものなので、私が使っているパソコンのOSの10.7(ライオン)には対応していないのだそうです。変な話だな、と思って聞きながら、もうここで打ち切って帰るしかないと思いました。このまま相談していても埒があかないので、この方との対応に見切りをつけることにしました。

 そして、諦めて上の階にあがって帰ろうとしたときのことでした。出口にいらっしゃった方に駄目もとで、まだ聞きたかった別件での疑問点を訊ねてみたところ、思いがけず親切な対応をしてくださいました。
 それならと思い、実は先ほど下でのカウンターの対応はこうだったと話すと、すぐにお店の機器で検証してくださいました。その機器からも、このポケットにはつながらない症状が出ました。これには、その方も慌てておられました。

 親切な店員さんで、さらに別室で調べた上で、原因が突き止められました。何と、本体の中に装着されているSIMカードの接触不良であることが判明したのです。
 これまでつながらないことで悪戦苦闘していたことが、突然に雲散霧消ということになったのです。この結末には、私も呆然としました。つまり、またもや私は欠陥商品を渡されていたのです。そうとは知らず、昨年の3月にこれを購入して以来1年2ヶ月もの間、つながらないので意地になって接続実験をしていたことになるのです。月々支払った料金を返してくれ、といいたい気持ちになりました。

 さらに驚いたのは、今までよりも安い金額で、もっと高速で使える新機種を紹介してもらえました。早速それに乗り換えたのは言うまでもありません。いろいろなプランがあるものです。
 もっと早くわかっていたら、こんな使えないものに振り回されなかったのに、と思いました。
 不具合があることで店頭に持ち込まなかったのは、ソフトバンクという会社というか孫正義という人間を信用していなかったので、行ってもしようがないとの諦めがあったことは事実です。今日、最初に対応してもらった女性は、まさに無知なソフトバンクの社員を象徴する対応でした。いったんは、このショップというかこの人に見切りをつけて帰るところだったのですから。

 しかし、この店を出るときに話をした店員さんとの出会いで、これまでの悩みが一掃されました。人との出会いは、かくも局面を打開するものだと、その運命のいたずらを今はおもしろく思っています。
 ソフトバンクにも、知識と親切な気持ちをもった方がいらっしゃったのです。しかし、その反面、いいかげんででたらめな方がいらっしゃることも事実です。まさに、今日の最初の女性がそうだったのです。

 たまたま私は、いい方に出会えました。いつ、どの店に行っても、こうしたいい出会いのあるお店であればいいのに、と思いました。この当たり外れの大きいのが、auや DoCoMo の接客態度と比べて見劣りのするソフトバンクの実情ということになるようです。

 今年の7月からは、ソフトバンクも周波数帯の割り振りが変わり、さらにつながりやすくなるそうです。そうであるならば、いつでも圏外という状況も少しは改善されるでしょう。そして、店頭の対応ももっと改善してほしいと思います。

 ソフトバンクは、いつまでもアップルというブランドにおんぶにだっこではいけません。日本でいい仕事をするためには、さらなるユーザーへの思いやりを企業方針の中にしっかりと持ってほしいものです。情報化社会の中で無知を売り物にする会社では、技術力の高さと誠実さがとりえの日本企業としては情けないことですから。
 
 
 

2012年4月19日 (木)

マスコミで話題の被災予定地域に住んでいて

 最近、新聞やテレビで、私が生活する地域が話題になっています。
 東京都が公表した、首都直下型地震の震度7に関するニュースです。
 その被害の想定を見聞きするだけでも、大変な事態になることが明らかです。

 現在、東京湾北部と言われる江東区の隅田川河口部に宿舎があります。
 その川縁の老朽化した5階建ての2階に住んでいます。津波が来たら塵芥の藻屑です。

 そして、東京の西部の立川にある職場はというと、立川断層帯地震が濃厚となった、その活断層の真上に建っています。活断層の上にあることは、4年前に品川から移転して来る前から話題になっていました。私の部屋は、その3階にあります。免震構造になっているそうです。しかし、その地盤の断層帯が問題になっているので、揺れには強くても足下を掬われたら建物も立っていられないことでしょう。

 この2地点間を、片道1時間50分かけて都内を横断する通勤を続けています。
 宿舎を出て電車に乗ると、しばらくはずっと地下深くを走ります。水に襲われたら、逃げ場はありません。
 通勤電車の中盤からは高架を走ります。これまた、地震の揺れを考えるとぞっとします。

 昼間に地震が来たら、帰宅はできません。立川駅前の国立昭和記念公園で野宿の生活となりそうです。
 夜なら、深川からの逃げ場はありません。

 2ヶ月後に、娘の檀那さんが研修のために立川の自治大学に来ます。私の職場と地続きの建物なので、この夏に地震が来たら彼と一緒に昭和記念公園で暮らすことになります。

 心配なことは、昼間に地震が来たら、妻と離ればなれになることです。
 連絡を取り合うためにも、携帯電話の充電器を持ち歩くことを、先ほども夕食を共にしながら確認しました。

 こんな話を、現実のこととして語り合う事態となりました。

 このところ、私はコンピュータのデータをバックアップしています。クラウドとハードディスクとメモリに分散しています。
 生き残ったときに、どこかに残されたデータで、これまでつづけて来た仕事などができるようにするためです。特に、『源氏物語』の写本を翻字したデータベースは、入念に各所に保存しています。これは、次の世代に受け渡したいものだからです。それ以外は、あくまでも私のためのデータなので、そのまま消えてもいいものです。

 マスコミに煽られるようにして、東京での終末期を想定した生活プランの再検討をするようになりました。京都の引っ越しで、身の回りにあった荷物を整理していたところでした。その延長として、東京での持ち物をこの機会に整理するつもりです。

 過日、「大徳寺瑞峰院老師の書「放下着」」(2012年3月 8日)のことを書きました。
 まだ私には悟りの心境とは縁遠い日々です。しかし、この地震の騒ぎの中で、まさに、「放下着」の意味を考えるきっかけを与えられているようです。

 想定される災難をネタにしては不謹慎です。しかし、それだけ現実のこととして、目の前のものが無に帰する事態を考えさせられる状況が近づいていることは確かなようです。
 これは、京都にいては感じない、東京にいてこそ肌身に伝わってくる感触です。
 
 
 

2012年4月18日 (水)

健康情報誌『わかさ』の糖質制限食特集

 健康生活を扱う情報誌『わかさ』の最新6月号は、一冊丸ごと糖質制限食の特集です。
 
 
 
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 新聞で発売広告を見ていたので、昨日の発売日に早速買いました。もっとも、立川駅では2軒の書店ともに、発売日当日なのに売り切れでした。

 昨日は『十帖源氏』を読む会のために新宿へ出たので、少し大きな書店で買いました。そこでも、私が手にできたのは最後の一冊でした。
 このテーマは、多くの人の興味と関心を引いているようです。内容については、すでにほとんど知っていることだったので、さっと流し読みですませました。

 この雑誌からは、外食とコンビニなどの利用法について、少しアイデアをいただきました。
 ご飯、パン、麺類を食べない食生活は、何かと不便です。レストラン街へ行くと、軒並み炭水化物を食べさせるお店です。スーパーマーケットでも、お総菜をはじめとして、なにかと砂糖漬けにした食品が並んでいます。これでは、日本から糖尿病はなくならないばかりか、ますます病人を作っているとしか思えません。

 至る所に血糖値を上げる食べ物が氾濫しています。しかし、工夫次第ではそれなりに糖質制限食が可能なのです。
 今回の雑誌の特集で、ファーストフード店にもうまい利用法があることがわかりました。
 それにしても、テレビでもっとご飯を食べようというCM見て、複雑な思いに駆られました。ラーメンの宣伝が多いのを見て、これでいいのか疑問に思います。
 糖質制限食は、農耕生活が始まって以来の食に関する問題提起です。医療費が高騰する中、炭水化物を食べる食生活を薦めることに、疑問を持ち始めました。
 学校での食育が立ち後れていることはよく知られています。今、あらためて思います。ご飯を食べることを推奨する食育を、再検討してもいいのではないでしょうか。自分がこうした立場に立って初めて、この炭水化物礼賛社会に疑問を抱くようになりました。

 さて、この雑誌『わかさ』では、糖質制限食についていろいろと好いことばかりが取り上げられています。これは、この手の雑誌に付き物なので、そこは適当に読み流します。興味を惹いた記事だけは、きっちりと読みました。

 タマネギは一日4分の1個でいいとのこと。私は勘違いしていて、一日2個くらい食べていました。少し血糖値が上がり気味だったのは、このせいかもしれません。

 グレープフルーツと桑の葉は、これから試してみます。
 自分に合っているかどうかは、とにかくやってみるしかないのです。特に、私は消化器官を切除しているので、なおさら自分の身体を使って、自分のための最適な方法をテストするしかないのです。

 私が初めて糖質制限食のことを知ったのは、昨夏の『わかさ 10月号』でした。
 
 
 
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 この雑誌との出会いが、今の食生活のスタートでした。大げさではなくて、私の人生を変えた1冊と言えるでしょう。どうしても成果がでなかったカロリーコントロールから、未知の糖質制限食への転換でした。
 今回、この記念すべき雑誌を取り出して頁を繰ってみると、なんと昨日入手した雑誌と内容はほとんど変わりませんでした。タマネギは一日4分の1でいいということも、書いてありました。この糖質制限食について、新しいことは意外とわかっていないとも言えそうです。

 今は、この切り替えのタイミングがうまくいったと思っています。もう、あの面倒でほとんど効果のなかったカロリーコントロールに戻ることはないでしょう。糖尿病学会の指針に従うほとんどのお医者さんも、糖質制限食の威力は当然知った上でそれを無視し、カロリーコントロールの指導をしておられると思われます。栄養士のみなさんも。
 現に、私が罹っている糖尿病外来の先生は、私が持ち込む資料には見て見ぬ振りをなさっているように思われます。そこには、糖質制限食にはそれなりの効果があることをご存知の上での無視だと思っています。

