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2011年7月の31件の記事

2011年7月31日 (日)

いろいろな「そばぼうろ」を楽しむ

 京都にいる時は、「蕎麦ぼうろ」をよく食べます。
 これは、自宅の近くにある大型スーパーのお菓子売り場やお土産物コーナーにあるので、買い物の折にヒョイと籠に入れて購入します。

 ところが、この「蕎麦ぼうろ」にはもう一つよく似た名前で別のものがあることを知りました。
 
 
 

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 まずは、この違いを両店のホームページから引きます。

(1)総本店丸太町かわみち屋「蕎麦ぼうろ」
   創業︰昭和23年10月4日
   本社所在地︰京都市上京区丸太町通河原町西入信富町331番地


ぼうろ(ボーロ)は、一五七〇年頃ポルトガル人によって伝えられた南蛮菓子の一つで当時は、小麦粉に砂糖を加え、練って焼いたものでした。
これに鶏卵を加え、蕎麦の野趣味あふれる香りを生かすように工夫して焼き上げましたのが、蕎麦ぼうろです。

 
(2)総本家河道屋「蕎麦ほうる」
   創業︰享保8年(一七二三年)?
   本社所在地︰京都市中京区姉小路通御幸町西入ル


河道屋の蕎麦ほうるは「河道屋安兵衛」が、菓子舗で蕎麦を扱っていた頃をしのび、家伝の秘法を元に工夫を重ねて作り上げた銘菓です。
(中略)
本家の店のほうでは、「蕎麦ほうる」というものをやっているんですが、私の三代前の者が作りだしたと聞いております。
ご存じのようにいわゆるクッキーでして、つこてる材料はほとんどお蕎麦と同じで、そこに卵と砂糖を足したものです。ですから蕎麦屋をやっている家の手持ちの材料で、手打ちの技術でもって、たまたまのして焼いたものが、蕎麦ほうるの発祥だろうと思います。
(中略)
いつ頃からかこの界隈で商いをさせていただいているか、店のほうに享保八年(一七二三年)の時の町内の書き付けが残っております。その時から勘定いたしますと、だいたい三百年弱というところになりますでしょうか。その頃は蕎麦屋ではなく餅菓子屋のようなものを営んでいたようでございます。
元禄の頃は、菓子屋の副業として蕎麦屋も営む所が多く、それが江戸時代中頃から、蕎麦屋は蕎麦屋、菓子屋は菓子屋と分かれて発達していったところもございますし、手前どものように、蕎麦屋と菓子屋という古い形態のまま、ずっと今日に至っているという所もあるわけでございます。
(中略)
南蛮人から伝わってきた言葉としては「ほうる」でしたので、正しくはと申しますか、うちの商品名としては「蕎麦ほうる」となっております。
ただ、「ぼうろ」とした方が耳に馴染みはよろしいですね。ですからお客さんも「蕎麦ぼうろ」とおっしゃることが多いんですが、その辺はどちらでも結構ですと(笑)。ただ、看板の方は、「蕎麦ほうる」と濁らない書き方をしております。

 まあ、どちらでもいいことなのでしょうが、その背景が知りたくなります。

 なお、河道屋は「晦庵 河道屋」という蕎麦屋もやっています。これも、我が家の近くの大型スーパーに入っているので、お菓子は「かわみち屋」、食事は「晦庵 河道屋」と、同じ敷地内に別のお店があることになり、ややこしいことです。これまでは、てっきりこの二つは同じ系列のお店だと思っていました。

 この二つのお菓子屋さんは、いろいろと事情があるのでしょう。
 現在の本店の場所も、共に三条通りの北にあり、近いのです。

 私は小さいころから、ラジオやテレビで「〜かわみちや—のそばぼうろ〜」というコマーシャルソングを聴いて育ちました。
 これは、下記のサイトで聞くことが出来ます。

「懐かしのテレビラジオ録音コレクション 京都の懐かCM」

 今にして思えば、これは「かわみち屋」のほうだったんですね。知りませんでした。

 京都のお菓子である「蕎麦ぼうろ」については、

「京のお菓子味見録」

が詳しい食べ較べをしておられます。一読の価値があります。
 そこでは、「かわち屋道風の蕎麦ぼうろ」「本家尾張屋のそばぼうる」「澤正の蕎麦ぼうろ」などが紹介されています。これも、いつか食してみることにします。

 そう思ってブラブラしていると、いろいろと類似する「そばぼうろ」が見つかりました。
 折々に買った「そばぼうろ」の写真を並べてみます。

(3)平和製菓「京銘菓 蕎麦ぼうろ」
   本社所在地︰京都市伏見区下鳥羽西芹川町
 
 
 

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 同じ会社から、「故郷うまいもん自慢 京銘菓そばぼうろ」が出ています。中身は同じようです。
 
 
 

