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2011年4月の30件の記事

2011年4月30日 (土)

京洛逍遥(189)そば鶴と大徳寺興臨院

 今日のお昼は、新大宮商店街にある「そば鶴」さんです。いつもは蕎麦寿司なので、今日は胡麻酢蕎麦にしました。
 ここの胡麻だれは、非常にさわやかです。ご夫婦の息が合っている上に、一つ一つ丁寧に作ってくださいます。作っておられる姿を目の前で見ているだけで、たべるのが楽しみになります。ご主人は、最近少し前屈みになられたようです。それでも、動きは機敏です。
 
 
 
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 ガラスケースの中に飾られている陶器は、季節毎に変わります。この変化も楽しみです。

 お腹がいっぱいになったところで、自転車を大徳寺に向けました。
 この前は数多い塔頭の中でも芳春院へ行きました。この大徳寺の塔頭は30近くもあるので、行くたびに拝観するところを変えています。今日は、興臨院にしました。ここは、紫式部の供養碑がある大慈院の手前にあります。

 この大慈院は、畠山氏の菩提寺となっています。
 方丈の前の庭園は、中国の寒山・拾得が天台山の国清寺の石橋を模して、蓬莱の世界を表現したものだそうです。なかなか気品を感じさせる庭でした。枯山水の庭は、見る者を緊張させます。その張り詰めた雰囲気が、私は好きです。
 天台山には、4年前に登り、国清寺にも行きました。深山の中で厳しさが伝わる庭でした。
 その雰囲気を写そうとしたもののようです。しかし、やはり塀越しに見える木々は、京都そのものです。和風の禅庭です。
 
 
 
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 庭の片隅も、ピシッと空気が締まっていました。
 
 
 
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 禅寺のよさが、こうしたところからも窺えます。
 折々に、大徳寺の塔頭を経巡りたいと思います。
 
 
 

2011年4月29日 (金)

京洛逍遥(188)上賀茂神社の桜

 賀茂川畔の桜も、八重桜以外はみな数輪の花を残すだけの葉桜となっていました。そして、モミジの緑が目に滲みます。
 賀茂川に架かる御園橋からは、吉田山の大文字が望めます。春から初夏へと、賀茂の春色が少しずつ変化していきます。秋よりも、私はこの時期の風景が気に入っています。
 
 
 

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 いつものように、散策の途次、上賀茂神社に立ち寄りました。
 参道脇の斎王桜が、零れるように咲き誇っています。
 ちょうど、結婚式を終えたばかりの2人が、斎王桜の前で記念撮影をしておられました。
 左には、5月1日に開催される賀茂競馬に出場する馬足の優劣を定める足汰式の会場が、準備万端となっていました。ここでは、5月5日に観客を熱気の渦に巻き込む、賑わいを待っている馬場がありました。
 
 
 
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 一ノ鳥居を見やると、葉桜となった御所桜がきれいでした。
 
 
 
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 境内では、まだみあれ桜の花が残っていました。
 屋根の改修を終えた細殿も、盛装を見せています。
 
 
 
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 いつもと変わらぬ上賀茂神社です。しかし、季節の移り変わりを、色で教えてくれています。
 
 
 

2011年4月28日 (木)

在英国・源氏画帖の情報(続3)

 「藤裏葉」巻に続く「若菜上」巻です。第二部のはじまりとなる巻です。
 
 
<若菜上(本文)>
 
 
 
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■用紙が上から3分の1のところで継がれています。
■左端に「三十四」とあります。「若菜上」は第34巻にあたります。
■本文の5行目下から7行目下にかけて、用紙に上からヘラのようなもので強く押された痕跡があります。これは、「梅枝」「藤裏葉」と同じような状態です。
■詞章は、『新編日本古典文学全集』(小学館)第4巻の71頁に該当します。
 
 


  わかな上
御返すこしほとふる心ちすれはいり給て
女君に花みせたてまつり給花といはゝかく
こそにほはまほしけれな桜に移しては
又ちりはかりも心わくかたなくやあらまし
なとの給これもあまたうつろはぬ程めと
まるにやあらむ花のさかりにならへてみはや
なとの給に御返あり

 
 
 
<藤裏葉(粉本)>
 
 
 
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■右端に「三十四」とあります。「若菜上」は第34巻にあたります。
■紙面上部と下から4分の1のところに、紙を継ぎ足した跡が認められます。
■左端に糸で綴じられていたことを示す穴が3カ所確認できます。
■女三宮からの返事を待つ間、紫の上のご機嫌取りをする光源氏が描かれています。
■この場面の絵画化は、あまり多くないようです。
 
 
 

2011年4月27日 (水)

在英国・源氏画帖の情報(続2)

 「梅枝」巻に続く「藤裏葉」巻です。第一部の締めくくりとなる巻です。
 
 
<藤裏葉(本文)>
 
 
 
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■用紙が上から半分のところで継がれています。
■左端に「三十三」とあります。「藤裏葉」は第33巻にあたります。
■本文の4行目下から7行目下にかけて、用紙に上からヘラのようなもので強く押された痕跡があります。これは、前巻の「梅枝」と同じような状態です。
■紙面に墨汚れが目立ちます。
■詞章は、『新編日本古典文学全集』(小学館)第3巻の438頁に該当します。
■和歌が3首も記されています。
 
 


 むらさきにかことはかけん藤の花
松よりすきてうれたけれとも宰相
さか月をもちなからけしきはかり
はいしたてまつり給へるさまいとよ
しあり
 いくかへりつゆけき春をすくしきて
はなのひもとくおりにあふらん頭中将
にたまへは、
 たをやめの袖にまかへるふちの花
     みる人からや
          色もまさらん

 
 
 
<藤裏葉(粉本)>
 
 
 
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■右端に「三十三」とあります。「藤裏葉」巻は第33巻にあたります。
■上から3分の1と、下から3分の1の2カ所に、紙を継ぎ足した跡が認められます。
■左端に糸で綴じられていたことを示す穴が確認できます。
■藤の花の宴席で、頭中将、夕霧、柏木が盃を回して酒を飲み歌を詠む場面です。
 和歌の意を汲んで、藤が松に纏わり付いて咲く庭を描いています。本文に忠実に絵画化していることがわかります。
■この場面の絵画化は、多く見られるものです。
 
 
 

2011年4月26日 (火)

在英国・源氏画帖の情報(続1)

 本年正月に、「在英国・源氏物語画帖に関する情報公開」(2011年1月10日)と題する記事を公開しました。

 これに関しては、その続報を、「在英源氏画帖に関する続報」(2011年1月28日)に記しました。

 その後、ケンブリッジ大学のコーツ教授より、残りの画像の提供を受けました。
 ただし、何かと慌ただしい中で、その公開が延び延びになっていたことを、コーツ教授にお詫びいたします。

 少し時間がとれたので、何回かに分けて公開します。

 なお、前回公開した情報については、『源氏物語本文の研究』(豊島秀範編、國學院大學文学部日本文学科発行、2011年3月31日、非売品)に「在英源氏物語画帖の絵と詞」と題して、あらためて整理し直したものを収録しました。

 本画帖に関する概要は、上記のブログか刊行書をご参照ください。
 そして、あらためてこの画帖に関するご教示をお願いするしだいです。
 
 
 
<梅枝(本文)>
 
 
 

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■用紙が上から5分の1と、下から10分の1のところで継がれています。他の巻でも、本文用紙に紙継ぎの跡がありました。これが源氏絵を作成するための粉本である、という性格に関係することだと思われます。
■左端に「三十二」とあります。「梅枝」巻は第32巻にあたります。
■本文の3行目下から5行目下にかけて、用紙に上からヘラのようなもので強く押された痕跡があります。
■詞章は、『新編日本古典文学全集』(小学館)第3巻の408頁に該当します。
 
 


  梅か枝
これわかせたまへたれにかみせ
むときこえたまひて御ひとりとも
めしてこゝろみさせたまふしる人
にもあらすやと火けし給へといひしら
ぬにほひとものすゝみをくれたる
かひとくさなとかいさゝかのとかをわ
きてあなかちにおとりまさりの
けちめをゝきたまふ
 
 
 ここに書写された本文について、「火けし」とあるところは、現在の漢字混じりの表記では「卑下し」と置き換えるところです。この「火」は明瞭に漢字で表記されています。「火」をひらがなの「ひ」のつもりかとも思われます。あるいは書写者は「火消し」の意味で書き写したのかも知れません。

 本文異同をあげておきます。
 7行目の「わきたまひ」とあるところで、大島本だけが「わきて」となっています。つまり、ここで書写されている本文は、大島本に類するものとは異なるということが明らかだと言えます。
 
 
 
<梅枝(粉本)>
 
 
 

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■右端に「三十二」とあります。「梅枝」巻は第32巻にあたります。
■ここは、光源氏が蛍宮に、集まった薫物の優劣の判定を依頼する場面です。ただし、この場面を絵にした例を、私はまだ確認していません。
 
 
 
 

2011年4月25日 (月)

【復元】回転寿司屋探しでカーナビの不具合発見

 奈良から京都に住まいを移したのを機会に、自家用車を処分しました。3年前のことです。
 自分が車との縁を切ると、運転している人たちを見るたびに、本当に車は必要な乗り物なのか、疑問に思うことがあります。特に、大都市で我が物顔に走る自家用車は、多くが不要な走行をしているように思えます。ただし、地方で移動の手段がない地域では、車はなくてはならないものであることは認めます。公共交通といっても、人口がすくなければ採算がとれないのですから。

 子供がいるから、ということで、つい運転しているのでしょう。
 大きな買い物をするから、ということで車でホームセンターに行きます。
 しかし、実は、自分で運転しなくてもものは買えるし、運べるのです。
 商用車は必要性が高いでしょう。物流の中心になっているのですから。ここで問題にしているのは、一般家庭で利用される個人的な利用に限定されている自家用車です。

 車の運転が好きな方のためには、サーキットコースをもっとたくさん作ればいいのです。私も自動車の運転が好きなので、近くに安く利用できるサーキットコースがあれば、今でも行きたいと思います。

 とにかく、ガソリンを浪費し、排気ガスを放出する車の中でも、自家用車はもっと制限をしてもいいのでは、と思っています。車に麻痺した生活習慣は、なかなか変えられません。しかし、人間は賢いので、いずれは無自覚に乗り回す自家用車社会と決別することでしょう。
 私は、やはり公共交通をいかに社会に生かすか、だと思っています。
 今、京都市はこの車社会に挑戦しています。車に関することになると感情的になる方が多いようで、京都市も非常に慎重に控えめに、それでいてしつこく取り組んでいます。今は、四条通を中心として、車の車線を制限して自転車を優遇する道作りに取り組んでいるようです。
 京都に、自家用車は不要です。外から来る人は、郊外で乗り換えてもらえばいいのです。もう日本では忘れられつつある、パークアンドライド方式です。いちいち乗り換えるのは面倒ですが、気持ちよい社会を作るためには必要なマナーではないでしょうか。
 現在の京都市の実験の成果が楽しみです。自家用車を減らすことに対する取り組みは、気長にやるしかないようです。

 
(※以下の記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
 
2005年1月9日公開分
 
 副題「行きたいところへ行けないトヨタのカーナビ」
 
 
 私のお勧めの回転寿司屋は「函館市場」という寿司屋です。百円寿司ではなくて少し高いのです。でも、なかなかおいしいのです。特に、北海道汁がお勧めです。海老の香りが食欲をそそります。

 先日、いつも行っている函館市場上牧店で、他の店の所在地を聞いたところ、いろいろあるが場所まではわからない、ということでした。店の人が言うのだからそんなものか、と納得していたのですが、それも変だと思い、インターネットで調べてみたところ、奈良県に4店あることがわかりました。
 ガーデニング用品の仕入れもあったので、妻と一緒に今日、リストの中から奈良学園前店か奈良西大寺店へ行くことにしました。どちらも近いので、走りながら決めることにして出発しました。

 カーナビにこの2店を登録し、まずは奈良学園前店のある押熊町へ向かいました。『古事記』と『日本書紀』で有名なところです。この町にはガーデニング店が二つあり、インド料理店もあり、車で京都へ行くときに通過するところなので、この周辺の地理は熟知しています。しかし、函館市場があったとは知りませんでした。
 さて、カーナビが案内したくれたところは、なんと豚カツ屋さんでした。インターネットで調べた住所で検索しても、電話番号で検索しても、愛車のカーナビはこの豚カツ屋さんの前を示します。店は潰れたのだろうと思い、すぐ近くの奈良西大寺店へ行くことにしました。これは、インターネットの資料によると秋篠寺の近くにある店です。カーナビが指示する通りに走ると、住宅地に入り、ゴール地点は民家が密集しているところです。とても車で食事に来るところではありません。車2台がすれ違うのも大変な住宅地のど真ん中です。

