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2010年4月 6日 (火)

わが父の記(4)父の仕事(その2)

 私が小学校に入る直前なので、今から約50年前のことです。
 母と姉と私の3人を島根県の出雲に置いて、父は大阪へ出稼ぎに行きました。人夫として、舗装道路の工事や、千里丘陵を作っていたようです。
 小学生の頃、休みになると汽車で大阪へ遊びに行きました。伯備線のトンネルに入ると、ススが車内に入るので窓を閉めたものです。それでも、駅を降りると、鼻の穴は真っ黒けでした。

 父が寝泊まりしていた飯場は、雨漏りのするバラックでした。よく1人で、雑誌を片手に詰め碁をしていました。
 我々が大阪へ遊びに行ったとき、どこで寝ていたのか、まったく記憶がありません。父の部屋は、2人が寝たら一杯でした。両親が何か配慮をしてくれていたのでしょうが、どこで寝たのかは覚えていません。

 街頭テレビは、大阪の街中で見ました。力道山の空手チョップで釘付けになったものです。
 また、フラフープやダッコちゃんも、あの頃だったように思います。それを父がお土産として買ってくれ、出雲に持って帰りました。

 そのうち、父は山一証券に就職が決まりました。出雲大社の前にあった「ヘルンの宿 いなばや旅館」へ遊びに行ったときなどに、父が出世したと伯母さんたちが話題にしていたことを、子供ながら嬉しく聞いた記憶があります。

 父は、毎年一度は、出雲に帰ってきました。帰省する時、私への土産は、小学○年生と漫画王でした。

 私が小学5年生になった時、姉の中学進学に合わせて、出雲から大阪に転居しました。阪急沿線の淡路駅に近いところでした。一家4人が、8畳の屋根裏部屋での生活が始まりました。ギシギシと軋むはしご段で、2階の屋根裏に上り下りしていました。
 畳の上にベニヤ板を一枚置いて、その上でプロパンガスを使った煮炊きをしていました。今から思えば、怖いことです。水は、階段の下から一々運びました。これは、姉と私の仕事でした。
 この頃にも、まだ姉と私は、ミカン箱と食卓を机代わりにして宿題などをしていました。家庭訪問があったら、それらを隠すことで、大変なことになったはずです。友達なども、部屋に上げるわけにはいきません。そんなドタバタは、結局一度もありませんでした。

 そんな中で、父はよく我々を、いろいろな所へ案内してくれました。
 当時の写真を見ると、父はカッターシャツを着ています。山一証券という大手の会社に勤めるサラリーマンになった父は、幾分無理をして我々を大阪見物に連れて行ってくれたようです。連日、デパートや遊園地に連れて行ってもらいました。楽しかった想い出しかありません。
 
 
 
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 お金がなかったはずなのに、デパートなどの食堂でいろいろなものを食べました。父は、いつも何ものっていないうどんでした。少し贅沢をするか、と言った時には、決まってお揚げさんののったきつねうどんでした。私は、旗の立ったお子様ランチが大好きでした。
 今にして思えば、限られた生活費の中で、子供には不自由な想いをさせないという、両親の思いやりがしみじみと感じられます。

 満州から命がけで日本に引き揚げてきた両親にとって、あるいはこうした自分達の苦労は、大したものではなかったのかも知れません。戦後のどん底の生活の話は、折々に聞いたように思います。地獄をみたからこそ、穏やかな気持ちと、暖かな思いやりで、姉と私に接してくれていたのです。
 父からは、怒られることはほとんどなかったように思います。お互いに、あまり会話をしませんでした。しかし、信頼してくれていることは、伝わってくる対応でした。反面、母は何か悪いことをした時には、非常に怖いときが何度かありました。それは、またの機会に。

 毎年、年末年始になると、父は会社に宿直として寝泊まりしていました。宿直手当という副収入を考えてのことだったのです。そのために、年末年始は、いつも大阪の京橋にあった父の会社に行きました。年賀状やお節料理を持って行ったのです。お年玉は、いつも父の会社で渡されました。そして、会社のソファーで、母が作ったお節料理をみんなで食べました。日頃はお酒を飲まない父も、このお正月の家族とのお節の時には、日本酒を少し飲んでいたように思います。こんな時の、母のニコニコした顔が、今でも思い浮かびます。

 私には、株のことはサッパリわかりませんでした。しかし、会社の中を見渡すと、父が慕われてさまざまな仕事をしていることがわかりました。社内で倶楽部を作ったり、リクレーションや旅行の幹事をしていたりと、面倒見のいいところも、休憩室や廊下などの壁に貼られた写真や文書で知りました。会社では人気者だったようです。女性社員を中心として、伊藤会とでも言うべき親睦会も作っていたようです。
 この、人の世話を率先してする性格は、亡くなる直前まで見ることができました。人を思いやることの大切さを、父は身をもって教えてくれました。今の私に、それがどのように生きているのかはともかく、いい心構えを残してくれたのは確かです。人のことを思いやり、率先して人の世話をするのです。私には、とてもできません。しかし、そのような姿を、父は見せてくれていました。

 息子としては、あまりにも生き様が固くて苦手な面も多々ありました。反発する気持ちもよくありました。しかし、この、人との接し方には、とにかく脱帽です。心掛けてはいます。しかし、とてもできません。敬服します。
 
 
 

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NPO法人〈源氏物語電子資料館〉広報室より

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