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2010年7月の31件の記事

2010年7月31日 (土)

精進料理の思想を学ぶ

 佛教大学の夏季講座が、地下鉄四条駅の真上にある、四条センターで開催されています。
 興味のある内容だったので参加しました。

 今日は、2つの講座がありました。日本料理と井上靖です。

 午後の1つ目は、榎木伊太郎さん(京料理えのき店主、食物史家)の講義で、テーマは「日本料理の様式化(その一)」でした。これは、3回で完結するものです。

 第1回目の今日は、「日本料理の様式化における歴史的経緯」と題するもので、副題は「—寺院における「精進料理」について—」でした。

 京都に住むようになってからというもの、京料理の美味しさのみならず、その多彩な調理と盛りつけに器、そして料理としての奥深さの虜になっています。「おばんざい」もいいのですが、「精進料理」は何やら摩訶不思議なものなのです。
 それに加えて、高田郁の「みおつくし料理帖」シリーズ3冊を読み終えているので、なおさら日本料理の魅力に興味を掻き立てられていたのです。その読書雑記は、また落ちついたら書きます。

 いろいろな意味で、ちょうどいい機会とばかりに、取るものも取り敢えず会場にかけつけたのです。

 今回の講座の内容は、こんな紹介文で告知されていました。

日本料理の様式化が始まったのは、鎌倉時代から江戸時代後期に次々と成立します。その初め、「精進料理」に端を発し、「式正料理」「茶事懐石料理」「本膳料理」「会席料理」「京料理」などの形態をみることができます。本講座では最も代表的な様式である「精進料理」「茶事懐石料理」「京料理」の三様式を取り上げて詳述します。また、ご希望の方々に、それぞれの講座の当日弊店に於て、各々の講座の論題に合わせた様式献立をしつらえ、召し上がっていただく用意をしております。

 残念ながら、後半に記されている実際の料理は予約が間に合いませんでした。残念でした。

 そして、今日の内容は、こう掲示されています。

精進料理は佛教的理由から、鳥獣魚貝を忌み、野菜を主体として乾燥植物・海藻・果樹を用いて調菜したもので、僧侶達の日常の糧として食されてきたものであり、また、寺院で檀家衆に供される「振る舞膳」があります。

 ますます、お話を伺いたくなります。

 本日のお話は、「精進料理は思想の食」、「佛教食の禁制」、「中国風精進料理(普茶料理)」でした。
 中でも、精進料理の植物性食材のうち、ユリ科の植物であるニンニクやニラなどが仏教では「葱韮蒜」(そうひさん)と呼ばれ、原始仏教の時代から禁制とされていた食材だった、という話に私は反応しました。

 『源氏物語』の第2巻「帚木」に、雨夜の品定めの語りがあります。その中に、式部の丞の体験談として、博士の娘の話があります。
 そこでは、女が

月ごろ風病重きにたへかねて、極熱の草薬を服して、いと臭きによりなむえ対面たまはらぬ。

と言う場面があります。病気のため蒜(ニンニク)を服用したので、その臭さでお目にかかれない、というのです。
 こうしたユリ科の植物は、仏教では禁食だったのです。単なる匂いだけの問題ではないのです。

 榎木さんのお話の中で、特に印象的だったのは自著『精進料理』(柴田書店刊)の最後に記されたということばです。

植物の命は、動物の命よりも軽いか。

 菜食による精進料理も、確かに命ある植物で作られる食事なのです。
 また、絹の僧衣は、精進の精神とどう釣り合うのか。
 確かに、精進に徹することは、非常にむつかしいもののようです。

 それはともかく、今日の榎木さんのお話で、仏教と食事について大いに興味と関心、そして刺激をいただきました。

 続く2回は、こんな内容です。
 
 

開講日 2010年8月21日(土)
テーマ 「日本料理の様式化(その二) —茶事懐石料理について—」。
内容 
茶事懐石料理は、一般的には省略して茶懐石、または懐石料理といいますが、これは料理だけが独立したものではなく、茶事が催される席に出される料理で、「喫飯」を目的としたもので「喫酒」は儀礼的に供されるものです。


 
 
 これは、今の手術待ちの状況では、とても行けそうにありません。
 
 
開講日 2010年9月18日(土)
テーマ 「日本料理の様式化(その三) —京料理について—」
内容
京料理とは日本料理を母胎として、有識料理・精進料理・茶事の懐石料理などの特徴を随所に取り入れ、京の都の地で育まれ洗練された食事様式の一形態として、近世以降から現在に至るまで、日本料理の精粋とされます。


 
 
 これは、術後の経過によっては、ひょっとして行けるかもしれません。

 学んで食べてと、また楽しいことを見つけてしまいました。
 
 
 

2010年7月30日 (金)

心身雑記(66)今後の我が身についての巻

 これまでの検査の結果を踏まえての、担当医からの説明を聞きました。

 まず、内視鏡による検査の確認から。
 どこが問題箇所で、それにどう対処するかが、写真を目の前にして解説してくださいました。

 胃以外は、おおむね良好とのこと。転移もありませんでした。
 あくまでも、胃だけの問題だったので、一先ずホッと安堵しています。
 定期的に人間ドックで検診を受けていたおかげで、大事(?)に至らなくてすみそうです。
 とにかく、問題の胃を全部切ってしまえばいいのです。
 
 
 
100730pict
 
 
 

 図の青で囲った部分が、今から40年前に、十二指腸が破れたために切り取った胃と腸の部分です。

 今回、赤丸のところに悪性の腫瘍が出来ました。これは、残っていた3分の1の胃と腸のつなぎ目です。

 そして、今回切り取るのは、オレンジ色の部分です。

 これで、私の胃はすべてなくなります。

 もっとも、開けてみないとわからないが、とも。

 一番の問題は、腸が食道まで引き上げられるかどうかだそうです。
 40年前は、十二指腸が破れたために腹膜炎を起こしました。そのため、この部分がお腹の中でどの程度癒着しているのか、それこそ開けてから考える、とおっしゃっていました。
 何しろ40年前の技術で切ってつないであるので、状況によってはさまざまな手段が取られるようです。

 そのためにも、まだまだ検査は続きます。
 とにかく、お医者さんは慎重です。

 胃ガンに関するくわしい説明もありました。
 これは、胃ガンがどの程度の深さまで進行しているかを示す図です。
 
 
 
100730fukasa
 
 
 

 私の場合は、左から3つめの「T2」から「T3」の段階だそうです。
 左2つが初期段階なので、これはギリギリ危険地帯に突入です。

 次は、胃ガンの進み具合を進行度表にしたものです。
 
 
 
100730stage
 
 
 

 私は、「IB」から「IIB」あたりだそうです。進行が始まった頃、というレベルでしょうか。
 その下の、胃ガン手術後の生存率を見ると、まだ私は8割ほどの可能性があります。
 丁寧で、よくわかる説明でした。

 一番気になっていた今後について、私の生活は一変しそうです。
 そして、多くの方々へ迷惑をおかけすることになります。
 無事に生き続けることで、とにかくお許しいただくしかありません。

 40年前、退院する私にお医者さんから言われたことばの「45年」、これまでの私を縛ってきた「45年」という時間が、今回の胃の全摘出でリセットされる、と考えることにしています。予定の「45年」の4年半前に、それがリセットできるのですから、これはラッキーというものでしょう。

 そして、改めてこれからは、終着駅の見えない旅を始めることになります。
 みなさん、そうなのですが、私のこれまではそうではなかったので、少々複雑な思いがしています。
 これまでの、常に終端地点が見える中での生活が、ある意味では目標設定がしやすくて、生きやすかったようにも思えます。あと何年、と自分に言い聞かせて仕事や研究ができたのですから。
 終点の見えない、そして最終電車ではない生き方は、私にとっては40年ぶりのことです。

 あの、18歳の時の気持ちに立ち返り、明日が見えないけれども、どこまでも続いている道を、今回の手術が無事に終わったらスタートさせます。今は、何事もうまくいくことを願うのみです。
 そのためにも、今しばらくは、体調を整えてゆったりとした生活を送ることが、私に課せられた日課です。

 トラブルもなく手術が成功すれば、数ヶ月後にはまた社会に復帰します。
 その節には、これまで通り、よろしくお願いします。
 
 
 

2010年7月29日 (木)

心身雑記(65)不安を抱えて胃の中を探訪するの巻

 内視鏡(胃カメラ)で、ガン組織の正体を探し求めながら、胃の中をさまよいました。
 顔の横のモニタには、自分の体の中が、ピンク色の異次元空間のような世界が、内視鏡のピントを目まぐるしく調整しながら映し出されています。

 2週間前の東京での検査は、口から内視鏡を挿入しました。今回、また口から内視鏡を入れました。
 私は、これが苦手です。鼻からがいいのです。しかし、こればかりは選択の余地はありません。
 病院の機器が複数種あれば、患者側が選べるのですが……。

 今回は、時間が長かったせいもあってか、苦しくて涙が2度も零れ落ちました。
 ここ数年は、楽に内視鏡の検査ができていたので、余計に今回は苦痛が身に染みて感じられました。

 内視鏡のカメラのレンズは、ターゲットとなる患部を探し求めながら、充満する液体とヒダの隙間を進んでいきました。そして、ついに変色して盛り上がったあやしげな細胞組織を見つけました。
 あらかじめ東京から渡された写真や情報があったことが、今回の対処に活きていることでしょう。カメラは、問題箇所の周辺を、丹念に徘徊していました。

 詳細な細胞組織の検査をするために、内視鏡のチューブから差し込まれたケーブルの先のピンセットは、合計4ヶ所の肉片を摘み取りました。緑色の液体を患部周辺に撒き、その周辺の反応も見ておられました。問題の細胞がどの範囲に広がっているのかを、これで探っておられたようです。
 もっとも、このあたりのことは、すべて私の想像です……。

 今回、胃カメラを操作してくださっていた先生は、必要最小限の説明をしながら検査をしておられました。
 不安を抱えながら検査を受ける患者の身からすると、率直な感想は、私も一緒にモニタを見ているのですから、もっと説明をしてほしいと思いました。
 右に見えますのは……。
 前方を、そして眼下をごらんください……、などなど。
 そこまでいかなくても。

 確かに、胃を切るという手術を前提とした準備がはじまっているのですから、真剣になさっていることはわかります。しかし、当の本人にすると、一体、どこがどうなっているのか、知りたいのです。それも、悪性のガンとわかっての検査なので、この知りたいという気持ちと不安感はなおさら増幅しています。

 それに加えて、久し振りにむせかえってゲップを出しました。我慢しないと時間が延びますよ、という先生の言葉は、数年前に聞いたものであり、これも久しぶりに聴きました。思いやりからであることは理解できます。
 2度ほど、苦しさのあまりに涙が目尻を伝って出たこともあってか、少しカメラの操作が早いと言うか、やや乱暴と言うか、もっと優しくとお願いしたい、と思う瞬間が何度かありました。
 今回の検査の目的と趣旨に鑑みると、このことは実際には大した問題ではありません。
 これは、検査状況による医者と患者のコミュニケーションに関係するものなので、お医者さんにとっては痛し痒しのところでしょう。ただし、検査を受ける当事者から言えば、もう少し不安を取り除く配慮を、とお願いしたいところです。すみません。わがまま勝手な感想です。

 実は、この直前に、私にとっては不安なやりとりがありました。
 それは、事前の麻酔のことです。

 2週間前のことは、「心身雑記(58)楽だった口からの胃カメラ」(2010年7月12日)

に書きました。

 今回、ベッドに案内されるとすぐに、腕に注射をされました。そして、すぐに横になるように言われたので、私はノドが敏感に反応するので、2週間前もそれを和らげる薬を余分に注射してもらった、と伝えました。すると、それは病院によって違い、ここではこのスプレーでやりますから心配なく、とおっしゃいます。
 それはもっともです。郷に入っては郷に従え、の通りです。
 しかし、明らかに、東京での事前の麻酔対策と違います。不安を抱いたまま、ベッドに横になりました。
 内視鏡がノドにつっかえないか、チューブがノドを擦るときにオエッとならないか、などなど。
 正直なところ、不満を抱えた気分でスプレーの麻酔を口に受けました。

 内視鏡がノドを行き来するときにむせかえったのは、我慢の限界から、とにかく苦しかったからです。
 詳細な検査をするためでしょうが、たくさんの空気をお腹に入れられ、とにかくゲップとツバを飲み込むことに注意が向くことが多かったのは、近年では忘れていたことです。

 こうして内視鏡で胃を検査するのは、毎年のことです。毎年の年中行事として、すでに20年以上も前から胃カメラの検査を受けています。今年は、2週間前に内視鏡検査を受け、また今、内視鏡のチューブを口に受けているのです。こんなに苦しい思いは、とにかく久しぶりのことです。
 技術は進歩したはずなのに、という思いがあったので、何とも言い難い苦行でした。

 そして、検査が終わって胃カメラの撤去がなされ始めると、先生は今回の記録をパソコンに入力するのにかかりきりになっておられました。いつもなら、胃の中の状況について雑談のように教えてくださるので、それを期待していたのですが、そんな雰囲気はありません。
 しかたがないので、私は、画面に映っていた胃がピンク色と黄緑色がかったネズミ色のケースがあったのですが、実際はどちらの色なのでしょうか、と伺いました。すると、背中をさすってくださっていた看護婦さんが、ピンク色ですよ、と教えてくださいました。くすんだ黄緑色は、光を当てて画像処理をした時のものだそうです。今回は、担当医への連絡が最優先で大切なので、説明は聞けそうもないので、それで打ち切って外に出ました。

 多分に、状況判断と相手の心理状況を勘案しながら進める外科的な医療行為は、微妙な駆け引きがあるでしょう。思い切りのよさと、割り切りの鮮やかさは大切な能力です。今回の先生のカメラワークは、見ていて心地よいものでした。
 顔の横にあるモニタの画面に映し出される光景は、たしかにガンを探し求めるという、探求心に満ちた気持ちを満足させるものでした。
 私としては、これは何だろう、という気持ちでの探求や探訪を期待していました。手探り状態でもあったはずです。しかしそれが感じられず、自信に満ちた検査に立ち会っただけというのは、私には大いに不満が残ったのです。わがままな要望かもしれません。しかし、医療行為の中には、患者への眼差しがもっと必要だと思いました。生意気ですみません。

 胃カメラが操作されている間じゅう、一人の看護婦さんが、ずっと私の背中を撫でさすっていてくださっていました。苦しさと、気持ちが悪い時に、この心配りは本当に助かりました。

 何が何だったのかは、この時点ではよくわかりません。しかし、とにかく、私のために一生懸命に検査をしてくださった先生を始め、みなさまに、心より感謝します。
 
 
 

2010年7月28日 (水)

心身雑記(64)腸の中を遊覧するの巻

 大腸の中を、内視鏡で検査してもらいました。
 とにかく楽しい、地底の小旅行でした。

 お尻からカメラを入れます。5年ほど前に、一度経験しています。
 今回は、一部始終を、胃カメラと同じようにリアルタイムで見せてもらいました。

 入口付近で、小さなポリープが見つかりました。3ミリほどの大きさです。
 先生は、これは良性なので、大丈夫です、と。

 ピンク色の筒の中を、カメラはウニョウニョとさらに胃の方へ向かって進みます。
 また、ポリープが見つかりました。今度は、さっきよりも少し大きくて、4ミリです。これも良性とのことです。
 共に形は、土筆の頭のような形をしていました。
 今は小さいのでいいのですが、6ミリくらいになるまでには取った方がいいそうです。悪性の腫瘍に変わる可能性があるからです。
 2年以内には取ることにします。今は、胃の方に集中します。

 カメラは、1メートルほど入っていきました。ゆっくりと進んで行き、ときどき立ち止まっては周りの景色を眺めます。
 腸の壁に近づいたり、奥を遠目に見たりと、飽きることのない旅に同行した思いです。