 2ヶ所ともに回転寿司屋がないところなので、お店に電話をしました。すると、電話番号は変っていないし、場所も変っていないとのことでした。奈良西大寺店は、そこから大回りするところにあり、奈良学園前店も場所は大きくズレているところにあるようです。

 お寿司を食べる気力を無くしたので、押熊町にある、よく行く「シャンティ」というインド料理屋さんへ行くことにしました。上品な味付けで、小奇麗な店です。(参考までに、インド料理屋さんで私が一番のお勧めは、奈良富雄にある「タゴール」です。ここは「シャンティ」より少しおしゃれな店です。もっともこの店は、過般、少女誘拐殺人事件の発生現場に近いところにあります。また、わが家が発見現場の平群町ということで、なんとなく説明するのに声が小さくなるのですが。)

 気を取り直して帰路につきましたが、それにしてもカーナビのデータに全幅の信頼を置くことができないことがわかりました。カーナビはトヨタ純正のもので、DVDデータディスクは「VOICE NAVIGATION SYSTEM JAPAN 2004年全国版」(2003年10月発行)のものです。昨春来、それまでのものと入れ替えて使用しているものです。

 カーナビのデータの精度というのは、この程度なのでしょうか。トヨタのカーナビは3年近く使っていますが、こんなことははじめてです。"
 
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 

2011年4月24日 (日)

江戸漫歩(33)深川図書館と清澄庭園

 昨日のお江戸は、一日中雨に降り込められていました。
 生活の比重を東京にかけて、そろそろ一と月が経とうとしています。
 晴天の一日を、深川散策に出かけました。

 まずは、これからお世話になることが多くなる深川図書館です。清澄庭園の南に隣接しています。
 深川図書館は明治42年9月に開館しているので、今年で102年の歴史があるそうです。前年に開館した日比谷図書館に次ぐ古さということです。平成5年に新装となり、ご覧のように入口をはじめとする外装はきれいです。外国風の荘厳さと風格を感じさせる設計です。
 
 
 

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 図書館の中も、雰囲気のある空間となっていました。階段が気に入りました。
 蔵書は22万冊とのことなので、資料の確認などには重宝しそうです。
 宿舎から自転車で10分の地にあります。宿舎からすぐ近くには、12万冊を所蔵する古石場図書館があります。ここの1階には、小津安二郎の資料展示コーナーがあることで有名です。今後は、この2館を使い分けることになります。

 図書館の北隣には、清澄庭園があります。入場料は150円です。お弁当を持って入りました。
 池を中心とした回遊式庭園です。元禄時代の豪商だった紀伊國屋文左衛門の屋敷跡だとも。そこを三菱の創業者である岩崎弥太郎が手を入れたものです。

 地震の影響か、中の島の東屋に補強の柱が添えられ、立ち入り禁止となっていました。
 
 
 

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 池の周りの冨士山という築山でも、灯籠が倒壊していました。
 
 
 

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 松島の灯籠も気の毒な状態でした。
 このところ、東京は連日の地震で揺れています。灯籠を直すにしても、そのタイミングがむつかしいことでしょう。

 広場では、八重桜と大島桜が咲き誇っていました。薄紅と白と緑の色合いがきれいでした。
 
 
 

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 この八重桜の向こうに、深川図書館の入口が見えます。その手前に、芭蕉の「古池や……」の句碑があります。
 
 
 

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 この庭園の近くに深川芭蕉庵があり、この有名な句はそこで詠まれたものでした。1685年だということなので、今から326年前のことです。この句碑は、芭蕉庵の改修の際に、この地に移設されたものです。

 芭蕉に関連する地は、この回りにいくつかあるので、また次にしましょう。

 江戸時代について、私はほとんど知りません。関西で育った私にとって、特に江戸の地についてはなおさらです。
 『伊勢物語』で、隅田川の都鳥が話題となることしか思い当たりません。業平橋があるので、在原業平は隅田川を渡ったのでしょうか。もっとも、平安時代にこの江戸の地がどうだったのかも、今は皆目わかりません。そういえば、かつて住んでいた平群の隣町の斑鳩にも、業平橋が富雄川にかかっていました。この橋の名前は、全国にあることでしょう。

 これをよい機会に、いろいろと調べてみたいと思います。

 
 
 

2011年4月23日 (土)

心身雑記(97)食後の血糖値管理へ移行

 九段坂病院で、昨夏私の病名を告げて下さった先生の診察を受けました。

 この先生には、それまでにも糖尿病の対処についてのアドバイスと栄養指導を受けていました。たまたま、人間ドックの結果を告知する立場に立たれたのだろうと思われますが、それが指導を受けていた先生だったことは、私にとっては幸いしていたと思っています。
 とにかく、電話口でガンの告知を受けたのですから。それだけ、急を要する事態だった、ということでした。
 このことは、「心身雑記(59)ガンの告知を受けた時の気持ち」(2010年7月17日)に書きましたので、おついでの折にでもご覧いただければと思います。

 さて、京大病院での経過と退院後の生活振りを先生に報告し、血液検査をしてもらいました。
 結果を見て、空腹時の血糖値は「116」と普通なのに、ヘモグロビンA1cの値が高いことを指摘されました。一昨年の人間ドックでのヘモグロビンA1cの数値が「6.6」、昨年が「6.3」と少し下がったのに、今回は「7.3」と跳ね上がっていたのです。
 この数値については、「6.5未満」ならよしとされています。このままでは、薬による治療になるそうです。そして、すぐに眼科の予約を入れて下さいました。
 そういえば、目が疲れやすくなっていた、と素直(?)な私は短絡的に理解し納得しました。

 それにしても、自宅での測定では低かったことから、よく意味がわからなくてその理由をお尋ねしました。先生は、食後の血糖値が相当高くなっているためだと思われる、とおっしゃいました。
 あまり食事が摂れなくて、間食としてお菓子などを食べていることを伝えました。それもよくないと……。とにかく、甘いものは避けるように、と釘を刺されました。
 そのために体重も増えないという悪循環に陥っているようです。

 そこで、食後2時間後の血糖値を朝と晩に測り、その結果を2ヶ月後に持ってくるように言われました。胃がすべてなくなったので、そのために食後の血糖値がどのような状況なのかを知ろう、ということです。
 これまでは、毎朝起き抜けに、空腹時の血糖値を測っていました。術後は、「100」前後だったので、なかなか順調だと思っていました。少し低めかと思い、間食で甘いものなどを口にしていたのです。

 ヘモグロビンA1cの値は、個人では計測できないので、これは病院で見てもらうことになります。

 これからは、食後の計測となります。2時間後というのも面倒なことです。しかし、命拾いした後の我が身をいたわるためにも、これはきちんと対処しようと思っています。
 この春から東京で一緒に暮らすことになった妻も、食事面で細かなサポートをしてくれています。
 気長に、血糖値の管理を続けていきます。
 日々の会議などで、席を外すことがあるかと思います。
 ご理解のほどを、よろしくお願いします。
 
 
 

2011年4月22日 (金)

読書雑記(33)高田郁『小夜しぐれ みをつくし料理帖』

 本作は、「時代小説文庫」として角川春樹事務所から2011年3月に刊行された、『みをつくし料理帖』シリーズの書き下ろし第5作品です。
 
 
 

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 文庫の帯では、シリーズ累計100万部を突破したと宣伝しています。確かに、読者は広がっているようです。
 高田氏は春と秋の年2回、この書き下ろし文庫で読者を楽しませてくれます。
 さっそく、今年の秋の第6弾が待ち遠しく思っています。
 
 さて、ゆったりとした時の流れの中に、適度な緊張感を織り込んだ高田郁の世界が紡ぎ出されています。
 作風が安定してきたせいか、安心して読めます。ただし、第5作ともなると、シリーズ化にともなう作者の苦労が感じられます。登場人物が描ききられた感があり、新鮮さと刺激の維持が大変なようです。物語の展開で、読者を引きつけるか、料理で楽しませることになります。ただし、この巻は次巻への仕込みという位置づけのように思いました。
 
 
■「迷い蟹-浅蜊の御神酒蒸し」
 絵師の登場で、出版に興味のある私は、この物語世界の広がりにますます引き込まれました。版元と絵師の関係がおもしろいと思いました。
 温かい満月(16頁)から痩せた月(81頁)へ、そして敵討ちのドラマが終わります。背景である夜空にも、こうして神経が行き届いています。【3】
 
 
■「夢宵桜-菜の花尽くし」
 「こん」の付く料理のことが語られます。


 昔から、働き過ぎで精根尽きた時には、大根や昆布、蒟蒻や蓮根など「こん」の付くものを摂ると良い、と言われている。それに加えて滋養のある玉子と消化に良いお粥を合わせるのだ、と娘に澪は教えた。(93頁)
/blockquote>

 我が身に置き換えて、これからの食事の参考にしましょう。
 澪の想い人が登場すると、気持ちの弾み具合が伝わってきます。謎のやりとりも、変化があっていいのです。
 後半に出てくる次の歌は、なかなかおもしろい趣向で出てきます。


咲く花を 散らさじと思ふ御吉野の 心あるべき春の山風

 この和歌について、私は解釈に思いを巡らしながら読んでいました。その作者が問題だったとは、一本やられました。うまくすくい投げをされた気がして、感心しました。おみごとです。

 話をむつかしくしないのが、この作者のいいところです。【4】
 
 
■「小夜しぐれ-寿ぎ膳」
 身欠き鰊が江戸にはなかったのだそうです。私は、鰊の昆布巻以外は、あまり食べない魚です。前話の菜の花といい、東西の食文化の違いに、あらためて気づかされました。
 ふきがぴょんと跳ねる場面が、この物語の中で定着しました。展開が明るく前に進むしるしとなっているのです。
 弓張り月(181頁)が丸みを帯びた月(202頁)になり、やがて満月に近くなります(218頁)。その頃には、話はめでたしめでたしと収まる趣向のはずです。しかし、その後、半分の月となるのです。どうも、この話は、最後が流れているように思えます。祝言が、晴れやかではないのです。ここまでの2作も、盛り上げも感動も、いつものような調子ではありません。こぢんまりと終わっています。【2】
 
 
■「嘉祥-ひとくち宝珠」
 これまで、正体を伏せながら、小出しにしてきた小松原の素性が語られます。しかも、ここでは、真正面から実像を露わにします。あまりにもストレートなので、私はがっかりしました。これは、評価が分かれることでしょう。次への準備とも言えます。しかし、もっと引っ張ってもよかったように思います。
 もっとも、これまでとはまったく異なる味の構成なので、これもおもしろいと言えます。澪の登場がないのですから。澪を外から見た物語となりました。次作にどうつながるのか、ますます楽しみです。【2】
 
 
 


2011年4月21日 (木)

【復元】福田秀一先生を偲んで

 福田秀一先生がお亡くなりになってから、もう5年が経ちました。
 以下に復元する文の中にある、福田先生からお預かりした翻訳文献に関する解題資料は、科学研究費補助金による「日本文学の国際的共同研究基盤の構築に関する調査研究」(課題番号︰18202007)の報告書で、「翻訳事典」の各項目に再編集して収録しました。
 私なりに、福田先生への報告ともなっているものです。

・『日本文学研究ジャーナル 第2号』(伊井春樹編、2008年3月、国文学研究資料館)
・『日本文学研究ジャーナル 第3号』(伊井春樹編、2009年3月、国文学研究資料館)
・『日本文学研究ジャーナル 第4号』(伊藤鉄也編、2010年3月、国文学研究資料館)


(※以下の記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
 
2006年4月26日公開分
 
 副題「依頼された病室での口述筆記を果たせぬままに」
 
 
 中世文学研究者の福田秀一先生が、今週の日曜日にお亡くなりになりました。早速、昨夜のお通夜に駆けつけ、ご冥福をお祈りして来ました。

 福田先生は、まさに国際日本文学研究者でした。海外における日本文学の研究実態に関して、早くから精力的に調査収集活動をしておられました。『海外の日本文学』というご著書もあります。その続編をまとめようとしておられた矢先の訃報でした。その辺りについて、福田先生を偲びながら少し記します。

