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2010年11月の34件の記事

2010年11月30日 (火)

新装開店の回転寿司屋へ

 東京での生活も、徐々に慣れて来つつあります。ただし、外食だけは用心が必要です。レストランや食堂などに入っても、私一人で食べきれるメニューがないのです。飲み屋さんの一品がいいのですが、術後の今は、お酒をあまり飲めなくなりました。なかなか難しいものです。

 さて、所用があって、地下鉄東西線の南砂町へ行ったときのことです。
 地上に出るとすぐに、出来たばかりの回転寿司屋さんが眼に飛び込んで来ました。
 
 
 
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 店内は、ゆったりと広めで、いい雰囲気です。家族連れを意識しているような造りです。
 そして、ここでおもしろかったのは、注文品の届け方です。
 ベルトコンベアに流れているお寿司をいただくのではなくて、自分が欲しいものをテーブル横のタッチパネルで注文すると、スポーツカーが颯爽と走ってきて届けてくれる方式なのです。
 
 
 
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 これとよく似たお店が、ちょうど1ヶ月前に行った琵琶湖岸の三井寺の近くにありました。
 そのことは、「西国三十三所(29)三井寺」(2010年10月30日)の最後のところに、写真入りで報告しています。ご笑覧を。

 あの「かっぱ寿司」では、「かっぱエキスプレス」という新幹線型のお皿が、とにかく大急ぎで走ってきました。
 この「魚べい」は、回転レーンの上に、運搬用の乗り物が2段も設置されていて、注文に応じて上と下とで往き来します。つまり、3段を使ってお寿司が移動しているのです。これは、非常に楽しくお寿司が注文できます。背中にお寿司の皿を乗せて、サーッと走ってくる姿がかわいいのです。注文してから、運ばれてくるのが待ち遠しいのです。

 なお、このお店の給茶システムは、黒いボタンを押すのではなくて、つまみを捻るタイプでした。
 
 
 
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 以前、「回転寿司屋の危険な給茶装置」(2010年5月10日)という記事を書きました。
 ボタンを押し込む方式は、非常に危険です。その点、このつまみを捻る方式は、まだ安全です。手を離すと、つまみはバネの力で元に戻ります。ただし、手が不自由な方には扱いきれませんので、さらなる対策が必要です。

 今後とも、さまざまな方式が出てきそうですね。
 回転寿司も、その環境整備が徐々に進化しつつあるようです。
 どのような工夫がなされていくのか、今後がますます楽しみです。
 
 
 

2010年11月29日 (月)

第34回 国際日本文学研究集会—職場復帰報告

 先週の土曜日と日曜日に開催された国際日本文学研究集会から、長かった療養生活と在宅勤務を打ち切り、職場復帰を果たしました。
 たくさんの方から、まだ早いのでは、との助言をいただいていました。しかし、目標の体重50キロは今年中にはクリアできそうもないことと、体力的に自信がついたため、思い切ってこのタイミングを選びました。

 問題は、食事だけです。
 何でも食べてもよいとのことなので、高カロリーのものもメニュー入れています。しかし、今でも、食事のスピードと時間と分量を間違えると、腹痛に襲われます。1時間ほどで治まります。しかし、この腹痛は、なかなか苦しい時間であることは確かです。
 それさえなければ、ごく普通の生活が送れます。もっとも、相変わらず東京での単身赴任生活となるので、いろいろとクリアすべき問題が山積してはいますが。

 2週間前にも一度上京し、渋谷の國學院大學での研究集会に参加しました。それ以来の上京です。職場である立川の国文学研究資料館へは、8月初旬の、今回の国際日本文学研究集会に関する委員会に出席して以来なので、3ヶ月半ぶりの立川への出勤です。

 まず驚いたのは、国文学研究資料館の真ん前に「立川学術プラザ」というバス停が出来ていたことです。「裁判所前」と「立川市役所」との間に、こんなバス停が新設されていたのです。
 
 
 
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 これから国文学研究資料館にお越しになる方は、立川駅北口のバス停2番から乗って、このバス停で降りてください。すると、目の前に建物があります。
 
 
 
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 人事係の方と出勤に関する書類の確認をし、病気休暇と年次休暇などの振り分けをして、晴れて職場復帰となりました。事務の方々の温かいご配慮に感謝しています。

 今年の国際日本文学研究集会は、もう34回目となります。日本文学に関する国際集会の中では老舗です。そして、2日間とも、例年にも増してたくさんの方々の参加がありました。担当セクションにいる者としては、参加者数が励みとなります。

 この研究集会の詳細は、年度末である明年2月に、「会議録」として刊行されます。研究発表の内容や写真などは、どうぞ「会議録」でご確認ください。

 また、当日のプログラムは、国文学研究資料館のホームページ「催し物」をご覧ください。
 その中の「当日の日程はこちらをご覧ください。」から、プログラムがPDFの形でダウンロードできます。

 今回は13人の研究発表と6人のショートセッションがありました。
 また、本年度からは、ポスターセッションが新設され、4人の方の工夫を凝らした発表がありました。

 以下、私に限ってのメモとして、少し報告を兼ねた記事を記します。

 初日の第2セッションで、ケンブリッジ大学大学院生であるレベッカ・クレメンツさんの「江戸時代における『源氏物語』の俗語訳―解釈と弄び―」と題する研究発表がありました。
 これは、あまり日本人が研究対象としていないテーマを取り上げたものです。それだけに、非常に興味深く、よく調査研究した成果が顕れており、好評でした。
 次の写真は、国文学研究資料館の今西祐一郎館長が、俗語訳ということに関して質問をなさっているところです。
 
 
 
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 この後のレセプションなどでも、レベッカさんは館長と懇談の機会を得たようなので、充実した研究発表と教示を得ることになったようです。
 昨年の秋には、ケンブリッジ大学でお世話になったこともあり、今回の来日に少し手助けをした関係で、実りある日となったことを共に慶んでいます。
 レベッカさんはイギリスにいますが、日本で勉強している若手に負けることなく、これからがますます楽しみな研究者です。今後とも、応援したいと思っています。

 2日目の第4セッションでは、足立匡敏さんの「与謝野晶子訳『蜻蛉日記』の成立―堺市蔵・自筆原稿の考察を中心に―」と題する研究発表がありました。
 足立さんは、本ブログ「与謝野晶子の自筆原稿『新新訳源氏物語』と『蜻蛉日記』の撮影」(2010年10月26日)でも紹介したように、堺市文化部文化課に勤務されています。先月の晶子自筆原稿の写真撮影に立ち会った時にも大活躍でした。
 自筆原稿の読解と、調査資料等を元にしての、文献実証を土台にした手堅い研究発表でした。これも好評でした。与謝野晶子自筆原稿の画像データベース公開に関わっている者として、この『蜻蛉日記』の自筆原稿全部が来春2月に国文学研究資料館のホームページから公開されることを、発表後の質疑応答の最後に宣伝を兼ねて紹介させていただきました。

 2日目の最後は、ケンブリッジ大学図書館日本部長である、小山騰先生の招待講演でした。
 演題は「英国における明治時代の日本研究と書物交流—日本文学の本格的紹介(翻訳)の前段階として—」です。
 小山先生の紹介などを私が担当しました。これが私の職場復帰後の最初の業務となりました。
 
 
 
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 この講演の詳細も、「会議録」に全文掲載されますので、どうぞお楽しみに。
 とにかく興味深いお話で、視点がイギリスから日本を見てのものということもあり、刺激的な内容でした。また、小山先生が最近発見された、イギリスの新聞記事が紹介されました。明治時代に日本とイギリスの交流を通しての、日本の近代化が浮き彫りにされました。
 得難い講演を伺うことができ、実りある2日間の幕を閉じることができました。

 研究発表のみなさんはもちろんのこと、関係者のみなさん、お疲れさまでした。
 また来年、すばらしい国際日本文学研究集会にしましょう。

 なお、来年の「第35回 国際日本文学研究集会」は、平成23年11月26日(土)と27日(日)の2日間にわたって開催されます。後日、発表者の募集も含めて公表されます。
 また、たくさんの方々からの研究発表の応募をお待ちしています。
 
 
 

2010年11月28日 (日)

テレビドラマ『球形の荒野』(後編)を観て

 『球形の荒野』の後編は、戦争と平和がテーマになっていました。難しいテーマが、わかりやすく展開しました。
 ただし、このドラマを観ていた人の多くは、このような深刻な問題を突きつけられるとは思っていなかったのではないでしょうか。前編でもっと伏線を張っておいたらよかったと思います。
 しかたがないのでしょうが、前編は殺人事件と父娘の関係の推理に、どうもバランスが傾きすぎでしたから。

 この小説の時代設定についても、疑問があります。
 『球形の荒野』は、昭和35年に発表された小説です。それを、今回のドラマ化するにあたっては、東京オリンピックが開催された昭和39年の物語になっていました。東京オリンピックが中途半端にドラマの中で浮いていました。あの外交絡みの和平交渉や、その背景にある暗さを表現するには、何ともギクシャクし過ぎです。うまく噛み合っていないジグソーパズルのようなドラマになってしまいました。また、連続殺人事件の犯人たちについても、無理があります。これは、清張自身が連載時から単行本の刊行時において、さまざまな削除の手をいれたことと関係します。清張の迷いと苦悩が、このドラマでもストレートに混線した状態で映像化されています。これは、脚本の問題かもしれませんが。
 これは、かえって現代に置き換えるべきでした。そのほうが、すっきりと内容に入れたと思われます。

 原作の改変を含めて、登場人物の関係や時代設定について、よくわからないままに、違和感を持って観た人が大半ではないでしょうか。

 今は、新幹線の開通や東京オリンピックのことが、ほとんどイメージしにくい時代にあります。観る人を50歳台以上に設定したとしても、伝わるものが少なすぎました。若い方々には、なおさらわかりずらかったと思われます。
 逆に新鮮だったと感じた人もいるかもしれません。それは、原作から離れすぎたところから生まれる、計算外の効果と言えるでしょう。

 父娘で海を臨みながら「七つの子」を歌うシーンも、川奈温泉の海辺ではスケールが小さすぎます。これでは、清張が泣きます。清張には、荒々しい波が必要です。
 原作通り、観音崎の岩場にしなかったのはなぜでしょうか。これが、インパクトのないドラマになってしまった典型的な事例です。

 全体的に、スケールが極端に矮小化されていました。こぢんまりした清張作品になっていて、失望です。

 あまり貶してばかりではいけないので、最後は褒めておきましょう。

 久美子役の比嘉愛未は、後編になると役所が掴めたのか、表情がとても柔らかくなり、好感を持って観ていられました。このドラマでは、数少ない救いでした。

 また、本来なら父娘で「七つの子」を歌って終わるところを、このドラマでは、さらに野上が日本を離れる空港のシーンが付け加えられていました。それがかえって、このドラマが一番アピールしたいところになっていたと思います。。

 空港での別れ際に、江口洋介が田村正和に、日本の印象を聞きます。カサブランカ並みのアングルでした。それはともかく、ここで、主役が田村から江口に代わったと感じました。江口洋介が物語の中心に躍り出た場面になっていました。それだけの、意欲的な原作への付加でした。
 これは、後編での堅苦しくなった流れを何とか必死に立て直そうとした中で生まれた、昭和39年当時のことばで言う「ウルトラC」でした。このシーンを付け加えたことにより、この後編で迷走したドラマが、その伝えたかったテーマを鮮明にしました。ことばを代えれば、この空港での別れのシーンがなければ、このドラマは完全に失敗、ということになりかねなかったのです。

 この2人の空港での向き合い方が、清張の作品の解釈として視覚的に表現できたことが、このドラマの最大の成果と言えるでしょう。
 この終わり方を設定できる監督なら、『砂の器』をどう料理されるのか、少し楽しみになりました。
 ただし、キャスティングのミスのないように、慎重に人選をしてほしいと希望します。
 
 
 

2010年11月27日 (土)

テレビドラマ『球形の荒野』は「後編」に期待

 私が好きな小説の一つである『球形の荒野』(松本清張、『オール讀物』昭和35年4月特大号〜昭和36年12月号連載)が、2夜連続で放映されます。これは観ずにはいられません。活字の小説は好きなので、何度も読みました。その映像化の出来具合が楽しみです。

 映画化は、昭和50年6月でした。芦田伸介と島田陽子が親子を演じました。このビデオとDVDは、何度か観ました。
 この映画に前後して、テレビドラマでは、野上顕一郎と久美子親子は、こんな組み合わせで放映されました。

 昭和37年・「?」と水木麗子
 昭和38年・市村羽左衛門と富士真奈美
 昭和44年・森雅之と山本陽子
 昭和53年・滝沢修と栗原小巻
 昭和56年・三船敏郎と島田陽子
 平成 4年・平幹二朗と若村麻由美
 平成22年・田村正和と比嘉愛未

 昭和37年のNHKドラマは「松本清張シリーズ・黒の組曲」として2回放映されています。ただし、この時の野上顕一郎役の俳優さんがわかりません。いろいろな情報では、宗近晴見さんを当てているものが散見されます。しかし、宗近さんは添田役でした。孫引きが広がっていて、実際のところがわかりません。どなかた、教えてください。

 さて、今回のドラマ化は、私の好みではありませんでした。まだ前編を見ただけなので、明日の後編を楽しみにしています。
 田村正和と生田斗真は大失敗です。私の『球形の荒野』を台無しにしてくれました。というよりも、今の私に理解できないのは、素人だからということにしてください。
 草刈正雄と江口洋介は、抑え気味の演技がよかったと思います。
 女性陣もイマイチだと思いました。ただし、野上顕一郎の妻で久美子の母である孝子役の風吹ジュンは、際だって存在感がありました。明日も、楽しみにします。

 話の流れとしては、奈良を訪ねた芦村節子が、唐招提寺で芳名帳に叔父である野上顕一郎の手跡を見かけた、と、原作通りにしてほしいですね。新薬師寺にしたのは、どうしてなのでしょうか。新薬師寺と唐招提寺では、映像に雲泥の差がでます。まず、これがこのドラマの最初の躓きでした。
 唐招提寺にできなかったのは、修理中だったことに起因するのでは、と勝手に思っています。

 昨年、次の2つのブログを書きました。

「古都散策(28)唐招提寺の落慶法要」(2009年11月 8日)


「【復元】古都散策(2)唐招提寺」(2009年11月14日)


 製作者としては、唐招提寺にしたかったのでしょうが、昨年の撮影の交渉の段階でいろいろとあったのでしょう。そのために断念されたのでしょうか。撮影は、3月27日(土)〜5月12日(水)だったようなので、何があったのでしょうか。
 それでは、白毫寺に、という選択もあります。飛鳥の安居院なら、松本清張にピッタリです。海住山寺も浄瑠璃寺も、奈良には時間の広がりを感じさせるお寺がたくさんあります。興福寺の五重塔も出してほしかったですね。時間と予算の兼ね合いでしょうか。

 歌舞伎座は、改築前の撮影だったようなので、これはこれで記念となりそうです。

 なお、この小説は雑誌『オール讀物』に発表後、単行本として刊行する時に、大幅な削除がなされました。『オール讀物』の昭和35年12月号の冒頭部分の約8000字もの文章が、単行本には入っていないのです。添田が滝を追って信州に行って東京に帰った翌日の場面です。また、滝が笹島画伯の死について語る場面も、削除されました。

 このことについては、『週間 松本清張 9号 『球形の荒野』』(10頁)に詳しく書いてあります。

 松本清張が父を捜し求める作品を書いた背景は、鳥取県の日南町に行った時によくわかりました。

「松本清張ゆかりの日南町」


 父のことを知りたくて立ち寄った町に入れてもらえなかった清張の心は、この『球形の荒野』にも形を変えて生きているように思います。

 短絡的な印象記はこれくらいにします。
 続きは明日。
 
 
 

2010年11月26日 (金)

読書雑記(22)高田郁『花散らしの雨 みをつくし料理帖』

 本作は、「時代小説文庫」として角川春樹事務所から2009年10月に刊行された、『みをつくし料理帖』シリーズの書き下ろし第2作品です。
 快調に語られていきます。
 
 
 
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■「俎板橋から―ほろにが蕗ご飯」 13歳の少女ふきが、お手伝いとして澪の店に来ます。このふきが、愛らしく描かれています。作者の込めた想いが伝わってきます。
 店は、新しく九段下に開きます。私にとっては、病院通いをしていた道です。上京後も、このあたりを歩くので、ますます親近感をもって読み進めました。
 この章は、春の食材を通して、日本らしい季節感が溢れています。
 ツクシの袴を外す場面は、奈良の平群に住んでいた頃、母が山道で摘んできたツクシを、指を真っ黒にして剥いていた姿を想い出しました。
 種市が「ううむ」(43頁)と呻ります。次の頁で、種市は料理の出来の良さに感心して唸ります。60頁でも、種市が唸ります。井上靖の小説では、こうして呻る人物は舞台回しを請け負っていることが多いのですが……。高田作品ではどうなのでしょうか。この表現がある場面を集めてみたくなりました。
 ドラマの結末は心憎いほどです。読者の心を捕まえるのがうまい、と思いました。【5】
 
■「花散らしの雨―こぼれ梅」 清右衛門が呻きます(98頁)。澪を手助けする又次は唸ります(105頁)。どうやら、呻く男と唸る男がおもしろそうです。
 作者は毎回、読者がジーンと来るような場面を用意しています。
 幼馴染みとの熱い情の世界が、淡々と紡ぎ出されていきます。そして、ラストに指で狐の形を作って振るシーン。
 情感溢れる話を、上方の料理語りとともに、また聞くことが出来ました。【5】
 
■「一粒符―なめらか葛饅頭」 はしかという病気を中に立てて、親子の情愛を描きます。
 源斉が唸ります(107頁)。人と人との仲を取り持つ、食べ物の役割が伝わってきます。
 病気という深刻な内容のせいか、これまでに増して暗さが勝った話になりました。【3】
 
■「銀菊―忍び瓜」 話を大いに楽しんだ後、気持ちを静めるかのように、穏やかに話が展開します。
 中で、あまりの美味しさに、客が「うっ」と唸ります(231頁)。澪の想い人である小松原も、あまりの美味しさに「ううむ」と唸ります(284頁)。
 やがて大川の花火で、話は華やかに終わります。そして、それが澪の恋の始まりとなるのでした。【2】
 
 
 

2010年11月25日 (木)

読書雑記(21)高田郁『八朔の雪 みをつくし料理帖』

 これは、「時代小説文庫」として角川春樹事務所から2009年5月に刊行された、高田郁の書き下ろし作品です。『みをつくし料理帖』は、これを第1巻として、シリーズとして刊行されます。
 
 
 
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■「狐のご祝儀 —ぴりから鰹田麩」
 料理に打ち込む蕎麦屋の奉公人の澪は、冷静に料理を見つめ、その出来に情熱を傾ける。
 しかし、その生きざまの背景には、ついホロリとする物語が見え隠れするので。その加減がうまく語られています。
 文章がとても読みやすく、大阪弁が適度に雰囲気を作っています。東西の味の文化を教えてくれるところが楽しめます。
 さがり眉の澪と小松原という謎の男の取り合わせが、今後の展開を楽しみにさせています。
 久しぶりに、歯切れのいい文章と情の深みが、程よい読後感を残しました。
 巻末の料理帖が、また心にくいものになっています。読んだ後に2度おいしい想いをさせてもらえます。【5】
 
■「八朔の雪—ひんやり心太」
 澪の生い立ちが明らかにされます。
 大坂から江戸に来るまでの様子が、こと細かに、わかりやすく、そして情感たっぷりに語られます。
 登場人物に、悪人がいません。善人たちの情が通う話になっています。泣けるシーンが多いのは、かえって人情物語らしいサービスでしょう。
 最後の、心太に砂糖をかけるシーンは、絵になる場面が多い本作の中でも、月を背景にするだけに出色の出来映えです。【4】
 
■「初星 とろとろ茶碗蒸し」
 シリーズの難しさをどうするのかと注目しました。すると、第三作にして大転換。蕎麦屋を廃業にして、澪の店にするのです。大胆です。
 登場人物も、ますます個性が見えてきました。好調です。これで、物語は順調に続いていきます。
 この章でも、感動的な場面がいくつかあります。ご寮さんが澪のために、自分を犠牲にするくだりは圧巻です。人間の情を、タップリと見せてくれます。
 最後は、たっぷりと幸せな気分にさせてくれるなど、何とも心憎い話になっています。【5】
 
■「夜半の梅 ほっこり酒粕汁」
 これまで、いい脇役だったご寮さんが、情の中心に座ります。人の情が描かれます。盛り上げ方もうまいと思いました。
 突然の火事のシーンが、読者を緊張させます。そして、お店をなくした無念さが、しみじみと伝わってきます。
 澪は、幼馴染みのことを知ります。過去が美しく語られます。そして、挫ける心を奮い立たせて、ひたすら前へ向かって進んでいくのです。
 最後の友への言葉も、気が利いています。
 それにしても、小松原とは誰なのか。次が読みたくなります。【5】
 