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(4)青木光悦堂「こころなごむ故郷の銘菓 そばぼうろ」
   本社所在地︰京都市山科区大宅御所田町
 
 
 
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(5)小藤屋「そばボーロ」
   本社所在地︰東京都中央区日本橋人形町
 
 
 

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(6)寿恵久仁屋「石州ぼうろ」
   本社所在地︰島根県邑智郡美郷町粕渕
 
 
 

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 「そばぼうろ」は、なかなか奥の深いお菓子です。
 全国には、まだまだありそうです。
 
 
 


2011年7月30日 (土)

「鼻糞」みたいな「疣」が消える

 鼻の下に小さな突起物が出来ました。1ヶ月ほど前からでしょうか。
 家族が、「鼻くそ」を付けているみたいなので、何とかした方がいい、と言います。

 ニキビのようなものだったので、脂肪を取ればいいだろうとの素人判断で、針を使って除去しようとしました。しかし、突起物は脂肪の塊ではなかったのです。
 これでは私の手に負えないので、いつも行く九段下の病院へ行きました。

 外科に行くと、受付を済ませた後で看護婦さんが、顔にできているので皮膚科の方がいいでしょう、とおっしゃいます。外科でも治療をするけれど、とにかく顔ですから、と親切で優しい対応でした。
 それではということで、皮膚科の受付をして、診察ロビーでしばらく待ちました。

 この病院で私は、内科・眼科・耳鼻科・外科にかかっています。外科以外は、すべて女医さんです。
 そして、皮膚科でも女医さんでした。この病院には9つの科があります。その内の半数以上の科にかかっています。これは、女医さんのお世話になる確率が高い、といえるでしょう。
 今、女性のお医者さんが多いのでしょうか。義務教育の学校の先生は、女性が多いようです。病院も、そうした傾向があるのでしょう。これまで、男性のお医者さんに診てもらうことが多かったように思うので、少し気になりました。

 それはさておき、診察の結果、「イボ」だとのことでした。
 良性の腫瘍だそうです。先生はおっしゃいませんでしたが、後で調べると「老人性疣贅(ゆうぜい)」というもののようです。年と共に、いろいろと身体に変化が起きるものです。

 それにしても、今回「イボ」ということばを調べてみて、その日本語の表記に改めて感心しました。つまり、普通に使うことばなのに、それを漢字で書くと「疣(いぼ)」なのです。知りませんでした。これは難しい漢字です。
 さらには、それを説明する文章には「疣贅(ゆうぜい)」という熟語が使われています。初めて見ることばです。

 そういえば、最初に記した「鼻くそ」を漢字で書けば「鼻糞」で、これを別に言い換えることばが思いつきません。「糞」ということばに下品さを感じるので、何か別のことばを用意すべきかも知れません。

 さて、私が受けた治療は、マイナス170℃の液体窒素を塗り、凍傷を起こすことでイボを水ぶくれとして浮きあがらせる方法です。液体窒素が入っている容器を開けると、ドライアイスの白い煙のようなものがモクモクと漂いました。そこへ綿棒を入れて液体を浸し、私の鼻の下に擦って塗られました。
 冷たさから痛みが来るのかと思いきや、痛くも痒くもないのです。不思議な感覚で意外でした。

 これで数日後にポロリと取れなかったら、2週間後にまた塗ることになりました。
 ウイルス感染によるものなので、手で触らないようにとのことです。しかし、普通に顔を洗ったりするのは構わないそうです。

 そして、それから5日が経った今日、鼻くそのようにへばり付いていたイボが消えていることに気づきました。無意識に鼻を触ったときに気づいたので、いつ消えたのかわかりませんでした。とにかく、めでたしめでたしです。

 私の身の回りにいらっしゃる方の何人かは、言うに言えない思いをなさっていたかと思います。
 以上のような事情で、何かと紛らわしいものはなくなりました。お心遣いに感謝します。
 
 
 

2011年7月29日 (金)

【復元】『源氏物語』を英語で読むと

(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
 
2006年2月5日公開分
 
 
副題「翻訳は訳者の力量に左右される」
 
 
 科研の成果としての『海外における源氏物語』を刊行したのは平成15年でした。
 いろいろな言語に翻訳された『源氏物語』の初めて解題書ということで、大好評をいただきました。今でも入手の問い合わせが絶えません。すでにすべてを配布し終えたため、ご要望が多いこともあり、改訂版として出版する計画を進めています。

 今現在も、英語はもとより、イタリア語、スペイン語、チェコ語などの翻訳が海外で進行中です。
 そうであるならば、『源氏物語』がそのまま原文で読める日本人によって訳されたものも、今後は注目していいかもしれません。