 今年の1月末日でした。福田先生の奥様から、突然のお電話がありました。それは、福田先生が虎の門病院に入院なさった、ということでした。そして、私にお願いしたいことがある、と。先生がお話しになることを書き取ってほしい、という依頼でした。詳しい事情はともかく、翌日病室に伺うことを約束しました。

 翌2月朔日の午後4時30分に、口述筆記のお手伝いをしてくれるという後輩のIさんと一緒に、大雨の中を、福田先生の病室へ足を運びました。Iさんは、福田先生が収集された海外の翻訳本の整理をしてくれていたメンバーの1人なので、福田先生のお話を聞き取るのは適任です。録音機も持って来てくれました。私が先生のお話し相手となり、相槌を打ちながら話題の進行を手助けする役割を担う心積もりでした。

 病室を訪れて、先生がお元気なのでホッとしました。その日は検査待ちで、予定の時間をとっくに過ぎているのにまだ呼び出しがない、と仰る姿は、いつもとまったく変わりませんでした。
 私がすべきことの確認をしている時に、先生は呼び出しを受けて検査室へ向かわれました。その検査が終わるまでの間、奥様から先生の病状などを伺いました。今回は、手術ができるかどうかの検査だとか。先生は、今のうちに可能な限りの話をして、それを私に書き取ってほしい意向だとのことでした。著名な科学者でもある奥様は、先生の病状や私に頼みたい趣旨などを、懇切丁寧に話してくださいました。ますます自分の重責を実感することとなりました。

 しばらくして、検査を終えられた先生が戻って来られました。私の役割は、先生が語られる海外における日本文学研究の実情について、聞き役となって記録することでした。
 その日は、先生が最初に出席された海外での学会(EAJS)の資料をもとにして、その時のことを語ろうとなさっていたようで、資料が入ったバッグも目の前に置かれました。3年前にポーランドのワルシャワで開催されたEAJSの折に、ホテルの食堂で先生と奥様に私がご挨拶したときのことなど、雑談交じりに少し語りだされました。
 しかし、検査が長引いたこともあり、今後の予定と方針を確認するに留まり、その日の口述筆記はできませんでした。そして悔やまれることに、その機会は2度と訪れないままになってしまいました。病状を案じながら、お呼びがかかるのを待っていたのですが……。

 先生と今後の打ち合わせをしていた折、海外で出版された日本文学に関する翻訳本の解題作業についても、詳しくお話ができました。
 まず、先生がこれまでに執筆のために用意されていた原稿を含む資料などのすべては、すべて私にくださるというのです。そして、もう自分ではそれはしないので、私が先生の資料を参考にして、すべてをまとめてくれ、との依頼を受け、承諾しました。

 これまでに、先生からお預かりしている膨大な量の翻訳本をもとにして、『海外における源氏物語』などのシリーズ4冊を、私は一般向けの解題書として刊行してきました。先生ご自身は、研究者向けの専門性の高い解題執筆を進めておられました。その棲み分けを、お互いでしていたのです。
 しかし、研究者向けのものも私がまとめるように、と託されたのです。自分の資料を活用すればいいから、と。
 その時に、中古文学に関する翻訳書や研究書等のメモや資料が入ったファイル1冊をいただきました。数日後に、古代から中世までのメモを含む資料が入ったファイル5冊が届きました。先生がワープロ「書院」に入力されていたデータの入ったフロッピー(上代から中世までの5枚)も、奥様の手を経て送られてきました。まだ、先生のご自宅には、中世以降の資料があるようです。昨日のお通夜では、奥様に、時期を見てお伺いし、資料の整理などのお手伝いをさせていただくことをお伝えしました。

 福田先生の海外関係の資料は膨大です。あのような状況で私に託されたのですから、誠心誠意、先生のご意思を大切に守り、少しづつでもまとめていきたいと思っています。
 それにしても、あまりにも早い73年でした。教え子でもない私ですが、この件に関しては信頼していただけたことを光栄に思い、お気持ちに叶うものとして形にしたいと思います。

 先生がニコニコして見つめながらお話をしてくださった、あの眼が忘れられません。厳しい先生だったという諸先輩のことばは、最後の4年間のお付き合いだった私には、想像ができません。ニコニコしながら、頼むよ、頼むよ、と仰っていたことしか、思い浮かびません。

 私に、先生のお気持ちを正確な形でまとめることができるのか、今は戸惑いがあります。しかし、先生から依頼されたことは、私なりに報告できるものにしたいと念じています。
 福田先生、ずっとずっと、ニコニコと見守っていてください(合掌)
 
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 

2011年4月20日 (水)

【復元】携帯電話の電磁波を調査すべし

 電磁波に関して続けます。
 
(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
 
 2006年3月4日公開分
 
 副題「無自覚のままに電磁波を飛ばす人たち」
 
 

 これまでにも、折を見て問題意識を公言している電磁波について、改めて整理をします。
 白血病、脳腫瘍、アルツハイマーなどに関する、電磁波の疫学的な影響関係は、どの程度解明されたのでしょうか。

 昨日、新幹線に乗るために、山手線で東京駅へ急いでいた時でした。私の背後にピタリとくっつくようにして立っている人が、背中でゴソゴソしているのです。何となくくすぐったいのです。まさか痴漢?

 体を捩って異物感を避けて見たところ、女性が携帯電話でメールを送るところでした。その携帯電話の先端から少しずつ体を離し、人と人とのすき間を縫って、1メートルほど移動しました。

 どうにか電磁波の直噴から身をかわして東京駅に着き、「ひかり号」の自由席に乗るために整列していたところ、またしても背中がモゾモゾします。後ろの女性が携帯電話をいじっているのです。列を少しはみ出すようにして体をかわしました。
 席に座ると、隣の男性が、またまた携帯電話を出しました。チラリと見ると、この方はマージャンのゲームを始めました。これなら可愛いのですが、いつ何時、この携帯電話にメールが飛び込んでくるかもしれないのです。電話の呼び出しもあり得ます。このことに一喜一憂して生きているわけではありませんし、人間の免疫や回復力を信じています。しかし、思い返すと不安が過ります。
 
 京都駅で奈良・平群の自宅に向かうために近鉄特急へ乗り換える合間に、駅前ビル6階にある店に立ち寄りました。そのエレベータの中で、乗り合わせた2人の女性が、真剣な目つきでメールをチェックしたり返事を書いています。エレベータという鉄板の箱の中です。電磁波の輻射波というものの、人体への影響も未知の課題です。もう相当前になりますが、電車の中で何人が一斉に携帯でメールのやり取りをすると、その輻射波がどれだけの数値を示すか、という実験が行なわれました。その後の検証がどうだったのか知りませんが、これも未解決のはずです。

 私は、タバコの副流煙の問題と同一視しています。タバコは、その煙が目に見えるので怖さが実感できます。しかし、電磁波は目に見えないので、なおさら無自覚になります。

 近鉄特急の中では、携帯電話をいじっている人は無数にいましたが、ここでの特徴は、大声で電話をしているおじさんがいたことです。毎週の風景ですが、電車内で携帯を使った通話をしているのは、関西が目立ちますね。気質でしょうか。人目を気にしないからでしょうか。もちろん、東京の東急線の社内では、優先座席の周辺は、派手にオレンジ色の吊り革などで、そのエリアを区別しています。そんなことにはお構いなしに、携帯電話を操作する人は多いのですが、この色別エリアの設定は、いくぶんは心理的な影響を与えると思います。ただし、このようなプレッシャーを与えるやり方は、お互いが気持ちよい環境を壊すので、今しばらくの暫定処置として認めるべきでしょう。

 それにしても、WHOが電磁波問題を検討課題としたのは、もう何年前でしょうか。その後の報告を確認していませんが、マスコミが騒がないことを見ると、人体への影響についての警告は出ていないようです。もっとも、昨年末に東京のアメリカ大使館に自動車が突っ込むということがありましたが、どこがどのように情報管制を敷いたのか、この件はまったくニュースとして取り上げられませんでした。その現場を見たという人は、白昼に夢幻を見たことになっています。日本といえども、政治的な情報操作がなされており、マスコミも、そのすべてが号令一下、口を噤んでいるのです。これが、アメリカ流の自由というものの側面のようです。

 さて、本ブログでは、2004年8月15日「女性専用車両大賛成の弁」や、2005年10月13日の「磁気や電磁波の恐ろしさ」で、個人的な問題意識を記しました。

 以下に、プライベートホームページである〈へぐり通信〉の「ハイテク問はず語り」に掲載した拙文を転載します。これは、今から6年前の記事ですが、未だにこの問題が問題となっていないのです。というより、問題にしないことにより営業収益を確保する企業努力の前に、この問題が封印されているのです。日本民族が自爆自滅しないうちに、自然環境の中に人類が一日も長く生き残るためにも、まずは問題意識の共有が必要かと思います。いろいろと調査した結果として、もし問題がないのならば、それはそれですばらしい成果ではないでしょうか。何も知らずに肉体的・精神的な不幸を背負い込むことほど、愚かなことはありませんので。

 私のようなズブの素人が、こんな科学的な問題にコメントを記すことができるのですから、この問題はなかなか根の深いものなのでしょう。
 
 
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携帯電話の危険性〈2000.5.4〉
ようやく問題視されだした携帯電話の危険性

 平成12年5月2日の朝日新聞第一面に、携帯電話からの電磁波が人体に有害かどうかを調査することになった、との記事が掲載されました。

 日頃から脳細胞破壊兵器の一面をもつ携帯電話の危険性が問題とされていないことに異議を唱えていた者としては、これまで見て見ぬ振りをしていて、そしてようやくですか、という感想を持ちました。いまさらという感がしますが、それでも遅すぎることはありません。とにかく、害がないということの証明は難しいのでしょうが、疑わしきは罰せずではなくて、疑わしきは利用を控える姿勢も大事ではないでしょうか。

 携帯電話は、人間の身体への影響という点では、たばことよく似た因果関係を持つものだと思います。吸いすぎ、使いすぎに注意しないと、健康への被害が甚大だということです。そのようなものを吸うとか、身につけるかどうかは、もちろん利用者の自由です。しかし、たばこの場合のように、事前に利用者にその危険性を明示して販売されていたか、という点から言えば、携帯電話はその利便性と利用料金のみが強調され、人体への傷害については事前の説明なしに、野放しで頒布されているように思います。

 今、いちおう公共の情報発信機関とされている新聞がこのことを記事にするように関係各機関に働きかけたのは、一体なぜなのでしょうか。私は、携帯電話のメーカーが、電磁波の人体への悪影響に対する弁明の理由がどうにか見つかったので、ひとまず一般人への配慮をしているポーズを示すために、このような記事になるニュースを仕組んだのだろうと思っています。今後予想される訴訟対策とでもいえましょうか。
 郵政省も通産省もメーカーも、とっくにこの携帯電話が併せ持つ危険性については知っていたはずです。行政側は社会的な影響を考えて、景気の好調さを作り出すのに一役買っている携帯電話関連企業の活動を止めない方向で、ここ数年は動いていたはずです。これは、公害・薬害問題における為政者の常套手段です。現実に、街の携帯電話ショップの乱立と、そのカウンターにいる若いパートタイマーやアルバイトの人たちの多さは、曲がりなりにも若者たちの失業状態をカムフラージュでき、また、若い人を中心に携帯電話を持たせることによって、一種のガス抜きが行われているのです。今、携帯電話の活況にブレーキをかけると、若者を中心として暴動が起きるとは言わないまでも、大きな反発が起きるのは必死です。突然の不便は、大きな不満を発生させるからです。

 それに加えて、この六月に行われる予定の選挙前ということもあるのでしょう。アメリカのクリントンが大統領選挙において、投票日の直前に、電磁波が人体に無害であるとのコメントを発表したことがありました。当選後すぐに、消極的に、有害という証拠がない、との弁明に変わりました。投票日直前に、電力関係団体の票を取りまとめるための口実に使われたようです。

 今度の新聞記事によると、郵政省の電波環境課は、携帯電話の電磁波による人体への影響について、「現時点で有害という証拠はない」と言っているそうです。どこの国のお役人も同じなのですね。無害とは断言できないので、このようなコメントになるのでしょう。
 水俣・カドミウム・スモン・エイズなどなど、国が後手後手にまわった施策は枚挙にいとまがないほどです。この携帯電話に関する対応も、歴史的にはこの部類に属するものといえましょう。人類は、同じことを繰り返しながら、少しずつ前進していくのです。その前進の過程においては、犠牲は致し方ない、という論理かもしれません。今回は、電磁波の影響が直接生命に影響しないことが多いという点が、問題点を不明確にしています。