 お医者さん自身が我が身を守るためのポーズとして、今は糖質制限食について関わらないことにしておられると思います。しかし、それもいつまでも続かないのではないでしょうか。そのための準備を、病院もお医者さんも密かになさっているはずです。密かに、というのは、これを認めるとこれまでの病院における患者からの集金システムの根底が崩れるからです。薬が不要になりそうです。医療行為が激減するのです。それに反比例するかのように、患者との協業としての食事指導が中心となりそうです。これでは、これまでの認識による糖尿病の専門医としての出番が少なくなります。

 まだ糖質制限食にして1年にも満たないので、今後のことはわかりません。ケトン体のことを含めて、糖尿病学会に忠誠を誓っておられるお医者さんが言われる、副作用については何もわかりません。しかし、今はうまく血糖値をコントロールできているようなので、このまま継続してこの状態を維持しながら、体調管理に気はこれまで以上に気をつけて行きたいと思っています。
 
 
 

2012年4月17日 (火)

『十帖源氏』の「夕顔」を読む会

 『十帖源氏』を読む会が、新宿アルタ横のレンタルスペースでありました。今夜は6人が集まり、すでに公開した「夕顔」巻の現代語訳の再確認をしました。一度は現代語訳にしました。しかし、海外の方々に翻訳してもらいやすい訳文にするために、さらに検討を進めています。

 みんな仕事帰りなのですが、日本人ではなくて外国の方々にわかってもらえる現代語訳を作るという、説明しにくいおもしろさに惹かれて、こうして集まって、ああでもない、こうでもないと言い合っています。

 今日問題になったことを、いくつか記しておきます。

・原文に「はじとみ四五間あげわたし」とあるところで、「雨戸を四五枚あげて」と訳していることが問題になりました。
 雨戸ならばシャッターという訳になりそうです。しかし、それではイメージが違います。あまりにも無味乾燥で寂しい感じがするからです。いろいろな意見が出ました。結局、「雨戸」ではなくて「格子戸」になりました。外国語に訳すための現代語訳は、こんなところに神経を使っています。

・原文の「顔よき人」も、「顔の良い人」と訳されていたので再検討となりました。
 「美人」「美しい人」「かわいい人」など、いろいろと考えました。これは、内面的な美しさではなくて覗き見した印象なので、単純に「きれいな人」に落ち着きました。

・原文の「娘をば少将にあずけて」は、前回の訳では「娘のほうは少将に嫁がせて」となっていました。
 この訳では、ここに出て来る娘と少将が誰なのかがわかりません。「嫁がせる」ということも、当時の結婚の形から見ても変です。これまでの現代語訳の方針などを確認した上で、「娘である軒端荻を蔵人少将にまかせて」となりました。「娘(軒端荻)」という表記にもしないことになりました。各国語に翻訳する人が説明的な挿入句をあまり入れずに、文章がスーッと流れるような工夫をして、現代語訳を提供するのです。

・伊予介が空蝉を連れて常陸国に下るところでは、「現在の茨城県」という説明を添えました。
 東日本大震災でこの地域が世界的に知られたことを受けて、海外の方々が日本の地理的な位置関係のイメージを喚起しやすいことを思っての補足説明となっています。海外の読者が『源氏物語』の内容を無理なく、より深く理解してもらえるような配慮を心がけることが、ここで取り組んでいる現代語訳の基本です。

 現代語訳の再検討により、海外の方々に寄り添った訳文となるような方針が固まって来つつあります。
 今回の2回目の見直しを経て、あらためて多国語翻訳をしてくださる方々を募りたいと思っています。
 一つの言語で複数の翻訳があってもいいと思います。日本でも、現代語訳が何種類もあるのですから。
 すでに公開している現代語訳を参考にして、どうぞチャレンジをしてください。その際には、ご一報をお願いします。いろいろとお手伝いできると思いますので。
 
 
 

2012年4月16日 (月)

京洛逍遥(224)ゆったりとした智積院

 ブログにアップし忘れていた記事と写真があったので、一と月前のものですが記し留めておきます。

 三十三間堂と京都国立博物館のすぐ東側の東山七条にある、東大路通りに面した智積院は、これまで行く機会がありませんでした。観光地として紹介されることが少ないせいではないか、と思われます。隣接する京都女子大学には行っても、ここに足を留めることはしなかったのです。
 
 
 
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 行ってみて、冠木門を潜って左にある受付を始めとして、確かに地味なお寺だと感じました。しかし、ゆったりとした時間を持てました。ここを訪れることを楽しみにしている方は、京都通と言われる人々ではないでしょうか。

 まず、収蔵庫に入り、国宝の「楓図」「桜図」「松と葵の図」「松に秋草図」を見ました。金箔を惜しげもなく使った絵は、長谷川等伯とその弟子達が描いたものです。等伯の長男久蔵の作とされる「桜図」は、桃山時代を代表する障壁画とのことです。ちょうど桜の開花が待ち遠しい頃でもあり、気持ちが華やぐものでした。

 講堂は平成7年の完成です。その新しい柱や板からは、どこか心和む雰囲気が漂っています。気持ちがいい空間となっていました。
 
 
 
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 大書院東側の庭園は、桃山時代に造られた庭園で、中国の廬山を形どって作られた利休好みの庭として有名だとのことです。池や築山と石組みが、小さいながらも小宇宙を作っています。左手のお茶室に入ってみたくなります。
 
 
 
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 大書院から庭を見ると、寝殿造りの雰囲気が感じられます。
 ここでは、四季折々に季節の移り変わりが楽しめそうです。
 
 
 
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 建物の間に、小さな石庭がありました。いかにも、作ってみましたという不自然さが残っています。このあたりは、今後の工夫に期待したいところです。
 
 
 
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 京都には、まだまだこうした名所があることでしょう。時間をかけて、のんびりと歩き回りたいと思います。
 
 
 

2012年4月15日 (日)

江戸漫歩(54)隅田川の桜祭りと夕焼け

 隅田川の支流である大横川のソメイヨシノも、もう今日が見納めの葉桜となっています。
 その川面を手漕ぎの花見船が行き交います。
 黒船橋から石島橋を望むと、「お江戸深川さくらまつり」が催され、出店で賑わっていました。
 この橋の左手の永代通りを渡ると、深川不動堂があります。
 
 
 
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 昨日の雨と寒さが一転して、気持ちのいい一日となりました。
 越中島公園から隅田川の河口を眺めると、満開の枝垂れ桜越しに中央大橋が望めます。
 川を往き来する屋形船は、満員の盛況です。
 
 
 
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 この公園の桜並木の八重桜は、これから蕾を開かせようとしています。

 夕方の散策では、聳え立つマンション群に挟まれた中央大橋の背後に目がいきました。微妙な色が織りなす画布に、夕焼けが描かれているかのような、不思議な光の絵が出現しました。
 
 
 
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 京都の賀茂川とはまったく違う、これも日本の風景となっています。
 少し遅れてやってきた桜の季節も、これから新緑の候へと移っていきます。
 異常気象と言われながらも忘れずにやって来た四季折々の風が、こうした光景を守り伝えているのです。
 この景色を見ながら、新年度がスタートしたのだという気持ちを新たにしました。
 
 
 

2012年4月14日 (土)

突然つながったソフトバンクのポケット Wi-Fi

 ソフトバンクのポケット Wi-Fi を持っています。
 ほとんどつながらないので、使っているとは言えない代物ですが……
 
 
 
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 この画面を見ると、いかにもネットにつながりそうです。しかし、つながらないのです。
 ソフトバンクに行って相談しようかと思いますが、時間が無駄になりそうなので行っていません。

 この小さな道具は、どこならつながるのか、遊び半分で実験中のものです。もちろん、一年以上、月々正規の利用料金を支払っています。ソフトバンクのテスター役ではなくて、正規ユーザーです。

 このポケット Wi-Fi は、時々こんな画面になります。
 
 
 
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 「Insert USIM」という表示の意味は知りません。裏蓋を開けると、 SIM カードは入っています。よくわかりません。

 この小道具が、昨日行った國學院大學のカフェテラスで繋がったのです。どうかな、と思って取り出したものだったので、突然のことで驚きました。繋がらないままに、かれこれ一年以上も持ち歩いている玩具だったからです。しばらく、iPad でインターネットにつなげて情報を収集しました。ソフトバンクには期待していなかったことなので、嬉しくなりました。

 今日は、立川の職場で展覧会場の当番とシンポジウムがあったために、雨の中を出勤しました。そして、昨日のことがあったので、自分の部屋で取り出してスイッチを入れました。しかし、やはりつながりません。昨日の渋谷のようにはいかなかったのです。

 実は、この小道具は、新幹線でもつながりません。ただし、名古屋駅の手前の三河安城駅あたりから、次の岐阜羽島駅あたりまでの間に限定してつながります。不思議な挙動をする小道具です。

 なお、これまでにも何度か記しましたが、私が使っている iPhone は、京都の自宅でも、東京の宿舎でも、立川の職場でも、電波は圏外となっているものです。酷い商品ですが、アップルが好きなので、ソフトバンクが倒産しないように、ささやかながら開発資金をいくばくかでも提供するつもりで契約を続けています。

 これまで、私は20年近くも前から、アスキーの創業者である西和彦が好きでした。常に西の後塵を拝していた孫正義には、ずっと同情の目を注いでいました。今は、商売が巧かった孫正義が大もうけをしています。しかし、孫正義は技術力の伴わない人なので、その意味では契約を打ち切らずに少額献金をしているつもりでいます。

 さて、昨日はポケット Wi-Fi が場所によってはつながることがわかりました。
 またいろいろなところでテストをしてみたいと思うようになりました。
 さて、どこなら使えるのでしょうか。楽しみが増えました。
 
 
 

2012年4月13日 (金)

十数年ぶりの非常勤講師

 大学院などの非常勤講師を、これまでにいろいろと頼まれてきました。ありがたいことだと思いながらも、申し訳ないのですがお引き受けしないできました。単身赴任で上京していたために、毎週末に関西の自宅へ帰ることを優先していたからです。
 夏期の集中講義は何回か引き受けました。しかし、短期間ということもあり、学生さんとの接点が希薄なので次第にそれも遠慮するようになっていました。