 この大腸検査は、痛くも痒くもないもので、非常に楽に受けることができました。
 まさに、地底を遊覧する気分で、自分の大腸の中を見て回りました。

 細胞を摘出して再検査をすることもなかったので、今日はお酒を飲んでもいいのです。それよりも何よりも、ガンが転移していなかったということでもあります。ホッと一息です。

 前日からお腹の中を空っぽにしていたので、とにかく腹ぺこです。
 こんな時の食事は、回転寿司に限ります。
 河原町三条に出て、交差点角の回転寿司屋「むさし」に飛び込みました。
 
 
 
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 鱧のおいしいこと。ビールももらいました。
 帰りに、壁に掛かっていたTシャツが目に留まりました。
 
 
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 販売中とのことなので、早速1枚いただきました。
 お侍さんのチョンマゲがエビです。これが意味不明でいいと思います。
 着て外に出るには躊躇われます。しかし、家の中で着るのにはいいでしょう。いいものを見つけました。
 
 
 

2010年7月27日 (火)

心身雑記(63)検査台の上で熟睡するの巻

 PETーCT装置という最先端の医療機器で、ガンが転移していないかを見つける検査を受けました。

 まず、RI(ラジオアイソトープ・放射性同位元素)検査のため、ブドウ糖に似た検査薬(FDG)を注射します。これは、血液中に放射性同位元素の入った糖液を注入するものです。
 私は血糖値を自己管理しているので、そのことを伝えると、この検査薬は問題ないとのことでした。今日の血糖値は128とのこと。170とか180以上でなければ大丈夫だそうです。
 先週もそうでしたが、外科の先生方は糖尿病の境界値を緩く理解しておられます。ここの外科の先生方によると、私は糖尿病ではないとしか思えない扱いです。厳密に言えば、私は糖尿病の境界を越しているのですが、それは今は大した問題にはされていません。それよりも、胃ガンを処置することが最優先なのですから。

 注射を受けて1時間後、PET専用検査室へ入りました。これは、平成20年に導入された複合型PETーCT装置だそうです。
 
 
 
100726petct

(京都大学医学部附属病院 放射線部のホームページより転載)
 
 
 

 この機械の細長いシートに寝ます。まず、全身のCTスキャンです。
 シートが丸い筒の中を行ったり来たりして、何度も潜り抜けます。

 続いて、PET機能の画像撮影です。注射によって注入されたブドウ糖の全身への集まり具合などから、ガンの存在部位を知ろうというのです。
 この時は、2分おきに8箇所の詳細な撮影がなされました。

 こうして得られた2種類の画像を重ね合わせた融合画像から、さらに詳細な内臓のガン部位や性格などがわかるようです。

 この検査中、シートの上で2回も寝てしまいました。
 事前に、技師の方が言っておられたように、2往復目からウツラウツラ。
 3往復目には、もう熟睡していました。
 起こされて、アーやっぱり、と感心すること一頻りでした。みんな寝るんだ、と。
 この検査室には、心地よいバックグランドミュージックが流れていました。患者の不安を考えてのことでしょう。しかし、それが眠気を誘うのです。

 もっとも、私が熟睡したのは、実は前夜は明け方の4時まで、文部科学省に提出する大切な書類を作成していたことも関係します。手術のギリギリまで書類作成に追われている日々のため、私にとっては、病院はそのことを忘れるための場所でもあります。今月末までは、この書類作成から逃げられません。
 その他の原稿の締め切りについては、もう無視してもらうしかありません。みなさん、ごめんなさい。
 もっとも、こうしたブログを書く合間に、原稿をハイピッチで書け、と突っ込まれそうですが。
 そこは、それなりに、病人ということで、お許しを。

 ということで、まだまだ手術前の検査報告は続きます。
 
 
 

2010年7月26日 (月)

心身雑記(62)楽しみな今年の大文字

 自宅から京大病院までは、市バスで25分。
 東京の宿舎から立川の職場までの通勤時間が100分なので、新しい職場(?)は便利なところにあると言えます。

 北大路バスターミナルから北大路通りをまっすぐ東へ走り、東大路通りとの交差点で右折して南下し、熊野神社前で降ります。
 一度角を曲がるだけの、単純な道です。京都らしいと言えましょう。
 これを自転車で行くときは、賀茂街道から賀茂川の遊歩道を南下して今出川通りを左折するので、これまたL字型に走って15分です。

 自転車で行きたいのですが、検査にいろいろと薬を使う関係で、危険を伴うので禁止されています。

 病院は新しい建物です。左側が、2ヶ月前に新装なったガン病棟の積貞棟です。
 
 
 
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 右側の、診察と検診を受けている外来棟から、如意ケ嶽の「大」の字が間近に見えました。
 前方左に薄緑の三角形をした一角に、大の字が見えます。まだ草刈りがなされていないので、はっきりとは見えません。
 
 
 
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 ちょうど送り火の時は入院中になるはずなので、これは楽しみです。

 昨年は、陽明文庫の名和先生に妻共々連れられて、出町の思文閣美術館のあるビルの屋上から、京都五山すべての送り火を見ることができました。絶景でした。

「京洛逍遥(99)大文字の送り火2009」

 今年は、まず1つは確保です。
 さあ、如意ケ嶽以外に、何が見えるのでしょうか。
 今から楽しみです。
 
 
 

2010年7月25日 (日)

お茶のお稽古を始める

 思い立って昨日は、娘が通っている茶道の先生の所へ行きました。
 行き先は平群。
 3年前まで、24年にわたって住み慣れた、懐かしい生駒山の中腹にある住宅地です。
 平群に、娘がお茶を習いに行っているので、私もやりたくなったのです。

 小さい頃、確か5、6歳のころ、父に連れられて松江の宍道湖のそばで開かれたお茶会に、何度か行きました。お菓子をもらって帰ったことを、よく覚えています。

 母方のお爺ちゃんの兄弟は茶人でした。小学校に上がる前は、お茶室でよく遊んでいました。
 というと、たいそうな家のようです。しかし、本家の奥の屋根裏部屋に寝起きしていた我が家族は、梯子段を降りたすぐ横に、お茶室があったのです。家族の生活空間が一部屋だけだったので、自然とお茶室で遊ぶようになっただけですが。

 大学生の時、姉が通っていたお稽古に、一夏だけでしたが習いに行きました。夏風炉だけは、特訓で覚えたように思います。

 以来、観光地などで、庭を見ながらお茶をいただくことがあるくらいでした。

 いろいろと興味はありながら中途半端なままなのは、この茶道をはじめとして、書道、英会話、お琴、お華と、やりかけたままの残滓がたくさん溜まっています。
 そんな中の一つである茶道を、心機一転やることにしました。

 昨年あたりだったでしょうか、娘がお免状をもらった頃から、折を見ては自宅でお茶をたててもらっていました。もちろん、私はいただくだけでしたが。

 風炉釜や電気炭型ヒーターや鉄瓶や棗などなど、京の街を散策中に買い求めていました。
 いつかは始めるだろうと思っていました。それを今、実現させたというだけですが……

 平群は変わっていません。過日、平群の時代祭を見に行きました。平群駅が変わっていなかったように、元山上口の駅も変わりません。
 
 
 
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 これから坂道を上ります。
 まずは自動販売機で買ったお茶を飲み、やおら坂道を上るために踏切を渡ったところで、娘の同級生でお茶を一緒に習っているOさんの車と出会いました。午前のお稽古が終わったので、これから生駒へ買い物に行くところだとか。猛暑の中、お茶の先生の家まで車で送ってもらいました。ラッキーでした。

 入り口で白い靴下に履き替え、さっそく何人かの生徒さんのお稽古を拝見しました。
 やがて、娘が点てた濃茶をいただきました。
 いろいろと先生からお話を伺っている内に、私に少しずつ慣れるようにと、簡単なことから教えてくださいました。
 まずは、袱紗さばきから。
 そして、お道具の取り扱いを。
 やはり、これまでに少しやっていたせいでしょうか。ほとんどの説明がよくわかり、また実際に袱紗も使えました。

 今日は、盆略手前を教えてもらいました。
 
 
 
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 これも、いつかやったことがあるものだったので、なんとかできました。

 さて、こうして始まったお茶のお稽古です。
 とにかく、気長に続けていきたいと思います。
 
 
 

2010年7月24日 (土)

京洛逍遙(153)祇園祭の花傘巡行

 7月17日の祇園祭の山鉾巡行は前祭と言われていました。
 それに対して、祇園祭の後祭に代わる行事として始まった花傘巡行と還幸祭が、今日24日に行われました。今日の夕方から夜中にかけての還幸祭で、御輿が八坂神社に戻り、祇園祭は終わります。

 夕刻からの還幸祭は見られませんでした。しかし、花傘巡行は移動の途中に見ることができました。
 子供たちのお神輿の後、花笠や祇園太鼓が、八坂神社から四条通りを西へと練り歩き出したところに通りかかりました。花傘娘や花車などが、四条南座の前を通るところが見られたのです。
 約840人の行列とのことで、この四条通りは道の両側は人の垣根ができていました。
 
 
 
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 金獅子と銀獅子は、サービス満点で沿道の人の頭を噛みついて感謝されていました。
 外国の方も、興味津々です。
 
 
 
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 息子さんを見守るお母さんでしょうか。
 被り物が落ちそうなのか、お母さんも心配顔です。
 
 
 
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 夏の風物詩となっている祇園祭も、今日24日の還幸祭で終わりです。
 四条通りは、華やかな行列で賑わっていました。ここから、河原町通、御池通、寺町通などを巡行し、お昼には八坂神社に戻ってくるそうです。

 これから8月の大文字の送り火に向けて、さまざまな行事が京洛の至る所で繰り広げられます。
 幸いなことに、京都大学病院は吉田山の麓、平安神宮のすぐ北です。通院の合間を利用して、一つでも多く見届けようと思っています。
 
 
 

2010年7月23日 (金)

京洛逍遙(152)下鴨神社の御手洗祭の足つけ神事

 今朝から、下鴨神社で、池の水に素足を浸して無病息災を願う「御手洗祭」の「足つけ神事」がはじまりました。
 これは、平安時代に、貴族が夏の疫病を防ぐために禊をしたのが起源とされています。江戸時代に、庶民にも広がったようで、洛中洛外年中行事図屏風には御手洗会として描かれています。
 
 
 
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 手術の無事を祈り、御手洗の池に入りました。日本古来の暑気払いです。
 
 
 
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 ヒャーと冷たい水でした。しかし、次第に足も慣れてきます。
 
 
 
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 みなさん、ロウソクを片手に気持ちよさそうです。
 日中が35度を越していたので、夕風も心地よい神事です。
 
 
 
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 御手洗の浄い水を飲ませてもらっていたら、先般の葵祭の折に詳しい説明をしてくださった権禰宜のSさんがご奉仕をなさっていました。少しお話をして、足形に無病息災を祈願し、水の流れに晒して清めました。
 
 
 
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 楼門を出たところで、猿餅を供しておられました。
 
 
 
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 このお餅は、先般の葵祭の時は食べられませんでした。早速一口。
 小豆の茹で汁で搗いたお餅は、ほんのりと「はねず色」をしています。
 
 
 
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 この「はねず色」は、明け方の一瞬に空が薄い茜色に染まるイメージで、命の生まれる瞬間を表しているそうです。
 食べることで身を清めるのもいいものです。

 鳥居の外では、みたらし団子を売っていました。これも、家族のために買いました。
 
 
 
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 奈良の小川は、きれいな水が流れています。
 
 
 
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 糺の森の参道には、たくさんの夜店が出ていて大賑わいです。
 
 
 
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 いただいた御神水と、お供えを盛りつける「鴨のくぼて」といわれる縄文時代以来の祭事用の土器は、家に持って帰りました。
 
 
 
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 今年の御手洗祭は、今日から土用の丑の日の26日(月)までの、早朝5時半から夜10時半までおこなわれています。
 
 
 

2010年7月22日 (木)

竹工芸の My.セカンドバッグ完成

 今年の2月に、平安神宮の前の京都市勧業館「みやこめっせ」で見かけて注文したバッグが、やっと完成したとの連絡がありました。
 このバッグのことは、「京洛逍遙(123)京竹工芸のバッグに惚れる」(2010年2月27日)で書きました。

 6月頃に完成するということでしたが、少し遅れて先週できたのです。
 バタバタしていた頃だったので、ようやく手にすることができました。

 ちょうど、地下鉄・烏丸御池駅の近くにある京都伝統工芸館で、作ってくださった細川秀章さんが実演をしておられるとのことなので、出来たてのバッグを受け取りに行きました。
 
 
 
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 お願いした通りの色合いです。
 予想以上に、きめ細かな竹工芸です。
 
 
 
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 最初はなかったゴムのバンドが、中に2本付いていました。
 
 
 
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 この方が便利だろうというので、付けてくださったのです。
 iPhoneや手帳が挟めます。

 留め具も、お願いしたとおりの出来具合です。
 
 
 
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 真ん中のワンポイントも、キッチリと決まっています。
 
 
 
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 細川さんの経歴が示されていたので、参考までに掲載します。
 
 
 
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 こうしたバッグを探しておられる方がいらっしゃいましたら、ご紹介いたします。

 さて、このバッグは、早速入院生活で使うことにします。
 検査での移動や、病棟や東山界隈の散策の折に、ブラリとぶら下げて歩くことにします。
 
 
 

2010年7月21日 (水)

心身雑記(61)任天堂が寄付した京大病院の新病棟へ

 京都大学付属病院のエントランスホールは、ホテルのロビーを思わせます。築後7年という、きれいな病院でした。
 受付もキビキビとしていて、とても感じのいい対応です。
 渡されたポケットベルの表示に従って動くようになっていました。よく考えられたシステムです。
 私の診察は、4階の消化管外科ですが、広い館内のどこにいてもいいのです。安心して、ポケベルで呼び出される順番を待っていました。液晶画面に、細かな指示が表示されます。

 診察に当たってくださったのは、今春ニンテンドーが70数億円の寄付によって建てられたガン病棟の特別チームのスタッフの方でした。いい巡り会いでした。

 東京から持参した紹介状を見て、私は残胃ガンだと言われました。初期ではないが、進行性の中でも初期ではないか、とのことです。
 本ブログでも掲載した私の胃カメラの写真を見て、昨年との視認での比較からの推測です。写真を見る限りではあるが、末期ではないと。ただし、大分大きくなっている気配があるそうです。転移が心配されるが、とのことでした。しかし、その可能性は少ないのでは、とも言われました。検査は、そのことを確定し、手術のための準備を進めていくようです。
 詳しく、現在の状況と、今後の予定を説明してくださいました。

 とにかく、入院して手術は決定で、すぐにいろいろな検査となりました。
 X線による胸と腹の撮影。これは、ベッドに寝ての撮影もありました。
 造影剤を静脈注入しての CT 検査もしました。体が火照ってくる注射です。私は、手が特に熱くなりました。
 さらには、予定になかった血液検査と、矢継ぎ早の検査漬けです。
 明日以降も、さまざな検査が入っています。
 どうやら、手術は8月に入ってすぐのようです。
 息つく暇もないほどに、次々といろんな部署を回りました。

 入院の手続きを終えてから、私が入院する病棟へ行ってみました。
 それは、ニンテンドーの寄付によって建て替えられた、2ヶ月前にできたばかりのガン病棟でした。
 
 
 
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 ガンの学習エリアがあるなど、最先端の医療施設です。

 ただし、ここでパソコンは使えるのですが、インターネットは使えないようです。これは、本館の携帯電話使用可のエリアを利用するしかないようです。
 今時のことなので、インターネットでメールのチェックや画像のやりとりをする人は多いと思います。1ヶ月以上も入院することになるのですから、最先端を自負するのであれば、ぜひとも、このインターネット対応を検討してもらいたいと思います。

