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2010年5月の31件の記事

2010年5月31日 (月)

【復元】またまた欠陥商品


(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)


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2005年8月17日公開分

副題「今度は iPod でした」

 今年のお正月に、 iPod-Photo(60G) を入手しました。写真ではなくて、古写本などの画像資料を大量に入れておくためです。写真が 25,000枚も保存できるのです。各種資料やテキストも、画像として見られるようにしました。

 また、音楽の代わりに、『源氏物語』の朗読CD?ROMを100枚分ほど入れて持ち歩くことにしました。英会話教材なども入れられて、便利です。 12,000曲を保存できるというのですが、音声データだとあまり収録できません。さらには、録音もできるのも、気に入っています。

 特に気に入ったのは、人前でしゃべる時に、プレゼンテーション用としてスクリーンに映す素材を、 iPod に入れて持ち運べば、プレゼン用のパソコンが要らないのです。これは、講演や研究発表に活用できます。

 ところが、その iPod が、2月頃から不調になりました。まず、電源が切れないのです。放置するしかありません。また、翌日は電源が入らないのです。しかたがないので、リセットして起動することになります。それが毎回続くと、だんだん面倒になります。

 しばらく我慢していましたが、もうダメだと思い、4月下旬に取り次ぎ業者を通して、修理に出しました。2ヶ月後の6月下旬に、問題はないということで、修理に出した時のそのままで返ってきました。

 そして1ヶ月。やはり、同じ症状が出ます。電源が切れない。電源が入らないので、毎度リセットで起動するのです。家電製品の基本的なことなので、私の操作が間違っている、ということは考えられません。電気屋さんの中にあるアップルコーナーの人に、その症状を確認したりもしました。

 7月下旬に、再度修理に出しました。秋までに修理が終わればいいか、と思っていたら、今度は3週間ほどして、症状が確認できたので、新品と交換ということで、新しい iPod が届きました。
 9月ころに帰ってくれば、くらいの気持ちだったので、少し拍子抜けです。

 出戻りの iPod は、1週間たちますが、調子はいいようです。先月からiPod-Photoという商品はなくなり、カラー版のiPod となりました。届いたのは、この新製品の方です。これは電源周りは改良されているのでしょう。

 しばしば欠陥商品を手にする私です。大量に作られる商品なので、少なくなったとはいえ、品質にもばらつきがあるのでしょう。もっとも、その欠陥に気付くかどうか、ということもありますが。おかしい、と気付くかどうかは、その商品への愛着と関係すると思います。好きな人の体調が気になるように。

 世の中には、欠陥商品が何と多いことか。何を欠陥とするかは難しいところですが、このiPod-Photo は欠陥だったといっていいでしょう。


********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 

2010年5月30日 (日)

【復元】ドバイに不時着した娘、イスタンブールで放置された私

(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)


********************** 以下、復元掲載 **********************

2004年12月26日公開分


 一昨日のことです。ロンドンからシンガポール経由で帰国するはずの娘が、ドバイ(アラブ首長国連邦)から我が家へ電話をしてきました。

 「もう死ぬかと思った」と。

 乗っていたシンガポール航空の飛行機が不時着したというのです。アフガン上空でエンジントラブルに見舞われ、急遽ドバイに緊急着陸したのだそうです。上空では、燃料を捨てての飛行だったそうです。窓からは、エンジンの一つが止まっているのがわかったとか。
 娘は、手元のリモコンで、クレジットカードを使っての電話で、「お世話になりました。」と言うタイミングを考えていたそうです。機体もそうとう揺れたようで、機内は騒然とする局面もあったと言っていました。

 シンガポールからの代替機が到着するまで、半日をドバイで過ごすことになったようです。200人以上の乗客は用意された五つのホテルに分散し、トラブルもなく移動したのだそうです。もっとも、お昼にドバイツアーを航空会社が組んだそうですが、娘は熟睡していて行き損なったとのこと。
 朝昼晩の三食とも、五つ星のシェラトン・ホテルで豪華な食事。シンガポールでは、これまた五つ星のホテル・メリディアンで、朝昼晩の食べ放題。おまけに、豪華なチョコレート菓子をお土産にもらって上機嫌。
 恐怖体験をした乗客に対するシンガポール航空側の誠意の感じられる対応は、緊急時のマニュアルが機能しているからこそのことでしょう。

 もっとも、スマトラ沖地震によるインド洋津波の影響で、シンガポールから日本への直行便の用意ができず、タイのバンコクで乗り換えての関空着だったようですが。
 
 
 さて、娘からシンガポール航空の緊急時の対応を聞いて、私には、過日のトルコでのことが思い出されました。
 
 
 トルコの地中海側にあるアンタリヤから空路イスタンブールに入り、乗り換えてカイセリへ行くときのことでした。
 いつまで待ってもトルコ航空の国内便の搭乗手続きができません。出発予定時間を30分ほど過ぎてから、乗るはずの飛行機がキャンセルとの案内が出ました。初めての体験なので、このキャンセルが今後どう展開するものか、まったく想像できませんでした。
 私は、どこへ行ってどのような手続きをすればいいのか、荷物チェックをしている人や、空港の関係者に聞いてまわりました。しかし、みんないろいろな方角を指すだけで、いずれも解決の道にはつながりません。

 トルコ航空のカウンターに行きたい旨を伝え、手荷物チェックのゲートから空港ロビーに出させて貰い、航空会社のカウンターで交渉することにしました。もう、英単語を並べればいつかは通じるだろう、という強気で対処するしかありません。もっとも、トルコ航空のカウンターのあちこちをたらい回しさせられ、ようやく私が乗るはずだった飛行機の担当者がいるところにたどり着きました。

 トルコ航空関係者は逃げるようにして知らぬ振りをしているので、自力で自分の今後の行動を決めていくしかありません。スーツを着たトルコ航空の責任者らしき人にも苦境を訴えましたが、自分にもわからないのであっちへ行け、と素っ気なく突き放されました。行けと言われたところへ言っても、またもとのカウンターを指さします。あそこではだめだった、と言うと、肩をすぼめて視線を反らせるだけです。
 30分以上も行ったり来たりした後、ようやくカイセリ行きのことを扱っている場所を見つけることができました。殺気だった人混みで、そこがそうだとわかったのです。言葉が通じる通じないではなくて、もう、すべてが勘の世界です。

 トルコ航空のカイセリ行きの搭乗手続きカウンターには、十数人が詰めかけていました。どうやら、雪のために離陸も着陸もできないようです。乗客には、ほとんど情報が伝わってきません。
 そのうち、ヒステリックに英語でしゃべっていたカウンターの女性が、私には手も足も出ないトルコ語でまくし立てています。
 身振り手振りから推測するに、「私にもどうなっているのかわからないのだから、みんなで寄って集って虐めないでよ」、と言っているようでした。
 近くで静かに事態の推移を見つめていると思われる男性職員に、今夜のホテルと、私の預けた荷物ががどうなるかを尋ねました。なんとかしましょう、ということで電話で問い合わせをしてくれましたが、混乱していたこともあり、なかなか返事が届きません。

 とにかくどんな展開になるのかわからないので、カウンターを離れるわけにはいきません。まさかになったら空港内のベンチで寝るしかないと、腹をくくりました。
 近くにいた人に、カタコトの英語で状況を確認しました。やはり、ここにいて指示を待つしかないようです。今日は飛ばないのだからどこかに泊まることになるのですが、それが用意してもらえるのかどうか。また、荷物も乗り継ぎのために預けたままなので、それを手に入れたい旨を、別のカウンターで航空会社の人に伝えました。しかし、帰ってくる答えは、「ノープロブレム」だけです。
 トイレに行くのも我慢して、航空会社の職員の指示が出るのを待つしかありません。

 立ったままの状態で3時間以上も。混乱の中なので、重いリュックを背負ったままでした。腰が痛かったのですが、座るところからは、このカウンターが見えないので、そこに立ち通すしかないのです。
 すると突然、先程来ヒステリック気味だった女性が何か大声で叫び、カウンター近くにいた人にこちらへ来い、と言っていたのです。早すぎてわからない言葉でしたが、勘でその10人ほどの集団についていきました。トイレに行っていたら、置いてきぼりにされるところでした。
 出口でしばらく待っていると、雪が道路の傍らに押しやられてビチャビチャに溶け出している駐車地帯に、一台のマイクロバスが来ました。夜の7時を過ぎています。
 暗い雪のイスタンブールを、行き先もわからずに30分ほど走ります。
 やがて立派なホテルに到着。
 イスタンブルのどこなのか、皆目見当もつきません。
 ホテルでチェックインをさせられました。フロントの人から、明朝6時半に玄関に集まれと言われました。総勢17人です。これだけの人間の手配に、説明もなしに長時間。お粗末な対応です。
 フロントの人に「朝食は? 」と聞くと、「6時半から」だとのこと。朝食はお弁当パックなのかな、と思って、きれいな部屋に入りました。
 階下のレストランで、バイクキング形式の夕食を一人寂しく不安な思いで食べました。豪華なホテルだけに、置かれた状況が惨めに思われました。
 空港関係者からの説明は、結局何もありませんでした。もう、どうにでもなれ、という心境です。

 モーニングコールを頼んでいたこともあり、翌朝、無事に予定の時間に玄関へ行きました。期待したお弁当がないままにバスに乗り、イスタンプールの空港へ。
 もっとも、人数は昨夜より減っていました。いろいろな人がいたのでしょう。また、人数や名前の確認もありません。これは、昨夜このホテルに来るときも同じでした。空港では、しばらく待てとカウンターで言われて待っていると、しばらくして、今日もカイセリ行きのフライトはキャンセルだとのアナウンスが聞こえてきました。

 一緒にカウンターへ行った人たちは、ブツブツと言いながら散っていきました。トルコ航空の搭乗カウンターで、私はどうすればいいのかと聞くと、我々にもどうしようもない、明日3回目の挑戦をするか? と笑って言うのです。ふざけたトルコ航空の職員です。

 アンタリヤで預けた私のカバンを返してくれ、と言うと、下へ行けとのこと。下へ行くと、ここにはないのであちらから上に行けと言うだけです。あちこちタライ回しされた挙げ句に、私が捕まえて聞く職員はどうしようもないという態度しか示しません。まったくいいかげんです。

 どうしていいのか途方に暮れていた、ちょうどそこへ、昨日私の困っている状況を見かねてアドバイスをくれた背の高い目鼻立ちの整った男性職員が、たまたま通りかかったのに出くわしました。藁にも縋る思いで、荷物が取り返せないことを訴えると、親切にも下の階へ案内してくれました。
 空港関係者しか入れない入口から入り、手荷物係の人に事情を説明してくれたお陰で、どうやら返してもらえることがわかりました。
 荷物がもどるまで、大胆にも簡単な英語で世間話を……。お礼の気持ちからの暴挙ですが……。
 彼はイスタンプール大学の出身者で、政治の勉強をしていたそうです。私が日本の文学関係の仕事をしているというと、不思議な反応をしていました。

 そうこうするうちに、到着荷物が流れてくる曲がりくねったレーンが大きな音をたててガタゴトと動きだしました。しかも、ナント私のカバンが一つだけ、おもむろに出現し、こちらに向かってやってくるではないですか。映画のワンシーンのようでした。
 私のためだけに、こんなオーバー過ぎる演出をしてくれたお兄さんにお礼をいいました。すこしやり過ぎだぞ、と。
 ドラマチックな自分の荷物との対面でした。

 とにかく飛行機での移動は諦め、カイセリにあるエルジェス大学へは行けなくなった連絡をしました。
 カイセリも雪で空港が閉ざされているとのことで、次回の訪問を約束しました。
 学生が授業で芥川龍之介の『河童』を読んだとのことだったので、それに関する質問の準備をしてきただけに、また、日本の巻物や古写本の原本複製物を持参して日本の本の文化の話をしようと思って来ただけに、大変残念でした。

 気持ちを切り替え、次の目的地であるチャナッカレに向かうことにしました。電話で行き方を聞き、初めてのイスタンブールの町を地下鉄で通過して、オトガルというバス発着所へ急行しました。
 そこでバスのチケットを買って、5時間の旅に出ました。最後は船に乗りました。
 ブラッド・ピットが出演していた最新映画『トロイ』の撮影で使われた木馬が港に飾ってある、そのチャナッカレ港に夕刻前に着きました。無事に到着したときには、思わず立ち眩みがしそうでした。

 それにしても、このトルコ航空の対応はどうなっているのでしょうか。こんな調子の航空会社ならば、娘のように不時着してもほったらかしで、ご自由にお帰りくださいとトルコ語で言い放って終わり、という事になりかねませんね。
 とにかく朝ご飯なしだったので、移動の途中でバスの休憩時間を使って、2度もサンドイッチで食事をすませることとなりました。

 いやあ、もう、トルコ航空はコリゴリです。親切な多くの人との出会いがあっただけに、今後ともトルコへ行くことはあることでしょう。しかし、その出会いの場を作る架け橋となる航空会社は、もっと乗客を大切にしてほしいと思います。

(これに負けず劣らずひどかったKLM航空の話は、またいつか記しましょう。)


********************** 以上、復元掲載 **********************

 
 
 

2010年5月29日 (土)

待望の研究書『源氏物語写本の書誌学的研究』

 待ち望んでいた本が刊行されました。

 岡嶌偉久子著『源氏物語写本の書誌学的研究』(おうふう、平成22年5月1日)
 
 
 