 携帯電話を含む電磁波の人体への問題は、疫学的な事例ではあっても、脳腫瘍・白血病・アルツハイマー病に関わるものとされています。この事は早くから指摘されており、私の周りでもそれを知ってか、この危険な要素をもつ携帯電話を持っている人は少ないのです。職場でも知人にも、その危険性を説明するのは疲れることなので、私は、という言葉を冠して、怖い道具だと思っていることを伝えています。もっとも、大多数の人は、そんなに恐ろしいものなら、国や会社が市中に出回らせているはずはないと思っておられるようで、「そんなことを言っていたら」とか「それは大変ですね」というクールな反応が多いのです。理屈では理解を示したいが、やはり、その便利さには勝てないということなのでしょう。

 実は、私の娘も携帯電話を持ち歩いています。たばこと類似する危険性をよく言い聞かせているのですが、家との連絡などに重宝することもあって、もう離せない存在の道具となってしまっています。とにかく、もう手放せない人は、いかにうまくこの脳細胞破壊兵器を平和利用するかだと思います。

 新聞記事によると、今年の9月ごろから聞き取り調査に入る見込みで、因果関係についての最終的な結論がでるのは、今から4年後の平成16年ごろだそうです。なんとも、のんびりした人体実験調査です。ナチスや七三一部隊のような性急な人体実験は問題ですが、多くの人の健康な生活を守るためにも、もう少し真剣に取り組んでもいいのではないでしょうか。政権政党が政治資金を貰っている関係か、NTTをはじめとする情報関連企業に遠慮しなければならないことはわかります。テレビなどで、スポンサーとなっている企業に対して反対の姿勢で番組が作れないことに通ずる問題が内在するのでしょう。NHKのスポンサーは政府与党ですし。お金を貰うスタイルの政治の弱点が露呈しているようですが、ここはけじめをつけて、ポーズではなくて、真摯な前向きの姿勢を示してほしいものです。

 私は、情報関連の新製品には、すぐに手を出して、その拙速にいつも反省しています。しかし、この携帯電話に関しては最初から疑問を持っていたので、これだけには手を出しませんでした。コンピュータやインターネットを仕事に活用し、情報文具で各種データを処理する日々の中で、この携帯電話は非常に魅力的な小道具です。しかし、やはり自分の体を犠牲にしてまでは、という理由から、導入は検討しながら、実際には使用していません。今回の悠長な人体実験調査での結論を見てから、自分の生活に携帯電話を取り入れるかどうかを考えたいと思います。
 今から4年後なら、人体に悪影響を及ぼさない商品が開発されていることでしょうし。そのメドがメーカー側についたからこそ、このような郵政省の調査が始まることになったと思われます。いわば、企業を守るために実施する、政府の時間稼ぎの調査なのでしょうから。それにしても、郵政省や通産省の内部には、本当のことをストレートに語ってくれる人はいないのでしょうか。国家公務員減らしが進む中、あえてそのような愚挙に出るお役人はいないですよね。

 電磁波の人体への悪影響を取り上げ、電磁波がいかに怖いものかを語る警鐘本が書店にあふれた時期がありました。今は、幾分収束したようですが。あたらしもの好きの私は、こうした本を、立ち読みも含めてたくさん読破してきたつもりです。電磁波擁護論の本も、少ないながらもあります。
 そうした電磁波に関する解説本の中から、私は『電磁波白書』(大朏博善、アスキー、平成9年、¥2,300、CD―ROM付き)をお勧めします。この本は、電磁波擁護論の立場で書かれています。巻末で著者は、「いたずらに恐怖をあおる《電磁波は怖い》論にまどわされることなく、冷静な英知を集結させたいものである。」(245頁)と言っています。この本では、事実や資料を客観的に見ようとする姿勢が随所に見られ、好感を持ちました。しかし、私はこれを読んで、逆にその危険性を再認識してしまいました。なかなかよくできた、逆説的な本だと思います。海外の研究者へのインタビューを収録したCD―ROMが付録に付いているというのも、おもしろい企画です。また、このCD―ROMは、マッキントッシュでもウインドウズでも見られます。分割の憂き目を目前にしたマイクロソフト帝国の僕とならず、きっちりと少数民族のマッキントッシュユーザーにも均等に情報を提供する姿勢も、大きく評価したいと思います。

 これまで、あまりにもマイクロソフト帝国に媚びを売る企画や企業が多かったし、無意識とはいえ、寄らば大樹の陰よろしく、マイクロソフト仕様に準拠すればことたれりとした無意識の差別者ばかりではなかったことを教えてくれました。今後とも、こうしたハイブリッド仕様の情報提供を望むところです。 
 
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 

2011年4月19日 (火)

【復元】磁気や電磁波の恐ろしさ

 これまでに、電磁波についてはたくさん書いてきました。
 主に1995年に立ち上げたホームページに書いていたので、それらは少しずつこのブログにも集めることにします。
 科学的な問題は日進月歩なので、今はすでに解明されたことや、解消した事例もあることでしょう。
 そのことを承知で、書いた当時のこととして、記録に残しておきます。
 
(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
 
 2005年10月13日公開分
 
 副題「脳外科でMRIを受けて」
 
 
 脳外科でMRIによる検査を受けた時のことです。検査の結果、私の頭部に問題はなかったのですが、ポケットに入っていたプリペイドカードの全てが磁気破壊を受けて使いものにならなくなっていたのです。
 1回目の検査は頭部だけでした。この時は、上着を脱いだだけでポケットには銀行のカード類も入っていました。特に指示がなかったからです。
 2回目の頚部の時は、磁気カードはロッカーに入れておくように言われたので、銀行のカードやクレジッ卜カードの入ったケースは取り出しました。しかし、プリぺイドカードやお店のポイントカードの入ったサイフは、ズボンのポケットに入れたままでした。
 相当長時間、頭と首をMRIのドームの中に突っ込んでいました。そして、後で気付いたことには、銀行やクレジッ卜カードは使えたのですが、プリぺイドカードはすべてダメになっていることがわかりました。自動改札機に入れると、ピンポンと鳴るのです。磁気が怖いことを実感しました。
 病院の選択を間違ったのでしょうか。気をつけましょう。
 そして思うのです。私の持論ですが、携帯電話の電磁波の人体への影響は、本当に大丈夫なのでしょうか。疫学的には、白血病や脳腫瘍、そしてアルツハイマーの引き金になるとの報告は、今はどのように理解されているのでしょうか。社会的には、無視されているようです。
 携帯電話は便利です。しかし、私はその電磁波の怖さを思い、あまり身近には置かないようにしています。留守番電話の機能を活用しています。持っている意味がない、と苦情をよく言われます。
 子供たちも日常的に使うようになった携帯電話について、もっと情報を流すべきではないでしょうか。細胞分裂の活発な子供たちに、電磁波はどんな影響を与えているのでしょうか。

 
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 

2011年4月18日 (月)

読書雑記(32)【復元】物語の作者とは?

(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
 
2004年12月31日公開分
 
副題「『物語消滅論』を読んで」
 
 『物語消滅論』(大塚英志、角川書店、2004.10)を読みました。
 
 
 
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 サブタイトルが〈キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」〉とあるのを見て、少し理屈っぽい内容かと思いきや、なんとか読めました。現代の社会問題を切っていくので異論はありますが、新鮮な語り口に学ぶことの多い本でした。また、現代を取り上げていますが、「物語」を考える上で、参考になる視点をもらいました。ただし、難解な、そして私にとっては馴染みのない用語の頻出には、ついていけないもどかしさを感じました。

 本日の新聞には、我が町「平群」を巻き込んだ事件の記事が埋め尽くされていました。この犯人と思われる男も、自分の〈物語〉の中を生きていたのでしょう。今を生きる我々と〈物語〉の役割については、機会を改めて記します。

 さて、本書で私がチェックした所を、思いつくままに紹介します。


 アメリカが文化的に他国に進出(侵略とは敢えて記しませんが)する際、その地の民俗学者や文化人類学者を抱え込むことは前例があります。太平洋戦争の敗戦後、GHQは占領統治のために岡正雄や石田英一郎ら文化人類学者を雇用しています。(中略)GHQが集めた文化人類学者も、戦時下は植民地支配のための民族学研究を行なった人々です。しかし、そこのところを特にぼくの出身である民俗学は戦後ずっと隠蔽してきたのです。(40頁)

 私は大学の学部生時代には、文学と民俗学の分野の勉強をしていました。柳田国男や折口信夫の著作物を読みあさり、大学の卒業論文は唱導文芸に関するものでした。
 今思えば、大変恥ずかしいものです。当時は民俗学の論理で〈文学・物語〉を読み解くことを目指していました。その手法に疑問を持ち、その後は〈物語〉の生成過程をテーマにしました。

 さらに自分のテーマは〈物語〉の受容と本文に移り、今に至っています。
 研究というものに興味を持ち、民俗学に親しんでいたころに、その背景に大塚氏が指摘されるようなことは一度も耳にしませんでした。このことは、自分のこれまでを整理する中で、いつか再考したいと思います。


 誰でも物語れるコンピュータ上の支援ソフトは、近代文学を支えてきた「作者」を根源的に無化します。つまり、「作者」とは「Dramatica」の存在によって、アプリケーションに還元し得るものなのだということが、はっきりしてしまったのですから。(81頁)
プラム

 『源氏物語』の作者を紫式部一人と限定しない私見を提示している私には、これは大いに参考になる視点です。物語を生み出した作者とは何か、ということを考える上では、それが特に千年前の『源氏物語』と呼ばれる〈物語〉であることを考えると、近代以降の一人の人間による産物という視点に縋るのではなく、今発生している〈物語〉の作者とは誰を指すのか、という問題に返って考えるべきです。それをいかにして証明するのか、なかなか難しい問題です。しかし、本書はその問題にいろいろな考えるヒントを与えてくれます。

 後半の「「よってたかって創る」ことの可能性」の項を、少し長くなりますが引いておきます。


 情報論的な世界においては「固有の作者」は成立しにくい。確かに辿っていけば誰がインターネットを作ったのかとか、LINUXのOSは誰が作ったのかといった「起源」があるにしても、進化の仕方そのものは一人の神によって管理されているわけではありません。ある不完全なソフトウェアがネット上におかれたときに、次々と色々な人間がバージョンアップをしていく。すべての記録が残っていく世界だから「ここまでは誰々の修正です」と署名はできるのかもしれませんが、逆に分担が明らかな分、ネットワーク全体の作者はいないわけです。
 こういう創作のあり方を川田順造はかつて「シンローグ」及び「ポリローグ」という概念で説明しました(川田順造「口頭伝承論」(一)『社会史研究』2/日本エディタースクール出版部)。作者が一人で語る「モノローグ」、受け手と対話しながら語る「ディアローグ」に対して「シンローグ」「ポリローグ」では固有の作者はもういません。「シンローグ」とは昔話が人々が集まる座の中で、そこにいる一人一人の即興の語りの相互作用の中で昔話が語られる、というものです。しかし、「シンローグ」は座に居あわせた互いに顔見知りの人間たちが彼らが共有している昔話を「再現」するのに対して、「ポリローグ」は、街中や広場において、それぞれが勝手に発話している喧騒状態を言うのです。しかし、その喧騒は無秩序ですが、そこに不定型であるゆるやかな一つの物語がやがて生成する可能性もあるのです。かつて川田のこの議論を読んでもぼくはピンときませんでしたが、LINUXのことを知ると、とてもよくわかります。LINUXは「シンローグ」及び「ポリローグ」の水準の「創作」なのです。
 (中略)それはともかく、勝手にジブリにやってきてシーンを追加したり、宮崎さんの原画に修正を入れて「この顔の方が可愛いじゃない」って描いて、また第三者が「うん。こっちのほうが可愛いよね」という評価軸のなかで変わっていく。そこで宮崎さんが「勝手なことをするな」と怒ってはいけない、というのが新しい創作の中での個々のポジションですね。LINUXの作者が「俺のソフトを勝手に改造しやがって」と怒ってはいけない。その違いがおそらく創作や世界を構成していくときに大きな違いになっていくのではないか。(150頁)