 
 

2010年11月24日 (水)

読書雑記(20)藤本孝一『本を千年つたえる』

 『本を千年つたえる—冷泉家蔵書の文化史—』(藤本孝一、朝日選書、2010.10)は、内容が類推しやすい明快な書名です。
 
 
 
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 本書からは、一人でも多くの人に写本のことをわかってほしい、という願いがひしひしと伝わって来ます。写本がどのようにして伝えられて来たのか、どのようにして書写されて来たのか、ということを、本というモノを通して丁寧に、そして興味深く語っておられます。
 それらが、冷泉家に対する満ち溢れる愛情へとつながっていきます。冷泉家が日本の古典文化に果たした役割が、具体的な事例の中から浮き彫りにされています。

 多分に謎解きめいています。読者が推理に参加できるように、提示される資料と情報は多岐にわたります。ここで提示されている藤本先生の解答以外にも、また別の解があるかもしれません。そのためには、たくさんの原本を見るという、実感実証を強いられます。しかし、それも楽しいことでしょう。

 第二章では、写本に書かれている奥書から類推する楽しさを、教えてもらえます。
 少し気になったのは、人物系図をもっと前に出してほしかったことです。たくさんの人名が出てくるので、えーっとこの人は、と思いながら読んでいると、95頁に人物系図が出て来ます。もっと簡単なものでいいので、為家を中心にして全体を見渡す略系図が第一章の最初にでもあったら、と思いました。

 藤本先生からは、いつもたくさんのことを教えていただいています。
 その際、口癖のようにおっしゃるのは、わからないことは聞いてほしい、ということです。自分にとっては当たり前のことは、聞かれないと説明しないので、後でどうして言ってくれなかったのだ、と言われても困るのだ、ということです。

 先生は、たくさんのことをご存じです。それだけ、豊富な調査体験があるのです。しかし、そのすべてを語るのには、あまりにも多岐にわたり、またこれはみんな知っているだろうとの判断から省略なさることが多いのです。
 そんなことがあるので、先生のお話を伺うときは、いつも時間を忘れて話し込んでしまいます。

 本書を読みながら、そこはもっと語ってください、と言いたくなるところがたくさんありました。
 全体的に、国文学関係者にわかってほしい、という気持ちが随所に見受けられます。ご自身にははっきりと見えているものを、どうしてわかってもらおうか、という苦しみが行間から立ち上ります。
 阿仏尼の行などは、特にそうです。
 お書きになった論文を読めばいいのですが、先生のご専門が歴史学なので、なかなか接する機会がないのです。本書の場合、第2章から第3章にかけて、つながりがわかりにくいと思いました。
 ただし、二条家から冷泉家に古典籍が移っていくさまは、説得力のあるところです。

 藤本先生は、かねてより「写本学」を提唱しておられます。


書写した時代と親本の姿・書写方法、流布の契機や修理時期と回数、これらを総合して、書写されてから現代にいたる伝来過程の歴史を考察する(24頁)

というものです。

 藤本先生が目指される写本学については、若い方々を意識しながら、さらにたくさんのことを語ってもらいたいと思います。

 最後に、誤解を招きそうな文言があるので、非礼を顧みずに記しておきます。
 「おわりに」で、次のように述べておられます。


定家は、たとえば『源氏物語』を例にとると、作者の紫式部からは約二百年のちの人物である。二百年の間に、意味のわからない文章も出てきて、一般の読者には難解になっていた。定家は学者の立場で『源氏物語』の文章について鎌倉時代の現代語訳をおこなった。その成果が「青表紙本」といわれる定家写本である。『源氏物語』各巻の巻末に語彙を注釈した「奥入」を付けるなど、定家の解釈があったからこそ、古代文学の意味を理解することができ、訳されることにより流布し、現代にまで伝えられた。近代においても、与謝野晶子の現代語訳によって『源氏物語』が一般に流布したのと事情が似ている。しかし一方で、巨大な存在である定家の解釈が壁になり、現代の私たちをして『源氏物語』の原本に近づけない一因になっていると、筆者は考えている。(206頁)

 ここで、定家が現代語訳をした、ということと、与謝野晶子の現代語訳の事情とが取り上げられています。ここでの「現代語訳」について、一般の方々は「あれっ」と思われることでしょう。藤本先生の理解による「現代語訳」ということは、さらに説明が必要なところです。直接このことに関して伺ったことがありますが、本文の整定ということを意識しての「現代語訳」というご理解であったかと思います。
 このことは、本書のテーマとは異なるので、話をもどします。

 本書の末尾で、冷泉家時雨亭叢書は現代人に対する古今伝授だとおっしゃいます。まさに、我々に貴重な古典籍が解放され伝授されたことを、本書を通して実感できました。さて、こうした資料をどう活用するかが、次の世代に残されたわけです。それこそ、これからの若手研究者に期待したい、文献による実証的な研究のすすめです。

 活字印刷による校訂本文や資料だけを読んで古典を考えるのではなく、写真版でもいいので原典を伝えようとしている古典籍資料を確認する中で、新しいモノの見方が多く提示されることが待ち望まれます。そのためにも、この冷泉家の古典籍をめぐる本書は、格好の「写本学」の入門書となっています。
 
 
 

2010年11月23日 (火)

びわ湖百八霊場(2)27-正明寺の秘仏千手観音

 湖東の正明寺で、33年に一度の御本尊御開帳がありました。
 ちょうど今日が最終日です。次の御開帳のとき、私は90歳を越えています。そう思うと、生きているうちに、との思いから、早朝より出かけました。

 乗り換えのJR草津駅では、降りたホームに信楽高原鉄道の自動改札機がありました。
 
 
 
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 一見意味がなさそうですが、降りるときにその意味がわかります。
 西国札所めぐりをして、ローカル線に乗り降りすると、自動改札のありようがわかりました。切符に磁気の信号を入れておかないと、後で何かと面倒なことになります。無人駅対策でもあります。

 JR貴生川駅で近江鉄道に乗り換えます。
 人一人がやっと通れる改札です。駅員さんは、今でもパンチで切符に穴をあけていました。
 
 
 
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 ここで、「日野町法輪山正明寺御本尊御開帳記念1day パス」を買い、のんびりとした旅の始まりです。
 
 
 
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 日野駅は木造です。
 
 
 

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 改札で正明寺行きのバスを訊くと、前に止まっているのに乗りなさいと。眼の前に止まっていたバスに乗ると、すぐに出発しました。
 予定では5分で着くバス停が、なかなか表示されません。信号で止まったら運転手さんに確認しようと思っていました。10分を過ぎた頃、やっと小さなバス停に止まったので、運転手さんに正明寺はまだかと尋ねると、このバスは反対方向に走っているとのことです。正明寺行きは後ろだが、そちらに行くバスは先ほどすれ違ったので、1時間しないと来ないそうです。ここで降りて、歩いて10分のところにある近江鉄道の桜川駅から元の日野駅に戻り、乗り直すしかないのでは、とのことでした。

 知らない田園風景を見ながら当て処もない旅の様相を呈してきました。
 桜川駅は、線路際にポツンとある駅でした。50分の待ち時間があります。
 
 
 
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 近くに場違いなほど立派な本屋さんがあったので、そこで時間を潰し、琵琶湖周辺のガイドブックを買いました。よく整った品揃えで、街中の本屋さんに引けを取りません。日本の文化レベルの高さを教えられました。

 またまた日野駅に戻り、今度は運転手さんに確認して正明寺を目指しました。
 1時間半ほど道草を食ったことになります。

 バス停から歩いて15分ほどで、正明寺に着きました。きれいな境内です。
 
 
 
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 ここは、聖徳太子が創建で、黄檗宗のお寺です。聖徳太子の創建というお寺は、琵琶湖周辺には多いようです。
 戦国時代に灰燼に帰し、江戸時代に後水尾上皇の勅建寺として再興されました。
 
 
 

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 正面の本堂は、京都御所にあった清涼殿を移築したものでした。重要文化財に指定されています。

 本尊は秘仏の千手観音です。観音が33の姿で衆生の願いを聞いたということから、33年に一度の御開帳となっています。ちょうど、今年がその歳に当たりました。

 本堂で、千手観音を間近に見上げました。いい仏様です。
 下から見たせいか、正面からの写真よりもお顔立ちがきつく感じられました。

 このお寺も、びわ湖百八霊場であることが、受付の方に聞いてみてわかりました。と言っても、受付の方もわからず、何人かの方に訪ねてわかったのですが。
 
 
 
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 びわ湖百八霊場の巡拝も、こんな調子で回るので、何年かかるかわかりません。気長にいきましょう。
 
 
 

2010年11月22日 (月)

教科書に見る平安朝・小学校—国語(6)教育出版(その3)

 教育出版が作成した小学校国語科教科書134冊の内、この「教育出版(その3)」では、小学6年生の教科書をとりあげます。

 これまでの経緯と報告は、次の記事をご覧ください。

「教科書に見る平安朝・小学校—国語(1)」(2010年10月31日)

「教科書に見る平安朝・小学校—国語(2)中京出版・大日本図書・二葉図書」(2010年11月 8日)

「教科書に見る平安朝・小学校—国語(3)学校図書」(2010年11月 9日)

「教科書に見る平安朝・小学校—国語(4)教育出版(その1)」(2010年11月11日)

「教科書に見る平安朝・小学校—国語(5)教育出版(その2)」(2010年11月19日)
 
 
 
【教育出版】(134冊中小学6年生分21冊)

 昭和29年度 6年生用


※特にコメントすべきことはありません。

 
 
 昭和33年度用

6年上 『万葉集』『枕草子』『源氏物語』『今昔物語集』「俳句」などの紹介文
6年下(欠本)

 
 
 
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※池田亀鑑と坪田譲治が監修者。「古典の世界」という単元で、『枕草子』とか『源氏物語』を扱う。
 まず、冒頭の「古典とわたしたち」は、次のように始まります。そして、『枕草子』と『源氏物語』に関する文章を引いておきます。「よもぎのつゆ」については、池田亀鑑が書き下ろした文章です。


  三 古典の世界

    古典とわたしたち

 「古典」ということばを、聞いたことがあるでしょう。むかしから伝わってきた古い書物のことです。
 『万葉集』とか『枕草子』とか、『源氏物語』とか、そういう書物のことです。
 そんな古いものは、きっとわかりにくく、親しみにくいものにちがいないと思うかもしれません。なるほど、『枕草子』は、今からおよそ九〇〇年ほどむかしに書かれたものですし、『万葉集』は、だいたい一二〇〇年もむかしにできた書物ですから、そう思うのも無理はありません。試みに、『万葉集』 や『枕草子』を開いてみても、今すぐ、すらすら読むことはむずかしいでしょう。むかしの人のことばは、今のわたしたちのことばとは、かなりちがっています。ことばの使い方も、今のことばの使い方とは、ちがっています。
 けれども、このむかしの人のことばと ことばの使い方とが わかりさえすれば、古典は、ずいぶんおもしろいものです。わたしたちの祖先も、わたしたちと同じようなことを思い、同じようなことを考えていたのだ、ということがよくわかります。古典を読むと、それを書いたむかしの人とわたしたちとは同じ血のつながりにあるということが、しみじみ感じられます。たましいのふるさとというようなものが、ほのぼのと感じられます。

    万葉集

(中略)

    よもぎのつゆ
      (一)
 花が散って、いつの間にか葉ざくらになりました。まだ早いのに、もう雨の日が続きます。あわただしい春の終わりです。ここは京都の町はずれ、ふり続いた雨がやんだので、きれいに仕立てた女車がやって来ました。よもぎが一面にはえて、道の上におおいかぶさっています。その下に、なんとまあきれいな水でしょう。雨水がいっぱいたまっています。牛につきそうお供が、車を、そのよもぎの道に引きこみますと、ぱっととばしりが上がります。車の輪が回るにつれて、おしつぶされたよもぎの かすかなにおいがただよってきます。
 車の中からは、わかい女の人たちが、
「まあ、なんていいにおいでしょう。」
などと言っている声が聞こえます。
 車はずんずん進んで行きます。両側に、うの花のさいているかきねがあります。ふと、車の中から、女の人がそれを見つけて、花のえだを折ろうとします。車が、すうっと進んで、手がはずれます。
「まあ、くやしい。」
と、車の中の人たちは話し合っているようすです。

 この車には、『枕草子』という有名な本を書いた清少納言が、友だちといっしょに乗っていたのでした。五月のころ、清少納言は、みどり一面の郊外に出て、この季節のおもしろさを味わいました。よもぎ、みどり、きれいな水、うの花、なんとわかわかしいこのみでしょう。
 みなさん、大さくなったら、ぜひ、この『枕草子』をよく読んでみてください。きっと、この作品がすきになるにちがいありません。そして、清少納言が、新しく、みなさんの心の中に、生き返ってくるにちがいありません。
      (二)
 春の終わりごろでした。長らくふり続いた雨がやみました。ある日の夕方、きれいな車が、ごくわずかなお供をつれて、京都の町の中を進んで行きます。東山の上に、大きな月が上りました。車は、その月の光に照らされながら、静かに進んで行きます。
 やがて、車は、あれはてた大きなやしきのそばにさしかかりました。へいはこわれ、かべは落ち、人の住むやしきとも思われません。車の中から、わかい男の人の声が聞こえて来ました。
「はてな。見たことのあるやしきだな。」
 すると、車のすだれが動きました。品のいい人の顔が、月の光に照らし出されました。お供の人はかしこまって、
「さようでございます。ここは常陸の宮のおやしきでございます。」
と答えます。
「ああ、そうだったね。ずいぶんごぶさたをしたものだ。たずねてみよう。」
と言って、中の人はおりて来ます。見上げると、まつの立ち木に、何かゆれているものがあります。月の光に照らして見ると、それはふじの花でした。こわれた門の中にはいってみますと、一面によもぎがしげっています。それにつゆがおりて、月の光にきらきらと光っているのです。
「たいへなつゆでございます。わたくしがお先ばらいをいたしましょう。」
と、お供の人は、馬のむちでよもぎのつゆをはらいながら、先に立ちます。しげったこずえから、ぱらぱらとしずくが落ちます。あかりもない、化け物やしきのような住まいです。

 これは、紫式部が書いた『源氏物語』の中の一つの場面です。今、ここをたずねて来たのは、光君という人で、この物語の主人公になっている人です。
 『源氏物語』はほんとうにすばらしい作品です。紫式部も清少納言も、平安時代の中ごろの人です。日本の女流作家が、世界の人々に先がけて、こんなすぐれた作品を残したことを、わたしたちは、大きなほこりとしようではありませんか。

    今昔物語

(中略)

    保昌とはかまだれ

(中略)

    ☆ 文語文と口語文

(『枕草子』を例に、現代語訳と原文をあげる)

    俳句というもの

(中略)

 なお、本教科書の巻末には「解説」があり、そこには各単元の目標や指導上の留意点が記されています。
 この「古典の世界」は5月から6月にかけての教材となっています。


教材
古典とわたしたち
万葉集
よもぎのつゆ(池田亀鑑作)
今昔物語
保昌とはかまだれ
俳句というもの
目標
○古典に対する関心と理解。
○文学精神の育成。
○歌・俳句。物語・説明文など、各種の文章形態の読解力をたかめる。
○万葉集・源氏物語・枕草子・今昔物語・俳句などについて初歩的理解を与える。
指導上の留意点
○古典への関心と親しみをもたせるようにする。
○万葉の短歌・長歌、芭蕉以後の著名俳人の俳句を原文でだし、これに解釈と鑑賞を附して読ませることにより、伝統的な短詩型文学への初歩的理解を図る。
○源氏・枕・今昔の一節を現代語訳したものを読ませ、物語・随筆の面における古典の世界に接近させる。
○上代は万葉、中古は源氏・枕、中世は今昔、近世は俳句と代表的な文芸様式と作品をとりあげている。


 
 
 昭和36年度用

6年下 『万葉集』『源氏物語』「鳥取砂丘の植物」

 
 
 
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※坪田譲治1人の監修者となります。表紙が、いかにも平安朝風です。
 巻頭に「一 古典の世界」が置かれます。ただし、『今昔物語』と「俳句というもの」は削除となりました。文章に一部改変(女車→牛車など)があるので、参考のために引きます。挿絵は同じです。
 また、「鳥取砂丘の植物」が採択されています。池田亀鑑が鳥取出身であり、また鳥取市遷喬小学校校長の稲村謙一がいることから取り上げられたのではないか、と思っています。


  一 古典の世界

    古典とわたしたち

 「古典」ということばを 聞いたことがあるでしょう。むかしから伝わってきた古くてすぐれた書物のことです。
 『万葉集』とか『枕草子』とか、『源氏物語』とか、そういう書物のことです。そんな古いものは、きっとわかりにくく、親しみにくいものにちがいないと思うかもしれません。なるほど、『枕草子』や『源氏物語』は、今からおよそ九〇〇年ほどむかしに書かれたものですし、『万葉集』は、だいたい一二〇〇年もむかしにできた書物ですから、そう思うのもむりはありません。試みに、それらの本を開いてみても、今すぐ、すらすら読むんだり解釈したりすることはむずかしいでしょう。むかしの人のことばは、今のわたしたちのことばとは、かなりちがっています。ことばの使い方も、今のことばの使い方とは、ちがっています。
 けれども、このむかしの人のことばと ことばの使い方とが わかりさえすれば、古典は、ずいぶんおもしろいものです。わたしたちの祖先も、わたしたちと同じようなことを感じ、同じようなことを考えていたのだ、ということがよくわかります。古典を読むと、それを書いたむかしの人とわたしたちとは 同じ血のつながりにあるということが、しみじみ感じられます。たましいのふるさとというようなものが、ほのぼのと感じられます。

    万葉集

(中略)

    よもぎのつゆ
      (一)
 花が散って、いつのにか葉ざくらになりました。まだ早いのに、もう雨の日が続きます。あわただしい春の終わりです。ここは京都の町はずれ、ふり続いた雨がやんだので、きれいにしたてた牛車がやって来ました。よもぎが一面にはえて、道の上におおいかぶさっています。その下に、なんとまあきれいな水でしょう。雨水がいっぱいたまっています。牛につきそうお供が、車を、そのよもぎの道に引きこみますと、ぱっと とばしりが上がります。車の輪が回るにつれて、おしつぶされたよもぎの かすかなにおいがただよってきます。
 車の中からは、わかい女の人たちが、
「まあ、なんていいにおいでしょう。」
などと言っている声が聞こえます。
 車はずんずん進んでいきます。両側に、うの花のさいているかきねがあります。ふと、車の中から、女の人がそれを見つけて、花のえだを折ろうとします。車が、すうっと進んで、手がはずれます。
「まあ、くやしい。」
と、車の中の人たちは話し合っているようすです。

 この車には、『枕草子』という本を書いた清少納言が、友だちといっしょに乗っていたのでした。五月のころ、清少納言は、みどり一面のに出て、この季節のおもしろさを味わいました。よもぎ、きれいな水、うの花、なんとわかわかしいこのみでしょう。
 みなさん、大さくなったら、ぜひ、この『枕草子』をよく読んでみてください。きっと、この作品がすきになるにちがいありません。そして、清少納言が、新しく、みなさんの心の中に、生き返ってくるにちがいありません。
      (二)
 春の終わりごろでした。長らくふり続いた雨がやみました。ある日の夕方、きれいな車が、ごくわずかなお供を連れて、京都の町の中を進んでいきます。東山の上に、大きな月がのぼりました。車は、その月の光に照らされながら、静かに進んでいきます。
 やがて、車は、あれはてた大きなやしきのそばにさしかかりました。へいはこわれ、かべは落ち、人の住むやしきとも思われません。車の中から、わかい男の人の声が聞こえてました。
「はてな見たことのあるやしきだな。」
 すると、車のすだれが動きました。品のいい人の顔が、月の光に照らし出されました。お供の人はかしこまって、
「さようでございます。ここは常陸の宮のおやしきでございます。」
と答えます。
「ああ、そうだったね。ずいぶんごぶさたをしたものだ。たずねてみよう。」
と言って、中の人はおりてます。見あげると、まつの立ち木に、何かゆれているものがあります。月の光に照らして見ると、それはふじの花でした。こわれた門の中に はいってみますと、一面によもぎがしげっています。それにつゆがおりて、月の光にきらきらと光っているのです。
「たいへなつゆでございます。わたくしがお先ばらいをいたしましょう。」
と、お供の人は、馬のむちでよもぎのつゆをはらいながら、先に立ちます。しげったこずえから、ぱらぱらとしずくが落ちます。あかりもない、化け物やしきのような住まいです。

 これは、紫式部が書いた『源氏物語』の中の一つの場面です。今、ここをたずねてたのは、光君という人で、この物語の主人公になっている人です。『源氏物語』はほんとうにすばらしい作品です。
 紫式部も清少納言も、平安時代の中ごろの人です。日本の女流作家世界の人々に先がけて、こんなすぐれた作品を残したことを、わたしたちは、大きなほこりとしようではありませんか。

 なお、本教科書の巻末にも、昭和36年度版と同様に「解説」があり、そこには各単元の指導内容や留意事項が記されています。
 この「古典の世界」は10月の教材となっています。


教材
1古典の世界
(1)古典とわたしたち
(2)万葉集
(3)よもぎのつゆ(池田亀鑑作)
指導内容
○日本の古典について関心をもつ。
○解説文と対照して、『万葉集』を読む。
○『源氏物語』『枕草子』の一節を現代語訳した文章を読み、古典の気分にふれる。
留意事項
○短歌・長歌などの形態にふれ、伝統的な短詩型文学についての初歩的な理解を与える。
○(3)は物語・随筆の面における古典への通路。
○古典の文体は文語体であることに注意する。


 
 
 昭和40年度用

6年上 「鳥取砂丘の植物」(?)


