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2010年2月の33件の記事

2010年2月28日 (日)

京洛逍遙(124)北野天満宮の梅花

 ポカポカ陽気に誘われて、北野天満宮まで散歩に行きました。

 重要文化財になっている東門に、あまりにも有名な菅原道真の

東風吹かば匂ひおこせよ梅の花
 あるじなしとて春を忘るな


の歌が掲げられていたので、意表を突かれました。
 
 
 
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あまりにも…、だったからです。

 東門を入ってすぐの明月舎の前に、手水鉢があります。
 そこに、参拝にあたっての手の清め方を図解で示しているものを見かけました。
 
 
 
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 つい忘れているお作法なので、さりげない説明は好感がもてます。

 そのすぐそばでは、紅梅と白梅が幹を同じくして咲いていました。
 
 
 
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 接ぎ木によって出来たものでしょうが、なかなかみごとでした。

 中門(三光門)と絵馬所の間に咲きにおう梅の中でも、この紅白の枝垂れ桜は人目を引いていました。
 
 
 
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 この日は梅苑に入らなくても、境内に咲く50種類、約1,500本の梅だけで、十分に梅の香を堪能できました。

 梅には爽やかさが感じられるので好きです。
 
 
 

吉行淳之介濫読(0)作者紹介

 吉行淳之介は、1994年(平成6年)に71歳で亡くなりました。
 1954年に、『驟雨』で第31回芥川賞を受賞しています。
 遠藤周作、安岡章太郎、三浦朱門と共に、「第三の新人」の一人として脚光を浴びました。

 私は、高校生だった40年前に『浮気のすすめ』というエッセイ集で知り、以後その他の作品のすべてを読破しました。

 父は、ダダイズムの作家・詩人の吉行エイスケ、母は美容師の吉行あぐり、妹に女優の吉行和子と詩人の吉行理恵がいます。
 母のあぐりについては、1997年のNHK連続テレビ小説「あぐり」のモデルで知られるようになりました。

 女優宮城まり子との関係もあり、静岡県掛川市にある社会福祉施設ねむの木学園の敷地内に吉行淳之介文学館があります。

 私生活については、愛人だった大塚英子が『暗室のなかで 吉行淳之介と私が隠れた深い穴』(河出書房新社、1995年)で、同じく高山勝美が『特別な他人』(中央公論社、1996年)で、そして宮城まり子が『淳之介さんのこと』(文藝春秋、2001年)で、本妻の文枝が『淳之介の背中』(新宿書房、2004年)で、それぞれ吉行淳之介のことを赤裸々に語っています。

 参考までに、著作物の中から小説の一覧をウィキペディアから引いておきます。
 この他に、随筆や対談が多数あります。

『星の降る夜の物語』 作品社、1954年

『驟雨』(『薔薇販売人』を含む) 新潮社、1954年、のち『薔薇販売人』は角川文庫

『漂う部屋』 河出新書、1955年

『原色の街』 新潮社、1956年、のち『原色の街』『驟雨』は新潮文庫。向島の赤線地帯、鳩の街が舞台(現在新潮文庫に入っているものは芥川賞候補になった『原色の街』と『ある脱出』を組み合わせ、加筆訂正したもの)。

『焔の中』 新潮社、1956年、のち中公文庫、旺文社文庫

『悪い夏』 角川書店、1956年、のち角川小説新書

『美女哄笑』 現代文芸社、1957年、のち新鋭作家叢書、『がらんどう』は中公文庫

『男と女の子』 講談社、1958年、のち中公文庫、集英社文庫

『二人の女』 平凡出版、1959年

『すれすれ』 講談社、1959年–60年、のち角川文庫、光文社文庫

『娼婦の部屋』 文藝春秋新社、1959年、のち角川文庫、新潮文庫、光文社文庫

『風景の中の関係』 新潮社、1960年、のち『鳥獣蟲魚』は旺文社文庫

『街の底で』 中央公論社、1961年、のち角川文庫

『闇の中の祝祭』 講談社、1961年、のち光文社文庫、角川文庫、光文社文庫。妻と恋人との間で振り回される男の姿を描いた作品。当時の宮城まり子との恋愛からディテールを構成したため「女優との交際の告白」として物議をかもした。のち『春夏秋冬女は怖い』で事実だと書いている。

『コールガール』 角川書店、1962年、のち角川文庫

『札幌夫人』 集英社、1963年、のち集英社文庫

『雨か日和か』 講談社、1963年

『花束』 中央公論社、1963年、のち中公文庫

『女の決闘』 桃源社、1964年

『ずべ公天使』 集英社、1964年、のち『にせドン・ファン』は角川文庫

『砂の上の植物群』 文藝春秋新社、1964年、のち新潮文庫

『夜の噂』 朝日新聞社、1964年、のち新潮文庫

『痴・香水瓶』 学習研究社・芥川賞作家シリーズ、1964年

『吉行淳之介短篇全集』全5巻  講談社・ロマンブックス、1965年

『不意の出来事』 新潮社、1965年、のち『娼婦の部屋』『不意の出来事』は新潮文庫。新潮社文学賞受賞。

『技巧的生活』 河出書房新社、1965年、のち新潮文庫

『怪盗ねずみ小憎』 講談社、1965年、のち『鼠小僧次郎吉』は角川文庫

『唇と歯』 東方社、1966年、のち角川文庫

『赤い歳月』 講談社、1967年

『星と月は天の穴』 講談社、1967年、のち講談社文庫、文芸文庫

『美少女』 文藝春秋、1967年、のち新潮文庫

『女の動物園』 毎日新聞社、1968年

『暗室』 講談社、1970年、のち講談社文庫、文芸文庫。谷崎潤一郎賞受賞。

『浅い夢』 毎日新聞社、1970年、のち角川文庫

『小野小町』 読売新聞社、1970年、(小説選書)

『吉行淳之介全集』全8巻  講談社、1971–72

『裸の匂い』 ベストセラーズ、1971年、のち集英社文庫

『湿った空乾いた空』 新潮社、1972年、のち新潮文庫

『一見猥本風』 番町書房、1973年、のち角川文庫

『猫踏んじゃった』 番町書房、1973年、のち角川文庫

『出口・廃墟の眺め』 講談社文庫、1973年

『鞄の中身』 講談社、1974年、のち講談社文庫、文芸文庫。読売文学賞受賞。

『赤と紫』 角川文庫、1974年

『吉行淳之介自選作品』全5巻  潮出版社、1975年

『子供の領分』 番町書房、1975年、のち角川文庫、集英社文庫

『童謡』 出帆社、1975年、のち集英社文庫

『怖ろしい場所』 新潮社、1976年、のち新潮文庫

『牝ライオンと豹』 角川文庫、1976年

『吉行淳之介エンタテインメント全集』全11巻  角川書店、1976–77

『寝台の舟』 旺文社文庫、1977年

『鬱の一年』 角川文庫、1978年

『夕暮まで』 新潮社、1978年、のち新潮文庫

「夕ぐれ族」の語源。社会現象となった。野間文芸賞受賞

『菓子祭』 潮出版社、1979年、のち角川文庫、講談社文芸文庫

『堀部安兵衛 黒鉄ヒロシえ』 集英社文庫、1980年

『百の唇』 掌篇小説選、講談社、1982年

『夢の車輪 パウル・クレーと十二の幻想』 掌篇小説集、文藝春秋、1983年

『吉行淳之介全集』全17巻 別巻3巻  講談社、1983–85年

『目玉』 新潮社、1989年、のち新潮文庫

『吉行淳之介全集』全15巻  新潮社、1997–98年

『悩ましき土地』 講談社文芸文庫、1999年


 
 
 

2010年2月27日 (土)

京洛逍遙(123)京竹工芸のバッグに惚れる

 岡崎公園の中の京都市勧業館「みやこめっせ」の地下一階に、「京都伝統産業ふれあい館」があります。
 ここでは、伝統工芸職人の実演が行われています。
 昨年の初夏に「舞妓舞台」を紹介しました。

 「京洛逍遙(84)みやこめっせで公卿と舞妓」

 これは、今も毎週日曜日に、舞が披露されています。

 その奥で、京竹工芸の制作を実演していました。
 竹の皮を薄く矧いで細い紐状にしたものをたくさん用意し、縦横互い違いに格子状に編んで行くのです。その根気強さに惹かれて、つい魅入ってしまいました。
 フッと手前を見ると、できあがった作品としての手提げカバンが、いくつか並べてありました。その中の一つが、男物なのです。手提げは女物ばかりで、男物はほとんど見かけません。
 実演をしておられた方に聞くと、意外と男物がないので、これを作ってみた、ということでした。
 
 
 
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 しばらく手にしているうちに、しだいにこれが欲しくなりました。20センチと10センチほどの大きさで、スッポリと手に収まります。手触りといい、軽さといい、さらにはデザインといい、大いに気に入りました。
 実演をしておられた方とお話をしているうちに、製作したものを売っているとのことです。そこで、これを私にも作ってもらうことにしました。
 竹の染め付けは、もう少し濃い焦げ茶色を頼みました。その縁取りの竹の色は、ほぼこのままで。中は、紙を貼った上に布を貼っているとのことで、色はこの黒のままにしました。
 
 
 
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 金具がどうもイマイチだったので、これはブロンズ色でお願いしました。紐は、このままです。
 私にはもったいないほどの贅沢品です。しかし、気に入ったものを手にしたいので、あえて我が儘を通すことにしました。

 手間暇がかかるものなので、4ヶ月ほど時間をもらいたい、とのことでした。ということは、6月ころに手にすることができます。
 いただいた名刺には、上京区寺之内の細川秀章と書かれていました。
 初夏に送られてくる竹製のバックを、大いに楽しみにして待つことにします。
 
 
 

2010年2月26日 (金)

京洛逍遙(122)洛陽三十三所(8)大蓮寺

 東山二条にある洛陽三十三所観音霊場の第八番札所「大蓮寺」へ行きました。
 
 
 
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 ここは、安産祈願のお寺で知られています。しかし、私は、ここの「走り坊さん」に興味がありました。
 「走り坊さん」というのは、大正時代に、お寺にお参りするのが困難な妊婦さんのため、ここのお坊さんが走って安産のお札を届けたところから付いた名前だそうです。今で言うところの、お札の宅急便です。
 または、毎月1回、大蓮寺のお坊さんが未明より、比叡から鞍馬を踏破し愛宕に詣でて帰っていた、ともいいます。
 そうした姿が、「足腰健常御守」にこんな絵となって描かれています。
 
 
 
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 朱印帖に記名してもらいました。
 
 
 
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 そして、十一面観音を見られないかと聞くと、本堂の外の廊下から見られます、とのことでした。
 確かに、靴を脱いで廊下に上がり、簀子縁からガラス越しに、斜め奥におられる観音さんがかすかに臨まれます。しかし、左端におられるので、よく見えません。
 
 
 
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 朱印をいただく場所の横から本堂の内陣へすぐに行けるので、てっきり「そこからどうぞ」とおっしゃるのだと思っていたので、拍子抜けしました。何と不便なことでしょう。直接拝観できる日があるのでしょうか。しかし、日常的にも、ぜひ内陣に入って、十一面観音を拝ませてほしいものです。
 この不親切な対応には、ガッカリしました。

 以下、ホームページ「洛陽三十三所観音巡礼」から「大蓮寺」の略説を引きます。

御詠歌  おおいなる はちすのはなを ささげきて
       にしへいざなう じひのみほとけ

 慶長五年(一六〇〇)専蓮社深譽上人が荒廃伏見の里で、霊光輝く阿弥陀仏如来を発見し、それを本尊として一寺を建立する。後に後光明天皇の安産勅願所となり念仏信仰を集める。
 又、明治の廃仏毀釈の時に祇園社より、一木彫刻・かや造りの十一面観音菩薩(十世紀)等、全ての仏像をお迎えし今も本堂脇檀に安置されている。
 
 
 
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2010年2月25日 (木)

池田亀鑑に関する講演会のお知らせ

 鳥取県日野郡日南町で、池田亀鑑に関する講演会が開催されます。
 このことが、「日南町ホームページ」の「本日のお知らせ」(2010年2月25日)で報知されました。

テーマ︰もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」

日 時:3月13日(土)13:30~16:00

場 所:日南町総合文化センター 多目的ホール

 参考までに、案内のチラシ(PDF)を添付します。

チラシをダウンロード

 日南町は池田亀鑑生誕の地です。
 昨年11月に顕彰碑が建ったという知らせを受け、12月に訪問して以来地元の方と懇意になり、このような集まりを持つことが実現しました。

 その経緯は、本ブログの以下の記事で述べた通りです。

「日南町議の久代氏と思わず握手」

「池田亀鑑ゆかりの日南町」

「池田亀鑑ゆかりの石碑と資料」

 今回を第1回目として、可能ならば、今後とも継続していきたいと思っています。
 このイベントは、これを機縁に近在のみなさまが、我々日本古典文学研究者との情報交換を通して、池田亀鑑という研究者を理解する場となれば、と思っての企画立案です。

 島根県と鳥取県という山陰地方における源氏物語研究に留まらず、日本古典文学研究を盛り上げるためにも、たくさんの方にお越しいただけたら幸いです。

 このような動きが始まったことを1人でも多くの方に知っていただければ、と思っています。
 
 
 

読書雑記(17)井上ひさし『合牢者』

 今、立川であった送別会の二次会を中座して、立川駅前発の夜行バスに乗り込んだところです。
 明日の朝から始まる関西での会合に出席するために、急き立てられるように呑んで乗り込みました。

 今夜は、私が担当している「国文学論文目録データベース」の実働部隊の世話役だった補佐員Aさんを送る会でした。
 このデータベースは、大正元年から平成19年までに発表された日本文学・語学・教育に関する研究論文463,000件を、さまざまな視点から検索できるものです。
 昨年の実績では、年間に150万件ものアクセスがありました。
 アクセスしたユニークユーザー数は、一年間に7万人以上です。
 地味なデータベースです。知的好奇心がなければ、およそ縁遠い存在です。
 しかし、日本文学や語学の論文を書く人は、このデータベースを利用しないと何も書けない、と言ってもいいほどのデータベースとなっています。
 これだけ支持されているのは、的確なキーワードが各論文に付けられているため、論題だけではわからない論文が効果的にヒットするからでしょう。その背景には、日本文学や語学を専門的に研究している大学院生やオーバードクターの方々が、丁寧に論文を一編ずつ読んで分類し、詳細なキーワードを付けていることがあります。国文学研究資料館が提供している「国文学論文目録データベース」は、単なる論文名や執筆者名や掲載誌名などを羅列した、よくある一覧型のデータベースではないのです。
 年々、利用者からは、高い評価をいただいています。それなのに、予算が毎年削られていて、優秀な読み手であるアルバイトの方々の確保が厳しくなってきています。
 このような、手間暇かけて丁寧に作り上げているデータベースがあることを、もっと幅広く宣伝していこうと思っています。