 この文章は、現代の〈物語〉だけでなくて、古代の〈物語〉の作者を考えるときにも、意味を持ちます。

 また、「検索ソフトは情報を「物語」に変えてしまう」という項目も興味深いものでした。


 ネットの検索結果の画面とは、同一の説話構造を持った異質の情報が重層的に表示される奇妙な情報空間だと気がついたのです。(194頁)

 検索することの意味を、改めて考えさせてくれました。情報を検索する行為は、物語を創造する行為と深く係わっているのでしょうか。物語の構造を考えることと、キーワードで情報を検索する行為の関係について、考えてみたくなりました。

 「あとがき」で作者は、自分が構造主義以前の「物語論」に準拠する意味を記しています。また、ハリウッド的な因果律である「善と悪の対立」という構造の物語が、イデオロギーの代替物とされていることへの問題提起にも興味を持ちました。大塚氏の語り口にひかれ、ただいま『定本 物語消費論』(角川文庫)を読んでいます。

 大塚氏の文章は難解ではなくて、はっきり言って日本語の表現がへたな方のようです。文意のわかりにくさは、悪文に起因するものです。しかし、内容がおもしろいので、しばらく大塚氏に付き合ってみます。"
 
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 

2011年4月17日 (日)

井上靖卒読(121)「無蓋貨車」「年賀状」「悪魔」

■「無蓋貨車」
 『井上靖全集』で2頁ほどの短い作品です。
 戦争体験を、1つの絵としてコトバで切り取った小説と言えます。
 断片です。しかし、生彩のある文章で綴られています。【2】
 
 
初出紙︰新聞協会報
初出日︰1951年1月1日
 
井上靖小説全集3︰比良のシャクナゲ・霧の道
井上靖全集2︰短篇2
 
 
■「年賀状」
 『井上靖全集』で2頁ほどの掌編です。
 鳥取県の日南町でのことを題材にしている作品です。
 具体的には、H郡F村と伏せてあります。しかし、これは日野郡福栄村のことです。
 家族が戦時中に疎開していた村のことです。しかし、その地をまったく知らないこととして語られています。
 人間の縁の偶然性を、しかも思い違いという悪戯を、温かく描いています。【2】
 
 
初出紙︰夕刊京都
初出日︰1950年1月1日
 
井上靖小説全集3︰比良のシャクナゲ・霧の道
井上靖全集2︰短篇2
 
 
■「悪魔」
 学生たちを惑わせる摩耶子の魅力を、当時の大学生の視点で語っています。
 5人の学生たちは、若者としての禁断の世界を前にして、右往左往しています。そのさまが、おもしろおかしく描かれています。
 青春の一断面を丁寧な文章で、それでいて爽やかに見せてくれます。【2】
 
 
初出誌︰別冊小説新潮
初出号数︰1951年1月
 
井上靖全集2︰短篇2
 
 
 
〔参照書誌データ〕
 井上靖作品館
 http://www2.plala.or.jp/baribarikaniza/inoue/
 
 
 

2011年4月16日 (土)

[井上靖卒読]リスト【1〜100】

 昨日の「井上靖卒読・再述(2)「闘牛」」で、これまでに書いた100件の記事が揃いました。
 サーバーがクラッシュしたために読めなくなっていたものを、折々に補って来ました。これで、再度100件が揃ったことになります。
 現在は、120件目まで来ているところなので、次の200件目にはしばらく時間がかかります。
 まだ、予定の4分の1くらいでしょうか。気長に、こつこつと書きためて行きたいと思っています。
 
 
[井上靖卒読]リスト【1〜100】
 
    (再整理版)
 
(100)新発見「中国行軍日記」に見る夫婦愛
(99)『楊貴妃伝』
(98)「天目山の雲」「佐治与九郎覚書」
(97)『天平の甍』
(96)「信康自刃」「天正十年元旦」
(95)「桶狭間」「平蜘蛛の釜」
(94)『渦』
(93)『しろばんば(後編)』
(92)『しろばんば(前編)』
(91)「鬼の話」「道」
(90)「補陀落渡海記」「小磐梯」
(89)「岬の絵」「あすなろう」「断雲」
(88)詩集『星蘭干』
(87)「漆胡樽」「人妻」「踊る葬列」
(86)詩集『傍観者』
(85)「無声堂」「ある兵隊の死」
(84)『孔子』
(83)『異国の星(下)』
(82)『異国の星(上)』
(81)「母の手」「旧友」「めじろ」
(80)『海峡』
(79)「霰の街」「あすなろう」「戦友の表情」
(78)「三原山晴天」「初恋物語」
(77)朗読テープ「猟銃」「闘牛」
(76)「謎の女(続編)」「夜靄」
(75)『蒼き狼』
(74)『昨日と明日の間』
(73)『詩集 乾河道』
(72)『詩集 遠征路』
(71)『あすなろ物語』
(70)『白い牙』
(69)『緑の仲間』
(68)『花壇』
(67)『地図にない島』
(66)『燭台』
(65)『兵鼓』
(64)『月光』
(63)『朱い門』
(62)「氷の下」「滝へ降りる道」「伊那の白梅」
(61)『詩集 運河』
(60)『詩集 地中海』
(59)「利休の死」「北の駅路」
(58)「ある偽作家の生涯」「鵯」「楼門」
(57)『オリーブ地帯』
(56)『風と雲と砦』
(55)『詩集 北国』
(54)『紅花』
(53)『盛装』
(52)『揺れる耳飾り』
(51)『こんどは俺の番だ』
(50)「玉腕記」「三ノ宮炎上」
(49)『白い風赤い雲』
(48)『遠い海』
(47)『傾ける海』
(46)『白い炎』
(45)「澄賢房覚書」
(44)『波濤』
(43)『河口』
(42)「初代権兵衛」「碧落」「チャンピオン」「頭蓋のある部屋」
(41)「満月」「舞台」「考える人」
(40)『夏草冬濤』
(39)『戦国城砦群』
(38)「俘囚」「花粉」「四つの面」
(37)「蘆」「川の話」「湖上の兎」
(36)「湖の中の川」「大洗の月」「孤猿」
(35)「姨捨」「胡桃林」「グウドル氏の手套」
(34)「ある愛情」「斜面」
(33)『わが母の記』
(32)「流星」「梧桐の窓」
(31)全集で割愛された作品群
(30)『霧の道』
(29)『群舞』
(28)『氷壁』
(27)「銃声」「かしわんば」
(26)『後白河院』
(25)『淀どの日記』
(24)『若き怒濤』
(23)『夢見る沼』
(22)『青衣の人』
(21)『あした来る人』
(20)『詩集 季節』
(19)『化石』
(18)『ある落日』
(17)『黒い蝶』
(16)『春の海図』
(15)『星よまたたけ』
(14)『真田軍記』 (続)
(13)『真田軍記』
(12)『花と波濤』
・再述(11)『風林火山』
・再述(10)『愛』
・復元(9)『戦国無頼』
・復元(8)「紅荘の悪魔たち」
・復元(7)『雷雨』
・復元(6)『波紋』
・再述(5)『その人の名は言えない』
・再述(4)「春の嵐」
・再述(3)「通夜の客」
・再述(2)「比良のシャクナゲ」
・再述(2)「闘牛」
・再述(1)「猟銃」
 
 
 

2011年4月15日 (金)

井上靖卒読・再述(2)「闘牛」

 このタイトルを「井上靖卒読・再述(2)「闘牛」」としたことを、煩瑣なことですが個人的な記録としてメモを残しておきます。

 2006年12月に「井上靖卒読(2)」として、旧ブログである「たたみこも平群の里から」に「闘牛」と「比良のシャクナゲ」を一緒に掲載しました。それが、2007年3月にレンタルサーバーがクラッシュしたため、その後、折を見ては消失したデータを少しずつ復元しています。

 「比良のシャクナゲ」は、すでに2010年5月 1日 に「再述(2)」として書きました。それを受けて、今回同じ通番号で「闘牛」のメモを記します。

 新聞記者である津上の妻子は、鳥取県に疎開しています。この設定は、作者の実際の経験を盛り込んでいます。これまで気づかなかった何でもないことが、興味を持って作家の生涯を知るようになり、すこしずつ作品の背景が見え出しました。小説を読むおもしろさが、また1つ増えました。

 焼け跡の大阪舞台にして、明るく人々を元気づける闘牛の話で進みます。この作品が発表された昭和24年にふさわしい、タイムリーな話題です。

 ただし、津上とさき子の物語を、もっとおもしろくしてもいいと思いました。妻子が鳥取に疎開している設定なので、『通夜の客』とは違った味が出せたはずです。何か、このさき子の扱いには遠慮があるようです。女性が描かれていないのです。闘牛という題材に偏りすぎています。
 また、イベント遂行のための苦労話が中心となりがちのため、動きが少ないことも気になりました。難しいテーマに、ことばで挑んだ作品です。それだけに、さき子との愛情に、もっと筆が割かれていてもよかったのでは、と思うのです。

 本作に芥川賞が与えられたのは、当時の社会状況と読者の求めるものが、作品にしっかりとおもしろく描かれていたからでしょう。しかし、今の時点での私の読後感としては、大いに物足りなさが残っています。

 1人の男が一大イベントを仕掛けた話として、その着想に新鮮さを感じます。しかし、現代の視点からは、その社会背景が読者と共有できないという点で、読み継がれる小説としての難しさも見えました。【2】
 
 
 
初出誌︰文学界
初出号数︰1949年12月号
 
備考︰1950年『芥川龍之介賞』受賞
 
 
新潮文庫︰猟銃・闘牛
井上靖小説全集1︰猟銃・闘牛
井上靖全集1︰全詩篇・短編1
 
 
〔参照書誌データ〕
 井上靖作品館
 http://www2.plala.or.jp/baribarikaniza/inoue/
 
 
 

2011年4月14日 (木)

アップルのAC電源アダプタが発火

 アップルのノートパソコン・MacBook Proで使用している Apple MagSafe電源アダプタの付け根に、信じられないような異変が起きました。
 
 
 

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 このアダプタは、磁石でノートパソコンに吸い付くように接続するので、引っかけてもすぐに外れるので安全です。それはいいのですが、いつしか付け根が熱を持つようになり、ついに黒煙を上げてケーブルが焼けたのです。
 25年以上も、いろいろなパソコンを使ってきただけに、そんなに乱暴な扱いはしていないはずです。
 
 
 

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 また、同じタイプのもう一つのアダプタも、電源が入ったり切れたりするようになりました。
 どうやらこの形状は、付け根に負担がかかると断線するようです。

 早速、銀座のアップルストアに2つのApple MagSafe電源アダプタを持ち込み、対処を相談しました。
 すると、すぐに新しいタイプのもの2つと交換してもらえました。
 しかも、無料でした。

 付け根のところの形状が、まっすぐにケーブルが延びるのではなくて、新しいタイプは90度に曲がっています。これは、MacBook Air の Apple MagSafe電源アダプタに近いものです。その進化形というべきものでしょうか。
 
 
 

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 アップルストアでは、発火したときに怪我や火傷をしなかったかと、そのことを最初に心配して下さいました。おそらく、たくさんの苦情があったのでしょう。そのこともあり、まずは相手の身に問題が及んでいなかったかを確認し、すぐに新しい改良品と交換する、という対応のようです。とりあえずは、迅速な対応にほっと一安心です。

 アップルのサイトには、「MagSafe 電源アダプタケーブルの負担を軽減する方法」という記事があります。しかし、これは説得力に欠ける説明です。また、この程度で断線する設計なら、それは設計ミスというよりも欠陥というしかないものです。
 欠陥商品としてリコール対象の商品にはなっていないようです。しかし、これは非常に危険な商品だと思います。大至急、公表すべきだと思います。

 いずれにしても、MagSafe 電源アダプタケーブルの曲がり具合には、今後とも注意が必要です。

2011年4月13日 (水)

【復元】モスクワの旅(5)

 
(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
 
2006年9月9日公開分
 
「楽しみな日本の若者たち」
 
 
 日本国内の若者たちは、豊かな日本の恩恵を存分に浴びているせいか、向上心に欠けるように思います。その点、海外で出会う若者たちは、目的意識を持って日本を離れているだけあって、頼もしい人がたくさんいます。

 ロシアの空港は、非常にサービスが遅れています。ターミナル間の移動と、市内の足の確保が大変です。帰路における不安の第1は、モスクワにおけるターミナル移動でした。サンクトペテルブルグからモスクワの空港の国内線に入り、そして国際線に乗り換えて日本に向かう際に、ターミナル間の移動にはバスかタクシーを利用することになります。そのバスがややこしく、タクシーは白タクまがいの運転手が多くて、しかも料金が交渉によるものなので、非常に不安が伴います。