 帰ろうとしたときに、携帯電話に京大病院からの着信履歴がありました。すぐに折り返しの電話をしたところ、病院専用回線での発信で、着信には対応していないものでした。
 総合受付に電話をし、事情を説明して、どこからの連絡かを調べてもらいましたが、わかりません。私が今日経巡った箇所に、1つずつ確認しました。しかし、結局わからずじまいでした。結局、5回も着信がありました。院内ということで、私がマナーモードにしていたために、気づかなかったのです。
 その後、何も連絡がないので、明日にでも何かあるのでしょう。

 帰りに、エントランスホールの入り口近くにあった喫茶コーナーで、少しノドを潤しました。
 ドトールコーヒーが入っていました。サマーキャンペーンとのことで、スクラッチカードをもらいました。
 くじ運のない私ですが、遊び半分に10個の内の3つのスクラッチを削ると、なんとアイスコーヒーが当たりました。
 どうやら、この病院との相性はいいようです。

 病院に来るときは、自宅からすぐのバスターミナルから、熊野神社前で降りて来ました。
 帰りは、1つ手前の近衛通というバス停からにしました。すぐにバスは来ました。東大路通りを北に向かって直進します。
 次のバス停である京大正門前に着く直前のことでした。
 バスがスピードを少し緩めたとき、私のすぐそばに立っておられた女性が、木が倒れるように、硬直状態で顔から床にドスンと倒れられたのです。頭を床に叩き付ける、大きな音がしました。
 少しして、乗客の異変に気づかれた運転手の方が、バスを停留所手前のガードレール沿いに止め、すぐに様子を見て救急車を呼ばれました。また、バス会社に連絡をして、次のバスに乗り換えられるように手配もしておられます。
 京都の市営バスは、運転手のマナーが悪くて有名です。しかし、今日の運転者さんは、的確な対応をしておられました。

 倒れた方には触らない方がいいと周りの人も言うので、私もしばらく様子を見ていました。
 少しして、気を失っておられた女性は、自力が起き上がられました。
 私が座っていた椅子に座ってもらいました。徐々に正気にもどられ、暑かったので、とおっしゃっておられました。

 間もなく次のバスが目の前に止まったので、みんなで乗り換えました。
 運転手さんと女性は、そのまま救急車を待っておられました。

 突然のできごとでした。しかし、大事に至らないことで、安堵して帰路につきました。
 丸一日、ドップリと病院で過ごしました。しかし、悲観的な局面にはならなかったので、気持ちが軽くなりました。

 自宅に帰る早々、引き受けていた原稿の件で確認の電話が入りました。今の状況を説明し、秋ではなくて来春に延ばしてもらいました。

 また、夜には、昨日、職場の人事の方と打ち合わせをした書類が、速達で届きました。迅速に対処してもらい、感謝しています。
 いろいろな方が、私のような者のために、手数をかけて協力してくださっています。ありがたいことです。

 今後しばらくは、たくさんの方々に迷惑をかけるかと思います。
 先日、いつもお世話になっている神野藤先生が、こんな時なので、たくさんの人にたくさん迷惑をかけたらいい、という励ましのメールをくださいました。

ここはじっくり静養すべきです。そのつもりで、しばらく先までのことを封印するがよろしい。迷惑をかけるからなどと思ってはいけません。迷惑かけついでに、大いに迷惑をかけるとよろしい。迷惑の小出しを長引かせて、さらに大迷惑に繋がるようではいけません。

 大先輩からの忠告を、心して肝に銘じます。

 こんな状態なので、対応の緩慢さはご寛恕の上、なにとぞご理解いただきますよう、よろしくお願いいたします。
 
 
 

2010年7月20日 (火)

心身雑記(60)東へ西へドタバタの一日

 先週の金曜日に、東京の病院から悪性の腫瘍が見つかったので至急来るように、とのことだったので、今朝の新幹線の始発で、取る物も取り敢えず上京しました。

 連休明けのせいか、新幹線は満員でした。指定席が取れないので、京都から新横浜間は、ずっと立ち通しでした。こんなことは久しぶりです。ジッと立ったままは、足腰によくないですね。

 朝の5時25分に京都の自宅の玄関を出ました。
 東京の九段下の病院には、8時50分に着きました。
 予定の9時までに、どうにか受け付けにたどり着いたのです。

 先週は内科の先生から連絡を受けたので、早速内科に予約してある旨を申し出ました。すると、看護婦さんは他の患者さんに話の内容がわからないように、私のそばにくっ付いて、耳元で小さな声と大きな目ん玉で話されます。自分が他人に秘すべき内容の病気であることを、この時あらためて認識しました。
 本人としては、他人に聞かれても一向に構いません。しかし、看護婦さんは、話の内容が内容だけに、心遣いをしてくださっているのです。

 結局、内科ではなくて外科でした。
 私が内科しか頭になかったので、よく電話での指示を聞かないままに、思い込みで来てしまったのです。そういえば、切った貼ったは、外科の担当でした。

 外科に行くと、先週電話を下さったA先生が、手回し良く新しいカルテを作って、準備万端整えて、外科の先生にバトンタッチしてくださっていたのでした。
 それだけ、自分の病状が緊急を要する状態であることを痛感しました。

 外科の先生は、初めて診てもらう方でした。診察は、一刻も早く胃を切る以外にないことを前提に、それ以外にガンが転移していないかの検査を急いでおられました。ただし、幸いなことに人間ドックの検診の中で胃ガンが見つかったこともあり、腹部の超音波診断などのデータがあるために、おおよその転移について推測はできそうでした。しかし、慎重に調べることの重要性はもちろんです。見逃しは、致命的なのですから。

 この東京の病院で入院となると、単身赴任の身なので何かと不自由です。そこで、京都の自宅に近い病院に入院したい旨を伝えると、非常に理解の早い先生で、希望する京大病院にすぐに行くようにと、手際良く紹介状を書いてくださいました。本当に、急を要するようです。
 ことの次第を妻に伝え、これまた大急ぎで京大病院へ連絡をとってもらいました。

 九段下の病院から立川にある職場へ脚をのばし、いろいろな方に必要な連絡と指示を伝え、館長にも挨拶をし、事務の方とも打ち合わせをしました。

 この、立川の職場に行くのに、立川駅からバスを使いました。ところが、いろいろと考え事をしていたせいか、降りる停留所を3つも乗り越してしまい、見知らぬ地点から引き返しました。
 おまけに、降りようとすると、ドアが閉まったままです。アノー、と言うと、降りるならボタンを押してくれないと、とのこと。たまたま、乗る人がいたので、その停留所に止まったのでした。我ながら、オイオイと自分にカツを入れました。

 仕事の段取りを付けた後、立川で景気づけ(?)に回転寿司をお昼ご飯として食し、すぐに深川の宿舎に帰って必要な荷物を持って、また東京駅に引き返して新幹線に乗りました。

 自宅に帰ってみると、何と今日は息子の誕生日でした。
 複雑な想いで、バースデーケーキのお裾分けをもらいました。
 疫病神が帰ってきたと思われないように、息子共々、明日からがいいスタートとなるようにしたいものです。
 
 
 

2010年7月19日 (月)

西国三十三所(1)5周目は石山寺から

 梅雨も明け、快晴の休日となりました。
 いつものことながら思いつきで、西国三十三カ所札所巡りを始めることにしました。
 父が亡くなった26年前に、はじめて一周しました。
 そして、毎年お盆には、表装したお軸を飾っています。
 
 
 
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 妻の実家の母が秋田から来られたときに、2周目を回って持ち帰ってもらいました。
 娘のために3周目。
 
 
 
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 そして、母が亡くなったときに4周目を回りました。
 
 
 
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 いずれも、自家用車を使っての、家族みんなで行楽を兼ねた札所巡りでした。

 これ以外にも、家族のために新西国三十三カ所札所巡りも満願を果たしています。
 中央の「南無釈迦牟尼佛」の文字は、私が見よう見まねで書いたものです。
 
 
 
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 まだ周り終えていないものに、四国八十八カ所、近畿三十六不動の赤不動と青不動、そして、昨年から始めた洛陽三十三所があります。
 とにかく、私はスタンプラリーが大好きなのです。
 行楽がてら、遠出も厭わず、近畿を走り回っています。

 これまでは、亡くなった父や母のために回っていました。しかし、今度は自分のために回ることにしました。それも、自動車のない生活をしているので、今度は公共交通機関と自転車と徒歩です。これまた、楽しいことが始まりました。

 最初はどこにしようかと、しばし思案しました。
 自転車で行けて一番近い寺町通りの革堂、それとも五条坂の清水寺と、いろいろと考えた挙げ句、電車で行きやすい瀬田川沿いの石山寺にしました。『源氏物語』にゆかりの深い寺だということもあります。

 いつも車だったせいもあり、石山駅に降り立つのは初めてです。
 
 
 
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 山門を潜り石段を登ると、境内にそそり立つ奇岩の前では、蓮がちょうど咲くところでした。
 
 
 
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 本堂の入り口にある「源氏の間」では、源氏千年紀の折に作られたロボットが、『源氏物語』の巻頭を読みながら解説をしていました。
 
 
 
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 実物は置いてあるだけで、その動きとお話はモニタに映し出されていました。
 千年前と現代が、微妙にクロスします。実物が動いたら、もっと良かったのですが……。

 本堂の裏手に回ると、源氏苑に紫式部の像があります。
 
 
 
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 この像は、かつて『源氏物語の鑑賞と基礎知識 蜻蛉』(拙編、至文堂、2003)という本を編集したとき、巻頭に書いた「源氏ゆかりの地を訪ねて 石山寺散策」で、取材をした折の写真をたくさん掲載しました。その記事の扉にあげた紫式部の像の写真には、中央下にブルーのポリタンクがかすかに写っています。すみません。うっかりしていました。今、白状しておきます。

 本堂では、朱印軸に御詠歌を書いてもらいました。
 
 
 
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後のよを
 ねがふこゝろは
  かろくとも
佛の誓ひ
 おもき
  いし山

 まずはスタートを切ったばかりのお軸を、床の間にかけてみました。
 
 
 
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 中央に西陣織で刺繍されているのが、石山寺のご本尊である勅封二臂 如意輪観音菩薩像です。
 この観音さまの周りを、三十三カ所のお寺の御詠歌で埋めていきたいと思います。
 さて、何年かかるでしょうか。
 
 
 

2010年7月18日 (日)

食べ物の節制はビールとお揚げさんから

 数日来の大雨で、賀茂川の水嵩が増しています。
 ウォーキングでいつも渡る自宅横の飛び石も、今日は水を被っているために渡れません。
 台風一過の状況です。
 
 
 
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 北大路橋の下でも、中州が運ばれてきた土砂で水路が大分狭められてきています。
 
 
 
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 振り返って大文字を見ると、まだ準備がなされていないこともあって、大の字がぼやけたままです。
 
 
 
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 今日の日中は、梅雨が明けたように暑い日でした。
 ビールがおいしい季節です。しかし、今日から胃を刺激する炭酸飲料を控えることにしました。
 糖質0パーセントの日本酒と焼酎にします。

 お酒と一緒に食べていたお揚げさんも、胃を守るために、これからは控えることにします。
 お揚げさんは、折を見て新しいものは写真に撮っていました。
 手元の写真を、これを最後に、まとめて掲載します。
 
 
 
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 東京でも、お揚げさんを食べ出したところでした。
 しかし、フックラ感がなかったので、水のせいではないか、と思っています。
 
 
 

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 カロリーコントロールをしていても、食べることは楽しみの一つです。
 体に負担のない食生活の中で、ささやかな楽しみを探していきたいものです。
 
 
 

2010年7月17日 (土)

心身雑記(59)ガンの告知を受けた時の気持ち

 ある日、「ガンです」と突然に言われたら、どんな気持ちになるのだろう、と思ったことがあります。

 わたしの場合は、すでに何度もこのブログで書いて来たように、18歳の時に自分の内臓が自爆したことにより、それからというものは、死というタイマーが体内にセットされてしまった日々を送っています。そのこともあってか、ガンが自分とは無縁なものとなり、ガンというものに対する現実感は欠落していました。

 5日前に人間ドックでいろいろな検診を受けました。その病院から、今朝、電話がありました。

 受付の方が、A先生に代わります、と言われ、糖尿病のことで栄養指導をしてくださったA先生が、電話口に出られました。
 先日の検査終了後の問診で、ヘモグロビンA1cの数値は昨年よりも少し下がったところだったので、これからもこれまで通りシッカリと食事療法に取り組むように、という励ましの電話かと思いました。

 A先生は、人間ドックで胃カメラによって採取した出血部位の細胞組織の検査の結果、悪性の腫瘍であることがわかった、と単刀直入におっしゃったのです。その胃カメラでの写真は、「心身雑記(58)楽だった口からの胃カメラ」に掲載しています。

 非常に事務的な伝達に聞こえたので、素直に「そうでしたか」と答えました。
 今にして思えば、先生も言いにくいことを思い切って電話口でおっしゃったのです。

 今からちょうど40年前、十二指腸潰瘍穿孔性腹膜炎のため、胃が破裂して意識を失いました。新聞配達を終えて、食後すぐの出来事でした。新聞販売店からすぐ近くの病院に運ばれ、命を守るためにすぐに胃の3分の2と、十二指腸などの内蔵を切除されました。昭和45年当時は、まだ胃カメラなどない時代でした。吉村昭の小説『光る壁画』によると、胃カメラがさまざまな実験を繰り返している時代です。
 この、私の胃が破裂したのは、高校を卒業してすぐの、18歳の時でした。このことは、何度か書きました。
 最近では「心身(2)体重激減の対処策」(2007年6月29日)です。
 また、「心身(39)半日の人間ドック」でも。
 話の流れで、ついこのことに触れてしまうのです。それだけ、私の今と関わりの深い出来事なのです。

 以来、医者のアドバイスにより、我が身を守るため、何事においても意識的に無責任に生きることと、内蔵の耐用年数の45年という時間を、とにかく強く意識してこれまで生きて来ました。

 私に設定されたタイマーは、作動するまでに後4年半ほどあるはずです。
 45歳の時、人生を変えるために伊井春樹先生から学位を戴こうと思って、大阪大学大学院の博士後期課程に入学しました。この関門は、何とかクリアーしました。
 次は、手術から45年後となる、あと4年半後の63歳です。

 そうした経緯があるので、それまでは私に死というものは無縁なはずです。
 今、ビルの10階から飛び降りても、死ぬはずがない、と確信しています。

 受話器から聞こえるA先生の話が、どこか他人事のように思いながら、聞いていました。
 悪性の腫瘍が見つかったとしても、それは命取りにはならず、あと4年半は何とか生き延びて克服するはずです。

 とは言うものの、今は適切な対処が必要です。ここを、何事もなかったかのように通過するためにも。

 A先生は、昨日から何度も電話をしてくださっていたようです。すぐに来院できますか、と言われました。
 アーッ、先生は急いでおられるのだな、ということはわかりました。しかし、これから大阪で仕事があります。
 とにかく、連休明けの火曜日に病院へ行くことにして、電話を切りました。

 依然、他人事という感触のまま、すぐ妻にメールを送りました。


「胃ガンだそうです。」

今週月曜日に行った、人間ドックの病院から電話がありました。
胃カメラで採取した細胞から、悪性のがん細胞が見つかりました。
至急来院を、とのことでしたが、今は出張中であることを伝え、来週火曜日の朝一番に行くことにしました。
通院して検査の後、入院して手術になるようです。8月に入ってからでしょうか。
久しぶりの入院となりそうです。
今のうちに、いろんなものを見ておくことにします。
これから、祇園祭に行き、すぐに堺市へ調査に行き、また祇園祭に行こうと思います。
堺を出るときに、メールをします。


 堺での調査のことは、昨日書いた通りです。

 調査を終えた帰りに、仕事帰りの妻と、四条で待ち合わせをしました。
 私の顔を見るなり、妻は突然壁に頭を凭せ掛けて嗚咽しだしたため、宥めるのに少し手を焼きました。

 祇園祭の長刀鉾をユックリと見て、錦市場で胃をアルコール洗浄しながら、鱧寿司を食べて帰りました。
 
 
 