 出席していた方の中に、近代文学で修士論文を書いている人がいました。話を聞いているうちに、ちょうど私が読んだばかりの井上ひさし著『合牢者』に収録されている「海老茶式部の母」も参考になるのでは、と思い至りました。先ほどの席では、書名をメモした紙を渡しただけでした。しかし、手控えの文章がいま手元にあるので、夜行バスの中からですが、参考までに iPhone からアップしましょう。
 
 
井上ひさし著『合牢者』(昭和50年3月、文藝春秋)

■「合牢者」
 だんだん話がおもしろくなります。
 ただし、最後の着地で、小説が持つ意義に言及したところは、この作品の完成度を下げたと思います。
 友情か出世か、という問いかけに、理屈で答えようとしています。物語の緊張感が崩壊したように感じました。【2】
 
初出誌:「合牢者」オール讀物 昭和49年3月号
 
 
■「君が代は」
 作者の「君」の解釈を知りたいと思いました。【1】
 
初出誌:「君が代は」オール讀物 昭和49年7月号
 
 
■「帯勲車夫」
 「国家との一体感は仕掛けなければ生まれない。」(155頁)と陸奥宗光に言わせているところが印象的でした。【4】
 
初出誌:「帯勲車夫」オール讀物 昭和49年11月号
 
 
■「海老茶式部の母」
 下田歌子の実践女学校に関して、「渋谷常磐松には宮内省経営の皇室御料の乳牛牧場があった。」(179頁)とあります。
 このすぐそばの大学で学生時代を送った私は、明治の常磐松の風景が知りたくなりました。
 下田歌子の私生活が井上流に生き生きと語られていて、非常に興味深く読みました。ただし、結末が煮え切らなくて残念に思いました。
 また、下田歌子をこの視点から語ることについて、異論を持ちました。話はおもしろくできています。しかし、語られる主人公の環境と状況の設定に、大いに不満を持ったからです。
 さらなる工夫が……、という印象が残りました。【2】
 
初出誌:「海老茶式部の母」オール讀物 昭和50年1月号
 
 
■「自転車お玉」
 政治の道具となった女の、数奇なドラマです。表現の軽さとテーマの重さが、ほどよく塩梅されています。
 ただし、最後の医者の行動は、興ざめでした。舞台ならともかく、活字として残すなら、ここはもう一工夫が……。【4】 
 
初出誌:「自転車お玉」オール讀物 昭和50年3月号
 
 
 
◎全5編ともに、明治の文明開化を舞台にした物語です。時代の色がよく出ています。人間も、うまく描かれています。
 ただし私には、それぞれの話の綴じ目がスッキリしない思いが残りました。
 
 

2010年2月24日 (水)

上場廃止となった日航のこと

 先週、2月19日に、日本航空の最後の株の売買がありました。
 東京証券取引所の終値は1円でした。
 取引を終え、関係者の思いは複雑だったことでしょう。

 私の父は、山一証券に勤めていました。国に助けられて再建に励み、父が亡くなってから、ついに倒産し廃業となりました。JALのニュースを見ながら、父のことを思い出してしまいました。

 さて、インドからの帰りに体験したJALの搭乗券ついて、その後の報告をしておきます。

「搭乗券なしでもインドから日本へ帰国可能なJAL」という記事を書いた後、インドの空港所長であったK氏から、以下の返信をいただきました。

日頃より弊社便をご利用いただき誠に有難うございます。 先日のデリーご出発に際しましては、弊社の不手際により大変ご迷惑をお掛けしましたことを、改めて深くお詫び申し上げます。

誠に申し訳ございませんでした。

さて、搭乗券と手荷物預かり証をお渡しする際の不手際につきましては、当該担当者に個別に注意のうえ、他の担当者にも以下の点を再度徹底し、再発を防止したいと考えます。

①搭乗券をお渡しする際は、一枚ずつ券面の便名、お客様のお名前、座席番号、搭乗時刻、搭乗口番号を確認する。

②手荷物預かり証は搭乗券と一緒にお渡しする。

 なお、搭乗口での対応に関しまして、もぎり係がもぎった搭乗券は、別の担当者がその場で速やかに、機械で便名等を照合しております。

お客様から機械が見え難く、手作業のみとお感じなったと拝察いたしますが、機械を用いて誤搭乗を防止しているのは、他の空港と同一でありますことを何卒ご了解下さい。

 これに対して、私からは以下の返信をしました。

ご丁寧な返信、ありがとうございました。

> なお、搭乗口での対応に関しまして、もぎり係がもぎった搭乗券は、
> 別の担当者がその場で速やかに、機械で便名等を照合しております。
> お客様から機械が見え難く、手作業のみとお感じなったと拝察いたし
> ますが、機械を用いて誤搭乗を防止しているのは、他の空港と同一で
> ありますことを何卒ご了解下さい。

上記のご説明について、了解しました。
今、私の手元に、成田からデリーまでのJALの搭乗券があります。
使用済みのはずなのに、成田のチェックインカウンターで受け取ったままの新券です。
半券がちぎられてもいません。そして、スタンプも何も捺されていません。
先日、学生がデリーのチェックインカウンターで渡してしまったものと同じ状態で、今ここにあります。
半券を職場に提出しなければならないので、これから半券部分を私が手で切り取ります。
成田の搭乗口では、搭乗券はもぎられもせず、機械での照合もなされることはない、ということなのでしょうか。
各社の航空機を利用する時のことを思い出すと、いつもは搭乗口の自動改札機のようなものに通すことが多いと思います。
今回の成田発の場合は、機械でも人力でも、搭乗のチェックがなされなかった、というように見えます。
搭乗者の便名や座席の充足状況は、どのようにしてなさったのでしょうか。
手元の搭乗券を見つめながら、あの飛行機の離陸までに、乗客のチェックがなされなかったことに不安を覚えます。
そして、学生がデリーのチエックインカウンターで渡してしまった、まっさらの往路の搭乗券が意味すること。
今回の事態のすべては、この往路の搭乗券の存在が発端でした。
成田出発便は、誰が搭乗したかを、どのようにして確認したのでしょうか。
Kさんがおっしゃる、上記の手続きが2月9日(火)の成田ではなされなかったということは、搭乗確認は座席が埋まっているかどうか、というアテンダントの方の眼力だけだったことになります。
成田で出国してから後は、JALの職員を含めて、パスポートと一緒にチラッと見られはしましたが、誰も我々の搭乗券をよく確認しなかったのですから。
何か思い違いがあるのかも知れません。
しかし、手元に未使用の状態の成田デリー間の搭乗券が残されていることだけは、まぎれもない事実です。
私と男子学生のところに新券が、女子学生の手元には、2月14日の朱のスタンプが捺されたものが、この東京にあります。
改めて私には理解の届かない、不思議な状況が思い浮かべられるので、思いつくままに記したまでです。

 これに対して、K氏からは、以下の返信をいただきました。

ご返信を頂戴し有難うございました。 さて、今般お問合わせの成田ご出発時の対応につきましては、此方デリーで用いている機械と異なり、搭乗券面を光学式のバーコード読取り機で、確認させていただいているため、これが迅速、簡便かつ券面に痕跡を残さないことから、照合が行われなかったかの印象をお持ちになったと拝察いたします。 チェックインをされたお客様全員に、確実にご搭乗願うことは保安の観点から不可欠であり、弊社ではこれを毎便的確に実施いたしておりますので、何卒ご安心下さい。

 この文面からは、なぜ私たちの手元にまっさらの搭乗券が残っているのか、ということに対する説明がなされていないので、これ以上は伺うことはしませんでした。
 成田での問題になるからです。

 以下のものが、手元に残っている私の往路(成田→デリー)の搭乗券です。
 
 
 
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 搭乗券の左半分を確実に回収し、右側の半券が乗客の手元に残る、ということを守ればいいと思うのですが……。
 そうすると、往路の搭乗券が帰路のチェックインカウンターで乗客に手渡され、帰路の搭乗券の発行忘れが発生する、という事態はなくなります。
 搭乗についての基本だと思うのですが……。

 倒産した会社の再建と共に、今回のトラブルの原因となった搭乗券の取り扱いに関して、今後の業務が適切に行われることを期待したいと思います。


2010年2月23日 (火)

京洛逍遙(121)「みやこめっせ」で文化体験

 平安神宮と向かい合うように、「京都市勧業館(通称・みやこめっせ)」があります。
 ここでは、さまざまなイベントが開催されるので、折々にのぞいています。
 
 
 
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 「世界の書籍展」があり、豆本や有名人の自筆書簡が展示されていました。
 
 
 
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 地味な展覧会だと思っていたら、ものすごい人でごった返していました。バーゲンセールさながらです。展示品を見ていく内に、普段の展覧会と違うことに気づきました。池田大作氏の名前がそこここに記されています。出口には、池田氏が世界中からもらわれた名誉教授や博士号の称号が、びっしりと貼られています。私が訪問したことのある大学などがたくさん目につきました。よくぞこれだけ称号を集められたものだと、創価学会の広報担当者のご苦労を思い、あらためて感心しました。
 そして、宗教団体の動員力のすさまじさを、目の当たりにしました。

 この展覧会の背景はともかく、なかなか見られないものを見る機会を提供されていることは、いいことだと思います。本というものに関心がいくことは、すばらしいことです。
 ただし、残念なことがありました。それは、ガンディーをはじめとして、書簡の多くが写真による複製だったことです。直筆なのか、その写真なのかを、もっと明確に明示すべきです。
 また、会場の終わりの方に、『絵本通俗三国志』(第7編、葛飾戴斗画、天保12年刊、三都書房)の写真版を、「ご自由に開いてご覧下さい。」として展示されていました。ところが、その頁のめくり方が逆になっていました。日本の本に対する知識が皆無であることを露呈するものとなっていました。
 この『絵本通俗三国志』の左にデュマ著『モンテクリスト伯』、右に『シェクスピア格言集』が置かれています。ヨーロッパの本を開く時と同じように、日本で刊行された江戸時代の『絵本通俗三国志』が、右から左へ頁をめくるように、紙の左端が糊で止めてあったのです。
 日本の本なので、紙の束の右端を止めて、左から右へと頁を繰るようにしなければなりません。この展示は、「世界の書籍展」と銘打っています。しかし、世界に目を配ることに注意が割かれすぎて、お膝元である日本の書籍のあり方が見えなくなっている展覧会でした。
 自国の文化を理解することから始まり、そして視野を世界に向けたいものです。海外ばかりに気をとられすぎて、自分の国のことがおろそかになっていることを、海外の方から指摘されないことを願うのみです。

 同じ階で、挿花展をしていました。遠州流のものでした。めずらしいので、脚を留めました。
 力強さが感じられる活け花でした。
 無料なのでお茶をどうぞ、ということだったので、ありがたく一服いただきました。遠州流のお茶は初めてです。裏や表とは、左右が逆とのことでした。これまた、ゆったりとした貴重な時間を持つことができました。

 3階でも催しがあるとのことなので、初めて「みやこめっせ」の上階の展示場「遊」ブースへ行きました。

 京都伝統産業青年会が「横笛体験」をしていました。
 
 
 
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 平安時代、笛は男性が演奏する管楽器でした。
 『源氏物語』では、「横笛」という巻が第37番目にあります。そこでは、笛の相伝に関する物語が展開します。
 陽成院から故式部卿宮へ、そして和琴と横笛の名手であった柏木へと伝えられた笛は、夕霧、光源氏、そして薫へと渡って行きます。『源氏物語』の第二部から第三部にかけては、非常におもしろい笛の物語ということで、前から笛には興味を持っていました。
 そこで、こんな機会にと思い、実際に吹いてみました。
 今回体験した横笛は篠笛というもので、篠竹(女竹)の一節に穴をあけただけのものです。
 先生が、丁寧に基本的なところから教えてくださいました。笛の構え方から音の出し方、そして基本的な所作など、楽しい一時でした。
 
 
 
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 歌口に唇を当てるところまでは、先生が手を添えてくださったこともあり音が出ました。しかし、残念ながら、その後は息を吹き込む音だけで、ほとんど音色とはほど遠いものでした。
 篠笛運指表というものをもとにして、簡単な音階の出し方を教えてくださったのですが、うまく音がでません。またの機会があれば、再挑戦したいと思い、四条京町家で来月開催される「春舞台 in 四条京町家」に申し込みました。さて、音がでるようになるのか、どうなりますか。

 横笛の体験コーナーの隣では、「投扇興」をやっていました。
 これは、平安時代の「投壺」という遊びが廃れ、江戸時代に復活したゲームです。2年前に国文学研究資料館で開催した『源氏物語展』で、これをイベントとして考えたのですが、展示で精力を使い果たしたために断念しました。
 さて、この投扇興は、蝶と呼ばれる前方の的に向かって扇を投げます。そして、的と扇が落ちた状態により、さまざまな得点が与えられます。その得点のパターンに『源氏物語』の巻名がついていることから、投扇興が雅な遊びとして再評価されだしました。『百人一首』から得点の名前をつけている流派もあるそうです。
 一例として、其扇流の銘をあげておきます(Wikipedia より)。

野分(-20点) コツリ(-1点) 手習(0点) 花散里(1点) 末摘花(3点) 行幸(4点) 夕霧(5点) 夕顔(5点) 朝顔(7点) 鈴虫(7点) 柏木(8点) 薄雲(8点) 澪標(11点) 帚木(15点) 浮舟(30点) 夢浮橋(50点)

 子どもたちが楽しんでいたので、私の腕のほどはまたいつか。
 
 
 
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2010年2月22日 (月)