 普通の旅行者は、モスクワの空港では、あらかじめタクシーを予約しておくのが安心でいいとされています。ただし、その料金は4000円ほどかかるそうです。国内線から国際線への移動に、そんなに手間がかかるのは異常です。改善する気もないようです。
 今回の帰国に当たって、これが一番の難関でした。ところが、日本に帰国する若者との出合いで、いとも簡単にクリアーできました。

 サンクトペテルブルグから一緒の若者は、モスクワでの乗り継ぎでも一緒でした。そこで、どうやってターミナルを移動するのかを聞いたところ、お世話になっている商社から車を回してもらえるので、それを利用するとのこと。そしてラッキーなことに、私もその車でターミナルの移動が一緒にできるように取りはからってくれたのです。幸運の一語です。

 その若者は日本のフナイ電気の人で、コンピュータや携帯デバイスの話で大いに盛り上がったことも起因しました。彼の住まいは、私の生駒の家のちょうど山を隔てた東大阪です。私は、彼の会社があるフナイ電気の近くの高等学校に勤務していた時、その会社のそばを車で通って通勤していました。
 彼は、アメリカのサンノゼに3年もいたそうです。私もスタンフォード大学へ行ったときに、シリコンバレーのアップルの聖地を訪れていたので、その話でも意気投合しました。

 人と人との出合は、本当におもしろいものです。旅先での縁は、予測不可能なドラマが多いことを、今回も痛感しました。
 
 
 
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2006年9月9日公開分
 
「飛行機の中からインターネット」
 副題「何かと便利な時代になっています」
 
 
 今回、ロシアからの帰国で乗った日航機では、エコノミークラスでも、機内でインターネットが使えることがわかりました。最初の30分は無料で、以後は1時間1200円位とのことなので、ロシアのホテルでの利用料金よりも安いのです。
 ところが、そんなことを知らなかったので、ワイヤレスカードを機内持ち込みの手荷物に入れずに、スーツケースに入れてしまったのです。残念です。次回には、しっかりとLANカードを装着したパソコンを持ち込みます。

 ロシアは、予想はるかに越える後進国でした。こんなに世界から取り残された国とは思わなかったので、大きなショックを覚えました。次の時代は、インドと中国の時代となるのは必定ですが、そこからロシアは完全に後退しているということを痛感しました。

 街中では、野菜や果物がガラスのケースに入って売られています。
 
 
 

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 貴重なものとして、きれいにケースの中に並んでいます。キュウリが二三本、ショーウインドーに飾られているのは、その意味を理解するのに時間がかかりました。

 ただし、街角の至る所で花が売られていました。
 
 
 

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 ちょうど新学期が始まったばかりでした。生徒や学生たちは、先生にお花をプレゼントする習慣があります。そうしたこともあり、今回は特に花を売る所を目にしたようです。花屋さんが多かったのは、日本との文化の違いを見ることとなりました。

 ロシアが後進国に甘んじていると判断せざるをえない一番の問題は、サービス精神に欠けることです。お店に入っても、食事をしても、買い物をしても、昔のソ連の意識が抜け切れていないようです。非常に不愉快な思いを至る所でしました。
 食事をしたレストランでは、それなりの料理店だったのですが、カードでもドルでも支払いができませんでした。ロシアの通貨であるルーブルでしか支払いができないのです。これでは、安心して買い物も食事もできません。ロシアの通貨であるルーブルをたくさん持ち歩いていないのですから。しかもルーブルという通貨は、ロシアから持出すと、とたんに紙切れとなるのです。この点は、インドと同じです。
 空港では、ユーロでの支払い表示が目に付きました。

 機内で見た朝日新聞に、サンクトペテルブルグのエルミタージュ美術館で、貴重な財宝を保安係が10年以上にもわたって横流していた記事が掲載されていました。今回、エルミタージュ美術館にも行っただけに、私にとっては衝撃的なニュースでした。
 
 
 

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********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 

2011年4月12日 (火)

【復元】モスクワの旅(4)

 
(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
 
2006年9月9日公開分
 
「なかなかロシア料理屋に出会えない」
 
 副題「多国籍料理で過ごしたロシア」
 
 
 ロシアは、食費がとてつもなくかかります。贅沢をしているのではないのに、外食をすると二三千円はアッという間です。ホテル代も半端ではない高額なので、支出の管理も大変です。

 極めつけは、エカテリーナ宮殿の中のカフェで食べたサンドイッチです。軽食のつもりで食べたはずの野菜サラダとサンドイッチとコーヒーが、何と1400円もしたのですから。
 
 
 

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 街中で、ロシア料理店がなかなか見つかりませんでした。モスクワもサンクトペテルブルグでも、どこがその店なのかわからないのです。
 今回食べたのは、まずはイタリア料理、そして中華料理と日本料理とフランス料理でした。ロシア料理にありつけたのは、最後の2日間でした。
 
 
 

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 私は、どこの国に行っても、必ず日本料理を食べて過ごすことが多いのです。緊張と不規則な生活が続くので、食事で身体を休めるためにも、和食が一番です。また、どこの国でも、日本料理店があります。ロシアにも、たくさんの日本料理を食べさせる店がありました。これまで訪れた国の中で、ロシアが一番日本料理店の多い国です。牛丼も親子丼も、結構いい味付けでした。料理人の工夫が感じられるメニューでした。

 海外に行ったら、現地の料理を食べなければ、と言う人が多いようです。外国に来てまで日本料理を食べたいとは思わない、と言う人がいます。しかし、海外での日本食は、いろいろと現地に受け入れられるように工夫されていて、日本食のよさを多面的に見直す視点を与えてくれます。食の楽しみはいろいろとあるものです。

 今後とも、海外における和食の文化を、折を見ては探求していきたいと思います。
 
 
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2006年9月9日公開分
 
「ホテルを始めとして不満が募る国ロシア」
 
 副題「サンクトペテルブルグの蛇口からでる色水」
 
 
 ロシアは、ホテルも街中も、設備とサービスがイマイチでした。
 サンクトペテルブルグのホテルの部屋の水は、最初は真っ赤でした。次に水色、そして黄色になりました。4日間のサンクトペテルブルグ滞在中、水を流し続けたのですが、まったくダメでした。
 洗濯をしたら、白物が薄く黄色に染まりました。ロシアで染色をしたことになります。
 さらには、その水の鉄分っぽい匂いが、部屋中に充満するために、部屋にいても不愉快でした。まさに臭い部屋でした。それなりのクラスのホテルだったのですが、これでは快適な滞在ができません。私が泊まったホテルだけがそうだったとは思えません。

 海外からの訪問者にとっては、ホテルは滞在先での生活基盤となるところです。そこが快適でないのは、致命的なことです。もっと、世界の趨勢を見習って、さらなる向上心を奮起させて、レベルが追いついて来ることを期待したいと思います。

 
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 

2011年4月11日 (月)

江戸漫歩(32)賀茂川の桜と隅田川の桜

 昨日の賀茂川の桜は七分咲きでした。
 
 
 

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 土曜日の夜桜の宴会がいかに盛り上がっていたかは、ゴミの量でわかります。ただし、賀茂川はこまめに掃除がなされているので、気持ちがいいものです。

 朝のウォーキングでは、下鴨神社まで行きました。朱塗りの門に緑とピンクの桜は、よく似合っています。
 
 
 

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 そして今朝は、宿舎の横を流れる隅田川沿いの桜を見ながら、1時間ほどウォーキングをしました。
 京都とは違い、高層マンション群が林立する間を、桜並木が通っています。
 
 
 

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 桜越しに、スカイツリーが見えました。靄っていました。着々と完成していくタワーの前を通る船も、都会の川らしくていいものです。
 
 
 

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 少し南に行き、佃島も散策しました。ここは、大阪の人たちが移り住んで作った町です。
 
 
 

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 ここには、江戸らしい雰囲気がまだ残っています。ただし、目を上げると、ここでも高層マンション群に囲まれていることに気づきます。

 西と東の桜は、とても表情が違います。賀茂川の桜は、上品さがあります。対する隅田川の桜は自信に満ちています。共に、日本の伝統的な文化を背負って、毎年忘れずに咲いて、春の訪れを教えてくれます。
 隅田川の桜は、早々と散り始めています。いかにも、春を告げる役割を終えたといわんばかりに。
 賀茂川の桜は、もうしばらく楽しめます。山桜が多いので、ゆっくりと初夏に移っていきます。
 
 
 

2011年4月10日 (日)

池田亀鑑と父が同日に逝去したこと

 明治29年生まれの池田亀鑑は、昭和31年12月19日に心筋変性症・萎縮腎のため、満60歳で亡くなりました。東京大学を定年退官する直前です。
 ちょうど同じ日に、息子のために『源氏物語』の写本を書写することに明け暮れた父宏文も、90歳で亡くなっています。

 この父の死については、「その悲報に衝撃を受けて」とされることが多いようです。同じ日に、息子を追うようにして亡くなっているからです。
 しかし、長野甞一氏は「この父子が時を同じうして危篤の状態にあったことは、一部の親族が知っているだけで、本人どうしは相互に知らされていなかった。」(「源氏物語とともに(一)—池田亀鑑の生涯—」立教大学日本文学七号、昭和三十六年)と記しています。

 今回、ご家族から、確かに父と祖父の2人には、お互いの病状について知らせていなかった、というお話を伺いました。

 亀鑑の父宏文は、昭和26年まで今の東京都内の家にいました。しかし、『源氏物語大成』(全8巻、中央公論社、昭和28〜31年)の刊行にともなう仕事が大変になり、家族としては祖父の面倒を見られなくなったということで、宏文の4男晧の家にあずけることになったのです。病気の宏文は、完全に隔離されたのです。
 とにかく、亀鑑も宏文も、『源氏物語』の仕事に疲れ切っていました。

 亀鑑は、19日の午前10時35分に、順天堂病院で亡くなりました。ご家族が病院に駆けつけられたときには、すでに意識がなかったそうです。
 宏文は、それから5時間半後の、午後4時に亡くなりました。晧も病院に駆けつけています。おばが1人だけ残って、宏文の看病をしていたそうです。

 お互いの病状については知らされていなかったので、相手のことはよくわからなかったはずです。しかし、いつもとちがう慌ただしい気配から、父宏文は息子のただならぬ事態を感じ取ってはいたかも知れません。ご家族の方も、そのように語っておられました。また、亀鑑の妻房も、病気で別の病院にいたそうです。宏文のそばには、人がいなかったのです。そうした時間の流れの中で、亀鑑を追うようにして、父は亡くなったのです。

 池田亀鑑の病院における最後の姿が、写真として残されていました。
 
 
 

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 このような状況が昭和31年12月19日に池田家ではあったことが今回確認できました。
 ここに、あらめて記しておくしだいです。
 
 
 

2011年4月 9日 (土)

京洛逍遥(187)鴨川茶店-2011-

 池田亀鑑のことを調べる必要があり、岡崎公園の中の平安神宮前にある京都府立図書館へ行きました。
 この図書館は、豊富な資料を所蔵しています。池田亀鑑に関する本だけでも123冊もありました。職場の蔵書には遠く及びません。しかし、専門的な本はともかく、一般的な書籍に関しては遜色のないのが気に入っています。

 自転車で冷泉通りからの帰り道で、琵琶湖疎水から平安神宮を見やると、桜が疎水に覆い被さるように咲いていました。ここは、シーズン毎に観光船も運行しています。写真の左上には、送り火の大文字も見えます。
 
 
 

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 東大路通りを北に進むと、昨夏入院していた京都大学病院のガン病棟である積貞棟が目に入りました。駐車場に桜が見えたので、立ち寄りました。
 
 
 

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 今も、この病棟にはたくさんの方が手術を待ち、または退院を待っておられるはずです。
 この6階の東端にいたことが、今では遠い記憶になろうとしています。私がいた病室は、この写真ではちょうど八分咲きの桜で見えない角度にあります。

 賀茂川の北大路橋より北の半木の道では、今年も賑やかに鴨川茶店が開催されていました。
 自宅近くから京大病院の方を望むと、両岸に5分咲きの桜並木が春の訪れを知らせてくれます。
 
 
 

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 対岸では、お琴や尺八の演奏が行われていました。
 
 
 

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 今年も、お茶をいただきました。そして、お茶菓子の三色団子とお皿をもらいました。
 
 
 