 それが、昨春より妻が上京して共に生活をすることになり、私の方の環境と状況が変わりました。
 そのような折に、いつもお世話になっている先輩から非常勤講師の話があり、ありがたくお受けすることにしました。妻の東京での仕事も、これまた偶然とはいえ、その先輩のお世話になるものです。重ね重ね、ありがたいことだと思っています。

 1999年に上京するまでは、立命館大学で非常勤講師をしていました。文学研究と情報処理の科目を担当していました。今回は、國學院大學大学院で海外における日本古典文学の研究に関する講座です。対象は文学部の大学院生です。
 私の興味と関心の深いものなので、喜んで担当することにしました。

 今日が初めての授業の日です。久しぶりに学生さんの前で90分間、挨拶がわりのお話をしました。慣れないことでもあり、少し疲れました。
 自分の後輩にあたる学生さんに語るのは、楽しくて嬉しいものです。自分が育ててもらった学校なので、少しでもご恩返しをしたい、との思いもあります。定年までの後5年を、本務と共に許される範囲での兼業としての講師を務める中で、若手育成のお手伝いをすると共に自分自身の活性化にもつなげていきたいと思っています。

 知識の伝授や切り売りではなく、ケーススタディとなるような意識でいることと、人と人とのつながりの奥深さを伝えていけたら、と思って話をしました。

 事前にシラバスに記した講義概要は、次のようなものです。


研究のテーマ
 海外における日本古典文学研究の実態と具体的な作品における受容状況の理解を深める

講義・演習の内容
 海外における日本古典文学がどのように受容され研究されているかを確認する。その際、国別・作品別の受容状況と研究状況とを、インターネットなどを通して通覧する。
 さらに、『源氏物語』に関する海外での情報を整理する。特に、31種類の言語で翻訳されている実態を踏まえ、その特質を考えていく。
 なお、翻訳の実態確認とともに、翻訳用語のグロッサリーを構築するところまでを追体験していく。

到達目標
 受講者は、海外における日本古典文学作品のおおよそを理解することとなる。特に、『源氏物語』が翻訳された言語の多さから、そのさまざまな異文化間コミニュケーションのありようが見えてくる。また、翻訳用語のグロッサリーを構築する過程で、日本の言葉を他国の言語に移し替える過程そのものが、文化の変容をともなうものであることが自覚できるようになる。

 忘れないように、自己紹介を通して今日お話しした内容を、メモとして残しておきます。


・これまで生きて来た中で、それぞれの局面で判断して来たこと。
・偶然や予想外の思いがけない事態に対処できる知恵を大切にしてきたこと。
・人間の生きざまを通して文学研究の実態を見ることは非常にいい勉強になること。
・大多数の人が外から見る以上に順調には歩んで来ていないことが見えることの重要さ。
・海外の研究情報と研究者との交流の実態を知ることで自分のものを見る視野が拡がること。
・日本人としての視点から英語教育の問題点と課題を考えると違ったものが見えてくること。
・国際性や国際化の実情を考える基本には、いかに自国を深く理解できているかが重要である。
・英語力を云々する前に、日本のことを語れるだけの日本文化や文学に対する知識が必要である。
・海外の方々に日本的なよさや美しさを伝えるためには古典文学が最適な教材となること。

・今後の授業ではノートパソコンを持ち込んでネットにつなげながら進めたい。
・情報の共有をアプリケーションとしての「エバーノート」を活用することで実現したい。

 今日は、最初ということもあってガイダンスとなりました。また、自己紹介が中心でした。
 次回から、受講生5名の問題意識のありようを語ってもらい、その共通点となる話題に集中したテーマを展開していきたいと思います。
 事前にシラバスに記したノートパソコン持参のことが理解されていたようで、みなさんその準備をしておられました。コミュニケーションツールとしてのパソコンとネットを活用して、新たな取り組みをしていくつもりです。
 今日の授業に私が持って行ったツールは、iPhone と iPad でした。次回は、さらにMacBook Air も持って行くもつりです。
 
 
 

2012年4月12日 (木)

江戸漫歩(53)散り初めた葉桜がいい

 京都は今、ソメイヨシノが満開です。
 東京は京都よりも少し暖かいせいもあってか、そろそろ散り初めています。

 隅田川沿いを朝の散歩に出かけました。
 散りだしたソメイヨシノ越しに、スカイツリーを見晴るかしたところです。
 
 
 
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 隅田川の右岸沿いに、花弁が川面をたゆたっています。
 ボートが通る度に、ゆらゆらと円弧を描いたりジグザグになったりします。
 
 
 


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 立川まで行くと、まだ桜は満開を保っています。
 
 
 
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 お江戸の桜は、今週末までのようです。
 新しい年度のスタートを実感させてくれる桜は、新年の梅とともに日本の文化を育んできた自然の営みを視覚的に教えてくれているようです。
 
 
 

2012年4月11日 (水)

井上靖卒読(135)「海水着」「青いボート」「落葉松」

■「海水着」
 ショートコントです。
 ショウウインドウの中での夏と海辺での夏。仮想と現実を対比させる中で、人間の気持ちの変化を描いています。
 2人の男女のこれからが、さらに知りたくなります。
 最後に、目の前の風景が遠景となっていくことが、この2人のこれからを暗示しているかのようです。
 私は、2人がこれから急接近すると見ました。果たしてどうでしょうか。【3】
 
初出紙:青年新聞
初出年:1952年8月5日
 
井上靖全集3:短篇3
 
 
■「青いボート」
 別れを決意しての中禅寺湖への旅。それでも迷いがあり、決断をゲームにした女は、1人で湖面を漕ぎ出すのです。
 女がそのまま東京に帰るのか、それとも男の許へ引き返してくるのか。
 私の読みは外れました。
 女の若さと、井上が若い時の作品であることを考えると、納得できる結末です。しかし、晩年の井上なら、この逆の結果もあり得ると思います。
 それだけ、人の気持ちは不定である、ということでしょうか。【4】
 
初出紙:産業経済新聞
初出日:1952年8月17日
 
井上靖全集3:短篇3
 
 
■「落葉松」
 同じ頃に書かれた前作「青いボート」の姉妹編と言えます。2人の男女の背景は、まったく異なりますが。
 中禅寺湖行きのことを挟んで、女の男性遍歴と男の心の動きが克明に語られています。
 話としては雑談となっていて、散漫な印象が残りました。【1】
 
初出誌:別冊文藝春秋
初出号数:1952年8月29号
 
角川文庫:楼門
角川文庫:花のある岩場
井上靖小説全集10:伊那の白梅・大洗の月
井上靖全集3:短篇3
 
 
〔参照書誌データ〕
 井上靖作品館
 http://www2.plala.or.jp/baribarikaniza/inoue/
 
 
 

2012年4月10日 (火)

井上靖卒読(134)「白い手」「仔犬と香水瓶」「贈りもの」

■「白い手」
 北国の高校の柔道部における20年ぶりの同窓会で、戦時中のことを思い出します。
 戦死した2人の友のことを思うにつけ、あの当時が一番すばらしかったと思います。
 実話を語っているようです。20年前のことを、男4人で友情を温め合った時へとタイムスリップです。マドンナ役の李花子の登場は、井上靖の作品によくあるパターンです。純粋な青春時代の一頁となっています。
 友との信頼が、話の背後にしっかりと根を張っています。人間の温かさがよく描けています。【3】
 
初出誌:オール読物
初出号数:1952年6月号
 
井上靖全集3:短篇3 
 
 
■「仔犬と香水瓶」
 天川風子(あまがわかぜこ)という一風変わった絵描きがおもしろく語られます。山脇は大学の美学教授。2人の男の変わった一面がぶつかるところがおもしろいのです。ただし、この作品が描こうとしているものが見えてきません。人間の持つ、一味違った人間味を描き残そうとしたのでしょうか。よくわからない男の世界です。妻の杉子だけが常識人のようです。【1】
 
初出誌:別冊文藝春秋
初出号数:1952年6月28号
 
文春文庫:貧血と花と爆弾
井上靖小説全集4:ある偽作家の生涯・暗い平原
井上靖全集3:短篇3
 
 
■「贈りもの」
 時計をめぐって、夫婦の心のありようが浮き彫りになります。お互いが相手のことを思いやって10年。思いがけない事態で、あらためて2人の心が照らし出されました。その描写が巧いと思います。真物ということが話を引っ張っていく、最適な一コマが語られています。
 この作品は、読売新聞の「コント・コンクール」で、読者の投票によって第1位を受賞しました。
 読売新聞に発表してから、『井上靖全集』に初めて収録された作品です。【4】
 
初出紙:讀賣新聞
初出日:1951年6月9日
 
井上靖全集3:短篇3
 
 
〔参照書誌データ〕
 井上靖作品館
 http://www2.plala.or.jp/baribarikaniza/inoue/
 
 
 

2012年4月 9日 (月)

読書雑記(48)高田郁『夏天の虹-みをつくし料理帖』

 高田郁の文庫書き下ろしによる「みをつくし料理帖」シリーズの第7作(時代小説文庫・ハルキ文庫、2012.3.15)です。
 
 
 
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 高田郁の「みおつくし料理帖シリーズ」は、春と秋の年2回の刊行が楽しみです。今年も、第7弾が先月に出ました。
 しかし、巻末の「作者からひと言」によると、「長年温めていた題材が時の経過とともに失われていくことを危惧し、その取材と執筆に専念させて頂きたいのです。」という理由で、今秋は休刊になるそうです。
 さらに心躍る物語になることを期待して、来春の第8弾を待ちたいと思います。

 さて、本作について、感想を記しておきます。
 
■「冬の雲雀――滋味重湯」
 道は一つしかありません。小松原の理解を得て、澪は武家の嫁入りではなくて、料理人の世界を生きる決断を下しました。
 大人の理性が前面に押し出されています。情は、押し留められたまま、善人たちの物語が続いていきます。
 自分勝手な判断と小松原の思いやりに満ちた態度。その狭間で思い悩む澪。自力で立ち直る澪に、春が重なっています。
 本話では、ご寮さんである芳の存在が、苦境の中にいる澪を救っています。【3】
 