※監修者は、坪田譲治、亀井勝一郎、池田弥三郎です。

 
 
 昭和43年度用

6年上 「鳥取砂丘の植物」
6年下 『万葉集』

 
 
 昭和46年度用

6年上 「鳥取砂丘の植物」
6年下 『万葉集』


※監修者は、西尾実です。

 
 
 昭和49年度用

6年上 「鳥取砂丘の植物」
6年下 『万葉集』

 
 
 昭和52年度用

6年上 「鳥取砂丘の植物」


※「鳥取砂丘の植物」の写真がカラーになります。

 
 
 昭和55年度用

6年上 「鳥取砂丘の植物」


※監修者は、木下順二・松村明・柴田武です。巻頭に、鳥取砂丘と植物のカラー写真があります。

 
 
 昭和58年度用

6年上 「鳥取砂丘の植物」


※昭和55年度用と一緒です。

 
 
 昭和61年度用

※特にコメントすべきことはありません。

 
 
 
 教育出版の6年生用教科書は、昭和33年度用と36年度用で池田亀鑑の影響が顕著に見られます。際立っていると言っていいでしょう。没後にも、大きな影響力を及ぼしてます。
 後に紹介する大阪書籍版の6年生用教科書で、川端康成が編集したときにも『源氏物語』が浮き上がります。監修・編集者の姿勢が、こうしたところにうかがえます。
 
 
 

2010年11月21日 (日)

京洛逍遥(172)パイプオルガンと蕎麦寿司と大徳寺

 ちょうど1年前、「京洛逍遙(113)結婚記念に「京都の秋 音楽祭」へ」(2009年11月22日)と題して、以下の文章で始まる記事を書きました。


京都コンサートホールを会場にして開催されていた「第13回 京都の秋 音楽祭」も、今日が最終日でした。

 そして今日21日(日)、「第13回」を「第14回」にするだけでいい、この音楽祭に行って来ました。6時間のコンサートです。

 京都コンサートホールの大ホールは、最終日ということもあり、たくさんの人でした。
 一つ上の階のアンサンブルホールムラタのリレーコンサートでは、篠笛などが響くイベントがありました。しかし、それは諦めて、この大ホールだけにしました。

 オープニングのドラマチック・オペラから聴きました。
 京都市立芸術大学アカデミーオーケストラと京都市交響楽団市民合唱団による、没後135年となるビゼーの「カルメン」の名場面などです。指揮は京都市芸大教授の増井信貴さんです。

 私は、昔からブルックナーの異版に興味を持っています。そのことは、上記昨年の記事の中でも「音楽の異版・ブルックナーを聴く」としてリンクを張って紹介しています。ご笑覧を。

 ブルックナーのハース版やノヴァーク版など、演奏の違いを比べるのが好きでした。スコアーを手に入れて、レコードを聴きながら較べたりしたこともありました。と言っても、ズブのしろうとなので、大してわかりもしなかったのですが…。すでに過去形での話です。

 シンバルが鳴るか鳴らないかとか、ティンパニーがいつ鳴るかなど、打楽器の音なら聴きわけられます。朝比奈さんのブルックナーは鳴らす方でしたっけ? 忘れてしまいました。

 今日の演奏には、京都市芸大の大学院生に混じって、学部生もいるとのことです。見たところ、シンバルの若者がそんな感じでした。童顔の男の子でしたので。
 つい、もっと派手に打ち付けるように叩いたら、とか、音を前に押し出して、などと、1人密かに勝手に応援していました。
 本来なら、オペラのさわりをジックリと聴くべきなのでしょうが、最後列左側の打楽器の方々が気になったのです。

 続いて、昨年はうまく耳に入らなかったパイプオルガンを、丁寧な解説付きで聴くことができました。
 ヨーロッパなどの教会で、パイプオルガンはよく見かけます。ケンブリッジのカレッジにもありました。しかし、実際の演奏は聴く機会がありませんでした。
 第2部の「オルガンって楽しい!」という部では、オルガニストの小榑由布子さんの演奏です。
 京都コンサートホールのパイプオルガンの姿は、会場で配布されていた冊子の表紙をごらんください。
 
 
 
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 本来ならば、正面中央上段のパイプオルガンの真下で演奏するそうです。そこを、今日はわかりやすく説明する意味からも、第2コンソールという鍵盤やペダルがギッシリと並んだものをステージ中央に置き、音を出しながらの解説がありました。パイプオルガンの仕組みや音の出し方など、よくわかる説明でした。
 写真の中央にも写っている、格子状の板が開いたり閉じたりして、音がさまざまに変化します。

 それにしても、演奏が大変そうでした。バッハの曲や「赤とんぼ」など、初めての音に感激しました。特に、この京都コンサートホールのパイプオルガンは、日本の音を大切にする設計となっていて、和楽器の音色が出せるようになっているそうです。「赤とんぼ」などは、まさに笛のさまざまな音色で弾きわけておられました。

 その後の2時間ほどは、現代的なアレンジのプログラムだったので、自転車ですぐ行ける大徳寺の紅葉を見に行くことにしました。

 その途中の新大宮商店街の「そば鶴」さんで、絶品の蕎麦寿司を間食としていただきました。
 
 
 
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 いつもながら、酢の使い方がうまい蕎麦寿司です。

 参考までに、最近食べた蕎麦寿司の写真をあげます。

 先月、堺市へ行ったときの駅ビルの中のもの。
 
 
 
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 次は、京都四条の大丸の中にあるもの。
 これは、持ち帰り用のものを家で皿に盛りました。見栄えが悪くてすみません。
 
 
 
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 最近は、いろいろと蕎麦寿司を見かけるようになりました。しかし、やはり「そば鶴」さんのものが一番です。

 大徳寺は、たくさんの観光客でごった返していました。塔頭が30近くと多い中でも、今日は芳春院さんの紅葉にしました。これまでは、入口のみごとさを見るだけで満足して帰っていました。
 
 
 
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 この塔頭の中に入るのは初めてです。ここは、加賀・前田利家の妻まつが建てた塔頭です。
 東山の高台寺のねねと縁が深く、何かと裏話の多い塔頭です。

 庭や建物などは写真撮影禁止とのことで、一番いいところは紹介できません。

 竜安寺と違って、ここの枯山水の石庭は、とても親しみやすい感じがしました。竜安寺の石庭は、何か無理矢理考えろと言ってくるような雰囲気があるので、私は苦手です。竜安寺は、庭の池の中にある料理処はお薦めですが……。

 お茶室には、室生犀星の書が掛かっていました。帰りがけに聞いて、慌てて改めて見に行きました。
 禅宗らしい、飾り気のなさがいいですね。
 我が家にお出でになっていた御師さんは、「佛ほっとけ」というのが口癖でした。キリッとした厳しさの中にも、肩の力が抜けた禅宗の考えには、私にとっては学ぶべきところが多いようです。

 しばらく散策して、また京都コンサートホールに戻りました。

 後半のプログラム第5部は、「おめでとう!ショパン200歳」として、ピアノの詩人ショパンです。
 指揮は竹本泰蔵さん、ピアノは佐藤美香さん、そして京都市交響楽団のみなさん。曲目は「ピアノ協奏曲第1番ホ短調」です。
 力強さと柔らかさがうまく表現され、音に誘われていきそうなピアノでした。

 娘がフランス語の会話サロンでご一緒しているというフランス人の団員の方も、ソロでいい演奏をなさっていました。今、リヨンに行ってますよ、と伝えたかったのですが、ステージとは離れているので無理です。

 最後の第6部は、「フィナーレ 華麗なる映画音楽」です。
 2ヶ月にもわたった音楽祭も、これでフィナーレです。
 「2001年宇宙の旅」「ベンハー」「ロミオとジュリエット」「ドクトル・ジバゴ」「アラビアのロレンス」「愛と悲しみのボレロ」と、お馴染みの曲を、映画で流れた音楽を忠実に再現する楽譜での演奏です。指揮者の竹本さんは、近年こうした忠実なスコアの復元をなさっているそうです。

 「ドクトル・ジバゴ」のハープがきれいに聴こえて来ました。最後のトライアングルの響きが印象的でした。これは、私の好みです。
 「アラビアのロレンス」では、打楽器が大活躍です。タンブリンが印象的でした。シンバルの出番は1回だけでした。しかし、非常にいいタイミングで鳴りました。プロの1回勝負です。お疲れさまでした。
 「愛と悲しみのボレロ」は、徐々に盛り上がっていくAABBという進行がよくわかったので、15分間、惹き付けられるようにして聴きました。最後のシンバルは、バチを使っての、効果的な音を出しておられました。ここは、みなさんバチを使われるのでしたっけ?
 どうも、私は最後列の、目立たない方々の演奏が気になります。

 京都市交響楽団は、日本唯一の自治体直営のオーケストラです。私のようにクラッシックに馴染みがなくても、気軽に聴きに行ける演奏活動をしておられるのがいいですね。ますますの活躍が今後とも楽しみです。

 会場を出ると、すでに暗くなっていました。
 余韻を引きながら、来年もぜひ来たいと思い思いして帰路につきました。
 
 
 

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2010年11月20日 (土)

ポーランド語訳『源氏物語』の新情報

 今秋、立命館大学で開催された中古文学会で研究発表なさった園山千里さん(ポーランド国立ヤギェウォ大学文献学部東洋学研究所日本学科・准教授)から、現在までに収集できたポーランド語訳『源氏物語』に関する情報が届きました。
 まだメモ段階のものだとのことですが、貴重な情報なので、了解を得て以下に紹介します。

翻訳①
Literatura jap?nska od Ⅵ do po?owy ⅩⅨ wieku
Melanowicz Miko?aj
PWN, Warszawa 1994
〈日本語訳〉
『6世紀から19世紀中葉までの日本文学』
メラノビッチ ミコワァイ
PWN出版、1994年・ワルシャワ
 →未確認


翻訳②
Estetyka japo?ska s?owa i obrazy antologia
Redakcja Krystyna Wilkoszewska
Universitas, Krak?w 2005
〈日本語訳〉
『日本の美学 言葉と絵画 名詩文集』
クリスティナ ヴィルコシェフスカ(編者)
Universitas出版、2005年・クラクフ

概要
『古今和歌集』や『平家物語』などの断片の翻訳と解説文。『源氏物語』はイボォナ コルヂィンスカ・ナブロツカ氏によって、帚木・紅葉賀・絵合・乙女・篝火が部分的に翻訳されている。


翻訳③
W kr?gu tradycji dworu Heian
Redakcja Iwona Kordzi?ska-Nawrocka
Wydawnictwo TRIO, Warszawa 2008
〈日本語訳〉
『平安朝の文化』
イボォナ コルヂィンスカ・ナブロツカ(編者)
TRIO出版、2008年・ワルシャワ

概要
平安時代の文化・文学をテーマにした論文集。執筆者は、ナブロツカ氏とナブロツカ氏のゼミ(2006年〜2007年度)に参加していたワルシャワ大学日本学科の学生。『源氏物語』をテーマにした論文に部分的な翻訳がみられる。


翻訳④
Dziesi?? wiek?w Genji Monogatari w kulturze Japonii
Redakcja naukowa Iwona Kordzi?ska-Nawrocka
Wydawnictwa Uniwersytet Warszawskiego, Warszawa 2009
〈日本語訳〉
『日本文化としての源氏物語千年』
イボォナ コルヂィンスカ・ナブロツカ(編者)
ワルシャワ大学出版会、2009年・ワルシャワ

概要
2008年秋、ワルシャワ大学にて『源氏物語』千年紀にまつわる学会が開催された。三日間にわたる学会発表を論文化した本。個々の『源氏物語』に関する論文の前に、編者ナブロツカ氏とヴィエスワフ コタンスキ氏によって、10巻の部分的な翻訳がされている。巻名は、帚木・夕顔・若紫・紅葉賀・賢木・須磨・絵合・乙女・蛍・篝火。


 まだ、ポーランドでは『源氏物語』の全文を翻訳したものはないそうです。
 こうした部分訳の積み重ねを経て、全訳が誕生するはずです。
 その日が近いことを楽しみに待ちたいと思います。

 また、今月の11月8日と10日に、ワルシャワ大学で開催された以下のシンポジウムのプログラムも、PDFで送っていただきました。
 興味のある方は、以下のタイトルをクリックしてダウンロードしてみてください。



日本文化-その価値観の多様性
西田幾多郎生誕 140 周年記念シンポジウム


 
 
 園山さん、貴重な情報をお送りいただき、ありがとうございました。
 
 私は、日本の若い人たちに、海外での日本の古典文学への取り組みの現状を、さまざまな形で報せるようにしています。
 日本の古典文学のことを、日本の中に閉じこもって考えているだけでは、新しい展望は開けません。これだけたくさんの研究情報が拡がっている現在においては、独り相撲で終わりかねません。
 行き詰まりを打開する意味でも、研究を志す若い方々に、さまざまな刺激を与えつづけていきたいと思っています。特に、海外からの眼で見たアプローチは、たくさんのヒントをもらえます。
 さらには、日本の中で職を探すだけでなく、海外での就職もあることを、海外で活躍なさっている方々の動向から掴んでいただけたら、とも思っています。

 来週の土曜日と日曜日、11月27日・28日には、立川の国文学研究資料館で「第34回 国際日本文学研究集会」が開催されます。ここには、海外で活躍されているたくさんの方々がいらっしゃいます。
 土曜日の夕刻からは、レセプションがあります。来日なさっている方々との懇談も自由にできます。こんな機会を、どうぞ活用してください。
 私も、このイベントから仕事に復帰する予定です。
 たくさんの若い方々がいらっしゃるのを、心待ちにしています。
 
 
 





2010年11月19日 (金)

新新雑記(94)インフルエンザの予防接種

 自宅近くにある警察病院へ、インフルエンザの予防接種を受けに行って来ました。京大病院とつながりのある病院だとのとで、ここにしました。
 妻も息子も、すでにインフルエンザ対策はしたようです。今、家の中で一番抵抗力のない私が何も感染対処をしないのはまずいと思い、また上京後に職場のみなさんに迷惑をかけないためにも、この時点で予防接種を受けることにしました。初めてのことです。
 このところ風邪気味だったこともあり、併せて診てもらいました。

 風邪気味の時は、解熱剤などの影響があるので、インフルエンザの予防接種はしないそうです。しかし、熱もなく、ノドのトローチだけでいいようなので、来週上京して仕事を再開するということなら打ちましょう、ということになりました。

 また、尿糖が出ているが、とのことでした。手術前までは、カロリーコントロールをしていたことを伝えました。胃を切除した影響では、とおっしゃっていました。
 このところ、糖尿病のことをまったく気にせずに、とにかく栄養を付けることだけを考えた食事をしていました。肉も甘いものも、何でも食べていました。それでいて、体重がまったく増えないので困っていたのです。

 あまりにも節操のない食事だったので、そろそろ血糖値を意識しないと、と思っていた時でもあったので、血液検査を受けることを申し出ました。
 来週上京する前に検査結果を聞きに来る、ということで採血をしてもらいました。

 体重が50キロを割ったままでの上京に、やや不安があります。しかし、これは時間がかかることでもあります。今は、とにかく来週からの勤務再開に照準を合わせ、体調管理に万全を期したいと思っています。
 
 
 

教科書に見る平安朝・小学校—国語(5)教育出版(その2)

 教育出版が作成した、小学校国語科教科書134冊について、この「教育出版(その2)」では、小学4年生と5年生の教科書をとりあげます。小学6年生は、次の「教育出版(その3)」でまとめます。

 これまでの経緯と報告は、次の記事をご覧ください。

「教科書に見る平安朝・小学校—国語(1)」(2010年10月31日)

「教科書に見る平安朝・小学校—国語(2)中京出版・大日本図書・二葉図書」(2010年11月 8日)

「教科書に見る平安朝・小学校—国語(3)学校図書」(2010年11月 9日)

「教科書に見る平安朝・小学校—国語(4)教育出版(その1)」(2010年11月11日)


【教育出版】(134冊中、小学4年生と5年生分)

 昭和29年度用


5年下 『源氏物語』に言及し写本の影印(「桐壺」)


※この年度は、藤村作が編集者です。この5年生用「五の下」の「ことばと文字の話」という教材の2箇所に、『源氏物語』への言及があります。

・「あの有名な『源氏物語』(ふりがな「げんじものがたり」)や『枕の草子』(ふりがな「まくら そうし」)などは、この平がなによって書かれた作品なのです。」(65頁)
・「『源氏物語』や『枕の草子』などのように」(67頁)

そして、『源氏物語』「桐壺」巻の写本の影印も添えてあります。
 
 
 
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 この写真は少しずれています。また、「源氏物語」というキャプションも手書き風です。どのような事情があってのものなのでしょうか。やや稚拙な編集のように思えます。
 今回、京都府立図書館で閲覧した教科書は、教科書センター用見本です。したがって、実際に印刷された教科書は、さらに編集の手が加わったものかもしれません。この点は、専門家に伺うしかありません。今は、私見を記すことに留めます。
 また、この影印は「桐壺」の巻頭部分です。ただし、手元に資料がないので、この『源氏物語』がどこの所蔵本なのか、今はわかりません。お分かりの方からのご教示をいただけると助かります。いずれにして、次期昭和33年度用教科書の監修者となる池田亀鑑が、この画像の提供者だと思われます。
 なお、この五年生用は『改訂 国語 五の下』となっています。改訂前にも『源氏物語』の影印があったのか、その内容を知りたいのですが、京都府立図書館所蔵の教科書の範囲で調査した結果をまとめている現段階では、今後の課題の一つとしておきます。


 
 
 昭和33年度用

5年上 『源氏物語』の写本の影印、「はくがのふえ」


※この年度は、池田亀鑑と坪田譲治の2人が監修者です。
 
 
 
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 そして、「文字の話」という単元で『源氏物語』の影印画像が掲示されています。
 
 
 
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 この頁では表音文字と表意文字、そしてかなの説明があります。次の頁に移ると「有名な『源氏物語』(ふりがな「げんじものがたり」)や『枕草子』(ふりがな「まくらのそうし」)などの作品は、このひらがなが作りだされていたからこそ、できたともいえましょう。」(56頁)とあります。
 これは、前回の藤村作の編集になる教科書での説明文に酷似しています。おそらく、共に池田亀鑑の手になる文章だと思われます。
 さらに、ここに使われた『源氏物語』の写本の影印は、昭和29年度版とはまったく異なる写本です。そして、さらに驚くことは、この写本が現在どこに所蔵されているものなのか、まったく不明な本なのです。
 これは、『源氏物語』54巻の中の第49巻「宿木」の後半部分です。
 この影印の3行目に「ほのめかしたり」とあります。そして、「し」と「た」の間の右横に、小さく「申」という漢字が書き添えてあります。このことを『源氏物語大成』(1762頁12行目)と『源氏物語別本集成』(497509文節目)で確認すると、すべての写本が「ほのめかし申したり」となっています。このように「申」を欠き、その「申」を補入する写本が見あたらないのです。
 また、6行目の「ひたちにくたり」とある箇所についても、『源氏物語大成』(同14行目)も『源氏物語別本集成』(497524文節目)も、「ひたちになりてくたり」と「なりて」のある写本ばかりです。この教科書に掲載された影印のような本文が、今私が確認できる資料の中に見つからないのです。
 なぜ、池田亀鑑はこの巻のこの箇所を教科書に掲載したのでしょうか。今の私にとっては、大きな疑問です。普通に考えれば、池田亀鑑が『源氏物語』の最善本とした大島本の影印が掲載されていそうです。しかし、そうなっていないのです。
 なお、この単元について、教科書の巻末にある「解説」では、5月に教えるものとして、次のように記されています。