国語研究所における研究会のご案内

 来週の平成22年3月2日(火)に、先般実施した米国議会図書館蔵古写本『源氏物語』の調査について、研究報告会がおこなわれます。

 これは、「仮名写本による文字・表記の史的研究」の 第2回研究会です。
 報告と発表内容は、以下の通りです。

《報 告》
  斎藤 達哉(国立国語研究所)
《研究発表(1)》
  海を渡った『源氏物語』たち
     伊藤 鉄也(国文学研究資料館)
《研究発表(2)》
   アメリカ議会図書館本『源氏物語』本文の特質
     豊島 秀範(國學院大學)

 国立国語研究所は、立川の国文学研究資料館に隣接する敷地にあります。
 多数の方のご参加をお待ちしています。
 
 
 
 
 
 
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2010年2月21日 (日)

神野藤昭夫先生の晶子がたり

 今日の午後は、堺市立文化館・与謝野晶子文芸館主催の講演会に行きました。
 いつもお世話になっている神野藤昭夫先生の「与謝野晶子の源氏物語翻訳 ―自筆原稿がものがたる『新新訳源氏物語』誕生の現場」と題する講演があったからです。
 
 
 
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 与謝野晶子の『新新訳源氏物語』の自筆原稿(草稿)を、一昨日、国文学研究資料館で画像データベースとして公開しました。また、今回の講演会を国文学研究資料館が後援したこともあり、宣伝を兼ねて少しご挨拶もさせていただくという、仕事を兼ねての参加でした。

 まずは、今回の画像データベースのキーマンとも言うべき、堺市役所文化課の足立さんの開会の辞から始まりました。 
 
 
 
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 神野藤先生のお話は、非常にわかりやすく、またたくさんの新知見をいただきました。
 内容は、樋口一葉から晶子の知的風土を確認し、晶子の生き様の中からその『源氏物語』の訳業を炙り出すというものでした。堺市所蔵の与謝野晶子自筆原稿「新新訳源氏物語」を読み解きながら、『新新訳源氏物語』の誕生の背景と、その魅力を縦横に語ってくださいました。
 
 
 
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 晶子が11、2歳頃から読み親しんだ本が鞍馬寺蔵の絵入源氏物語小本と思われることや、幻の『源氏物語講義』など、興味深いお話が2時間にわたって続きました。贅沢な時間に身を置くことができ、充実した1日となりました。

 私としては、新訳から新新訳への流れが、今日のお話でつながってきました。また、『源氏物語講義』と『新訳源氏物語』の時期的な重複の意味づけも、全訳と大胆な訳という差別化を図った晶子なりの『源氏物語』への対処の仕方だということも、頷けるところでした。

 今回公開された堺市所蔵の自筆原稿をもとにしたお話も、会場のみんなが、その自筆原稿を読んでみたくなるほどの興味を掻き立てる展開となっていました。紫式部に変身して書いた晶子の源氏訳の中でも、今回公開された草稿に溢れる晶子の『源氏物語』に対する魂の軌跡が、この自筆原稿から読み取れる、という指摘は、今後の新しい研究にスポットライトを当てるものでした。

 また、鞍馬寺に残る「東屋」の原稿一枚に触れて、中断した晶子訳のその後のものと思われるので、さらに探して欲しいという提案もなさいました。

 会場には、若い方が少なかったのですが、晶子訳の和歌に注目して、原文の和歌がどう変わっているのかを、調べて欲しいとの問題提起もなさいました。

 晶子の源氏訳については、ほとんど研究がなされていませんでした。これを機会に、堺市を中心とした機運の盛り上がりが期待されます。

 画像データベースを公開したことを機に、与謝野源氏がさらに深く読まれ、研究されていくことを期待したいと思います。その意味からも、鞍馬寺と堺市の自筆原稿の画像データベースは、1人でも多くの方に利用していただきたいものです。

 このデータベースの公開に関わったものの1人として、さらなる活用がなされることを楽しみにしています。
 
 
 

2010年2月20日 (土)

与謝野晶子の『新新訳源氏物語』自筆原稿画像データベース公開

 昨日2月18日(金)の『毎日新聞』社会面「雑記帳」に、与謝野晶子が『源氏物語』の現代語訳をした時の自筆原稿を画像データベースにしたことに関する記事が、大阪版の新聞に掲載されています。
 これは、19日から国文学研究資料館のホームページで公開される「近代書誌・近代画像データベース(統合検索)」の中の、堺市(堺市立文化館与謝野晶子文芸館)蔵「与謝野晶子自筆原稿『新新訳源氏物語』」を画像公開することを取り上げたものです。
 その新聞記事を、以下に引用します。

 ◇作家、与謝野晶子(1878〜1942)の出身地・堺市所蔵の晶子の自筆原稿=写真・堺市提供=が19日、東京都立川市の国文学研究資料館のホームページ(HP)で公開される。
 ◇著書「新新訳源氏物語」の原稿用紙522枚分。「桐壺」や「若紫」の巻を現代語訳した際の推敲の跡が多数残る。書籍と表現が若干違い、下書きとみられている。
 ◇堺市文化課は「生々しい創作の様子が垣間見える。晶子の息づかいまで聞こえてきそう」。資料館HP(http://www.nijl.ac.jp)【山田英之】

 国文学研究資料館では、昨年9月に私が立ち会って調査収集を終えた与謝野晶子の自筆原稿のデジタル画像を、本日19日(金)からホームページを通して一般に公開します。

 2008年10月には、鞍馬寺に所蔵されている与謝野晶子の自筆原稿の画像データベースを公開しました。

「鞍馬寺にある晶子の源氏訳自筆原稿」

与謝野晶子と『源氏物語』

「与謝野晶子の自筆原稿画像の試験公開」


 この公開によって、今度は堺市と与謝野晶子のご遺族の方々の理解が得られ、鞍馬寺の自筆原稿(69枚)を補完するデータベースの公開が実現したのです。


「近代書誌・近代画像データベース(与謝野晶子)」


 この画像データベースでは、「桐壺」「帚木」「若紫」「末摘花」「紅葉賀」「花宴」「葵」「賢木」「花散里」「蓬生」「絵合」「松風」「玉鬘」「胡蝶」「常夏」「真木柱」「梅枝」「藤裏葉」「若菜上」「若菜下」「夕霧」の522枚が、精細画像で見られるようになっています。

 明日、堺市立文化館与謝野晶子文芸館で、「与謝野晶子の源氏物語翻訳」と題する神野藤昭夫先生の講演会があります。
 私も、講演会に先立って、データベースの発信元の立場から挨拶をすることになっています。
 詳細は、明日また報告します。
 
 
 

2010年2月19日 (金)

京洛逍遙(120)賀茂川の中州(2)

 昨年末に、「京洛逍遙(115)賀茂川の中州」と題して、中州を取り除く工事の様子を報告しました。

 あれから2ヶ月。

 岡崎で仕事を終えての帰り道、出町柳の賀茂大橋から下鴨神社を臨むと、こんな様子でした。
 通行止めとなった亀石の辺りは、こんな感じで工事が進められています。
 
 
 
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  出町橋の橋脚下で、土砂が掘り返されています。周りには、鷺や鴨がたくさん様子を見つめています。
 
 
 
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 葵橋の辺りでは、大きな中州が削られていきます。
 
 
 
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 吉田の大文字も、賀茂川がどうなるのか、この様子をジッと窺っています。
 
 
 
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 我が家の近くから南の北大路橋を臨むと、下流ほどではないにしても、中州が大きくなっています。
 
 
 
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 しかし、上流の北山大橋から北山に目を向けると、中州はほとんどなくて、広々とした川幅を水が流れています。
 
 
 
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 対岸の植物園沿いの半木の道の桜は、あと一と月半もすると、みごとに満開となることでしょう。
 
 
 

2010年2月18日 (木)

川崎佐知子著『『狭衣物語』享受史論究』

 川崎佐知子さんの著書『『狭衣物語』享受史論究』(思文閣出版、2010.2.20刊)が刊行されました。
 私は『狭衣物語』について詳しくありません。しかし、著者の文学研究に対する基本的な姿勢に好感が持てる内容の本なので、ここに紹介します。
 
 
 
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 私は、若い方の読書感想文のような研究と称する論文は、あまり好みません。
 これは、好き嫌いの問題なので、その方の研究内容とは別次元の、あくまでも個人的な判断基準です。
 川崎さんの論考は、基礎的な文献資料をベースにしていることが顕著です。研究基盤の整備を心がけての研究姿勢が、私は好きです。
 これは、ある意味では、そのような文献に接することができる環境にいる、ということが背景にあってのものです。そのような環境に身を置けるのも、不断の努力と心がけがなせるものでしょう。特に、陽明文庫というすばらしい背景と理解者を得たことが、力強い推進力となっているように思えます。
 今後の川崎さんの活躍が期待できるのは、そうした環境に身を置く著者を知っているからでもあります。
 古典学という分野に、これからも手堅い成果を提示してもらえそうなので、ますます楽しみにしています。

 本書は623頁の大著です。しかし、その3分の2は未紹介資料の翻刻です。この貴重な資料の提供は、一部の研究者に留まらない、研究者のコミュニティーへの贈り物となっています。

 論文篇は、本文と注釈を見つめた、地に足が着いた研究成果として、高く評価できるものだと思います。
 『源氏物語』について、同じような態度で研究したいと思っている私にとって、これは学ぶべき点の多い研究手法です。

 研究書と称する本に索引がないのは研究書としては失格だ、という、これまた自分なりの判断基準を持っています。本書には、もちろん索引があります。その索引を手がかりにして、興味の赴くままに何編かの論文に目を通しました。『狭衣物語』に今特に問題意識を持っているわけでもないのですが、こうした読み方をすると、今の自分にとって得られるものが多いのです。
 ただし、本書の索引は、人名と書名に関するものだけです。事項索引がほしいな、と思いました。手間暇を惜しまない、心の籠もった事項索引にこそ、著者の個性が発揮されると思うからです。

 以下、刊行元である思文閣出版の宣伝文を引用して、本書の大凡の紹介に代えます。
 
 
 
 『源氏物語』に並称された平安朝後期物語の傑作『狭衣物語』の受容の様相を文献学的見地から徹底的に分析検証し、連歌師紹巴が天正18年に著した『狭衣下紐』を享受史の中核に位置づけた。
 (財)陽明文庫所蔵『狭衣下紐』2種(近衞信尹筆外題・近衞尚嗣筆外題)、宮城県図書館伊達文庫蔵『狭衣物語抄』(猪苗代兼寿作)ほか未紹介資料5種を全文完全翻刻掲載。物語文学研究の新スタンダード。
 
 
〔論文篇〕

第一章里村紹巴と『狭衣物語』
 第一節 『狭衣下紐』の伝本
  『狭衣下紐』研究の現在
  『狭衣下紐』の現存伝本
  書誌からみた特記事項
  諸本分類の基準
  写本から承応三年版本へ
  増補本系への展開
  里村家の書『狭衣下紐』
 第二節 『狭衣下紐』の注釈方法
  『狭衣下紐』の書名から
  『源氏物語紹巴抄』と『休聞抄』
  『狭衣下紐』の序文
  『狭衣物語』の作者
  『狭衣物語』の時代設定
  紹巴の狭衣注の世界
 第三節 紹巴所用『狭衣物語』とその意義
  流布本の源泉は紹巴か
  紹巴所用『狭衣物語』の転写本
  紹巴予本の傍記
  『狭衣下紐』における「異本」と紹巴の本文校訂
  紹巴予本と流布本
  紹巴は『狭衣物語』の権威だった
 附 節 紹巴と奈良連歌
  紹巴研究のこれまで
  紹巴と祐範・宗具
  紹巴生存中の作品
  紹巴没後の作品
  校本・紹巴発句帳より
第二章三条西実隆『狭衣系図』の諸問題
 第一節 三条西実隆『狭衣系図』の諸本と特色
  『狭衣系図』とは
  『狭衣系図』の現存伝本
  諸本分類の基準
  承応三年版本の位置づけ
  打它氏本の復原
  天理大学附属天理図書館吉田文庫蔵本の特徴
  第一系統から第二系統への展開
 第二節 基礎資料としての『狭衣系図』
  三条西実隆の『狭衣系図』
  『狭衣下紐』における「系図」
  『狭衣下紐』の系図引用
  人物伝の常套化
  紹巴と『狭衣系図』
第三章猪苗代兼寿の『狭衣物語』享受
 第一節 『狭衣物語抄』の伝本
  『狭衣下紐』以後の狭衣注
  『狭衣物語抄』の現存伝本
  猪苗代兼寿と陸奥国仙台藩主伊達家
  秘された合作?近衞基?との関係?
  最善本の比定
  『狭衣物語抄』の意義
 第二節 『狭衣物語抄』の関連資料
  昭和初期の『狭衣物語抄』研究
  兼寿書き入れ本としての天理図書館蔵本
  兼寿書き入れ本から『狭衣物語抄』へ
  承応三年版本との関係
  天理図書館蔵本の『系図』・『年立』
  『狭衣物語抄』関連資料の価値
 第三節 延宝五年の「狭衣」校合
  猪苗代兼寿と近衞基?
  『基?公記』の「狭衣」校合
  「狭衣」以外の校合
  後西院の収書
  校合の目的
  『狭衣物語抄』作成の背景
第四章『狭衣物語』享受の周辺
 第一節謡曲『狭衣』について
  ふたつの謡曲『狭衣』
  三条西実隆作謡曲『狭衣』の先行研究
  後土御門帝の『狭衣物語』書写校合と狭衣能
  合作か単独作か
  謡曲『狭衣』の上演記録
  享受史における謡曲『狭衣』
 第二節 河村秀根『狭衣入紐』について
  河村秀根の出自とその業績
  秀根自筆稿本と書き入れ本
  跋文からの問題提起
  河村秀根と『狭衣物語』
  「ある人」の推定
  『狭衣入紐』の意義
〔資料篇〕
 翻刻・陽明文庫蔵近衞尚嗣筆外題『狭衣下紐』
 翻刻・陽明文庫蔵近衞信尹筆外題『狭衣下紐』
 翻刻・陽明文庫蔵近衞尚嗣筆『狭衣系図』
 翻刻・東京大学総合図書館南葵文庫蔵『狭衣系図』
 翻刻・宮城県図書館伊達文庫蔵『狭衣物語抄』



2010年2月17日 (水)