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 岡嶌さんに初めて会ったのは、もう30年以上も前のことだったように思います。麦生本と阿里莫本を、所蔵先の天理大学付属天理図書館へ調査に行った時からのお付き合いです。以来、頻繁に、電話や手紙、最近ではメールで、たくさんのことを教えてもらっています。最近でこそ少しは質問されることがありますが、ほとんど私が一方的に、しかも突然に教えて下さい、とおしかける形が常です。「そんなことを聞いてくる人はいないから」と言って、丁寧に説明して下さいます。

 公私にわたる『源氏物語』の古写本を仲立ちにしての交流を思うと、同郷(岡嶌さんが松江、私が出雲)で同年ということが、好き勝手なことを言える背景にあるように思います。そして、一昨年亡くなった國學院大學の青木周平さんと、お互いが親しかったこともあります。青木さんとも、同郷・同年だったのです。
 おまけに、私の娘と岡嶌さんのお嬢さんが、留学先のイギリスで交流があったことなど、まさに縁としか言いようがありません。

 そんな身近な存在の岡嶌さんが、これまでの研究を整理して、1冊にまとめてくださいました。
 本書では、伝二条為明筆本(池田本)と国冬本と麦生本の3本に関する考察が、私にとっては一番の収穫です。これまでは、いただいた抜き刷りに書き込んだメモなどをたよりにして、自分の論考を展開する上で参考にしていました。それが、こうして一書に収録されると、とにかく重宝します。
 また、索引があるので、関連事項がすぐに探せます。私が、索引のない研究書は価値が半減すると言うのは、本書の場合にまさに当てはまります。こうした手堅い研究書は、後で索引を手がかりにして見直すことが多いからです。通読よりも、後日その記述が大切なものとなるのです。もちろん、読み返すことのない本には、索引は不要です。

 また、考察を展開する折々に多くの図版が添えられているので、語られることがイメージしやすくて助かります。写本や書誌に関することは、実物の姿が大事ですから。
 巻頭口絵の国冬本のカラー写真は圧巻です。ただし、欲を言わせてもらえるのならば、1枚目の写真は、今後は大島本に代わって『源氏物語』の流布本となるべき「伝二条為明筆本(池田本)」を、そして2枚目がこの国冬本だったら、どんなによかったことでしょう。

 本書を開く機会がありましたら、まず「序章」の15頁を読みましょう。そして、次に最後の「あとがき—諸本調査の思い出—」を読んだら、しばらくは手にすることはないかと思われます。しかし、『源氏物語』の写本や本文に興味を持ったら、すぐに本書が貴重な情報をくれるはずです。

 もし「序章」を読む暇のない方は、「あとがき」だけはぜひお読みください。
 「あとがき」からは、岡嶌さんの素顔が見えてくるからです。
 本書の内容は、非常に固いものとなっています。書誌学に関して興味のない方には、おもしろくないことでしょう。しかし、この「あとがき」だけは、せっかく通りがかったのだから少し覗いてみるか、という軽いのりで、流し読みされることをお薦めします。
 一人の研究者の、ありのままの姿が伝わってきます。木村三四吾先生とのやりとりのおもしろさと、言われたことに「そうか」と思う素直な岡嶌さんが、ユラユラと行間から立ち現れて来ます。
 本書を手にされたら、本を閉じる前に、せめて5分だけでも、この「あとがき」の7頁ほどに眼をやってください。いつもは几帳面な岡嶌さんの、ここでは肩の荷を下ろした思い出話が聞けますので。
 
 
 

2010年5月28日 (金)

充実した3人の研究発表

 国文学研究資料館のプロジェクトの一つである基幹研究「王朝文学の流布と継承」の、本年度第1回研究会がありました。

 今日は、次の3人の発表がありました。いずれも、刺激的でした。


(1)森田直美(国文学研究資料館 機関研究員)
 「近世後期における平安朝物語の図説化 ―装束関連の書を中心に―」

【要旨】近世後期には、『源氏物語』を中心とした平安朝文学にあらわれる、装束・調度・建築物等を図示し、注解を施した書が多く著された。本発表ではこれらの中から、特に装束関連の書を数点取り上げ、中世に成立した物語注釈の、有職書としての性質に注目が集まり、やがて近世中・後期に至って図説されるようになってゆく過程の一端を辿る。

(2)福田景道氏(島根大学 教授)
 「『弥世継』と『月のゆくへ』 ―歴史物語の継承と再生―」

【要旨】『水鏡』―『大鏡』―『今鏡』―『増鏡』と連なって日本通史を形成する鏡物系歴史物語の系流には、『今鏡』と『増鏡』との間に十数年間の間隙があり、その空白を散佚作品『弥世継』が埋めたと考えられている。しかし、それを否定する徴証も指摘できる。本発表では、①『弥世継』の標題をもつ高山市郷土館蔵『増鏡』と②欠落期間を補うために明和8年(1771)に著作された『月のゆくへ』(荒木田麗女作)とによって、歴史物語系譜の変容について考察する。

(3)山本登朗(関西大学 教授)
 「講釈から出版へ ―『伊勢物語闕疑抄』の成立―」

【要旨】『伊勢物語闕疑抄』は、宗祇から三条西家に伝えられた伊勢物語学の集大成として高く評価され、幅広い影響を与えた注釈書であり、細川幽斎の自跋には、智仁親王に対する講釈のためにまとめたものであると明記されている。しかし、その内容と成立にはなお問題が残されている。本発表では、書陵部に残されている智仁親王の当座聞書などを手がかりに『闕疑抄』の成立事情を探り、その真の姿を考察する。


 毎回、いい勉強をさせてもらえる研究会です。今日もそうでした。最新の情報で、今思うところが語られる会なので、元気がでます。みなさんの日頃の研究がジックリと伺えるので、研究することの楽しさの一端もお裾分けに預かれるのです。

 トップバッターの森田さんは、先週の中古文学会に続いての研究発表です。
 精力的に成果をあげています。頼もしい限りです。
 
 
 
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 近世後期において、物語の中の装束に関して図説化がなされる現象を、『源氏男女装束抄』『源氏装束図式文化考』『源語図式抄』などを引いて検討を進めていました。江戸時代後期の図説書は、物語の読解のために供されたものであることを指摘するところに、視点の新しさを感じました。
 装束に関する画像情報の流れをわかりやすく考察する姿勢には、安心して聞いていられます。
 また、質疑応答に対しても、落ちついて対処していました。
 私も、最後に、京都で装束を扱う職人さんたちが使う下絵や図様に関連する質問をしました。
 今日の例に挙がっていた装束図は、職人さんたちの世界にあった図案集などから引いたものではなかったのか、ということです。着物のデザインや図柄のための絵が、物語の装束の説明に参考資料として使われているのでは、ということです。これにも、しっかりと答えていたので、今後の展開がまた楽しみです。

 作品を読み解くのではなくて、その周辺にある事象から作品に切り込んでいく手法です。作品理解のための基礎研究です。
 建築と絵巻をテーマとする赤澤真理さんとともに、今、国文学研究資料館には、こうした基礎的な研究を大事にしている人が、少なくとも2人はいます。
 これからの活躍が、ますます楽しみな若手研究者です。


2010年5月27日 (木)

『源氏物語』のスロヴェニア語訳とセルビア語訳

 セルビア在住でベオグラード大学の山崎佳代子先生が、スロヴェニア語訳『源氏物語』上下2冊を送ってくださいました。
 いろいろなルートで探していただき、お知り合いの方々の手を経てどうにか入手に至ったものです。感激です。
 
 
 
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 書名の「 PRINC IN DVORNE GOSPE 」は「王子と宮廷の女たち」という意味だそうです。

 スロヴェニア語訳は、Arthur Waleyの英訳をもとにしてHerbert E. Herlitsckaが訳したドイツ語版からの重訳とのことです。

 上巻は1章(桐壺)から20章(朝顔)まで、下巻は21章(少女)から40章(幻)までです。

 表紙の絵は、浮世絵からのものと思われます。しかし、出典は不明です。どなたかご教示のほどを、よろしくお願いします。

 山崎先生には、昨秋、国文学研究資料館で開催された国際日本文学研究集会でお目にかかり、以来メールで連絡を取り合う内に、セルビア語訳『源氏物語』を見付けてくださいました。

 次の写真は、上が旧版、下が新版の、セルビア語訳『源氏物語』です。
 
 
 
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 セルビア語訳『源氏物語』の解題を執筆していただく中で、こうしてスロベニア語訳『源氏物語』を探し出してくださったのです。あつかましくもスロベニア語訳の解題もお願いし、本が届く前に原稿を戴くという早業での対処に感謝しています。

 笠間書院から『源氏物語【翻訳】事典』と題する本を刊行します、と言って、もう2年半が経ちました。いろいろと問い合わせがあり、ひたすら遅れていることをお詫びしています。
 次から次へと、世界各国で『源氏物語』の翻訳書が見つかり、また手元に届くので、なかなかここで打ち切って刊行という踏ん切りがつきません。大久保さん、岡田さん、我が儘ばかりですみません。もうここまでにします。見捨てずに、今しばらくお待ち下さい。初校と再校を進めますので。

 現在、ポルトガル語とヘブライ語に翻訳された『源氏物語』があるそうなので、それを探索中です。
 インドのアッサム語、オリヤー語、マラヤラム語訳も探しています。アッサム語訳『源氏物語』は、ネットには存在するのですが、入手できません。

 これらに関する情報をお持ちの方は、ご連絡をいただけると幸いです。
 
 
 

2010年5月26日 (水)

本屋で本が見つけられない

 朝日新聞5月20日の記事に、「米国発のネット帝国主義を許すな」という、いささか過激な内容が掲載されていました。この内容をもっと詳しく知りたくなり、語り手の岸博幸さんの著書である『ネット帝国主義と日本の敗北』を探しに書店へ行きました。インターネットの書店で購入してもよかったのですが、実際に中身を見てから決めようと思ったからです。

 有楽町駅前にある三省堂書店は、比較的多くの本があるので、ときどき本を探しに行きます。
 お店に入って本を探そうとして、いつものことながら書名が思い出せません。おまけに、著者名も。慶應義塾大学の先生であることと、書名の中に「帝国主義」という語があったことしかわかりません。

 この店には、タッチパネルの検索端末があるので、それで「帝国主義」という語をキーワードにして検索しました。すぐに見つかったので、図書情報をプリントアウトしました。
 
 
 
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 その紙切れを持って、配架場所として記された2階の「ブロックE−03」というコーナーに行きました。しかし、見あたりません。ここに記されているのは、「野球・サッカー」という区分の、スポーツコーナーです。書名からして、明らかに違うようです。

 紙片には、大分類「新書」、細分類「幻冬舎新書」とあるので、ちょうど真裏の新書の棚に行きました。しかし、並んでいる新書の中に見あたりません。

 しかたがないのでレジカウンターへ行き、レジ係ではなくて、いかにも本を探すのを仕事とするような風体の若い男性に紙片を見せました。ご案内します、と言いながら私が先ほど探していたコーナーに連れて行かれました。そしてしばし探して見あたらないと、「棚番号︰E03−00」とあるので、手前の平積みです、と言って通路側を探されるのですが、やはりありません。
 その周辺をいろいろと物色しておられましたが、ついに諦め、一度カウンターに戻り、そして「在庫切れです。」と告げられました。

 諦めて帰ろうとしたとき、ふと「幻冬舎新書」の棚に目が行ったときに、何と探している本が2冊も並んでいるではないですか。

 帰りの道々、書店の役割を考えてしまいました。
 情報端末があり、本に関する情報は簡単に引き出せます。しかし、自力ではその本の場所にたどり着けず、店員のサポートを得ても見つけられなかったのに、その本は棚に存在していたのです。

 今週、iPadが日本でも発売されます。この情報文具が投入されることによって、電子書籍の普及が加速度的に拡がります。そんな中で、紙媒体で刊行されていた本に出会うのに、こんな無駄な時間と労力を費やしたのです。これでは、書店が書籍の流通にほとんど関与していないことになります。ただ並べているだけです。偶然でしか、探し求める本に出会えないのですから。

 結局、私はこの本とは縁がなかったのだと思い、買わないままで帰りました。

 今後の書店のあり方がどうなるのか、iPadが発売された来週からの業界の動きに注目したいと思います。
 
 
 

2010年5月25日 (火)

調理修行(5)初めて作ったポトフ

 先週末は、学会があった関係で久しぶりの東京でした。
 野菜が不足しがちな単身生活なので、野菜料理に挑戦しました。

 息子に聞いたところ、コンソメの塊を入れて野菜を煮込み、後は鍋をアルミでフタをして一晩おけばいいとのことです。
 それなら、ということで作ってみました。

 学生時代に、ボンカレーに干し椎茸のスライスをかけて食べていて笑われました。
 10年前には、東京へ単身赴任で出てすぐに、ほうれん草を生で食べていて、どうも口の中が変だと言ったら、茹でて食べるものだとバカにされた、苦い想い出があります。

 妻が手際よく作る美味しい料理と、息子のプロの味の料理が食べられる環境にあったので、自分が作ることなどなかったのです。もう一つは、私は作り出したら凝ることがわかっているので、あえて避けていたということもあります。
 しかし、いつまでもそんなことを言っているわけには行きません。自活の実践をしだしました。

 さて、できあがったのはこんな感じでした。
 
 
 
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 息子からのアドバイスは、塩をいれることと、大根や人参の皮をむくこと、というものでした。
 そういえば、どうも野菜特有の臭味が気になったのと、味が薄すぎました。味は、どうにかうまく調整してくれました。皮は、もうどうしようもありません。