2010年7月16日 (金)

与謝野晶子の源氏訳自筆原稿「夕顔」等を確認

 今日は、祇園祭の宵山です。
 朝、新町通りの和装小物「くろちく」へ行き、昨年に続きブックカバーをいくつか買いました。
 
 
 
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 四条から三条にかけて、今日は街が美術館や博物館になっています。

 その脚ですぐに堺市の与謝野晶子文芸館へ行き、『源氏物語』の現代語訳自筆原稿の調査をしました。
 
 
 
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 今回も、文化部の足立匡敏さんのお世話になりました。

 昨年と同じように、今年も晶子の自筆草稿を高精細画像で撮影し、国文学研究資料館のウェブサイトから公開することになっています。

 今年の2月に公開した『源氏物語』の与謝野晶子自筆原稿は、「桐壺」「帚木」「若紫」「末摘花」「紅葉賀」「花宴」「葵」「賢木」「花散里」「蓬生」「絵合」「松風」「玉鬘」「胡蝶」「常夏」「真木柱」「梅枝」「藤裏葉」「若菜上」「若菜下」「夕霧」の522枚でした。

 その公開に至る詳細は、本ブログ「与謝野晶子の『新新訳源氏物語』自筆原稿画像データベース公開」(2010年2月20日)を参照願います。

 そして今日、さらに『源氏物語』21枚を確認しました。

 事前の情報では、「帚木」「若紫」「花散里」などがあるとのことでした。相当損傷した状態のものがたくさんありました。
 その内容を、足立さんと一緒に確認していたら、その中に上記以外の巻として、「桐壺」の巻末1枚、「夕顔」7枚、「賢木」5枚が含まれていることがわかりました。
 「桐壺」は、前回公開したものと合わせて、これですべてが揃ったことになります。
 「賢木」も、前回は49枚を公開したので、これでほぼ揃ったようです。
 「夕顔」は、今回新たに確認できた巻となります。これまでに、内部の人にも知られていなかった新しい情報として、意義深い収穫です。

 現在、その存在が確認できている晶子の『源氏物語』訳自筆原稿は、鞍馬寺のものと共に、これでほぼすべてと言ってよいでしょう。

 秋の撮影を経て、来年2月に画像データベースとして公開することにより、公刊されている晶子訳『源氏物語』の創作過程を明らかにするメドがたちます。後は、この資料を活用した研究を待つことになります。
 ここは、近代文学を専門とされる足立さんたちの若い世代に、大いに期待したいところです。
 一歩一歩、着実に成果を公表してもらえることでしょう。

 さらに、『蜻蛉日記』が112枚があるとのことでした。
 今回、その確認も果たしました。

 与謝野晶子の『蜻蛉日記』については、国文学研究資料館の今西祐一郎館長が『蜻蛉日記』(平凡社ライブラリー、1996)として、ながらく絶版であった晶子訳を蘇らせておられます。
 これまた、タイムリーな状態で、晶子の『蜻蛉日記』の現代語訳の自筆原稿が国文学研究資料館から公開できることは、とても幸運といえます。
 この『蜻蛉日記』のウェブ公開を果たした暁には、今西館長に篤く語ってもらえる機会を設けられればと思っています。

 実りある調査を終え、帰り道に四条で乗り換える時に、また祇園祭を見たくなりました。
 四条通と烏丸通は、もう人でごった返していました。
 今年は、黒主山のチマキをいただきました。
 
 
 
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 若い人が、とにかくたくさん集まってきています。
 昨年に比べて、浴衣姿の男女が特に目立ちました。
 鱧寿司を食べ、活気のある祇園祭の賑わいに新たなエネルギーをもらって、帰路につきました。

 明日は、阪急池田にある逸翁美術館での研究会へ行きます。
 
 
 

2010年7月15日 (木)

『十帖源氏 桐壺』の翻刻本文と現代語訳の公開

 『十帖源氏』の翻刻と現代語訳を、若手の有志と一緒に進めています。

 『十帖源氏』は、野々口立圃(1595-1669)が承応3年に著した『源氏物語』の梗概書(ダイジェスト)です。
 今回翻刻に使用したのは、古典文庫版の『十帖源氏 上・下』(平成元年)に収録された自筆版下本です。
 書誌などの詳細は、古典文庫巻末の吉田幸一氏の解題をご参照ください。

 ここに公開するものは、海外の方々に『源氏物語』のおもしろさを知っていただくために、10種類ほどの多言語に翻訳するプロジェクトにおける、基礎的な資料とするものです。
 その詳細は後日おしらせします。

 今は、とりあえず、出来上がった資料を、興味と関心をお持ちの方々のために、順次公開することにしました。
 また、これを翻訳してくださる方には、ここで公開する資料をもとに、各自の言語で翻訳していもらいたいと思います。

 また、この場所が、翻訳をして行く上で生まれた、問題点や疑問点の情報を交換する場所になることも期待しています。
 これも、共同研究と共同作業の1つのありようとして、ありのままに公開する次第です。

 なお、ここに提示する情報は、あくまでも、『十帖源氏』を外国語に翻訳する方々のことを配慮しての現代語訳です。現代語を自由にあやつる日本人の方々のための現代語訳ではないことを、あらかじめお断りしておきます。

 こうした取り組みと、提示する資料に関するご意見などを、お気軽にお寄せいただけると幸いです。

 なお、『十帖源氏』の影印画像は、早稲田大学の古典籍総合データベースで公開されています。
 ぜひ、原本を確認しながら、この翻刻と現代語訳をご利用ください。
 
 
 
 【 凡 例 】

『十帖源氏』の凡例(メモ) [平成22年7月15日現在]

◆翻刻について

・訳に合わせて句読点、濁点を打つ。
・会話文には鉤括弧をつける。心内表現に鉤括弧をつけるかは、各担当者にまかせる。
(例)「〜」と、おほせらる。  ※「と」の後に読点を打つ。
・和歌は句の切れ目にスペースを入れる。
・踊り字「/\」の濁点は、「/゛\」と表記する。

◆訳について

・海外の人が理解できるよう、平易な文で訳すことを旨とする。
・公立高校入試を控える中学三年生くらいのレベルで現代語訳を作っていく。
・「です」「ます」体に統一する。
・主語を明確にする。
・できるだけ理解しやすいように言い換える。
・文はできるだけ切る。
・敬語にはこだわらず、忠実でなくともよい。
・敬語は帝につける程度でよい。
・「何とか」といった抽象的な語はさける。
・「方」は、「女性」「男性」「人」などの語に置き換える。
・「もの心細げ」の「もの」は、心細い「感じがする」といったように訳出する。
・訳文は一文が長くならないようにする。一文は五〇字くらいまでの長さが好ましい。
・「そば」という言葉を用いるときは、平仮名表記。

◆注について

・注はつけない。
・まず現代語訳を作り、訳者から注の依頼を受ける、という形にする。
・現在保留。公開時にどうするか検討。

◆絵について

・絵は場面の説明をつける。説明は、5W1H(Who(誰が) What(何を) When(いつ) Where(どこで) Why(どうして)How(どのように))を書く。
・絵のキーワードを現代語訳の中から5つ選び、訳に《 》をつける。
・絵のキーワードは、ネット公開時に色をつけるか。

◆括弧の使い方


・( )(丸括弧)…①人物呼称の補足 (例)若君(光源氏)のことを…
        ②その他、補足や補文等 (例)(桐壺)
・「 」(鉤括弧)…①人物呼称 (例)「桐壺の更衣」は、…
        ②会話文・心内語 (例)「…だろうか」と、言いました。
・『 』(二重鉤括弧)…①作品名 (例)『源氏物語』は、…
        ②会話文中の会話 (例)「ある人のいふやう『…』」とて、…
・〔 〕(亀甲括弧)…①傍記 (例)おもしろきにあそひ〔傍・あ/管絃〕をそ
        ②割注 (例)あつしく成ゆき〔割・をもき/病也〕
              */は改行。訳も〔 〕内に入れる。
・〈 〉(山括弧)…①和歌の詠者 (例)翻刻→〈御〉たつねゆく…
                 訳→ 〈帝〉
           *訳の場合、詠者は たつねゆく… 1行扱いにする。
        ②挿絵 (例)〈絵100〉 光源氏が…
・《 》(二重山括弧)…①絵のキーワード
            (例)《紫式部》は、《石山寺》に籠もって…
 *訳にのみ使用。


◆登場人物表記一覧(五〇音順)

・葵の上
・右大臣
・空蝉
・桐壺帝
・桐壺の更衣
・弘徽殿の女御
・小君
・左大臣
・四の君
・光源氏
・紫の上


/////////////////

 【 翻刻・現代語訳 】
 
 
 
『十帖源氏』巻一「きりつほ」
 
 
  担当 畠山大二郎(國學院大學大学院博士後期課程)
 
 
 
〔1・ウ〕
【翻刻本文】
光源氏物語は、村上天皇女十宮大斎院
より、一条院の后上東門院へ「めづらかなる草子
や侍る」と、御所望の時、式部をめして「何にても
あたらしく作りてまいらせよかし」と、おほせらる。
式部、石山寺にこもりて、此事を祈り申す。折
しも、八月十五夜の月、湖水にうつりて、物語
の風情空にうかびけれは、先、須磨の巻より
書たると也。巻の数は天台六十巻、題号は四諦
の法門「有門空門亦有亦空門非有非空門」也。
一には詞をとり、二には歌をとり、三には詞と歌とを取、

【現代語訳】
『源氏物語』は、村上天皇の十番目のお姫さまである大斎院(選子内親王)
から、一条院の后である上東門院(藤原彰子)へ「新作物語
はありませんか」と、お望みのとき、彰子が、《紫式部》を呼んで「がんばって
《物語》を新しく作ってきてください」と、おっしゃいました。
《紫式部》は、《石山寺》におまいりして、この事を祈りました。すると、
《八月十五夜の満月》が、《琵琶湖》の水面に映って、物語
の風情が頭に浮かんだので、まず、須磨の巻から
書いたそうです。巻の数は天台の教典六十巻をもとにして、巻名は四諦
の法門、「有門、空門、亦有亦空門、非有非空門」という文を参考にして名付けました。
第一には詞から、第二には歌から、第三には詞と歌とから、


〔2・オ〕
【翻刻本文】
四には歌にも詞にもなき事也。始は「藤式部」といひ
しを、此物語一部の内むらさきの上の事を勝れ
ておもしろく書たるゆへ、「紫式部」といひかへらるゝ也。
観音ノ化身ト云々。檀那院僧正天台一心三観
血脉許可也。

  堤中納言兼輔—惟正〔傍・=因幡守〕—為時〔傍・=越前守〕—女〔傍・=紫式部〕
        母は為信〔傍・為=摂津守〕女 堅子

【現代語訳】
第四には歌にも詞にもないところから、巻の名前を決めました。もともと「藤式部」と呼ば
ていましたのを、この物語の一部で紫の上のことをとても
すばらしく書いていたことから、「紫式部」と呼び名が変えられたのです。
紫式部は、観音の化身だとか。檀那院僧正に天台一心三観の
血脈を許されたのです。

紫式部の系図
  堤中納言兼輔—因幡守惟正—越前守為時—女(紫式部)
        母は摂津守為信女、娘に堅子がいます。


〔2・ウ〕
〈絵1〉 八月十五日の夜、石山寺で、紫式部が、『源氏物語』を書きはじめた場面


〔3・オ〕
【翻刻本文】
いづれの御時にか、女御かうゐ、あまたさぶらひ給ける
中に、いとやんごとなきゝはにはあらぬが、すぐれてとき
めき給ふありけり。〔割・いづれの御時とは、醍醐天皇をさしていへり。/時めき給ふとは、「きりつぼの更衣」の事也。〕
  梨壺、照陽舎 桐壺、淑景舎 藤壺、飛香舎
  梅壺、凝花舎 雷鳴壺、襲芳舎

此きりつぼにすみ給ふかうゐを、御てうあひあれば、
きりつぼのみかどゝも申也。あまたの女御かうゐそね
みて、あさゆふの御みやづかへにつけても、心をのみうご
かし、うらみををふつもりにや、あつしく成ゆき、〔割・をもき/病也〕
物心ほそげに、里がちなるを、みかど、いよ/\あはれに

【現代語訳】
   (桐壺)
いつの時代のことでしょうか、女御とか更衣とか、お后が大勢いらした
中に、特に高貴な身分ではなくて、帝にとても愛されて
いらっしゃる女性がいました。〔「いつの時代」とは、醍醐天皇の時代のことです。
「帝に愛されていらっしゃった女性」というのは、「桐壺の更衣」です。〕
  梨壺は照陽舎、桐壺は淑景舎、藤壺は飛香舎、
  梅壺は凝花舎、雷鳴壺は襲芳舎ともいいます。

この桐壺に住んでいる更衣を愛されたので、
この時の帝のことを「桐壺の帝」ともいうのです。大勢の女御や更衣たちはくやしがって、
毎日「桐壺の更衣」が帝の近くにいることに、嫉妬をして
ばかりいました。そうやって、他の后たちの恨みをたくさん作った結果でしょうか、体が弱くなっていきました。〔重い病気です〕
心細い感じがして、自宅に帰っていることが多い「桐壺の更衣」のことを、帝は、これまで以上にたまらなく


〔3・ウ〕
【翻刻本文】
おぼして、人のそしりをも、えはゞからせ給はず。「もろ
こしにもかゝる事のおこりにこそ、世もみだれ、あしかり
けれ」と、あぢきなう、人のもてなやみぐさになりて、
楊貴妃のためしもひき出つべう成ぬ。此かうゐの父
はなくなり、母北方、いにしへのよしあるにて、御かた/゛\
にもをとり給はねど、事とある時は、より所なく、心ぼ
そげ也。さきの世にも御契りやふかゝりけん、きよら
なる玉のをのこみこさへ生れ給ぬ。〔割・其を光君と/いふ也〕一の
みこは、右大臣の女御の御はらにて、うたがひなきまう
けの君と、かしづき聞ゆれど、此君の御にほひには、
ならび給ふべくもあらず。此みこ生れ給て後は、みかど

【現代語訳】
お思いで、誰が何とけなしても、世間体を考えることもおできになりません。
中国でもこういう恋愛関係が原因となって、世も乱れ、とんでもないことにも
なったと、世間の人もおもしろくない気がして、人々の悩みの種にもなって
玄宗皇帝を虜にした楊貴妃に例えられそうになりました。この「桐壺の更衣」の父
はすでに死んでいて、母親の「北の方」は、由緒のある家柄出身であり、昔気質の人なので、他のお后たち
にも負けないようにしていますが、何か大事なことがある時には、頼るところがなく、心細い
様子です。前世にも約束が深かったのでしょうか、美しい
玉のような皇子までも生まれました。〔この人を「光る君」(光源氏)といいます。〕第一
皇子は、「右大臣の女御」が生んだ子供なので、間違いなく東宮に
なるだろうと、世間の人々も大切にしているのですが、この若君(光源氏)の美しさには、
とうてい勝てることができません。この若君(光源氏)が生まれてからというもの、帝は

〔4・オ〕
【翻刻本文】
御心ことにをきてたれば、坊にもゐ給ふべきなめりと、
一のみこの女御は、おぼしうたがへり。あまたの御かた/゛\を
過させ給ひ、ひまなき御前わたりに、人の心をつく
し給ふも、ことはり也。あまりうちしきりまうのぼり
給ふおり/\は、うちはしわた殿、こゝかしこの道にあや
しきわざをして、御をくりむかへの人のきぬのすそ、
たへがたう、まさなき事ともあり、又ある時は、えさら
ぬめだうの戸をさしこめ、こなたかなた心をあはせ、
はしたなめわづらはせ給ふ時もおほかり。みかどいとゞ
あはれと御らんじて、後涼殿にもとよりさぶらひ給ふ
かうゐを、ほかにうつし、此かうゐのうへつぼねに給はる。

