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2010年3月17日 (水)

井上家の疎開先としての日南町(3)

 井上家が戦後、この「曽根の家」を引き払った後、取り壊される前に撮影された写真が1枚だけ残っています。
 日南町で井上靖の文学を敬愛する人たちが作っておられる「野分の会」の代表・伊田美和子さんが、大切にお持ちのその写真の複写をくださったので紹介します。すでに、いろいろな所で公開されているので、ご存知の方も多いことでしょう。
 
 
 
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 昨日のブログで紹介した写真で言うと、コウジヤさんの脇道を上って行き、杉の木の手前から見上げたアングルで撮影されています。
 この「曽根の家」の写真は、この1枚しかないということでした。しかし、これは、ここへわざわざ撮影に来たとしか思えない写真です。ということは、もう少し上り、家の前からも撮影したはずです。そのネガがあれば、この写真の前後にも家が写っていることが確認できるはずです。

 この写真を持っておられたというYさんの家で確認してもらいました。しかし、これしかなくて、ネガもないとのことでした。そして、これは昭和40年頃のものなのだそうです。撮影した人も、今ではわかりません。これは、調べればわかるはずです。50年も経っていないのですから。

 現在、この写真のコピーがたくさん出回っています。それは、10年前に伊田さんが、たくさん作って配ったものだとのことでした。
 私がいただいたのも、このときに焼き増ししたものでした。色がだんだん褪せてきています。とにかく、このままでは色が抜けていくので、なんとかネガを探されることをお勧めしました。そして、ネガが見つかったら、袋から出さずに、写真屋さんに持って行かれるようにと。空気に触れて、ネガのフイルムが急激に酸化することが怖いからです。

 ここで紹介した写真は、いただいた写真をフォトショップを使い、それらしく私が色に変化をつけてみたものです。

 この家を井上靖が借りたのは、昭和20年6月16日から12月10日までの半年です。
 その1年前までは、元の家主のTさんが亡くなったために、空き家だったそうです。そのTさんは、花火で死んだとか。井上靖の『ある偽作家の生涯』のネタになっているのでは、とのことでしたが、ことの真偽について、そしてこれまでにどのような研究成果があるのか、今の私にはわかりません。後で調べてみます。

 かつて、井上靖一家が引き払ってから、労働者がここに住んでいたそうです。
 伊田さんはここに用事があって、よくこの家に行かれたとのことだったので、その間取りを思い出してもらうことにしました。しかし、なかなかそのすべてが思い出せないとのことで、長い時間をかけて、ようやくこんな図面ができあがりました。
 
 
 
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 コオジヤさんから上がってくるのは、図面右上の矢印にあたります。そして、そのすぐ下の丸印は、1本杉の木です。
 家の入口は、グルッと回り込んだところにありました。
 入ってすぐに土間、その右に牛小屋(実際には馬小屋として使っていた所)、土間の左に6畳の客間と4畳半の納戸です。その下に、囲炉裏がありました。暗いから、ということで、納戸に明かり窓を作られたそうです。

 「曽根の家」の周囲は、こんな位置関係にあります。
 
 
 
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 中央右の□がコオジヤさん。その脇道から左に歩いていくと、中央の空豆のようなところが「曽根の家」です。そのすぐ右下の丸印が1本杉、その左にお墓、さらに左にマエニヤさんとウエニヤさん、「曽根の家の」の左上にヨコニヤさんがあります。
 昨日のブログでは、このヨコニヤさんの裏から、この「曽根の家」を見下ろした写真を掲載しました。そして、グルッと時計回りに移動して、インガヤさんがあり、コオジヤさんとなります。

 疎開中の井上靖の家族の様子は、ふみ夫人の『やがて芽をふく』(平成8年、潮出版)に次のように書かれています。
 
 
 

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「想像に余る生活」
 上石見からは、わら草履を履いて、峠の細い道を二つ越えた。しばらくして着いた家は、すさまじい家であった。集落の中でも一段と高いところにあり、広い土間を挟んで牛小屋と向かい合っていた。牛小屋は窓がなく真っ暗であった。反対側の住居には、十二、三畳の板の間があるが、ここも奥のほうは真っ暗で、そこには囲炉裏があった。ついこの間、一人住居の爺さんが、ここで死んでいて、ネズミに数ヵ所食われていたという。よく見ると棚の上に荒人さんが祭られていた。私たちは炉の横の壁を抜いて明るくしてもらった。このほかに六畳と四畳半の畳の部屋があった。一本杉のそぴえる麓の古いわらぶき屋根の農家であった。裏はすぐ村人の墓であった。戦争であればこそ住んだ家であった。(下略、172頁)

 ここには、「炉の横の壁を抜いて明るくしてもらった」とあります。伊田さんの話との関係で、再確認が必要です。

 この家には、実際には10人ほどが生活を共にしていました。
 『通夜の客』を読んでいると、愛人であるきよとの、2人だけの隠れ家での生活となっています。しかし、実際には、この狭い間取りの家に、なんと10人もの共同生活だったのです。

 まず、井上靖の奥さんのふみさん、そして子どもたち4人。奥さんの母親とお手伝いさんが後に合流。そして、井上靖の新聞社での同僚の松永氏の奥さんと子ども2人。この10人です。
 時局とはいえ、狭い所での大人数の生活だったのです。

 井上靖は、家族が疎開していた当時は、月に2回ほどは来ていたそうです。
 ここを引き払う11月26日から12月10日の半月は、井上靖と松永氏もここに寝泊まりしています。12人が、ここで最後の生活を送ったのです。

 『通夜の客』とはかけ離れた現実を知り、改めて小説での舞台設定の自由さを知りました。

 なお、日南町の文化総合センターには、「曽根の家」の模型があります。
 このことは、「井上靖ゆかりの日南町(2の1)」で書きました。
 この模型について、伊田さんはよくご存じではありませんでした。
 そこで、伊田さんの記憶と、その模型の違いを、よく観察していただきたいことをお願いしてきました。
 これについては、また報告します。

 小説『通夜の客』とこの家のことは、次にします。
 
 
 

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NPO法人〈源氏物語電子資料館〉広報室より

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