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2010年11月28日 (日)

テレビドラマ『球形の荒野』(後編)を観て

 『球形の荒野』の後編は、戦争と平和がテーマになっていました。難しいテーマが、わかりやすく展開しました。
 ただし、このドラマを観ていた人の多くは、このような深刻な問題を突きつけられるとは思っていなかったのではないでしょうか。前編でもっと伏線を張っておいたらよかったと思います。
 しかたがないのでしょうが、前編は殺人事件と父娘の関係の推理に、どうもバランスが傾きすぎでしたから。

 この小説の時代設定についても、疑問があります。
 『球形の荒野』は、昭和35年に発表された小説です。それを、今回のドラマ化するにあたっては、東京オリンピックが開催された昭和39年の物語になっていました。東京オリンピックが中途半端にドラマの中で浮いていました。あの外交絡みの和平交渉や、その背景にある暗さを表現するには、何ともギクシャクし過ぎです。うまく噛み合っていないジグソーパズルのようなドラマになってしまいました。また、連続殺人事件の犯人たちについても、無理があります。これは、清張自身が連載時から単行本の刊行時において、さまざまな削除の手をいれたことと関係します。清張の迷いと苦悩が、このドラマでもストレートに混線した状態で映像化されています。これは、脚本の問題かもしれませんが。
 これは、かえって現代に置き換えるべきでした。そのほうが、すっきりと内容に入れたと思われます。

 原作の改変を含めて、登場人物の関係や時代設定について、よくわからないままに、違和感を持って観た人が大半ではないでしょうか。

 今は、新幹線の開通や東京オリンピックのことが、ほとんどイメージしにくい時代にあります。観る人を50歳台以上に設定したとしても、伝わるものが少なすぎました。若い方々には、なおさらわかりずらかったと思われます。
 逆に新鮮だったと感じた人もいるかもしれません。それは、原作から離れすぎたところから生まれる、計算外の効果と言えるでしょう。

 父娘で海を臨みながら「七つの子」を歌うシーンも、川奈温泉の海辺ではスケールが小さすぎます。これでは、清張が泣きます。清張には、荒々しい波が必要です。
 原作通り、観音崎の岩場にしなかったのはなぜでしょうか。これが、インパクトのないドラマになってしまった典型的な事例です。

 全体的に、スケールが極端に矮小化されていました。こぢんまりした清張作品になっていて、失望です。

 あまり貶してばかりではいけないので、最後は褒めておきましょう。

 久美子役の比嘉愛未は、後編になると役所が掴めたのか、表情がとても柔らかくなり、好感を持って観ていられました。このドラマでは、数少ない救いでした。

 また、本来なら父娘で「七つの子」を歌って終わるところを、このドラマでは、さらに野上が日本を離れる空港のシーンが付け加えられていました。それがかえって、このドラマが一番アピールしたいところになっていたと思います。。

 空港での別れ際に、江口洋介が田村正和に、日本の印象を聞きます。カサブランカ並みのアングルでした。それはともかく、ここで、主役が田村から江口に代わったと感じました。江口洋介が物語の中心に躍り出た場面になっていました。それだけの、意欲的な原作への付加でした。
 これは、後編での堅苦しくなった流れを何とか必死に立て直そうとした中で生まれた、昭和39年当時のことばで言う「ウルトラC」でした。このシーンを付け加えたことにより、この後編で迷走したドラマが、その伝えたかったテーマを鮮明にしました。ことばを代えれば、この空港での別れのシーンがなければ、このドラマは完全に失敗、ということになりかねなかったのです。

 この2人の空港での向き合い方が、清張の作品の解釈として視覚的に表現できたことが、このドラマの最大の成果と言えるでしょう。
 この終わり方を設定できる監督なら、『砂の器』をどう料理されるのか、少し楽しみになりました。
 ただし、キャスティングのミスのないように、慎重に人選をしてほしいと希望します。
 
 
 

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NPO法人〈源氏物語電子資料館〉広報室より

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