目標
○文字についての知的理解を深めて、使い方を一層合理的にする。
○経験と結びつけて説明文を読む。
指導上の留意点
○四年上「研究発表」—かん字の使い方—の発展として扱う。四年では漢字に限定して理解を深めたが、ここでは文字全体について説明している。
○既習の文字を無意識に使用していた今までの学習を反省しながら扱う。
○文字を集めたり、例を拾い出したりして、この文章に述べている内容を理解し、使用に直結させる。

 それにしても、この影印には池田亀鑑の拘りがあるように思えます。ただし、なぜこの「宿木」巻なのかは謎です。
 参考までに、この教科書の奥付を掲載しておきます。
 
 
 
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 昭和36年度用


4年下(欠本)
5年上 「はくがのふえ」
5年下 『源氏物語』の写本の影印


※この年度の監修者は、坪田譲治1人となります。池田亀鑑は昭和31年12月に亡くなっています。
 ここでも、「文字の話」という単元はあります。しかし、説明文にあった『源氏物語』と『枕草子』の作品名が消え、挿絵としての『源氏物語』の影印のキャプションが、「源氏物語」とあるだけだった前回から「ひらがなで書かれた『源氏物語』」と変更になります。昭和33年度と同じ影印なのは、池田亀鑑の使ったものをそのまま転用したからです。
 なお、この頁の前には、漢字の音訓に関する説明で「漢字ばかりで書かれた『万葉集』」というキャプション付きで『万葉集』の版本の影印が掲載されています。

 
 
 昭和40年度用

5年下 『源氏物語』の写本の影印、「はくがのふえ」


※この年度から、監修者は坪田譲治、亀井勝一郎、池田弥三郎の3名となります。そして、「日本の文字」という単元では、昭和36年とほぼ同じ説明がくりかえされています。また、影印もまったく同じです。この『源氏物語』の写本について、池田亀鑑の配慮がそのまま継承されているのです。

 
 
 昭和43年度用

5年上 『源氏物語』の写本の影印
5年下 「はくがのふえ」


※『源氏物語』の写本の影印の取扱は、前回の昭和40年とまったく同じです。影印だけで、説明文の中には『源氏物語』も『枕草子』も出てきません。

 
 
 昭和46年度用

5年下 『源氏物語』の写本の影印ナシ


※この年度から、監修者は西尾実となります。そして、「日本の文字」という単元から『源氏物語』の写本の影印がなくなります。以降、昭和49年度、昭和52年度ともに、この『源氏物語』の写本の影印は復活しません。

 
 
 昭和49年度用

※特にコメントすべきことはありません。

 
 
 昭和52年度用

※特にコメントすべきことはありません。

 
 
 昭和55年度用

※特にコメントすべきことはありません。

 
 
 昭和61年度用

5年上(欠本)

 
 
 昭和64年度用

5年下(欠本)

 
 
 平成4年度用

5年(欠本)

 
 
 教育出版の小学4年生と5年生用の教科書を通覧して、昭和29年度用と昭和33年度用の教科書に、平安時代の香りが顕著に確認できました。それも、『源氏物語』の影響です。
 『源氏物語』の写本の影印を小学生が使う教科書に採用するのは、池田亀鑑だからこそできたとも言えます。
 以降、教科書から平安時代の雰囲気はまったく排除されていきます。残念です。
 
 
 

2010年11月18日 (木)

京洛逍遥(171)京都御所一般公開-2010秋

 私のブログでは、京都や奈良や『源氏物語』に関する写真を、可能な限り掲載するようにしています。
 それは、全国の小学校・中学校・高等学校の授業で、そうした写真を有効に活用してくださっているからです。このことは、15年前にインターネット上にホームページ〈源氏物語電子資料館〉や〈へぐり通信〉を立ち上げて以来、ズッと意識していることです。

 少し専門的な『源氏物語』の本文に関する情報は、大学の学生さんがレポートなどで活用なさっているようです。これなども、大歓迎です。ただし、勝手に切り貼りでレポートを仕上げないでくださいね。指導される先生は、見抜いておられますよ。『源氏物語』の本文を2分別するのは、今のところ私しかいませんので。

 学校の先生から、教材の一部に活用しているという連絡をいただくたびに、少しでもお役に立っているようなので、安堵しています。
 これからの若い生徒さんたちが、日本の古典文学について、そして京都や奈良や『源氏物語』について、関連する写真や情報で親しみをもってもらえれば、大変心強いことだと思っています。日本の文化や伝統について、ぜひとも興味をもってもらい、自信をもって日本の良さを語ってほしいものです。

 国際化とか国際的という言葉が横行しています。しかし、その土台には、まず日本のことを諸外国の人に説明できる知識と見識が必要です。それなくして、いくら英語が得意だといっても、中身のない世間話に終始します。
 食べ物の話にしても、京都の食文化を少しでも話題に加えれば、海外の方との話も弾むことでしょう。

 英語やフランス語で日本の文化や伝統が説明できれば、すばらしいことではないでしょうか。外国語教育の基本には、自国の伝統や文化を理解することが、その前提にあるはずです。その意味では、私などは残念な英語教育を受けてきたのではないか、と、英語がうまく操れない自分を弁護しまくっています。

 そんなことを思っているので、私のブログの写真を学校で授業や説明に利用されているということを聞くと、どうぞどうぞ、と言っているのです。

 写真は、ソニーのデジタルカメラ「サイバーショット」(DSC-T20、2007年製)で撮影しています。1枚の写真は2メガバイトほどの容量のものです。それを、「フォトショップ」という画像編集ソフトを使って加工し、120キロバイトくらいに、だいたい約20分の1に軽くしてアップしています。横幅を800ピクセルに統一しているので、モニタや印刷にも十分に耐えられるはずです。これ以上の解像度にすると、写真を多用する私のブログは、モニタに表示される速度が遅くなるのです。重いブログにしないために、120キロバイトという容量の画像に行き着きました。

 さて、今日から、京都御所の一般公開が始まりました。
 毎年、趣向を凝らした演出がなされているので、楽しみにしています。

 今年の春の公開は、「京洛逍遥(134)京都御所の一般公開 -2010-」をご覧ください。
 雅楽と蹴鞠は今週末にあるそうです。

 今日も早速、岡崎の府立図書館へ調査に行く途中で、フラリと立ち寄ってきました。

 まずは、入口となっている宜秋門を入ってすぐの御車寄に、葵祭に関する人形が置かれています。
 
 
 

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 私は、自宅近くの賀茂街道添いで葵祭を見るので、この御所の中での儀式を見たことがありません。
 これは、なかなか貴重な再現シーンだと思います。

 今、お茶のお稽古のことが頭にあるので、お花についての写真も撮っておきました。
 これは、紫宸殿への入口となる日華門の左横の回廊沿いに活けてある、大きなお花です。
 「総本山 仁和寺 御室流」、「総本山 御寺泉涌寺 月輪未生流」、「大本山 大覚寺 嵯峨御流」の順に並べます。
 
 
 
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 今年の春の一般公開の記事で、「漢竹」の読み方のことを書きました。上記「京洛逍遥(134)」をご参照ください。
 確認のため、写真をあげます。
 『ジャパンナレッジ』で調べても、「漢竹」を「かわたけ」としては説明が出てきません。
 また、調べ直します。
 
 
 
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 今回の清涼殿では、更衣の様子が見られます。
 御帳台や几帳の帳(とばり)を取り替えるシーンなど、初めて見る貴重な光景となっています。
 
 
 
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 御学問所の前の御池庭の水面には、紅葉が映っていました。
 
  

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 今回も、参観できるのは御常御殿までです。それより北にある飛香舎(藤壺)は、昨年公開されました。
 「京洛逍遙(108)御所の秋季特別公開」で紹介しています。
 今となっては、源氏千年紀の「源氏千年(75)京都御所の一般公開」とともに、あれは本当に千載一遇のチャンスだったようです。

 今日から5日間の公開です。機会があれば、ぜひお立ち寄りください。

 ただし、平安時代の御所は、今の二条城の北の西陣地区にあたります。
 くれぐれも、誤解のないように。
 
 
 

2010年11月17日 (水)

井上靖卒読(113)『流沙』

 この『流沙』は、井上靖の小説の中でも、ベスト3に入る長さの作品です。
 このことは、「井上靖卒読(109)『崖』」(2010/06/02)で、次のように報告しています。


 井上靖の作品の中で、もっとも長いのは『わだつみ』です。『井上靖全集』で596頁(2段組み)の分量です。ただし、これは未完の作品なので、扱いが異なります。
 完結した作品として一番の長編は『崖』です。『井上靖全集』で534頁あります。64万字弱の分量なので、400字詰原稿用紙で1600枚という大作です。
 3番目に長いのは『流沙』です。『井上靖全集』で515頁なので、『崖』より少し短いというところでしょうか。


 最初に『流沙』を読んだのは、昭和57年の秋から翌春にかけてでした。ちょうど第一子となる娘が生まれる時を跨いで、5ヶ月がかりで読んだものです。その後、もう一度読んだように記憶しています。ただし、それがいつだったのか、今は思い出せません。
 今回は、入院した8月から3ヶ月かかりました。

 この作品については、ベートーベンのソナタ「ハンマークラビーア」を思い出します。最初に読んだ当時は、カセットテープを買ってきて、ピアノの曲を聴きながら読んだものです。今回も iPhone で聞きながらと思いながら、音楽を探し出せないままに終わりました。

 女主人公でピアニストの章子と、夫となった考古学者左門東平は、イスタンブールからテヘランへの新婚旅行に旅立ちます。しかし、章子はその旅行を5日間で打ち切ってでも、パリでのピアノ演奏会に行くと言い出すのです。文春文庫本で88頁目にして、2人の破局が訪れます。

 最初のイスタンブールでは、新婚の左門東平と妻章子の幸せなスタートは繭に喩えられています。

二人は自分たちで自分たちを、白く、やわらかく、匂やかな、優しいもので包もうとし、実際にまた包みつつあった。(上55頁)

 新婚旅行を打ち切ってでもパリのピアノ演奏会に行くと言い出した章子は、どう見てもわがままです。しかし、そこに章子らしさが凝縮されています。また、東平も頑固です。ドイツのボンを足場に、考古学者として生きることを主張します。
 新婚旅行先での諍いが、非常にリアルに、そして丁寧に描かれていきます。

 章子はパリへ帰り、東平はテヘランからバグダッドへ。砂漠を背景に、男と女の心の行き違いが語られます。

 バビロンの遺跡からユーフラテス川に出た東平は、その岸に立ち川面に眼を当てて、「どちらに流れているか判らぬような、どんぼりした流れ」(上154頁)だと思います。この「どんぼりした流れ」とは、どんな流れなのでしょうか。『ジャパンナレッジ』で39種類すべての辞書等を引いてみましたが、見当たりません。いずれ、ということにしておきます。
 なお、「さかとんぶり」(上304頁)ということばも出てきます。これは、奈良・神戸・京都の方言で、とんぼ返りのことです。井上は新聞記者として関西にいたので、そのときに覚えたことばなのでしょう。井上が育った伊豆地方にはないことばのようです。

 月光が落ち、満天に星が降るように散らばっている星蘭干の夜の砂漠でのことです。東平は、10年前に他の男と自殺した恋人の悠子と語らうことになります。
 死者との対話は、『星と祭』をはじめとして、井上靖の作品ではよく出てきます。この悠子は、明るい精霊として登場です。あけすけに語れるのは、心を許した間柄だからでしょう。
 後に、チューリッヒの星空が、そしてシリアの、またナイルの星空が印象的に描かれます。井上靖が得意とする、夜の空を見上げての描写といえるでしょう。

 ナイルでの夜、死者悠子と東平は語ります。悠子は、突然羅刹のように荒げた口調になります。その変化が、非常におもしろいところです。精霊の悠子が、突然悪霊のようになるのです。
 井上靖は『源氏物語』のことを生涯取り上げることはほとんどありませんでしたが、六条御息所を想起させるような、執拗に恨み言を言うのです。迫力があります。

 東平の研究テーマは、「クシャン朝の研究」です。アフガニスタンとインド西北部に栄えた国です。その話題から、イランなどへ行きます。井上靖は、読者をよく遠い旅に連れて行ってくれます。作者自身も、シルクロードの延長としての中近東を経巡っています。その経験が、砂漠を背景にした話を豊かに盛り上げています。サービス精神が旺盛なのです。

 アフガニスタンで、運転手役のボンさんの亡くなった愛人が会話に参加し、指示をしたりします。死者との対話の変形です。ボンさんは、生者と死者の架空の新婚旅行をしているのです。
 その後、ボンさんも新たな妻と波瀾万丈の末、ほほえましい夫婦となります。そして、東平に夫婦についてこう言います。「まず無心になれ」「自己主張はいかん」(下345頁)と。これは、井上靖の哲学の一部でもあるようです。

 章子は旧友のみゆきと、奈良の旅に出ます。今では熱狂的なファンが生まれている興福寺の阿修羅のことが、5頁にわたって描かれます(下34頁)。6本の腕が自由にビアノの鍵盤を叩くことを想い描く章子です。
 興福寺、東大寺、薬師寺と、奈良の仏像や塔を見て回るのです。
 また、章子はみゆきとイタリア旅行もします。ローマ、アッシジ、フィレンツェと、美術の旅をします。
 日本的なものと異国的な情景が、物語の背景にふんだんに現れます。

 章子は、密かに慕うパリの九堂と、手紙の中で会話をします。井上靖が得意な死者とではなくて、生者との自問自答を手紙を借りて語ります。
 そこでは、京都の高山寺の華厳経絵巻を引いて、章子の恋愛観が語られます。パリにいる九堂への手紙という形式で語りかけるのです。これも、新しい井上靖の手法となっています。

 最後になって、東平の親友の佐伯が唸ります(下382頁)。井上靖の作品によく出てくるパターンです。唸る男は、舞台廻しとなる役柄が配されることが多いようです。ここでも、佐伯は2人の相談相手となっています。

 東平と章子との結婚を巡るけじめについては、1年後にインドのダージリンで別れの会見をすることになっていました。しかし、それも2年後となり、ズルズルと時間が経過する中を、章子の方が先に動きます。パキスタンにいる東平の元に飛ぶのです。
 結婚を解消することで逡巡していたはずの2人が、3000年も前のモヘンジョダロの遺跡で再会し、そして、2年半の空白を埋めようとします。

 この作品は、長い長い話の中で、さまざまな愛の形が、異国の地を舞台にして展開します。
 背景が美しい、ゆったりとしたラブストーリーとなっています。ただし、今の若い方には退屈かもしれません。【3】
 
 
 

初出紙︰毎日新聞
連載期間︰1977年11月1日〜1979年4月10日
連載回数︰515回


文春文庫︰流沙
井上靖全集21︰長篇14
 
 
 

2010年11月16日 (火)

豊島科研の最終研究会に参加して

 國學院大學の豊島秀範先生が平成19年度より開始された、基盤研究(A)「源氏物語の研究支援体制の組織化と本文関係資料の再検討及び新提言のための共同研究」(課題番号:19202009)が、今年平成22年度で4年間の活動をひとまず満了となります。
 
 その最終の共同研究会が、先週土曜日に開催されました。数えて、第17回です。よくぞここまで運営してこられたものだと、豊島先生のご苦心とご努力に対して、深甚の敬意を表したいと思います。

 私も、最初から関わった一人として、最終回の会合には何とかして参加すべく、国文学研究資料館の事務といろいろと折衝を重ね、個人研究費による出張という形で久しぶりに上京しました。
 私の調査研究活動は、関西方面では業務上の許可を受けていました。しかし、東京へ出向くとなると、別途許可を必要としていたのです。病気療養中といっても、実質的にはインターネット等を通していくつもの業務をすでにこなしていますが、書類上はなかなか面倒なことです。
 とにかく無事に許可がいただけたので、身の回りの世話をしてくれている妻を伴って新幹線に乗りました。あまり体調はよくなかったのですが、どうにか無事に帰洛の途に就いたことなどは、一昨日の本ブログに記したとおりです。

 さて、豊島科研の研究会は、次のプログラムで進行しました。

◆第17回「源氏物語の本文資料に関する共同研究会」 
日時 11月13日(土) 13:00〜
場所 國學院大學 120周年記念2号館 1階 2102教室
内容
開会の辞:渋谷栄一(高千穂大学)
 
第一部 研究・報告1(13:00〜)/司会:菅原郁子
 豊島秀範(國學院大學)
  吉川家本(毛利家伝来『源氏物語』)の本文について
 上野英子(実践女子大学)
  山岸文庫蔵伝明融等筆源氏物語の書誌報告2
 田坂憲二(群馬県立女子大学)
  内閣文庫本系統『紫明抄』の再検討
 神田久義(國學院大學大学院特別研究生)
  外形的性質から見た米国議会図書館本
 
第二部 研究・報告2(14:50〜)/司会:神田久義
 菅原郁子(國學院大學大学院特別研究生)
  正徹本のありかとゆくえ
 渋谷栄一(高千穂大学)
  藤原定家筆・四半本系「源氏物語」本文データベースについて
 中村一夫(国士舘大学)
  仮名文テキストの文字遣
 遠藤和夫(國學院大學)
  注釈書中の室町語彙
 
第三部 最終報告(17:00〜)/司会:國學院大學
 
閉会の辞:豊島秀範

 豊島先生のご高配により、私には無理をしないようにと、特に役割を与えられませんでした。感謝します。

 今回も、いつものように資料を駆使しての手堅い研究報告が並びました。
 この研究会での研究発表は、毎回充実しています。もっとたくさんの若い研究者の参加が得られたら、と、この日も思いました。
 詳しくは、豊島科研のホームページ、及び科研の報告書をご参照ください。
 報告書の入手を望まれる方は、ホームページを通して連絡を取られたらいいかと思います。
 『源氏物語』の本文研究に関する最先端の情報が満載です。これを無視しては、今後とも『源氏物語』の本文については語れないはずです。

 さて、この会に参加して、私は一つだけ悔いが残っています。
 それは、この4年間を通して、最後まで、〈青表紙本〉〈河内本〉〈別本〉という、もう80年も前に池田亀鑑が提唱した、『源氏物語』の本文を3分類する考え方を土台にした発表がなされたことです。

 『源氏物語』の本文は、写本の形態的な分類によれば、池田亀鑑の3分類もいいかもしれません。わかりやすいのです。ただし、それは昭和11年までに整理された分類での仕分けであることに注意が必要です。しかも、その後に確認された写本を含めて、写本に写し取られた『源氏物語』の本文を子細に読んで仕分けると、2つにしかわけられないのです。
 そのことを、近年くりかえし論文の形で公表してきました。私は、〈甲類〉〈乙類〉の2つに分けています。これまでの〈河内本群〉とでもいうものが、おおよそ〈甲類〉にあたります。

 このことを、この豊島科研でも強調してきたつもりです。また、豊島科研のスタート時点でも、本文の分類は、これまでのものをリセットして、白紙の状態で臨む、となっていました。しかし、終始、池田亀鑑の3系統論なるものがまかり通り、最後の先週の研究発表でも、それが基準となっての研究発表が目立ちました。

 私としては、ウーンと唸らざるをえませんでした。
 本文の形態的な分類と、本文の内容を読み取っての文学的な分別の違いについて、この4年間で私にはまったくこの研究会に足跡を残せませんでした。力及ばず、再起を期すしかありません。

 いまだに、池田亀鑑の3系統の分類は亡霊のように強かに生き残っています。
 さて、どのようにして撲滅すればいいのでしょうか。
 私が提唱する、『源氏物語』の本文は内容から見たら2つにしか分かれない、という私見は、まだまだ支持を得るには時間がかかりそうです。間違っていない証拠に、何年にもなるのに、いまだに1つの反論さえ出されていません。
 私見が無視されているのではないようです。みなさんがおっしゃることには、『源氏物語』の本文資料が手元にない、という一語につきるようです。『源氏物語大成』はすでに資料集としては使えないことは、すでに多くの方が気づかれるようになりました。そのためにも、『源氏物語別本集成』全一五巻(伊井春樹・伊藤鉄也・小林茂美編、平成元〜一四年、おうふう)と『源氏物語別本集成 続』全七巻(伊井春樹・伊藤鉄也・小林茂美編、平成一七〜二二、おうふう)があります。しかし、これは使いにくいし、使い方がわからないとも。

 こうなると、さらに根気強く「『源氏物語』の写本は書かれた内容から見ると2つにしか分別できない」ということを、しつこく言い続けるしかありません。

 『源氏物語』の本文に関する〈2分別私案〉は、今後とも粘り強く主張していきたいと思います。
 そんなことを教えてもらった、この4年間の研究会でした。
 まだ、私にはやるべき仕事があるようです。

