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2007年6月の10件の記事

2007年6月30日 (土)

街で財布を拾うと

 拙宅の周りには、大学が4つあります。若者が多い街でもあります。
 買い物帰りに、道の真ん中に財布が落ちていました。男物で、学生証らしきものが見えました。困るだろうと思って、すぐ近くの交番へ持っていきました。
 お巡りさんは、財布の中身を丁寧に確認し、どこかへ2本ほど電話をして問い合わせた後に、ようやく書類作成に入りました。
 拾った時間や場所はもちろんのこと、私の住所などを記入した後に、謝礼を受けとる権利があるがどうしますか、と尋ねられました。いらない、と言うと、権利を放棄する旨を記入するのです。更に、落とし主からの連絡をどうするか、と問われたので、これもいらない、と答えると、その旨を記入し、最後にサインをして手続きは終わりです。
 だいたい10分ほどの時間を要したでしょうか。
 キャッシュカードやクレジットカード、さらには運転免許証や各種会員カードが入っていたので、この学生さんは財布をなくしたことに気付いたら大慌てでしょう。
 本人を特定できるものがたくさん入っていたので、おそらくすぐに本人の手元に戻るはずです。まさかになれば、大学の学生課を通して返せばいいのです。法的な問題はおいての話ですが。

 それにしても、拾得物を届けると、謝礼の権利や連絡の諾否を書類上で確認されるのですね。これこそ、法的な問題をクリアするための項目なのでしょうが、好意でチョッと届けたはずが、何やら難しい法の網の目の中を潜らされることに直面したのです。社会の仕組みが複雑になっていることを実感。ささやかなことから、その先にややこしいものが横たわっていることを垣間見ることとなりました。

 それはともかく、その学生さんの元に財布が戻ればいいのです。
 余計なことですが、何種類ものカードがあったので、恵まれた学生生活を送っている方なのでしょう。たくさん勉強をしてください。

2007年6月29日 (金)

相変わらずでたらめな佐川急便

 奈良から京都へと、引っ越しをしている最中のことでした。
 奈良の家のポストに、佐川急便からの「ご不在連絡票」というのが入っていました。毎週末に荷物を運ぶために平群へ行っていたので、おそらく行けなかったこの1週間の内に、荷物を配達しに来て入れて行かれたのでしょう。
 すぐに電話をして、京都に転送してほしいと伝えたところ、すでに日時がたっているので依頼者に返送したとのことでした。品物がよく知っている出版社からの献本のようでしたので、また送り直してくれるだろうと思い、そのままにしました。そして、奈良から荷物を京都に運んで帰ったその日の夜の8時に、何と佐川急便から以下のFAXが送られてきました。

 佐川急便(株)大和高田店

 いつもお世話になっております。
 再配達のご連絡をいただきましたが、「長期不在」の為お荷物はこちらでお預かりして居ります。
再配達は、20日以降のお伺いになりますのでご都合の良い日時を再度お知らせ下さい。
 よろしくお願い致します。



 わざわざ電話で再配達を依頼したら、勝手に東京の依頼者に返送したと言っておきながら、数時間後には奈良の大和高田店で荷物を預かっているから再配達の日時を知らせろ、ということなのです。支離滅裂です。
 その日に電話で対応した人の言葉を信じて、返送されたのであればそのうちにまた配達されるだろうと思って連絡しないでいました。ところが、翌週末に奈良の家へ行ってまたびっくり。またまた「ご不在連絡票」が入っていたのです。
 サインを見ると、配達に来た人は前回と同じ人でした。勝手に荷物と遊んでいろ、と思って放置していたところ、その後、突然でしたが京都の家に問題の本が配達されました。もう、わけがわかりません。佐川急便は荷物と戯れているとしか考えられません。

 以前にも、荷物を職場に転送してほしいと依頼したところ、いつまで待っても届きません。そこで電話で確認したところ、最初に配達することになっていた倉庫に1ヶ月近くも放置されていたことがわかりました。以来、佐川急便から届く荷物は受け取り拒否にしました。

 佐川急便は、相変わらず、いいかげんな荷物の扱いをしているようですね。

心身(2)体重激減の対処策

 私の体調は、体重が56〜57キロの時が一番いいようです。
 それが、今年の新年早々に雑務が立て込み、2月から3月は国内外の出張やイベントなどがギッシリと詰まった、今思い出してもゾッとするようなスケジュールをこなすことになりました。これで乗り切れるのか、という不安な日もありました。しかし、どうにか乗り切った3月末に、何と体重が7キロも減っていました。つまり、すんでのことで体重が50キロを切りそうになったのです。