 最初の『源氏物語』の外国語訳は、末松謙澄が明治15年に「桐壺」から「絵合」までを英訳したものでした。出版はロンドンでした。
 次のアーサー・ウェイリーの英訳が出始めるのが大正14年からなので、その間に43年もの歳月が横たわっています。
 『源氏物語』の英訳は、まずは日本人だったことを記憶しておきたいと思います。

 日本人の手になる『源氏物語』の外国語訳について、大いに興味があります。もっとも、この場合の日本人という言い方には定義が必要でしょう。私は英語をはじめとする外国語に暗いので、若い方々に調べてもらうことになるかと思います。しかし、自分なりに情報はコツコツと集めておきたいと思っています。
 そんな問題意識もあり、昨年末に『中学英語で「源氏物語」が紹介できる』(山田弘、エール出版社、2005.11.15)を読みました。
 突然ここで思い出したので、いつものように忘れないうちに、備忘録を兼ねて記しておきましょう。
 
 
 

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 本書は、〈中学英語で紹介する〉というシリーズの内の一冊です。表紙には、


『源氏物語』の荒筋が楽しく読める、英語の勉強もできる、古文の試験にも役立つ、一冊で3倍楽しめる本!!

とあります。
 私にも読めるかもしれないと思って手にして、ページを繰ってみました。なお、ここでの「荒筋」は「粗筋」の方がいいですね。

 ページの組み方のせいなのですが、解説が必須の私には、英訳のページと相互に、しかも頻繁にめくりながら読み進めることになるために、非常に煩わしい構成だと思いました。
 しかし、何とか1週間で読み終えました。
 確かに、私でもどうにかついていける優しい英語のように思います。もっとも、内容が内容ですから、難しい単語や挿入句が多く、読み飛ばしであったことは白状しておきます。

 感心したのは、人物の名前に工夫がなされていたことです。新しい発見がありました。この登場人物の名称に関しては、「はしがき」で著者自らが、


年齢関係と家族関係、身分の上下が分かるのですから、僕としては、源氏物語解説の歴史に光明を投げかける画期的な考案だと思っています。(10頁)

と自負しておられます。
 例えば、光源氏は「Edward Peterson Ellis」で、母である桐壷更衣は「Audrey Peterson」、息子の夕霧は「Peter Ellis」です。ただし、この法則による名称は煩雑になるとの判断から、本文中では活用しておられません。それでも、登場人物はわかりやすい名称に訳されているように見受けられます。
 とは言いながら、さすがに気になる名称はありますが。

 単語レベルで気になったことをメモとして残しておきます。
 壁で仕切った部屋の「塗籠(ぬりごめ)」が、「large bamboo」とか「bamboo chest」と訳されています。これでいいのでしょうか。「几帳」と「御簾」が「the bamboo blind」となっています。これらは正確に訳したほうがいいと思います。どうも、空間を仕切る道具の訳が気になりました。

 誰のための英訳か、ということで表現は異なってくるものです。英語としての表現の適否はともかく、今は、日本の大学受験生が当面の読者対象なので、日本語以外を母国語とする人の語感に配慮する必要はないと思います。もちろん、英語らしい表現は必要でしょうが、この「bamboo」は誤解があります。

 「明石入道」が「Lay Monk Akashi」と訳され、解説ではしきりと「平信徒僧侶」と呼ばれています。これに関する解説では、以下のように丁寧に説明されています。


 layman「素人」ですが、layが「素人の・平信徒の」(形容詞)。monk=priest「僧」。ところで「平信徒の」って、「聖職者でない・出家していない(けれども信仰を持っている)」という意味ですよ(93頁)

 そうですか、と理解できますが、この「平信徒僧侶」がこの後の解説中にやたらと出てくるのは違和感があり耳障りでした。
 楽器の「ハープ」や人名の「弘徽殿 II」というのには違和感がありませんでした。

 解説中で登場人物の人間関係に混乱があるようなので、系図を添えてあればよかったですね。
 藤壷はガンで亡くなったのでしたっけ?
 夕霧を光源氏の次男とするのも、どうでしょうか。冷泉帝を長男としてのことなのですが、最初からそれを前提にして語られると、本当に粗筋だけを追う内容になってしまい、物語をかいつまんで読んでいる気さえしなくなります。

 「半血姉妹」という語も馴染めませんでした。「腹違いの妹」を「half-sister」と訳し、解説で「半血の妹」としているのです。何回も解説に出てくると、気が散ってしまいます。

 全体としては、『源氏物語』の前半を丹念にとりあげたこともあり、玉鬘十帖あたりから飛ばし気味になり、宇治十帖は粗筋・英訳・解説ともで1回分の4ページしかありません。
 これは、ぜひ続編を出してもらいたいものです。

 細かなことをメモとして残しましたが、これらは今後のためです。本書が非常に有益なものであることに変わりはありません。
 外国語に翻訳されたものから日本語を逆照射するおもしろさを、本書によって体験することができました。本当ならば、ウェイリー訳やサイデンステッカー訳やタイラー訳で体験すべきだったのでしょう。しかし、いかんせん、私に英語力がないので致し方ありません。
 今の自分なりに、それなりの貴重な勉強ができたということで、ある種の満足感を与えてくれる本でした。
 