 
■「忘れ貝―牡蠣の宝船」
 一つの料理が完成するまでの苦心を、作者が語る内容を共にしながら読み進むことになります。
 話は、澪の恋に収斂していきます。ただし、話の展開がぎこちなく、盛り上がりに欠ける作品となっています。
 次への繋ぎとして読み終えました。【2】
 
 
■「一陽来福―鯛の福探し」
 匂いと味がわからなくなった澪。又次がそれを献身的に助けます。気心の知れた仲間が力を合わせて、急場を凌ぐことになりました。
 それにしても、料理人にとっては致命的な事態の設定です。作者の物語る苦心も伝わって来ます。
 前作あたりから、月が顔を出すようになりました。心情と情景の転換を、この月に負わせようとしているかのようです。話が暗くなっていることも影響しているようです。
 精進を重ねれば、真っ青な空が望める、ということを信じて、澪は前を向いて生きていくのです。
 この作品は、後半の鯛の福探しの話だけで独立しそうです。それだけ、話の作り方が複雑になってきたということでしょう。
 それに伴い、これまで作者は、個人の行動や感情をうまく描出し、感動的な話を語ってきました。それが、この作品では、集団の動きが描けるようになったと思います。描写力に加えて、筆力と描き分けが巧みになったからでしょう。集団が描けたのは、私の知る範囲では井上靖の戦国ものです。この作者の進歩は、今後の作品をさらに楽しみにしてくれます。【3】
 
 
■「夏天の虹―哀し柚べし」
 人との別れを語ることが多いこの作者。情の掛け方が巧く抑制されてきて、爽やかさが伝わってくるようになりました。この適度なバランス感覚がいいと思います。
 また、添景としての月や星も効果的です。ここでは後半の燕の雛の様子など、話題に絡ませながら演出に活用しています。
 末尾での吉原炎上は圧巻です。作者が描写力を身につけたことを、ここでも確認できます。迫り来る火の粉が眼前に見えるような迫力が伝わってくるのです。
 幼馴染の野江の髪が焦げた匂いで嗅覚が戻った澪は、新たな物語世界に突き進んで行きます。
 これまで情に訴えることにかけては高く評価していた私は、この火事場を描き切った作者の急成長を、こうした場面の描写を通して確認することができました。
 さらなる完成度の高い作品が書かれることを、楽しみにしたいと思います。もっとも、今夏はお休みとのことなので、来年の春3月までのお預けです。【5】
 
 

2012年4月 8日 (日)

京洛逍遥(223)お花見と御所の一般公開-2012春

 待ちわびた春の陽気に誘われて、風の冷たさが心地よい賀茂川縁を散策しました。

 ご近所の琵琶湖疎水通りでは「お花見 下鴨 さんぽっぽ」というまち作りフェスティバルをやっていました。
 
 
 

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 満開の桜の下で、野点釜のお薄を一服いただきます。和菓子の桜餅と三色団子は、写真左の笹屋吉清のものでははなくて、下鴨中通りの和菓子屋さんのものでした。
 笹屋吉清の桜餅は、昨日自宅でお茶を点てた時にいただきました。2枚の桜の葉で包んだもので、道明寺餅も粘りがありました。近くに和菓子屋が多いので、いろいろな楽しみがあります。
 京都府立大学ギターマンドリン部などの花衣コンサートもありました。

 賀茂川の両岸では、いくつか桜の花が咲いていました。
 
 
 


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 鷺や鴨たちも水が温みだしたのを楽しんでいるようです。
 
 
 
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 上賀茂神社まで上っていくと、社前の芝生ではチャリティーバザーをやっていました。
 
 
 
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 賀茂川を下り、最終日だった御所の一般公開に足を向けました。
 今回は、紫宸殿の前の庭が、承明門のある南の方に広く張り出すようになっています。これで、紫宸殿全体が写真に撮れるようになりました。細かな心配りに感謝します。
 
 
 
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 毎年春秋の一般公開では、さまざまな道具や人形が展示されるので、有職故実のいい勉強の場にさせていただいています。
 今年は、馬具が出ていました。
 
 
 
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 内親王の板與は初めて見ました。
 
 
 
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 御所の桜もみごとでした。背景の松と配色がいいと思います。
 
 
 
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 帰りに、ユキヤナギの陰を借りて、出町柳の仕出し屋さんで買ったお総菜でお昼にしました。
 
 
 
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 天気のいい日には、こうして川中の鷺や鴨たちを見ながら、河原でお総菜を食べています。今日はポカポカとして、まさに行楽気分でした。

 この下鴨の川縁から植物園前の半木の道の桜並木が満開になるのは、次の週末のようです。
 桜のトンネルを見上げながらの賀茂川散策を、今から待ち遠しい思いでいます。
 
 
 

2012年4月 7日 (土)

科研の報告書に製本ミスが見つかる

 4日前に、「今西科研の報告書と正徹本のデータ」(2012年4月 3日)という記事を書きました。そこで紹介した報告書に関して、製本の不備が見つかりましたので、取り急ぎお知らせします。

 当該報告書の表紙はこのようなデザインです。
 
 
 
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 そして、今は1冊だけですが、表紙をめくると次の頁から中程までの印刷が、上下逆転しているものがあるとの報告を受けました。大至急私の手元に返送していただき、私の方でもこの事実を確認しました。

 表紙をめくった最初の扉が、まず次のように逆転しています。
 
 
 
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 しばらくは逆転したものが順番に印刷され、ちょうど真ん中の60頁と61頁を境にして、この逆転現象が正しい状態にもどります。
 
 
 
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 60頁のノンブルが上にあり、61頁のノンブルが下にあることから、この状態が確認できると思います。
 つまり、印刷ミスではなくて、製本ミスのようです。

 とすると、このような報告書は、この1冊だけだとは思えません。

 3月の末に、この科研に関係する研究分担者、連携研究者、そして研究支援をしていただいている先生方と公的な機関に、約120冊ほどを郵送しました。今回は、その内の1冊に不備が見つかったのです。

 大急ぎで、残部と手元の冊子を確認したところ、このような不備のある報告書は1冊も見つかっていません。ということは、先月末に発送した中にだけ、何冊かは不備があると思われます。

 誠に申し訳ありませんが、お手元にこの報告書が届いている方で、このように頁が逆転した製本ミスのものをお持ちの方、もしくは所在をご存知の方は、大至急連絡をいただけませんでしょうか。実態と実数を知り、早急に取り替えの対処をしたいと思います。

 今日は週末なので、来週早々に印刷所にもこのような状況になっていることの報告と確認をし、原因を明らかにしたいと思います。

 印刷済みの報告書が納品された段階で、冊子の中身を確認しました。発送前にも、背表紙裏にDVDを貼り付ける作業をする過程で、バラバラと中に目を通したつもりです。しかし、実際に1冊は明らかに不備があります。

 予想外のこととはいえ、ご迷惑をおかけした機関および研究者の方々からの連絡を待つしかありません。
 ご協力の程を、どうかよろしくお願いいたします。
 
 
 

2012年4月 6日 (金)

江戸漫歩(52)咲き初めた深川と立川の桜

 今年は、桜の開花が例年よりも遅いようです。京都も東京も開花宣言がなされました。しかし、まだ蕾が目立ちます。明日、明後日あたりには満開となるところが多くなることでしょう。

 通勤途中で、桜をカメラに収めました。
 宿舎に近い黒船橋から中央大橋を望みました。
 
 
 
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 お江戸深川のさくらまつりには、この大横川の両岸から桜が枝垂れかかって、川面が桃色に変わります。
 今はその賑わいを、ひっそりと待っているところです。

 立川の職場へは、いつもはモノレールかバスを使っています。しかし、この桜の季節になると、立川駅から歩いて通勤します。20分ほどでしょうか。
 
 
 
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 自治大学の南側の通りでは、もう相当花が開いています。
 ここは、桜のトンネルになるので、毎年ここを歩くのが楽しみです。
 
 
 
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 6月末から、娘のお婿さんがこの自治大学に3ヶ月ほど勉強のために来ることになっています。今は通信教育でたくさんの宿題を課せられて大変だとか。
 気の置けない人なので、気楽に立川あたりで飲んだり食べたりできることが、今から楽しみです。
 本人と娘は、連れ回されることを警戒しているようです。手厚く歓待しましょう。妻は、お弁当を二つ作ってあげようか、などと言って、これまた楽しみにしています。

 今年も桜が忘れずに咲いてくれたことに感謝しています。
 最近の関東地方を含めての太平洋岸は、地震や津波や放射能のことで、何かと心がザワザワとしています。

 私のいる宿舎は、東京でも一番危険だと言われている地域にあります。隅田川の河口なので、地震もそうですが津波で一欠片もなくなる可能性が危惧されています。今、5階建ての2階に住んでいます。

 宿舎はもう老朽化しており、立て替えを待っているところでした。なにしろ、恩師伊井春樹先生が国文学研究資料館の設立当初である1972年から10年間お住まいになっていた、そこに今私が住んでいるのです。40年前のままの建物なので、確かに地震にも津波にも抗える足腰は備えていません。やっとのことで建っている、という状態です。

 押し入れの柱が相当沈み込んでいて、襖を開ける時は渾身の力が求められます。というよりも、なるべく開けないようにしています。そうかというと、押し入れの上段の襖は、支えがないとハラリと落ちてきます。そんな状態の住まいに急遽耐震補強工事がなされるのでは、というニュースが入ると、解体して立て直すだけの時間すら待てないのかと、不気味さで心穏やかではなくなります。それだけ、危険が身近に迫っているのだ、ということを、こうした話題を耳にするたびに実感しています。

 週末の京都行きは、疎開という意味合いが濃くなってきました。
 今日は何かと忙しいこともあり、これから夜行バスで一路京都へと帰洛の途につきます。
 ただし、名神高速道路は東海道沿いの道です。そこを走るバスなので、危険地帯と言われる地点を移動するリスクから逃れられないことは同じです。しかし、ジッと待つよりも、西の方角へ身体を平行移動することに気分的な安心感があるのです。
 疎開ということばの意味が、しだいに我が事として感じられ出しました。
 