 京都で作るお揚げさんと、今回作ったポトフと、これで2つの料理を覚えました。
 気長にレパートリーを増やしていくつもりです。
 
 
 

2010年5月24日 (月)

太田敦子著『源氏物語 姫君のふるまい』は電子本が相応しい

 『源氏物語 姫君のふるまい』(太田敦子、新典社新書50、2010.5.18)を読みました。
 『源氏物語』を読む楽しさを追体験させてくれる本です。
 
 
 
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 日頃は、『源氏物語』の本文とにらめっこする日々です。そんな時、この本を電車の中で通読しました。非常に読みやすい本でした。語り口が柔らかで、テーマが明確だからでしょう。物語を読む楽しさと、その視点の妙を教えてくれる本でした。

 本書は、三つの内容から成っています。
 「1 絵に描きたる葵の上」
 「2 立つ女三宮」
 「3 紫の上の手のゆくえ」
 いずれも、『源氏物語』にそういう場面が描かれていたな、という想いを新たにしました。

 ただし、3話ともに、掘り下げが甘く、著者が本当に言いたいことの半分も語れなかったのではないでしょうか。新書の性格からか、原稿の分量の制約が、読者を消化不良に陥らせているようです。一つのトピックが短かすぎるからかもしれません。このテーマは、もっと自由に書ける場で、再度展開したらいいと思います。それが、電子本という媒体だと、私は思い至りました。
 本書には、強引なこじつけと思える論理展開も散見します。「立つ」という章には、無理矢理という印象を持ちました。
 しかし、そこは若さに免じて、というところでしょうか。『源氏物語』を読む楽しさが十分に伝わってきたので、一先ずはよしとしていいと思います。

 私は、紫の上の「手」の問題を、もっと読みたいと思いました。突然に神話を持ち出さなくてもいいので、もっと丁寧に「手」について語ってほしいものです。

 一つ要望を。
 本書を幅広く読んで貰うためには、人物系図を付けたらいいと思います。女君の背景を理解する上で、家系図は、わかってもらうためには有効な資料です。ぜひとも、これからでも遅くはないので、3人の姫君の人物系図を本に挟んでください。

 最近、日本文学の研究をしている若手が、軽装版の書籍をさまざまな形で出版しています。その背景には、出版社の戦略もあるのでしょう。新たな読み物が量産されています。

 アップルの iPad が、来週にも国内で販売されます。私は予約しませんでしたが、夏までには手に入れるつもりです。
 中古文学会があった慶應大学の会場で、アメリカで手に入れたばかりだという仲間の iPad を、実際に触らせてもらいました。思ったよりも小さくて薄い板でした。ハードカバーの本を拡げた大きさなので、電子本を読むのにはピッタリです。おまけに、情報収集と整理が得意な電子文具とくれば、ビジネスマンを中心として普及しないはずがありません。
 この iPad の出現により、日本における出版事情も大きく変わることを、今回の学会の会場で身をもって体験しました。

 今後は、どこまで研究者が紙媒体での出版に拘泥するかは、非常に興味があるところです。少なくとも、文学関連に限って言えば、読書感想文的な刊行物は一掃されることでしょう。
 ネット上でつぶやいたり、ブログで個人的な思いを書いたり、ホームページにまとまった意見を発表したりと、今や我々の回りには表現の場がたくさんあるのです。それらは、この iPad という情報文具で取り扱うものとなります。
 そのため、紙媒体での出版は、非常に限られた分野で生き残るのではないか、と私は思っています。ジックリと読むものや、資料性の高いものは、これまで通り紙媒体で出版されることでしょう。ただし、資料集の中でも、カラー印刷によって提供されていたカタログや図録類は、本の重さもあるので、電子化が進むことでしょう。その時には、資料の所蔵者などと複雑な関係にあるものは、これまで通り紙媒体での刊行でしょうか。

 いずれにしても、若手が本を刊行することについて、私はいいことだと思います。自分が考えていることを、一つの本というボリュームを単位として語ることは、今後の研究に資するところ大です。自分のためであり、また研究成果を広く知ってもらう意味から、停滞気味の文学の世界が活性化されることでしょう。
 若いからと言って怖じけることなく、どんどん発言してほしい思います。この新典社の新書は、閉塞状況の文学研究に活力を与える媒体になってほしいものです。ただし、出版事情が激変すると思われる今、ここで紹介した『源氏物語 姫君のふるまい』は、電子本によって公開される類のものではないでしょうか。出版各社とも、これまでの刊行物のほとんどが電子本で新たな有効活用が期待できます。とすると、紙媒体で何を残すか、という検討を、1日も早く進める必要があります。
 これまで私が刊行した本も、ほとんどが紙媒体である必要はありません。これは、著者の立場で再検討すべき問題のようです。

 そうした時代を見据えて、文学関係の各社は、今後の電子本のコンテンツを囲い込む意味から、若手の本を大急ぎで刊行しているとも見えます。それはそれで、いいことだと思います。発言すること、情報発信を心掛けることで、文学研究の環境が大きく変わります。
 これからの本の位置づけが、非常に興味深いものに思われます。
 出版各社の方々は大変な時代になったことを、ヒシヒシと感じておられることでしょう。 iPod が出現して、音楽というものの流通が短時間にすっかり変わりました。そのため、レコード盤やカセットテープやCDがどのようになったか、という分析を十分にしてほしいと思います。
 
 
 

2010年5月23日 (日)

頼もしい若手の研究発表

 慶應義塾大学での中古文学会の2日目は、7人の研究発表がありました。
 その中では、森田直美さんの「「濃き色」試論—衣配りにおける明石君への御料「濃きが艶やかなる」を起点として—」が、一番しっかりした発表だったと思います。
 
 
 
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 発表資料もきっちりと作られており、発表内容も論理的で実証を心掛けたものでした。
 これまでは、「濃き色」というと「濃い紫か紅」とされていました。それを、「蘇芳を中心とした赤系統の色」とするのが、森田さんの結論です。
 提示された資料を見る限りでは、そのような結論が導かれることに納得しました。しかし、もっと平安時代の資料がないものかと、欲が出てきます。『満佐須計装束抄』という資料が有力な手がかりを与えてくれるようです。しかし、これは『源氏物語』以後のものなので、他に何か、と思ってしまうのです。

 質疑応答になった時に、会場からは2人の手があがりました。まず、河添房江先生が「唐の東京錦」のことなどに関連して質問なさいました。その後、畠山大二郎君が「蘇芳」とする森田さんの考えに反対の意見を述べました。
 畠山君は、平安朝の装束に詳しく、自分でも縫い、装着する技術を持っているので、衣を取り扱う立場からの反論でした。ただし、残念なことに時間の都合で、言いたいことの半分も言えなかったようなので、気の毒でした。

 実は、森田さんには、数年前から国文学研究資料館で我々の研究の手伝いをしてもらっています。今は、国文学研究資料館の機関研究員として基幹研究などのプロジェクト研究の推進を補佐してくれています。
 対する畠山君は、これまでにも私が企画したイベントで、直衣や狩衣などの装着の実演をしてくれました。今年からは、『源氏物語』の写本を翻刻する手伝いで、国文学研究資料館に毎週来ています。

 来週にでも、館内で直接、お互いの思うところを語り合えばいい、と思っています。
 熱意と意欲のある若者たちの話の場に、私も仲間に入れてもらい、いろいろと教えてもらおうと思います。
 私は、このテーマには門外漢なので、自由な立場で参加できます。

 元気な若者たちがさらに切磋琢磨することは、願ってもないことです。これからの2人の研究の進展を、大いに楽しみにしたいと思います。
 若者同士が、自分の知る限りの情報をぶつけ合うことは、本当に素晴らしいことです。その場が、文献資料の宝庫である国文学研究資料館なので、なおさら論争の広がりに期待が持てます。たくさんの刺激がもらえることでしょう。

2010年5月22日 (土)

江戸漫歩(21)慶應大学での中古文学会

 今日は、慶應大学であった中古文学会に行きました。意外だったのは、慶應のキャンパスに入ったのが初めてだった、ということです。

 これまで、何度も行っていると思い込んでいました。それは、東京タワーだったのです。
 次の写真は、慶応の東門前から見た東京タワーです。
 
 
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 東門の横には、福沢諭吉のお菓子「学問のすゝめ」がありました。
 
 
 
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 そして中に入ると、雰囲気のいいキャンパスが広がっていました。
 
 
 
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 今日は、研究発表会ではなくて、物語絵に関するシンポジウムでした。たくさんの問題点とヒントを教えてもらいました。

 明日も、慶應で学会があります。
 若手の発表が続くので、楽しみにしています。
 
   

 

2010年5月21日 (金)

現代社会での漢字表記の重み

 小さい頃から、漢字の書き取りなどでは苦労しました。下手ながらも、紙に漢字を何度も書いて覚えたものです。その漢字について、また新たな指針が示されました。「改訂常用漢字表(2136字)」の答申案がそれです。1981年以来の改訂だそうです。196字増えました。

 さて、今回の答申案にもあるように、現代においては漢字は書けないものがあってもいいのです。
 パソコンや携帯電話の普及により、文字を指でキー入力することが多い時代になりました。自分の手では書けない漢字でも、ワープロなどで打って表記することが、いとも簡単にできるのです。漢字は、制限されるものではなくなったのです。
 それだけに、指針には新たな問題が内在するようです。

 シンニュウの1点と2点の混在は、私も迷います。この「迷」は1点でいいようです。
 さらには、簡単に情報機器を活用すると書ける漢字でも、それを読むことと、その意味の理解は、容易にイコールとなるものではありません。よく見かけるのに、よく入力して表記するのに、それが声に出して読めないことに直面することが多くなりそうです。

 これまで以上に、手書きで漢字を覚えることが大切になってくるように思われます。
 インドで日本語検定の勉強をする若者は、とにかく漢字を徹底的に書いて覚えています。
 漢字の習得は、いつの世も、手で何度も書くことにあるようです。それと、現代の文字を打つこととの折り合いをつけるのは、これからの大きな課題だと言えるでしょう。

 一言でいえば、「手書き文化」が新たな時代を迎えた、ということになりそうです。

 それにしても、毎日通過する駅の「三鷹」の「鷹」が外れたことと、「障碍」の「碍」がペンディングの状態に置かれていることは、私にはどうもスッキリしません。
 数に限りがあることなので、どこかで線引きが必要です。その線引きが難しいのが、公的な場面での漢字の利用制限という悩ましい問題なのです。
 スッキリする結論などないのが当たり前です。まずは、この答申を尊重することから次を考えたいと思います。

 この漢字問題について、私は朝日新聞の白石明彦さんの取材活動に敬意を表したいと思います。2008年の源氏千年紀の取材の後、この漢字問題に取り組んでおられました。その報道姿勢が実に的確で、時宜を得た情報をわかりやすく流して下さいました。
 今回の答申案が出されたことにより、また新たなテーマを追いかけられることでしょう。次は何なのか、私は大いに楽しみにしています。
 
 
 

2010年5月20日 (木)

国文研の展示「和書のさまざま」の紹介

 国文学研究資料館では、日本の本を知ってもらうために、さまざまな活動を展開しています。
 その一つとして、「和書のさまざま」という展示があります。毎年初夏に、学校の新学期を狙って開催しています。

 今年も、さまざまな和本を展示して、日本の古典籍を書物という視点から紹介しています。いわゆる、書誌学入門です。この機会に、洋書とは違う和書の魅力を知っていただけると幸いです。
 
 
 
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 会場は、このような雰囲気で展示しています。
 
 
 

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 本の形態を中心にして、国文学研究資料館が所蔵する和書を展示し、その横にはわかりやすい説明プレートを置いています。

 来場者から、本についてというよりも、これはどんな作品ですか、という質問がたくさんあることがわかりました。そこで急遽、展示した94種類の本の内容に関する簡単な説明を、20作品に限定して簡単な解説を記したパンフレットを作成しました。今回の展示は、4月15日から6月18日まであります。今週の18日から、「展示作品略説」という緑色のパンフレットも、展示室入口のカウンターの「和書のさまざま」という従来のパンフレットの横に置くことにしました。
 
 
 

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 この作品略説は、展示品すべての作品解説ではあません。しかし、少しでもお役に立つのならば、との思いで大急ぎで作ったものです。
 入場は無料ですので、ぜひご覧いただき、ご意見をいただけると幸いです。
 
 
 

2010年5月19日 (水)

銀座探訪(23)銀座の居酒屋(1)

 今日は、終日会議漬けでした。
 やっと解放され、チョッとした飲み会の後、仕事帰りの息子と有楽町で待ち合わせをして、銀座の居酒屋巡りをしました。

 今読んでいる井上靖の小説に、いつものように銀座や有楽町が出て来ます。そこで、今年から始めたこの界隈の食べ歩き、飲み歩きをしました。
 有楽町駅から新橋駅の間のカード下のお店は、今日で3軒目になります。

 この前に行った「八起」は、メニューも豊富で活気のある店でした。カロリーコントロール中の私にも、食べるものはたくさんありました。
 先日行った「八百八丁」は、味が塩辛かったことと、メニューが貧弱、そして、何よりも注文してから来るのに時間がかかりすぎです。サービスもおざなりでした。

 今日は、狭い路地の奥にある「とうてつ」に入りました。
 魚料理が少なかったので、私には向きません。味は、濃すぎるように感じました。それでも、雰囲気は昭和の匂いがプンプンする、居心地のいい店でした。