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 昨年までの記録は、以下のブログをご覧下さい。

「京洛逍遥(133)鴨川茶店-2010-」(2010年4月10日)
 

 今年の桜は、来週末あたりが満開でしょうか。
 
 
 
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 桜は気分を明るくしてくれます。

 北山周辺は山桜が多いそうです。ぱっと咲いてさっと散るソメイヨシノと違い、山桜は種類も多く咲く時期もそれぞれなので、長い期間花を楽しめます。
 光源氏が北山へ病気平癒に赴いたのは、ちょうど3月下旬でした。『源氏物語』の原文には、「三月のつごもりなれば、京の花盛りはみな過ぎにけり。山の桜はまだ盛りにて」(第5巻「若紫」)とあります。今月の下旬頃にあたるのでしょう。北山の山桜は遅いのです。

 千年前と同じような自然の中で生活できることは、とても贅沢なように思います。こうした環境を、いつまでも守り続けたいものです。
 鴨川茶店のイベントは、鴨川の景観を守る鴨川条例の啓蒙活動から始まっています。いつまでも続けてほしい、桜咲く時期のお祭りの1つです。
 
 
 

2011年4月 8日 (金)

池田亀鑑の名前と学生時代の写真

 池田亀鑑について、一昨日池田家で伺ったことのメモから、二つほど記しておきます。

 これまで私が日南町でいろいろな方に尋ねてもわからなかったことに、「亀鑑」という名前の読み方がありました。
 「きかん」なのか「かめのり」なのか。
 『花を折る』の最初に、「キカン名前で……」ということが書かれています。しかし、実際にどうだったのかは確認がとれていませんでした。
 鳥取県での学校の資料等を探していました。しかし、ひらがなで書かれたものは皆無でした。
 日南町のみなさまからも、確証は得られませんでした。

 このことについて、ご子息は「きかん」であると明言なさいました。これで、この名前の読み方は解決しました。
 直接ご家族の方に伺うまでの自分の中での迷走が、今では楽しく思えてきます。

 お父上の写真をたくさんお持ちでした。缶の入れ物にぎっしりと詰められたフイルムは酸化が進んでいて、相当酸っぱい臭いを発していました。
 私の職場でも、全国から収集した古典籍のマイクロフイルムが時間の経過によって劣化し、フイルムベースがワカメ状に変質し、さらには異臭を発しだしました。そのため、特別予算を計上してもらい、そのほとんどをデジタル化することで収集された画像を救出したばかりです。
 目の前の写真のフイルムも、危険信号を発していました。大至急デジタル化を進める、とおっしゃっていました。理科系がご専門の方なので、こうしたことは手慣れたもののようです。

 すでにデジタル化なさった何枚かの写真を、USBメモリに入れてくださいました。
 その中から、ここに1枚の写真を紹介します。確認が不十分ですが、おそらく初めて世に出る写真だと思われます。
 
 
 
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 なかなか凛々しい学生服姿です。
 以前、上京する直前の、鳥取県で訓導をしていた頃の写真を紹介しました。

「池田亀鑑ゆかりの石碑と資料」(2009年12月17日)


 その大正6年の訓導時代(20歳)の写真と比べると、この写真は若く写っています。しかし、その襟章の「L」と金ボタンの図柄から、これは東京大学の学生服を着て写したものだと思われます。

 金ボタンについては、「学校制服・体操服の株式会社トンボ」のホームページに掲載されていた、「帝大制服・制帽(写真提供:東京大学大学史資料室)」の写真を見比べました。解像度が低いので明確ではありません。しかし、その輪郭は一致します。
 
 
 


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 池田亀鑑は、鳥取県師範学校から鳥取県日野郡溝口尋常高等小学校の訓導となり、東京高等師範学校(後の東京教育大学、現在は筑波大学)を経て大正12年に東京帝国大学に入学しています。
 この写真が入学後まもない頃のものとすれば、27歳の時になります。
 大正14年に結婚しますが、その時のものではないと、私は思っています。
 このあたりは、あくまでも現時点での推測です。
 この点について、ご教示いただけると幸いです。
 
 
 

2011年4月 7日 (木)

池田亀鑑の好物


 鳥取県の日南町で「池田亀鑑文学碑を守る会」の事務局長をなさっている久代安敏さんから、いつか質問を受けたことがありました。それは、日南町ゆかりの作家である井上靖と松本清張は、ともに羊羹が大好きだったけれど、池田亀鑑はどうだったのか、ということでした。

 昨日、池田亀鑑の息子さんと奥様にお目にかかり、親しくお話をお聞きした中で、このことも伺いました。
 結論は、池田亀鑑も羊羹が大好きだったそうです。甘党だったのです。

 それ以上に、甘酒にはうるさかったようです。それも、並みの好きさ加減ではありません。こだわりは、『源氏物語』の本文研究以上です。

 まず、池田亀鑑はお酒は飲みませんでした。飲めないのではなくて、飲まなかったのです。その理由は、仕事に差し障りがあるから、ということでした。
 私のまわりにも、同じ理由で飲まない人が何人かいますので、その気持ちはわかります。

 さて、甘酒です。これは、東京の神田明神の門前の「天野屋」のものを、という指定があったのだそうです。そのこともあり、今でも池田家では、お正月にはこの「天野屋」の甘酒を買ってきてお供えしているとのことでした。

 与謝野晶子も池田亀鑑の家に出入りしていたので、晶子の生家である堺市鳳にある駿河屋の羊羹も指定されていたのかと思いきや、それは特に指示はなかったようです。
 与謝野晶子は、羊羹好きの池田亀鑑のもとを訪問する時に、実家の羊羹を手土産に持ってきたのでしょうか。これは聞きそびれてしまいました。この次に伺ってみたいと思います。
 
 
 

2011年4月 6日 (水)

『源氏物語大成』の背景と資料(1)

 かつて池田亀鑑が『源氏物語』の研究をし、『校異源氏物語』から『源氏物語大成』までを作っていた東京のお宅で、ご子息との面談が叶い、長時間にわたってお話をうかがうことができました。

 たくさんの貴重な情報や資料が確認できました。
 その中から、まずはこんな小道具から報告しましょう。

 池田亀鑑は、さまざまな手法で『源氏物語』の写本を読み取っていました。乾板写真、映写機、青焼き写真、敷き写しなどです。そうして集めた資料から『源氏物語』の本文を読み取ることで、『校異源氏物語』ができたのです。昭和10年代のことです。
 こんな写真が残っていました。初めて一般に公開される写真となります。
 映写機によって撮影した『源氏物語』の写本のフイルムを確認している、昭和28年頃の池田亀鑑の姿です。
 
 
 

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 このフイルムを見る道具については、池田晧氏が「この道一筋に―亡兄池田亀鑑を想う―」(『水茎』第10号、平成3年3月)で、こう書いておられます。


フイルムは、今日のようにゼロックスがあるわけではなく、一枚一枚を引き伸ばしては更に大変な費用がかかる。そこで特殊な箱を考案し、曇りガラス板の下に電球を入れ、その上でフィルムを動かし,拡大レンズで片目で文章を読む。これはまことに神経のつかれる仕事であったので、たびたび交代した。(50頁)

 なお、松尾聡氏にこんな発言があります(『リポート笠間 第35号』平成6年10月)。


昔からある普通の映画のフィルムです。その小さいのをルーペで見ながらやるのでかなりつかれました。(12頁)

 この発言によれば、ここでは電球入りの箱を使う前の話のようです。

 その問題の箱というのは、こんな箱だったのです。
 
 
 
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 これは、池田亀鑑が大工さんに作ってもらったもののようで、木でしっかりとできています。
 下の空間に20ワット位の電球を入れます。そして、上の小さな四角い磨り硝子のところにネガフイルムを置き、下からの照明を当てます。そして、その下からの光を通して、フィルムの画像を虫眼鏡で読むのです。
 このような道具を活用して、『源氏物語』の写本を読んでいたのだそうです。これを使ったたくさんのお手伝いの方々が、何人も目を痛めたそうです。

 内部の構造は、電球を入れるだけなので非常にシンプルです。
 
 
 
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 池田亀鑑は、今でいえば機械マニアとでもいえるところがありました。便利な道具を追求していたのです。
 ご子息は、ご専門が医用生体工学という分野のエンジニアです。お父さんの血を引いておられるようです。

 実際にご自宅にあったフイルムを出してくださったので、この道具の上に置いてみました。
 このフイルムは、高松宮本『源氏物語』を映写機で撮影したものです。
 
 
 
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 こうして置いてみると、この道具にはその上を覆うものがあったと思われます。上部端に小さな釘穴が確認できるので、上に開く形の、押さえの役目をする板が付いていたと思われます。このことは、今後とも写真の整理が進むと判明すると思われます。

 とにかく、いろいろなものが残されています。
 可能な限り、ここに紹介していきたいと思います。
 まずは第一報として、フイルムを読み取る小道具を、簡単に記しました。
 
 
 


2011年4月 5日 (火)

【復元】モスクワの旅(3)

 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
 
2006年9月7日公開分
 
「枕元のライトを3回も修理してもらったがダメ」
 
 副題「ホテルの電気職人さんと目で会話をする」
 
 
 モスクワのホテルは、五つ星の最高ランクのところでした。
 私ごときには分不相応なのですが、日露セミナーなどの会議が多い時期に当たり、それでなくてもホテルの収容客数が足りないところということもあり、こんなところしか空いていなかったのです。名前を聞いて驚いていたのですが、入ってみると日本の中クラスのホテルでした。

 インターネットはワイヤレスなので便利でしたが、利用料金が高すぎます。一日で4000円弱でした。また、通信速度が遅すぎます。画像を送るのは諦めました。

 たまたまFIFAがスポンサーとなったイベントがあり、ホテルの一室のインターネットが無料で使えるようになっていました。しかし、パソコンの台数が少ないのと日本語が使えないので、あまり役にはたちませんでした。

 部屋のベットの枕元にある電気を、三度も修理をしてもらうことになりました。
 最初は、突然電球が切れたのです。すぐに電話連絡をして来てもらい、取り替えてもらいました。
 ところが、しばらくすると、付いたり消えたりします。どうやら、発熱のためらしいのです。
 高温になると、電気が切れ、冷めるとまた点灯します。
 2回目に来た時には、修理のおじさんは私の不調の説明もわかったという顔で聞き、直した後も、しばらく付けて温度が上がるまで横に立って様子を見ていてくれました。ロシア語しか使えない人だったので、目で会話をする以外にないのです。時計をみながら、完全に直してやるぞ、という目くばせをしてくれました。

 それにもかかわらず、彼が帰った後に、ランプの部分がポトリと落ちて垂れ下がったのです。今度は、接着剤で付けてくれましたが、それでも彼が帰った後に、またしてもポトリとランプが落ちました。
 
 
 
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 4回目のクレームはつけませんでした。
 自分で持参していた粘着テープで補修をしました。

 食事をしたホテルのレストランでは、オムレツを焼いてくれるシェフが、フライパンでかっこよく裏返しにしようとしたのですが、不器用なシェフのようで、何度も失敗していました。味も、塩気がきついものでした。形もグチャグチャで、本当に素人のアルバイトとしか思えないシェフでした。

 部屋のタオルも、小さい手拭き用のものが置いてあったりなかったり。部屋に置いてくれたペットボトルの水は、たまにガス入りだったりしました。客の情報はしっかりと従業員が共有しておいてほしいものです。

 ロシアは、まだまだサービスという点で、今後の健闘が期待される国だと思いました。これは、町に出てみると、至る所で痛感するものでした。
 
 
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 

2011年4月 4日 (月)

【復元】モスクワの旅(2)

 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
 
2006年9月3日公開分
 
「クレムリン周辺を散策」
 
 副題「モスクワ859年記念の賑わいの中で」
 
 
 今日のモスクワは、一時小雨程度でした。

 『源氏物語』のロシア語訳を完成されたタチアナ先生のお話を2時間以上も伺った後、先生にクレムリンを案内していただきました。
 タチアナ先生には、今春来日された折にも、2日間にわたって、たくさんのお話をお聞きしました。今回は、それをさらに深めた内容で、収穫の多いインタビューとなりました。

 また、先生がロシア語に翻訳された『和泉式部日』もいただきました。日本の古典文学に愛情を注いでおられる先生の情熱が、ひしひしと伝わる本です。私にはロシア語はわかりません。しかし、手にして頁を繰ることで、伝わってくる印象は、ずっしりと重いものがあります。