海外に持ち出した資料の隔離

 インドに持って行った12種類の巻子本や冊子本などの資料について、一定期間隔離して虫の発生がないか確認することになりました。
 資料を管理する立場からは、それが複製本であっても、異なる環境に持ち出された場合には、慎重に対処します。しばらく隔離することによって、付着した害虫が館内で活動を開始し、他の所蔵資料に感染して悪影響を及ぼすことから守るのが大切です。こうした事に関しては、資料の保存管理がご専門のA先生は、的確な指示を出してくださいます。
 そのため、一ヶ月間は今回持ち出した資料を大きなビニール袋に入れ、検査紙などによって様子を見ることになりました。

 いっそのこと、生身の私の身体も一ヶ月間ほど隔離して、自宅待機にしてほしいところです。しかし、さすがにそれはありません。そんな中で、帰国してすぐの会議漬けと書類の山に、この2日ほど悲鳴をあげています。

 そして、20度のインドから10度も低い東京の寒さに身体が慣れないままに、関西での調査を開始することになりました。

 新幹線も、一ヶ月ぶりです。慣れ親しんだ車内のシートでこうして駄文をものしながら、今自分が紛れもなく日本にいることを嬉しく思っています。
 言葉の不自由もない勝手知ったる母国は、何よりも気持ちが安らぎます。

 何にもまして、きれいです。
 何事も、整然としています。
 何でも、欲しいものがあります。
 何とかして、手に入れられます。

 モンゴル、アメリカ、インドと経巡った今、つくづく、日本はすごい国だということを痛感しています。
 
 
 

2010年2月16日 (火)

インドを旅しての院生の感想

 今回、〈インド日本文学会〉で研究発表をするためにインドへ行った、総合研究大学院大学文化科学研究科日本文学研究専攻の学生2人から、簡単なメモをもらいました。
 参考までに、転載しておきます。

インド春宵    

 第五回インド日本文学会に参加のため、デリーのインディラ・ガンジー空港に到着したのは、二月九日の午後五時十八分。それから手続等をすませ荷物を受け取り、空港の外に出て迎えの車が来るのをしばらく待った。思っていたよりもかなり暖かい。日本の冬の装いのままぶ厚いコートを着込んだ私は、すでに汗をかいている。そして日本で見かける形態とはどこか異なる枝ぶりの木々から、聞いた事のない鳥の声が靄のかかったような夕空に響いている。ここが、インド。
 荷物を積みこんで迎えの車が走り始めると直ぐに、何の木にか白い花の咲いているのが目に入って来た。白い花は、刻々と暮れていく薄闇のなか、仄かに明るい。それを所々に見かけながら走るデリーのラッシュアワーは、実に凄まじい限りである。親子三人乗りの、或は四人乗りのバイクや、乗客がぎゅう詰めでドアの無いぼろぼろのバスが必死で疾走する。クラクションはあちらこちらで鳴りっぱなしで、車間距離などもう限界まで圧縮されている。
 街には灯りがともされ始め、土埃と靄のなかになつかしいような、しかしやはり初めて見るデリーの商店が色とりどりに現われる。この忘れがたい春の宵から、われわれのインド滞在は始まるのであった。


 
 
学会感想

2月12日から13日まで、二日間にわたって、ニューデリーで開催された第五回インド日本文学会に参加した。二日目の午前中、日本漢詩による俳句の解釈について研究発表をし、席上の諸先生から貴重な意見をいただいた。
今回は、今西館長の基調講演と総括を始め、先生方の発表を聞いて、「文学と絵画」というテーマに対する理解を深めることができた。そのほか、例えば、ネルー大の Manjushree Chauhan 先生によるインドの口承文芸の紹介など興味深いものが沢山あり、個人的には得るものの多い国際学会であった。
一方、インド側の学生たちの発表は、全体的に古典文学の語釈や鑑賞、それから日印文化の類似性に関する比較的単純な指摘にとどまるものが多く、研究としてやや実証性と独創性を欠けている印象が拭えない。しかし、インドにおける日本文学研究の現状を鑑みると、基礎文献さえままならない逆境の中で、インターネットなどあらゆる手段を駆使し、日本文学の勉強に励む学生たちの姿には実に人を感動させる力がある。
同じ外国人日本文学学習者の立場から言えば、真の「世界の日本文学研究」を実現するには、これから更なるテキストのデーター化と研究論文のWeb公開が求められるのではないかと改めて痛感した。

 
 
 

2010年2月15日 (月)

搭乗券なしでもインドから日本へ帰国可能なJAL

 インディラガンディー空港で、JALの信じられない失態に出くわしました。
 大学院生2人を引率しての、チェックインカウンターでの出来事です。

 順番が来たので、私が学生2人のパスポートを預かり、3冊のパスポートをカウンターに出しました。
 eチケットだったので、それも一緒に渡しました。ただし、1人は要らないはずだから、と言って出さないままに、搭乗手続きは終わりました。
 荷物が3個であることは確認されましたが、それ以外は特に何もありませんでした。
 私は、往路でベジタリアンの食事をリクエストしていたので、帰りもそのようにしてもらいました。それを受けて、学生の1人が自分もお願いできないかと言うと、カウンターの女性は、すでに余裕がないので、ここでは受けられないとのことです。そして、機内で言ってみてほしい、とのことでした。

 カウンターで返却されたパスポートを受け取り、それと一緒に置かれた3枚の搭乗券を手にし、一番上の券面に書かれた女性名を見て、それをまず学生に渡しました。次が、私のもので、最後をもう1人の学生に渡しました。
 しばらくカウンターの前に立ったままだったので、もうここには用事がないよね、と言いながらその場を離れました。何かを待つことがあると思っていたので、しばらくそのカウンターの前を動かなかったのだと思います。ただし、何もないようなので、その場を立ち去りました。

 パスポートコントロールを通過すると、セキュリティチエックで朱の楕円形の印が捺されます。これは、パスポートコントルールの前だったかもしれません。その後に、手荷物チェックがあります。
 
 手荷物チェックの入口で、警察のような服装の人がパスポートと搭乗券をチェックし、荷物をX線を照射する箱に通します。そして、四角いゲートを歩いて通ります。
 今日も、私は警報が鳴りました。身体検査の結果、何もないので無罪放免となり、暗い箱から出てきた荷物を引き寄せて手にしました。学生の姿が見えなかったのですが、パスポートコントロールを通過したのは見かけたので、手荷物検査で引っかかっているのだろう位の気持ちで、私は1人でお土産物を見に行きました。

 昨年の3月に、ここでドルしか使えなくて困ったことを思い出しました。
 インドの旅をした人が、今ここでドルを持っているのでしょうか。日本人なら、インドのルピーか円しかないはずです。それなのに、今年もドルしか受け取らないようです。カードで買い物せざるをえません。自国の通貨が使えない免税店は、何か変だと思うのですが……。

 出発まで時間があるので、ワイヤレスのインターネットが使えないか見渡すと、どうやら使えるようです。
 携帯番号を入力すると、ユーザー名とパスワードが携帯電話に送られてくる仕組みです。
 何度やっても、キーワードが送られてきません。携帯電話の履歴をみると、昨年の3月にインドからの帰りに、キーワードなどを受け取っています。それを入力してみましたが、もちろん使えるはずはありません。
 今年は、どうしても送ってもらえないのです。ローミングサービスがオンになっていることを確認するなど、何度も自分の携帯番号を入力してキーワードの発行を試みましたが、30分ほどやってもダメなので諦めました。どうも、どうなっているのか、よくわかりません(実は、日本に帰国後に、パスワードが届いているのが確認できました。使い道のない、どうしようもないログイン情報です)。

 さて、搭乗時間が近づいたので、搭乗ゲートへ行きました。しかし、どこにも学生たちがいません。
 しばらく探していたところ、やっと1人を見つけました。そして、もう1人は、と聞くと、とんでもないハプニングに遭っていた、と言うのです。

 私の後から手荷物チェックを受けようとしたとき、検査機の前にいたパスポートと搭乗券を確認する人が、このチケットは無効だと言ったことから、事態がとんでもない方向に展開したようです。

 その学生が差し出した搭乗券には、成田からデリーへ、と書いてあり、しかも日付がインドに来た2月9日になっていたのです。
 それなのに、楕円形の朱のスタンプには、「14 FEB 2010」と、今日の日付が捺されています。
 
 
 
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 そこで、これは大変だということで、2人の学生はあらん限りの英単語を並べて、とにかく本人1人が出国した場所から再度チェックインカウンターに、這々の体で引き返したのです。
 それまでに30分以上も、いろいろな人に、いろいろなことを聞かれたようです。そして、訳のわからないままに先ほどとは違うJAL職員のいるカウンターで事情を説明し、再度搭乗券を発行してもらったのです。どうやら、インディラガンディー国際空港には、日本人のJAL職員は1人だけのようです。
 そして、その時に、先ほど渡し忘れたということで、手荷物の預かり証を3枚受け取ったようです。こんな時に、あっそうそう、と渡される性格のものではないはずです。
 その新しく渡された搭乗券で、再度パスポートコントロールを通過し、セキュリティチェックの後、手荷物検査を通過して、めでたく搭乗ゲートまで来ることができたのです。彼女は、初めてのインドの空港で、1時間ほどの回り道をしたことになります。
 その話を聞き、彼女が、心細さと情けなさに胸を痛めたことを知りました。
 このままでは倒産したばかりのJALは、ますます客が逃げていくのはよくないと思い、ことの顛末をはっきりさせるべきだと思いました。そこで、搭乗口のインド人職員に事情を話し、こうしたクレームはどこへ言いに行けばいいのか尋ねました。すでに搭乗が始まっています。搭乗ゲートは混乱の中でもあったので、その職員の方はどこかへ電話をしておられました。

 まったく失礼な対応なので、学生と憤慨しながら搭乗を待つ列に並ぼうとした時、日本人でパリッとしたスーツを着た男性がお出でになり、我々に事情を聞こうとされます。彼女に代わって、ことの不可解さを詰問調で説明し、なぜこんなでたらめがまかり通ったのかを尋ねました。

 私が訊いたのは、どうして今日2月14日に、我々がインドに到着した2月9日の日付けで、しかも成田からデリー行きのチケットをこのインドで発券したのか、ということが主な内容です。しかも、3人同時に手続きをしたのに、その内の1人だけが一週間前のチケットなのです。
 また、手荷物の引換券は、どうして彼女がチェックインカウンターへ苦労の挙げ句に辿り着いた時に、ついでの忘れ物でもあるかのように渡されたのかも。
 もし、カウンターででたらめな発券がなされていなかったか、あるいは手荷物チェックで見過ごされたまま搭乗していたら、この手荷物券は、我々は貰わずじまいで成田に到着することになります。

 日本人の職員の方は、我々の話を聞いて、非常に冷静な対応をされました。
 まず、インドに来たときの搭乗券を確認したい、とのことでした。なるほど。
 学生は、鞄の中などを探している内に、来たときの搭乗券をeチケットに挟んだままで、パスポートに添えてチェックインカウンターに出したかも知れない、と言い出したのです。

 普通はあり得ないことですが、そういえば、来たときは細長い搭乗券に半券が付いたままの状態で、最後まで手元に残ったのです。このようなことは、ままあります。そのことを思い出し、すでに使用済みの搭乗券が、何かの事情で今日の出発カウンターで渡されたこともあり得るな、と思いました。しかし、とすると、今日発券されたはずの本来の搭乗券は、どうなったのでしょうか。

 日本人職員の方の説明では、挟まれていた使用済みの搭乗券を含む3枚を我々に渡した後、その本来渡すべき今日の搭乗券1枚は、そのままカウンターに残されていたと思われる、とおっしゃるのです。ということは、搭乗券が1枚、出発カウンターのどこかに放置されていたことになります。これでは、あまりにもずさんですし、状況からして少し変です。
 JALの男性は、本当に申し訳ございません、と深々と頭を下げておられます。テレビのワンシーンのような、演技に近い言葉遣いと仕草だったので、この仕事も大変だな、と思いながら、とにかく搭乗を急ぐことにしました。

 半券を千切ってもらって搭乗通路に出たところで、今回2回目にチェックインカウンターで彼女の対応をしたという女性が呼ばれていて、その人と話をすることができました。そこでの確認で、新たなチケットはその方が改めて印字したものであることがわかりました。つまり、置き去りにされたチケットというものは、結局はなかったことが判明しました。

 それにしても、これは異常なことです。
 今回の出来事を整理します。

(1)3人のパスポートを受け取って発券処理をしながら、結局は2枚しか発券されなかった。
(2)手荷物預かり証を渡されなかった。
(3)使用済みで無効の搭乗券が、3箇所でチェックを見過ごされて通過できた。
(4)もし手荷物チェックの係員と搭乗口のチケットのもぎり係が見過ごしたら、その後、今回の席を別の人に発券されてダブルブッキングとならない限り、そのまま彼女は成田で日本に入国できた。

 今回は、最後2箇所での人間の目だけが、無効の搭乗券での搭乗を防ぐ役割を果たしていたことになります。際どいチェックです。最終の搭乗で、機械を通してではなくて、人間が搭乗券の半券を千切る方法だっただけに、本当に間一髪のトラブルでした。

 それにしても、英語のできない学生は、突然にどうなっているのかわからない状態に置かれ、どうしていいのかもわからないパニック状態で、1時間もインディラガンディー空港をさまよったことになります。
 不安と恐怖の時間だったことでしょう。よくぞ、自力で搭乗口までたどりついたことです。

 空港の男性職員の方は、迷惑をかけた学生の鞄を持って、機内の席までお出でになりました。途中、無線電話で自分が機内に入っていることと、ドアを閉めないでほしいという連絡をしておられました。
 念のために名刺をいただくと、「ニューデリー空港所長 K」とありました。肩書きの左には、「Dream Skyward JAL」とあります。学生本人にとっては、まさに「daymare JAL」ということになりました。

 日本航空はどうなっているのでしょうか。
 この帰路では、私も何となくスッキリしないことに出くわしました。
 機内の朝食のときでした。飲み物を配って行かれた方が、私の席は素通りされたのです。
 食事のときに日本茶を飲みたかったのですが、アテンダントの方が通り過ぎてしまわれたので一旦はあきらめました。しかし、ノドが乾いていたので、通りがかりのアテンダントの方に、ドリンクが素通りされたのでもらえなかったことを告げ、改めて食事用に日本茶を頼みました。しかし、結局は食後になっても、日本茶は持って来てはもらえませんでした。パンがノドに支えそうでした。

