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2009年10月31日 (土)

『源氏物語』では「標準本」と言うより「基準本」がいい

昨日10月30日の朝日新聞(朝刊)に、『源氏物語』の「大澤本」に関する記事があります(今日その一部の訂正がありました)。
その記事の中で、アレッと思うことばがありました。「標準本」というものです。
これは、現在一般に読まれている流布本のことをいい、〈いわゆる青表紙本〉のことを言い換えたことばとして使われています。
記事の中のカラー図解した部分では、「標準本では」とする標目の下に「(鎌倉時代前期 藤原定家校訂)」という補記があります。

通行の流布本のことを、マスコミなどが「標準本」と呼ぶのは、これが初めてです。
これまでは、「青表紙本」とか「大島本」とか「定家本」と言っていました。私は、これらについては、あえて〈いわゆる青表紙本〉とか〈活字校訂本〉と言い張ってきました。
今日の記事に端的に表れているように、「青表紙本」ということばを避けようとするのは、『源氏物語』の本文研究の成果の表れと言うべき現象で、歓迎すべきことです。
ただし、みんなで読む本を「標準本」というのはどうでしょうか。

私は、これまで通行の流布本を「基準本」と呼んできました。
『総研大ジャーナル』(2009年3月刊)に掲載された「『源氏物語』研究の新時代」などがそうです。
比較して考える上での拠り所であり、平均的な水準を満たした共通の本及び本文、という意味で「基準本」を使ってきました。「標準」ということばに、私は強い違和感を持つからです。

学生時代に、方言の研究で著名な平山輝男先生は、授業中に日本語について「標準語」ではなくて「共通語」ということばの方がいい、と仰っていました。「標準」ということばには価値判断が入っており、それ以外はよくないもの、という意味合いが引き出されるからだ、とのことでした。確かに「標準語」という言い方は、地方の言葉を低く見下した物言いになりかねません。「標準」には、「お手本」という意味が強く、理想的なものを求める感じがつきまとうことばです。
その意味では、「標準語」よりも「共通語」の方が、みんなの伝達手段としての言語を指す表現だと思います。

さて、みんなが読む『源氏物語』の本文を何と呼べばいいのでしょうか。
「標準本」には、規範的なニュアンスが強すぎます。それ以外を排斥する意味合いが含まれます。
といって、「共通本」では、何となく普通すぎます。

私は共通の『源氏物語』の本文を、「基準本」と呼んできました。
補助金などの申請書類には、4年前から「基準本」ということばを使って作成しています。みんなが読む上での「基準」にする本、という意味です。
これなら、立場によって自分が読む『源氏物語』の本文は何でもいいのです。「大島本」だとか、「陽明本」だとか、「池田本」だと言えばいいのです。そして、あくまでもみんなで共通に読むものとして、「基準本」を何にするかを確認しておけばいいのです。
その意味では、「大島本」を底本にして作成された校訂本文が、昭和から平成にかけての「基準本」だといえるでしょう。

『源氏物語』の本文に対する意識が、昨年から大きく揺れ動き出しました。『源氏物語別本集成』と『源氏物語別本集成 続』を20年以上にわたって刊行し続けてきた効果が、こうしてようやく見えだしたのではないかと、私は自分に都合のいいように理解しています。
昨日、「標準本」ということばを目にして、やっと「青表紙本」という理解の一端が崩れだしたことに快哉を叫びました。

さて、次は、「大島本」の校訂本文に続く「池田本」の校訂本文を提供することを、急がなくてはいけません。
『源氏物語』の「基準本」となるような「池田本」の整定です。
責任重大で、ますます忙しくなりそうです。と、本人だけでしょうが決意を新たにしているところです。
 
 

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NPO法人〈源氏物語電子資料館〉広報室より

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