 
 

2012年4月 5日 (木)

『インド国際日本文学研究集会の記録』が出来ました

 私がインドへ通い続けて、早いもので10年になります。
 この間に、「インド国際日本文学研究集会」を毎年開催し、今年の2月で7回目となりました。そして、この第7回がファイナルセミナーとなったのです。

 そうしたことから、これまでの記録をこの時点で整理して、1冊の冊子を編集作成することになりました。それが、『インド国際日本文学研究集会の記録』(非売品、伊藤鉄也編、国文学研究資料館発行、2012年3月31日、全89頁)です。
 
 
 
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 「インド国際日本文学研究集会」は、インドのニューデリーを会場として開催し、日本文学に関する情報交換と研究報告を通して、日本文学の理解を深め研究成果の共有を目指すものとして実施されました。また、日本文学に関するこれからの研究者や理解者を育成するために、大学院生と学部学生の参加を強く促す性格を持たせていたことも特徴の一つでした。

 「インド国際日本文学研究集会」がスタートしたのは、平成16年です。ネルー大学のアニタ・カンナ先生とデリー大学のウニタ・サッチダナンド先生と共に、〈インド日本文学会〉を設立し、この研究集会の母体として運営実施してきました。その内容は、講演と研究発表および研究報告や共同討議、さらには学生たちとの交流イベントです。日本から、研究の最先端で活躍中の先生や大学院生を、毎年2、3人お連れしました。

 各回の内容は、次の一覧の通りです。
 
 
 
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 平成24年2月19日の第7回をもって本研究集会は終了しました。
 私が最初にインドへ行った年が、ちょうど日本インド国交樹立50周年を記念する年です。そして今年は、日本インド国交樹立60周年です。記念すべき年と重なったことになります。

 これまでに、国文学研究資料館からは今西祐一郎館長(第5回、第6回)、入口敦志(第1回、第4回)・青田寿美(第2回)・陳捷(第3回)・江戸英雄(第5回)・相田満(第6回)・神作研一(第7回)・山田哲好(第7回)・伊藤鉄也(各回)が訪印して、日本文学の実情を語り伝えてきました。
 また、総合研究大学院大学文化科学研究科日本文学研究専攻の大学院生5名(金時徳・七田麻美子・張培華・陳可冉・佐々木比佐子)も現地へ足を運び、研究発表と学生との交流をしています。
 さらに他大学からは、スティーブン=ネルソン(法政大学教授)・菅原郁子(國學院大學大学院生)・神田久義(國學院大學大学院生)も同行して現地で研究発表を行っています。
 多彩な顔ぶれが、インドの地で日本文学について刺激的かつ啓蒙的な研究発表をしてきたのです。

 本研究集会では、2つの点でインドの方々と共通理解を持つことを目指しました。
 まず、お互いが持っている情報を共有し、このような研究集会を毎年継続して実施するために協力・努力したことです。国際交流基金の派遣事業プログラムや国文学研究資料館と総合研究大学院大学等の海外派遣経費によって日本側の研究者が現地に赴き、直接インドの先生方や学生たちと最新の研究成果や文学研究情報を語り伝える機会を得たことは、非常に有益であったと思います。また、国文学研究資料館の主導のもとに、インドのネルー大学やデリー大学との主催・共催・後援によって継続的に実施できたことは、インドにおける日本文学研究の基盤作りにおいて貴重な成果となっています。

 研究集会には、各回50人から80人の参加がありました。ほとんどがインドの先生と学生です。
 本報告書はインドの地で開催された「インド国際日本文学研究集会」の全7回分の記録を、日本側の資料を基にして整理してまとめたものです。併せて、集会に参加して研究発表を行った日本側の教員と大学院生の〈コラム〉を、各回に配して編集しています。研究集会の内容とその雰囲気が伝わるように、写真も多数収載した構成となっています。海外の方々が読みやすいように、印刷した文字も大きめで、ゆったりと紙面を作成しました。

 本書はあくまでも、日本側からの視点でまとめたものです。いずれ、インド側の記録や先生と学生の〈コラム〉を総合した報告書がまとめられたら、と思っています。
 そのためには、もう少し時間をください。

 目次は以下のようになっています。


《平成16(2004)年度〜23(2011)年度版》

目   次

インド国際日本文学研究集会一覧(平成16年度〜平成23年度)
はじめに ─「インド国際日本文学研究集会」の記録を整理して─………… (3)
【第1回 平成16(2004)年度】………………………………………… (7)
  コラム(0)「国際交流基金から助成を受けた第1回」 伊藤鉄也……(13)
【第2回 平成17(2005)年度】…………………………………………(15)
  コラム(1)「インド・国際交流レポート」 青田寿美…………………(23)
【第3回 平成18(2006)年度】…………………………………………(29)
  コラム(2)「インドに響く琴の音」 伊藤鉄也…………………………(35)
【第4回 平成20(2008)年度】…………………………………………(37)
  コラム(3)「みたびインドへ」 入口敦志………………………………(41)
【第5回 平成21(2009)年度】…………………………………………(47)
  コラム(4)「研究集会と展示」 伊藤鉄也………………………………(53)
  コラム(5)「インドで感じたこと」 陳可冉……………………………(57)
  コラム(6)「インド春宵」 佐々木比佐子………………………………(62)
【第6回 平成22(2010)年度】…………………………………………(65)
  コラム(7)「野良牛の消えた街で」 相田満……………………………(69)
【第7回 平成23(2011)年度】…………………………………………(75)
  コラム(8)「犀の角のように」 神作研一………………………………(83)
  コラム(9)「はじめてのインド」 山田哲好……………………………(86)
おわりに………………………………………………………………………………(89)

 残念ながら、本書は少部数の印刷に留まっています。いずれインドの記録と合わせた形での報告書を考えていますので、今は国会図書館や国際交流基金などで閲覧していただくことになります。

 在インド日本国大使館、国際交流基金、ネルー大学、デリー大学をはじめとして、インドの研究者の方々、研究集会の会場運営を献身的に手伝って下さった学生諸君は、さまざまな形で研究集会開催に向けて取り組んでいただきました。心より感謝いたします。

 ひとまず、このような報告書が完成した、ということをここに記しておきます。
 インドと日本の関係者のみなさま。ご理解とご支援をありがとうございました。
 
 
 

2012年4月 4日 (水)

米国議会図書館蔵『源氏物語』の報告書(その2)

 昨年に続き、『米国議会図書館蔵『源氏物語』翻字本文 若菜上〜幻』(高田智和他編、国立国語研究所、平成24年3月30日、全192頁)が完成しました。
 これは、平成23年度の人間文化研究連携共同推進事業として実施された「海外に移出した仮名写本の緊急調査(第2期)」の報告書です。すでに本ブログ「米国議会図書館蔵『源氏物語』の翻字本文が第41巻「幻」まで公開されました」(2012年3月 5日)で紹介したものの冊子版です。
 
 
 
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 この冊子版には、翻字本文以外に、「擦消一覧」と「特殊表記による和歌一覧」が巻末に付いています。特に後者は、本写本の特色を窺い知る上で貴重な資料となっています。

 冊子とウエブの両面からの公開により、米国議会図書館本『源氏物語』の書写実態に迫りやすくなりました。書写されている本文は、特に異文を持つような写本ではありません。しかし、古写本という文字資料としての価値に加えて、文化史から見える社会的背景を見せるその存在意義において、有益な情報の公開になっていると思います。

 一つでも多くの『源氏物語』の写本の情報を公開することの意義は大きいと思います。
 今後とも、このデータの活用が望まれます。
 
 
 

2012年4月 3日 (火)

今西科研の報告書と正徹本のデータ

 昨日の記事の最後に記した、現在進行中の今西裕一郎・国文学研究資料館館長の科学研究費補助金・基盤研究Aの平成23年度の成果報告書が完成しました。
 
 
 
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 この科研では、写本に書かれた「仮名」と「漢字」がどのように写し分けられているのかという視点から、多くの写本の書承関係や位相の解明をめざしています。従来の異文研究の成果を継承しながら、「表記」に注目することにより、〈表記情報〉の分析に取り組んでいるものです。

 平成23年度の報告書となる『日本古典籍における【表記情報学】の基盤構築に関する研究 第1号』(今西裕一郎編、2012年3月31日)には、DVDが付録として添付されています。
 
 
 
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 これには、国文学研究資料館蔵『源氏物語』(正徹本)全巻の翻字と影印が収録されており、個人的な利用に限り自由に正徹本が画像閲覧と翻字検索ができるようになっています。
 収録されているデータは「01国文研蔵正徹本源氏物語(画像)」と「02国文研蔵正徹本源氏物語(翻字).pdf」の2種類です。

 少部数の印刷でもあり、広くは配布されていません。ただし、この収録データに関しては、平成24年度中に国文学研究資料館のホームページから公開の予定となっています。いましばらくお待ち下さい。
 
 
 

2012年4月 2日 (月)

源氏物語の本文に関する座談会

 豊島秀範先生が、科学研究費補助金・基盤研究Aで「源氏物語の研究支援体制の組織化と本文関係資料の再検討及び新提言のための共同研究」を立ち上げられたのは、今から5年前の平成19年でした。
 活動内容については、ホームページ「源氏物語の本文資料の再検討と新提言のための共同研究」に、その詳細が記録されています。
 
 
 
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 平成22年度で4年間の取り組みが終了したことを受けて、その成果や課題について関係者5人で座談会を行ないました。昨年師走の中旬でした。それが『國學院雑誌』(第113巻第2号、平成24年2月)に掲載されています。
 
 
 
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 タイトルは「〔座談会〕源氏物語本文研究の現状と課題」。
 豊島秀範先生が司会で、参加者は、渋谷栄一、田坂憲二、中村一夫、伊藤鉄也でした。
 それぞれに、この科研に関わって思うところを自由に語っています。
 参考までに、その小見出しを列記しておきます。


一 座談会を開くにあたって
二 源氏物語本文研究の状況
三 データベース構築上の問題
四 本文研究の四年間の成果
五 イタリアでの学会について
六 今後の研究課題
七 今後の方向について