 私は、18歳の時に十二指腸潰瘍穿孔性腹膜炎になりました。突然、十二指腸に穴が開き、腹膜炎を起こしたのです。発見が早かったので胃の3分の2と十二指腸などを切除することにより、一命を取り留めました。まさに奇跡だったようです。
 その時の医者が、もっと無責任に生きなさい、と言ったことと、45歳までか45年は生きられるでしょう、と言ったことを記憶しています。すでに45歳は過ぎたので、次の障害は当時から数えて45年後の63歳ということになります。これは、ちょうど私の定年の年です。
 我が人生については、63歳までという想定で来ています。これからの生活は最終章のはずだ、と意識しての今回の引っ越しでもあり、この予言の日が訪れるのを楽しみにしています。

 さて、この内臓の切除手術を受けた時は、体重55キロが40キロになりました。15キロも減ったのです。
 それに比べると、今回は7キロ弱の減なので大したことはありませんが、それでも50キロは切りたくありません。
 日ごろは1500キロカロリーに制限している食事も、血糖値を無視して、とにかく食べるようにしました。体重を増やして、体力をつけるためにも、いつも通っているスポーツクラブも熱心にやりました。体を動かして食べることにより、筋肉をつけようと思ったのです。太れない体質なので、筋肉を鍛える以外にないとの判断からです。あくまでも素人判断ですが、自分が納得してのことなので、こうしたことも続くのです。

 4月から少しずつ体重が増え、3ヶ月が経過した今は、52.5キロまで戻してきました。1月に1キロ弱なので、ほぼ計算通りです。この調子で秋口には、元の56キロまでにはしたいと思っています。ただし、夏であることと、血糖値を気にかけてのことなので、ゆっくりと少しずつにします。

 医者の治療方針に信頼を寄せられない理由があります。
 それは、私がインドに行くと必ず血糖値が下がることを、測定値を示して説明しても、科学的な根拠がないということで信用してくれないのです。自分で人体実験をして、それも5年越しでの検証成果を、医者はインドの食生活などを考慮することなく、治療の一環に取り上げてくれないのです。何が科学的なのか、非常に疑問に思います。
 以来、病院へ行くのはやめて、自力で克服しようとしています。無駄なことだと言う声も聞こえますが、今しばらくは続けてみます。

2007年6月28日 (木)

心身(1)水道のパイプと動脈硬化

 引っ越しをして1週間たった頃でした。台所の水道の水が、突然赤く濁りました。そして、しばらくすると水がまったく出なくなりました。蛇口を開放していると、大分たってから少しポタポタと出ますが、すぐに止まります。これは大変と、いろいろな所に電話をして、数日後に修理に来てもらいました。水道管が古くなっていたためだったようです。

 工事に来たおじさんは気さくな人で、いろいろと説明してくれました。
 流しを移動し、壁面を壊して、水道管を切り出していました。

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 切り取って外した水道管は、こんな具合になっていました。普段は見ることのないものなので、こうして見ると確かに全体が腐食しているのがよくわかります。

Byazn0cm_s水道管


 この切断面を見ると、管が錆などで詰まっているのが見えます。

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 この管の中を見て、人間の血管が詰まった状態を連想しました。
 私は、糖尿病といわれるものの境界値を彷徨っています。医者に言わせると、もう立派な糖尿病だそうです。しかし、私は毎日自分の血糖値を測ることにより、自己管理を続けています。医者の言う現代西洋医学に頼るのではなくて、しばらくは自分なりの方法で、自力でこの放浪生活を維持しようと思っています。
 私が使っている血糖値の測定器は、テルモの製品です。

Zvveapan_s測定器


 左下の道具で指に針を飛ばして少量の血液を出した後、右下の測定器に試薬のチップを付けて血糖値を測ります。
 私は、120から130位の数値の日が多いので、もう少し低い110を目指して食生活に気を配っています。1日1500キロカロリーに制限しています。夜は早く食事をして、10時以降はお酒を含めて何も食べないのがいいのですが、なかなか守れません。今も、お酒を飲みながらこうしてこのブログを書いているのですから、なかなか思うように改善しないのも道理です。とにかく、合併症を念頭に、酷くならないように気遣いはしています。

 さて、「動脈硬化」ということばを『広辞苑(第五版)』で調べて見たところ、こう書いてありました。

動脈壁にコレステロールが沈着して組織が壊され、壁が肥厚・硬化して弾力性を失い脆くなる疾患。中年以後に多く、高血圧・肥満・糖尿病などにより促進され、血流障害・血栓形成を伴い、心筋梗塞・脳出血・脳梗塞・腎硬化などを引き起す。