 今日と明日は、モスクワ859年記念ということで、さまざまなイベントが組まれていました。859年というのが中途半端のように思いますが、どうやら毎年カウントアップしながらやっているようです。
 街中も、たくさんの警察が警備をするという、ものものしい雰囲気になっていました。
 
 
 
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 クレムリンも、いつもの道が使えないということで、厳重な警備網をかいくぐりながら、遠回りをしての入場です。中は、落ち着いた雰囲気の空間になっていました。庭の花がきれいに咲き誇っていました。
 
 
 

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 昨日は、赤の広場などを散策したので、ロシアの中心地はこれでほぼ体感したことになります。

 赤の広場の横に、モスクワからの起点を示す標識が道に埋め込まれていました。
 
 
 
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 たくさんの人が記念撮影をしています。この中心部に、お金を投げる人もいます。すると、中心円の後方にいるおばあさんが、サッとそのお金を拾うのです。なかなかチャッカリした仕事です。惜しむらくは、お金を投げた人が立ち去るのを確認してから集金してほしいものです。

 観光客がよく行くというアルバート通りへ行く途中で、ロシア国立図書館前のドストエフスキーの銅像に対面しました。非常に暗い雰囲気でした。
 
 
 
 
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 ドストエフスキーが病気だったせいだそうですが……。
 ロシアの至る所にある銅像全般に関しては、もっと明るい表情であってほしいと思いました。どれもこれも、イマイチ元気の出ない表情をしているように見えます。自信のなさそうな表情なのです。大国ロシアらしくないものだという印象を持ちました。

 モスクワでもっとも大きいと言われる、大型書店にも行きました。八重洲ブックセンターやジュンク堂を思わせる、スケールの大きな本屋さんです。ここでは、日本の古典文学のアンソロジーとなっているロシア語訳の本を買いました。この中には、タチアナ先生がロシア語に訳された『源氏物語』からは、「末摘花」と「蓬生」の巻が採録されていました。これは、タチアナ先生の選定になるものだそうです。コンパクトにまとまったおもしろい話を採られた結果のようです。こうしたものを通して、日本の古典文学に興味をもってもらえたらいいことだ、と思います。

 地下鉄の移動では、駅の構内の装飾がすばらしいのに驚きました。美術館の雰囲気があります。地下にあるギャラリーと言えばいいのでしょう。

 時間があれば、もっともっと歩き回りたいところですが、なかなかそうも行かないままにサンクトペテルブルグに向かうことになるのが心残りです。
 
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 

2011年4月 3日 (日)

京洛逍遥(186)鞍馬温泉でリラックス

 このブログで何度も取り上げている鞍馬寺へ行きました。
 くらま温泉は、昨秋の術後以来です。

「京洛逍遥(162)鞍馬寺とくらま温泉」(2010年9月21日)
 
 
 
 
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 ここの温泉は、硫黄が少し入っているので、他よりも効き目があるように感じます。
 前回は、お腹を気遣いながら入浴しました。今回は、まだ蕾の固いさくらを見ながら、のんびりと入りました。

 あと10日もすれば、開花することでしょう。
 お山の桜は霊気に包まれているせいか、ゆったりとしています。
 
 
 
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 往きはケーブルカーに乗って行きました。帰りは、坂道を歩きます。
 いつものように、『源氏物語』の案内板に挨拶をします。
 今日も、「落石があり危険ですので こちらの参道をお通りください →」という標識があるために、この説明板を通ってお山を下る人は稀です。
 この説明板を、由岐神社から見ました。右端に、かすかに白いボードがのぞいています。
 上りの人も下りの人も、この『源氏物語』の説明板には気づかないのです。返す返すも残念です。
 
 
 
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 さて、気分一新。
 ゆっくりと、みなさんに迷惑をかけない、適度にスローな生活を意識しながら……
 
 
 

2011年4月 2日 (土)

逸翁美術館の与謝野晶子展

 今日から、逸翁美術館で「与謝野晶子と小林一三展」が始まりました。6月12日までです。

 隣の池田文庫の桜は、咲き始めたところです。
 
 
 

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 初日の午後、一番人が少ない頃を見計らって行きました。
 
 
 

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 館長をなさっている伊井春樹先生には、特に連絡を差し上げてはいませんでした。しかし、偶然というのか、来るだろうと思われていたのか、展示室に入って最初の展示物である晶子自筆の「歌百首屏風」(展示番号1)を見ていると、後ろから声をかけられました。初日なのでお忙しいと思い、ご挨拶もせずに帰るつもりだったので、こちらが驚きました。

 お忙しいはずなのに、いつものように丁寧な説明をしてくださいました。
 私だけが聞いてはもったいないので、お話を伺ったことで図録に掲載されていないことのいくつかを、以下に記しておきます。展覧会にお出でになった折のご参考までに。

 会場に入った最初の曲がり角に、上田秋成自筆の和歌短冊「源氏物語十八首」(展示番号27)があります。これは、近年逸翁美術館に入ったもので、あまり知られていないものだそうです。秋成の人形(座像)と一緒にあるのですが、今回はガラスケースの中で倒れるといけないと学芸員の方がおっしゃったとかで、展示品としては出していないとのことです。この短冊のことは、『与謝野晶子の「源氏物語礼讃歌」』(伊井春樹、2001年3月25日発行、思文閣出版)の169頁にふれておられるので、この部分を読んで行かれるといいでしょう。
 今回の展示を見る前に『与謝野晶子の「源氏物語礼讃歌」』を読んでいるかいないかは、その充実感が大きく異なってきます。この展示のテーマをより深めた内容となるように意識して書かれた本なので、当然のことでしょうが。
 この本のことは、本ブログの「与謝野晶子に関する刺激的な2冊」をご参照ください。

 秋成の和歌屏風の歌と晶子の歌は、よく似た場面を歌っているそうです。今後、さらなる研究がなされるのでしょう。

 そのすぐ左側に、和歌懐紙「宝塚にてよめる」(大正六年、展示番号8)を軸装にしたものが掛かっています。


武庫川の板の橋をばぬらすなり かじかの声も月の光も

 これは、全集に未所収の和歌で、歌碑になっています。

 その、宝来橋のたもとにある歌碑の写真(展示番号ナシ、図録掲載アリ)は、伊井先生ご自身が撮影をしに行かれたものです。
 歌碑は、懐紙の自筆文字を5行に分けて刻んだものです。
 ガラスケースとは離れたところの壁に掛けられているので、見過ごしやすいので、ご注意ください。その関連性も、特に記されてはいません。この2つの展示品を結びつけるのには、相当の知識と注意力がいります。2つの接点については、『与謝野晶子の「源氏物語礼讃歌」』の33頁に書かれています。これを読んでいないと、展示会場の配置と説明の関係で、その場では結びつかないと思われます。

 今回の展示は、大正六年にスポットを当てているので、そのつもりで観てほしい、と先生はおっしゃっていました。

 展示室の出口に、変体がなで和歌を染め抜いた長い垂れ幕が下がっています。


数萬の星の如く可ゞやける
  歌をの古して君ゆき玉ふ
             逸翁

 単なる展示の小道具として、何となく素通りしてしまいます。私も、学芸員の資格をとってから、こうした道具立てには目が行き届くようになりました。しかし、この垂れ幕の裏話には思い及びませんでした。
 横には、こんな説明が書いてあります。


この歌は、与謝野晶子の死を悼み、「悼晶子夫人」と題して逸翁が詠んだ歌である。『逸翁鶏鳴集』
※このタペストリーは、逸翁の短冊等から集字し、作成したものです。

 つまり、逸翁の自筆和歌が残っていないので、逸翁の書簡などから一文字ずつを集め、この歌を自筆であるかのように見せているのです。
 「可」「古」「玉」などに、苦労の痕が垣間見られます。それ以外にも、「君」という文字がなくて探し出すのに苦労した、とのことです。学芸員の方々が総出で探した文字だとも。
 会場を後にされる折には、ぜひこの「君」という文字をじっくりとご確認ください。伊井先生ご苦心の、執念で探し出された一文字です。

 見終わった頃、ちょうどピアノコンサートが始まるところでした。毎週末に逸翁美術館では、音楽のイベントが組まれているのです。
 音楽会の会場である「マグノリアホール」は、小さいながらも立派な施設です。マグノリアとは、木蓮のことです。
 美術館の入口にある木蓮は、大きな目玉のバルーンが吊ってあるので無粋です。前掲3枚目の写真をご覧下さい。
 そのことを申し上げると、鳥が来るので仕方がない、とのことでした。

 南千勢子さんのピアノは、力強い音が響く、迫力のある演奏でした。
 演奏は、以下の曲目でした。


春の歌
月光
ルーマニア民族舞曲
歌の翼に
ラ・カンパネラ
夕べの調べ
愛の夢
ハンガリー狂詩曲

 先生と一時間ほど、前の席に並んでピアノの音に耳を傾けました。
 会場は満員に近く、南さんに負けず劣らず、みなさんの熱気が伝わる雰囲気が醸し出されていました。
 伊井先生とご一緒に音楽を聞くのは、インドのデリーで、インド工科大学の野外ステージであったロックコンサートに行ったとき以来です。あの時は、今はマスコミなどで大活躍の中島岳志君も一緒でした。エジプトの国際交流基金カイロ事務所に移られた佐藤さんが、あのイベントを仕掛けられたのです。インドでは、大音響に体を揺らせました。今日は、激しく時に優しいピアノの音を共にしました。

 今回のピアノコンサートは、元気がもらえるものでした。
 いい機会をいただき、来週から東京へ妻共々移転しての新生活をスタートさせるにあたり、活力を与えられた思いです。
 
 
 

2011年4月 1日 (金)

京洛逍遥(185)30数年ごくろうさまでした

 昨日の主治医からのアドバイスを受け、早朝賀茂川散歩に出かけました。
 朝食後の不快感がない生活をするためです。

 上賀茂神社の参道では、御所桜がみごとに花を開き出しました。
 そのむこうの斎王桜は、まだ蕾が固いようです。
 
 
 
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 30数年間、ずっと働いて来た妻が、昨日退職しました。今日から、我々二人にとって、新たなスタートとなります。
 大学卒業後は、東京で高校教員と大学職員をしながら、私の大学院での研究生活を支えてくれました。
 大阪に来てからは、府立高校の5つの学校に31年間勤めました。

 私の手術後、順調に回復しているとはいえ、東京での単身赴任の食生活は決してうまくいっていません。それを見かねてのこともあり、早期退職をして上京し、助けてくれることになりました。その決断をしたのは昨年9月、無事に手術が終わってすぐだったと話してくれました。

 私にとっては、ありがたいことです。東京と京都を往復する負担も減ります。その楽しみが減るとも言えますが。
 実質的には、来週からの上京です。東京湾の入り江にある宿舎に移り、一人から二人での、新たな生活を始めます。
 これまでは、郵便物は東京から京都に転送していました。これからは、京都から東京に転送してもらいます。

 記念すべきスタートとなる今日、4月1日。
 妻は、昨年の今日は学年主任として走り回っていたのに、今日はこうしてのんびりと一緒に賀茂川を歩いていることがどうしても実感がわかない、と言っていました。
 夜遅くまで走り回っていた30数年間、ごくろうさまでした。

 上賀茂神社では、ちょうど月次祭が国宝の本殿で催行されているところでした。
 宮司さんと神職の方々が、神殿へ向けて厳かに祝詞を奏上なさっていました。
 その声が我々の身には、門出の祝辞ででもあるかのように聞こえました。
 紫式部ゆかりの片岡社で祝詞をあげ、そこから下げられた供物などがしずしずと本殿に奉納され、そして祝詞奏上の後には恭しく下げられていました。
 静かな流れを見るような儀式でした。

 身が引き締まる緊張感の中、満開の桜越しに屋根が葺き替えられた細殿が、いつにも増して新鮮に望むことができました。
 
 
 
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 御園橋のたもとにある「KAMOGAMA」という陶芸喫茶で、おいしいコーヒーをいただきました。ここを通ると、いつも「KAMOGAA」の間違いでは、と思っていたお店です。
 1階が陶芸教室になっており、店内には趣味のいい陶器がたくさんありました。
 
 
 
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 賀茂川縁の桜は、昨日よりももっとたくさんの蕾が、さらに脹らんでいました。
 
 
 
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 目の前でパッと一斉に花開いても、これなら驚きません。
 元気な桜の開花が楽しみです。
 
 
 

NPO法人〈源氏物語電子資料館〉広報室より

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