【現代語訳】
この若君(光源氏)をとても大切にしていらっしゃいましたので、この若君(光源氏)が、東宮になるのではないかと、
第一皇子の母である后は、心の中で心配しています。帝が、たくさんの后たちの部屋の前を
素通りして、何度も何度もお通いになることに、他の后たちが嫉妬して
いるのも、もっともなことです。あまりにも「桐壺の更衣」が帝に呼び寄せられる
回数が多いときには、打橋や渡殿といった宮殿の廊下、「桐壺の更衣」が通る、あちらこちらの道にいたずら
をして、見送りや出迎えの女房の着物の裾が、
まったく我慢できなくなるような、とんでもないことなどがあり、またある時は、「桐壺の更衣」が、絶対
通らなければならない中廊下の扉を閉めて、こちらとあちらで協力し、
「桐壺の更衣」を閉じ込めて、ひどい目にあわせたり困らせたりすることも多いのです。帝はますます
「桐壺の更衣」をかわいそうに思って、後涼殿という所に前から部屋をもらっていた
身分が低い后を、他の場所へ移し、「桐壺の更衣」のもう一つの部屋としました。

〔4・ウ〕
【翻刻本文】
そのうらみ、ましてやらんかたなし。みこ、みつに成給ふ
とし、御はかまぎの事、一の宮のにもをとらず。御かたち
心ばへ、ありがたくめづらしきまで見え給へば、此君をば
人々もえそねみあへず。其年の夏、御母御休所
〔割・更衣の/事也〕、わづらひて里へまかでんとし給へど、つねのあつ
しさに、御めなれて、いとまさらにゆるさせ給はず。日々
にをもり給て、いとよはうなれば、更衣の母、なく/\
そうして、みこをはとゞめさせ、みやす所ばかりまかで
給ふ。うつくしき人の、おもやせあるかなきかにきえ入
ものし給ふを御覧じて、きしかたゆくすゑ、よろづ
の事を契りの給へと、御いらへもきこえず。まゆもたゆげ

【現代語訳】
部屋を他に移された后の恨みは、とうてい晴らすことができません。若君(光源氏)は、三歳になった
年、袴着の儀式をしました。その様子は、第一皇子がこの儀式をしたときにも負けないほどです。見た目や
性格が、めったにないほど素晴らしいので、この若君(光源氏)を
他の后たちも憎むことができません。その年の夏、母の御息所
〔「桐壺の更衣」のことです。〕は、病気になって自宅へ帰ろうとしますが、「桐壺の更衣」がいつも体が弱い
ことに、帝は慣れてしまい、帰ることを絶対に許しませんでした。日に日
に病気が重くなってきて、ひどく衰弱したので、「桐壺の更衣」の母は、泣きながら
お願いして、若君(光源氏)を宮中に残したまま、御息所(桐壺の更衣)だけ帰る
ことになりました。帝は、かわいらしい「桐壺の更衣」が、やつれて意識がはっきりしない様子
を御覧になって、今までのことや将来のこと、いろいろな
ことを約束したりするけれども、「桐壺の更衣」は、返事をすることもできません。つらそうな顔


〔5・オ〕
【翻刻本文】
にて、われかの気しき也。かぎりあらんみちにも、を
くれさきだゝじとちぎらせ給けるを、打すてゝはえ
ゆきやらじと、の給はするを、女も、いみじと見奉りて、
  かぎりとて わかるゝみちの かなしきに
  いかまほしきは いのちなりけり
てくるまのせんじなどの給はせて、まかで給ふ。みかど、御
むねふたがり、御使の行かふ程もなきに、夜なかすぐる
程に、たえはて給ふ、きこしめす。御心まどひ、何事
もおぼしわかれず。みこをばかくても御らんぜまほし
けれど、れいなき事なれば、まかでさせ給ふ。みこも
何事ともおぼさず。人々のなきまどひ、うへも御涙の

【現代語訳】
をして、危篤状態です。帝が「死への旅にも、共に
行こうと約束しましたのに、私を残しては
いけませんよ」と、おっしゃるのを、女(桐壺の更衣)も、とても嬉しく思いました。
(そして、帝は次のように和歌を詠みました。)
  かぎりとて わかるゝみちの かなしきに
  いかまほしきは いのちなりけり
帝は、「桐壺の更衣」に輦車に乗ることを許し、「桐壺の更衣」は自宅に帰りました。帝は、
胸がつまって、お見舞いのお使が行って帰って来るほどの時間もたっていないほどに、「夜中を過ぎる
ころに、「桐壺の更衣」が息を引き取りになりました」と、お聞きになります。帝は、気も動転して、もう何の
分別もつきません。帝は、若君(光源氏)をこんな時でも御覧になりたいと思う
けれど、喪中に宮殿にいることは前例にないので、光源氏を母君の自宅に帰らせました。若君(光源氏)も
何が起きたのかもわかりません。「光源氏」は、周りの女房たちが泣きわめき、帝も涙が


〔5・ウ〕
【翻刻本文】
ひまなくなかれおはしますを、あやしと見奉給ふ。
かぎりあれば、をたぎといふ所にて、けぶりになし奉る。
母君も、おなじ煙にと、なきこがれ、御をくりの女ばう
の車に、したひのりて出給ふ。内より御使ありて、三位
のくらゐをくり給ふ。みかどは、一の宮を見給ふにも、わか
宮の御恋しさのみおぼし出つゝ、女ばう、めのとなどを
つかはし、ありさまきこしめす。野分たちはた寒き夕
ぐれ、ゆげいの命婦をつかはさる。 勅書の歌
  みやぎ野の 露ふきむすぶ 風のをとに
  小萩がもとを おもひこそやれ
命婦、かうゐの母にあひて、

【現代語訳】
とまらなくなっていらっしゃるのを、何だか変だと見ています。
きまり通り、愛宕という所で、葬儀を行いました。
母君も、「桐壺の更衣」と同じように、火葬の煙となって消えてしまいたいと、泣いて、見送りの女房
の車に、追いつくようにして乗ってでかけました。帝から使者があって、三位
の位をお贈りになりました。帝は、第一皇子を御覧になっても、若
宮(光源氏)を恋しく思い出してばかりいて、女房や乳母などを
つかって、「光源氏」の様子をお聞きになります。風が強くて肌寒い夕
暮れに、「靫負の命婦」という女房を「桐壺の更衣」の母の所へ行かせました。帝からの手紙に書いてあった和歌です。
  みやぎ野の 露ふきむすぶ 風のをとに
  小萩がもとを おもひこそやれ
「靫負の命婦」が、〔桐壺の更衣〕の母に会って詠んだ和歌です。


〔6・オ〕
【翻刻本文】
  すゞむしの こゑのかぎりを つくしても
  ながき夜あかず ふるなみだかな
〈うは君〉いとゞしく 虫のねしげき あさぢふに
  露をきそふる 雲のうへ人
をくり物あるべきおりにもあらねばとて、かうゐの
残しをき給へる御さうぞく御くしあげのてうど、そへ
給ふ。みかどはふけてもおほとのごもらず、せんざいの花
御覧ずるやうにて、女ばう四五人さぶらはせて、御物語
せさせ給へり 。御返し奉るうば君の歌。
  あらき風 ふせぎしかげの かれしより
  こはぎがうへぞ しづごゝろなき

【現代語訳】
  すゞむしの こゑのかぎりを つくしても
  ながき夜あかず ふるなみだかな
(「靫負の命婦」が詠んだ和歌に対して、祖母君(「桐壺の更衣」の母)は次のように和歌を詠みました。)
〈祖母君〉
  いとゞしく 虫のねしげき あさぢふに
  露をきそふる 雲のうへ人
良い土産物などありませんので、「桐壺の更衣」が
残した着物や装飾品を、手紙にそえて
あげました。帝は夜更けになってもおやすみにならず、庭先に植えてある花を
眺めながら、女房を四、五人そばに控えさせて、お話を
していらっしゃる。帝の手紙に対して詠んだ、「桐壺の更衣」の母の歌です。
  あらき風 ふせぎしかげの かれしより
  こはぎがうへぞ しづごゝろなき


〔6・ウ〕
【翻刻本文】
うば君の物語わか君の事などそうして、をくり
もの御らんぜさすれば、
〈御〉たづねゆく まぼろしもがな つてにても
  玉のありかを そことしるべく
一の宮の御母、弘徽殿は、久しくうへの御つぼねに参り
給はず、月のおもしろきにあそび〔傍・あ=管絃〕をぞし給ふ。人々
かたはらいたしと、きゝけり。みかど、うば君のもとをおぼして、
  雲のうへも なみだにくるゝ 秋の月
  いかですむらん あさぢふのやど
月日へて、わか君参り給ぬ。きよらにおよずけ給へば、
いとゆゝしうおぼしたり。あくる年の春、一の宮春宮に

【現代語訳】
祖母君(「桐壺の更衣」の母)の話や若君(光源氏)のことなどを話して、贈物を
見せると、帝は次のように和歌を詠みました。
〈帝〉
  たづねゆく まぼろしもがな つてにても
  玉のありかを そことしるべく
第一皇子の母、「弘徽殿女御」は、ここしばらく帝の側に呼ばれ
ないので、月の美しい夜に合奏をして遊んでいます。殿上人や女房たちは、
「具合の悪いことだ」と、その合奏の音を聞いています。帝は、祖母君(「桐壺の更衣」の母)の生活を心配して、次のように和歌を詠みました。
  雲のうへも なみだにくるゝ 秋の月
  いかですむらん あさぢふのやど
月日が過ぎて、若君(光源氏)が宮殿にやってきました。美しく成長したので、
神につれていかれたりしないかと大変不安に思われました。翌年の春、第一皇子が東宮に


〔7・オ〕
【翻刻本文】
さだまり給ふにも、此君をひきこさまほしうおぼせど、
世のうけひくまじき事を、はゞかり給て、色にもいで
させ給はず。彼うば君、なぐさむかたなきゆへにや、うせ
給ぬれば、又これを、かなしびおぼす。若君七つに
成給へば、文はじめせさせ給て、御がくもんはさる物にて、
琴笛のねにも、雲井をひゞかし給へり。其比こまう
どのさうにん奉りて、此君のざえかしこく、かたちの
きよらなるにめで奉りて、ひかる君とつけ奉り、を
くり物ともさゝげけり。此君をたゞ人にはあたら
しけれど、源氏になしたてまつるべくおぼしをき
てたり。

【現代語訳】
決まったときも、帝は、「光源氏」に第一皇子を越えさせたいと思いましたが、
世間が納得しないことだと、遠慮して、表情にも
出しません。あの祖母君(「桐壺の更衣」の母)は、心を慰めることもなかったからでしょうか、亡くなって
しまいましたので、またしても帝は、悲しいことだとお思いになります。若君(《光源氏》)は《七歳》に
なりましたので、読書始めの儀式をして、勉強はいうまでもなく、
琴や笛といった楽器もよくできて、宮殿の人々を驚かせました。そのころ《高麗
人の相人》がやってきて、この若君(《光源氏》)の学問の才能がすぐれていて、《容姿も
美しい》のをほめたたえて、「光る君」と名付け、
贈物などを差し上げました。帝は、この「光る君」(光源氏)を皇族から外すのは惜しい
けれど、源氏の名字をつけて、臣下にするように決め
ました。


〔7・ウ〕
〈絵2〉 光源氏七歳のときに、迎賓館で、光源氏が高麗の相人に占いをしてもらっているところ


〔8・オ〕
【翻刻本文】
年月にそへて、御休所の御事わすれさせ給はず、
御心なぐさむかたなし。先帝の四の君、御かたちすぐ
れ給へる事を、ないしのすけ、そうして奉らせ給へり。
〔割・其を藤つぼと/申也〕昔の御休所によく似給て、人のきは
もまさり給へば、をのづから御心うつりにけり。源氏
の君は、みかどの御あたりさり給はねば、藤つぼにも
しげくわたり給ふ。光君に立ならび、御おぼえもとり
/゛\なれば、かゞやく日の宮ときこゆ。源氏の君、十二
にてげんぶくし給ひ、ひきいれの大臣の、みこばら
の姫君を、そひぶしにとさだめ給ふ。〔割・其あふひの上也〕

【現代語訳】
年月が過ぎても、帝は、「御息所」(桐壺の更衣)のことを忘れることがなく、
心をなぐさめることもできません。前の天皇の四番目のお姫さまで、見た目がとても美しい
ということを、「典侍」という女官が、主人である帝に伝えました。
〔その人を、「藤壺」といいます。〕昔の「御息所」(桐壺の更衣)によく似ていて、身分
も高いので、帝は、「藤壺」に自然と気持ちが移っていきました。源氏
の君(光源氏)は、帝の近くから離れないので、「藤壺」のところにも
《帝》と一緒によくついていきます。光る君(光源氏)と「藤壺」は、《帝》にそれ
ぞれにとても愛されているので、「藤壺」のことを「光る君」に対して「輝く日の宮」とも呼びました。源氏の君(《光源氏》)は、《十二歳》
で《元服》と呼ばれる成人式をして、「《引き入れの大臣》」(《左大臣》)の娘で、皇女の母親をもつ
お姫さまを、妻にすることが決定しました。〔その妻が「葵の上」です。〕


〔8・ウ〕
〈絵3〉 光源氏十二歳のときに、宮殿で光源氏が元服の儀式をした場面


〔9・オ〕
【翻刻本文】
〈御〉いときなき はつもとゆひに ながきよを
  ちぎるこゝろは むすびこめつや
左大臣御返し。
  むすびつる 心もふかき もとゆひに
  こきむらさきの いろしあせずは
左のつかさの御馬、蔵人所の鷹すへて、給り給ふ。
みはしのもとに、上達部みこたちつらねて、ろく
どもしな/゛\に給り給ふ。その夜、おとゞの御里に
源氏の君まかでさせ給ふ。〔割・源は十二才/あふひは十六也〕おとゞの子蔵人
少将には、右大臣殿の四の君をあはせ給へり。源氏
の君は、うへのつねにめしまつはさせ給へば、心やすく

【現代語訳】
〈帝〉
  いときなき はつもとゆひに ながきよを
  ちぎるこゝろは むすびこめつや
「左大臣」は返事として次のように歌を詠みました。
  むすびつる 心もふかき もとゆひに
  こきむらさきの いろしあせずは
左馬寮という役所が所有する馬に、蔵人所という役所が所有する鷹を添えて、「左大臣」にあげました。
宮殿の階段のところに、上級の貴族や親王たちが立ち並んで、引出物
などを位に応じて帝からもらいます。その夜、「左大臣」の自宅に
源氏の君(光源氏)は行きました。〔「源氏の君」(光源氏)は十二歳、「葵の上」は十六歳です。〕大臣(左大臣)の息子の「蔵人
少将」は、「右大臣」の四番目のお姫さまと結婚することになりました。源氏
の君(光源氏)は、帝がいつも自分の側近くにいさせるので、ゆっくりと


〔9・ウ〕
【翻刻本文】
里ずみもし給はず。藤つぼの御ありさまをたぐ
ひなしとおぼし、さやうならん人をこそ見め、にる
ものなくもおはしけるかなとおぼせば、おほいどのゝ
君には心もつかず。おとなになり給てのちは、有
しやうにみすの内にもいれ給はず。御あそびの
おり/\、ことふえのねにきゝかよひ、ほのかなる御
こゑなぐさめにて、内ずみのみこのましうおぼえ給ふ。

【現代語訳】
「左大臣」の家に落ち着くことができません。「光源氏」は、「藤壺」のことを世の中に
めったにないものと思って、「藤壺」のような女性と結婚したい、「藤壺」と似ている
女性もいないなあと思うので、「大殿の
君」(葵の上)とはあまり親しく思いません。大人になってからは、子供
の時のように「藤壺」と同じ御簾の中にも入れません。合奏をする
時々に、琴や笛の音色に気持ちをこめ、かすかにもれてくる「藤壺」の
声を慰めにして、「光源氏」は宮中でばかり過ごしています。
 