 それはともかく、豊島科研にかかわられたみなさま、まだ仕事は残っています。
 その残務はそれとして、とにかく4年間お疲れさまでした。
 非常に有意義な共同討議の場でした。
 またいつか、このようなスケールの大きなテーマで、お互いの意見を闘わせましょう。

 豊島秀範先生、ありがとうございました。
 
 
 

2010年11月15日 (月)

娘からのフランス便り

 5日前にフランスへ旅立った娘が、早速ブログを書き出したようです。
 気分転換にご笑覧を。

「リヨンBAC+4」


 最初の記事になる「リヨンのおばちゃん」(2010/11/10)に出てくる巨大なスーツケースというのは、数年前に私がインドで買ったものです。

 今、マスコミなどで大活躍の北海道大学の中島岳志さんと一緒に、インドのお寺で2ヶ月ほど暮らしました。フラリとやってきた娘も、中島さんのお世話になりました。今でも感謝しています。そのおり、チョコチョコとどこへでも行き、すぐにいなくなる娘の相手をしてもらったときに、中島さんはこの娘は一人で海外に行かない方がいいのでは、というアドバイスを受けました。ところが、その後、娘はイギリスの大学を卒業し、今はフランスへ行っています。人間、どこでどう変身するかわからないものです。

 さて、そのインドからの帰りに、ニューデリーの南東のイースト・オブ・カイラーシュにあるMブロックマーケットのカバン屋さんで、中島さんとお揃いの大きなスーツケースを買いました。確かにこれは、大人が2人は入れる大きさです。

 今回、娘がフランスへ出発する直前に、一番大きなものがいい、というのでこれを貸しました。
 それなり(?)に、役だったようです。
 
 
 

2010年11月14日 (日)

京洛逍遥(170)宮川町歌舞練場で舞踊を見る

 久しぶりに新幹線に乗って上京してきました。3ヶ月ぶりです。
 こんなに長期間にわたって東京を離れていたのは、6年前にインドへ3ヶ月ほど行っていたとき以来だと思います。

 東京での用事を無事に済ませ、新幹線で京都に帰ってくると、すぐその足で四条にある宮川町歌舞練場で開催されていた舞踊を見に行きました。

 お腹の調子がよくなかったので、東京出発をゆっくりと組んだこともあり、少し遅れて入場しました。
 
 
 
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 私は舞踊にはまったくの素人です。しきたりも見所も、何一つわかりません。前の方の席で、ただただ見ていました。
 演目に変化があったせいか、楽しく拝見することができました。みなさんの日頃のお稽古の成果が、晴れ舞台で華やかに披露されていたように思います。

 若柳弘帆さんの長唄・越後獅子は、旅芸人の初々しさが伝わってきました。
 
 
 
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 若柳吉龍波さんの長唄・新鹿の子は、上品でした。女性だとばかり思っていたところ、後でパンフレットを見て男性だったことを知りました。また、新名取の披露だったとも。ますますの活躍が楽しみな方のようです。

 若柳波和子さんの長唄・鷺娘も、印象に残りました。白無垢で始まった踊りが、七変化よろしく早変わりのみごとさと楽しさが伝わってきました。紙吹雪も効果的でした。花道をも使った踊りで、スケールの大きさを見せてもらいました。

 途中で、小さな男の子と関係者の方が、舞台から紙に包んだものを客席に投げ始められました。
 ちょうど私が前にいたので、その一つを受けることができました。見ると、金平糖を包んだものです。
 何もわからずに見ていた闖入者です。しかし、これも何かのご縁なのでしょう、ありがたく頂戴しました。

 宮川町の歌舞練場は、四条にある南座から南へすぐのところにあります。花街の一角にあり、何度も前を通っていました。中に入るのは、今日が初めてです。
 毎年4月に、この宮川町歌舞練場で「京おどり」が開催されます。
 中には、学校法人東山女子学園があり、舞妓さんや芸妓さんのための教育施設となっています。
 それに加えて、宮川通りには、舞妓体験ができるお店が何軒かありました。ここは舞妓さんの気分にさせてくれる一帯で、周りには出雲阿国以来の茶屋が建ち並ぶところです。
 お茶屋さんにも、入ったことがありません。またいつか、そんな機会もあることでしょう。いつかまた……
 
 
 

2010年11月13日 (土)

心身雑記(93)腹痛との闘い

 10日ほど前に天橋立へ行こうとしたとき、出がけに突然、お腹が苦しくなりました。次第に痛みが増しました。あのときと同じように今回の東京行きでも、出発直前になって激しい腹痛に見舞われました。1時間ほど休むと治まるのがわかっているので、少し出発を遅らせました。1時間というものは、歯を食い縛りながらも、痛みに耐えるしかありません。

 原因は、新幹線に乗る時間のことが気になり、あまりにも急いで、よく噛まないで食事をしたことにあります。
 時間に逐われて食事をしてはいけない、ということです。わかってはいるのです。しかし、つい急いで食べて、サッと出かけようとしてしまうのです。体調がいいときに限って、この腹痛を招いてしまいます。

 どうやら、食べる量が問題ではなくて、食べる速さがこの腹痛と密接に関係しているようです。その意味では、誰かと一緒に食事をするのが一番です。
 独りで食べるよりも、誰かと一緒であれば、自ずと食べるペースはゆっくりになります。また、外食であれば、半分を食べてもらうこともできます。
 今は妻が付き合ってくれています。しかし、そうそういつも一緒に、というわけにもいきません。
 いつも誰かにそばにいてもらうのが、最良の食事となります。しかし、これは、けっこう贅沢なことかもしれません。

 また、食事のときにお酒があるのもいいようです。
 腹痛に見舞われて苦しんだ最近の2回の食事とも、遠出をするときということもありますけれど、お酒を呑むゆとりなどまったくない状況での出来事でした。
 ほんの少しでもいいので、お酒を呑むだけの余裕のある食事をしなさい、ということなのでしょう。もっとも、朝っぱらから呑むわけにもいかないので、気持ちの余裕を、ということです。

 手術で胃をすべて摘出するという事態を受けて、自分の身体の中に消化器がない生活をすることになりました。食べることは毎日のことなので、食事のしかたは、今の私にとっては命がけです。その中で、困ったことに直面しては、少しずつその対処法としての知恵を付けていっています。この繰り返しの日々の積み重ねによって、自分なりの消化器官ができていくのでしょう。

 とにかく、気長に長生きをして行く中で、残されたこの厄介な内臓たちと仲良く付き合っていくことにします。
 
 
 

2010年11月12日 (金)

伊井先生の講演「与謝野晶子の源氏物語礼賛歌」

 今日は早朝より、逸翁美術館館長の伊井春樹先生が「与謝野晶子の源氏物語礼賛歌」と題する講演をなさいました。
 会場は、大極殿跡地のすぐ西にある、京都市生涯学習総合センター(京都アスニー) です。
 いつもなら自転車で行くところです。しかし、明け方から突然の雨のため、タクシーを使いました。

 インターネットでイベントの紹介を見ると、次のように書いてあります。

平成22年度ゴールデン・エイジ・アカデミー
 11月のテーマ
 『古典に親しむ-古典の日記念 京都市平安京創生館 開設1周年-』

 ゴールデン・エイジとあります。至福の時代とか最盛期という意味でしょうか。生涯学習の別表現として、なかなかうまいと思います。聴講者の年齢層が高いことを予想させます。

 先生は登壇なさっての冒頭、今の若い女性の言葉に「よさのっている」というのがあり、それは髪型が整わない意味で、与謝野晶子の『みだれ髪』から来ている、と切り出されました。
 来場者の年齢層が高いだけに、ホーッと感心する反応が、あちらこちらから上がりました。
 会場はギッシリ満員で、600名以上の人で埋まっています。最初から聴衆の心を掴んで始まりました。

 私は、堺市が所蔵されている晶子自筆原稿をデータベース化する仕事のお手伝いをしているところです。先生のお話を伺って勉強をさせていただくために来ました。
 今日は、晶子が『源氏物語』にかけた思いの一端を、「源氏物語礼賛歌」に注目して語られました。

 この「源氏物語礼賛歌」は、昭和13年より刊行された晶子の『新新訳源氏物語』(全6巻)の各巻頭に掲載されています。
 今、『新新訳源氏物語』に関する先生のお話は省略します。ちなみに、谷崎潤一郎の『潤一郞訳源氏物語』が刊行されるのが、翌昭和14年からです。晶子が亡くなったのは、昭和17年です。『源氏物語』の現代語訳が相次ぐ時代のことです。

 配布されたプリントの年譜を使って、晶子が生まれた明治11年から、亡くなる3年前の昭和14年までの足跡を、わかりやすく話されました。

 昨年から先生が就かれた逸翁美術館には、小林一三に宛てた手紙や文書類がたくさんあるそうです。その中に、晶子からのものも、伊井先生は発掘なさっています。新資料のいくつかを紹介しながら、大正6年を中心とした話が展開しました。

 そもそも、与謝野鉄幹と晶子には11人の子供がいました。そのためもあってか、晶子は金銭的なことを書いた手紙が多く確認されています。小林一三のもとにも、そのような手紙がいくつかあるようです。

 本日のお話のポイントは、伊井先生が想定される、大正6年6月から8月の間に晶子が阪急の苦楽園に来たときに小林一三と逢い、そしてその折に「源氏物語短冊屏風」を見たのではないか、ということです。
 その2ヶ月前の4月に、一三は上田秋成筆「源氏物語詠短冊屏風」を購入しています。これは、「小林一三美術品購入帳」に明記されていることです。スライドで、その資料の写真を見せてくださいました。

 この秋成の短冊屏風を見た晶子は、非常に感動したようです。そして、自分も「源氏物語礼賛歌」を作り、大正9年正月に一三に短冊を贈呈しています。秋成のように屏風にしていただければ、と。
 そして、逸翁美術館から見つかった手紙には、「活字にはいたさず候、遺稿をあつめ候せつ」にでも公開してほしい、と記してあります。

 ところが、その3年後の大正9年3月に、これも経済的な支援者だった小林天眠宛の手紙には、九条武子と天眠に、同じような源氏五十四帖を歌った短冊を贈っていることが書かれているのです。
 一三への手紙で、「源氏物語礼賛歌」は活字にはしないので、遺稿集で公開してほしい、と書き送った意味がよくわからなくなります。その後の心境の変化なのでしょうか。
 さらには、その2年後の大正11年1月に、雑誌『明星』に「源氏物語礼賛歌」を掲載しています。
 伊井先生の説明によると、晶子はよほどこの「源氏物語礼賛歌」が気に入ったようだ、とのことでした。また、お金のためもあったのでしょうが、とも。

 一三は、晶子の短冊を屏風にはしませんでした。今でも、逸翁美術館には、短冊のまま包まれて大切に保存されているそうです。写真をスライドで見せてくださいました。
 伊井先生は、他へも「源氏物語礼賛歌」を贈っていることから、一三は屏風にしなかったのかもしれない、ともつぶやいておられました。

 いずれにしても、晶子の「源氏物語礼賛歌」はいくつもあり、しかもその歌が少しずつ違うそうです。
 逸翁美術館には、晶子から一三宛の手紙などの新資料がいくつかあることもあり、今後の調査研究の進展が待ち望まれます。

 90分の講演時間を、盛りだくさんの充実した内容で、いつもの伊井節で堪能させていただきました。
 先生には珍しく、1分だけ超過しての終了でした。ラジオなどでも有名ですが、先生はお話を決められた時間ちょうどに終わられる特技をお持ちです。この1分のオーバーは、ご自身にとっては「惜しかったなー」という思いを残されたのかもしれません。

 先生がお忙しいことは私も承知しており、ご講演中も客席の私の方チラチラと見ておられたので、特にご挨拶をすることもなく会場を後にしました。君がいると喋りにくくて、とおっしゃることがわかっているからでもあります。

 1階の京都市平安京創生館で、企画展として「『源氏物語』の世界(梅枝より)-平安京と香りの文化-」を開催していました。せっかく来たので、これを少し見て帰ることにしました。

 この展示は、京都アスニーのホームページによると、次のように紹介されているものです。


『源氏物語』梅枝の帖に描かれる薫物合の場面を再現し,平安時代に生きる人々の香りとのかかわり方をご覧いただきます。貴族によって花咲いた雅の世界とともに,寝殿造りの住まいや調度も併せてご鑑賞ください。

 ここでの主な展示品は「源氏物語六条院寝殿模型」です。「梅枝」巻の再現場面が見られます。六条院の春の御殿の復元です。東西5間、南北2間(五間四面)の母屋を、1間の廂が廻らされています。

 模型は、実際の4分の1に縮小されています。調度や人形など、非常によくできた模型です。雛遊びの様子に注目しました。また、後ろに数段のステップが置かれていて、そこに昇ると、絵巻の吹き抜け屋台の絵を彷彿させる、寝殿造りを斜め上から鳥瞰することができます。心憎い気配りです。
 この模型は、風俗博物館から借りてこられたものです。一見価値があります。

 後で、主催者の方から京都アスニーの宣伝をよろしく、とのことだったので、少しでも協力する意味からも、ホームページの写真を転載させていただきます。
 
 
 
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 ここへ来るのにはバスを使うことになるので、少し不便です。しかし、来れば平安京の全体と建物の実際が体感できます。一度足を運ぶ価値は十分にあります。

 この展示を見終わって帰ろうとしたとき、ちょうど伊井先生が主催者の方に展示室を案内してもらわれるところに出くわしました。君が客席にいるのでびっくりしたよ、とおっしゃいながら、ちょっと待っていて、とのことです。

 先生が展示の案内と説明を受けられた後、見送りのタクシーまでの間、歩きながら少しお話をしました。
 これから、大阪へ急いで行き、貴重な資料を見せてもらうのだそうです。先生はいつも、飛び回っておられます。
 私も、これから東京に行きます、と伝え、慌ただしく先生をお見送りしました。
 
 
 

2010年11月11日 (木)

教科書に見る平安朝・小学校—国語(4)教育出版(その1)

 教育出版が作成した、小学校国語科教科書134冊についてまとめます。
 この「教育出版(その1)」では、小学3年生までの教科書をとりあげます。

 これまでの経緯と報告は、次の記事をご覧ください。

「教科書に見る平安朝・小学校—国語(1)」(2010年10月31日)

「教科書に見る平安朝・小学校—国語(2)中京出版・大日本図書・二葉図書」(2010年11月 8日)

「教科書に見る平安朝・小学校—国語(3)学校図書」(2010年11月 9日)


 さて、ここでも、小学校の教科書に、平安朝らしさを伝えるものがどれくらいあるか、ということを見ていきます。
 その手がかりとして、小学校の教科書らしく、多用されている挿絵などに注目しました。貴族男女の衣服や、乗り物としての牛車に着目しています。中世の説話や近世などの話に、お姫様が出てきます。しかし、それは適宜ケースバイケースで、私なりに判断しました。
 なお、参考までに、インドに関する教材も、チェックしたので備考として記しています。
 
 
【教育出版】(134冊)

 昭和29年度用


2年上 一寸法師
2年下 (表紙に浦島太郎とかぐや姫の絵)
3年上 笛の名人(男の衣装)、ぞうの話(インド)、つり針のゆくえ(古事記)


※この年度の教科書は、藤村作が編者です。次期の編集には、その弟子で一緒に紫式部学会を創設した池田亀鑑が、作家の坪田譲治と2人で監修者になっています。師弟による教科書編集の引き継ぎがあったといえましょう。
 3年生上にインドの「ぞうの話」があります。

 
 
 昭和33年度用

1年中 浦島太郎
3年上 大山へ(鳥取)、山にのぼろう(正善達三)、ぞうの親子(インド)

 
 
 
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※この年度は、池田亀鑑と坪田譲治が監修者です。池田亀鑑は、昭和31年12月に亡くなっていますので、刊行されたときにはすでにいません。その配慮か、池田亀鑑の肩書きは「文学博士」であり、「東京大学教授」は付いていません。これは、昭和29年度の編集者である藤村作の表記を踏襲しただけかもしれませんが。
 編集者の中に、鳥取市遷喬小学校長・稲村謙一(平成17年没)がいます。これは、池田亀鑑が鳥取出身からくる縁での選任だと思われます。まだ調べていませんが、教え子ということが考えられます。
 3年生の教材「大山へ」は大山へ遠足に行った話です。また、「山にのぼろう」も、山から汽車や海や船を見下ろす話です。共に、鳥取県と特定はしていません。しかし、池田亀鑑は東京に出るまでは鳥取県の大山の麓で育ちました。後年、『花を折る』(中央公論社、昭和34年)所収の随想を見ると、この大山をしばしば旧懐の情をもって語っています。ここは、大山を思い描いての文章になっていると言っていいでしょう。
 インドの「ぞうの話」が、別のものとなって採択されています。

 
 
 昭和36年度用

1年中 一寸法師・浦島太郎(巻頭)
2年下(欠本)
3年上 大山へ(鳥取)、山にのぼろう(正善達三)


※この年度は、坪田譲治1人が監修者として明記され、池田亀鑑の名はありません。
 3年生の教材「大山へ」と「山にのぼろう」は、文章に手が入ってわかりやすくなり、絵も変更されています。
 インドの「ぞうの話」は削除されました。

 
 
 昭和40年度用

1年上 浦島太郎
2年上 わらしべ長者(挿絵が平安朝色)


※監修者は、坪田譲治・亀井勝一郎・池田弥三郎となります。池田弥三郎は折口信夫との関係が深いので、池田亀鑑の後任ではありません。
 3年生の教材では、「大山へ」が削除され、「山にのぼろう」の絵が変わりながらも残っています。池田亀鑑の影響を受けない編集になったからではないか、と思っています。

 
 
 昭和43年度用

1年上 浦島太郎(絵が変わる)
2年上 わらしべ長者


※稲村は元鳥取市遷喬小学校長とあるので、定年退職後もそのまま編集に携わっていたようです。
 3年生の教材では、「山にのぼろう」が削除されています。これで、私が池田亀鑑との影響がある教材と見た鳥取に関連するものはなくなりました。

 
 
 昭和46年度用

1年上 一寸法師
2年上 わらしべ長者
3年上 なかよし名人


※3年上の「なかよし名人」は、昭和29年度用において「わざくらべ」として採用されていた文章を長文に書き換えたものです。

 
 
 昭和49年度用

1年上 浦島太郎
2年上 わらしべ長者
3年上 なかよし名人


※3年上の「なかよし名人」は、昭和46年版とまったく同一の印刷です。

 
 
 昭和52年度用

1年上 浦島太郎
2年下 わらしべ長者


※稲村は児童詩研究家として編集者に加わっています。

 
 
 昭和55年度用

※特にコメントすべきことはありません。

 
 
 昭和61年度用

※この年度より稲村が編集者からいなくなっています。長期にわたり、教育出版の教科書の編集に携わっていたことがわかります。

 
 
 平成4年度用

1年(欠本)
2年上(欠本)

 
 
 昭和50年以降になると、教育出版の小学1年生から3年生までの教材においては、古典の香りを確実になくしていくことが、明らかに認められます。
 前回の「教科書に見る平安朝・小学校—国語(3)学校図書」の最後に指摘したことが、ここでも見られます。
 その傾向が4年生から6年生までにもあるのかどうかは、次回「教育出版(その2)」にまとめます。
 
 
 

2010年11月10日 (水)

2年分の京都新聞をまとめ読み

 源氏物語千年紀だった2008年は、国文学研究資料館で源氏物語展を開催する関係で、その準備などに奔走していました。東京と京都を、これまで通り毎週はもちろんのこと、週2回も3回も往復したことが何度もありました。
 そのために、京都新聞の読み切れなかったものが、私の部屋に山のように積まれていました。

 朝日新聞は東京と京都で購読しているので、関西版と関東版の違いを楽しみながら読んでいました。

 京都新聞は、私にとっては毎日届く週刊誌のような存在です。興味深い情報が盛りだくさんなのです。
 私が、平安時代を中心とした日本の古典文学に興味があるからでしょうか。とにかく、京都新聞はおもしろいのです。
 私にとって京都新聞は新聞ではなくて、まさに毎日届くタウン誌でもあります。
 それだけに、忙しかったこの2年間は、じっくりと読む余裕がなかったのです。しだいにその分量も増え、いつかいつかと思いながらも、少しずつしか、その山は崩せませんでした。

 今回の病気療養という機会を利用して、この京都新聞の山を崩していきました。そして、ようやく2年分を確認し終えました。
 この2ヶ月間は、頭の中で2年前からの出来事が同時進行していたので、非常におもしろい生活でした。

 昨年の秋は、民主党の政権交代で新聞も湧いていました。それが、今の民主党の堕落した体たらくは、1年前の勢いからは想像もできないことです。期待と実力の違いがこのような結果として出てくるとは、誰が想像したでしょうか。
 もうすぐ、また首相がビデオの流出を理由に辞任しそうです。
 コロコロと変わる日本の総理大臣をよそに、京都新聞の文化欄は、培われた伝統とぶ厚い文化を背景にして、日本のよさを実感させる興味深い記事が満載です。