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 


2011年7月28日 (木)

読書雑記(39)【復元】楽しい『源氏物語』

 
(※本記事は、平成19年3月に消失したブログを復元したものです。)
 
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
 
2005年8月21日公開分
 
 
副題「少しだけ怪しげな物語」

 忙しい時ほど、小説が読みたくなります。
 学生時代に、試験勉強をしていると、やたらと別のことに興味が湧いたり、日ごろは読まない本を読んだりした経験が、誰にでもあるのではないでしょうか。

 この夏は、公私共に、とても消化しきれないほどの「やるべきこと」を抱えていました。まだ過去形ではなくて、抱えています。こんな時だからこそ、本が読みたくなるのです。また、時間がないはずなのに、読めるのです。何といっても私には、新幹線と近鉄特急という読書空間からあるのですから。

 まずは、『源氏物語』に関するものから備忘録として書いておきます。
 富樫倫太郎の『妖説 源氏物語 壱』(中公文庫、2005.5)は、読みやすくて、楽しめました。帯に「魑魅魍魎現る 平安の闇と謎に挑む、妖しき源氏物語」とあるように、気分転換になる、肩の凝らない読み物です。これは3冊のシリーズで、『弐』が7月25日に、『参』が9月25日に発売されることになっています。すでに『弐』が刊行されていると思うのですが、書店でこの本を探すことを忘れるくらいにバタバタするばかりの毎日で、残念ながらまだ手にしていません。

 『壱』に関してだけですが、少しコメントを記します。

 登場人物は、『源氏物語』の宇治十帖に出てくる男たちです。
 薫、匂宮が話を引っ張ります。『源氏物語』の読者が知っているヒロインたちは、まだ一人も登場しません。強いて言えば、明石の君親子と女三宮でしょうか。男が語る『源氏物語』となっています。

 おもしろい話にしようということで書かれたものなので、細かなことは差し控えますが、どうしても気になったことを一つだけ。
 薫の出生の秘密の隠し方に不満を覚えます。これは、今後の二巻で趣向が凝らされることでしょう。しかし、最初の巻だからこそ、もっとうまく語っておいたほうが、『源氏物語』を知っている読者をもっと引きつけることができたのではないでしょうか。
 その意味でも、巻頭の「人間関係図」は不要です。それに続く「主要登場人物」だけでいいと思います。
 
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 

2011年7月27日 (水)

読書雑記(38)岩波新書『平安京遷都』(川尻秋生)

 川尻秋生著『平安京遷都』(岩波新書)を読みました。

 日本史の研究も日進月歩です。
 私が認識している日本歴史の中でも、平安時代の実態が近年はいろいろと新たな視点で論じられているようです。
 自分が知っている世界は、たかがしれているのですから、折々に新しい知見を得るように努力しています。
 あまりにも専門的な本は荷が重いので、概説書が重宝します。本書も、そうした動機で読み始めました。そして、興味深くおもしろく読み終えました。

 まずは、いつも頭を悩ます、人名をはじめとする固有名詞のことを記しておきます。
 自分が書いている文章の中であれば、漢字にしておけば読み方を知らなくてもいいので、何とかその場しのぎでごまかせます。しかし、人と話をしている時などは、人名や固有名詞を発音しなければなりません。たいがいは、音読みでごまかします。しかし、いつも逃げ腰の自分に、何とかしなくては、と叱咤激励したりもします。

 そんな時、一般読者を意識した本は、ルビ(読み仮名)が付いているので助かります。
 本書でも、次のような例がありました。これはメモをしておく価値がありそうです。
 ただし、メモの内容を記憶し続けることが年々難しくなってきたので、最近は何でもかんでも「エバーノート」に記録保存しています。覚えきれないので、iPhone の中にとりあえず入れておくのです。必要な時に探し出せたらラッキー、という類のメモの集積場所です。


・「大海人(おおしあま)皇子」=壬申の乱で知られる。後の天武天皇(93頁)
・「敦仁親王(あつぎみ)」=13歳で元服と同時に醍醐天皇として即位(125頁)
・ 「寛明(ゆたあきら)親王」=後の朱雀天皇(137頁)
・「仁善子(にぜこ)」=藤原時平の娘で熙子の母(138頁)

 さて、本書は近代化のさきがけとなった明治期に、平安時代がどのように認識されていたか、という話題で始まります。


文化史的にみれば、日本の近代化は、平安時代の排除からはじまったといえなくもない。(iv)