 
 

2010年7月14日 (水)

井上靖卒読(112)『四角な船』

 築地の料亭での宴会から始まります。そして、やがて銀座へと場所が移る、井上靖のいつものパターンです。
 早速、「ううむ」と唸る男として、丸子東平が登場です。その後も、行き詰まったり考え込んだりすると、「ほう」とか「うむ」と唸ります。運転手は、「よおし」と唸ります。言い合いで劣勢になると、唸ります。同僚も、古代文字を見て、「ふむ」と唸ります。

 十日後に取り壊される佐渡の旅館の女中が、とても生き生きと描かれています。乱暴な喋り方に、いい味が出ています。このぶっきらぼうさに、かわいさが滲んでいます。描写の妙といえるでしょう。

 佐渡の海岸で、淡々と網の修理をする眼の見えないおばあちゃんも、印象的です。私の母と同じように、無心に生きている姿が、うまく描かれています。

 銀座四丁目に近いところにあるR屋で、ステーキを食べます。いつも通るところなので、この店が実際はどこだったのか、いつか調べてみたいと思います。

 ノアのハコ船を造る比良山中の山小屋へ行くときは、満月の中でした。洪水のときにも、悠久とか永劫を感じさせ月がハコ船の上に照るとも言っています。ただし、ラストシーンの琵琶湖岸では、月はでていません。

 お話の最後は、井上靖が得意だった童話風になります。そして、思いがけない結末。
 本当に狂っていたのは誰なのか、社会と人間のありかたに、自ずと眼が向きます。

 人を弔う巻末は、『星と祭』の最後のように感動的です。

 荒唐無稽な話で語られる小説です。風刺小説と、作者自身が言っていた作品です。真実みに欠ける話の展開なのに、そこかしこに現実の矛盾が感じ取れます。不思議な味の作品です。【3】
 
 
 
初出紙︰読売新聞
連載期間︰1970年9月16日〜1971年5月16日
連載回数︰239回
 
 
新潮文庫︰四角な船
井上靖小説全集31︰四角な船
井上靖全集20︰長篇13
 
 
〔参照書誌データ〕
 井上靖作品館
 http://www2.plala.or.jp/baribarikaniza/inoue/

2010年7月13日 (火)

『源氏物語』の研究集会へのお誘い

 本年9月25日(土)に、國學院大學において、下記の研究集会を開催します。
 ご案内を兼ねて、お知らせいたします。
 (ポスターやチラシは、全国の大学等にお送りしました。)
 
 
 
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 これは、本年度からスタートした

「科学研究費補助金基盤研究(A)「日本古典籍における【表記情報学】の基盤構築に関する研究」(国文学研究資料館)代表者:今西祐一郎」

と、本年が最終年度となる

「科学研究費補助金基盤研究(A)「源氏物語の研究支援体制の組織化と本文関係資料の再検討及び新提言のための共同研究」(國學院大學)代表者:豊島秀範」

が、『源氏物語』の本文をテーマとして開催する合同研究集会です。

 『源氏物語』の本文に関して、さらなる関心を持ってもらおうとの意図のもとに、午前と午後にわかれて、『源氏物語』の本文についての講演と研究発表および提言をおこなうものです。

 『源氏物語』の本文研究は、ほんの一部の研究者が地道に取り組んでいるのが実情です。
 大事な基礎研究にもかかわらず、〈物語〉の本文が敬して遠ざけられています。
 そうした現状に対して、『源氏物語』を読もうとするこれからの人たちに、警鐘と喚起を呼びかけたいと思います。
 若い研究者に、古写本についての新たな興味と関心を持ってもらいたいものです。
 『源氏物語』の本文には問題点が多いということに、一日も早く気づいてもらいたいと思っています。

 今回の研究集会での話題は、『源氏物語』の本文研究の最先端のものであり、最新情報になると自負して、私も事務方に徹して準備を進めています。

 会場は、少し広めの部屋を用意しました。入場は無料です。
 お誘い合わせの上、一人でも多くの方のご参加を、お待ちしています。

 この日一日で、『源氏物語』の本文についての〈これまで〉と〈これから〉がわかります。

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タイトル︰源氏物語本文研究の新たな流れ

日時︰2010年9月25日(土)10:00〜17:00
場所︰國學院大學・常磐松ホール
午前の部︰10:00〜12:30
 1 【表記情報学】の構築  司会:中村一夫(国士舘大学)
  開会の辞  伊藤鉄也(国文学研究資料館)
■基調講演1■
  今西 祐一郎(国文学研究資料館・館長)
  【表記情報学】としての源氏物語研究

    正徹本源氏物語のデータベース化 伊藤鉄也(国文学研究資料館)
    花散里諸伝本における文字の使用状況 斎藤達哉(専修大学)

午後の部︰14:00〜17:00
 2 源氏物語の本文研究  司会:上野英子(実践女子大学)
■基調講演2■
  名和 修(陽明文庫・文庫長)
   近衛家の源氏物語

    源氏物語本文の特質 豊島秀範(國學院大學)
    河内方の源氏物語 田坂憲二(群馬県立女子大学)

  閉会の辞  豊島秀範(國學院大學)

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2010年7月12日 (月)

心身雑記(58)楽だった口からの胃カメラ

 毎年夏の行事と化した人間ドックに行ってきました。
 今年は昨年と同様に、インド大使館の隣の九段坂病院です。
 皇居・北の丸のお濠には、蓮がみごとに咲いていました。
 急に小雨が降りだし、風もきつくなりました。
 今月の東京は、キーン先生の講演の前日以外は、ずっと雨です。
 写真の右上に、日本武道館の屋根が見えます。
 
 
 
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 昨年のことは、「心身(39)半日の人間ドック」に書きました。
 ただし、その後半に胃の中の写真を公開していますので、この手の写真に弱い方は、読むのは中盤までにされたらいいかと思います。

 なお、そこに記した予言の2つ目の私の寿命は、1年減って後4年となりました。

 そこで、前回と同じ趣旨で、今回も写真を掲載します。
 
 
 
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 右上が、切除した胃と腸の縫合部分です。
 右下の壁面の何カ所かに、出血が認められます。
 ストレスの多い仕事ですか、と聞かれました。
 今回も、念のためということで、細胞組織を検査のために摘出されました。

 口からの胃カメラは苦手でした。苦しくて、涙が止まらなかったのです。
 しかし、鼻からの胃カメラが予想外に楽だったので、一時は鼻から検査をしてもらえる病院に行きました。しかし、口からの技術も進歩し、また麻酔もうまくなったようで、今回の口からの検査は快適でした。
 ただし、余分に腕から麻酔を注射してもらい、ボーッとした状態を意図的に作ってもらいました。私は、どうも過敏に反応するので、可能な限り楽にしてもらっています。

 目の前のモニタを見ながら、先生が丁寧に説明してくださるのです。ノドをカメラのケーブルが前後に通過しているのを忘れるほど、痛くも痒くもない検査でした。
 過敏な私に気を遣ってくださったスタッフのみなさま、ありがとうございました。

 人間ドックの検査項目をすべて終わり、最後は問診でした。

 今日の段階で見る限りでは、糖尿病以外は、ほとんど問題がないそうです。
 血糖値は、ヘモグロビンA1c の値が、昨年の6.6から6.4に、少しだけでしたが下がっていました。
 5.8が目標値なので、まだまだです。6.0を目指して、さらによい結果を、との励ましをいただきました。とにかく、数値的には悪くなっていないようなので、今後とも1500キロカロリーという食事制限を意識した生活を送ることにします。
 見よう見まねで続けている、いわば我流の食事制限です。寿命をもう少し先に追いやるためにも、食事への心掛けは、これまで以上に気を付けたいと思います。

 私と食事を共にしてくださる方。いろいろと面倒なわがままを言ってすみません。これも、一日でも長く生きたいためです。ご理解いただければ幸いです。
 
 
 

2010年7月11日 (日)

京洛逍遙(151)選挙スローガンの「商都・平安京の復活」

 今日は参議院議員選挙の投票日でした。
 過日、サーバーのクラッシュにより消失した、「【復元】こんな不在者投票でいいのでしょうか?」(2010年6月23日)という、5年前の記事を復元掲載しました。
 日本の不在者投票があまりにもいいかげんに行われているので、その後は自分で投票所に脚を運ぶようにしています。

 選挙期間中、さまざまなポスターが街中に貼られていました。
 その中の一つに、ある政党の衆議院議員の方の応援ポスターに「商都・平安京の復活!」というフレーズがありました。
 
 
 
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 私は、この「商都・平安京」ということばに違和感を覚えました。

 この方の公式ホームページを見たところ、こんなスローガンが手書き(手書き風フォント?)で掲示されていました。
 
 
 
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 ここに書かれているように「世界中のヒト・モノ・資本が集まる」ということになると、いったい京都はどうなってしまうのでしょうか。東京よりももっともっと酷い、とても人間が住めるような街ではなくなることでしょう。「世界平和都市のモデル」どころか、人種差別と貧困の坩堝と化すことは必定です。
 京都が守り伝えてきた歴史・文化・伝統は、無残にも「世界中のヒト・モノ・資本」によって徹底的に破壊されることでしょう。この衆議院の方には、京都の人々がこれまで地道に守り伝えてきた努力が見えず、時代錯誤の戯画しか思い及ばないようです。

 それはともかく、この方のメッセージで、「平らかに千年続いた商業都市です。」という京都への認識は、果たしてどこからくるのでしょうか。そう思ってホームページを見ました。しかし、無味乾燥の平板な日本語しか並んでいません。

 極めつけは、この方が「京都の真ん中から政権交代!」と叫んでおられることです。
 あれ? この方は何党に属しておられるのか、頭が混乱します。
 古いホームページを、今もそのまま流しておられるようです。世の中、日々に変化していることには無頓着な方のようです。
 別のところでも、政権を担ったことがないことが強調されています。「まず○○党が政権を獲り」などという文言は、そろそろ書き換えたらどうでしょうか。
 もっとも、今日の参議院議員選挙の結果次第では、このままでも大きな間違いではないことになるのかもしれませんが……。そして、来年には、この政権獲り宣言が、また使える雲行きに、今日の参議院選挙の結果はなっています。

 それにしても、何とも平和で脳天気な国会議員さんです。
 自分が政権政党の一員であることの自覚もなく、相変わらず政権交代を叫んでいる低レベルな国会議員を抱えるこの政党も、内情はなかなか大変なようです。
 こんな人が、国から給料をもらって安穏とした生活をしておられるのですから、国民はもとより、京都の人々は舐められたものです。まさに、税金泥棒です。このような議員こそが仕分けの対象でしょう。

 「政策・理念」のセクションで「平安京復活には、京都の魅力をPRする平成版・洛中洛外図、……が必要です。」とあります。
 なぜ?、そしてその「平成版・洛中洛外図」はどんなものなのでしょうか。
 現在、京都に氾濫する観光案内図などで、さまざまな趣向を凝らしたイラストや絵図があります。あれと、この「平成版・洛中洛外図」とは、どこがどう違い、そこにはどのような視点と主義主張が盛り込まれているのでしょうか? 
 このホームページには、「平成版・洛中洛外図」に関して、具体的なことは何も書かれていません。
 と言う前に、この方にこのようなことを聞くことが失礼というものでしょう。

 この方のブログも拝見しました。
 まずビックリしました。最新記事が「2010/08/10 18:30」になっているのです。
 これって、「7月10日」のまちがいではないでしょうか。
 しかし、今日(11日)現在、「月別アーカイブ」の7月は7件、8月が1件なので、自動的な振り分けがなされているとしても、かえってますます混乱します。最近のブログ用のソフトウェアもよくなり、現在時刻より後の記載がなされている情報は、公開されずに、その時間が来るまでサーバー側に保存されています。
 私が利用しているイオ・ブログでもそうです。今発信するのではなくて、いずれ公開するつもりのものは、何日か、何ヶ月か先の日時で保存すれば、その時まで公開されません。私も、この機能を活用している一人です。
 どうやら、この方が使っておられるブログのサーバー用ソフトウェアは、あまり完成度の高いものではないようです。1ヶ月先の日時と時間がそのまま表示されて、今公開されているのですから。酷いソフトウェアを使っておられるのです。
 この衆議院議員の方は、もしくは側近の方は、時間意識が欠落した、大らかな方なのでしょう。

 この方のホームページとブログを拝見する限りでは、どうやら、「商都・平安京の復活!」というスローガンは、完全に失速した死語と化しています。

 この方の幻想まがいの情報発信はさておき、一応、「商都」ということばを確認しておきましょう。

 辞書には、当然のことながら「商業の盛んな都市。商業都市。」という意味が掲載されています。
 英和辞典には「a commercial [a business] city」とありました。

 『町人の都 大坂物語 ―商都の風俗と歴史』(渡辺忠司、中公新書、1993/09)という本があります。
 「商都」は「大阪」と結びつくことが多いようです。
 私のブログでも、「商都散策」というセクションを設定しています。ここでの「商都」とは「大阪」のことです。

 歴史的には、日明貿易や南蛮貿易などで知られる堺市なども、「商都」というイメージにはまります。
 近江商人の発祥の地である滋賀県近江八幡市も、「商都」のイメージがあります。

 いろいろとネットを見ていたら、「よなご商都まつりinだんだんエリア」が平成19年10月に鳥取県の米子市で開催されていました。日本国内には、いくつか商都と呼ばれる、あるいは呼んでいる街があるようです。
 海外に眼を向けると、「商都ムンバイ」というものを筆頭に、香港やニューヨークもそう呼ばれているようです。

 さて、「商都」「平安京」「復活」ということばの取り合わせについてでした。

 ここでは、一政治家が無責任な思いつきで「京都復活を称えるためのスローガン」として参議院議員選挙のポスターに印刷しただけの内実を伴わない文字列、ということにしておきましょう。
 現職の衆議院議員が、絵空事を選挙ポスターとホームページで称えていたことを、ここに明らかにしてみました。

 複雑な思いで、今、今日の参議院選挙の速報を見ています。
 
 
 

2010年7月10日 (土)

京洛逍遙(150)新大宮通りのそば寿司

 四条河原町の高島屋7階に「ダイニングガーデン 京回廊」があります。
 その中に蕎麦屋さん「本家 尾張屋」がありました。ここに、そば寿司があるというので、入ってみました。
 
 
 
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 予想と違い、そば寿司に酢が使われていません。ダシに酢気があるのでしょうか。
 いずれにしても、期待外れの味でした。単なる、そばの海苔巻きという感じです。
 尾張屋さんは、三条から四条にかけて何店かあるので、折を見て覗いてみたいと思います。

 どうもスッキリしないので、いつも行く新大宮商店街の「そば鶴」さんへ行きました。
 このおそば屋さんのことは、本ブログの「「楚者鶴」の「そば寿司」」(2009年12月29日)で紹介しました。

 このお店の大将に、そば寿司のことを聞きました。
 
 
 
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 お話を聞いていて驚いたのですが、ここが一番おいしい理由がわかりました。どうやら、京のそば寿司は、ここの大将が元祖のようです。
 もう40年近くこの世界におられる大将は、茶懐石料理をなさっていた方でした。
 そして、千本通りの蕎麦屋にいて、5年前にこの新大宮商店街に店を持たれたのです。
 そして、研究熱心な方のようで、いろいろなことに挑戦しておられるのです。

 まずは、そば作りから。
 最初は自分でそば粉を打っておられたのですが、効率とおいしさから機械で打つようになったそうです。そばは温度が決め手なのです。そのためには、手でそば粉を捏ねている内に、しだいに温度が上がります。それでは、おいしいそばを打つのは難しいそうです。
 手打ちは、パフォーマンスとしてはいい見せ物です。それらしい雰囲気が感じられます。しかし、それと打ち上がったそばの味とは別問題のようです。