 北大路魯山人が書いた随筆をiPhoneを覗き込みながら一緒に読み、食談義で盛り上がりました。
 魯山人の生誕の地の碑が、杜若の群生で天然記念物になっている太田神社の前にあり、この前にこの近くにある和風イタリアンの「愛染倉」へ行ったときに教えたのに、覚えていないとのこと。また連れて行きます。

 息子はいつものように洋酒を、私は、これまたいつものように麦焼酎のお湯割りに梅干しを入れたものを飲みました。

 息子を相手に、好き勝手なことを言いながら飲むのは楽しい一時です。フラフラと生きながら、言うことだけは一人前で、ついついお説教口調になるのは致し方のないところ。我慢しながらも、付き合ってくれます。それだけで、良しとしましょう。

 ということで、これまでの3店の5段階評価は、こんな感じでしょうか。

(1)八起【4】
(2)とうてつ【3】
(3)八百八丁【1】
 
 
 

2010年5月18日 (火)

江戸漫歩(20)立川市新庁舎の本のオブジェ

 江戸漫歩というよりも、武蔵野漫歩です。

 立川市役所新庁舎が国文学研究資料館の道を隔てた北側に移転してきました。今月5月から利用できるようになっています。
 
 
 
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 3階にレストランができ、ヘルシーなランチがあるので、最近はよく行くようになりました。

 この市役所の敷地の西側に、金属造形作家である小沢敦志さんの作品「一冊の街」が設置されています。
 
 
 

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 このオブジェを3階のテラスから見下ろすと、こんな風に見えます。
 
 
 

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 文字が本に書かれているものであることはわかります。何と書いてあるか?
 私は、古代エジプトで使われたヒエログリフという文字かと思って見ていました。しかし、よく見ると、まったく違います。

 『立川経済新聞』(2010年04月15日)によると、「廃材利用の大型鉄製絵本「一冊の街」、立川市新庁舎を飾る」と題して、このオブシェについて以下のように報道されていました。

 作品は、全国公募で応募のあった45作品の中から選ばれたもので、幅4メートル、奥行3メートル、重さ900キロの大きな鉄の絵本。開いたページに、熱した鉄の廃材をハンマーでたたいた「ペラペラのオブジェ」約150点が張り付けてある。廃材はもともと、同市内の学校で使われていたいすや家庭用ガスコンロ、自転車のカゴなど、市民の生活の中から出たもの。使われなくなった道具や生活用品に付いた傷やゆがみに「人の手を経た道具の記憶や街の営み」を感じた小沢さんは、それらを作品としてよみがえらせ、1冊の本に集約することで「現代の立川の姿」を映すモニュメントを作り上げた。
(中略)
 「子どもたちが大きくなってから、あれは昔自分がたたいたものだと次の世代に語り継げるような展示作品にしたかった。大型作品ということもあり、制作過程では大変なことも多々あったが、多くの人たちとの交流の中で無事完成し、市役所という街の核となる場所にふさわしい、意味のあるものを作ることができた」とも。

 文字に見えるものは、廃材を使ってみんなが叩いて作ったものだったのです。てっきり、何か意味のある象形文字かと思っていたので、少し残念でした。しかし、これはこれで、意義のある作品になっていると思います。
 あるいは、作者は密かに文字に意味を持たせているのかもしれません。文字に造詣の深い方が見ると、作者からのメッセージが読み取れる、という遊び心があると楽しいですね。

 近くで見るよりも、上から見た方がいい作品です。
 
 
 

2010年5月17日 (月)

京洛逍遙(142)平安神宮の杜若と鯖街道マラソン

 週末はいい天気でした。仕事の合間の気分転換に、平安神宮の杜若を見てきました。
 
 
 
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 ここは、春先には紅しだれコンサートを聴きに来たりするので、勝手知ったる庭となっています。
 池のほとりに、一群の杜若が咲いていました。しかし、少し元気がないようです。
 
 
 
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 睡蓮の方が元気でした。
 
 
 

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 また、賀茂川では、たくさんのイベントが開催されていました。
 出町柳は鯖街道の終点です。
 
 
 
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 この出町橋の下は、鯖街道を走るマラソンのゴール地点となっていて、ちょうど2位の方がゴールされるところでした。
 
 
 
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 京都は海に遠く、琵琶湖の淡水魚は口にできますが、海の魚は日本海からのものに頼って来ました。よく知られる若狭湾の鯖は、福井県の小浜で一塩して京都に運ぶと、到着するころにはちょうどよい味になったそうです。一泊二日の鯖の旅です。
 その鯖街道も一つではなく、丹波から周山街道を経て鷹峯に入る道、鞍馬街道の道、そして若狭街道から大原を通る道と、いくつもあったそうです。

 この日行われていたマラソンは京都トライアスロンクラブ主催の「ウルトラ山岳マラソン鯖街道マラニック」というものでした。
 若狭小浜泉町商店街をスタートして、鯖街道をひたすら走ります。小浜~上根来~桑原~久多~八丁平~尾越~花背峠~鞍馬~賀茂川と走り、京都出町商店街までの約80キロの過酷なマラソンなのです。

 6時間以上も走り続けるのですから、本当にお疲れさまと声をかけたくなりました。

 初夏が満喫できた週末でした。
 
 
 

2010年5月16日 (日)

葵祭と平安京がよくわかる本

 『源氏物語と皇権の風景』(小山利彦、大修館書店、20101.5.20)は、昨日、下鴨神社の社頭の儀を案内して下さった小山先生の、出来たてのご著書です。
 
 
 
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 表紙は、葵祭で、女人列が下鴨神社の楼門に入るところです。昨日はこの楼門の右隅に陣取って、小山先生の説明を聞きながら祭儀を拝見しました。本書をあらかじめ読んでいたので、私には先生のお話が非常によくわかりました。

 以下にあげる目次からもわかるように、本書はまさに葵祭に合わせた出版だといえるでしょう。刊行日時が5月20日になっているのは、葵祭を見た方には読んでほしい、というメッセージでしょうか。
 『源氏物語』という作品に語られる舞台と、その歴史的な背景などを実証的に論じています。そして、歴史地理的な空間を読むことを通して、史実における実態を検証します。こうした時空を踏まえて『源氏物語』を読むことは、千年前の都が今でも京都という地を歩くと実感できるからこそ可能なのです。

 我が家の周辺地域のことがふんだんに語られているので、私にとっては町内の歴史語りを聞いている感じにもなりました。賀茂はもちろんのこと、北山、雲林院、紫野などにはじまり、大宮大路や北大路などは、実際に私が今でも歩いている道です。平安時代が、より身近になりました。

 本書の基本的な姿勢は、次のように明示されています。

 文学作品の故地を訪ねるということも、やはり現在における景観状況による確認ということになるので、古典の成立時空との時間的間隔が問題となる。本稿ではその差異をできるだけ縮小するための研究方法を提起している。源氏物語の空間表現に内在する問題を、千年を越えた平安朝空間の発掘成果、そして古絵図資料を参考にして周辺学を活用した新たな視点で究明しているわけである。物語の成立時の地理的空間を近年の発掘資料とともに文献にとどまることなく、実際に実観実証する手法を有効とみなしている。(116頁)

 『源氏物語』の時代と今が、提示される資料などでオーバーラップします。語られる場所や道を知っていると、イメージがさらに膨らみ、楽しく読み進めることができました。

 本書は、京都検定の受験を目指す方にも、学習意欲を掻き立てる格好の参考書となることでしょう。相当マニアックではありますが。

 「源氏物語の舞台を実証的に読み解く」というキャッチフレーズのもとに、以下の宣伝文句が書店から提供されています。

内容説明:至高の栄達を遂げる光源氏の〈皇権〉は、平安京の聖なる空間と信仰に支えられていた――。長年、源氏物語の舞台を自分の足で歩いてきた著者が、文献資料や古絵図、宮中祭祀の調査に加え、近年の考古学の発掘成果をも取り入れて物語の舞台を実証的に読み解き、その基底に流れる思想・信仰を探る。

 あわせて、本書の目次も紹介しておきます。特に第一章の三・四と第二章を、私はお薦めします。

序に代えて――文学から見える平安京

第一章 源氏物語の聖なる風景
 一 光源氏の皇権とその風景
 二 光源氏と嵯峨天皇の風景――嵯峨御堂の「滝殿」
 三 光源氏を支える聖空間――雲林院・紫野斎院、そして賀茂の御手洗
 四 光源氏の皇権と信仰――平安京勅祭の社、賀茂と石清水
 五 光源氏の皇権と聖宴――御神楽と東遊び
 六 光源氏における住吉の聖宴――東遊びと御神楽の資料から

第二章 平安京の地主神、賀茂の神と源氏物語
 一 賀茂の神降臨の聖なる風景――光源氏の聖性の基底
 二 賀茂の神の聖婚――「葵」と「逢ふ日」
 三 源氏物語の女君とイツキヒメ――大斎院選子内親王と源氏物語への連関
 四 朝顔の斎院と光源氏の皇権
 五 光源氏物語の総括――幻の巻における賀茂祭

むすび



 本ブログが、身内を贔屓し過ぎての記事になってもいけないか、と思わなくもありません。しかし、そこは個人的なブログという場なので、お許しいただきましょう。
 最後に、出版社のホームページから、本書の紹介文をもう一つ引いておきます。
 『源氏物語』に留まらず、平安京を理解するためにも、一読する価値の高い本だと思うからです。

天皇制において最大の敬意を払う対象は、皇祖神天照大神を祀る伊勢神宮であり、平安京地主神としての賀茂神社である。前の社には皇統の女君を斎宮と定め、物語では前掲の秋好中宮が務めている。第一章においては皇祖神に対する神遊びの楽、御神楽を注視している。松風の巻において源氏は神を送る曲の「其駒」を演奏している。若菜下の巻においては光源氏の一人娘明石の姫君の第一皇子が立太子した御礼参りとして住吉詣が催され、御神楽と東遊びが奉奏されている。賀茂神社に仕える聖女は朝顔の斎院である。本著では賀茂の祭祀について斎院の御禊・賀茂の御生れ・賀茂祭に関するいくつかの拙稿を第二章に収めている。四月中酉日の勅使と斎院の行粧は平安朝の最高に華やかな見物として、多くの文学作品にも描かれている。石清水八幡宮も賀茂の神に並ぶような崇敬を得て、北の賀茂に対応して南祭を催す神の宮となっている。一条天皇による石清水行幸の背景を論証してみた。
 皇権の重さを担った離宮であり、歌枕の名所であった、嵯峨院名古曽の滝跡、雲林院跡、そして賀茂神社に関わる紫野斎院跡や賀茂糺の森の王朝遺跡を、発掘資料や古絵図を用いて考察を試みている。嵯峨院は聖帝の誉れを有する嵯峨上皇が詩宴を開いた離宮である。唐風な神仙思想的風景が詩に詠まれている。歌枕として名高い名古曽の滝周辺が発掘された。すでに公任歌にも荒れてきた風景を偲ばせるが、今日大覚寺が往時の遣り水を復元している。『源氏物語』では松風の巻でこうした風景が活かされている。(『むすび』より一部抜粋)

2010年5月15日 (土)

京洛逍遙(141)葵祭の社頭の儀

 葵祭が賑やかに行われました。
 今年は、國學院大學の先輩で、専修大学の小山利彦先生の調査研究のお伴をしたために、なかなか得難い席から社頭の儀を拝見できました。上賀茂神社、下鴨神社共に、社頭の儀は始めて見ます。

 私が祭儀をじっくりと見られたのは、ちょうど楼門の真下で鴨社本殿に正対する位置だったからです。以下の写真は、報道関係者のものよりもいいアングルで撮影できたと思っています。少し多めに掲載します。ただし、時間がないので、説明はほんの少しだけに。

 京都御所の建礼門前を出発した行列(路頭の儀)は、1時間10分ほどで下鴨神社の糺の森に到着します。下鴨神社の準備は万端整っています。
 
 
 
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 御所からの行列が一の鳥居に到着すると、下馬して楼門まで歩いて参進します。
 まずは、近衛使代です。
 
 
 

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 清めのお祓いに使われた祭具が、ちょうど目の前に置かれたので驚きました。
 
 
 

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 葵祭りの主役は、勅使と斎王代です。しかし、やはり何と言っても、斎王代の登場が一番の見物でしょう。『源氏物語』では光源氏を一目だけでも、となるところですが、現代では光源氏ほどの男がいないせいか、女性がヒロインです。

 さて、一の鳥居に斎王代が乗る腰輿(およよ)が到着すると、境内はどよめきます。
 
 
 
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 この祭りに参加する人は、みなこの鳥居で下馬し、歩いて参進します。
 斎王代はもちろんのこと、童女もかわいいので見ものです。
 
 
 
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 舞殿を半周して、神服殿に着座します。
 
 
 

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 境内が華やかになったところで、祭儀が始まります。
 
 
 

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 この時、それまで参道の南で華麗な行列を見ていた見物客の方々も、一の鳥居まで進んで来て楼門越しに中の様子が見られるようになります。
 
 
 
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 近衛使代の御祭文(紅色)の奏上の儀は、神道に対する理解が必要です。
 
 
 

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 近衛使代の御祭文奏上、大神からの賜り物である神禄の葵桂の宮司からの授与など、古式のままに祭儀は進みます。
 
 
 
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 神様からの賜り物が植物だけというのが、いかにも日本的でいいと思います。