とあるように、明治と平安は「類似」する点の多いものだったようです。
 そこで、「虐げられた時代」をもう一度現代に呼び戻すことを目的として、本書は記されています。

 私がチェックしたことを、以下にいくつか列記しておきます。


・摂関政治によって、天皇の権能が藤原氏に奪われたとか、天皇が蔑ろにされたなどということはない。(97頁)

・二〇一一年三月に起きた東日本大震災との関連で注目されている地震として、貞観一一(八六九)年五月に東北地方で起きた大地震がある。(中略)今回の津波の規模とそれほど違わないことになる。今後のさらなる研究がまたれる。(109頁)

・寛平六年に遣唐使を廃止したとする見解をみかけるが、これは明らかに誤りである。(中略)寛平六年段階ではあくまで遣唐使派遣停止が正しい。
 また、遣唐使の停止をもって「国風文化」が発生したとする説もいまだに眼にすることがある。しかし、この説が的を射ていないことは明白だろう。(159頁)

・武士とは一種の殺し屋でありながら、武力を必要とした都の人々に、眉をひそめられながらも用いられた必要悪であったといえるだろう。(187頁)

 本書には、9頁にわたる索引があります。読み終えてから、いつでもこの索引を手がかりにして、内容に立ち戻れます。
 また、略年表と参考文献も重宝しました。
 一般的な読み物のスタイルをとりながら、こうした心遣いがなされていることに、好感のもてるものとなっています。
 
 
 

2011年7月26日 (火)

中国とロシアにおける『源氏物語』の翻訳について

 『越境する言の葉 ―世界と出会う日本文学』(日本比較文学会編、彩流社、2011.6)が刊行されました。この中から、『源氏物語』に関する論考2編を紹介します。
 
 
 
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 呉衛峰氏の「『源氏物語』の中国語訳—豊子愷訳の成立を中心に—」は、これまでいろいろと言われてきた豊子愷訳の情報を整理しています。
 豊子愷訳『源氏物語』(1980〜83年刊)は、中国における最初の完訳です。林文月訳(1974〜78年刊)の方が早く出版されました。しかし、原稿の完成は豊子愷の方が早かったのです。
 文化大革命という政治情勢によって、出版が延び延びになったのです。公刊されたのは、豊子愷没後になりました。
 『源氏物語』の中国語訳は、豊子愷の前に銭稲孫が着手していました。しかし、遅々として進まないために、豊子愷に委任された経緯があります。
 豊子愷が用いた参考書は、谷崎潤一郎の旧訳、与謝野晶子の新新訳、佐成謙太郎の現代語訳と、金子元臣の『定本源氏物語新解』だったのではないか、という可能性が提示されています。これは、さらに確認が必要です。
 本稿は、豊子愷の四女の豊一吟へのインタビューを通して、その背景を固めようとしています。手稿なども確認し、実証的な姿勢を見せています。ただし、私にはその証言をどこまで採用するかという点で、また手稿も時間の制約があって詳細には点検が進んでいないなど、まだまだ調査が必要だという印象を持ちました。
 銭稲孫と周作人の関与は過大評価しないほうがいい、という意見は参考になります。また、豊子愷の翻訳原稿の編集責任者であった文潔若の存在も、その成立過程で大きな役割を果たしています。さまざま問題が、改めて提示されたことになるのです。
 また、中国語訳『源氏物語』は、いろいろな翻訳をパッチワークのように貼り合わせたものが多いとされています。それについて本稿筆者は、翻訳にあたって用いたテキストを明示した、林訳、豊訳、そして鄭民欽訳だけが検討の対象になる、と言います。これも参考になります。

 次に、土田久美子氏がロシア語訳『源氏物語』に関する論考を寄せておられます。
 土田氏は、タチアーナ先生のロシア語訳『源氏物語』の研究で学位をとられました。それを受ける形で、ここでニコライ・コンラドを取り上げているのです。
 コンラドは、初めて『源氏物語』をロシア語に翻訳した人です。しかも、アーサー・ウェイリーの英訳よりも1年早い1924年に、「空蝉」のロシア語訳が刊行されているのです。ただし、コンラドのロシア語訳は完訳ではなくて、「桐壺」から「夕顔」までに留まっていることが惜しまれます。
 従来、取り上げられることのなかったコンラドに光を当て、その『源氏物語』の翻訳を確認する中で、コンラドの観点を探って考察が進められています。世界文学的な価値について、リアリズム長編小説という評価をしているところに着目している点に、新しさを感じました。
 なお、本稿の注(1)に、土田氏の論文「ロシアにおける『源氏物語』翻訳本の世界—ニコライ・コンラドのロシア語訳を中心に—」(伊藤鉄也、菅原郁子(編)『源氏物語【翻訳】事典』笠間書院、二〇〇九年十月刊行予定)が紹介されています。その掲載書である『源氏物語【翻訳】事典』は、実は現在いまだに校正が続いており、今秋には刊行できる予定になっています。事典の刊行が大幅に遅れており、土田氏にも大変迷惑をおかけしています。この場を借りて、その他の執筆者の方々にもお詫びを申し上げます。今しばらくお待ち下さい。