 そこで、大将は機械打ちに変わられたのです。機械では5対5が普通ですが、大将は試行錯誤の末、2対8のそばが打てるようになったのです。そのきっかけは、たまたま機械を止めるタイミングが遅れたことからだとか。
 このことでは、いろいろと取材を受けておられ、全国各地から問い合わせがあるようです。
 そして、この大将に教えてもらったやりかたで、各地でそば寿司が作られているのです。特に京都は。

 そば寿司についても試行錯誤があり、玉子焼きと海苔の間に何を挟むか等々、苦労があったのです。ゼラチンを間に挟んだりしたとか。
 そして、今の形があります。そばのよさと、海苔の歯触りが、微妙なバランスをとるのです。
 とにかく、探求心旺盛な大将です。

 また、そばは茹でてから5分が勝負のようです。
 この大将も、神経質なまでにタイマーと闘っておられました。
 さらには、茹でる上でも、極意がありました。
 小鍋で茹でるのです。これは、茹でるお湯の新鮮さを重視するやり方です。常に熱いお湯を釜に用意しておきます。この釜では茹でません。注文を受けてから、そのお湯を小鍋に移し、そこで改めて茹でるのです。早くて美味しいそばが茹で上がります。
 小さな店ならではの、計算されたおそばのできあがりです。
 
 その横で、ニコニコしながら寄り添って手伝っておられる奥さんの和やかな表情が、とてもいい夫婦に見えました。
 お二人のツーショットは、あまりの仲の良さに、タイミングを逸してしまいました。また次の機会にしましょう。
 
 
 
 

2010年7月 9日 (金)

雨男キーン先生とポルトガル語訳『源氏』

 昨日、「明日は、雨にならないことを祈ります」と書きました。
 その祈りも空しく、本日のドナルド・キーン先生の講演が終わると、それまで何とかもっていた曇り空が、ついに雨になっていました。
 4年前におこなわれたキーン先生と伊井春樹先生との対談の折、キーン先生は自分は雨男だとおっしゃっていました。その通り、あの日の帰りに雨が降りました。そして今日も。

 今日は、主催・人間文化研究機構、後援・文部科学省による、「第12回公開講演会・シンポジウム」が、有楽町朝日ホールで開催されました。会場は、500人以上もの聴講者でギッシリと埋まっていました。
 テーマが「知の役割 知のおもしろさ —人間文化研究のめざす道を考える」という固いものだったので、どれだけの人が集まるのか心配でした。しかし、それは杞憂でした。テーマのせいもあるのでしょうか、比較的年齢層が高かったように思います。

 キーン先生のお話は、今日もウイットに富んだ語り口で、ユーモアを交えながら会場を沸かせて語り進められました。
 アメリカの家で中国の食事をして奥さんは日本人、というのが極楽なのだそうです。
 そして、中国の家で日本の食事をしてアメリカ人の奥さんというのは地獄だとか。
 会場は笑いの坩堝と化していました。日本の料理に味がない、ということからの例え話でした。

 語られるエピソードの一つ一つが、ついニヤリとさせられるのです。

 そんな中で、キーン先生が最近ポルトガルへ行かれたときの話が、私の耳を釘付けにしました。
 それは、ポルトガル語訳『源氏物語』が、現地でよく売れていた、という話なのです。

 1週間前に、「ハンガリー語訳『源氏物語』の新情報が届く」という話を本ブログに書きました。

 そこでは、ハンガリー語訳『源氏物語』が入手できることとなったために、未確認の『源氏物語』の翻訳本に関して、あとは「オリヤー語(インド)・ヘブライ語・ポルトガル語」の3種類だ、と書きました。
 それが、今日のキーン先生のお話によると、ポルトガル語訳『源氏物語』が確かにある、ということなのです。
 これは早速、調査をしなければなりません。

 もし、このポルトガル語訳『源氏物語』に関する情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ご教示のほどを、どうかよろしくお願いします。
 
 

2010年7月 8日 (木)

消失したブログの見出しリスト

 平成19(2007)年3月に、当時利用していたレンタルサーバーがクラッシュしたことにより、それまで公開していた記事がすべて消失したことは、何度かここに書きました。
 以来、無くなったブログの記事を、折を見て可能なものは復元して掲載しています。

 2007年1月元旦から3月10日までの記事については、「3月にクラッシュした題目」(2007年11月14日)として、そのタイトルの一覧を公開しました。
 
 『Mac Fan』という雑誌(2010年7月号)に「消えてしまったWEBサイトを探索」という記事があったので、そこに紹介されている「インターネット・アーカイブ」で、この昔のサイトを新たに探してみました。
 
 その結果、上記の記事に加えて、以下の題名をつけて公開した記事があったことがわかりました。その内容は、残念ながら拾い出すことができませんでした。
 ここに、そのリストを公開します。

 以下の2006年9月17日から12月31日までと、上記の2007年1月元旦から3月10日までの記事に関して、もし運良く保存・記録しておられる方がいらっしゃいましたら、お手元のテキスト部分をお知らせ願えませんでしょうか。写真は、手元にありますので不要です。

 何がなくなったのかがわかっただけでも、少し気持ちが安らぎます。
 私のブログは、そんなに大したことを書いているものではありません。しかし、日々の暮らしの中での想いを綴ったものなので、愛着があります。また、読み返したい記事もあります。

 明日(2010年7月9日)、有楽町マリオンでドナルド・キーン先生の講演があります。
 消失した記事の中には、「やはりキーン先生は雨男でした ( 5-読書雑記 ) / 06-12-14 23:26 —インタビューが終わると突然の雨に—」というものがあります。あれは、キーン先生と伊井春樹先生との対談のお供をして、ホテルの一室で長時間お話を伺ったことを記したものです。その記事と共に掲載した写真は手元にあり、こんなものです。
 
 
 
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 それにしても、今日は連日の雨の中休みでした。明日は、雨にならないことを祈ります。

 また、今回見つかったリストによると、「ドナルド・キーン先生のこと ( 1-古典文学 ) / 06-11-30 23:46 『日本との出会い』を読んで—」というのもあったようです。まったく、今その内容は思い出せません。
 明日、キーン先生に久しぶりにお目にかかるだけに、あの時の記事を読みたくなってきます。

 失われたテキスト探しに、ご協力いただけると幸いです。
 
 

京洛逍遥(10)京の台所・錦市場 ( 9-身辺雑記 ) / 06-12-31 21:49
  —京のにぎわいと活気を求めて—

私の2006年の10大出来事 ( 9-身辺雑記 ) / 06-12-30 02:29
  —1年間の記録として—

女性の身だしなみとは ( 9-身辺雑記 ) / 06-12-29 23:28
  —化粧に関する意見の紹介—

井上靖卒読(5)その人の名は言えない ( 5-読書雑記 ) / 06-12-29 22:20
  —わがままなヒロイン—

井上靖卒読(4)春の嵐 ( 5-読書雑記 ) / 06-12-28 16:45
  —若者たちの明るさが印象的な物語—

病院での簡単な検査 ( 4-健康生活 ) / 06-12-28 02:26
  —脳梗塞の恐れは保留—

右手小指の異変 ( 4-健康生活 ) / 06-12-20 01:12
  —真っ白になった指を見つめて—

古都散策(23)歌姫の神功皇后陵 ( 1-古典文学 ) / 06-12-17 12:00
  —陵墓を守る建物はクーラー付き—

即日返品したハードディスクケース ( 3-文房四宝 ) / 06-12-15 23:46
  —開封後すぐにわかった不良品—

やはりキーン先生は雨男でした ( 5-読書雑記 ) / 06-12-14 23:26
  —インタビューが終わると突然の雨に—

井上靖卒読(3)通夜の客 ( 5-読書雑記 ) / 06-12-13 23:28
  —何度読んでも中身が思い出せない—

井上靖卒読(2)闘牛・比良のシャクナゲ ( 5-読書雑記 ) / 06-12-12 23:21
  —芥川賞受賞作と『星と祭』の原点—

メインパソコンが壊れる ( 3-文房四宝 ) / 06-12-11 23:50
  —素早い対応のアップル—

井上靖卒読(1)猟銃 ( 5-読書雑記 ) / 06-12-11 01:36
  —作者と読者の間にあるもの—

回転寿司の魅力 ( 7-お寿司 ) / 06-12-10 23:01
  —画期的な品質管理—

古都散策(22)秋篠寺で気分一新 ( 1-古典文学 ) / 06-12-09 18:22
  —またのお越しをと伎芸天—

古都散策(21)行基ゆかりの喜光寺 ( 1-古典文学 ) / 06-12-09 16:36
  —インドの香りを感じます—

クロネコヤマトの社員教育に疑問 ( 9-身辺雑記 ) / 06-12-09 12:11
  —玄関に放置された荷物—

古都散策(20)菅原天満宮 ( 1-古典文学 ) / 06-12-04 23:45
  —菅原道真の生まれた所—

ホテル日航奈良の社員教育に疑問 ( 9-身辺雑記 ) / 06-12-03 23:54
  —不愉快な従業員のマナーの悪さ—

ドナルド・キーン先生のこと ( 1-古典文学 ) / 06-11-30 23:46
  —『日本との出会い』を読んで—

古都散策(19)生駒竹林寺 ( 1-古典文学 ) / 06-11-27 00:59
  —行基の墓を守る人々—

京洛逍遥(9)消失後の再生寂光院 ( 1-古典文学 ) / 06-11-26 11:38
  —明るい活気のある山里に変身—

京洛逍遥(8)大雲寺はマイペース ( 1-古典文学 ) / 06-11-26 00:14
  —『源氏物語』などとの接点を持たないお寺—

京洛逍遥(7)東寺の「食堂」 ( 1-古典文学 ) / 06-11-26 00:02
  —それでは「御影堂」はどう読むか—

京洛逍遥(6)海住山寺の小仏たち ( 9-身辺雑記 ) / 06-11-25 07:01
  —ユーモラスなお地蔵さんに何を祈る—

京洛逍遥(5)海住山寺の黄葉と紅葉 ( 1-古典文学 ) / 06-11-24 18:59
  —木の葉が織りなす自然の絵画—

京洛逍遥(4)山城木津の和泉式部 ( 1-古典文学 ) / 06-11-23 23:33
  —無住寺でひっそりと守られているお墓—

手紙と電話代わりのEメール ( 3-文房四宝 ) / 06-11-22 01:25
  —見知らぬ女性?からの膨大な迷惑メール—

京洛逍遥(3)洛北の和泉式部 ( 1-古典文学 ) / 06-11-20 23:50
  —貴船神社の蛍岩に光の珠が舞う—

京洛逍遥(2)宇治市植物公園 ( 1-古典文学 ) / 06-11-18 23:52
  —草花で描いた源氏物語タペストリー—

京洛逍遥(1)城南宮の曲水宴 ( 1-古典文学 ) / 06-11-16 01:59
  —源氏物語の庭での雅な歌会—

ニューヨークの回転寿司屋(続報) ( 7-お寿司 ) / 06-11-15 23:54
  —鉄火:$1.50 は良心的ですね—

大黒屋光太夫のこと ( 5-読書雑記 ) / 06-11-14 20:12
  —井上靖と吉村昭の小説—

ニューヨークの回転寿司屋 ( 7-お寿司 ) / 06-11-14 18:45
  —速報をもらって—

法律家と恋の限界 ( 5-読書雑記 ) / 06-11-14 18:08
  —「孤悲」のない「恋」しか見えないこと—

小説『トリアングル』のすすめ ( 5-読書雑記 ) / 06-11-13 23:57
  —映像は原作を超えられなかった—

日本語の表記にとまどう ( 6-不可解 ) / 06-11-12 16:13
  —「三味」を「ざんまい」と読んでしまった—

「TANNKA 短歌」は国策映画か ( 9-身辺雑記 ) / 06-11-11 17:18
  —女性よ産めよ増やせよのメッセージ—

トラブルの中での約束の重み ( 2-国際交流 ) / 06-11-10 23:56
  —万難を排してエジプトから来日—

冗談としか思えないキーボード ( 3-文房四宝 ) / 06-11-05 07:16
  —キー配列のズレに戸惑うばかり—

なんと平群に観光バスツアーが!! ( 9-身辺雑記 ) / 06-10-31 23:48
  —まほろばの里の紅葉をどうぞ—

未熟な技術にどこまで付き合うか ( 3-文房四宝 ) / 06-10-24 23:40
  —Mac-mini のシステムが壊れる—

またまた欠陥商品に当たりました ( 3-文房四宝 ) / 06-10-13 20:13
  —1ヶ月でハードディスクが壊れたノートパソコン—

ワインレッドは禁色なのでしょうか ( 3-文房四宝 ) / 06-09-29 01:47
  —私だけではなかった染色問題—

財布や手帳を選ぶ贅沢な時間 ( 3-文房四宝 ) / 06-09-28 00:01
  —日本の製品でも油断は禁物—

奈良のお寺の薬膳料理とその商品化 ( 4-健康生活 ) / 06-09-17 05:32
  —本格と創作で二倍楽しんだ後、お団子を食べる—

     

2010年7月 7日 (水)

京洛逍遙(149)賀茂川畔の欅並木

 井上靖の『欅の木』を読んだことにより、欅の木について興味が湧きました。
 京都の欅は元気だろうか、と。

 早速、京都のど真ん中を南北に走る堀川通りに行ってみました。
 堀川北大路から上賀茂神社に向かって北上すると、立派な欅並木が眼に飛び込んで来ます。
 
 
 
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 これまでは意識しなかった欅並木です。しかし、『欅の木』を読んだ後は、見る目が違っています。オオーッ、と思わず声が出ます。

 毎週ウォーキングをする自宅横の賀茂川に出ると、これまた欅がたくさんスックと立っているのです。これまでは、何とも思っていなかった木たちです。
 来月のお盆には送り火で夜空を焦がす大文字を望むと、自ずと欅が立ち並んでいることに、改めて気づかされました。
 
 
 
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 自宅のそばの信号から植物園を見やっても、欅が仁王立ちしています。
 
 
 
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 いつも見慣れた風景なのに、欅が意識されるようになると、また違った景色に見えてきます。不思議なものです。

 その手前の、賀茂街道沿いの欅を見上げました。
 
 
 
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 人間とは異なる時の流れを生きる欅の、その無心な姿と生命力に、言いしれぬ力をもらった気がします。

 何でもなかった景色が、何でもない自然の営みの中に、とても意味ありげに見え出したのです。そして、この欅の木たちと話ができるのでは、と思うようになりました。なにげなく生きている日々の中に、一本の木と語り合えるような気がしてきました。

 還暦に近いこの歳になって、ほんの少しだけですが、成長したように思います。

 こんな気持ちにさせてくれた井上靖に感謝します。
 
 
 

2010年7月 6日 (火)

井上靖卒読(111)『欅の木』

 主人公が自問自答します。井上靖がよく使う手法です。
 亡くなった友も、弔辞を読んだ主人公に語りかけます。
 結婚式で仲人をしたときも、式の最中、自分との問答をします。幸福とは、栄達とは……などなど。これは、『星と祭』でのスピーチへと展開していく要素が多分にあります。
 犬とも会話をします。その中で、主人公は自分を見つめ直します(365頁)。

 阿佐ヶ谷から高円寺にかけてのケヤキ巡りは、私も折を見て実現したいと思っています。かつて自分が住んでいたり、よく知っている所が出てくると、無意識に作品へ感情移入をしてしまいます。

 ケヤキを案内する安見老人は、『星と祭』に出てくる大三浦によく似た人物です(189頁、264頁、268頁)。
 後に書かれる『星と祭』は、こうしたパーツをうまく取り込んでいるのです。

 亡くなった戦友が、月光の中に立ちます。幻想的なシーンです。主人公は、亡き友と語り合うのです(198頁)。
 この戦友とのくだりは、昨年11月に公開された井上靖の戦中日記に描かれた実景を想い出しました。本ブログの「井上靖卒読(100)新発見「中国行軍日記」に見る夫婦愛」で、その日記について詳述しています。ご参照願います。
 月と言えば、月明かりの夜の修善寺があります(232頁)。
 これらも、『星と祭』に継承されます。