 さて、新聞が配られたときには絶対興味を惹かなかったはずの記事が、今見ると目が釘付けになるものがありました。それは、京大病院に新病棟として積貞棟が完成した、というニュースです。
 今年の5月14日の京都新聞に、「高さ規制 市特例第1号」という記事があります。任天堂が75億円を寄付したことでできた、最新のガン病棟の話です。
 私がガンの告知を受け、京大病院へ飛び込んだのは7月21日でした。8月に新病棟である積貞棟に入院し、手術をしました。したがって、5月にこの記事を見ても何も反応しなかったはずです。今となっては、この積貞棟のニュースは、我が家の新築完成のような性格の記事となっています。

 「びわ湖108霊場」についても、昨年の9月9日に発足のニュースが載っています。私は、このことはネットで昨秋しりました。
 活字で読むのと、ネットで記事を見るのとでは、記事内容の伝わり方が違うようです。活字の方が、理解しやすいし、内容をイメージしやすいように思います。やはり、ネットのニュースは、光の点で構成される字らしきものを視認するので、疲れないように流し読みしているようです。それだけ、意識に残りにくいのでしょう。

 これは、メールがそうです。
 毎日数百件のメールを見る生活をしていると、自然と読み流す癖がついています。まともに読むメールは、1日に受け取ったものの内の、せいぜい数十分の一というくらいです。これも、自分の目を守るために、光の点を視認することによる疲労を避けるという、自然の自衛行為なのかもしれません。

 その他、戦国時代にはまだ三条に橋が架かっていなかった、という情報がありました。
 これは、京都と東国との出入口が今の三条通の延長ではなかったということになります。平安時代はどうだったのか、改めて調べ直したいと思うようになりました。

 また、祇園祭の起源は平安時代にまで遡るということもそうです。
 私は、御霊会との関係では理解していても、それは淵源としてのものであり、あくまでも室町時代からのものだと思っていました。平安時代と関連する資料がいくつもあることは、恥ずかしながら知りませんでした。

 明治天皇の詔書の草稿が見つかった記事も意外でした。
 その中にあった「行宮を置き」という文言が、実際の詔では削除されている事実は、非常におもしろいことだと思います。つまり、現実には遷都の宣言を避けた、ということがわかるからです。
 やはり正式には、都を京都から東京に移すという遷都の詔は出されなかった、ということのようです。
 資料によるかぎりでは、天皇はちょっと東京へ出かけたまま、まだ京都には帰っておられない、という理解も十分に成り立つのです。記事にあるように、「なし崩しの遷都」ということになるようです。
 京都の人がよく言うとされる、天皇さんは今は東京に出かけてはるだけで……、ということも、あながち負け惜しみではなさそうです。

 時間差で読む新聞も、いろいろな発見があり、確認があり、楽しいものです。特に京都新聞は、その内容が時の流れを踏まえたものが多いので、余計に時空間を楽しめるのでしょう。
 もう、こんなに貯め込んで読みたくはありません。しかし、これはこれで、おもしろい新聞の読み方をしたように思います。
 
 
 

2010年11月 9日 (火)

教科書に見る平安朝・小学校—国語(3)学校図書

 以下、学校図書株式会社が出版した小学校国語科教科書の中から、平安朝の香りがする教材を中心にして取り上げ、コメントを付けていきます。個人的な興味と関心から、インドや古写本に関する情報も取り上げます。

 ただし、私は国語教育の専門家ではないので、思いつきを記すことを、あらかじめお断りしておきます。
 
 
【学校図書】(129冊)
 
 昭和28年度用


1年上(京都府立図書館蔵『1ねんせいのこくご上』は昭和27年度用に分類。下は昭和28年度用。)
2年上(欠本)
2年下 浦島太郎
3年上 二つの玉(古事記)
4年(欠本)
6年上(欠本)
6年下 インドの旅(石井房子)
 
 
 
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※この年度の学校図書の教科書の監修者は、志賀直哉・久松潜一・池田亀鑑の3名です。池田亀鑑は昭和31年12月に死去のため、この年度と昭和32年度だけに監修者として名前があり、昭和34年度用からは吉田精一に変わります。ただし、後に取り上げる教育出版の昭和33年度用でも、池田亀鑑は監修者となっています。

 また、1年生用における池田亀鑑の肩書きが「東京大学教授・文学博士」なっているのに、今回確認できた2年生用・3年生用・6年生用では「東京大学助教授・文学博士」です。この時点では助教授でした。4年生用と5年生用は、どのような事情があったのか、監修者は斎藤清衛・岡元明です。
 池田亀鑑が東京大学の教授になったのは、最晩年の昭和30年4月です。亡くなる1年前です。学校図書の1年生用教科書の奥付の再確認が必要です。

 なお、手元のメモによると、『六年生の国語 下』の扉には、検定日について次のように記されています。

 「昭和二十六年七月二十三日 文部省検定済 小学校国語科用/昭和二十八年七月二十日 修正」

 修正や改訂がどのようになされていたのか、ご存知の方がいらっしゃいましたらご教示のほどを、よろしくお願いします。

 3年生用上の「二つの玉」について、巻末の「先生と父兄へ」では、「衆知の海幸山幸の話で、日本の古典童話の紹介という意義をもっており、長編物語の読解力を養う。」とあります。

 6年生用下の「インドの旅」は7ページもあります。写真と挿絵と地図が1枚ずつ添えてあります。巻末の「先生と父兄へ」には、視野を世界にひろげて国際人的性格を培う観点から、「日本と同じアジアにあって躍進しつつあるインド、これを紀行文的な表現をもってとりあげた。」と記しています。


 
 
 昭和32年度用

1年(欠本)

2年(欠本)

3年上 二つの玉(古事記)

4年下 京都の案内

5年(欠本)

6年上(欠本)

※3年生用・4年生用の監修者は、志賀直哉・久松潜一・斎藤清衛・池田亀鑑と、斎藤が加わって4名です。池田亀鑑の肩書きは「東京大学教授・文学博士」です。昭和31年12月に亡くなっているので、ギリギリで池田亀鑑の名前を残し、斎藤清衛を加えたのでしょう。この3年生用の「二つの玉」について、文末の「さんこう」では古事記と日本書紀への言及があり、神名に違いがあることを指摘しています。

 6年生用では、上が欠本なので、次回の昭和34年度に掲載されている「紫式部」がここにあるのかどうか、今は確認できていません。池田亀鑑が監修者となっているので、あった可能性が高いと思っています。前年度に掲載された「インドの旅」が削除されました。


 
 
 昭和34年度用

1年中 一寸法師

2年上 かぐや姫

3年上 二つの玉(古事記)

3年下 すくなひこなのみこと(古事記)

4年上 京都の案内

5年(欠本)

6年上 紫式部

6年下 万葉集、古いインド新しいインド

※3年生用の「二つの玉」は昭和32年度用と同じく「さんこう」も付いています。また、この3年生用は神話に題材を採ったものが2つもあります。

 六年生用の表紙が王朝風な絵です。教材に「紫式部」があるので、この絵は紫式部を意識して描かれたものだと言えます。とすると、牛車の中の男性は誰なのでしょうか。
 
 
 
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 教材の中に、4ページにわたる説明文「紫式部」があります。国宝源氏物語絵巻の宿木(1)を描き起こした挿絵が冒頭に置かれています。帝と薫が囲碁の対局をしている絵です。
 この文章の作者は明記されていません。この年度から監修者が志賀直哉・久松潜一・吉田精一になります。前回までの昭和28年度、32年度の監修者に池田亀鑑がいたことから、これは池田が書いたものを元にしている可能性があります。ただし、池田は後に報告する教育出版の教材を精力的に執筆しているので、その時にこれと関連させてコメントを記すことにします。
 なお、巻末の「指導内容」の項では、「国語文化史上におけるかなの発明の意義、源氏物語のもつ価値などを理解させる。紫式部の業績や人がらを読解する。」とあります。
 6年生用の下では、万葉集を例にして短歌の鑑賞と説明をしています。また、インドについての説明文が「インドの歴史と現状を読みとる。」という趣旨の元に新たに再登場しています。


 
 
 昭和36年度用

1年中 一寸法師
2年上 かぐや姫
3年上 まきばの王子(古事記と日本書紀からの書き直し)
3年下 はくがのふえ(平安朝風)
4年下 京都の案内(改稿)
5年下 玉虫厨子の物語(平塚武二)


※6年生用では、昭和34年度用にあった「紫式部」が削除され、「太平洋をこえて」という勝海舟と福沢諭吉の話に置き換えられました。

 
 
 昭和40年度用

1年下 一寸法師
2年上 かぐや姫
3年上 まきばの王子
3年下 はくがのふえ
4年下 京都の案内
5年上 ガンジー+ガンジーの伝記を読んで
5年下 玉虫厨子の物語


※5年生用の「ガンジー」は伝記として、12ページにわたっての採用です。写真と絵が一葉ずつ、そしてインドの地図が添えてあります。長文のため、小見出しとして「地上の人」「南アフリカで」「インドへ帰る」「ガンジーの戦い」「勝利」「死」が付けられています。
 この年度の教科書の扉には、「昭和35年4月20日 文部省検定済 小学校国語科用」とあり、その下に「昭和 年 月 日 改訂検定済」とあります。この教科書は昭和40年度用に分類されていますが、それは改訂版の検定を受けたもの、ということなのでしょうか。奥付の印刷・発行日にも年月日が空欄です。このあたりの教科書検定のシステムと事情については、私にはまったくわかりません。今は、あるがままに記しておきます。

 
 
 昭和43年度用

1年下 一寸法師
2年上 かぐや姫(絵が変わる)
2年下(欠本)
5年下 玉虫厨子の物語

 
 
 昭和46年度用


1年上 一寸法師
2年上 かぐや姫
3年(欠本)
5年上 玉虫厨子の物語(挿絵変更)


※6年生用に『平家物語』がありますが、平安時代の香りは消えています。

 
 
 昭和49年度用

1年上 一寸法師
2年上 かぐや姫
5年下 仁王門の綱
6年下 秘曲(古今著聞集)


※5年生用の「仁王門の綱」には平安朝の雰囲気があります。ただし、これは井原西鶴の『懐硯』所収のものを現代語訳したものです。

 
 
 昭和52年度用

1年上 金太郎
6年下 秘曲


※6年生用の「秘曲」が巻頭でカラーの挿絵入りとなります。

 
 
 昭和55年度用

6年上 ことばと文字
6年下 百人一首


※6年生用の「ことばと文字」では、かなの成り立ちの説明があります。しかし、写本についての説明まではいきません。

 
 
 昭和58年度用

※昭和55年度用とほぼ同じ内容です。

 
 
 昭和61年度用

5年(欠本)
6年上 万葉集
6年下 短歌や平家物語の一節


※6年生用下では、短歌や平家物語の一節を引いて、文語のコラムがあります。

 
 
 昭和64年度用

3年生用のみ所蔵

 
 
 
 以上を通覧して、学校図書版の小学校国語教科書を見る限りではありますが、昭和30年代は積極的に古典文学作品が取り上げられていることが確認できたと思います。平安朝の香りが立ち上ります。また、インドも注視されています。それが、昭和50年代以降は薄まります。
 昭和30年代は、日本が国連に加盟し、神武景気と言われて高度成長の時代となりました。東映の時代劇映画が全盛となり、皇太子のご結婚、東京オリンピックがありました。

 もっと丁寧に分析すべきですが、それは今後の課題として、まずは学校図書版をこのあたりで終えておきます。

 次回は、教育出版に移ります。
 
 
 

2010年11月 8日 (月)

教科書に見る平安朝・小学校—国語(2)中京出版・大日本図書・二葉図書

 この記事は、先日報告した「教科書に見る平安朝・小学校—国語(1)」(2010年10月31日)を受けて、これから何回かに分けて記すものです。

 出版社別にまとめておきます。また、京都府立図書館で整理された教科書だけを対象としているので、戦前の教科書は今は考えないで記します。

 また、ここで扱う教科書は、昭和26年から昭和60年までの範囲でのコメントであることも、あらかじめご了承ください。

 教科書における教材の採否については、学習指導要領の変化・変遷が影響していると考えられます。ただし、私は国語教育の専門家でもないし、今はその余裕がないので、ここでのコメントではそのことには言及していません。それらは、また後でとりまとめます。

 戦後の小学校国語科教科書のページを捲りながら、自分がどの会社の本を使っていたのか、ずっと気になっていました。

 私は、小学4年生までが島根県出雲市立古志小学校、5年生から6年生7月までが、大阪市立菅原小学校、6年生の9月から大阪府八尾市立南高安小学校と、3つの小学校へ行きました。
 そのこともあってか、教科書のことが完全に記憶から欠落しています。
 正直言って、がっかりしています。今回見た教科書823冊の中に、私が使った教科書が7種類14冊あるはずなのです。それが1冊も思い出せないとは、なんとも本当に情けないことです。

 さて、ここでは、小学校の教科書に、平安朝らしさを伝えるものがどれくらいあるか、ということを見て行きたいと思います。
 その手がかりとして、すべての教材に目を通しましたが、特に小学校の教科書らしく、多用されている挿絵などに注目しました。貴族男女の衣服や、乗り物としての牛車に着目しています。中世の説話や近世などの話に、お姫様が出てきます。しかし、それは適宜ケースバイケースで、私なりに判断しました。

 なお、参考までに、平安時代以前のものとして奈良時代に属する作品も、古代のものとしてメモを記しています。また、インドに関する教材も、チェックしたので備考として記しています。


【中京出版】(12冊)

 昭和36年度用のみ


1年2 一寸法師
2年1 かぐや姫


※古典の中でも、平安朝らしさを感じさせる教材としては、「一寸法師」と「かぐや姫」の2つだけでした。ともに、お姫様の衣装がそうです。1、2年で、昔話として取り上げています。


【大日本図書】(31冊)

 昭和31年度用


1年2 金太郎
2年2 八岐大蛇(古事記)
5年2 古都の秋(京都)
6年1 宣長と真淵(万葉集+古事記)


 昭和36年度用


1年1 一寸法師
1年2 金太郎、浦島太郎
2年2 竹取物語
3年1 羽衣


 昭和40年度用


1年2 金太郎
2年2 竹取物語
3年1 羽衣


※竹取物語も羽衣も、昔話として取り上げています。奈良時代や平安時代を感じさせる教材と、上代の古事記・万葉集については、昭和31年度用だけです。本居宣長の紹介において、『源氏物語』には言及していません。


【二葉図書】(38冊)

 昭和24年度用


ナシ

 昭和31年度用


2年1 かぐや姫
3年2 つりばりをたずねて(古事記)
6年2 万葉集の話と和歌


※大日本図書版と同じように、昭和31年度用には古事記・万葉集が取り上げてあります。

 昭和34年度用


ナシ

 昭和36年度用


3年下 海さち山さち(古事記)


※「海さち山さち」は、昭和31年度用の「つりばりをたずねて」を書き直したものです。


 以上3社の教科書において、日本の古典文学の香りは、低学年に昔話として採択された教材にうかがえます。高学年になると、古事記や万葉集が見られます。ただし、それは昭和31年度用に限られます。このことは、他社の動向も含めて、後で考えましょう。

 それにしても、平安朝らしさは、これらの3社に限っては、あまり感じられません。

 一応、参考のために、学習指導要領の改訂年をあげます。
(1)1947年(昭和22年)
(2)1951年(昭和26年)
(3)1956年(昭和31年)高校のみ改訂
(4)1961年(昭和36年)
(5)1971年(昭和46年)
(6)1980年(昭和55年)悪名高いゆとり教育
(7)1992年(平成4年)
(8)2002年(平成14年)
(9)2011年(平成23年)
 
 
 なお、次回は、【学校図書】の小学校用教科書の内容に見る平安朝の香りです。
 これは、129冊もあり、しかも池田亀鑑が関わった時期があるので、改めてまとめるものです。そして、ここには、古典がさまざまな形で取り上げられます。紫式部が出てきたり、インドの話もあります。監修者によって、こんなに教材が変わってくるものなのか、ということに驚きます。

 こうした教科書について、小学校のものだけに、国語に限定しても、さまざまなエピソードがあるかと思います。
 いろいろとコメントがいただけると、非常におもしろいと思っています。ご協力いただけると助かります。
 
 
 

西国三十三所(37)大本山永平寺で結願に

 我が家は、曹洞宗の家系ということになっています。大本山は福井県にある永平寺です。
 もっとも、日本の多くの家がそうであるように、宗教的な意識も信仰心も、いたって希薄です。
 そして、偶然なのですが、妻の実家も曹洞宗です。歴史好きの義母とは、禅宗の話で意気投合したものです。

 海外の方と宗教の話をするときには、仏教を信じている、ということにしています。突然のブッティストになるのが、一番無難な答えだからです。
 ただし、私自身に、仏教の信者だという自覚はありません。お寺を巡拝しているときには、それなりにそれらしい気持ちになります。しかし、それは一時的なものであって、日常的に信仰心があるわけではないのです。

 そうであればこそ、こうして西国札所巡りをしていると、日常の自分とは違う世界に身を置いている自分を感じることが、非常に新鮮に思われます。
 心の拠り所を求めて旅をしている、という気持ちは、否定できません。もっとも、そんなに難しいことを考えて歩いているわけではありません。とにかく、スタンプラリーをしているつもりで気持ちを軽くしています。1つでも空欄を埋めよう、という気持ちで歩いてきたのです。

 それに加えて、今回は病後の、手術後のリハビリも兼ねての巡拝です。現世利益を求めての旅そのものです。しかし、それでも、外から見れば、宗教に起因する旅と映ることでしょう。くすぐったい気持ちがするのは、私自身が宗教に馴染みがないせいだからでしょうか。

 と、そんなことを言いながらも、こうして西国札所巡拝の旅の記録を書き続けてきました。
 今日は、それもとじ目となる、結願の永平寺行きです。

 あわら湯のまち駅からえちぜん鉄道で永平寺を目指します。
 駅員さんが懇切丁寧に行き方を教えてくださいました。おまけに、お得な1日フリーキップも。
 このえちぜん鉄道は、非常に気持ちのいい電車です。乗り換えで待合室にいても、駅員さんが優しく声をかけてくださいます。駅舎も、手造りで温かみがありました。
 一輌の電車なのに、運転手さん以外に車掌さんが乗っておられます。しかも、丁寧な案内と、何か困った人を見つけると、さりげなく、そして親切にお世話をなさいます。
 
 
 
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 地域に根差した、思いやりの教育が徹底していることが、乗っているだけでわかります。これは、今後とも地元の人に支持されて運営がつづくことでしょう。いい電車に乗りました。

 永平寺は、いつ来ても身が引き締まる雰囲気があります。
 
 
 
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 今回の西国三十三所の巡拝では、お軸に御詠歌を書いてもらっていました。しかし、どうしたことかスペースがいっぱいになっていて、永平寺の印を書いてもらう場所がありません。受付でそのことを相談しました。
 お二人のお坊さんが対応してくださいました。お軸を広げて見てもらいました。
 結局、もう一つ番外の印を書く空欄がない軸なので、今回は大本山永平寺の印はなしで、このままにしておくことになりました。表装が終わったら、箱書きに永平寺での結願のことを記すつもりです。

 道元さんが、今もいらっしゃるとしてお勤めが続いている承陽殿を拝見しました。
 また、両親を分骨してお祀りしてもらっている祠堂殿にも行きました。
 
 
 
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 奈良県のコーナーに行き、我が家の位牌を探しました。しかし、たくさん重なるようにあってわかりませんでした。それでも、両親には私のことをはじめとして、家族の近況を無言のうちに伝えました。
 わかったよ、と言ってくれたように思います。

 帰り道、乗り換えの福井駅の構内に、回転寿司屋を見つけました。
 これは、素通りするわけにはいきません。
 
 
 
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 ちょうどマグロの解体をしていることろでした。
 
 
 
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 おいしいマグロの中落ちが、軍艦巻きの上に溢れんばかりに盛られて出てきました。
 
 
 
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 私はトロは食べないので、赤身のいいところもいただきました。
 今日から解禁となったカニも、いい出汁が出ていました。
 海に近い回転寿司屋は、こんなものを食べさせてくれるのです。
 気楽にお寿司が食べられるのは、私にとっては至福の刻です。贅沢さを排除した回転寿司は、食事に気を遣う今の私には最適な食べ物です。好きな時に好きなだけ食べて、そしていつやめてもいいのですから。たくさん食べられない私には、理想的な食事の場所となっています。

 旅先で回転寿司屋を見付ける楽しみも、これから続けていくつもりです。
 そして、これまでと同じように、また毎日のようにお寿司を食べる日々が少しずつ始まりました。その意味でも、福井でマグロと出会ったのは、幸先のいい食生活のスタートとなったとも言えるでしょう。
 