 なお、巻末に付された45頁にわたる「日本文学翻訳史年表(1904〜2000年)」は、有益な資料となっています。日本を代表する文学作品が、いつ・どこで・だれが紹介したのか、という情報が、時間軸に沿って一覧できるのです。基本文献として、座右に置く価値のある年表です。

 本書は、海外における日本文学の受容について考える時に、基本的な情報と最新の動向を教えてくれます。いい本が刊行されたことを慶んでいます。
 
 
 

2011年7月25日 (月)

明治27年刊行の末松訳『源氏』に関する訂正

 一昨昨日に書いたブログの一部を修正します。
 以下の記事の中で、勘違いをしていたので、訂正してあらためて確認をしておきます。

「千代田図書館蔵古書目録の中の英訳『源氏物語』(1)」(2011年7月22日)

 この記事の中で、昭和5年に朝倉書店から発行された『愛書家』という古書販売目録の一部を紹介しました。


(4)愛書家、第2号、朝倉書店(神戸)、昭和5年2月、英文 源氏物語、明治27、富田源太郎、洋一、8.00、(伊藤注・末松謙澄英訳初版は1882年、明治15年)

 そして、この情報について、次の説明をしています。


 (4)は、明治27年に刊行された、末松謙澄訳の『源氏物語』です。この情報は持っていました。しかし、それが「富田源太郎」という名前と関係することは知りませんでした。この「富田源太郎」という人物については、今後調べます。

 特に、「富田源太郎」という名前について、知らないと書きました。しかし、実は手元の資料をもとにして、すでに紹介していました。

「末松謙澄の英訳『源氏物語』のその後」(2011年6月24日)

 入手した本の奥付が切り取られていたため、その画像を紹介しなかったので、つい記憶が薄くなっていたようです。

 あらためて、この明治27年に日本で刊行された末松謙澄の英訳『源氏物語』の奥付を掲載します。
 この本の巻頭には改訂第2版との文字が印刷されています。しかし、おそくら、これが日本での初版になるものだと思っています。
 
 
 

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 富田源太郎については、調べてみるといろいろなことがわかってきました。
 明治初年から英語力を生かして、国際交流に顕著な活躍をした人だったのです。
 明治時代というのは、本当に興味深い時代です。多彩な人物が、さまざまな分野で活躍していたのです。

 この明治という時代についても、勉強をしたいと思うようになりました。

 まだまだ、やることがいっぱいあります。長生きしなくてはいけません。
 
 
 

2011年7月24日 (日)

JISカナ・キーボードの存続が危うい

 銀座のアップルストアに行った折に、iPadで日本語を入力する時に用いるJISカナ入力方式が実装されたかどうかを、店頭の方に聞きました。

 私は、iPadの初代機を持っています。昨年、入院中に小さな iPhone での入力に苦労したので、急遽購入しました。しかし、そのiPadでは、日本語はローマ字入力か50音順入力しかできないのです。そのためもあって、自宅のiPadは放電したまま放置されています。
 もったいので、トイレでウエブを巡ったりしていました。日本語入力をしない使い方に適している場所だと思ったからです。しかし、意外と日本語で検索などをしたくなり、そのために役目を果たさず、今は惨めな記念品の一つとなっているのです。

 iPad2が今春発売され、今度こそと思っていたのですが、アップルからはJISカナ入力は無視されていたのです。その後、どうなったのかを、アップルストア銀座で尋ねたのです。

 すると、そのカナ・キーボードによるカナ入力が何なのかを、店員の方に理解してもらえないのです。3人目の方で、ようやくわかってもらえました。

 JISカナ・キーボードは、もう日本人にはなかなか理解してもらえない存在になったのかと思うと、悲しくなりました。そして、店員さんの答えは、アップルとしてはJISカナ・キーボードとそれに準拠したカナ入力に対応する予定はないのでは、ということでした。
 アップルから絶縁状を突きつけられた思いがしました。

 アップルストアの中でも、銀座店は店員の接客態度が酷い上に、知識の面でもとにかくその質が疑われることは、これまで何度も書いてきたのでここでは置いておきましょう。レベルの低いお店の一店員の発言なので、実際にはどうかわかりません。しかし、さもありなん、というのが最近の動向です。

 私は、昭和55年(1980)からコンピュータを仕事や研究に本格的に活用しています。
 文字を入力するのは、最初は電卓型のテンキーで数字だけを入力していました。モニタといっても、セグメントが横に8個並んだものでした。まさに、電卓です。
 次に、AからFまでのアルファベットがテンキーの周りに付いたもので、それで16進数を入力してコンピュータのプログラムを作っていました。
 まもなく、C言語やBasic言語を勉強し、アルファベットを駆使して、簡単な英語でブログラム作りを始めました。