 まさに、我が家の水道管はこの症状だったのです。
 自分の身ではなくて、家の水道が警告してくれたものと思い、今後とも食生活に細心の注意を払いたいと思います。

 なお、お風呂の水も少し色がついているように思います。
 我が家のお風呂は天然温泉だ、とみんなで言って楽しんでいます。しかし、お風呂の水は口にしないものの、やはり気にはなります。
 知人に水中の鉄分を調べる試薬をもらってテストをしてみたところ、反応は無色だったので大丈夫のようです。すると、あの少し色味のある水は、どんな性質のものなのでしょうか。
 どなたかご存知の方がいらっしゃいましたら、家庭の水について教えてください。

2007年6月27日 (水)

確信犯(?)京都市交通局

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 電車に乗る時にプリペイドカードやICカードを持っていると便利です。乗る時にカードを使い、降りる時にそのカードを使えばいいのです。差し込むものもあれば、タッチするものもあります。
 あらかじめ行き先までの料金を調べる必要もないし、小銭を用意する必要もありません。乗客にわざわざ、見えにくい料金表を眺めさせ、駅名を探させられる方式は、年齢とともに大変な負担になりました。あれは、乗客に苦痛を強いるものです。地理と算数のお勉強の時間です。

 窓口対応を放棄した運輸業界は、カードの開発によって便利さを利用客に与えてくれました。感謝です。人件費の大幅削減にもなったことでしょう。その浮いた経費が何に使われているのかはさておき。
 もっとも、そのカードで買い物などの支払いができるのは、サービス過剰で余計なおせっかいです。カードは失ったり盗まれたりする可能性が大きいので、私はあまり1枚のカードを多機能にしないようにしています。

 さて、東京との行き来に京都の地下鉄を使うようになり、「トラフィカ京カード」というものを購入しました。
 これは、地下鉄のサービスコーナーのおばちゃんと話をしている中で、1割お得なプリペイドカードだということを教えてもらったからです。親切な関西のおばちゃんでした。
 普通、プリペイドカードは購入金額分しか使えません。生意気にもカード利用手数料として500円を取られるものもたくさんありますが……。

 上の写真を見ると、上段の「1割おとく」の下に「乗継割引適用」とあります。私は、これにまんまと引っかかりました。

 京都の市営地下鉄は、南部の竹田駅で近鉄に乗り継いでいて、そのまま近鉄西大寺駅を経由して近鉄奈良駅まで行けます。京都に引っ越ししたとはいえ、奈良の平群の家にまだ行くことが多いこともあり、これは便利だと、地下鉄の近鉄乗り入れ電車を利用しました。
 実際に、京都市内の地下鉄には、近鉄電車も乗り入れて走っています。ときどき近鉄の車両に乗り合わせると、これまでが近鉄電車を利用していた者としては、いま自分が京都にいることを忘れてしまいます。
 さて、私が乗った電車は、地下鉄竹田駅から近鉄に乗り入れ、西大寺駅まで行きます。そこで乗換え、さらに生駒駅で乗り換えて平群駅まで行きました。
 改札で乗り越し精算機にこの「トラフィカ京カード」を入れたところ、カードが違うというメッセージが出るのです。駅員に聞いたところ、このカードでは近鉄には入れないので、地下鉄の最終駅の竹田駅からの精算になる、とのことでした。

 そこで差額を払ったのはいいのですが、手元に返された「京カード」は、京都市交通局で磁気情報を書き換えてもらわないと使えない状態のままだ、とのことでした。そして、駅員がその旨の証明書を、ご丁寧にも手書きで発行してくれたのです。これを持って交通局へ行きなさい、と。
 どうやら、「乗継割引適用」というのは、地下鉄と市バスのことのようです。ややこしいカードです。

 地下鉄の線路は近鉄に繋がっているのに、そのまま乗ってしまうと手持ちのカードが使用不可能になってしまうとは……。
 何とお粗末な仕組みのカードでしょうか。
 後でカードの裏面を見たら、近鉄や京阪に乗り越したら「別途お支払いください」とは書いてありますが、「カードが使用不可能になる」とは書いてありません。また、表面隅下には本当に小さな文字で「他社線には利用できません」と書いてあります。
 鉄路は地下鉄と近鉄を繋いでいて、電車も行き来しているので、どこからが乗り越しなのかは、利用者にはわかりにくいことです。