 やがて、陪従の奏楽に合わせて、6人の舞人の東游が舞殿で始まります。「駿河舞」と「求子舞」でした。「求子舞」では、肩袖を下ろしての、絵になるスタイルです。
 
 
 
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 このころになると、天気がいいこともあり、奉仕で参加していると思われる門外の学生さんたちはグッタリした様子でした。
 
 
 
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 諸役の礼拝に続いて、斎王代の礼拝がありました。
 
 
 

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 階段を数段下りるだけですが、これだけの衣装なので大変です。後ろに長く引く裳には、絵の具で絵が描いてあるそうです。著名な方の手になるもののようで、雨がなどに濡れたら大変だ、と後で聞きました。

 来賓などの礼拝の中に、女優の富司純子(旧・藤純子)さんがおられました。今年のベルリン国際映画祭で最優秀女優賞を受賞した寺島しのぶさんのお母さんです。旦那さんが七代目尾上菊五郎と言えばいいのでしょうか。
 「ふじ すみこ」と呼ばれたので、シャッターチャンスが一瞬ずれてしまいました。
 
 
 
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 祭儀が終わってから、下鴨神社で祢宜をなさっている嵯峨井さんから、懇切丁寧なお話を伺うことができました。
 
 
 
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 小山先生との関係に加え、お互いが大学の同窓であることが、気安く話せる背景にあることは、何と言ってもありがたいことです。頼もしい先輩が、こうして第一線で活躍なさっていることを知ると、自然と目に見えない力をもらえたような気がします。

 中門の横では、葵桂が頒布されていました。これは、我が家の中庭でも、元気に育っています。

 その後、嵯峨井さんの案内で、大炊殿と葵の庭に行きました。ここは、かつて賀茂斎院があったところです。今の御井は、千年前にも賀茂斎院がこの水を使ったものだそうです。今でも神事で使われています。

 今回の祭儀で神様にお供えされたお食事(神饌)についても、嵯峨井さんから詳しく説明を聞くことができました。これは、先ほどの祭事で用い、終わってすぐに下げて置いてあるものでした。
 
 
 
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 手前に大きな魚がありますが、これは鮒です。この鮒は、大津市の堅田地区から届いたものです。
 先の連休に、私は突然思いついて堅田に行きました。井上靖の「比良のシャクナゲ」の舞台との出会いがあったのですが、実はこの堅田の神田神社から、湖魚である鮒が下鴨神社に献上されていたのです。
 堅田は11世紀後半から、下鴨神社に供物を献納するため御厨となりました。そして、葵祭の前日には、毎年ここの鮒などを納めてきたのです。行列は戦争で途絶えたようですが、21年前に復活し、今この目の前に置かれていました。もっとも、今はバスを使って運んでいるのだそうです。
 こんなに大きな鮒なので、ご覧のようにはみ出しています。神社としてはもう少し小さい方が、という思いはあるようです。しかし、立派なものをという堅田のみなさんの思いが詰まっているので、感謝しておられました。
 正面中央のご飯は、左端が少し崩れています。これは、大きな六角の箸で神様に召し上がっていただいたことを示すものです。
 精進料理ではないことは一目瞭然です。下鴨神社における神仏の関係を知ると、興味深いことがたくさんわかるようです。それらはまた別の機会にしましょう。

 午前中に御所から来た行列は、午後はこの下鴨神社から上賀茂神社へ向かいます。我が家の横の賀茂街道を北上します。しかし、今年は行列は見ずに、別の調査地へ行くことにしました。
 半日とはいえ、充実した葵祭りとなりました。

2010年5月14日 (金)

【復元】ワーストワンのトルコ航空


(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)

********************** 以下、復元掲載 **********************

2004年12月25日

副題「 JAL は即刻共同運行を解除すべきだ」

 過日、調査研究と人とのネットワーク作りのために、トルコへ行ってきました。

 イスタンブールからの帰りの便は、往路と同じトルコ航空でした。
 機内はガラガラで、3分の1ほどの乗客です。
 離陸してからヘッドホンが配られました。しかし、それは壊れていて、左側の音が聞こえないのです。袋から開封したとき、すでにスピーカー部分のブラスチック部品が外れてブラブラしていました。
 飲み物を聞きに来られた女性乗務員の方に、不良品の交換をお願いしました。しかし、いつまで待ってもその外国人女性は持ってきてくれません。大分たってから、通りがかった日本人の乗務員に理由を説明して交換をお願いしました。その方は、まもなく持ってきてくれました。それは使えたのですが、音が割れるものでした。
 聞こえるからいいかと思い、そのまま使うことにしました。
 往路でも、このトルコ航空のヘッドホンは壊れていました。無愛想な乗務員ばかりのようだったので、交換してもらうこともなく、結局使わないままに着陸時に返却しました。

 今回、はじめてトルコ航空を使いました。感想は、私が見かけた乗務員の方はみな、教育が行き届いていない方々ばかりのように思われました。というよりも、基本的な接客の態度に問題があるのです。社員教育の成果以前の問題のように思われます。

 客との会話は、相手を見てすること。そっぽを向いたままの対応は失礼です。忙しい職業であることはわかります。しかし、それでも基本的なマナーは心得ておくべきであり、実践すべきでしょう。それも、往復ともに機内空席の多い便なのだからなおさらです。教育がまだ周知徹底できていないのならば、一人くらいは心遣いのできる人を配置しておくべきです。私がエコノミークラスだったから、ということは言い訳にはならないと思います。私も、正当な料金を支払って搭乗しているのですから。

 帰路の日本人スタッフの一人は、まだいいほうでした。往路で見かけた乗務員は、気分を害する人たちだったので。これはあくまでも比較の問題ではありますが、航空会社のレベルとしては非常に低いといわざるをえません。

 トルコ航空はエア・インディア以下だと思います。
 インド好きの私は、エアインディアの乗務員の無愛想さとサービス精神に欠けるところは、それなりに許しています。これまでに最低だった航空会社は、KLMでした。搭乗時の要望をまったく無視した発券をされるし、その後の対応も不愉快極まるものでした。しかし、今回はじめて乗ったトルコ航空は、それら以下の航空会社でした。

 機内での映画上映の時間になった時のことです。私は、座っていたところに近いテレビを見ることにしました。座席の背に液晶モニタが取り付けてないタイプのシートなので、自分が見たい天井から下がっているテレビ画面を決める必要があるのです。
 ところが、またまた驚きました。テレビの垂直同期がとれていないせいか、画面が縦に流れていくのです。これは目が疲れます。画面がよく見えないのです。こうしたことは出発前に点検すべきものだし、乗務員も気が付けば調整すべきものなのに、通路を通りかかった方は見て見ぬふりをしているとしか思えない様子でした。

 テレビをあきらめてオーディオを聞こうとして、さらにびっくり。
 音楽テープが伸びきったりワカメ状態になっていたようで、二つのチャンネルの音楽がウゥーうぅーと唸りをあげているのです。レコード盤をゆっくりと手回ししているような音が再生されています。胸を突き上げるような気分の悪さを感じたので、オーディオも諦めて、一人静かに寝るに限るという結論にたっしました。
 少し横にいた若い乗客は、どうしても聞きたい番組だったらしく、納得できる音が聞こえるまで何とかしてくれないかと訴えていました。しかし、その願いは届かなかったようで、やがて寝ていました。
 今回は、およそ快適とはほど遠いフライトでした。

 トルコの人たちとその文化が気に入った私は、今後ともトルコへ足を運ぶことと思います。しかし、航空会社はトルコ航空は避けることでしょう。もっとも、トルコ国内の移動は、トルコ航空のお世話になるしかないようですが。
 JALの名誉のために記しておきます。トルコ航空との共同運行は、即刻解消すべきです。私は可能な限りJAL便を利用しています。日本人スタッフに対する安心感のみならず、快適な雰囲気作りに努力する姿勢に好感を抱いているからです。そのJALのイメージダウンにならないためにも、トルコ航空との共同運行はやめてほしいと思っています。

********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 

2010年5月13日 (木)

井上靖卒読(108)「ある自殺未遂」「七夕の町」「二枚の招待状」

 ■「ある自殺未遂」
 自分をわかってほしい、という立場で、自殺の経緯を語っています。
 理由は大したことではないことが重なったことから、衝動的にそうなったのです。死まで、と思う気持ちが、最後まで読んでいた伝わってきませんでした。
 いろろいなものが自分から離れていくことから、孤独になったのが原因だろうと思われます。そのことを伝えようとする小説です。しかし、私には、うまく伝わってはきませんでした。【2】
 
 
 
初出誌︰別冊文藝春秋
初出号数︰1951年9月23号
 
文春文庫︰貧血と花と爆弾
角川文庫︰貧血と花と爆弾
井上靖小説全集 4︰ある偽作家の生涯・暗い平原
井上靖全集 3︰短篇3
 
 
 
■「七夕の町」
 語り出しで、グッと引き込まれます。何だろう、と。うまい導入です。
 ただし、盛り上がりに欠けます。
 もっと、シットリと語ればいい、と思いました。【3】
 
 
 
初出誌︰別冊小説新潮
初出号数︰1951年9月
 
集英社文庫︰楼門
潮文庫︰傍観者
井上靖小説全集 4︰ある偽作家の生涯・暗い平原
井上靖全集 3︰短篇3
 
 
 
■「二枚の招待状」
 この中に出てくる「星の植民地」ということばは、鳥取県の日南町の井上靖文学碑に刻まれたことばです。この作品が、その初出となるのではないでしょうか。ただし、この語句が、私には最後までわかりませんでした。

 流行歌手という主人公は、井上の作品には珍しいものです。華やかな世界を扱うのが少ないせいでもあるのでしょう。

 主人公である摩耶の背後で進行する友達のドラマが、うまく点描されています。計算された構成がいいと思います。
 三人の男女がうまく描き分けられていて、完成度の高い仕上がりです。それなのに、この作品が『井上靖全集』に初めて収録されたことが意外でした。【4】
 
 
 
初出誌︰オール読物
初出号数︰1951年10月号
 
井上靖全集 3︰短篇3


〔参照書誌データ〕
 井上靖作品館
 http://www2.plala.or.jp/baribarikaniza/inoue/

2010年5月12日 (水)

【復元】戸籍の本籍は現住所に移すべきである

(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)

********************** 以下、復元掲載 **********************

2004年12月19日公開分

副題「素人仕事の郵便局と市役所に振り回される」

 母が亡くなって2ヶ月半が経ちました。
 いろいろな手続きのために走り回りましたが、いまだに手続きが完了していないものがあります。それは、簡易保険から受け取れるはずの入院費です。まだまだ手続きに日数がかかりそうです。もう貰わなくてもいいか、と諦めつつありますが……。

 まず、郵便局の簡易保険の担当外交員は、本年8月以来、結局何一つ我が家のために仕事はしてくれませんでした。我が家の担当者は、お金を集めるだけが任務のようです。何でも気軽に相談を、というのはまったくの嘘っぱちです。

 母が入院していたのは、担当郵便局から歩いて3分のところにありました。確認をしに行きますとは言うだけで、担当外交員の方は一度も足を運ばれることはなく、また、連絡をしてもいつも休暇日だとのことでした。しかたがないので、私が何度も見舞いに行った病院から、トコトコと郵便局へ足を運ぶことになりました。

 死亡保険に関しては、即日現金で支払われました。あっけないほどに簡単な手続きでした。これは意外でした。
 しかし、入院費に関してはそう簡単ではありません。その理由は、亡くなった者の相続人の確定が、書類によってなされるからです。そして、その書類をすべてそろえるのが大変なのです。奈良県王寺郵便局の方がその手順を丁寧に説明してくだされば、そんなに難しいことではありません。しかし、そんなに丁寧な対応はしてもらえなかったのです。また、母の戸籍が島根県出雲市役所にあり、そこから必要な書類をすべて入手するのに、いまだに手こずっているのです。

 入院費請求のためには、まず、「簡易保険 入院証明書」が必要です。ただし、この用紙は病院には置いてなくて、郵便局で貰って病院に提出して書いて貰います。一通2100円かかります。
 次に、「代表者選定届」が必要です。これは、母には姉と私の二人の子供がおり、その相続人にどちらがなるのかを明確にするものです。そして、私と姉の二人の戸籍謄本によって、各々の母が正しく記載されていることが確認されます。そのために、私と姉の戸籍謄本が必要となります。お互いが現住所の役所で入手できたので、問題はありませんでした。いまだに困っているのは、母の書類です。

 私の両親は島根県出雲市の出身で、私と姉も同地で生まれました。しかし、私は結婚の折に戸籍を現住地に移しました。姉は義兄の籍に入りました。
 両親は大阪に出てきてからも、戸籍は出雲においたままでした。その後両親は、お墓を『伊勢物語』において業平通いで有名な河内の高安の里に移しました。当時我々親子が住んでいた地です。しかし両親は、せめて自分たちの戸籍だけは、生まれた地である出雲にそのまま置いておきたいとの気持ちが強く、そのままにしていました。
 今から20年前に父が亡くなりました。その時に、母の戸籍も私と一緒に住んでいるのだから奈良の平群に移したらどうか、と持ちかけました。しかし、生まれた出雲と縁が亡くなるのが寂しいからと、その時も、そのままにすることになりました。