 
 

2010年11月 7日 (日)

西国三十三所(36)満願の華厳寺

 満願となる谷汲山華厳寺へは、早朝より始発で出発しました。岐阜県の山中にある西国三十三所の終着地です。途中、乗り換えが6回もあり、片道4時間の旅となりました。

 自宅を出てから、烏丸御池、山科、米原、大垣、本巣、谷汲口で乗り換えて、最後はバスでようやく谷汲山にたどり着く行程です。

 大垣から乗った樽見鉄道は、第三セクターを介して、さまざまなドラマがあった鉄道のようです。
 
 
 
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 これは、本巣で電車を乗り移るときのものです。電車も年代物で、バックミラーが付いているのが時代を教えてくれます。地元を始めとして、多くの方々の支援を得て、元気に運行しています。
 車中から、柿がたくさんなっているのが見えました。車内には、子供たちの絵が、たくさん掲示されています。心温まる鉄道です。

 谷汲山は、参道を始めとして、きれいで気持ちのいいお寺です。
 満願のお寺だけあって、お軸の表装を扱うお店がたくさんありました。
 
 
 
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 境内も、満願成就を果たした方々が多いせいか、明るくて満足感が漂っています。西国札所の中でも、ここは特別な雰囲気があります。
 私も、達成感があるせいか、心なしか気分が晴れやかになります。
 
 
 
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 巡拝団のみなさんの御詠歌や般若心経も、力強く聞こえて来ます。自信に溢れた歌声です。
 みなさん、それぞれ念ずることがあっての巡礼です。事情も願い事も、各人違うはずです。それでも、一つずつ札所を踏み、それを積み重ねることによって、こうして満願のお寺にたどり着かれたのです。
 無事に回り終えた充実感を噛みしめて、今それぞれの思いの中で、自分を確認しておられることでしょう。
 かく言う私も、達成した喜びが徐々に感じられて来ました。
 
 
 
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 今、幸せの絶頂にいる人は、この境内にはほとんどおられないでしょう。日常生活に何も問題のない方も、おそらく皆無に近いでしょう。生きていく上で、何か思うところがあるからこそ、こうして西国三十三所を巡礼して来られたのです。ここに集っている人々の思いは、ひたすら明日を見ていると言えます。すばらしい空間を共有していることに、ある種の感慨を抱きました。

 華厳寺の御詠歌は、次の通りです。


よをてらす
ほとけのしるし
ありければ
まだともしびも
きへぬなりけり

 
 
 
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 自分にとって祝うべき日なのですが、1つだけ気になることがありました。それは、朱印をいただくときの華厳寺の方の態度です。非常に傲慢なのです。

 まず、お軸を渡すと、後ろ向きで、私から視線を遮るようにして書かれるのです。
 写真を撮りたいので少し横に回り込むと、写真を撮ってはいけない、ときつくおっしゃいます。
 そして、その時に見たのですが、もの凄いスピードで文字を書いておられます。文字がどうかではなくて、あんなに乱暴に筆を飛ばして書かれては、書いていただく方としては不愉快な思いをします。もっと丁寧に書いてもらえませんか、と言いたくなります。

 なぜ、書く姿を隠すようにしておられるのでしょうか。見られたくないので……、としか思えません。また、写真を撮ってはいけないと言うときも、ものには言いようがあると思います。非常に嫌な思いにさせられる、慇懃無礼な言い方でした。

 このことは、数年前に来たときにも感じました。しかし、その時は、家族全員で来たこともあり、特に嫌な思いをした気持ちを家族に語る必要もないので、そのまま忘れていました。しかし、今回も、となると、これはこの寺の品性と資質の問題です。
 このお寺側の態度は不遜です。西国三十三所の中にずっといたいのであれば、参拝者を不愉快にするような態度は改めるべきです。それとも、もしそれがお寺としての主義からくるものであれば、そのことをどこかに明記しておくべきでしょう。もしくは、説明してください。他のお寺では、そのようなことは一切ないのですから。

 私に、もし今の西国三十三所の問題点を聞かれたら、その1つにこの華厳寺を札所から外すべきだ、ということを答えるはずです。ついでに、もう一ヶ寺をあげれば、三井寺と答えます。この寺も、不愉快なお寺です。

 こんなことは言っても屁の突っ張りにもならず、お寺の姿勢が変わるとは思えません。しかし、満願の寺ということに胡座をかいて、参拝者を蔑ろにしている姿勢は明らかです。
 悟りの道を求めて精進しておられるならば、1日も早く今の参拝客に対する姿勢について、このままでいいのか、今一度確認をなさるべきです。

 それはともかく、7月16日にガンの告知を受け、週明けの7月19日から石山寺を皮切りに始めた、私の西国三十三所札所巡りでした。丸々4ヶ月かかって、今日ようやく念願の満願となったのです。
 
 
 
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 来週は、私の誕生日であり、同時に結婚記念日を迎えます。その日に間に合ったことも、喜びをいやましにしています。

 本堂の裏には、満願堂がありました。
 
 
 
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 長かった道のりを振り返り、これまでのさまざまなことを想い出しました。そこは、自分自身と向き合う時間が持てる場所です。気持ちを整理し、新たな思いで出発する場所は必要です。
 今回をいい区切り目として、また身体を大事にしつつ体調管理に専念したいと思います。

 帰りの参道で、鮎の塩焼きをみつけました。途中の列車から見た、揖斐川か根尾川で穫れたものでしょうか。
 これもお祝いだということで、妻と一匹ずつをいただきました。焼きたてということもあり、爽やかな格別の味わいでした。
 
 
 
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 また、参道にはポン菓子屋さんがいました。
 
 
 
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 父がシベリアから引き揚げて帰ってきてから、一時はこの仕事をしていました。私が幼かった頃には、父に付いて行き、このポン菓子機のハンドルを回す手伝いのようなことをしたものです。
 ちょうど満願を果たした直後に見かけたというのは、ポン菓子で祝ってやろうという、父からのメッセージかもしれません。

 父のポン菓子のことは、次のブログに書きました。ご笑覧を。

「わが父の記(2)川で流された時」(2008年5月20日)


「わが父の記(3)父の仕事(その1)」(2010年4月 3日)

 バス停の近くに、満願の湯という温泉がありました。しかし、これから我が家の大本山である永平寺に、もろもろの報告を兼ねた参拝に行きます。
 今日中に福井県の永平寺に行くのがきついので、今日は東尋坊に近い芦原温泉に泊まります。そこで北陸の温泉につかり、気分を一新して、明日永平寺に向かう予定です。
 ということで、この谷汲山の温泉は見送ることにしました。

 永平寺には、父と母の分骨をしています。2回とも、家族みんなで分骨に来ました。
 私が病気をしたことを知る由もない両親に、改めて病気平癒の祈願と家族の近況報告をするつもりです。
 また、明後日には、娘がフランスへの留学に旅立ちます。
 諸々の安全祈願を込めて、報告の参拝です。

 もと来た道を、また乗り継ぎをしながら引き返します。
 谷汲山口、谷汲口、大垣、米原、そして、米原からは特急しらさぎに乗って琵琶湖の西沿いを北上して福井県へ。
 今日の最後は、えちぜん鉄道のあわら湯のまち駅で降りて温泉宿へと入りました。

 今日1日だけでも、何種類の電車に乗ったのか数え切れません。思い出しながら数え挙げると、10回も乗り継いでいました。

 温泉につかって疲れを癒やし、西国三十三所の満願成就を妻と共にささやかに祝いました。
 
 
 


2010年11月 6日 (土)

天理図書館にある古写本の目録が完成

 開館80周年を迎えた天理図書館には、貴重な古典籍がたくさんあります。そして、そのほとんどが閲覧できます。
 一般の方でも、手続きをすれば見られるのです。
 高校の教員をしていたとき、もう30年以上も前のことですが、貴重書となっていた『源氏物語』の写本を見せていただきました。以来、何度も通っては古写本を拝見し、メモを取り、複写などのサービスを受けてきました。

 そして、所蔵されている本の素性を知る時に参考になるのが、蔵書目録(『稀書目録』)です。

 このたび、天理図書館に所蔵されていて目録に掲載されていない本が10年もの長い時間をかけて整理され、日本の古典籍の中でも写本1277点を中心とした貴重書目録が完成したのです。『天理図書館 稀書目録 和漢書之部 第五』(天理大学附属天理図書館編、天理大学出版部、平成22年10月18日発行)がそれです。
 
 
 
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 大学図書館や主要な図書館のレファレンスコーナーに配架されています。ぜひ、手にしてみてください。こんなにたくさんの写本を、日本人は写し伝えてきたのです。日本の文化の重みと言えるものです。
 哲学、歴史、社会科学、芸術、文学など、幅広い分野の書籍が整理されています。私は、文学の項目しか見ることがありません。それも、日本文学の平安時代物語に限定されます。
 今回の『稀書目録 第五』で『源氏物語』に関しては、「源氏物語竹河巻」「河海抄」「源語秘訣」「山下水」「源氏小鏡」「源氏無外題」「源氏之系図」が取り上げられています。

 『天理図書館 稀書目録 和漢書之部』は、開館10年目の昭和15年に〈第1〉が、21年目の昭和15年に〈第2〉が、30年目の昭和35年に〈第3〉が、68年目の平成元年に〈第4〉(ただし「版本之部」)が、そして今回の80年目に〈第5〉(「写本之部」)が刊行されたのです。
 天理図書館には、まだまだ貴重な古典籍があるようです。その発掘・紹介は今後の楽しみとして、私の興味と関心のある『源氏物語』に関しては、これでひとまず落ちつくことになります。もっとも、未整理の本の中に、意外な本があるのかもしれませんが……。『源氏物語』も。それも、今後の楽しみです。

 根気の要る仕事だったと思います。気の遠くなるような校正が続いていたと仄聞しています。
 作業を担当されたみなさま、特に岡嶌偉久子さん、山根陸宏さんには、ここに紹介することで労いのささやかな気持ちの一部にでもなれば、と思っています。お疲れさまでした。

 これから、日本の古典文学を調査し、研究しようと思っている若い方々には、ぜひともこうした古典籍を直接見て、触ってほしいと思います。本の紙を捲れば、当然のことながら本は傷みます。しかし、本は見られるために存在しているのです。
 慎重な保存や保護が必要な本は、写真版などになっています。当然、閲覧は制限されるでしょう。しかし、とにかく見たい本があれば、図書館に問い合わせてみればいいのです。

 活字だけで古典文学作品などを読んで終わりにするのは、大変もったいないことです。日本には、このように長い年月をかけて守り伝えられてきた本が、今でも自分の目で確認できるのです。もちろん、歴史的な資料もそうです。
 ぜひ、写本を手にして、見て、そこでそれまで読んでいた活字の校訂本文が何であったのかを、改めて考えてみませんか。研究という視点から文学を直視する上では、古写本を見ることは大変意義のあることです。

 そんなときに、所蔵機関の蔵書目録が役立ちます。
 図書館の方々も、本に関する質問を待っておられると思います。
 最低限の礼儀を弁えるのはもちろんのことですが、怯まずに思い切って所蔵先に連絡をして、古典籍を目の前に置いて、紙を捲ってみてください。
 楽しい自問自答という時間の流れの中に、しばし我が身を置くことができます。愉悦の刻を独り占めにできます。

 
 
 

2010年11月 5日 (金)

京洛逍遥(169)ヨドバシカメラと白川沿い

 本日11月5日、京都駅前の旧近鉄百貨店京都店の跡地に「ヨドバシカメラ マルチメディア京都」が新装開店しました。早速、行ってきました。

 正面の写真はマスコミなどが紹介していますので、裏側の通りから見た西側壁面の緑の植物をカメラに収めました。
 
 
 
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 烏丸通り側には、祇園祭の「大船鉾」を展示する計画があるなど、京都に媚びる姿勢があります。

 そもそも、「マルチメディア」などという、すでに時代遅れの感のある古風な単語を被せるなど、京都に溶け込もうとする、縋り付く気持ちはわかります。しかし、果たして京都に受け入れられるでしょうか。若者は、楽しければ集まります。しかし、京都にとっては、学生や若者はお客様なのです。その京都のお客様の支持だけで商売を続けるのは、やはりむつかしいのではないでしょうか。

 京都駅の西にはビックカメラが、駅の南にはソフマップがあります。ビックカメラは売り場が狭すぎて窮屈です。ソフマップは、商品の陳列が下手です。このセミプロの三すくみの今後のバトルが、ますます楽しみです。
 時代の最先端の商品を扱うお店だけに、私は関西を知り尽くした上新電気が今後はおもしろいと思っています。ただし、上新電気も阪神タイガースのサポートだけでなく、本業にもっと真剣に取り組めばの話ですが……

 初日というのでヨドバシへ行ってみました。しかし、私が買うものはありませんでした。
 折角なので、iPadのケースと、充電用乾電池を買いました。
 もっと派手に安売りをしているのかと思っていました。しかし、意外と質素に営業を始めたようです。

 この建物の中には、さまざまな分野の約90店舗が入っています。
 一緒に付き合ってくれた娘は、来週から留学のためにフランスに行くので、リヨンで履くブーツを買っていました。私が興味を引いたのは、今日のところは大垣書店だけでした。

 全体的な雰囲気として、若者への媚び諂いが露骨です。主観的な物言いなので深い意味はないとしても、この姿勢は、京都に受け入れられないと私は見ました。
 レストラン街も、入ろうと思って行ったのですが、私が入れる店がないのでやめました。結局は、京都駅地下のポルタの東洋亭に行き、ハンバーグを食べました。歴史と伝統のある味が、やはり落ちつきます。

 このヨドバシカメラの進出については、かつて「京洛逍遙(93)京都駅前の10年後を予想」(2009年7月14日)と題して、批判的なことを書きました。ついでに、私なりの予想も。

 今日、新装なったこの店に行き、私の予想も当たりそうだとの確信を得ました。
 10年後までには、国際的な情報交換の場となる施設に変身している可能性が、ますます濃厚になったように思います。こんなに大切な場所を、個人企業のお金儲けのためだけに利用してはいけません。発想が陳腐です。

 昼食後、いつものように岡崎の府立図書館へ資料調査に行きました。
 地下鉄東西線の東山駅から行くときは、白川沿いに北東に向かって歩きます。
 この白川沿いの道は、あまり人が通らないので好きなのです。
 今日は、狭い橋を渡るご婦人の足下が気になり、ついシャッターを押しました。
 
 
 
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 この白川から、平安神宮の朱の大鳥居がかすかに見えます。
 
 
 
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 その大鳥居の下に、国立近代美術館が、そしてその北に隣接して府立図書館があるのです。
 
 
 
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 美術館では、上村松園の展覧会が始まりました。
 調査の合間の気分転換に、この展覧会にも顔を出すつもりです。

 秋の京都は、これからがますます秋らしくなる街です。
 
 
 

西国三十三所(35)松尾寺

 成相寺の次に松尾寺へ行くために、北近畿タンゴ鉄道の天橋立駅から西舞鶴駅へと向かいました。一輌の電車で7駅区間乗ります。

 西舞鶴駅で一旦外に出て切符を買い直し、JRに乗り換えて一駅先の東舞鶴駅へ。さらに。向かいのホームの斜め前方に止まっている電車に乗り換えます。乗り換え時間が2分という、まさに早業で松尾寺駅まで一駅だけ乗ります。

 何とも、気の抜けない乗り継ぎの連続です。ゲーム感覚の電車リレーです。身の代金の受け渡しのため、犯人から指示をされて警察の尾行をかわしているような、そんな錯覚に陥りそうです。

 電車は、舞鶴湾を左に見て走ります。
 
 
 
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 舞鶴というと、終戦と共に母が旧満州から、その3年後に父がシベリアの抑留強制労働から解放されて引き揚げてきた港でもあります。
 父がシベリアから帰還したとき、島根県出雲市にいた母が「岸壁の母」として舞鶴で待っていたかどうか、二親が共にいない今では確認のしようもありません。
 母の性格からして、おそらく舞鶴港には行かず、いつか帰ってくるだろうから、それまでは出雲の実家の屋根裏部屋で待っていよう、と思っていたことでしょう。そんな、ノンビリした母でした。

 「舞鶴引揚記念館」があるそうです。いつか機会を得て、両親の戦争体験を少しでも知るためにも、ここに行きたいと思いつつ、車窓を眺めていました。

 松尾寺駅は無人駅でした。
 
 
 
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 駅前には、立派な案内板がありました。
 
 
 
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 松尾寺駅からは、歩いて50分の山登りです。ただし、一部草深い山道なので、持参の熊除けの鈴を強く鳴らしながら、急ぎ足で登りました。
 後ろを振り返りながら、観音正寺よりも怖い思いをしながら、緊張しっぱなしで急ぎました。
 
 
 
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 そのせいもあったのでしょう。松尾寺駅から50分の予定が、35分で本堂に着きました。
 
 
 
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 ここは、珍しく馬頭観音がご本尊です。西国札所では、ここだけです。
 秘仏ですが、昨年は77年ぶりのご開帳だったとか。もう、私がご本尊を拝することはなさそうです。お前立ちの馬頭観音で満足しています。

 納経所へ行くと、団体の方の納経帳などがたくさんありました。また、私よりも先の方がいらっしゃったので、しばらく待ちました。
 帰りの電車が1時間に1本しかないので、気持ちは焦るところです。しかし、この西国札所巡りで鍛えられたせいか、ダメでも次の電車があるさ、と開き直れるようになりました。私も、少しは成長したのです。

御詠歌は、次の通りです。



そのかみは
いくよへぬらん
たよりをば
ちとせもここに
まつのをのてら

 
 
 
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 お軸を書いてくださった方の話では、ここの住職である松尾心空師は、西国札所をすべて歩いてまわられたそうです。私が、車を使わず、公共交通機関だけで回っていると答えたことに対してでした。私もいつか果たしたいと言うと、プリントを一枚くださいました。その中に、「アリの会」の活動がありました。
 姫路の書写山(27番)から天橋立の成相寺(28番)までを徒歩巡礼すると、120キロあり、四泊五日かかるとあります。また、長命寺(31番)、観音正寺(32番)、華厳寺(33番)の徒歩巡礼は95キロあり、三泊四日を要するとあります。
 今度の華厳寺行きは、今週末の予定だそうです。ちょうどこのときは、私が満願となる華厳寺へ行く予定の日なので、ひょっとしたらこのご住職さんたち一行と行き会うかもしれません。

 そんな雑談をしていたら、帰りも歩くなら熊に気をつけなさいよ、とおっしゃいます。ドキッとしました。最近、麓の民家に熊が出没しているとか。
 これを聞いて、暗くならないうちに、今すぐに帰ることにしました。
 熊が出ると聞くと、ノンビリ山を下っている場合ではありません。早足ではなく、スキップよりも早く、まさに山伏の気持ちで飛ぶように走って山を下りました。

 山道を抜け、舗装道路が見えたときには、熊に出会わなくてよかったと、本当に身体から力が抜けました。
 
 
 
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 ガイドブックによると、松尾寺から駅までは40分とあります。そこを、とにかく命が惜しいばかりに必死に走ったせいか、何と22分で松尾寺駅に着きました。予定の半分の時間でした。
 自分が病気療養中であり、リハビリを兼ねた西国札所巡りをしていることを、すっかり忘れています。まさに、箱根駅伝にでも出ようかという勢いでした。

 無事に松尾寺駅に着くと、ドッと汗が吹き出しました。冷たいお茶を飲みながら、身体を落ちつけて、また乗り継ぎを繰り返して帰ることになりました。

 さて、これで西国三十三所の巡礼も、岐阜県にある華厳寺一箇所となりました。
 今週末を予定しています。
 
 
 

2010年11月 4日 (木)

西国三十三所(34)成相寺

 天橋立にある西国札所第28番の成相寺までは、片道4時間かかります。そのため、朝早く出発しました。

 朝食を急いで食べたせいか、突然の腹痛が襲って来ました。
 天橋立行きは、実は今日が3回目の挑戦です。
 最初は突然の雨のために中止。2回目は出発早々に乗り換えを間違えたため、乗り継ぎが複雑になって断念。今日が3回目なのに、出掛けに腹痛です。ついていません。

 それでも、今日を逃すと今週中の満願が達成できないので、我慢して駅に向かいました。来週が結婚記念日で私の誕生日なので、それまでに満願とし、総本山の永平寺に報告にいく計画でいるのです。
 
 突然の顔が歪むほどの腹痛で、何度か引き返すことを考えました。しかし、何とかなるさと開き直り、とにかく電車に飛び乗りました。
 山陰線に乗ってから、腹痛に加えて気分も悪くなりました。どの駅で引き返すか、そのタイミングを計っているうちに、1時間ほど経った頃に、しだいに痛みが和らぎ、気分も快復してきました。