 そのような中で、島木赤彦の「ゆるさざる心」という随筆を引いて、人に対する厳しさを語っています。また、伊藤左千夫と長塚節とのエピソードも取り上げられています。
 小説の中で、こうした手法をとることがなかった井上は、自由に新たな挑戦をしているようです。
 テーマも、社会問題を扱います。それも、ユーモラスな要素を振りまきながら……。

 本作『欅の木』(昭和45年)は、『夜の声』(昭和42年)、『四角な船』(昭和45年)とともに、作者自らが「風刺小説」というジャンルの三部作となっています。
 残る『四角な船』を、この次に読むことにしましょう。

 なお、この小説は20年前に読んだものです。今回読み直してみて、本は読む歳によって受け取る感じが違うということに、改めて感心しました。以前は、軽く読み流したのです。それが、今回は、登場人物の戯画化に興味を持ちました。また、自然に対する井上についても、今になって着眼点が新鮮であり、忘れかけていた自然などに対する、大切な問題提起をしていることに気付きました。

 文章の軽みと、語られる内容の重みが、いい塩梅に振り分けられています。【3】
 
 
 
初出紙︰日本経済新聞
連載期間︰1970年1月3日~8月15日
連載回数︰224回
 
 
文春文庫︰欅の木
井上靖小説全集30︰夜の声・欅の木
井上靖全集20︰長篇13
 
 
 
〔参照書誌データ〕
 井上靖作品館
 http://www2.plala.or.jp/baribarikaniza/inoue/

2010年7月 5日 (月)

朴光華先生のハングル訳『源氏物語』

 『源氏物語』のハングル訳としては、これまでに次の3種類を確認しています。

(1)1975年 柳呈
(2)1999年 田溶新
(3)2007年 金蘭周

 この内、(3)は瀬戸内寂聴訳の重訳です。
 (1)も(2)も、いろいろとその翻訳に問題があるようで、なかなか日本の古典文学が韓国の方々に伝わっていないようです。
 『源氏物語』の古典本文から、丁寧にハングルに翻訳してほしいと願っていました。

 今日から、韓国の鮮文大學校の朴光華先生が、国文学研究資料館に外来研究員としてお出でになりました。
 朴先生の研究課題が「源氏物語韓国語翻訳、註釈研究」なので、私が受入担当教員となりお引き受けしたしだいです。
 館内をご案内し、開架書庫で『源氏物語』関係の本が並ぶところで、記念撮影をしました。
 朴先生は、日本では大阪大学で伊井春樹先生の教えを受けられたので、伊井先生がなさった保坂本の影印本の前で、パチリです。手には、伊井先生の分厚い研究書の1冊をお持ちです。
 
 
 
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 現在、朴先生は、『源氏物語』のハングル訳及び註釈に取り組んでおられます。
 その成果が、非売品ながら冊子の形で着実に実を結んでいます。
 最新刊の『源氏物語韓釈 —蜻蛉—』(文華 第九号、日本文学研究会、2010.1.1)の巻頭部分を紹介します。
 
 
 
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 ご覧のように、『源氏物語』の日本語本文を掲げるところに特徴があります。翻訳にあたっての底本は、『日本古典文学全集 源氏物語 六』(小学館、1989年第21版)です。
 次に韓国語訳を、そしてさらに注釈が続きます。この注釈というのが、朴先生のすごいところであり、一番苦労されているところです。
 この注釈には、『日本古典全書』(朝日新聞社)、『日本古典文学大系』(岩波書店)、『玉上琢彌評釈』(角川書店)、『日本古典文学全集』(小学館)、『日本古典集成』(新潮社)、『新日本古典文学大系』(岩波書店)の6種類が参照されています。

 おおよそ、『源氏物語』の本文が1に対して、ハングル訳が1、そして注釈が3の割合で進行していきます。場合によっては、注が数ページにわたることもしばしばです。

 この注釈作業が完成すれば、韓国における『源氏物語』の文学研究は、格段に、飛躍的に進展することでしょう。ひいては、日韓の文化交流がますます盛んになることが期待できます。

 これまでには、第1巻「桐壺」、第19巻「薄雲」、第40巻「御法」、第47巻「総角」、第4巻「夕顔」、第9巻「葵」、第14巻「澪標」、第51巻「浮舟」、そして上記の第52巻「蜻蛉」が印刷されて刊行されています。9巻分が完成しているのです。

 すでに翻訳と注釈作業が終わり、印刷を待つものは、第5巻「若紫」、第12巻「須磨」、第13巻「明石」、第53巻「手習」だそうです。そして今、第34「若菜上」に着手しておられます。

 とてつもない作業を伴う仕事なので、これまでに出来しだい送っていただいていた書冊を拝見しながら、学生との演習や研究を背景にしての成果かと思っていました。しかし、今日くわしい話をお聞きしたところ、何とお一人でコツコツとなさっているというのです。韓国の大学では、日本文学概論などしか教えていないとか。

 まさに、孤軍奮闘です。これは気の遠くなるお仕事です。

 私に出来ることがあるならば、ぜひともお手伝いしようと思い、今回、国文学研究資料館へお招きして微力ながら協力しているところです。
 もっとも、朴先生は今週末には帰国されます。1週間だけの滞在です。

 もし面会を望まれる方がいらっしゃいましたら、10日(土)には韓国に帰国されますので、お急ぎください。本ブログか伊藤宛に連絡をいただければ、面談時間の調整などをいたします。
 お住まいが韓国忠南天安市なので、ソウルから1時間以上かかるところです。朴先生に直接お目にかかれる機会は少ないので、ハングル訳『源氏物語』に興味をお持ちの方は、可能でしたらこの機会に立川に脚を運ばれ、お話をされたらいかがでしょうか。

 気さくで楽しい先生です。今夜は共に食事をしながら、関西人必見のテレビ番組「探偵ナイトスクープ」や、これまた関西人の心のフルサトである吉本新喜劇などの話で盛り上がりました。
 
 
 

2010年7月 4日 (日)

欠陥品だったACアダプタ

 毎度のことながら、また欠陥品の対応をしました。
 今度は、インターネットとIP電話に関係する、光ネットの付属装置であるAC電源アダプタです。
 
 
 
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 耐久年数が通常よりも短いため、ネットや電話が突然利用できなくなる不具合が出るものなのだそうです。こちらに選択の余地がなかった製品なので、ああそうですか、と言うしかありません。

 実際のことはわかりません。煙が出るとか、火花が飛ぶというアナウンスではありません。大事に至らない前に、製品を回収しておこう、ということのようです。
 日立製ということなので、こうした欠陥はどのメーカーでも起こることなのです。あとは、その製品を採用した会社の誠意という問題です。

 目に見えないところで使われる部品なので、利用者にはどうしようもありません。会社側の誠意に頼るだけです。
 
 
 

2010年7月 3日 (土)

ハンガリー語訳『源氏物語』の新情報が届く

 スペインの高木香世子先生からハンガリーのヒダシ先生を紹介していただいたことにより、ハンガリー語訳『源氏物語』に関する最新情報がわかりました。
 ヒダシ・ユディット先生は、神田外語大学で教えておられた方です。

 まず、1963年に出版されたハンガリー語訳『源氏物語』について。
 これは、国際交流基金の図書館にもあります。共同研究者として私をサポートしてくれている菅原郁子さんが、すでに書誌的な事項の調査を終えています。

 この事をすっかり失念しており、先日の「『源氏物語』の翻訳言語情報(2010.6.29版)」の記事の中で、「未確認」の翻訳書に入れたままでした。ここに訂正して、以下のように再度まとめておきます。

『源氏物語』の翻訳言語情報(2010.7.3版)

◆刊行されたもの 27種類◆
アッサム語(インド)・アラビア語・イタリア語・ウルドゥー語(インド)・英語・オランダ語・クロアチア語・スウェーデン語・スペイン語・スロベニア語・セルビア語・タミール語(インド)・チェコ語・中国語(簡体字)・中国語(繁体字)・テルグ語(インド)・ドイツ語・現代日本語・ハンガリー語・ハングル(韓国)・パンジャビ語(インド)・ヒンディー語(インド)・フィンランド語・フランス語・マラヤラム語(インド)・モンゴル語・ロシア語

◆現在進行中のもの 4種類◆
ウクライナ語(中断)・エスペラント(進行中)・トルコ語(出版待ち)・ミャンマー語(進行中)

◆未確認(あるらしい、というもの) 種類◆
オリヤー語(インド)・ヘブライ語・ポルトガル語

◆再挑戦が進むもの 5種類◆
イタリア語(中断)・英語(未確認)・オランダ語・フィンランド語(宇治十帖)・フランス語


 さて、ヒダシ先生のご教示によると、1963年に出版された『源氏物語』は2冊本で、総頁数は1102頁だとのことです。Bela HAMVAS による、アーサー・ウェイリーの源氏訳の重訳です。

 ただし、菅原さんの報告によると、国際交流基金にあった1963年版ハンガリー語訳『源氏物語』は、1巻(517頁)は「桐壺」〜「松風」、2巻(540頁)「薄雲」〜「幻」、3巻(557頁)「匂宮」〜「夢浮橋」を収録している、とのことでした。

 この本は、まだ私が入手できていないものです。ヒダシ先生が、これから古本屋で探してくださる、とのことなので、吉報を心待ちにしたいと思います。
 見つかり次第、再度確認したいと思っています。

 さて、今回、新たにわかったことは、2009年にハンガリー語訳『源氏物語』がブダペストで刊行されたことです。

 ネットに掲載されていた本の表紙は、次のようなものでした。
 
 
 
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 この本は、3冊本です。

 ヒダシ先生からのご教示によると、2009年出版の翻訳は、いろいろな点で、1963年版に比べてよくなっているそうです。
 ヒダシ先生からのメール文の一部を引きます。

(1)翻訳のベースはSeidenstecker の1976年の英文訳ですが、翻訳中はOscar Benl のドイツ語版、Rene Sieffertのフランス語版、 Tatyana Sokolova-Gelyusina のロシア語版や Royall Tyler の最新の英語版も参考に使われたそうです。

(2)2009年に刊行された本は、ハンガリー語においては、内容としては、初めてのフッル【完全な】翻訳だそうです。どうしてかというと、今回は800短歌も完全に詩として訳されたし、Waley^HAMVAS のバージョンでは、1.5章が抜かれたそうなので、1963年の本はより短いのです。


 この2009年版の翻訳者である HORVATH Laszlo(ホルバート・ラースロー)氏は、ヒダシ先生のお知り合いの学者だとのことです。今後とも、さらに詳しい情報を提供していただけると思います。

 ヒダシ先生のおかげで、ハンガリー語版『源氏物語』の全貌が見えてきました。
 翻訳本が手元に届き次第、また報告する予定です。
 取り急ぎ、速報ということで、今はここまでに……。

 なお、私は2005年にウィーンで開催されたEAJS(ヨーロッパ日本研究協会)で研究発表をした帰りに、ハンガリーへ立ち寄りました。そして、とある古本屋で『源氏物語』のハンガリー語訳を探しました。
 お店の人は、確か古い本があったように思うが、今ここにはない、と言われたことを思い出しました。あの時に古本屋で話題になった本が、この1963年版だったのです。
 5年の歳月を経て、こうしてヒダシ先生とメールを交わすようになり、翻訳本の姿が見えだしたのです。おまけに、昨年に新訳本が出たという情報も、幸運な出会いとともに齎されたのです。

 人とのつながりや交流のすばらしさを、改めて噛みしめています。
 
 
 

2010年7月 2日 (金)

JR石山駅の紫式部スタンプ

 JRの各駅にスタンプが置いてあります。
 それを集めるスタンプラリーの本も刊行されています。
 
 
 
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 紫式部が父の赴任に伴って行った越前の武生駅のページは、こんな感じです。
 この下に、スタンプを捺すのです。
 
 
 
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 JR宇治駅のページはこうなっています。
 
 
 
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 JR石山駅はこんなデザインです。
 
 
 
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 JR西日本のキャラクターである、かものはしのイコちゃんが、『源氏物語』とタイアップしています。

 JR石山駅へ行くと、こんな台紙にスタンプを捺してもらえます。
 
 
 
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 なかなか楽しい企画だと思います。
 各駅停車の旅が楽しくなります。
 
 
 

2010年7月 1日 (木)

年収証明書類を送っても受領の連絡がないこと

 三井住友カード株式会社から「貸金業法改正に伴う年収証明書類ご送付のお願い」という封書が届いていました。

 昨年末には、個人情報なので提出したくない旨を伝え、別の方法を尋ねました。しかし、会社から提示されたものは、いずれも、流出することが明らかな企業に渡すのが躊躇われるものばかりでした。

 結局、平成22年6月までに施行されるものなので、5月まで考えることにしました。カード会社も、年明けの春でもいいとのことでした。

 今年の3月に、再度(3度目?)の所得証明書類の送付依頼の封書が、三井住友カードから届きました。
 
 
 
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 面倒なことになるのを避ける意味で、送ったものが流出することを覚悟で、年収証明書類としての「給与所得の源泉徴収票」のコピーを返送しました。

 その後、一と月が過ぎても、何の音沙汰もありません。プライバシーに関わる情報が記載されたものを提出しているので、当然丁重な受領の連絡があると思っていました。それなのに、なしのつぶてなのです。

 三井住友カードという名前を騙る組織に騙されたのかと思い、電話で書類が届いているか確認しました。
 まず的場さんという方が電話口に出られ、いろいろな個人情報を電話口で言わされ、しばらく待たされてやっとのこと、私が送った書類が届いていることが確認されました。

 個人の大切な情報が記されたものを受け取りながら、なぜ受領の連絡がないのかを尋ねました。すると、年収が下がった方や、審査の結果で利用が停止となる人には、連絡をしている、とのことでした。それ以外の人には、特に何も連絡はしないのが、この会社の方針なのだそうです。

 人の個人情報を提出させておいて、それでカード会社として何も問題がなければ連絡をしないのは、社会通念上おかしくはないか、と問いかけると、これが当たり前のことだと思っている、との返答でした。

 それは、アメリカならいざしらず、日本ではおかしいと思う、ということを言い、今からでも受領書を送ってほしいと依頼しました。すると、しばらくしてから、今度は藤田さんという方に電話が変わり、ひたすら失礼しましたを繰り返す対応です。ややこしいことを言ってきたものには、とにかく頭さえ下げておけば、という対応です。

 そして、遅ればせながら受領書を指定の所に送付する、との回答をいただきました。その際、葉書ではなくて、封書で送ってくれるように依頼しました。
 この会社の商習慣として、プライバシーに対する配慮が埒外に置かれているように感じられたので、念のために封書でと言ったのです。わかりました、との返事でした。

 自分の源泉徴収票など、人には見せたくないものです。それを迷ったあげくに嫌々送ったのですから、それを受け取ったら、礼儀として受領の返信はすべきだと、私は思います。しかし、もう時代は、こうした考えをクレームとして処理するだけのものになっている、ということなのでしょうか。

 今回の三井住友カードの対応には、人間を相手にしているという意識が欠落していたと思います。自分たちの業界を守ることだけが先行し、利用者へは踏み絵を押しつける対処のように思えます。
 人を差別するためのシステムとしての、年収証明書類提出という人狩りがなされたように感じました。

 法律を盾に、業界を保護するための儀式が行われたようです。
 しかし、頼むだけ頼んで、あとは知らんぷり、というのはやめてほしいものです。
 頼み事に応じてもらったら、個人情報に関する不愉快な思いと、面倒な手間をかけたことを含めて、丁重にお礼を言うのが、これまでの日本では文化的に通行していたように思います。

 一つの文化が消えていく場面に直面したようです。
 
 
 

NPO法人〈源氏物語電子資料館〉広報室より

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