 今回、母の戸籍謄本が必要となり、インターネットで書類の入手方法を確認して、手紙を添えて出雲市役所に申請しました。一日も早く手続きを終えたかったので、返信用に速達の封筒を入れました。
 ところが、翌週、拙宅に市役所のTさんから電話がありました。その時、死亡した者の謄本は発行できないが、除籍の証明書は出せる、とのことでした。私は、母の簡易保険の入院費用の請求を郵便局に提出するために必要であることを伝え、他に方法がないようなので、言われるままにお願いしました。Tさんは、それならば、手数料の追加料金として300円の郵便小為替を送ってほしい、ということでした。生きている人間の謄本は450円で、死んだ者の謄本は750円ということなのです。
 どうでもいいことではありますが、この手数料の違いは、何に起因するものなのでしょうか。

 結局、申請から2週間以上経ってから、母の除籍証明書が送られてきました。こちらが送った返信用の速達封筒が使われていました。わざわざ貼った速達の切手がむなしく見えました。

 揃った書類を持って郵便局へ行きました。しかし、局員の方の説明では、母の除籍書類では、私と姉以外に子供がいないことが証明できないので、これでは受け取れないとのことでした。市役所とのやりとりでこの書類になったことを説明しました。すると、やはりこれではだめであり、現に現在処理中の保険請求でも、死亡者の戸籍謄本が出ている、と言って、それを参考までにということで見せてくださいました。確かに、該当者の欄が×印で抹消された謄本が添付されていました。死後にも、戸籍謄本は発行されているのです。
 私がこれまでの顛末を説明すると、局員の方はわざわざ出雲市役所の市民課に電話をしてくださり、やはり戸籍謄本は発行できるということを確認してくださいました。

 帰宅後、私から市役所に電話をし、間違って送られてきた除籍書類のために支払った費用などのことを相談しました。すると、今回の用件のために必要な書類は4点必要であり、さらに追加料金として750円かける4点分の郵便小為替で送れば、今回の目的のための書類を送付する、とのことでした。
 おいおい、と言いたくなります。電話で対応する人によって、必要書類が変わってくるのですから。このYさんのことばを信じて手続きを進めたらいいのかどうか、ただいま思案中です。またまた違っていました、別にこんな書類も必要です、とならないとも限りませんので。何が本当なのか、もう少し様子をみようかと思っています。

 そして思います。本籍地が遠いので、こうして煩わしいことになるのです。
 これが、現住地に戸籍があれば、窓口で対応してもらえるのです。
 「戸籍の本籍は現住所に移すべきである」と思うゆえんです。
 
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 

2010年5月11日 (火)

吉行淳之介濫読(4)「鼠小僧次郎吉」「小野小町」

吉行淳之介濫読(4)「鼠小僧次郎吉」「小野小町」

■「鼠小僧次郎吉」
 読んで楽しい、吉行初の時代小説です。
 江戸の蛤町から深川八幡あたりを舞台として、おもしろおかしく話が展開します。
 現在、私が深川に住んでいることもあり、以前に読んだときよりも親近感をもって読めました。物語の舞台を知っているのと知らないのとでは、やはりその楽しさが違います。他所のできごとではなくて、自分が知っている場所で登場人物が動くので、話がグッと現実味を増します。その意味でも、語られる場所や人物に関する知識は、話に入り込んでいくのに有効なものだと言えるでしょう。ことばだけの文芸のありようについて、考えてしまいました。

 さて、この小説は、物語の合間に入る作者の解説が楽しいのです。限られた空間しか聞こえない会話術や、千両箱の重さや現在の金額への換算などなど。対談の名手と言われた吉行の、間合いを計っての息抜き話が、読者を惹きつけます。
 また、カッコ付きで記された作者のコメントが粋です。時々、「ところで……」と作者が顔を出します。その軽みもいいものです。

 中盤から出てくる養父の敵捜しの話は、さらにおもしろく展開します。
 「在来の次郎吉物語では〜。しかし、われらの次郎吉は〜」などと、落語的な吉行版「鼠小僧」となっています。
 「(当然、大坂弁で喋るのだが都合で標準語で書いておく)」なども、好感の持てる流れを作っています。

 なにはともあれ、最後の素直な「結びの章」が秀逸です。【4】
 
 
初出誌
原題は「鼠小僧異聞」
『週刊現代』昭和37年11月18日号〜38年4月4日号に、「雨か日和か」(謎解きの仕掛けあり)と題して20回にわたって掲載
 
 
 
■「小野小町」
 これまた、吉行版「小野小町」です。
 日本古典文学に対する愚痴から始まるのがおもしろいのです。
 藻之瀬二郎(謎解きの仕掛けあり)なる者の説を元にして、風変わりな小野小町が語られます。
 「講釈師見てきたような嘘を言い」というのを地で行く物語です。
 ただし、小町が殺人を、というところは、話の流れに馴染んでいないように思えました。
 最後で、深草少将(後の僧正遍照)が言う「恐い」、という意味は納得できました。【3】


初出誌
『週刊読売』昭和44年8月8日号〜8月29日号までの4回連載

2010年5月10日 (月)

回転寿司屋の危険な給茶装置

 現在、日本の回転寿司屋の回転レーンと自動給茶装置は、金沢市の石野製作所や北日本カコーの製品が多いようです。シェアは60%とのことです。もっともこの会社は、くるくる寿司チェーン店などを含めた系列会社であることを、最近知りました。もう一つ、白山市の日本クレセントという会社が40%のシェアを占めており、石川県が独占している業界です。

 回転寿司は、昭和33年に大阪の近鉄布施駅前の「元禄寿司」が始めたものです。高校時代まで近鉄大阪線を利用していた私は、小さいときからこの「元禄寿司」に足繁く通ったので、回転寿司の客としては初期からの部類に入ります。
 なお、現在東京で食べることの多い「平禄寿司」は、昭和43年に仙台を舞台に開店したお店で、関東では最初のお店だそうです。

 そして、昭和45年の大阪万博で、この回転寿司が一躍有名になりました。

 その回転寿司屋が、私が行動する範囲に何店もあります。
 京都は「むさし」、深川と立川は「平禄」が行きつけの店です。
 いつも利用する中で、お茶を入れるシステムに疑問を持っています。

 先日も横にいたおばあさんが、湯飲み茶椀で黒いボタンを押し込むのではなくて、自分の指で黒いボタンを押そうとしておられたのです。
 
 
 
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 素手のままで一気に黒いボタンを押し込むと、即座に指は熱湯で火傷をします。あわてておばあさんに声をかけて、代わりにお茶を入れてあげました。
 確かに、ボタンを指で押したくなる心理は理解できます。茶碗でボタンを押すなど、しっかりと家庭で躾を受けた人には、想像もできないずぼらな行為なのですから。

 これまでにも、何度かこうした危険な光景を見てきました。
 また、お湯を入れた茶碗をボタンから離すタイミングも、ヒヤヒヤさせられます。これが嫌だ、という方もおられるのですから。
 真剣に別の方法を考えるべきです。目の前に貼られている利用図は、誰も見ていないのです。

 最低限、指でボタンを押しても、手には直接お湯を浴びないような形状に改良すべきではないでしょうか。もしくは、お年寄りや初めてのお客さんらしい人には、お店の方がお茶を渡してから使い方を説明すべきだと思います。
 関係者の方に、この記事が目に留まればいいのですが。
 
 

2010年5月 9日 (日)

京洛逍遙(140)初夏の瑠璃光院

 今年の京都は、樹々の緑がことのほか鮮やかです。
 パンフレットなどには、「青もみじ」という語が書かれています。しかし、そのことばは、まだ紅葉しない楓などをさすものです。襲の色目では、表が青、裏が朽ち葉です。

 古来、この新緑の若々しい芽吹きを何と言ったのでしょうか。次の2句くらいしか思い浮かびません。

あらたふと青葉若葉の日の光(芭蕉)

目には青葉山ほととぎす初鰹(素堂)


 歳時記などを繙いてみました。
 「夏木立」「新樹」「若葉」「青葉」「新緑」「茂」「万緑」「木下闇」「緑陰」「若楓」などが立項されています。

 この中では、「若楓」が、この新緑の季節の色のグラデーションを的確に言い当てていることばのように思います。
 このことばは、『万葉集』にはじまり、為家の「散りはてし桜が枝にさし混ぜて盛りとみする若楓かな」(『嘉禄四年百首』新樹)が今の季節に一番近い緑を歌ったもののように思われます。

 『日本大歳時記 夏』(講談社)に、次の『源氏物語』の例をあげていました。

御前の若楓、柏木などの青やかに茂りあひたるが(「胡蝶」)

 『源氏物語』は季節の色にも敏感にことばにしているので、また改めて確認したいと思います。

 さて、2007年10月29日に、「京洛逍遥(17)八瀬・瑠璃光院」という記事を書きました。そこでは、『源氏物語』の屏風のことやトイレのことなどしか言わず、この瑠璃光院の庭のみごとさに触れませんでした。

 年に2回の公開なので、今日は初夏の瑠璃光院を散策してきました。
 数寄屋造りの書院で、若楓に包まれて来たのです。
 
 
 
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 飛び石が曲がりくねった細道を登ると、石橋のところで錦鯉が出迎えてくれます。
 
 
 
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 すっきりとした書院の中は、縁側や額縁を通して見る、若々しい色の空間です。
 
 
 
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 2階の書院では、女の子が写経に取り組んでいました。
 
 
 
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 書院の窓から見える外の景色は、秋の燃えるような色彩とは異なり、瑞々しい若さが感じられます。
 
 
 
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 お茶室も、ゆったりしていました。
 
 
 
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 最近は目の調子がよくなかったので、たっぷりと目に栄養を補給して、高野川の清流を散策しながら帰途につきました。
 
 
 

2010年5月 8日 (土)

源氏のゆかり(45)説明板40-大原野神社

 「源氏のゆかり」としての記事は、9ヶ月ぶりとなります。
 前回は、昨年8月に書いた「源氏のゆかり(44)五条の夕顔町」(2009年8月25日)でした。
 そして、「源氏物語ゆかりの地」の説明板については、「源氏のゆかり(42)説明板39-鳥辺野」(2009年8月13日)以来です。

 京都市が源氏物語千年紀を記念して、『源氏物語』の舞台にゆかりの深い関係遺跡40ヶ所に説明板を設置したのが、2008年3月末でした。
 そのすぐ後に、「源氏のゆかり(4)説明板16-大極殿跡」(2008年4月10日)と題するシリーズを書き出しました。説明板の一つ一つを訪ね歩いた探訪記です。
 以下の順序で、「源氏のゆかり」として気長に書き続けていました。

(4)説明板16-大極殿跡
(5)説明板28-鞍馬寺
(6)説明板31-雲林院
(7)説明板9-淑景舎(桐壺)跡
(8)説明板12-建春門跡
(9)説明板11-温明殿跡
(10)説明板10-昭陽舎跡
(11)説明板5-承香殿跡
(12)説明板4-清涼殿跡
(13)説明板3-弘徽殿跡
(14)説明板2-凝華・飛香舎跡
(15)説明板7-内裏内郭回廊跡
(16)説明板6-蔵人町屋跡
(17)説明板8-紫宸殿跡
(18)説明板14-宜陽殿跡
(19)説明板13-建礼門跡
(20)説明板1-平安宮内裏跡
(21)説明板17-藻壁門跡左馬寮跡
(22)説明板18-豊楽殿跡
(23)説明板19-朝堂院昌福堂跡
(24)説明板15-平安宮大蔵省跡・大宿直跡
(25)説明板20-平安京一条大路跡
(26)説明板21-一条院跡
(27)説明板37-廬山寺
(28)説明板38-梨木神社
(28)説明板36-法成寺跡
(29)説明板22-二条院候補地
(30)説明板23-大学寮跡
(31)説明板24-斎宮邸跡
(32)説明板26-西鴻臚館跡
(33)説明板27-羅城門跡
(34)説明板30-雲母坂
(35)説明板25-朱雀院
(36)説明板29-大雲寺旧境内
(37)説明板32-遍照寺境内
(38)説明板33-棲霞観跡
(39)説明板34-野宮神社
(40)説明板35-大堰の邸候補地
(42)説明板39-鳥辺野

 39ヶ所を回ったままで、この探訪も止まっていました。それが、ついに今日、私にとっての満願を果たすことができしまた。京都郊外にある、藤原氏ゆかりの大原野神社がそれです。

 最寄り駅の阪急桂駅は、国際日本文化研究センターへ会議や研究会に行くときに何度も来ました。しかし、この駅に降り立ち、大原野神社へ行くバスの時刻表を見ると、なんと1時間に1本もないのです。以前に行った時には、自分の車でした。しかし、今は車を処分したので、公共交通を使っての探訪です。
 しかたがないので、タクシーを使いました。片道1800円です。お気を付けください。

 西国札所でも知られる善峰寺がすぐそばに見える、新緑の中の大原野は清々しい里です。
 
 
 
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 鳥居のすぐ横に、説明板はありました。
 
 
 

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 参道は、まさに絵はがきのような風景です。
 
 
 

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 参道脇の「瀬和井」も有名です。
 
 
 

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 本殿を臨むと、気分がスッキリする佇まいです。
 
 
 

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 前回来たときには、ちょうど改修中でもあり、テントで覆われていました。

 本殿前から参道を見やる景色も、緑のトンネルが印象的です。
 どこの神社でも、明るさと清らかさが感じられるのがいいですね。そして、拝観料を取られないことも。これが、神社と仏閣の大きな違いでしょうか。
 
 
 
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 参道の途中に、春日乃茶屋というお店があります。
 
 
 
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 ここの「よもぎ団子」が、とにかく香りがいいので気に入りました。この茶屋で今月末に落語会が催されるとか。この雰囲気の中で、きっとすばらしい会となることでしょう。