 こんな紛らわしいカードは、即刻廃止してほしいものです。何でもカードの時代なので、京都市交通局の人が思いついたのでしょう。しかし、実情に合ったものを発行すべきです。そして、この人たちは認識不足です。ほとんどの利用者にはわからないだろう、ということで見切り発車による実施の裏には、迷惑を被る利用者が出ることは承知の上で、その被害者のパーセンテージが低いと見積もって、とにかく商品化を急いだものだと思われます。まさに、公的機関の確信犯です。そうでなければ、素人の鉄道マンです。
 京都の市バスへの悪評は世界的です。地下鉄もか、という思いを抱きました。

2007年6月26日 (火)

レンタカーでの引っ越し

 奈良から京都への引っ越しは、業者に頼まず家族5人でやり遂げました。家族みんなで何とかやり終えた、という達成感はありますが、やはり疲れました。毎週末を使って、正味1ヶ月もかかったのですから。

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 当初はそんな予定ではなく、引っ越し屋さんに頼むはずでした。しかし、見積りに来た人が、荷物の総量は8トンくらいで、2日間はかかるとのことだったのです。我が家は作り付けの家具が多かったので、そんなにあるわけがないと思い、自分でレンタカーを使うことにしました。実質、書籍だけなので、素人ながら、2トン車で2往復と読みました。しかし、これが大きな誤算でした。実際は5往復でした。プロの見積りは、ほぼ正確だったのです。脱帽。

 まずは、2トンのアルミバン車を借りてきました。バンにはオートマチック車がないとのことで、マニュアル車を数十年ぶりに運転することになりました。
 もうかれこれ30年も前のことですが、学生時代に新聞配達をしていた頃のことです。早朝午前3時に1.5トントラックのエルフを運転して印刷工場へ行き、刷り上がったばかりの新聞の梱包をトラックに山積みし、それを新聞販売店に置いて回っていました。その新聞の配送が終わってから自分が住み込んでいた店に帰り、それから自分が担当する区域に自転車で配っていたのです。私の受け持ち配達部数は450部でした。

 そんな経験があるので、久しぶりにクラッチを繋ぎながら走ることには抵抗がありません。もっとも、日ごろはオートマ車を両足で操作することに慣れているので、2本の足で3本のペダルを操作するマニュアル車の運転に戸惑いながらのスタートでした。すぐに慣れはしましたが、ギアのレバーもクラッチも重いために、本当に体力仕事でした。

 家具類を積んだ後、あらかじめ用意しておいた段ボール詰めをしたものを間に置きます。アルミバンの大きな箱の中に、荷物をジグソウパズルの感覚で詰めるのです。息子が、考え考え空間に置いていきました。ビッシリ詰め終わると、荷崩れを防止するために布団などで押さえ、後部のフタをして出発です。息子は、我が家の小さい車にワレモノを乗せて付いてきます。

 奈良から京都までは、高速を使っても2時間半の運転です。1日2往復することも可能では、との考えは、荷物を積むのに時間がかかることがすぐに分かって断念。そして、2日で2往復をしても、家の中から出てくる荷物が、あるはあるは。物を捨てきれない性分なので、運ぶものがだんだん多くなるのです。自分の思いきりの悪さに辟易する始末です。それでも捨て切れません。

 翌週も、アルミバン車をもう1回借りました。それでもまだ荷物があるのです。
 次の週は、屋根のない普通の1.5トンのトラックを借りたのですが、これまた1回で終わるはずが、さらにもう1回借りることになりました。

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 ということで、5回もトラックを運転するはめになったのです。
 私は結構おもしろがって楽しめたのですが、家族はもう懲り懲りだったようです。

 引っ越しを終え、電車で元の家の掃除に帰った時に、駅前の田んぼでは田植えをしていました。

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この光景に接し、奈良の田舎から京都へ行ったことを実感しました。

2007年6月25日 (月)

愛機たちとの別れ

 私は、パソコンの博物館ができるほど、さまざまなコンピュータ機器を保有していました。
 しかし、今回の転居を機に、それらも思い切って処分することにしました。何でもとっておく質なので、いつも妻から苦情を言われています。今回は、行き先が狭いことと、そろそろ人生の整理をする時期でもあると観念し、清水の舞台から飛び降りる気持ちで、半ばやけっぱちで捨てることにしました。

 コンピュータに関わって27年ともなると、いろいろなキーボードを持っています。その内でも、想い出の詰まった2つは断腸の思いがあります。

_ddnwy2y_s※キーボード


 写真の下段のものは、どうにかパソコンが使い物になる時代に、ひたすら叩き続けたキーボードです。MS−DOSの初期の頃です。
 上段はエプソンのPC互換機のキーボードです。キートップを色分けしているのは、データ入力と執筆に明け暮れていた痕跡です。独力で文学と情報処理に悪戦苦闘していた時期でした。孤軍奮闘の時代の遺物といえましょう。今のような時代が来ることを夢見ながら、熱く情報化の時代を語っていたように思います。あっけなく理想とする時代を迎えてしまいました。
 今は草分けと言われるようになってしまいましたが、自分なりに達成感を実感させる、若かりし頃を思い起こさせるキーボードです。