 とにかく、今日は無理をしないことを自分に言い聞かせて、一路天橋立へと電車の揺れるままに身を任せました。

 JR山陰線は福知山駅までです。そこから北近畿タンゴ鉄道に乗り換えて終点の宮津まで行きます。宮津からまた乗り換えて次の駅の天橋立駅へ、というのが、今日の往路です。

 福知山駅で北近畿タンゴ鉄道の乗り換え口に行くと、今電車が出るところなので急いで、とのことです。私がPiTaPaカードを出すと、それはここでは使えないので、すぐにこの下の精算所で処理してもらってくれ、とのことです。それまで、電車は止めておくから、とも。

 ご親切に、乗り換え時間がないので乗れないと思っていた電車に、駅員さんの配慮で乗れるのです。感謝しながら精算所へ行くと、先客がモタモタしておられます。焦る気持ちを抑えて、ジッと待ちます。ここで深呼吸して焦らないようにするコツを、最近覚えました。

 無事に精算を終えて走って北近畿タンゴ鉄道の改札口へ戻ると、今度は北近畿タンゴ鉄道の切符を別に買ってくれと。ただし、割り引きになる1日フリーキップがあるので、これを使ったらいいと、またもや親切にしていただきました。
 電車はまだ待たせてあるから、とのことで、言われるままにホームに駆け上がると、運転手さんがおいでおいでをしておられます。急いで乗ると、1輌だけのワンマン電車のドアが閉まって発車しました。
 
 
 
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 腹痛で始まった旅が、こんな形で行くことになりました。人が電車を動かしていることを実感させてくれた出来事でした。

 宮津でも、すぐに乗り換えの1輌だけのワンマン電車に接続していました。ここから1駅しか乗らないのがもったいない、ローカルな単線の旅となりました。
 京都に来るまでにいた、奈良の平群を走る生駒線を、さらにローカルにした線でした。

 天橋立駅の案内所で、今日のタイムスケジュールを相談しました。
観光船、ケーブルカー、バスを使うと、2時間半で十分に成相寺へ行って戻って来ることができるそうです。ちょうどお昼までに駅に戻れるので、それから西国第29番札所松尾寺へも行ける、とのありがたい助言もいただきました。

 私としては無理をせずに、今日は天橋立に泊まってもいいくらいに思っていたので、これはこれで僥倖です。午後から松尾寺へ行くことにして、まずは成相寺を目指します。

 日本三文殊の一つである天橋立智恩寺の文殊堂と、その横にある和泉式部の歌塚を見ました。私の護り本尊は文殊菩薩なので、天橋立に来ると必ずここに立ち寄ります。

 その参道のお土産物屋さんで、レンタル自転車があることに気づきました。天橋立の松並木を、自転車で走るのも一興です。これまでは車で来ていたので、思いもよらない行動パターンとなります。2時間で400円なので、これは借りて乗るしかありません。
 ということで、突然ですが、サイクリングを兼ねて成相寺へ、と相成りました。
 
 
 
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 右手に宮津湾を見ながら、快適に天橋立の松林の中をサイクリングです。
 天橋立の長さは3・6 キロあり、8000本の松並木です。手と頬を撫でる風が、少しひんやりとしていて、心地よく感じられます。
 
 
 
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 対岸の籠神社に自転車を置き、ケーブルカーで笠松公園へ。ケーブルカーは、外国の方々で満員でした。
 そしてバスで、標高570メールの成相寺の本堂真下に到着です。嶮しい山道を唸りながら登るバスが頼もしく思えました。

 本堂では、別ルートからの巡拝団がたくさんおられました。やはり、天橋立は人気のスポットです。
 
 
 
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御詠歌は、次の通りです。


なみのおと
まつのひびきも
なりあひの
かぜふきわたす
あまのはしだて

 
 
 
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 成相寺のご本尊は、聖観音さまです。ご開帳は、33年に一度となっています。しかし、一昨年に3年ぶりのご開帳があり、昨年もあったそうです。この調子なら、私が生きているうちに、尊顔を拝する機会がありそうです。

 ご本尊もいいでしょうが、私はその右横にお立ちの十一面観音さまが気に入りました。そば近くまで行って、ジックリと拝見しました。なかなかいいお顔でした。

 本堂横には、木漏れ日の中に石仏たちがズラリと勢揃いです。
 元気になれよ、という声が、今にも聞こえてきそうでした。
 
 
 
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 展望台からの景色は、絵はがきの通りです。
 
 
 
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 バス停のそばには、雪舟の絵「天橋立図」にある五重塔が平成12年に復元されてスックと建っていました。スッキリとした、いい形です。
 
 
 
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 天橋立駅に向かうサイクリングも、帰りは風も滑らかに感じられるくらいに、穏やかな天気となりました。
 ちょうど2時間借りました。これはお薦めです。
 さらに、成相観音温泉や、駅の横にある天橋立温泉智恵の湯に入ることができたら申し分ないのですが、そこまで贅沢は言えません。

 次は、天橋立駅から松尾寺を目指します。
 
 
 

西国三十三所(33)宝厳寺

 琵琶湖の湖北にある長浜から船で25分。静かな湖を滑るようにして、竹生島へと進みます。
 湖北一帯が靄って見えます。
 
 
 
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 船の前方左側に、周囲2キロの小さな竹生島が見え出しました。
 
 
 
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 竹生島にある宝厳寺は、西国三十三所の第30番札所です。724年に行基が開いたというのですから、その歴史の重みを感じます。
 船着き場のお土産物屋さんは、5軒のうち3軒が店じまいしていました。少し寂しい感じです。おでん定食を妻と分け合って食べました。
 
 
 
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 本堂は、弁天さんを祀っています。江の島、厳島と並んでこの竹生島が、日本三弁天と言われています。
 
 
 
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 本堂の横でお軸を書いてもらいました。
 
 
 
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 御詠歌は、次の通りです。


つきもひも
なみまにうかぶ
ちくぶしま
ふねにたからを
つむここちして

 「びわ湖108霊場」の湖北27ヶ寺の一覧がないかを聞くと、納経所の3人ともご存知ありません。その横に立ててある旗は、最近配られたものだそうです。無住の寺があるから、と小馬鹿にしておられます。苦労して設立されたのに、現場がこのていたらくですから、「びわ湖108霊場」が認知されるまでには、まだまだ時間がかかりそうです。まずは、こうしたお寺の関係者への啓蒙から始めないといけません。この人たちが、今は「びわ湖108霊場」の普及の足手まといとなっています。よく言われる、身内の教育から、ということです。

 江戸時代に焼失した三重塔が、10年前に重機を使わずに人手だけで再建されたそうです。その10年祭として御開扉されていました。かねてより、日本的な美しさがその色褪せた渋さにあると教えられて育ったせいか、この眩いばかりの大日如来や極彩色の天部の神様たちには、やはり違和感を感じます。インドへ行ったときの電飾の中の神様仏様のようなけばけばしさには、正直なところ戸惑います。日本文化について、改めて考えてしまいます。出来たばかりの時には、新しさに輝いているのがあたりまえです。しかし、それが古びた方を日本的としてありがたがる美意識を、無意識の内に植え付けられてきたように思います。新しさや若さや新鮮さというものに対する意識を、自分の中で見つめ直す必要がありそうです。後ろ向きではない、前向きな視点で文化を見ることが、今まで以上にこれからは大切にすべきではないかと。

 国宝の観音堂は唐門造りです。
 
 
 
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 本尊の千手観音は、今年5月の1ヶ月間がご開帳でした。次は27年後の2037年だそうです。この次のご開帳に立ち会えるように、細々とでも長生きをしたいとの思いを強くしました。

 この観音堂から本殿である都久夫須麻神社(国宝)につながるのが、船廊下です。
 
 
 
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 ここでは、不思議な空間に身を置くことができます。
 そして、竜神拝所での「かわらけ投げ」は、素焼きの小皿に願い事を書いて琵琶湖に向かって投げます。目の前の鳥居をくぐると願い事が叶うとか。2枚一組の内、1枚が鳥居をくぐりました。ホッとしました。
 
 
 

2010年11月 3日 (水)

西国三十三所(32)長命寺

 長命寺は長生きの観音さんで有名です。
 JR琵琶湖線の近江八幡駅からバスで20分ほど乗ると、長命寺のバス停です。
 
 
 
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 そこから25分の登坂です。ただし、808段の階段で、しかも段差が高い上に、石が不規則に崩れかかっているので、非常に歩きにくい山道です。
 
 
 
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 登り坂の途中にある幾つかの小さなお寺やお堂は、崩れ果てて荒廃に任せてありました。長命寺の今後が不安になります。しかし、本堂のすぐ下の駐車場からの石段は整備されていました。
 
 
 
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 下から歩いて上る人はめったにいないので、駐車場から下の参道は荒れるがままになっているようです。歩いて登る人のための対処もお願いしたいものです。いつまでも人類が個人レベルの用途で自動車を使うとは限らないのですから。

 かつては人間が車というものを個人的に使い、自然環境を破壊し、たくさんの人を跳ねていた時代があった、と後世に記録されると思っています。たくさんの不要な車が排気ガスを撒き散らしていた、と。今、必要性のある自家用車というのは、実際にはどれくらいなのでしょうか。郊外や地方は別にして、都市と言われる地域では、総数で言えば日本の車の3割は不要な鉄くず、と言うと言い過ぎでしょうか。
 もっとも、私も奈良の平群の山に住んでいたときには、麓への買い物や灯油の買い出し、子供の用事などで車を活用していました。長女が生まれて以降、ここ京都に住まうまでの24年間は、自家用車が重宝しました。しかし、子供の手が離れ、便利なところに住むと、車は不要になります。
 少なくとも、私が住む京都の実家周辺の駐車場にある車は、まずは営業車以外は不要の極みです。8割以上が、京洛を破壊することに手を貸しています。

 日本人は賢いので、いづれ気づいて自発的に手離していくことでしょう。四条通りなども、車を制限した街作りがスタートしています。ただし、それに変わる自転車対策が追いついていません。もっとも、観光地はこの自動車規制がしやすいとも言えます。
 そうしたことを前提に、そろそろ一般市民が自家用車を持たない生き方に対応した対策を、意識してゆくべきでしょう。

 長命寺の参道も、駐車場から下は今は人が使わないので荒れ放題です。しかし、これは手を入れれば相当の価値のあるものです。山門近くまで車で上がる人が減れば、この石段の道は脚光を浴びるはずです。山門までは、身体の不自由な方だけの自動車道にして、歩くことを前提にした西国三十三所にしたらどうでしょう。施福寺も観音正寺も、車で上がれるところは制限されているのですから。

 おそらくお寺の方も、長命寺のある姨綺耶山の自然を守るためには、車を制限したいはずです。しかし、そうすることによる参拝者の激減が怖いのでしょう。大丈夫ですよ。賢い日本人は、自分だけが楽をするための車の使用は、自然と控えるようになりますから。

 長命寺の御詠歌は、次の通りです。


やちとせや
やなぎにながき
いのちでら
はこぶあゆみの
かざしなるらん

 
 
 
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 私がお軸を乾かしていると、先達に導かれた十数名ほどの巡拝団がいらっしゃいました。お一人の年配の女性が説明をなさっています。もう一人の若い女性が、朱印帳やお軸を一手に請負い、納経のとりまとめから肩に担いで運搬と、重労働をなさっていました。
 バスによる巡拝です。すぐ下の駐車場から歩いてお出でです。これはこれでいいと思います。個人の自家用車による巡拝について、先ほどは記しました。不便を強いるのではなくて、車のあり方からの私見ですので、歳とともに固陋の兆しが見えたと思わないでください。自然の中を歩き巡っていると、こんなことに反応するようになったのです。

 なお、この朱印所で「びわ湖108霊場」について尋ねると、御宝印の用紙を探し出して書いてくださいました。まだ、これを求めて来る方が少ないせいでしょうか。あそこに入っていたよな、と慣れておられません。
 また、近江八幡の周辺の「びわ湖108霊場」の場所を聞いたのですが、どこにあるのかわからないとのことでした。後で調べると、長命寺から近江八幡駅の間に2箇所あったのです。今は「びわ湖108霊場」について私もよく調べていないので、また次の機会にまわりましょう。これこそ、井上靖の『星と祭』よろしく、気長に琵琶湖を一周します。

 境内は、三重塔、本堂、三仏堂などがきれいに並んでいます。
 
 
 
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 境内からは、琵琶湖越しに比叡・比良連峰が望めます。
 
 
 

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 帰りも、808段の石段を下りました。
 野球部の生徒が、麓のバス停から本堂までの石段を、走って上り下りするトレーニングをしていました。跳ぶようにして急な石段を駈けて行く姿に、爽やかさを感じました。すれ違いざまに、いちいち挨拶をしてくれるので、躾のよさに感心しました。
 この近くには、何度も甲子園に出場している八幡商業高校などがあるので、野球のレベルは高いことでしょう。

 近江八幡市街は、メンソレータムの輸入や近江兄弟社などを創ったヴォーリス(日本名︰一柳米来留)が設計した建築物が、街中にたくさんあります。爽やかな街並みなので、もう一度来たくなるところです。
 
 
 

2010年11月 2日 (火)

西国三十三所(31)観音正寺

 安土駅の駅前には、やはり織田信長像が建っていました。
 
 
 
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 駅前の地図を見て、観音正寺への道を確認です。
 
 
 
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 JR琵琶湖線の下半分のピンクとオレンジで引かれた道を、反時計回りで歩くことにしました。3時間の予定で出発です。
 まずは、地図の下回りで平坦な道を40分歩いて、石寺楽市を目指します。

 途中で、京都・山科にある隨心院の小野小町の化粧井戸を思わせる階段式の井戸が、民家の前にありました。昔は、少し大きい家には、こうした井戸があったのでしょうか。突然、さりげなく道端にあったのにはビックリしました。
 
 
 
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 すると、横を新幹線が通過しました。
 
 
 
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 安土の小野小町も水鏡から面をあげ、牛車ならぬ列車が通り過ぎるのを、どう思うでしょうか。

 これから、この標高430メートルの繖山(きぬがさざん)に登ります。
 石寺楽市から、観音正寺への山登りが始まります。お寺まで、急な山道を40分かかるそうです。
 お土産処の前に、巡礼者のための杖がたくさんありました。熊と遭遇したときのために、長めで太くて丈夫そうな竹の杖を一本借りました。
 今日は山道を登るので、今話題の熊に山中で襲われた時のことを考え、百円ショップで鈴を買って来ています。糸で繋げてあるので、これを手に巻き、杖を片手に登りました。
 
 
 
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 最初は、舗装された緩やかな坂道です。
 
 
 
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 しかし、これが次第にその姿を変えていきます。
 西国札所の中でも、ここが一番の難所と言われる札所です。
 これまでに、一度だけですが、バスで途中まで上がったことがあります。何かの特別法要かイベントがあった時なのでしょう。もちろん、今日は歩くしかありません。

 「イノシシ出没につき注意」という掲示があります。ときどき後を振り返ったり、木々の間を見ては、熊やイノシシが飛び出してこないか警戒しながらの山登りです。鈴を握り、緊張の連続でした。
 
 
 

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 山中の道々、傍らに素朴な石仏がいくつもあり、熊の心配さえなければ心安らぐ山道です。

 境内に辿り着くと、ホッと一息つけました。怖さがあったので、30分以上も休むことなく登り続けました。脚を停めた瞬間に、熊が襲いかかって来るような雰囲気があったのです。
 
 
 
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 観音正寺は、平成5年に本堂や仏像が焼失しました。焼けた後、家族みんなで3度行きました。まだ本堂もご本尊もありませんでした。何もない境内が痛ましくて、再興のためにご寄付をしたことを覚えています。
 この新しい本堂は、平成16年に完成したものです。
 
 
 
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 かつてのご本尊は立ち姿の千手観音でした。新しいご本尊は、座像の千手千眼観音さまです。

 仏師は松本明慶氏。松本氏は、京都・大原野に工房を持ち、京都仏像彫刻家協会会長です。平成18年には、京都市上京区に松本明慶佛像彫刻美術館が開館しました。

 今日、ジックリとご本尊さまを拝顔してきました。白檀で作られているそうです。
 この造像の背景が本にもなっていました。前住職の岡村師は、インド産の白檀を手に入れようとされました。しかし、インドでは輸出禁止のものです。そこで、岡村師は20回もインドに渡り、その結果、23トンの白檀を調達することができたのだそうです。信念を感じました。

 壺阪寺もそうですが、日本の仏教とインドとの関係は、今もつながりがあります。インドには日本で言うところの宗教としての仏教はありません。しかし、日本の仏教に対する理解はあります。
 インドとは今後とも、こうした共通する接点を活かした外交をしてもらいたいと念じています。

 なお、この観音正寺には、開基である聖徳太子にまつまる人魚のミイラというものがありました。火事で本堂と共に焼失しました。夢が夢のままになってしまったことが惜しまれます。

 この本堂の横に、観音さまが岩肌に立っておられました。これは、旧本堂の前にあったものを、このようにしたとのことでした。さらに、この林立する岩を、花のようなデザインにする計画があるのだそうです。意欲的に境内を整備しようという取り組みに、好感を抱きました。
 
 
 
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 日本の仏教は、何かと旧態依然とした旧弊を守る姿が眼に付きます。しかし、今に対応したアイデアを盛り込んで、次の世代につなぐ気持ちも大事にしてもらいたいと思っています。
 我々の方も、古いままの、古びたものを有り難がるだけの観光客になってはいけないと思います。常に明日のよりよい姿を模索するところに、宗教があり、信仰があり、参拝があり、観光が後押しをすると思います。生意気なことを書いてしまいました。妄言多謝。

 ここに来ると、いつもチョロギを買っていたことを思い出します。その形が珍しくて、今でも見つけると、つい買ってしまいます。
 
 
 
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 観音正寺の御詠歌は、次の通りです。


あなたうと
みちびきたまへ
くわんおんじ
とほきくにより
はこぶあゆみを

 
 
 
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 御詠歌を書いてもらいながら、いろいろと世間話をしました。この繖山は湖東平野の独立丘陵なので、熊が山伝いに来ることはない、とのことでした。その代わり、イノシシがよく出るのだそうです。納経所の若い方は、自分よりも背丈の大きいイノシシに出会い、怖かったと話してくださいました。
 帰りは、イノシシだけに注意することにします。

 境内からは、蒲生野が眼下に広がっています。
 紅葉も、これからが本番となることでしょう。
 
  
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 帰りには、『桑実寺縁起絵巻で』知られる桑実寺に立ち寄ってから、繖山を下りました。
 
 
 
 

2010年11月 1日 (月)

西国三十三所(30)興福寺南円堂

 平城遷都1300年祭のため、奈良の駅前周辺はこれまで以上に賑わっています。
 久しぶりに近鉄奈良駅に行き、京都とは異なる都の雰囲気を感じました。
 賑やかさはあっても、華やかさが足りないように思います。これが、奈良らしさなのでしょう。

 南円堂の前は、中金堂の工事中でした。これができると、興福寺の伽藍も、これまでがだだっ広い感じだったので、引き締まって見えることでしょう。
 
 
 
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 ここの五重塔は、いつ見てもいい姿をしています。
 
 
 
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 夏にライトアップされた五重塔は、猿沢の池から見上げるとさらに魅力的でした。この興福寺の五重塔が、私の好きな塔の代表格です。中金堂ができると、さらにその魅力が増すように思います。堂塔あっての伽藍なのですから。

 南円堂の観音様は、毎月17日の開扉なので、今回も見られませんでした。これも、また次の機会としましょう。
 
 
 
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 この南円堂は、とても来やすいところです。フラリと立ち寄れるのがいいのです。
 ただし、お軸を筆ペンで書いてくださったのには、意表を突かれました。初めてです。やはり、硯の墨を筆につけて書いてほしいと思うのが人情でしょう。書かれる字に違いはないにしても……
 
 
 
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 御詠歌は、次の通りです。


はるのひは
なんゑんだうに
かがやきて
みかさのやまに
はるるうすぐも

 北円堂と国宝館、そして正倉院展など、行きたいところはたくさんありました。平城京跡のメイン会場にも脚を延ばしたいところです。しかし、何かと用事を抱えての西国巡礼のため、今回も落ちついて見て回る時間がとれません。
 これも、口癖のようになった、またいつか機会を得て、ということになりました。

 東向商店街の入り口に、回転寿司屋がありました。いつできたのか、久しぶりなので知りませんでした。入りたかったのですが、食事をしたばかりなので、残念ながらパスせざるをえません。少量ずつを食べ繋いでいる毎日なので、こんな時に無理ができないのです。
 一応、確認の意味で写真だけはアップしておきます。
 
 
 
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NPO法人〈源氏物語電子資料館〉広報室より

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