 今年になってこの1ヶ月足らずのうちに、モンゴル、アメリカ、インドと、3度の海外出張がありました。私は、これまでに、まずJALを優先してきました。しかし、こんな状態のJALには、もう乗りたいとは思わなくなりました。
 また、機内でのアテンダントの方は、今日はあまりにもキリキリとして、額に縦皺でサービスをしておられました。
 足早に通路を歩き、接客時にも、身体は正対せずに、片足は別の方向に体重がかかった状態でした。これは、見ていてみっともない姿です。対応がぞんざいに感じられます
 いつものJALは、どうしたのでしょうか。何か、乗務員にプレッシャーがかけられているのでしょうか。

 もう少し雑談を。
 飛行機がインドの地を離陸し、安定飛行に移ってから、機内食のことで1人のアテンダントの方に相談をしました。それは、ツレの1人が搭乗時のトラブルで疲れ切って元気がないので、配慮をしてほしいということでした。それというのも、チェックインカウンターで彼女もベジタリアン料理をリクエストしたのですが、断られた経緯もあったからです。食事のことは機内で確認してくれ、とのことだったので、そのことを尋ねると、彼女のベジタリアン料理は用意できないとのことでした。
 そこで、私のベジタリアン料理を彼女に回し、私は普通のものにしてほしいとお願いしたのです。すると、申し訳ありませんとおっしゃって、私の希望通りにしてくださることになりました。そして、ご本人様には、お客さまからの依頼で食事を変更することになりましたとお伝えましょうか、とのことだったので、それは言わずに、ベジタリアン料理が用意できたので、ということで対応してほしい旨をお願いしました。
 また、我々の搭乗時に空港職員が鞄を持って同行していたので、どのような事情があったのでしょうか、とも聞かれました。大したことではありませんが、トラブルで気落ちしているので、とだけ説明しました。

 成田への着陸前にドリンクをお願いしたとき、ちょうど搭乗時にベジタリアン料理のことで話をしたアテンダントの方だったので、今回のことを機内の後方でもう少し詳しく聞いてみました。
 今回機内まで来られた空港職員の方の名刺に書かれていた、空港所長というのは、ニューデリーの現地支店長の次のポジションの方なのだそうです。JALなりの誠意を示してくださったようです。というよりも、私が搭乗直前にしつこく係員に詰め寄ったので、何事かと混乱収拾の目的で出てこられたのが実際でしょうが。
 そして、もし出発カウンターで彼女の搭乗券が発券されないまま、その事情を知らずに搭乗した彼女の席に、別の人が偶然来なかった場合にはどうなるかを、アテンダントの方に聞いてみました。すると、鳥肌がたつことですが、と前置きをした上で、成田からそのまま自宅へ帰られることになると思います、とおっしゃいました。
 偶然が重なってのこととはいえ、こんなことになり申し訳ないと、何度もお詫びを繰り返されました。

 あってはならない偶然が、こうして現実に起こったのです。
 学生が、ダブルブッキングにならず、また搭乗券不所持での渡航、という不名誉な扱いを受けなくて良かったと思っています。

 何事にも、あってはならない盲点というものはあるものなですね。
 
 
 

2010年2月14日 (日)

〈第5回 インド日本文学会〉2日目

 今日のプログラムは盛りだくさんです。

 ■研究発表
  ・総合研究大学院大学大学院生2人
   (陳 可冉、佐々木比佐子)
  ・ネルー大学大学院生2人
   (リヤ・シンハ、ダニッシュ・レザ)
  ・マンジュシュリ・チョーハン(ネルー大学・教授)

 ネルー大学の院生の発表の中に、『紫式部日記絵巻』がありました。しかし、残念ながら体調不良で欠席でした。次回に期待しましょう。
 マンジュシュリ先生の発表は、絵解き語りに関するものでした。
 めずらしい楽器や大きな絵を広げての熱演でした。まさに、今回のテーマである「文学と絵画」にふさわしい、すばらしい内容でした。この報告は、日本でもやってもらいたいと思います。
 
 
 
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 国際交流基金の前で、みんなで立食形式の昼食をいただきました。
 その後、大学院生の研究報告です。

 ■研究報告
  ・デリー大学大学院生5人
   (ムクラ、バラン、カニカ、プラマド、アビナッシュ)
  ・ネルー大学大学院生5人
   (サンチット、シャリニ、ラフル、ワルン、マニシャ)

 シャリニさんとラフル君は、共に南インドのケーララ州出身とのことだったので、マラヤラム語訳『源氏物語』を探してもらうことにしました。
 インドにおける『源氏物語』の翻訳は、8種類の言語で出版されたことが確認できています。
 先日、オリヤー語訳『源氏物語』の確認がサヒタヤ・アカデミーでとれたので、入手のお願いをしているところです。残るところ、マラヤラム語訳だけとなりました。あと一歩です。

 午後5時前にティーブレークとし、最後は今回のテーマに沿ったパネルディスカッションです。
 
 
 
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 私の横から、シバ教授(ネルー大学)、ガングリー教授(ネルー大学)、そして今西館長(国文学研究資料館)です。
 シバ先生は、メリハリの利いた英語で身振り手振りの熱演でした。ガングリー先生は、うまく間を取って問いかけるスタイルの英語でした。ただし、お2人共にあまりにも内容が難しくて、アニタ・カンナ先生に通訳をお願いして、どうにか理解できました。
 予感的中で、長々と終わりそうにありません。そんな時、アニタ先生が「kindly sum up」と書いた紙を私に手渡して助け船を出してくださいました。
 ソッと熱弁中の先生のマイクの横に置きました。一つ英語を覚えました。
 今西先生は、2日間を総括する中で、ご自身の「文学と絵画」に関するお考えを語ってくださいました。
 存在感のある大御所3人の先生方のお話だけに、ディスカッションがどうなるのか不安でした。しかし、英語での発表が共に時間をオーバーしたこともあり、終了後のレセプションが待ちきれないということを勝手に理由として述べ、会場の参加者との討議は国際交流基金の前庭でのレセプションの場で、ということでひとまずは逃げさせていただきました。

 準備不足で、どうなることやらと気がかりなインド入りでした。しかし、みなさんの協力を得て、今年もどうにか充実した〈インド日本文学会〉となりました。
 参加されたみなさま、ありがとうございました。毎度のことですが、次回は早めのプログラム作りとイベントなどの準備をしたいものです。

 次回の〈第6回 インド日本文学会〉は、今年の11月6日(土)7日(日)を候補として考えています。テーマは「文学と乗り物」です。場所は、今回と同じ国際交流基金・ニューデリー日本文化センターです。
 帰国後、参加者や日程を調整して、詳細を詰めたいと思います。

 国際交流基金とネルー大学、デリー大学のみなさんのおかげで、たくさんの出会いの場となったことに感謝しています。
 ありがとうございました。
 
 
 

6年ぶりにインドで再会

 早朝、国際交流基金へ行くために乗るオートリキシャとの値段の交渉に、とにかく手間取りました。
 
 
 
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 いつものことですが、近いところなのに、運転手は高額を要求します。
 最初はとんでもない運転手で、300ルピーからスタートです。こちらは、15前後しか考えていないので、それ以外はすべて拒否です。5台目で、やっと20で解決です。時間がないので妥協しました。
 現在のレートは、1ルピーが2円くらいなので、10円程度の違いです。しかし、つい頑張って張り合ってしまいます。
 運転手には、地図が読めず、文字もよくわからない人がよくいます。免許証すら、持っているのか怪しいモノですが、今は措きます。
 今日も、最初に運転手に道順を説明しました。しかし、場所をまったく知らない運転手だったので、道々、走るコースには注意していました。フッと気を抜いた瞬間に、まったく違う方向に向かって走っています。大急ぎで止めて、正しい方向を教え、それからは、左へ曲がれ、右へ曲がれと指示を出し、最後はストレートと連発して、どうにか到着しました。
 本当に、デリーの中の移動には疲れます。

 6年前に私がデリーに滞在していたとき、いろいろなお話を聞いた奈良県立大学の先生に、なんと宿で再会しました。しばし、思い出話です。
 今回は、バングラディッシュからインドへ回って来られたとのことです。文化人類学者で、今は観光をテーマにした研究をなさっているようです。南アジアの観光問題も、おもしろいテーマだと思います。
 6年前は、今は北海道大学で大活躍中の中島岳志君と意気投合して、デリー各地を2ヶ月にわたって歩き回りました。連日、隈なくといっていいほど、彼の現地調査について回ったものです。それこそ、政治組織からスラムの中の学校まで。
 今も、あの時に彼から学んだインドの歩き方を実践しています。オートリキシャとの値段交渉に始まり、デリー市街を歩くのも、すべて中島師匠直伝のものです。

 夜、いつものように宿の前のジュース屋さんに行きました。今日も、おじさんはいません。どうしたんでしょう。
 ジュースを飲み終わるころ、今日も新鮮な果物をたくさんくれました。今度は、最初からアルミの皿に盛ってあります。爪楊枝がなかったので聞くと、近所の店からフォークを借りてきてくれました。
 
 
 
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 フレッシュな果物です。連日の疲れがとれます。
 食べ終わってお皿を返すと、そのお皿を私の目の前でポィと下に捨てるのです。これには驚きました。
 
 
 
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 木の葉で作ったお皿ならまだしも、自然に帰らない金属のお皿を、無造作にポイ捨てする習慣が、まだ私には理解できません。食器の素材が植物だったころの、自然に腐って行くものを使っていた時代の感覚なのでしょう。生活環境の変化に関する意識と共に、まだまだこの国は問題をたんさん抱えているようです。

 宿への帰り道に、今日も公園で結婚式の披露宴がありました。
 
 
 
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 一昨日とは違う飾りつけです。
 会場の中央にビールのオブジェがあります。しかし、ここではお酒は出ません。
 
 
 
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 せっかくなので、今日もコーヒーをいただきました。
 縁もゆかりもなさそうな子どもが、会場内にはたくさんいました。
 なかなか不思議な、そして興味深い文化が、デリーのそこここに点在しています。魅力に溢れた街です。
 
 
 

2010年2月13日 (土)

第5回〈インド日本文学会〉の初日

 午後2時から、国際交流基金のニューデリー日本文化センターのホールをお借りして、先生方の研究発表がありました。
 今年のテーマは「文学と絵画」です。
 
 
 
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 日本側からは、まず今西祐一郎・国文学研究資料館館長の「平安女流文学の形成と「仮名」」と題する基調講演がありました。
 次に、私の「源氏絵の索引試案」、そして江戸英雄先生の「源氏物語画帖の場面と規範」です。共に源氏絵を取り上げての発表でした。

 今回の目玉は、研究発表に加えて、会場の壁側で行った日本の古典籍の展示です。
 
 
 
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 ネルー大学の外国語学部長も、熱心に見ておられました。
 
 
 
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 日本の古典籍は、さまざまな形で今に伝えられています。その実体を少しでも知ってもらおうというのが、今回の展示の主眼です。
 そこで、代表的な「巻子本」「画帖」「冊子本」など12種類を、複製本を通して実際に触ってもらうことで、原本の風合いを親しんでもらうことにしました。
 参加者に自由に繙いてもらいながら、今から千年前に読まれた日本の本の実態を、この機会に実感してもらおう、ということです。

 今回インドに持参した作品は、以下の12点です。
 (1)国宝『源氏物語絵巻』五島本(巻子)
 (2)国宝『紫式部日記絵詞』五島本(巻子)
 (3)徳川本『源氏物語画帖』(折本)
 (4)尊経閣本『源氏物語』・柏木(冊子)
 (5)中山本『源氏物語』・若紫(冊子)
 (6)『浄土三部経』(巻子)
 (7)筋切・通切『古今和歌集』(巻子)
 (8)塗籠本『伊勢物語』(冊子)
 (9)蓬左文庫蔵『大和物語』(冊子)
 (11)梅沢記念館蔵『無名抄』(冊子)
 (12)宮内庁書陵部蔵『閑吟集』(冊子)
 (13)『田舎織糸線狭衣』(冊子)

 みなさん、活字本でしか知らない日本の作品の原本の姿を、こうして自分が手にして見られることに、感動があったことと思われます。
 この試みは、今後とも続けて行きたいと思っています。

 会場で、インドで翻訳などの研究をしておられる菊池智子さんから、最近刊行されたご著書『紅葉の色 秋の詩』をいただきました。
 
 
 
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 これは、菊池さん、ラージ・ブッディラージャーさん、高倉嘉男さんとの共著です。在インド日本大使館と国際交流基金ニューデリー事務所の協賛を得て、ヴァニプラカシャン社から刊行されたものです。
 ここには、『万葉集』に始まり、『古今和歌集』、『源氏物語』、『後拾遺和歌集』、そして現代に至る詩歌から秋の詩歌を選び、それをヒンディー語に翻訳したものです。
 『源氏物語』については4首が採録されています。
 
 
 
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 実は、すでに早くに菊池さんから問い合わせを受けていて、少し資料を送って差し上げたことがありました。これは、日本の文化をインドのみなさんにわかってもらう上で、とてもいい本だと思います。

 今回も、充実した学会の初日となりました。
 少し厳しい議論に展開しそうになったことは、明日のパネルディスカッションで掘り下げたいと思ます。
 
 
 

2010年2月12日 (金)

インドの日本語日本文学の教育現場で

 今日は、デリー大学とネルー大学へ挨拶に行くため、ニューデリーを北の端から南の端まで縦断します。普通、こんな強行軍は避けるところですが、車をフルに活用して敢行しました。

 早朝、リングロードを使ってヤムナー川沿いを北上します。
 途中、ニューチベタンコロニーに立ち寄りました。中国の圧政に耐えかね、チベットから脱出してきた人々が住む地域です。
 チベット寺院をお参りし、狭い路地を散策して、河原に出ました。
 
 
 
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 日本の昭和30年代の風景が広がっています。
 最近は、デリー市街から追い出された牛が、ここにはいました。
 川向こうからは、たくさんの人々が自転車やオートバイで市内に入ってきています。
 中洲に降りたところ、1人の行者さんらしき人が寝ておられました。修行中なのでしょうか。
 
 
 