 ここでは、『源氏物語』の研究における根本的な問題である物語本文について、現状が具体的な事例のもとに提示されています。そして、この四年間の成果と課題が、それぞれの発言から浮き彫りになっています。

 街中で容易に手にできる、活字化された『源氏物語』の本文を読んで研究をするあやうさを、この座談会の中から実感していただけたら、と思っています。そして、若い研究者にこそ、こうしたテーマに取り組んでほしいと願っています。

 この座談会は、35頁ほどの分量です。読みやすい語り口で進んでいるので、ぜひともこれから『源氏物語』を研究対象にしようと思っている若手に、一読してもらいたいと思います。

 なお、この科研でやり残したテーマの一部は、現在進行中の今西裕一郎・国文学研究資料館館長の科学研究費補助金・基盤研究Aとして取り組まれている「日本古典籍における【表記情報学】の基盤構築に関する研究」に、発展的に引き継がれています。これは、平成22年から26年度までの5年間実施される共同研究です。この研究会の様子は、本ブログでも報告している通りです。

 『源氏物語』の本文の問題は、今後ともさらに深く追究されるテーマとなっています。
 
 
 


2012年4月 1日 (日)

京洛逍遥(222)下鴨神社の桜と糺市

 下鴨神社の糺の森は、いつ来ても気持ちのいいところです。
 南口鳥居から楼門を見やるアングルが、私は大好きです。
 
 
 
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 また、そこから振り返って、表参道を南に向き直って見通すのも、糺の森の神々しさを実感できます。
 差し込む光も複雑に流れています。
 
 
 
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 娘の結婚式がここであってから、ちょうど1週間が経ちました。あの厳かな余香が、ここにはまだ残っています。
 あの日は蕾だった桜も、ようやく数輪が咲き出しています。
 
 
 
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 今日は、糺の森の馬場で、第16回の糺市(フリーマーケット)がありました。これは、4月と10月に開催されているものです。
 
 
 
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 昨日よりも一段と寒くなったせいか、人手は少ないようです。
 
 
 
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 最近は、神社仏閣での手作り市が盛んです。この下鴨神社では、第5回目の森の手づくり市が、今夏七夕の日に開催されます。
 ここから賀茂川沿いに、葵祭の行列と同じように北上したところにある上賀茂神社では、毎月第4日曜日が手作り市です。それに負けず劣らず、この下鴨神社でもたくさんの人が集まるようになりました。今日は寒すぎて残念ですが。

 世界遺産と自然の森の中での掘り出し物や一品探しは、本当に楽しいものです。
 今日は、小さな畳を6枚手に入れました。
 ちょっとした物を乗せるのに重宝します。帰ってからお薄を飲んだ時に、鳥居横の宝泉堂で買った和菓子「賀茂葵」と和三盆の干菓子を乗せてみました。入手した小振りの畳は、大きさが3種類あるので、いろいろと工夫ができそうです。
 
 
 


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 帰り道は賀茂川畔を歩きました。
 北山を臨んでも、桜はまだ固い蕾です。開花までは、あと3日はかかりそうです。
 
 
 
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2012年3月31日 (土)

小冊子『池田亀鑑』ができました

 鳥取県立図書館から「郷土出身文学者シリーズ(8)」として『池田亀鑑』(平成24年3月、55頁)が刊行されました。
 
 
 
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 内容は、以下の通りです。


はじめに
第一章
 一 池田亀鑑の資料収集 原 豊二
 二 池田亀鑑と教え子 小川陽子
 三 池田亀鑑の生涯─鳥取時代素描─ 伊藤鉄也
第二章
 一 亀鑑ゆかりの地案内
 二 池田亀鑑略年譜

 内容的には、『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」第1集』と重複するところがあります。しかし、こちらは鳥取県民のみなさんを意識した、わかりやすい内容になっています。
 鳥取県立図書館郷土資料課の渡邉仁美さんが、1年がかりで1冊にまとめてくださったものです。

 手にとってご覧になりたい方は、図書館(電話:0857-26-8155)に問い合わせてみて下さい。奥付には、「この冊子は1,200部印刷し、1部当たり500円です。」とあるので、頒布しておられるかと思います。
 
 
 

2012年3月30日 (金)

池田亀鑑の書簡から本文研究の背景を推測する

 日本近代文学館の館報(第246号、2012年3月15日)に、池田亀鑑の書簡が翻字とともに紹介されています。これは、「館蔵資料から=未発表資料紹介 佐佐木信綱宛書簡(三)」として掲載された記事の中で、新井洸の手紙に続いて列記されています。
 この資料については、浅岡邦雄先生(中京大学)のご教示により知りました。いつも、貴重な情報を教えていただき、感謝しています。

 さて、当館報に紹介されている池田亀鑑の書簡は、以下の8通です。


(1)昭和6年6月22日(封書、ペン書、便箋一枚)
(2)昭和10年12月17日(封書、墨書、便箋三枚)
(3)昭和13年10月7日(封書、墨書、便箋二枚)
(4)昭和15年8月12日(封書、墨書、便箋二枚、速達)
(5)昭和15年(推定)8月21日(封書、墨書、便箋四枚、速達)
(6)昭和16年3月29日(封書、墨書、便箋二枚)
(7)昭和19年5月28日(封書、墨書、方眼紙一枚)
(8)(不明)年4月25日(封書、墨書、巻紙、使い便、冒頭部の影印掲載)

 この中でも、(4)の手紙文に次のように書かれていることが、私の興味を惹きました。


(前略)昨日は御芳書たまはりまして忝く存じます 御下命の件早速調査を致しまして御報告申上げます あの箇所の異文も悉くご報告申上げます 何卒一両日の御猶予御願申上げます(後略)

 これによると、この返信を書いた前日の昭和15年8月11日に、佐佐木信綱から『源氏物語』の異文箇所についての問い合わせの手紙が来たようです。それについて、すぐに調べて回答すると言っているのです。

 次の(5)の書簡には、昭和何年かが記されていないようです。しかし、手紙全文が次のように書かれていることから、これは(4)を受けて池田亀鑑が『源氏物語』の本文を調べている内に、佐々木信綱からさらに書簡が届き、それに恐縮して調査結果の報告を記したものであることがわかります。
 最初に佐々木信綱から問い合わせがあってからこの返信まで、10日ほどが経過しています。


拝啓 只今は重ねて御手紙をたまはりまして忝く存じ上げます 御下命の件大変延引いたし申訳ございません 色々と調査いたしました処 青表紙本と河内本とは本文の異同はございませんが別本と申してをりますものが別紙の如く二様になつてをります
そこで青表紙本といたしまして東山御文庫御蔵の御物本 河内本といたしましてやはり東山御文庫御蔵の

伝慶運筆梅ケ枝巻(七亳源氏中)別本といたしまして甲類を近衛家本越中局筆 乙類を麦生鑑綱自筆本と定め写真に取りかゝりました処 東山御文庫本が引延しに失敗いたしましたので再三やりかへし やうやく物になりさうな処まで達しました 本日夕方には出来上るとのことでございますから出来上りましたら早速御とゞけに参上いたします 延引の」

段何卒御許し下さいませ
なほ東山御文庫本は正式な許可を得ましてフイルムにをさめましたもの近衛本も同様でございますから御自由に御使用下さいまして一向に差支なきものと存じます いづれ拝眉を得まして
  八月二十一日        亀鑑
 佐佐木先生 侍史」

青表紙本、河内本
 さかの御かと古万葉をえらひかゝせ給へる四巻
別本
甲類
 さかの御かと万えうしうをえらひかゝせ給へる四巻
乙類
 さかの御かと万えうしうをゑらひかゝせ給へりける四巻

 佐佐木信綱からもたらされた『源氏物語』に関する問い合わせは、現在一般的に読まれている『新編日本古典文学全集』(小学館)で見ると、第32巻「梅枝」で次のような校訂本文となっている箇所です。


嵯峨帝の、古万葉集を選び書かせたまへる四巻、(第3巻、42頁)

 おそらく佐佐木信綱は、嵯峨天皇が書写させた「(古)万葉集」が「4巻」となっていることについて、池田亀鑑に問い合わせたと思われます。
 この箇所について、池田亀鑑は諸本の本文の違いを調べて、それぞれの本文を引用しています。

 ここで気になるのは、「青表紙本といたしまして東山御文庫御蔵の御物本」と言っていることです。池田亀鑑が最善本とした高らかに宣言した「大島本」ではないのです。また、〈河内本〉としては同じく東山御文庫御蔵の「伝慶運筆本」(通称「七亳源氏」)を例示しています。

 この書簡は昭和15年8月のものです。
 この前後の『源氏物語』の本文関係の情報を整理しておきましょう。

 昭和7年11月に、「校異源氏物語」の稿本が完成したので、蒐集した資料の一部が東京大学で展観されました。その時点での底本は〈河内本(禁裡御本転写・室町時代)〉でした。
 そして昭和12年2月に、東京大学で開催された第2回目の〈源氏物語展覧会〉では、『校異源氏物語』の底本は「大島本」に変更されていたと思われます。
 さらに、昭和17年に刊行された『校異源氏物語』では、〈河内本〉から〈いわゆる青表紙本〉を代表するものと認定した「大島本」に、底本が一大変更となりました。

 こうした背景を考えると、昭和15年8月に佐佐木信綱への回答文の中で、池田亀鑑が「大島本」をまず取り上げていないのはどうしてでしょうか。この時点では、まだ「大島本」の整理が終わっていなかったと考えた方が自然ではないでしょうか。
 昭和17年には「大島本」を絶賛して『源氏物語』の最善本とするのですから、その前の昭和15年は、〈河内本〉としての東山御文庫蔵「御物本」から〈いわゆる青表紙本〉としての「大島本」へと大きく方針が転回したと見ることができます。

 とすると、昭和12年に東京大学で開催された第2回目の〈源氏物語展覧会〉で展示された『校異源氏物語』は、まだ「大島本」を底本とするものには切り替わっていなかった、と考えられます。その過渡期のものだった、と今は考えておきたいと思います。
 具体的なことは、今はまだわかりません。状況からしてそう考えられるのであって、このことはさらに調べます。

