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2010年5月 3日 (月)

京洛逍遥(137)糺の森の流鏑馬神事

 昨年は見られなかった下鴨神社の流鏑馬神事を、今年はしっかりと見ました。
 これは、15日に催される葵祭の、道中をはらい清める安全祈願の神事です。記録によれば7世紀にまで遡るものだとか。今から37年前にみごとに復活しました。

 糺の森は、新緑に包まれた世界遺産です。というよりも、自然遺産です。
 
 
 
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 この新緑のトンネルを、手前から本殿のある上へと、人馬一体の神事が繰り広げられるのです。
 全国各地で流鏑馬が行われています。しかし、唯一平安時代の狩装束で行われるのが、この下鴨神社の流鏑馬です。

 鴨長明ゆかりの河合神社の前では、平安時代そのままの衣装に包まれて出番を待つ射手の緊張感が、あたり一面に漲っています。各馬も興奮気味のようで、なかなか出走できません。
 
 
 
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 360メートルほどの馬場には、50センチメートル四方の杉板の的が100メートルおきの3カ所に置いてあります。そして、鏑矢を射るやいなや、次の矢を腰の箙(えびら)から抜き取って番えて射ます。立て続けに三つの的を射るのは至難の業です。
 馬の早さが定まらない最初の的は、特に難しいようです。スタートしてすぐの「一の的」は、100メートル位のところにあります。
 今日の射手は、弓馬術礼法小笠原流同門会の方々でした。
 みごとに的が射抜かれると、大きな響めきが起こります。
 今日は、3万人以上の人が集まったそうです。
 
 
 
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 ちょうどこの時に矢が当たった「一の的」を、幸運にも頂戴することができました。
 神職の方が墨で記念の文言を書いてくださいます。
 
 
 
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 今日の日付とともに「鴨社流鏑馬神事当的」と認めた中央に「賀茂御祖神社」の朱印を捺してくださいました。
 
 
 
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 大勢の人の中での立ちっぱなしの3時間は、足腰に堪えます。
 手にした当的を自転車の前籠に入れ、初夏の風を切って賀茂の河原を北へと家路につきました。
 
 
 なお、「京都通百科事典」によると、以下のような情報・資料が紹介されていましたので、参考までに引用します。
 
 

古墳時代
 「日本書紀」によると
 457年(皇紀1117)雄略天皇元年
 雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)の即位の年に「騁射(うまゆみ)」が行われた

 糺の森からは、古墳時代の馬具が出土している

 飛鳥時代中期
 682年(皇紀1342)白鳳11年
 長柄宮(ながらのみや)にて馬的射(むなまと)が行われた

 「続日本書紀」によると
 698年(皇紀1358)文武天皇2年
 「賀茂祭(葵祭)の日に民衆を集めて騎射を禁ず」と
 葵祭の騎射に、大勢の見物人が集まるため、禁止令が出るほどだったといわれる

 平安時代末期
 「百錬抄」によると
 後鳥羽上皇が、下鴨神社へ御幸され、糺の森の馬場で、流鏑馬(やぶさめ)をご覧になられた

 戦国時代
 1502年(皇紀2162)文亀2年
 葵祭の路頭の儀が中絶したことによって、騎射も中絶する

 武家により、各地で流鏑馬が盛んに行われるようになり、様々な流儀や作法が派生する

 江戸時代中期
 1694年(皇紀2354)元禄7年
 葵祭が再興され、騎射も古式にのっとり再興された

 1724年(皇紀2384)享保9年
 将軍 徳川吉宗の命により、小笠原流20代 小笠原貞政が、小笠原の伝書を研究し、
新たな流鏑馬制定、古式と共に奥勤めの武士達に流鏑馬、笠懸の稽古をつけたといわれる

 1869年(皇紀2529)明治2年
 事実上の東京遷都の祈願行幸で行われた後、再び中絶する

 1973年(皇紀2633)昭和48年
 下鴨神社の式年遷宮の記念行事として復興される
 名称を「流鏑馬神事」と改められる



 
 
 

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NPO法人〈源氏物語電子資料館〉広報室より

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