 昭和54年にNECからPC−8001が発売されると、翌年にはそれを購入し、文学研究に活用し出しました。まだ、半角のアルファベットとカタカナしか使えず、ひらがなや漢字が使えない時代の昔話です。

 やがて、雑誌に掲載されていたBasicのブログラムを入力して、日本語のワードプロセッサらしきものを使えるようにしました。日本語の辞書がないので、漢字の一字一字をJISコードを調べて入力してモニタに表示し、それを組み合わせて一語一語を辞書として登録しながら日本語の文章を書き出しました。
 そうした早い段階から、私はずっとJISカナ・キーボードで日本語を入力してきました。もう30年も、カナ入力で来たのですから。アルファベットでローマ字式の入力によって日本語文を作る能力は、今の私にはありません。

 JISカナ・キーボードの配列は、かつてのひらがなタイプライタに遡ります。

 私は、コンピュータを導入する前は、シルバー精機の電動ひらがなタイプライタを使っていました。京大型カードを使っていたので、そのB6カードの大きさの特製私家版を作り、そのカードをタイプライタに差し込んでメモなどを印字していました。

 その時、ひらがなはハンマー式で打ち出すのです。打鍵スピードが速いと、当然ハンマーが絡みます。ジャミングと言っていたと思います。それを避けるために、ひらがなの配列が工夫され、今のJISの配列が決まったようです。
 実際に、左右の指がうまく動くようにひらがなが並んでいます。この絶妙の配列には、いつも感心します。
 参考までに、今私が愛用しているJISカナ・キーボードを掲載します。
 このキートップに印字されたひらがなが消える日が来そうな気配を、ひしひしと感じるようになりました。
 
 
 

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 それにしても、アップルはこのJISカナ・キーボードを見限るのでしょうか。そうなれば、アップルとの縁が切れてしまいます。かといって、今さら不出来なウインドウズマシンを使う気はありません。キーボードだけでも、今あるものを確保しておくしかありません。

 これまで、どんどん最先端のものを導入してきました。しかし、そろそろ保身にも気を配る必要があるようです。
 もっとも、OSレベルでJISカナ配列をサポートしてくれなくなったら、いくらJISカナ・キーボードがあってもひらがな入力はできません。

 JISカナ・キーボードによるカナ漢字変換方式は、日本人が開発した、すばらしい日本文化の逸品だと思います。あの入力スピードを誇っていた富士通の親指シフト方式が姿を消した今、その双璧とも言えるJISカナ入力と共に、世界技術遺産(?)に登録すべきです。

 それはさておき、JISカナ・キーボードはいつまでも使い続けたいものです。
 ローマ字変換では文章が追いつかない日本語文を入力をしている者が、まだ地上に残っているのです。
 日本語の衰退と共に、日本語の入力方式の一つが消えていくことに、寂しさを感じています。
 
 
 

2011年7月23日 (土)

江戸漫歩(42)水上バスで浅草へ

 宿舎のすぐそばに、東京水辺ラインという水上バスの発着場があります。
 昨夜の散歩で、多くの船が着岸を待つところに行き会いました。ざっと見渡しても、屋形船などが5艘は待機していました。
 
 
 
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 乗船のみなさん、食事をしながらナイトクルーズを楽しんでおられたのです。賑やかに下船される姿は、本当に楽しそうでした。
 非常に盛況だったので、昼間のクルーズに乗ってみることにしました。
 
 
 
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 船から宿舎の方を振り返ると、正面の橋の左にある小さな宿舎はまったく見えません。
 
 
 
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 隅田川を遡ると、まずは永代橋を潜ります。
 その右に、スカイツリータワーが見えます。
 
 
 
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 続いて、清洲橋の正面にスカイツリーが見えてきます。
 
 
 
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 浅草の船着き場の手前から、スカイツリーの中程に、最後のクレーンが一台だけ残っているのが確認できました。すべてのクレーンを下ろし終え、役目を済ませて後は自分が解体されるのを待っているのです。ごくろうさまでした。
 
 
 
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 浅草の浅草寺は、海外からの観光客でいっぱいでした。東日本の大震災と原発の事故で、観光客が減ったということです。しかし、今日はたくさんの方が来ておられました。ほとんどが、中国からの方々でした。お店の方も、中国語で客引きをしたり、説明をなさっていました。

 お決まりのアングルで、雷門を撮りました。
 
 
 
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 仲見世通りを少し外れた鰻屋さんで食事をしました。
 私は鰻重を、妻は白焼きです。白焼きは関西ではあまり見かけないので、こんな時に楽しめます。
 関東の鰻は、私には柔らかすぎて物足りなく思います。あらかじめ蒸してから焼くからでしょうか。それでもおいしくいただき、体調を整えることに備えました。
 