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 デリー大学では、ちょうど授業時間中だったこともあり、ウニタ先生とラマ先生にご挨拶をして辞することにしました。すると、すぐに学科長がお越しになり、来訪の目的など少しお話をしました。中国のご出身の方でした。デリー大学からは、私のところに国費留学生を預かっているので、今後のこともいろいろとお話しできました。
 中国と韓国は、国策としてでもあるのでしょうが、海外での学習者が急増しています。デリー大学でも、数年前からその勢いが止まりません。方や日本はと言うと、国としての努力はほとんど目に見える形ではなされていないので、学習者が減りはしませんが、中国と韓国の勢いには圧倒されているようです。
 どこの国に行っても、日本の無策により現地の現場が肩身の狭い思いをしておられることは、しばしば目にするところです。このインドでの日本語学習者への日本国の支援は、中国と韓国に押されて、ぶざまなことです。特に、この5年の間の日本の凋落ぶりは、目を覆うばかりです。
 私などが口にすることではないのでしょうが、何か手を打つことはできないのでしょうか。見るに見かねて、というのは僭越ですが、私としては〈インド日本文学会〉などの学術交流を通して、少しでもお役に立てればと思っています。今回は第5回となりました。これを細々と続ける以外に、私にできることはないのです。
 日本の政治家の方は、こんな教育現場にも足を踏み入れてもいいのではないでしょうか。
 結局は何もしないとしても、1人でも多くの方が、こうして日本が日本語教育の現場で、中国と韓国にどんどん引き離されていく現実を自分の目で見ることは、心に何かが残るはずです。
 国際交流基金の努力は、もっと評価すべきです。しかし、予算削減が急務とされる日本で、現地のみなさんは本当にお気の毒なほどの、努力に報われない苦労をなさっています。いろいろな事情があるにせよ、国としていいことは何もないと思います。

 大学院の修士課程の学生さんたちと、お茶を飲みながら『百人一首』などの話をし、質問に答えたりしました。海外で日本の古典文学に耳を傾けてもらえるところは、本当に減ってしまいました。日本においてすでに、文学はもちろんのこと、ましてや古典文学離れの傾向が顕著なので、海外においては当然のことでしょう。現代語で読める日本の文章しか、もう扱ってはもらえません。古典は、ほんの一握りの先生のもとで勉強する人に限られてきています。

 ネルー大学を目指して南下する途中で、シーク教の寺院であるバングラ・サーヒブに立ち寄りました。
 
 
 
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 この寺院は、入るときにあらかじめ頭にスカーフを巻いてもらい、裸足でお参りをします。フッと運転手さんを見ると、なんとご自分用の黄色いスカーフをサッサと巻いておられました。
 この寺院に立ち寄ることは、デリー大学を出てから、走りながら時間などを考えて行くと決めたので、打ち合わせがあってのことではありません。どうやら、この運転手さんはこの寺院に理解のある方のようです。頭にターバンを巻いたシークの方ではなかったので、マイスカーフをご持参の運転手さんに出会えたのは、本当に意外でした。

 池のそばで遊んでいた子どもが、ふざけて友達を突き落としたようです。
 
 
 
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 いずこも、子どもたちは元気です。

 さらに南下を続け、ネルー大学の近くのグリーンパークの中にあるハウズカズという、いわば新しい芸術村に寄りました。
 ここには、古本屋さんが三軒ほどあります。数年前はもっとあったのですが、近年とみに閉店が続いています。また、日本に関係する本も、もう店の片隅に見かけることもなくなりました。しかし、何かあるのでは、との多少の期待も込めて寄ったのです。今日も何もありませんでしたが。

 その一角の奥には、まさに映画に使える、私自身にとってもとっておきの場所があります。
 これから観光地にしていくつもりなのか、昨年辺りから整備に着手したようです。
 
 
 
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 ネルー大学では、学部長との面談が設定されました。
 今回も、アニタ・カンナ先生が同時通訳です。
 
 
 
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 学部長は、ロシアの研究者でした。
 ここでも、日本語学習者への日本の無策ぶりが露呈しました。中国や韓国の勢いが、日本語日本文学に関係する先生たちの存在を危うくしているのです。
 学部長は、日本に対する思いやりの言葉を使っておられました。しかし、中国と韓国がインドの教育現場に与えている影響力は、日本の対応ぶりと比べると、日本への慰めの言葉が身にしみます。もう、先生方の努力だけでは報われない、日本という国としての教育現場への対処の貧困さが、中国と韓国の力と反比例するかのように炙り出されます。
 これは、真剣に検討する課題です。日本が落下を続ける現状は、もう止めようがないにしても、なにがしかの対処策は示す必要はあります。そうでないと、現場の先生方はやりきれないと思います。
 今年、ネルー大学からの国費留学生として私がお預かりしているのは、近松門左衛門の歌舞伎を研究する若者です。古典を勉強する学生は、本当に貴重です。学生本人は悩みながら苦労をしていますが、こちらとしてはアドバイスのしがいはあります。昨年末も、出雲を訪れた時に報告としてのブログを書いたのは、折を見て支援をしている一環のものでした。

 いろいろなことを聞き、見た一日でした。
 夜は、国際交流基金のスタッフのみなさんと会食をする中で、さらに深刻な問題を伺いました。
 明るい話題が見あたらなかった中で、ワインのラベルの「さとり」という日本語が認知されていることがわかりました。
 
 
 
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 さすが、仏教発祥の地です。
 このようなささやかな所から、日本語というものの認識を広めていくしかないのでしょうか。
 ありまにも寂しい話なので、今日はこの辺で。
 
 
 

2010年2月11日 (木)

結婚披露会場に立ち寄ってコーヒーを飲む

午前中は、インドの歴史と文化を勉強しました。

 まずは、世界遺産になっているフマユーン廟へ行きました。
 インド人の入場料が10ルピーのところを、外国人は25倍の250ルピーです。最近は、こうした差を設ける観光施設が増えました。

 古い壁に真っ赤な花が映えています。
 
 
 
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 フマユーン廟は、タージマハールの原型ともいえるものです。真っ白なタージマハールよりも、ここの色合いが気に入っています。
 
 
 
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 敷地の中で、壁面に嵌め込む石材の加工作業が進んでいました。
 漆喰のようなものを混ぜています。
 
 
 
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 その近くでは、赤い石にみんなで彫り物をしていました。ダラダラとしゃべりながら、いつ終わるとも知れない根気のいる作業です。
 
 
 
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 ここのリスは、人によく懐いていました。
 
 
 
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 北上して、スンダルナガルマーケットで骨董品と紅茶を物色し、さらに北上してクラフトミュージアムへ行きました。
 ミュージアムは国立ということもあってか、昨年の3月までは入場無料でした。しかし、今回は150ルピーになっていました。いろいろと事情があるのでしょう。大英博物館やナショナルギャラリーなどは、今でも無料ですが…。
 ここは、インドの地方文化が実物を通してわかって、非常におもしろいところです。
 物産品の対面販売も、楽しみの一つです。

 一旦宿に戻り、アニタ・カンナ先生と明後日の学会の打ち合わせをし、ご一緒にサヒタヤ・アカデミーへ行きました。
 
 
 
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 そこで責任者の方と、今後の共同研究の話などをしました。
 今西館長と私の日本語の通訳は、アニタ・カンナ先生です。
 
 
 
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 中でも、『源氏物語』のダイジェスト版である『おさな源氏』のインド各語訳を作成するプロジェクトの話は、実現性の高いものとして大きな収穫でした。

 一昨年まで学会の会場として利用させていただいていたホールが、取り壊しになっていました。懐かしい場所なので、このような無残な姿は残念です。しかし、新装なったホールも楽しみです。
 
 
 
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 一時間半ほど会談をした後、さらに国際交流基金へ行き、今回の学会開催の支援や、今後のことについて所長とお話をしました。

 遠藤所長と有田さんとは、今後の交流について、ざっくばらんに話し合うことが出来ました。
 日本文学を通した国際文化交流には、難問が山積しています。しかし、とにかく今の活動を継続することで、お互いの意志の疎通を図る中で、インドの動向を見ていくしかありません。
 文学が直面している厳しい現実は、日本もインドも同じ根にあります。若者が就職できない、研究や事業に予算がつかない、それでいて毎年の成果が数値として要求される、などなど。明るい見通しがまったくない中、今は〈インド日本文学会〉をとにかく続ける中で模索していくしかありません。
 文学研究を通しての国際文化交流は、理解してもらえる機関や人がいるうちに、いろいろなイベントとして取り組んでいくもつりです。
 今回は、研究発表に加えて、「日本の古典籍」としての巻子本・画帖・冊子本などを、複製本ではありますが持参して展示解説をします。そして、直接そのモノに触ってもらうのは、現代だけではない古典というものへの理解を求めての企画です。展示解説は初めてのことなので、その説明文に漢字が多くて難しいものになったかもしれません。回数を重ねる中で、反応を見ながら改善して行けたら、と思っています。
 何事も、「まずはやってみる」という気持ちで取り組んでいます。

 いつものように、食後に宿舎であるお寺の近所にあるジュース屋さんへ行きました。
 いつもは、夜の9時過ぎには、おじさんがいたことが多いように思います。しかし、楽しみにしていたおじさんは今日もいませんでした。
 そのことを知ってか知らずか、飲み終わった頃に、お兄さんが果物や野菜の盛り合わせをドッリとサービスしてくれました。隣の店のお兄さんが、どうしたことか、その果物を受けるプレートをくれました。おまけに、爪楊枝も。どうやら私は、よく来る変な日本人になったようです。

 そんな時に、大きな花火の音がしました。
 今日、街中で白馬の馬車を何台も見かけたので、結婚式であることはわかっていました。それが、宿のすぐ近くの公園であるのです。
 
 
 
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 これまでに何度も行っています。2月と10月に多かったように思います。一般にも自由に食事が振る舞われるので、公園を借り切っての臨時の披露宴会場で、いろいろとつまみ食いするのも楽しみの一つです。
 
 
 
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 今日は、食後だったこともあり、コーヒーだけでしたが、チャッカリといただきました。
 
 
 

2010年2月10日 (水)

急遽ベジタリアンになる

 飛行機の機内食は、カロリーが高いせいか、いつも体調を崩しがちです。そこで、今回はベジタリアンの食事を搭乗前にカウンターでリクエストしました。

 離陸一時間後、最初の食事は、いつものチキンとかビーフではなくて、マッシュポテトとチーズの料理でした。これなら、食材のことを気にせずに食べられます。野菜サラダと果物もあり、あっさりと食べることができました。

 インド到着前の食事は、チーズと野菜のサンドイッチでした。しかし、周りの人たちは、ちらし寿司です。しまった、と思いました。お寿司なら、それにするんだったと後悔しても、もう始まりません。いまさら変更するわけにもいかず、惜しい思いの中で、サンドイッチを口にしました。周りの人たちの、海老やシイタケがおいしそうでした。

 インドの地を踏むと、いつもながら土の香りがします。懐かしい香りです。
 
 
 
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 定宿となったワールド・ブッディスト・センターのみんなも、元気でした。
 いつも行くジュース屋のおじさんは、今日はいませんでした。お兄さんも私のことを覚えていてくれたようで、ニッコリと笑ってくれました。久しぶりのザクロジュースです。

 ちょうど1年ぶりですが、何も変わっていません。気持ちが落ち着きます。
 今回は、大東文化大学の院生が、音楽の調査研究で止宿していました。いろいろと楽しい話を聞くことができました。

 ネルー大学のアニタ・カンナ先生に電話をし、明日の予定を相談しました。
 時差が3時間半なので、体調にはあまり影響しないはずです。しかし、また本復していないこともあるのでしょうか、気怠さは抜け切れていません。これからの慌ただしい日々の中で、うまく調整します。
 また、充実した日々が送れそうです。


お寿司にありついて日本出国

 今回のインド行きは、5人を案内しての旅です。
 国文学研究資料館の館長は、昨秋ご一緒に英国ケンブリッジに行っているので、旅の心得はよく知り合っています。
 後は、同僚一人と大学院大学の学生2人を引率しての旅です。調査・研究・研究発表・学生指導・文化交流などなど、たくさんの使命を背負っての旅となりました。
 とにかく、みなさんが無事に帰国でき、またもう一度インドへ行きたいと思ってもらえたら、私の役目としては大成功です。

 今回は、みんな海外渡航の経験のあるメンバーなので、集合は搭乗手続きをするチェックインカウンターではなくて、すべての手続きを終えた搭乗ゲートにしました。その方が、気楽に空港での待ち時間を使えます。

 チェックインを終えて出国しようとした時、偶然にかつて指導を受けたことのある先輩と鉢合わせしました。広い日本でこんな出会いがあるのです。出世頭でもあった先輩は、今やファーストクラスの旅行者です。お言葉に甘えて、帯同者ということでいつもとは別の場所で手荷物検査を受け、日本を出国しました。そして、ファーストクラスのラウンジへも、一緒に連れて行ってもらえました。
 ラウンジでは、軽食などが自由に食べられるのです。朝食がまだだったので、さっそくお寿司をもらいました。
 昨夜は、しばらく日本を離れるので、そしてインドには回転寿司屋がないので、しばしの別れということで、たらふくお寿司を食べました。それが、なんと今日の出国時にも、大好物のお寿司を口にすることができたのです。ただし、マグロやハマチなどの生ものはなく、穴子や海老、そして玉子と巻き寿司などでした。それでも、おいしくいただけました。
 おまけに、無線のインターネットも自由に使えるのです。宿舎から成田までの珍道中の様子書いていたので、早速それをブログにアップしました。

 旅に出ると、いろいろなことがあるものです。悲喜こもごもの待ち受ける旅は、その一つ一つに対処しようとするせいもあってか、脳みそを柔らかくしてくれます。特にインドは、刺激的な一方、不可解なことに遭遇することが多い国です。
 今回も仕事の合間に、たくさんのものを見たり聞いたりしたいと思っています。
 
 
 

2010年2月 9日 (火)

またも珍妙な成田行き

 早朝に目覚め、早々に成田を目指して出発です。

 高校の教員をしていた頃、「5分前集合」を生徒たちに呼びかけていました。今も、ときどき、あのころの習慣が目覚めます。今日も、あらかじめネットで調べておいた経路の5分前に行動開始です。

 昨日、妻からゆうパックで届いた、差し入れの秘密のドリンクをグッと飲み干し、気怠い身体を叱咤激励してのスタートです。

 地下鉄の駅までいつものキャリーバッグを引っ張り、いいタイミングで来た電車に乗りました。ところが、これは当初の乗換駅の一つ手前で別の線に乗り入れする列車でした。今日は、いつもよりも320円安くて、しかもいつものように1回だけの乗り換えで行ける経済的な経路にしたはずなのに、少し早く行動したために一本早い電車に乗り、かえって面倒な行き方になったようです。