 帰りのバスの時間まで少しあったので、大原野神社の向かいにある正法寺にも足を運びました。
 ここでは、藤が見事に咲いていました。
 
 
 
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 これで、ようやく「源氏物語ゆかりの40ヶ所」の説明板を踏破しました。のんびりと、折を見ての2年間でした。

 各所の時代的な背景や、『源氏物語』との関係について、書きたいことがたくさんありました。しかし、その余裕もないままにここまで来ました。
 いつか、これらの記事を再編集する機会があれば、その時に手を入れることにします。
 ひとまず、このシリーズは無事に終わりとなり、ホッとしています。
 
 
 

2010年5月 7日 (金)

我が家の春の花々

 今年の春に我が家で咲いた花の写真を集めました。
 地植えではないので、いろいろと苦労があります。
 鉢で育てている花たちです。


 【3月上旬】
 
 
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 【3月中旬】
 
 
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 【4月中旬】
 
 
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 【4月下旬】
 
 
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 【5月上旬】
 
 
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2010年5月 6日 (木)

琵琶湖の赤い月

 琵琶湖の西側にある雄琴温泉に行ってきました。
 かつての歓楽街の雰囲気はありません。それだけに、少し祭りの後の雰囲気が残っていました。
 これから、さらにイメージチェンジを図ろうとしているようにみうけられます。

 湖岸からは、比叡山や比良連邦が望めます。
 
 
 
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 その夜、空を見上げると、月が赤く染まっていました。
 
 
 
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 しばらくすると、白く輝いています。
 
 
 
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 翌朝、湖東の方を見やると、何事もなかったかのような景色です。
 
 
 
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 なかなか興味深い月に出会えたように思います。

 今から10年以上前のことです。大学の新入生を連れて、琵琶湖の南側のホテルでフレッシュマンキャンプという宿泊研修を何度もしました。頻繁に行っていた琵琶湖ですが、本当に久しぶりです。

 穏やかな湖面を見ていると、柔らかな風が心地よく感じられます。湖ならではの漣が目に優しく、滑らかな風の肌触りです。
 大津から雄琴のあたりは、瓢箪を逆さまにした琵琶湖の南側、窄んだ括れから先にあたります。大きくゆったりとした琵琶湖は、これより北に拡がっています。

 西国三十三箇所の札所めぐりで、湖東の方へは何度も行きました。
 今度は、湖西から逆回りで琵琶湖を経巡ってみたいと思います。そして、琵琶湖に点在する十一面観音も、『星と祭』よろしく、見て回りたいと思います。
 
 
 

2010年5月 5日 (水)

京洛逍遙(139)詩仙堂と恵文社

 日差しのきつい一日でした。急に夏の気配です。
 賀茂川から望む北山方面は、山々の稜線が様々に重なっています。
 
 
 
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 河原の鷺も、魚を狙う目に緊張感が漂っていて真剣です。
 
 
 
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 北大路通りを東へまっすぐまっすぐ行くと、白川通りに突き当たります。そこを左折して上って行き、東西に走る曼殊院道を東に登っていくと詩仙堂があります。
 宮本武蔵で知られる一乗寺下り松あたりからは自転車を漕いで行くのを断念し、エッチラオッチラと押して登りました。
 
 
 
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 入るとすぐに、真っ直ぐに伸びた竹と筍が出迎えてくれます。
 
 
 
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 詩仙堂は、正しくは、六六山詩仙堂丈山寺と言うそうです。
 入った廊下の突き当たりに永平寺のポスターが貼ってあったので、曹洞宗の寺院であることがすぐにわかりました。我が家と妻の実家の本山でもあります。私には、曹洞禅に耐えるだけの精神力はありません。しかし、禅宗の寺院に足を入れると、ホッと落ち着きます。凛とした緊張感と、簡素な中に人間を思いやる心遣いに、日本の仏教の優しさを感じます。

 ここは、江戸時代初期の1641年に、徳川家の側近だった石川丈山が造営し隠棲した山荘跡です。90歳までこの山荘で過ごしたとか。
 私は平安時代に興味があることもあり、こうした江戸時代の場所にはあまり足を運びません。しかし、詩仙堂はいつか行ってみたい所の一つでした。
 ここには、狩野探幽が描いた中国の詩家36人の肖像に、丈山が隷書で書いた詩を掲げる三十六詩仙があり、それを飾る「詩仙の間」が有名です。探幽の、精密な筆致は好きです。架蔵の「探幽筆 三拾六哥仙」に描かれた人物の表情が気に入っていることもありますが。

 本尊は馬郎婦観音となっています。どのようなお姿をしておられる観音さんなのか、私は想像すらできません。仏様は性別に関係ないように思います。しかし、これは女性であることは明らかなので、珍しい仏様なのでしょう。

 その観音がお祀りされていると思われる空間に、私は興味を持ちました。それは、その床が、源氏物語絵巻の桐壺巻で、光源氏が高麗の相人のもとに行った時の絵に描かれた床にそっくりだったからです。
 
 
 
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 このことは、また別に調べたいと思います。

 詩仙堂のホームページに、その観音さまの写真と説明がありました。
 「めろうふ」とも「ばろうふ」とも読むようです。
 このホームページは、非常によくできていると思います。説明と写真が、スムーズに連携しています。
 例えば、チャールズ皇太子とダイアナさんが訪れたときのページなどは、その様が彷彿とします。
 その説明に「下記写真は、皆さんが御覧になりやすいように不要な部分をカットしていますが、実際は、たくさんのセキュリティーが配置された人だかりの状態の中で当院を散策されていました。」とあり、このページを作成された方の、見る人への配慮と伝えようとする気持ちが伝わってきます。
 私は、1995年からホームページを公開してきたので、その初期からこれまでにたくさんのホームページの作成に関わってきました。そんな中で、この詩仙堂のホームページは秀逸のものとして評価したいと思います。ぜひ一度ごらんいただければ、とお薦めします。

 白砂の唐様庭園は、初夏の爽やかさがありました。
 
 
 
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 この上の写真にある、軒先の雨樋を受ける木製の小物が気に入りました。
 これまで、こうしたものに目がいったことがないので、他の建造物でも使われているのか不明です。しかし、この庭と新緑の景色にはピッタリのものです。
 
 
 
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 次の写真は、これまでにあまり紹介されることの少ない場所だと思います。
 今日、私が一番気に入った新緑の空間です。
 
 
 
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 詩仙堂から坂を真っ直ぐに下り、叡山電鉄の一乗寺駅を過ぎたところに、いまではさまざまな雑誌で紹介される事の多くなった「恵文社」という本屋さんがありました。
 
 
 
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 店内の雰囲気がいいのです。そして、並んでいる本の種類も。
 
 
 
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 私は、お店の奥にあるステーショナリーの一角が気に入りました。
 ここは、街中の書店では目にすることが少ない本がたくさん書棚に置いてあります。楽しくなる、不思議な場所です。本好きの方にとっては、あこがれの地であることが頷けます。

 また、京都の贅沢な空間を見つけてしまいました。
 
 
 

2010年5月 4日 (火)

京洛逍遙(138)上賀茂神社の斎王代

 少し汗ばむ初夏の一日、上賀茂神社で斎王代の華麗な儀式が行われました。

 早めに、写真を撮りやすいポジションを確保することもあって、紫式部の歌碑の横へ行きました。
 するとすでにそこには、全国からお越しの写真愛好家が集まっておられました。みなさん撮影場所をよくご存じのようです。こうしたイベントは、情報交換の場ともなっているようです。昨日も下鴨神社の流鏑馬を撮影した、という話で盛り上がっておられました。みなさん、カメラと文化を結びつけるのがお好きなようです。

 今日の神事の正式名称は「斎王代・女人列御禊神事」(さいおうだい・にょにんれつみそぎしんじ)です。この通称「御禊神事」は、上賀茂神社と下鴨神社とで、毎年交替で行われています。西暦の偶数年が上賀茂神社なので、2010年の今年は上賀茂です。来年は2011年で奇数年なので下鴨神社で行われます。
 例えば、京都検定の第4回2級の試験問題に、「葵祭の神事の一つで、斎王代が身を清める御禊神事は、今年(2007年)はどこで行われたか?」という質問があります。奇数年と偶数年の持ち回りを知っていると、こんなときに役立ちます。

 儀式の最初には、神官のお祓いがあります。
 
 
 
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 やがて、斎王代が橋殿に著座。
 
 
 
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斎王代は十二単を着、その上に白い小忌衣をまとっています。この十二単の重さが約30キロもあるそうです。そのため、着付けに2人がかりで3時間近くかかるという、大変な装束なのです。

 そして、御手洗川で御禊となります。付き従う女童がかわいかったので、斎王代を一際引き立てていました。
 
 
 
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 御手洗川の水に斎王代が両手を浸し、身を清めます。ゆったりとした所作でした。
 
 
 
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 手を拭った紙も、川に流します。
 
 
 
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 続いて、小袿の命婦・女嬬・内侍・女別当などが、順番に人型に息を吹きかけ、それで身体を撫でて清めた後、その人形を、橋の下を流れる川に流します。これで、俗世の汚れが解除されるのです。
 
 
 
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 私の足下を、この人形の一つが流れて行きました。


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これと同じものが我が家の町内会で回ってきます。いつも、この人形に家族の名前を書いて、お志を添えて隣の家に回していきます。いまでもこの行事は地域住民と共に、我々の日常にも活き伝わっているのです。

 最後は、斎王代が木の人形で解除して川に流します。

 
 
 
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 この人形も、私の足下を流れて行きました。
 
 
 
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 儀式が終わり、帰ろうとした時でした。
 紫式部の歌碑のところに、報道陣の荷物が置かれていました。文化を理解することなく、情報発信にだけその存在意義を認める報道関係者の無頓着さには、いつも失望しています。神社も、こうした報道関係者を優遇し過ぎです。今日もこうした未熟な記者を横目に見て、朝日新聞の白石さんのように育ってほしいと願うだけでした。
 
 
 
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 今日の儀式では、この歌碑は一顧だにされません。しかし、これも大事な、いにしえを偲ぶ記念碑です。その石碑に、このように無造作に荷物を寄せかけることに、大いに抵抗を感じたからです。

 暑い中、緊張の連続でもあり、さすがにみなさんお疲れだったようです。斎王代は最後まで凛としておられましたが、女嬬役の方が体調を崩されたようでした。
 
 
 
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 衣紋方も、細かな心配りで気遣っておられました。衣紋方には知り合いが何人かいるので、そのご苦労がわかります。
 
 祭事も大過なく終わり、労いの言葉を聞きながら、みなさん和やかでした。
 
 
 
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 境内を出るときに、賀茂の森の新緑がきれいでした。
 桜の季節もいいものですが、その後の新緑はいや増しに清々しい気持ちにしてくれます。
 
 
 
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 奈良の小川から別れた水路を歩いての帰り道、先ほどの人形がこちらの水路に迷い込んでゆっくりと流れていました。これから、社家の前の小川を通り、賀茂川に流れていくのでしょう。
 
 
 
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 この人形も、大役を果たしたのです。後は、ゆったりと流れに任せて好きな所に行ってもらいましょう。
 
 
 

2010年5月 3日 (月)

京洛逍遥(137)糺の森の流鏑馬神事

 昨年は見られなかった下鴨神社の流鏑馬神事を、今年はしっかりと見ました。
 これは、15日に催される葵祭の、道中をはらい清める安全祈願の神事です。記録によれば7世紀にまで遡るものだとか。今から37年前にみごとに復活しました。

 糺の森は、新緑に包まれた世界遺産です。というよりも、自然遺産です。
 
 
 
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 この新緑のトンネルを、手前から本殿のある上へと、人馬一体の神事が繰り広げられるのです。
 全国各地で流鏑馬が行われています。しかし、唯一平安時代の狩装束で行われるのが、この下鴨神社の流鏑馬です。

 鴨長明ゆかりの河合神社の前では、平安時代そのままの衣装に包まれて出番を待つ射手の緊張感が、あたり一面に漲っています。各馬も興奮気味のようで、なかなか出走できません。
 
 
 
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 360メートルほどの馬場には、50センチメートル四方の杉板の的が100メートルおきの3カ所に置いてあります。そして、鏑矢を射るやいなや、次の矢を腰の箙(えびら)から抜き取って番えて射ます。立て続けに三つの的を射るのは至難の業です。
 馬の早さが定まらない最初の的は、特に難しいようです。スタートしてすぐの「一の的」は、100メートル位のところにあります。
 今日の射手は、弓馬術礼法小笠原流同門会の方々でした。
 みごとに的が射抜かれると、大きな響めきが起こります。
 今日は、3万人以上の人が集まったそうです。
 
 
 
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 ちょうどこの時に矢が当たった「一の的」を、幸運にも頂戴することができました。
 神職の方が墨で記念の文言を書いてくださいます。
 
 
 
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 今日の日付とともに「鴨社流鏑馬神事当的」と認めた中央に「賀茂御祖神社」の朱印を捺してくださいました。
 
 
 
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 大勢の人の中での立ちっぱなしの3時間は、足腰に堪えます。
 手にした当的を自転車の前籠に入れ、初夏の風を切って賀茂の河原を北へと家路につきました。
 
 
 なお、「京都通百科事典」によると、以下のような情報・資料が紹介されていましたので、参考までに引用します。
 
 

古墳時代
 「日本書紀」によると
 457年(皇紀1117)雄略天皇元年
 雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)の即位の年に「騁射(うまゆみ)」が行われた