 上記書簡で、池田亀鑑は〈別本〉の本文が2種類あると言っています。
 〈青表紙本〉と〈河内本〉が「古万葉」とするところを、〈別本〉では「万えうしう」とし、その中でも「麦生本」には「て」があり、「給へりける」となっている、と言うのです。

 池田亀鑑が佐佐木信綱に示した本文を、今に伝わる写本で確認すると、次のようになっています。


陽明文庫本(『源氏物語別本集成』321617)
「さかのみかと万えうしうをえらひかゝせ給へる四巻/巻=くわん」

麦生本
「さかのみかとまんえうしゆうをゑらひてかゝせ給へりける四巻」

 「陽明文庫本」も「麦生本」も「みかと」となっていて、池田亀鑑が示した「御かど」ではありません。
 また、「麦生本」では「しゆう」となっていて、池田亀鑑の言う「しう」ではありません。

 どうやら、池田亀鑑が佐佐木信綱に提示した本文は、『校異源氏物語』として校合作業が進んでいた資料をもとにしたものだったようです。『校異源氏物語』の編集方針により、本文が他の本との表記に統一的に調整されたものなのです。
 つまり、この昭和15年の時点で、すでに『校異源氏物語』の作業は表記を統一するという方針で整理が進んでいた、ということが言えそうです。早い段階から、〈いわゆる青表紙本〉以外は、写本を正確に翻字したものとなっておらず、漢字かなや活用語の送り仮名などはおおまかにまるめてあったようなのです。

 ただし、その本文異同がある箇所の写真を、池田亀鑑は佐佐木信綱の元に届けようとしています。すると、この表記が正確でないことが明らかになります。池田亀鑑にとっては、こうした細かなことは作業チームの担当者に任せていたために、まだ気付いていなかったか、こうした些細なことには目をつぶっていた、ということなのでしょうか。
 よくわからないことが出来しました。このことも、さらに調べてみます。

 なお、「大島本」では、この箇所は次のようになっています。


さかの御かと古万葉集をえらひかゝせ給へる四巻/=ヨマキ

 つまり、池田亀鑑は佐佐木信綱に、〈青表紙本〉と〈河内本〉は「古万葉」という同じ本文を伝えていると報告しました。しかし、「大島本」は「古万葉集」となっているのです。
 このことからも、この昭和15年の時点では、池田亀鑑は「大島本」について全幅の信頼の元に『源氏物語』を代表する本文という認識を確たるものにしていなかった、と言っていいようです。

 また、昭和17年に刊行された『校異源氏物語』では、この「梅枝」巻の当該箇所は次のようになっています。


古万葉集─万えうしう陽麦阿桃
えらひかゝせ給へる─ゑらひかゝせ給へりける麦阿

 これは、上記の私の推測があながち外れていないことの証左となりそうです。

 さらに、『校異源氏物語』の「梅枝」巻の巻頭にあげられた諸本名は、〈青表紙本〉の最初に「御物本(東山御文庫御蔵)」、〈河内本〉の最初に「七亳源氏(東山御文庫御蔵)」、〈別本〉の最初に「陽明家本(近衛侯爵家蔵)」が置かれています。
 この配列の淵源には、昭和15年に池田亀鑑が佐佐木信綱宛の書簡で例示した『源氏物語』の本文を代表するもの、という意識が読み取れるようにも思われます。

 以上、いろいろな推測を交えて取り急ぎ記しました。
 さらに調べて、『校異源氏物語』が完成する背景の正確なところを、あらためて報告します。
 
 
 

2012年3月29日 (木)

送別会は前途を励まし合う場

年度末の今日、たくさんの方との別れがありました。

事務の方の定年は60歳なので、還暦を迎えたウサギの会のメンバー3人が退職です。一人は38年、もう一人は36年勤続という、組織を支えておられた仲間です。
 
教員では、3人が定年、2人が大学に転職です。

みなさん、これからの新しい人生が始まるためもあって、話も楽しく弾みます。お別れという湿っぽさは感じられませんでした。

それ以外にも、研究論文の目録をデータベース化するにあたり、さまざまな形で助けてくださった非常勤職員の3人にも、これまでの支援に感謝の気持ちを込めて心からお礼の挨拶をしました。直接顔を見て言葉に出して言うことは照れくさいので、うまく気持ちが伝えられません。しかし、助けられたことが多いので、本当に感謝しています。

また、今日までの勤務となった研究員の一人には、コーニツキ版データベースの文字入力のアルバイトに始まったこれまでの10年間、いろいろな局面で助けてもらいました。
私とはお別れですが、当人には新しい門出です。ますますの活躍を祈る気持ちで、それでいてとりとめもない言葉を交わしました。

みなさんに、うまく気持ちを伝えられなかったので、ここにあらためて感謝の念を記すしだいです。
 
仕事を頼むばかりで、細かな配慮が行き届かなかったことが心残りです。 
私も、ひたすら前を見て走りながらの日常だったので、ご寛恕を願うしかありません。

縁があれば、また一緒に仕事をしましょう。そして、 「まったく、もうしょうがないなぁ」と思いながらでも、これまで通り変わらぬ支援の手を差し延べてもらえたら幸いです。



2012年3月28日 (水)

日本の古典籍を分類するために

 鈴木淳先生が取り組んでこられた科学研究費補助金(A)による「総合目録における隣接領域の受容拡充と検索機能の整備のための研究」(平成20〜23年度)が、この3月で終了します。その最終回となる研究会がありました。

 今日は、古瀬蔵先生の「和古書データ分類ツリー表示プログラム」と題する研究成果の発表がありました。
 『国書総目録』の分類項目と、本科研で取り組んだ「日本古典籍分類表」の成果が容易に相互対比できるプログラムが出来たのです。

 発表を伺いながら、今から15年前のことを思い出していました。
 『CD-ROM 角川古典大観 源氏物語』のデータを作成していた時のことです。『源氏物語』の自立語すべてに、キーワードとしての分類語彙を付けるという、気の遠くなるような作業をしました。その時に、本日発表されたような仕組みの作業プログラムを仲間が作り、キーワード付けに活用しました。手作りながら、非常に重宝するものでした。

 あれから時間も経ち、コンピュータの利用環境は格段によくなりました。しかし、古典文学作品を分類するということにおいて、その判断はあくまでも人間がやることです。機械的にすべてはできません。したがって、分類作業と結果の確認は、コンピュータを使うといっても基本的なステップはあまり変わっていません。

 今回は、手作業で分類されたデータを違う角度から確認点検するためのものでした。『CD-ROM 角川古典大観 源氏物語』の場合とは、その性格は異なります。しかし、苦労した当時を懐かしく思い出しながら、文学研究に役立つこうした作業用のツールがいまだに共有できていない研究環境の立ち遅れを、あらためて痛感しました。

 いろいろな分野の方々との共同研究を通して、文学研究のためのデータ処理と活用に資するツールを集積していきたいものです。そして、それらを有効に生かした、複眼的で多視点から文学を読む環境作りの模索を、今後とも続けていきたいと思います。
 
 
 

2012年3月27日 (火)

コーニツキ先生の大きな夢

 ケンブリッジ大学のピーター・コーニツキ先生が来日されたので、データベースのことで打ち合わせをしました。

 現在、国文学研究資料館から「コーニツキー版 欧州所在日本古書総合目録」というデータベースを公開しています。これは、ヨーロッパ各国の図書館・美術館・博物館などが所蔵する「日本の和装本」の書誌・所在などの情報をデータベース化したものです。コーニツキー先生が調査・収集されたカードを、国文学研究資料館で整理・編集し、2001年11月からウエブ上に順次更新を重ねているところです。
 このデータベース作成に至る経緯については、「欧州所在日本古書総合目録について」をご覧ください。

 最初は、コーニツキ先生が手元の調査カードをコツコツとパソコン(Macintosh)に入力しておられました。同じマックユーザーという仲間意識から話が発展し、それをお手伝いすることでこのデータベース化が始まりました。先生とご一緒にケンブリッジで紙のカードを複写し、それを日本に持ち帰ってパソコンに入力する日々が続きました。

 当初はマッキントッシュをサーバーマシンにして、ファイルメーカーという市販のソフトウェアでウエブ上に公開していました。データも順調に増え、検索システムも徐々に立派なものになって、今の公開につながっています。

 例えば、このデータベースで『十帖源氏』という本がヨーロッパにあるかどうかを検索すると、イギリスの大英図書館に万治年間刊行の無刊記本がある、という情報がヒットします。
 
 
 
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 昨日までに、13,656件の書誌情報をアップしています。ケンブリッジ大学図書館にある原本の画像も、一部を公開しています。

 また、このデータベースは国文学研究資料館が公開している「日本古典籍総合目録」ともリンクしています。さまざまな角度からヨーロッパ各地にある日本の古典籍の情報が得られ、それが日本ではどこにある本と類似する本なのか、ということなどもわかります。

 今日の話の中で、まだ未調査のライブラリーがヨーロッパ中にあり、それらは図書カードに書かれているだけなので、その情報の収集と整理が大変だとのことでした。また、各種図書館や個人の蔵書家のもとには、カードなどにも記録されていない本もたくさんあるそうです。すでに調査を終えた所でも、その後に購入された日本の本も多いようです。
 こうした日本の古典籍について、方策を模索しながら今後とも調査する方法も相談しました。

 昨年末より、「北米日本古典籍所蔵機関ディレクトリ」という情報が国文学研究資料館のホームページから公開されています。これは、北米にある日本の古典籍に関する情報が一覧できるようになったものです。データの製作は、東アジア図書館協議会(CEAL)の日本資料委員会の元に組織された日本古典籍小委員会です。

 このアメリカの情報とヨーロッパの情報がうまく結びつけば、やがては世界中にある日本の和古書を確認できるサイトを構築することにつながります。それが夢の1つだと、コーニツキ先生は熱く語られました。

 さらなる詳細な日本の古典籍に関する情報を収集・整理し、多くの方々が利用できるデータベースに育てるお手伝いを、今後とも続けていきたいと思います。
 
 
 

2012年3月26日 (月)