 しかも、それが快速だったために、しばらく走ってから慌てて降りようとしたところ、最後尾にいたことが幸いしてか、車掌さんからもう一つ先の駅で乗り換えた方が早いですよ、との親切なアドバイスをもらいました。ありがとうございます。
 確かに、たくさんの駅を通過して行きます。
 教えてもらった通りの突然の乗り換え駅は、本来乗り換えるはずの一つ手前の駅でした。しかも、エスカレーターのない階段を上がって、さらに改札を通り、そしてまたエスカレーターのない階段を下ります。もう一本後の電車だったらやらなくてもよかった重たい思いを、何かの罰ゲームのようにして課せられます。

 当初の乗換駅にやっと着いたところ、予定よりも15分も早いので、しんどい思いをしたけれど良かった良かったと安堵しました。しかし、次に成田へ行く電車に乗るためには、この駅で15分も待つことがわかりました。

 あらかじめ印刷しておいた紙を見ると、本来予定していた経路で来ても、これから乗る電車に接続しているのです。しかも、この駅まで直通で来られ、さらには乗り換え時間のロスが2分と、非常に効率的な時間配分となっています。

 これも「あり」だと思い直して、缶コーヒーを飲みながらこの文章を書いています。

 インドのみなさんへのお土産をたくさん詰め込んだバッグを引きずりながら、こうしてまた順列組み合わせのゲームをしながら、成田へ向かうことになりました。
 我が宿舎から成田への経路は、便利な所にいるだけあって、たくさんの選択肢があります。
 こうなったら、いろいろなパターンを楽しむことにします。料金も、1010円から3160円と、バラエティーに富んでいます。いずれも90分ほどなので、楽しく乗り継げそうです。
 
 
 

谷崎全集読過(6)「悪魔」「続悪魔」

■「悪魔」

 汽車恐怖症で始まります。前作「恐怖」を引き継いでいます
 谷崎は、時間をどうやって知ったのでしょうか。「もう五分も乗つて居れば」とあるからです。この5分は、どれだけ正確な時間なのでしょうか。少し、の意味としても、一二時間はどうでしょうか。「二三十分立つてから」ともあるので、時間は意識して語られています。それでは、この当時の読者はどうだったのでしょうか。
 この作品は、ちょうど私が生まれたときのものです。自分の幼かったころの社会を思い出すと、時間意識は希薄だったように思います。
 柱時計が出てきます。ボンと刻を打ちます。30分おきに鳴っているようです。

 この作品でも、英語が出てきます。onanism attractive などです。
 女が、鼻をかんだハンカチを、ペロペロとなめる最後のシーンは、一種異様な心理を描こうとしたものです。ただ、突然なので、戸惑うところです。計画的に語られているようではないのでは、という印象を持ちました。思いつくままに話がつながっていく、という趣向のようです。【2】


初出誌︰別冊小説新潮
初出号数︰1951年1月
 
 
 
■「続悪魔」

 「近代人にも似合はない」ということばが出てきます。明治45年頃の「近代人」というものは、どんな人なのでしょうか。
 「近代人なんてものが、女に解るもんぢゃないんだ。」ともあります。

 許嫁者だった鈴木と下宿屋の娘の照子が、おもしろく描かれています。文章が生きていて、迫力があります。ただし、説明口調で論理的な物言いが、気になります。
 しかし、会話のやりとりが絶妙です。
 煮え切らない下宿の男2人と、ハキハキした親子の対比もいいと思います。ただ、話が湿っぽくてベトベトしているので、私には向かない作品です。
 時間の経過が書き込まれていて、ここに興味を持ちました。これは、この前編に当たる「悪魔」も同じです。【4】

初出誌︰『中央公論』大正2年1月号
 

2010年2月 8日 (月)

井上靖卒読(106)《未収録詩篇》

 「夕顔の花」という詩があります。

今宵、
しらじらと咲いた夕顔の花の様に
宇宙の中に、
私もぽつかりと黙つて咲きたい。

明日までの生命をかざして、
誇りやかな一つの開花。
つゝましい一時の王座を巡つて
哀傷の歌は聞こえない。

夕闇の中に、
しらじらと神秘の灯よ。
しらじらと敬虔な灯よ。

あゝ、
宇宙の中に、
私もぽつかりと黙つて咲きたい。


(昭和4年10月1日発行『宣言 10月号』第1巻第3号に井上泰の筆名で発表。
「しらじら」と「ぽつかり」には傍点を付す)

 前回の「井上靖卒読(105)《拾遺詩篇》」で記したように、「倒像」と「嗤ふ」に見られる「夕顔」と「灯」などのイメージが通底しています。

 しかし、井上靖の小説には、これまで読んできた範囲では、このイメージと重なるものを、今は思い出せません。
 気を付けて読み進めていきたいと思います。


 この「未収録詩篇」の中で、私が一番気に入ったのは、「神々とともに永遠に」という詩です。これは、『毎日新聞』(昭和41年10月6日)の「パレスサイドビル落成記念特集」に掲載されたものです。
 散文なのですが、微笑ましい神たちがいいのです。

 また、「鳥取県日南町井上靖文学碑碑文」も好きな詩の一つです。

ここ中国山脈の稜線 天体の植民地 風雨順時 五穀豊穣 夜毎の星蘭干たり 四季を問わず凛々たる秀気渡る ああ ここ中国山脈の稜線 天体の植民地

 (「蘭」は草冠がない文字)
 (昭和53年5月1日、同町太田峠に建立された碑のために書かれた自筆の詩)

 日南町にある「野分の館」を、できることなら一夜の宿とし、夜空を見上げてこの詩を口ずさんでみたら最高でしょう。テントを張ることくらいなら、許してもらえるかも知れませんね。
 来月、日南町を再訪することになっています。この地に立つのが、楽しみです。


井上靖全集1︰詩篇
 
 

2010年2月 7日 (日)

井上靖卒読(105)《拾遺詩篇》

 井上靖の詩としては、460篇が確認されています(『井上靖全集』第1巻「解題」583頁)。
 8冊の詩集以外と『井上靖全詩集』の中の「拾遺詩篇」などをまとめて、《拾遺詩篇》《未収録詩篇》として、ここではとりあげます。

 井上靖の最初の詩とされているのは、昭和4年2月11日発行の『日本海詩人 2月号』(第4巻第1号)に「井上泰」の筆名で発表された「冬の来る日」だとされています。これは、昭和4年から11年までの井上靖20代の詩41篇を集めた『春を呼ぶな』(平成元年刊行)に収録されています。

明日か、明後日か、

やがて巡り来ようとしてゐる

冬の最初の音づれの日よ、

冬の来る日よ。
(中略)


と始まります。

 句読点が、すでに最初からあることに気づきます。
 そして、これが後になると、この改行もされなくなります。
 詩か文かが曖昧な表現形式となっていくのです。

 『春を呼ぶな』の「あとがき」で、井上靖は次のように締めくくっています。

こんど一篇一篇を、丁寧に読んだが、さすがに若さというものを、美しく、眩しく思った。

 初期の詩の中で、私は「蛾」「月明に吠ゆ」「みかん」「倒像」「嗤ふ」「手相」が気になっています。
 「倒像」で「敬虔な地球の灯—夕顔が月にしろじろと咲いてゐる。」とあり、「嗤ふ」に「地球を代表して、夕顔が月にいぢらしい灯をかざしてゐる。」とあります。
 この表現については、改めて調べてみたいと思っています。


井上靖全集1︰詩篇
 
 
 

2010年2月 6日 (土)

心身(50)微熱での水中浮遊

 一旦は治まったかと思われた微熱が、また再発しました。
 半日ほどジッとしていました。しかし、快方に向かう気配がありません。

 先日も、アメリカから帰ったばかりの時に、身体が非常に怠いことがありました。すぐにスポーツクラブへ行き、音楽に合わせてバーベルを上げ下げする「ボディバンプ」というコースで汗を流しました。すると、翌日はスッキリとした体調になりました。
 来週からインドへの海外出張なので、また荒治療をと思い、思い切って銀座へ出かけました。

 銀座三丁目にあるスポーツクラブの周辺は、歩行者天国ということもあり、ものすごい人出でした。そして、中国語が氾濫する街と化していました。たくさんの方々がお出でになるのはいいのですが、如何せん、あのマナーの悪さには「どっか違う国へ行ってくれませんか」と言いたくなります。
 観光客はお客様ですから、大切にすべきです。しかし、あまり下品な態度には、何らかの方法で日本が持つ文化やマナーの意味を教えてあげてもいいのではないでしょうか。中華思想のまき散らしはほどほどにして、異文化を謙虚に学ぼうという姿勢も、国際交流の観点からは必要ではないかと、ブラブラと歩きながら思いました。
 まずは、受け入れる旅行会社の教育を見直すことからでしょうか。

 さて、今日は身体が怠いので、きつい運動はさけました。
 ちょうど、「アクアベル」というコースが始まるところだったので、早速参加しました。
 これは、かつて一度紹介したものです。

心身(40)銀座のプールでダンベル体操

 ウレタン製のダンベルを持って、水中でいろいろな動作をするのです。
 浮力と水の抵抗を利用した、お手軽なエクササイズです。

 今日は身体が重いせいか、水中に浮くのはいいとして、それから動くのにバランスが崩れっぱなしでした。2度ほどひっくり返りました。
 両膝の裏でダンベルを挟んで水中に浮いた状態で、前進や後退、そして平泳ぎやクロールやバタフライの手を加えて、前後に進んだりしました。これが、バランスが取りにくくて難しいものでした。
 男2人、女4人の参加者でした。女性は体型が関係しているのか、うまく浮いておられます。男2人は、共に年ということもあるのでしょうか、悪戦苦闘していました。
 30分ほどのエクササイズでした。肩の筋肉をよく使ったように思います。

 気泡風呂とサウナで気分をリフレッシュして、心機一転帰宅しました。
 今のところ、気怠さも軽くなり、体調もよくなりつつあるようです。

 残るは、目の奥が重たいことです。これは、寝ることで軽減できるはずです。
 やらなければならないことは、本当に山ほどあります。今は、何に目を瞑るか。
 眼を瞑って、思案しながら寝ることにします。
 
 
 

2010年2月 5日 (金)

谷崎全集読過(5)「彷徨」「あくび」「恐怖」

■「彷徨」
 
 人のありようや行動や考え、そして風景などを描くだけで、おもしろくないものでした。
 何をテーマにしたいのかが、よくわかりません。
 最後に、「未完」とあります。
 終わりに出てくる「お才」の話を、もっと聞きたいところで終わります。もったいないと思いました。
 なお、この作品には、英語は出てきません。【1】
 
初出誌︰明治44年2月号「新思潮」
 
 
 
■「あくび」
 
 早々に英単語「Understanding」が出てきます。
 読んでいて、こちらがあくびを堪えることになるほど、退屈な身辺雑記です。
 学生たちの酒席談義を、ダラダラと聞かされる感じがしました。
 青春を謳歌する若者たちを語るというスタイルが、この頃の谷崎のスタンスのようです。【1】
 
初出誌︰明治45年2月「東京日日新聞」
 
 
 
■「恐怖」
 
 ドイツ語「Eisenbahnkrankheit」が早々に出てきます。鉄道病という意味だそうです。
 『罪と罰』に出てくる英文も引かれています。
 この頃の谷崎の精神状況を知るための資料にはなるかもしれません。

 京都の五条あたりが描かれています。しかし、京都らしい文化には触れていません。

 グズグズする男。その煮え切らなさを描こうとしたのでしょうか。
 一人語りにしかすぎません。【1】
 
初出誌︰大正2年1月「大阪毎日新聞」
 
 
 

2010年2月 4日 (木)

井上靖卒読(104)『風濤』

 宗主国である元のフビライからの命令で、日本へ使者を送り届けることになった、高麗の困惑と心労が詳細に語りだされます。人間を超越した大きな力というものが、雄大に描かれていきます。
 井上靖にしかできない、独特の小説作法と言えます。

 高麗の元宗は、10年前に初めて世祖フビライに会ったときの温顔を忘れられないでいます。人を信ずることとを支えとする国王です。それは、世祖の本来の姿であったのか、常に読者に迫る問いでもあります。
 この作品は、フビライの姿がその背景にデンと据えられています。フビライが、この物語を動かしていきます。

 元宗は、フビライの使いを無視する日本を、腹立たしく思います。そして、いつも高麗の行く末が気になっています。

風濤に遮ぎられた一小島国の謂われなき矜持が堪まらなく腹立たしかった。日本が蒙兵に蹂躙されようとされまいと、そうしたことはどうでもよかったが、その巻き添えを食って、高麗に”死”がやって来ることには堪えられなかった。(152頁、新潮文庫)

 元宗は、身辺のあまりの変転に、何を聞いても驚かなくなっていました。それだけ、波瀾万丈の中に身を置いていたのです。

 その後、元宗の息子の忠烈王みずからが、日本征討を願い出る形をとります。やむにやまれぬ策に出るのです。とにかく、属国としての悲哀を、淡々と語ります。

 本作品では、『高麗史』などを駆使しているため、資料からの引用が多く難解です。しかし、話の展開が巧みなので、引用文がわからなくても引きつけられて読み進みました。
 ここには、一国の歴史が語られています。忍耐強く、粘り強く処していく、元宗と忠烈王の姿が、冷静に描かれています。
 歴史における資料性を重視した構成のため、盛り上がりに欠けています。しかし、その客観的な視点が、この作品の独自性を見せています。【3】


初出誌︰群像
初出号数︰1963年8月号第1部、10月号第2部
備考︰1964年『読売文芸賞』受賞

新潮文庫︰風涛
ロマンブックス︰風濤
井上靖小説全集16︰蒼き狼・風濤
井上靖全集15︰長篇8

〔参照書誌データ〕
 井上靖作品館
 http://www2.plala.or.jp/baribarikaniza/inoue/


2010年2月 3日 (水)

心身(49)微熱の中、お寿司の丸かぶり

 昨日は一日中、瞼が重くて、目を開けているのがやっとでした。

 今朝、通勤途中で身体が怠くなり、身体の節々に違和感を覚えるようになりました。
 その内、首筋から頭の左側の芯が痛み出しました。
 これはまずい、と思って、仕事のペースを落としました。