 糺の森からは、古墳時代の馬具が出土している

 飛鳥時代中期
 682年(皇紀1342)白鳳11年
 長柄宮(ながらのみや)にて馬的射(むなまと)が行われた

 「続日本書紀」によると
 698年(皇紀1358)文武天皇2年
 「賀茂祭(葵祭)の日に民衆を集めて騎射を禁ず」と
 葵祭の騎射に、大勢の見物人が集まるため、禁止令が出るほどだったといわれる

 平安時代末期
 「百錬抄」によると
 後鳥羽上皇が、下鴨神社へ御幸され、糺の森の馬場で、流鏑馬(やぶさめ)をご覧になられた

 戦国時代
 1502年(皇紀2162)文亀2年
 葵祭の路頭の儀が中絶したことによって、騎射も中絶する

 武家により、各地で流鏑馬が盛んに行われるようになり、様々な流儀や作法が派生する

 江戸時代中期
 1694年(皇紀2354)元禄7年
 葵祭が再興され、騎射も古式にのっとり再興された

 1724年(皇紀2384)享保9年
 将軍 徳川吉宗の命により、小笠原流20代 小笠原貞政が、小笠原の伝書を研究し、
新たな流鏑馬制定、古式と共に奥勤めの武士達に流鏑馬、笠懸の稽古をつけたといわれる

 1869年(皇紀2529)明治2年
 事実上の東京遷都の祈願行幸で行われた後、再び中絶する

 1973年(皇紀2633)昭和48年
 下鴨神社の式年遷宮の記念行事として復興される
 名称を「流鏑馬神事」と改められる



 
 
 

2010年5月 2日 (日)

「比良のシャクナゲ」の舞台へ

 昨日、井上靖の「比良のシャクナゲ」のことを書きました。
 そこで、思い立って、琵琶湖の湖西にある堅田へ行ってきました。

 堅田は「湖族の郷」で知られ、平安時代から京都の外港として重要な役割を担ってきました。
 堅田の町は、散策しやすいように、よく整備されています。
 「湖族の郷資料館」で、この堅田の歴史や文化について教えてもらいました。
 
 
 
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 この2階には、三島由紀夫や水上勉と一緒に、井上靖のパネルもありました。そして、「比良のシャクナゲ」の次の冒頭部が引かれていました。

 早いものだな、もう五年になる。五年ぶりでわしは堅田の旅館へやって来た。(中略)
 ここの主人が琵琶湖を賞するには、三井寺、粟津、石山、その他にも名だたる琵琶湖望見の地は十指に余る。しかしこと比良を望むにおいては、湖畔広しと雖も、堅田に勝る地はなく、特にここ霊峰館の北西の座敷に比肩し得るところはあるまいと自慢し、比良の山容が一番神々しく見えるところから、この宿を霊峰館と名附けたのだと説明したことがあったが、まことにこの座敷から眺める比良は美しい。(『井上靖全集 第二巻』7頁)

 説明して下さっていた館長さんに、ここに書かれている「霊峰館」は実際にあるのかを聞きました。すると、今も浮御堂の横にある「魚清楼」がそれだ、とのことでした。小説「比良のシャクナゲ」では、実名を避けて「霊峰館」となっているのだそうです。

 これは、行かなければなりません。浮御堂を目指してみくりや参道を湖畔に向かって直進すると、すぐに見つかりました。
 写真の右が浮御堂、左が魚清楼です。
 
 
 
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 「魚清楼」のことは、案内板やパンフレットなどにはまったく書かれていないので、知らないとわかりません。
 入口はこんな感じで、なかなか趣があります。
 
 
 
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 料理旅館とのことなので、今ここで食事ができないかと女将さんに聞くと、すべて予約なので急には無理だとのことでした。確かに、井上靖がここに何度も泊まった宿であることが確認できました。ただし、そのことに関する資料は何もないそうです。この記事の末尾にあげた、小説「比良のシャクナゲ」の文章でしか、この旅館のことはわからないのです。
 瀬戸内寂聴さんも来られるようです。鴨鍋や鮒寿司が食べられる宿です。ただし、そうしたことも含めて、この旅館のパンフレットには著名人との関係はまったく書かれていません。とにかく、口コミで探し当てた場所、というべきところです。一見さんお断り、というのは勿体ない、という印象を受けました。事情がわからないので、いつかここに泊まってみたいと思います。

 せっかくなので中を見せてもらえないかとお願いすると、今掃除をしているところだけど、と渋っておられました。そこを私流に一押しすると、それでは、ということで上に上げてもらえました。

 井上靖は、大津の方から船でここに乗り着け、この部屋で食事をして泊まったそうです。
 
 
 
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 すぐ横に、浮御堂が顔を覗かせています。
 作品には、比良の見える北西の座敷とあります。この東向きの部屋からは、比良は見えません。もしこの部屋に泊まったのであれば、作品では設定を変えていることになります。

 浮御堂からも、この「魚清楼」が間近に見えます。
 
 
 
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 外の湖岸からは、「魚清楼」が右に、浮御堂が左に見えます。
 
 
 

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 このあたりは、散策には好適なところです。
 堅田漁港には、警備艇の姿が見えました。
 
 
 
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 井上靖の『星と祭』では、琵琶湖に沈む娘を探すために、何度もこの船が出てきます。

 帰りに、堅田の駅から比良山を望みました。
 
 
 
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 琵琶湖は、井上靖の作品には、よく背景として語られる所となっています。
 京都の実家から1時間もかからない所なので、これからは琵琶湖も散策の地に加えたいと思います。

 以下、「比良のシャクナゲ」から「魚清楼」のことが語られている行を引いておきます。

・ この家は何も変わらない。わしが初めてここに来たのは、二十四、五の頃だったから、わしがこの家の座敷に坐ってから—あの時から、いつか五十年以上の歳月が流れているわけである。五十年間変わらない家というのも珍しいものだ。(8頁)
 
・わしはなぜ急に堅田になど来たくなったのだろう。考えてみると自分ながら不思議な気がする。堪らなくこの霊峰館の北西の座敷に坐って湖の面を見たくなったのだ。矢も楯も堪らなく、湖の向うの比良の山容を仰ぎたくなったのだ。(11頁)(注・「湖の向うの比良」という表現に問題があると思われます。)
 
・わしは家を出てタクシーをとめた時、殆ど無意識に堅田と行先を告げたのだが、わしの採ったとっさの処置は狂っていなかった。わしはまさしく琵琶湖を、比良の山を見たかったのだ。堅田の霊峰館の座敷の縁側に立って、琵琶湖の静かな水の面と、その向うの比良の山を心ゆくまで独りで眺めたかったのだ。(14頁)(注・「琵琶湖の静かな水の面と、その向うの比良の山」という表現も実際と異なるのでは。)
 
・堅田の浮御堂に辿り着いた時は夕方で、その日一日時折思い出したように舞っていた白いものが、その頃から本調子になって間断なく濃い密度で空間を埋め始めた。わしは長いこと浮御堂の廻廊の軒下に立ちつくしていた。湖上の視界は全くきかなかった。こごえた手でずだ袋の中から取り出した財布の紐をほどいてみると、五円紙幣が一枚出て来た。それを握りしめながら浮御堂を出ると、わしは湖岸に立っている一軒の、構えは大きいが、どこか宿場の旅宿めいた感じの旅館の広い土間にはいって行った。そこがこの霊峰館だった。
 わしは土間に立ったまま、帳場で炬燵にあたっている中年輩の丸刈の主人に、これで一晩泊めてくれと言って五円紙幣を出した。代は明日戴くというのを無理に押しつけると、主人は不審な顔つきでわしを見詰めていたが、急に態度が慇懃になった。十五、六の女中が湯を持って来た。上り框に腰かけ、衣の裾をまくり上げて、盥の湯の中に赤くなって感覚を失っている足指を浸した時、初めて人心地がついた。そしてこの旅館では一番上等の、この座敷に通されたのだった。すでにとっぷりと暮れて燈火をいれなければならぬほどの時刻だった。
 わしは一言も喋らず、お内儀の給仕で食事をすませると、床の間を柱にして坐禅った。わしはその時、明朝浮御堂の横手の切岸に身を沈めることを決心していた。石が水中に沈んで行くように、この五尺の躰が果して静かに沈んで行けるかどうか、わしは不安だった。わしは湖の底に横たわる自分の死体を何回も目に浮かべながら、一人の男の、取り分け偉大な死がそこにはあるように思った。(16頁)
 
・部屋の隅に床がのべてあったが、それには触れず、畳の上に手枕をし、夜が明けきるまで一、二時間仮睡しようと思った。(16頁)
 
・明日正午までに堅田の霊峰館へ来るように命じた。啓介は、はいと素直に返事して、すみませんでしたと言って、二階へ上がって行った。わしはホテルの事務員に、そこから程遠からぬ堅田の霊峰館に電話して貰い、自動車で、三十年振りで、堅田のこの旅館へ来た。啓介の事件で、心身疲れていたわしは、丁度その翌日が日曜でもあったので、ここで充分休養したかったのだ。
 三十年前の主人が年老いて、座敷に挨拶に来た。向い合って話していると、どこか昔の面影が思い出されてくるようであった。家にはここから電話をかけて、事情を簡単にみさに報告しておいた。わしは何年かぶりで、書きも読みもしない静かな一人の夜を過した。鴨には少し時季が早くて、鴨鍋にはありつけなかったが、湖で獲れる魚の揚げ物がうまかった。わしはその晩ぐっすりと眠った。(20頁)
 
・わしは湖を挟んで向うに坐っている比良の姿を見ると、ふと堅田へ行ってみたくなった。丁度折よく堅田方面へ行く汽船が来たので、わしは敦子を誘ってそれに乗った。
 三十分ほどで堅田へ着くと、二人はこの霊峰館で休憩した。霊峰館はその日家人は居らず無愛想な女中が一人いるだけであった。廊下の硝子は割れたままで、当時どこの旅館もそうであったように、家全体の荒れが目立っていた。
 霊峰館を出ると、わしは船着場の附近で敦子にボートに乗せられた。ボートというものに乗るのは初めてだった。(28頁)


 
 
 

2010年5月 1日 (土)

井上靖卒読・再述(2)「比良のシャクナゲ」

 「比良のシャクナゲ」については、2006年12月に「井上靖卒読(2)闘牛・比良のシャクナゲ」として拙文を書きました。しかし、私が利用するブログのサーバーは次々とクラッシュしたり廃止になっていきます。それは、おもしろいほどです。このeoネットのサーバーから発信している「賀茂街道から2」も、会社側からのバックアップのサポートはないとのことなので、いずれ消失することでしょう。
 頻繁に欠陥商品やトラブルに巻き込まれる運命にある私は、今では、形あるものはいつかは無に帰す、ということをごく当たり前のように受け入れています。これは、身の回りの機器に留まらず、自分の身体についても同様です。18歳の春に胃などの内蔵を切除し、二十歳の成人式の直前に、住み込みで働いていた新聞配達店が火事になったために持ち込んでいた20年間のものすべてが焼失したことなど、この消失のパターンは10代後半から始まることです。

 さて、そのような経緯があるので、消えてしまった記事に関して、大多数が手元には何もメモがないので復元しようもありません。
 「比良のシャクナゲ」を改めて読むのは、これで3度目になると思います。4年前に何を書いたのかまったく思い出せないので、ここに読み終えてのメモを記して備忘録とします。

 78歳の老教授は、家族への不満が溜まっています。イライラする日々の中、比良を望む琵琶湖畔の堅田に身を隠します。

 25歳のとき、自らの生存意義に思い悩み、死のうとしたことがありました。それが、琵琶湖畔の堅田の宿でした。浮御堂に身を沈めるところを、前夜に鳥のエネルギーを目の当たりにし、死神が落ちます。

 55歳のとき、堅田で2回目の比良を見ます。家から追い出した息子を説得するために行った琵琶湖で、翌朝、息子が女と身を投げたときです。父よりも女をとった息子に、言いしれぬやりきれなさを味わうことになりました。このとき、若い2人を探す湖面に散らばる小舟の様子は、『星と祭』の素描のような場面として語られています。

 主人公が比良を見た3度目は、73歳のときでした。息子の事件以来、琵琶湖を見ることを避けていました。しかし、孫娘の誘いを受けて出かけます。そして湖の美しさに、歳月が人の想いを忘れさせてくれることを教えられます。ボートを漕ぐ孫娘に、かつて息子と一緒に身を投げた、一目だけ見た女の姿が重なります。

 かつては、死ぬことだけを考えていた老学徒は、今は一日も長く生きて、ライフワークを完成すべく、研究世界に没入していくのでした。
 この終わり方について、私はまとまりに欠けるように思います。後味がスッキリしません。自分だけの世界で終わっているからです。井上靖らしくありません。
 『夜の声』が、この作品の発展したものとも言えます。そこでも、最後がすっきりしませんでした。家族が置き去りにされたままで、物語が終わるからです。
 これは、井上靖の一つの特徴なのかもしれませんが、私には不満の残る閉じ方です。【3】
 
 
 
初出誌︰文学界
初出号数︰1950年3月号
 
 
新潮文庫︰猟銃・闘牛
井上靖小説全集3︰比良のシャクナゲ・霧の道
井上靖全集2︰短篇2
 
 
〔参照書誌データ〕
 井上靖作品館
 http://www2.plala.or.jp/baribarikaniza/inoue/
 
 
 

NPO法人〈源氏物語電子資料館〉広報室より

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