それはないぞ、と思う時(1)

 日頃は何でもないことが、ある時これはどうも変だ、それはないだろう、と思われることがあります。
 そんなことをいくつか。

(1)新幹線の1両目に座っていた時のこと。
 新幹線に乗った早々、コーヒーが飲みたくなりました。目の前のテーブルの裏の車輌案内図に「自販機 6号車」と書かれていることに目が留まりました。さっそく6号車へ行くと、お茶と水の2種類だけでした。お茶があるなら、ついでにコーヒーと紅茶があっても、と思います。そんな時に限って、車内販売はまだ来そうにありません。
 揺れる車内の狭い通路を6輌分ほど歩いて、もと来た道を戻りながら、これが無駄足だったことをしみじみと感じました。
 
 
(2)郵便ポストを探して京都駅を彷徨いました。
 結局は駅の近くにはポストがないことがわかり、諦めて東京から投函することに決めました。宛先が京都市内だったこともあり、割り切れない思いです。
 京都駅の地下鉄とJRの改札口にいらっしゃった職員の方も、ポストの所在を聞いても要領を得ません。
 近鉄の乗り場までぐるっと回ったところ、その改札の方の説明で、今いる八条口の反対側の北口左手にある郵便局の本局か、南口の大通りを隔てたホテルの中にしかない、ということがわかりました。ポストのあるコンビニも、見当たりません。駅舎の敷地内には、郵便ポストはないのだそうです。以前はあったように思うのですが。
 本当にそうであれば、変な話です。設置しない、もしくは設置できない理由が何かあるのでしょうか。
 新幹線の改札を入ってから駅員さんに確認したところ、在来線の4、5番線ホームにあるのだそうです。乗り換え口でゲートを通過したい旨の説明をすれば行けるとのことです。しかし、それも面倒だし、時間をとるばかりです。
 京都駅の周辺を歩き回れば、郵便ポストはあることでしょう。意外なところにあるものですから。しかし、こんな時には、郵便ポストのためだけに時間を取る余裕を持ってはいません。ついでに投函する、という気軽な気持ちでいました。それも、京都駅ならと思ったのが甘かったようです。
 地下鉄を利用して京都駅に行き、EXカードで新幹線の予約をして乗車する場合は、特に注意が必要です。
 京都駅から郵便物を出そうとした時に、こんなこともあるのだ、ということを記しておきます。

(3)上記郵便ポストの続きです。
 東京駅の構内にも、駅員さんの話ではポストはないそうです。騙されているのかと思い、さらに聞いて回ると、やっと八重洲側の北口を出たコンビニの前にあることを聞き出しました。
 
 
 

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 確かにありました。しかし、何とも嘘っぽいポストです。悪い冗談でからかわれているとしか思えません。
 ただし、投函口の下に次のように書いてあります。


ご安心下さい。
本物のポストです!

 どうやら、これは本物のようです。
 投函しようとしたところ、店員さんが親切にも、このポストは午後3時までで、明日の朝9時まで集めに来ませんよ、とのことです。
 そして、ここ以外には、やはり東京駅の構内にはないそうです。日本郵便は、徹底して駅の構内にポストを置く気はないようです。
 大通りの向こうに郵便局があるとのことで、東京中央郵便局まで行きました。しかし、ATMはあっても、午後5時を過ぎているせいか、郵便局の窓口のシャッターが降りているので手紙が出せません。それも、何とこの郵便局の周りにはポストが見当たりません。ぐるりと一周してもないのです。日本は、ポストが駅や郵便局や街中に置けない制度になったのでしょうか。
 しばらく東京駅周辺を散策し、八重洲通り沿いにやっと見つけました。もっとも、その時間はすでに最終便の午後6時40分が過ぎた時間でした。表示によると、明朝9時に来るようです。この調子ではさらに別の駅の郵便局の本局へ行っても無駄なようなので、その八重洲通りのポストに投函しました。
 いやはや、日本の郵便物の扱いは、どうなってしまったのでしょうか。早々とエープリルフールの悪戯を受けている気分になりました。
 
 
 

2012年3月25日 (日)

京洛逍遥(221)上賀茂神社の手作り市

 久しぶりに上賀茂神社の手作り市に行きました。半年ぶりです。
 出店の急増ぶりには目を見はります。境内の東端にまで拡がっています。
 
 
 
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 クッキーやパンなど、食べ物屋さんが増えたように思います。糖質制限食に取り組んでいる私には、無縁の店が多すぎてすぐに見終わります。

 文房具類が極端に少なくなり、私にとっては覗き込む店が限られます。ブックカバーなどの皮小物の店には興味があります。しかし、並んでいる品物に工夫が足りないように思います。
 これを果たして手作りというのか、首をかしげるようになりました。小銭稼ぎの出店がいくら増えても、手作り市とは名ばかりとなります。

 店が多くなることはいいことです。規模も大きくなりました。しかし、同じような店ばかりでは興味は半減です。意外な発見もなくなりました。手作り市の中身が希薄になっていくことは惜しいことです。骨董市とは異なる手作りの味を、もっと出してほしいものです。
 今後のさらなる展開を期待したいと思います。

 二ノ鳥居前の神馬舎では、今日も白馬「神山号」が元気な姿を見せていました。
 
 
 
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 いつもの穏やかな顔を見ていると、こちらもホッとします。
 
 
 

2012年3月24日 (土)

楽しくて美味しかった娘たちの結婚式

 娘たちが念願としていた下鴨神社での結婚式が、本日滞りなくお開きとなりました。

 受付には、友達からのプレゼントである縫いぐるみが置かれています。
 
 
 

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 午前中は雨が降っていました。尾形光琳の紅梅白梅図のモチーフとなった紅梅を背景に、雨が止むのをひたすら祈りました。
 
 
 
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 その願いが通じたのか、結婚式が執り行われる重要文化財である葵生殿に入る時には、雲間から日差しが漏れる好天となりました。さきほどまでの雨が嘘のようです。雨天、曇天、晴天と好転したことにより、参列者のみんなが心晴れやかになりました。
 
 
 
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 披露宴でのスピーチは、新郎側の主賓の挨拶だけという、一見非常にシンプルな式でした。しかし、新郎新婦の手作りのものが至る所に配されていて、心温まる中身の濃さに参列されたみなさんは満足しておられたようです。
 
 新郎新婦入場の音楽は、2人が大好きな曲「get along together」です。
 下鴨神社専属の二十弦箏奏者の島崎春美さんと、世界的なギタリストの山本幸二さんが編曲して下さったデュオでした。贅沢な生演奏でスタートです。

 新婦は、葵祭の御所車がモチーフとなった西陣織の色打掛で、手に持つ手毬のブーケと髪飾りは帝王貝細工という花で、花言葉は「永遠」。この帝王貝細工は、秋田からお出での新婦の伯母が、今日のために心をこめて栽培してくださったものです。

 テーブルの上には、これまた秋田の新婦従兄からのプレゼントで、自家栽培して製造したトマトジャム。もう一つは、新婦が去年留学していたフランスの婚礼菓子ドラジェが置かれていました。しかも、その包みは、どちらも神社らしい和の飾りで、日本の伝統が大好きな新郎新婦の手作りです。

 今日の食事は、京料理では別格の下鴨茶寮の会席料理です。この料理をみなさんに堪能してもらうためもあって、式でのイベントは最小限にしたとのことでした。
 私は、今日の料理を完食しました。おいしかったので、赤飯もご飯もいただきました。これは、すぐ後で抹茶をのむことがわかっていたので、食べても血糖値はそんなにあがらない、というこれまでの傾向を確信していたからでもあります。

 そして、この日のメインイベントとでも言える、お茶のお点前となりました。
 今日は、立礼という形式でのお点前です。
 
 
 
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 本日のお抹茶は不肖私が選んだもので、京都寺町一保堂の「契りの昔」です。
 新婦は色打掛でのお点前は初めてということで、お茶の師匠である森田先生が横に控えてくださいました。
 
 
 
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 新婦がたてたお茶を、新郎が自分の両親に運びます。
 続いて、新婦両親には新郎がたてたお茶を新婦が運ぶ、という趣向です。
 
 
 

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 新郎新婦がお色直しのために退席している間は、祇園の舞妓さんが京情緒たっぷりの祝舞を舞ってくださいました。

 新婦のお色直しのウエディングドレスは、私の妻の手作りで、ジムトンプソンのタイシルクを使って作ったものです。4日がかりで完成させ、昨夜は、徹夜で細かい調整をしていました。本当に心を込めて作ったドレスで、みなさんがその出来映えのみごとさに見とれておられました。また、よく似合っていました。

 ブーケも新婦が手作りし、同じ花で新郎とおそろい、また新郎父と新婦父のブートニアも娘のお手製でした。
 
 
 

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 あらゆるものが手作りで構成されていて、日本の伝統的な文化がふんだんに盛り込まれた披露宴会場でした。

 式が無事に終了してから、秋田からお越しのみなさんを我が家にお呼びしました。そして、私と義兄とで、披露宴で点てたお抹茶「契りの昔」を使って、お茶を飲んでいただきながら、わいわいがやがやと語り合いました。

 予定では、5人に私が点てることになっていました。しかし、なんと12名も集まったために、急遽お作法はいろいろと省略して、4つの茶碗をフル回転させてお点前をしました。
 
 
 
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 お菓子は、「えくぼ」という上用饅頭と「かも川」という大納言の砂糖菓子を用意しました。3日前に少し多めに予約していたので、大人数になっても事なきを得ました。

 その後は、みなさんが宿泊なさっている賀茂川畔の旅荘に会場を移し、結婚式を振り返りながら楽しい食事の一時を過ごしました。
 娘のスピーチが、お涙頂戴ではなくて、ことばを選びながら自分のことばで今の両家の両親に対する気持ちを素直に語っていたのに好感が持てた、と褒めていただきました。親として、これは嬉しいことです。淡々と語る中に、誠実さが伝わってきたそうです。思わず、巧まざる内容に感激で涙が出た、という状況だったようです。涙を誘わないスピーチを目指した娘にとって、1つの勲章のようなものです。よかった、よかった、との思いを強くしました。