Epu0ov_q_s※マッキントッシュ


 ウインドウズと言われるものが出だしたころに、そのレベルの低さに呆れ返って、マッキントッシュの世界に移りました。ビジネスマシンからクリエイティブマシンへと移行したのです。
 マッキントッシュは、いろいろなものを次から次へと購入しました。そんなマックの一部です。処分する前に、通電して動くことを確認しました。健気にも、みんな元気にハローと挨拶をしてくれたことが嬉しくて、つい記念撮影をしました。
 手前のキーボードは、トラックパッドを手作業で組み込んだオリジナルです。ひたすら快適なものを求めていた頃の作品の一つです。これは、手をマウスに持ち変えることなく、スムーズなキー操作を実現するものでした。

Nd9fye1g_s※フロッピー


 フロッピーディスクも、いろいろとありました。私が最初に購入したのは、NEC製の5インチ判で、1枚が900円でした。
 写真には、8インチ、5インチ、3.5インチの、3種類のフロッピーが写っています。トータルで2000枚を超えるものを、今回処分しました。未開封のものが4割もありました。いろいろな思いでストックしていたのです。

Wag1ifah_s※プリンター


 レーザープリンターも、モノクロやカラーなどがありました。カラーレーザーは、重さが50キロもあります。2階から下ろすのに苦労しました。2階に上げる時の大騒ぎが、昨日のことのように思い出されます。家族みんなで押し上げたものです。
 モニタも、ブラウン管のものがたくさん残っていました。画像処理を手がけていたので、SONYのトリニトロン管のものばかりです。画質と色にこだわっていたことがわかります。

Jrajse_7_s※愛機群


 今回処分したものの一部を、車庫に並べてみました。各種ケーブル類も、500本を超えていたので、その重さは想像を絶するものがあります。よくもこれだけのものが我が家にあったものだと、しばし呆然です。
 これらは、回収業者に無料で引き取ってもらいました。もっとも、引き取れないものもあるとのことで、処分料を少し払うことになりました。
 業者のトラックにアップルのシールが貼ってありました。お主はマックユーザーか、と私は思わずニヤリ。垂涎の名機群を前にして、「こうした専門的な機器は売れなくて……」と言いながらも、お兄さんは内心ホクホクだったと思います。

本たちとの別れ

 引っ越しで本を処分するのはつらいことです。
 半分の量にしようと決意していたのですが、なかなか捨てられません。心残りな本は、表紙を剥がして中身がわからないようにして、あえて乱雑な形で縛りました。


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 回収業者に持っていってもらったのですが、たくさんの想い出のある本たちと別れるにあたり、ソッとシャッターを切りました。
 垣根越しのお別れです。

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 それにしても、荷物の整理がはかどりません。
 引っ越しに旧懐の情は禁物なのですが、どうもいけません。先が思いやられます。

引っ越しはピアノから

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 引っ越しは、娘が使っていたピアノを処分することから始まりました。今後は、電子ピアノで我慢するそうです。
 娘のピアノの演奏は、この部屋で、そして音楽会場で聞きました。一番印象に残っているのは、英国ヨークの知り合いの先生のお宅で、請われるままに弾いた「トルコ行進曲」と「月光」でしょうか。異国の地で聞く娘のピアノはいいものでした。



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 想い出の品物が去っていくのを見送るのは感無量です。
 誰かいい人に使ってもらえることを祈りながらシャッターを切りました。




 いままでピアノがあった所には、ピアノの足跡がシッカリと刻まれていました。ここからは、もう音色が聞こえてこないのかと思うと、過ぎ去った日々と今から直面する荷物の片づけを急ぐ気持ちが、複雑に交錯します。

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2007年6月24日 (日)

京洛からのことあげ

 多くの方々に読んでいただけた「たたみこも平群の里から」の終了を承けて、このサイトを通して、装いも新たに京都からの「折々のよもやま話」をお届けします。

 平成19年5月に、23年間過ごした大和から京洛の地に住まいを移しました。我が人生の最終章を、平安の都で閉じたいとの思いからの決断でした。

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 賀茂川畔を拠点として、さまざまな情報を思いつくままに記すことにより、私なりの存在証明の記録にしたいと思います。

 気分を一新してのスタートです。

NPO法人〈源氏物語電子資料館〉広報室より

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