 国文学研究資料館の地下書庫で、巻子本や冊子本を点検していると、本のための空調が徹底しているだだっ広い空間にいたこともあり、シンシンと身体が足下から冷え出しました。そして、午後からは、微熱を感じ出します。
 これは本当にまずいと思い、午後に予定されていた副館長主催の研究会は、早退して身体の養生に徹することを伝え、了解を得て帰路につきました。

 帰りの中央線の電車の中は、ほとんど覚えていません。フーッと深い息をしていたように思います。
 東京駅で、中央コンコースを歩いていたら、巻き寿司の丸かぶりを宣伝していました。そうか、今日は節分か、と思って立ち寄ると、おばあちゃんがよく買って来てくれた古市庵のお寿司だったのです。東京にもあるのだ、と、思わず一本買ってしまいました。
 今年の恵方は、西南西だそうです。この風習は、いつからのものなのでしょうか。私の小さいときには、これはなかったように思います。バレンタインチョコレートのように、都会では新しく作られたものかもしれません。
 海外出張と年度末の業務繁忙が続いているため、しばらく京都の自宅に帰っていません。いつも新幹線の中で食べていた、横浜の崎陽軒のシュウマイが、急に食べたくなりました。すると、よくしたもので、すぐ横に崎陽軒のブースがあるのです。ウッソーと思いながら、6個入りの小さいものを買いました。

 東京駅から京葉線に乗り換えるときに、いつものディズニーランド帰りの、モノに憑かれた浮かれ者たちとすれ違います。3本の動く歩道で、いやでも目に飛び込む、マインドコントロールされたかのような一団には、毎度のことながら辟易します。しかし、今日は反発を感じる心のゆとりもなく、無視してやりすごしました。眼球が怠くて、夢遊病者たちを追えません。今日は、こちらが夢遊病者です。

 宿舎に帰ると、シューマイや巻き寿司を口にし、いけないと思いつつ糖質ゼロの日本酒を少々。そして、風邪薬を飲みました。お酒と薬はよくないぞ、と思いながら。

 熱は微熱です。37度の半ばなので、早々に寝ました。
 先ほど目覚め、これを書きながら計ると、まだ37度少々あります。
 もう一度、身体を休めることにします。
 明日は、総合研究大学院大学の日本文学研究専攻の入学試験日なので、試験官の役を受け持つ私は、朝早くから出勤です。夜遅くまで、慌ただしい1日になることでしょう。

 これ以上こじれないように、今は寝ることに専念します。
 
 
 

2010年2月 2日 (火)

散らし書き風(?)の和歌

 今回の議会図書館本『源氏物語』の調査では、たくさんの興味深いことがわかりました。また、わからないことも、さらにそれ以上ありました。

 議会図書館側から、今回の状況説明・調査報告会も兼ねて、スタッフとともに懇談の場(ブリーフィング)を持ちたいとのことでした。たくさんの成果があったこともあり、最終日の午後、司書のみなさんと2時間ほどの会合を持ちました。

 調査報告は、伊藤、齋藤、神田の3人で行ないました。
 以下、その場で私から報告したことの一部を忘れないうちに記しておきます。

 まず、今回の議会図書館本『源氏物語』について、和歌が散らし書き風に書かれていることについてです。このような和歌の書写について、私は他の事例を知りません。
 研究仲間にも、この件をすぐにメールで問い合わせました。しかし、見たことがない、との返信でした。

 議会図書館側からの了解を得ましたので、調査研究の一環として今回撮影した画像の中から一枚を掲載します。

The Japan Team, Asian Division, Library of Congress permits Dr. Tetsuya Ito to include the following digital image in his blog Kamo Kaido kara 2 at http://genjiito.blog.eonet.jp/.
 
 
 
100125waka2gyou
 
 
 

“Image: Courtesy of Asian Division, Library of Congress.

Call Number: PL788.4 .G4 1537 Japan Cage.”

Image from Genji monogatari. 源氏物語
Japanese Rare Book Collection (Library of Congress)
LC Control No.: 2008427768
LCCN Permalink: http://lccn.loc.gov/2008427768
Description: manuscript. 54 v. ; 25 cm.

 
 
 
 これは、第24巻「胡蝶」の一部です。
 このような、割り注のように散らして和歌が書かれているのは、以下の13巻です。

12須磨・13明石・14澪標・20朝顔・22玉鬘・24胡蝶・25蛍・28野分・29行幸・44竹河・45橋姫・51浮舟・52蜻蛉

 議会図書館本『源氏物語』の全54巻にわたって、このような書式で和歌が書かれているのではありません。
 また、同じ巻に、この書き方と、1行から2行にわたる普通の書き方が混在しています。

 こうした和歌の書き方について、ご教示をいただけると幸いです。

 また、議会図書館本『源氏物語』は、だいたい10行で書写されています。しかし、02帚木には、8行で書かれた丁、9行で書かれた丁、10行で書かれた丁と、1頁に書かれる行数が異なります。
 これについては、「桐壺」で8行と9行「常夏」は10行と11行「横笛」は10行と11行と12行、というように、さまざまなパターンがあります。
 特に、議会図書館本『源氏物語』の後半部分は、この傾向が顕著です。

 これは、どのように考えたらいいのでしょうか。

 私は今のところ、書写する紙の節約ということが、その背景にあるように思います。これは、列帖装の本の最後の括りの最後の紙に書写して終わっている巻がほとんどだからです。

 この件についても、ご存じであれば、ご教示を乞いたいところです。

 なお、今回は以下の項目を設定して、全54巻の書写実態を調査しました。

巻名・丁数・遊紙・括り・本文行数・和歌分書・書入・校訂・傍記・異文注記・朱書・鉛筆書・摺消・ナゾリ・濁点・聞書・巻末注記・調査担当者・その他

 その詳細は、後日公表する報告書をご覧ください。

 以下、私が議会図書館でのブリーフィングで報告した内容の一部を、メモとしてここに記しておきます。
 これは、この件での広範なご教示をいただきたい、との思いを込めて掲載するものです。
 
 
 
【米国議会図書館本『源氏物語』の様態(平成22年1月27日・暫定版)】

■調査日 2010年1月25日(月)〜27日(水)
■調査メンバー 豊島秀範(國學院大學)・伊藤鉄也(国文学研究資料館)
        斎藤達哉(国立国語研究所)・高田智和(国立国語研究所)
        菅原郁子(国文学研究資料館)・神田久義(國學院大學)
■全54冊
■装丁 列帖装(虫少々、塗り箱入り)
■題簽 柿渋色
■寸法 約25センチ×17センチ
■用紙 鳥の子
■表紙 濃青色(後補による改装か?)
■題簽 極めは五辻諸仲(1487-1540)筆、外題 三条西実隆 古筆了仲極め札
                         (正徳元年5月下旬)
■本文 今後さまざまな分野から検討が加えられるはずである。
   今は、伊藤分別試案〈乙類〉とする。従来の〈別本群〉に近いものである。

■報告
 【伊藤メモ】(資料「議会図書館本『源氏物語』の調査報告(暫定版 2010/01/27)」より)

(1)和歌は4字下げ
 第2句と第3句、第4句と第5句などが、割り注のように 2行書きとなっていて、一見散らし書きのように書かれている。これは、非常にめずらしい例である。従来知られていない装飾的な書き方と思われる。

(2)毎半葉、8行から12行書きと、書写行数にバラツキ
 巻の中で9行から10行書きになったり、9行から8行になったりしている。古写本で書写行数にむらがあるものは時たまある。しかし、それでも精々1〜2行程度である。この本のような例はめずらしい。

(3)遊紙がない巻が多い
 ほとんどの巻で、最終丁のオモテかウラに文字が書かれている。改装によって失っている訳でもない。何かの事情で、紙を節約する必要があったのではないか。少なくとも、人への献呈本ではなさそうである。

(4)表紙左端4ミリの位置に、縦にヘラで押しつけて引いた線の跡が、全巻にわたってある
 古い冊子本には、まれに、巻子本の押さえ竹(一番端に取り付けてある竹で、捲れるのを防ぐためのもの。八双とも)と同じものを持つものがある。尾州家河内本にも、その跡かと思われる痕跡がる。ただし、それはかなり時代が遡るもの。非常にめずらしい例となり、今後のさらなる調査がまたれる。

(5)全巻にわたって、見返しの右端に糊の跡と、剥がされた和紙の一部が残っている
 改装された跡だと思われる。補修前の原表紙を推測する手掛かりとなる。

(6)傍記混入の例
 第23巻「初音」の第1丁ウラ9行目に「御かた/\にの」と書かれている。ここは、物語本文に「タつ方、御方々の参座したまはんとて、」とあるところなので、助詞の「に」か「の」のいずれかが傍記されていたものと推測される。それが、本行に傍記混入したものではなかろうか。
 現在、麦生本と阿里莫本に「御かた/\へ」とある以外、私が確認している他の古写本17種類には、「御かた/\の」とある。この議会図書館本のように「御かた/\にの」という文は、初めての例となる。
 おそらく、「御かた/\の」の「の」の右に異文注記として「に」が書かれており、その「に」が「の」の前に混入したと思われる。これは、議会図書館が伊藤分別試案〈乙類〉とした場合、〈乙類〉の傍記は本行の前に混入する、という傾向の実際例ということにもなろう。
 なお、「桐壺」における傍記混入の実際については、私の後の神田氏の報告で詳細になされた。

(7)本書の書写者には、文節意識がある
 今回私が詳細に調査した「初音」巻を例にする。
 この巻の改頁箇所は、以下のようになっている。


文節で改頁 12例
単語で改頁  6例
語中で改頁  1例


 頁を跨る書写において、切れ目のいい語句のところで書き終えて頁を改めていることがわかる。
 これは、書写者に、無意識ながらも語句の切れ目に関する認識があったと言えよう。
 なお、この問題については、拙文「古写本における書写者の心理を読む」(豊島秀範氏の科研研究成果報告書『源氏物語本文の再検討と新提言 第3号』2010年3月)を参照願いたい。

(8)「初音」巻のウラ見返し一面に、半丁9行分の文章が映っている
 これは、丹念にその紙面が削られているので、判読に時間を要する。
 また、その紙の裏面にも、半丁9行分の文章が微かに判読できる。
 これらが、どこの巻のどの部分なのか、または別作品なのか、今のところは不明である。後日の調査とする。
 
 
 
 このように、非常に成果の多い、充実した調査となりました。
 議会図書館本『源氏物語』を対象とした今後の『源氏物語』の研究が楽しみです。

 以下、調査とは別に非常に個人的なことも、ここに。
 この調査最終日に、私は一食しか口にできませんでした。
 まず、前夜はこの報告資料を作成するために、ほぼ徹夜です。そして、小型プリンターを持参していたので、早朝にホテルの自室で、パソコンで作成したエクセルの表や文章を印刷しました。しかし、よくあることで、なかなかうまく印刷できません。何とかきれいに印刷ができましたが、そのおかげで、朝食を摂る暇さえない慌ただしい朝となりました。
 そして昼食は、調査の継続と写真撮影と午後の報告用の資料作成のために、食べる時間が吹っ飛んでしまいました。
 そのおかげもあって、最終日の夜は充実した思いで、最後のワシントンの食事を楽しみました。
 もっとも、この時ばかりは、お寿司ではありませんでした。これは、参加なさったみなさまへの、ささやかな配慮ということにしておきます。毎晩お寿司では申し訳ない、との気持ちからです。
 
 今回の調査でご高配をたまわった米国議会図書館アジア部日本チームのみなさん、そして調査に参加されたみなさん、本当にお疲れ様でした。

 さらなる研究に向けて、この議会図書館本『源氏物語』を、みんなで有効に活用していきたいと思います。
 
 
 

 

2010年2月 1日 (月)

心身(48)新年の血糖値を分析する

 新年1月は、海外出張が2回ありました。
 外食続きで、しかも海外での食事ということで、体調管理が大変です。
 それでも、120前後の数値にコントロールすることを心掛けました。
 大きくは外れなかったように思います。
 赤字が現地滞在時の数値です。

(1)モンゴル行き前後
 109 - 142 - 131 - 134 - 154 - 141 - 176 - 129 - 130 - 131 - 129

(2)アメリカ行き前後
 135 - 121 - 112 - 191 - 156 - 142 - 123 - 115

 旅先の中日あたりで、数値がグーンと高くなっています。現地での食生活に対する慣れと、いろいろな方とのお付き合いが関係しているようです。
 自覚しているのですが、どうしてもこうなります。

 傾向は掴めているので、あとは対策と実行です。
 旅先では、食事は食べられるときに食べ、眠れるときによく寝ることが大事だ、と言われています。
 それを実践し、心掛けています。その中でのカロリーコントロールなので、なかなか難しいものがあるのです。
 今年から、野菜のタブレットを持参するようにしました。しかし、実際にはモンゴルで2回、アメリカでは0回と、ほとんど口にしませんでした。その必要がないほどに、野菜サラダを食べたからです。野菜に気を付けているのは、いいことだと思います。
 やはり、肉と油物をどうするか、ではないでしょうか。その意味では、出かける前に実験したように、子羊のラム肉はカロリーコントロールにはよかったように思います。現地でも毎日のようにマトンを中心とした羊の肉を食べました。しかし、その割には数値は上がっていません。
 アメリカでは、ほとんど毎日、夜はお寿司を食べました。これがよかったのでしょうか。牛肉と豚肉は一口も食べませんでした。

 来週からはインドです。インドではマサラ料理ばかりなので、確実にコントロールできることが、これまで毎年行って来ての経験からわかっています。
 また、宿泊先のお寺の前で毎晩飲むザクロジュースが、体調を整えてくれます。インドでの体調管理は心配していません。かえって、体調がよくなって帰って来ることが多いのです。

 我が身に抱える難事を、今はよき試験紙だとポジティブに理解して、食事と運動でコントロールしていくしかありません。昨日も、夕方から銀座に出かけ、一泳ぎしてきました。
 身体のいろいろな部位を切り取っている身なので、あと数年の寿命は細心の用心をして全うしたいと思っています。そして、1日でも長く寿命を延ばせるよう、自力での努力を続けることにします。今は、努力で可能だと確信しています。当面は、定年までが目標です。

 とにかく、可能なうちに「何でも見てやろう」(小田実)の精神で、これまで通り、日々を過ごしていきます。
 
 
 

NPO法人〈源氏物語電子資料館〉広報室より

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