 
 

2011年7月22日 (金)

千代田図書館蔵古書目録の中の英訳『源氏物語』(1)

 千代田区立千代田図書館が所蔵する「古書販売目録コレクション」の調査は、遅々として進まず、という状況です。進まないのは、悔しいかな、とにかくおもしろいからです。
 ここには、明治から昭和にかけて発行された古書販売目録が、約1万点もあります。

 本ブログでは、内務省の検閲本や反町茂雄氏のなどの千代田図書館蔵の資料について、簡単に報告しました。

「昭和7年に東大で開催された源氏展冊子は検閲されていた」(2011年6月 3日)

「池田亀鑑が反町茂雄を通して購入依頼した写本群のメモ」(2011年6月 4日)

 それ以上に、「古書販売目録コレクション」は、ついジックリと見入ってしまいます。
 目録の内容は、味も素っ気もない販売古書のリストです。しかし、こんな本が、というものが目白押しに並んでいるので、ついいろいろなことを考えてしまいます。

 この調査は、今年の6月3日からスタートし、今日で5回目です。そして、やっとのことで1箱目に入っていた50冊を見終えることができました。
 
 
 
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 この調子では、すべてを見終えるのにあと30年以上かかります。これは大変なことになりました。
 『源氏物語』にポイントを絞り、とにかくひたすら前を見て進むしかありません。
 興味のある方は、ぜひ手伝って下さい。

 さて、今日は明治時代に刊行された、末松謙澄の英訳『源氏物語』の記事が気になりました。
 1箱目までの報告ですが、以下のものが見つかりました。

(1)ASAKURA古書もくろく、No.5、朝倉書店(神戸)、昭和3年10月、源氏物語、日本文庫、末松氏、洋一、6.50円

(2)ASAKURA古書もくろく、No.6、朝倉書店(神戸)、昭和4年5月、紫式部日記 和泉式部日記 更級日記 英訳、土井幸知、大森安仁子、洋一、7.00円

(3)愛書家、第2号、朝倉書店(神戸)、昭和5年2月、英文源氏夢ものがたり、明治38、アーネストサトウ、仮一、4.00円

(4)愛書家、第2号、朝倉書店(神戸)、昭和5年2月、英文 源氏物語、明治27、富田源太郎、洋一、8.00、(伊藤注・末松謙澄英訳初版は1882年、明治15年)
 
 
 
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(5)ASAKURA古書もくろく、No.8、朝倉書店(神戸)、昭和5年10月、英訳 源氏物語、末松謙澄、洋一、7.50円

(6)愛書家、第7号、朝倉書店(神戸)、昭和6年3月、英文 源氏物語、1881年、末松謙澄、洋一、8.00円
 
 
 
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 この内、(2)と(3)については、今のところ何も情報がありません。ご教示をお願いします。気をつけて見ていきますが。

 (1)は、本ブログ「奥付が切り取られていた末松謙澄訳『源氏物語』」(2011年6月19日)で書いた本に関連するものです。

 (4)は、明治27年に刊行された、末松謙澄訳の『源氏物語』です。この情報は持っていました。しかし、それが「富田源太郎」という名前と関係することは知りませんでした。この「富田源太郎」という人物については、今後調べます。

 (5)は(1)と同じ本ではないでしょうか。

 (6)の本は、1881年の刊行となっています。これは、上記「奥付が切り取られていた末松謙澄訳『源氏物語』」と関連するものです。1881年に末松謙澄の英訳『源氏物語』が刊行されたということについては、実際には現物がまだ確認されていないので、今のところは現在確認できている1882年版が初版の刊行だと思っています。この目録の記述が確かであれば、これまたおもしろいことになります。
 
 
 

2011年7月21日 (木)

血糖値をコントロールすることの難しさ

 以前からカロリーコントロールをしている糖尿病の件で、九段坂へ定期診断に行ってきました。
 胃を全摘出して以来、春先までは栄養を摂ることが最優先の食事をしていました。それが、消化活動が順調に機能しだした今春からは、食後の血糖値が急激に高くなりだしたのです。
 いろいろと、食生活には手こずっています。

 地下鉄九段下の駅を地上に出ると、田安門がある北の丸公園に出ます。そのお堀には、たくさんの蓮が花開いていました。
 ここは、いろいろな植物が四季折々にさまざまな姿を見せるので、通院の時の楽しみとなっています。今日は、台風一過の肌寒い1日でした。蓮も、一休みという雰囲気です。
 
 
 

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 さて、今日の血液検査の結果は、目に見えるほどではありませんが、少しずつとはいえ改善の兆しが見えるものでした。

 ほぼ毎日計測している血糖値の数値を記入したノートを、先生に見てもらいました。
 寝起きの数値は100前後で安定していることと、食後3時間の数値も100以下と順調であることを確認しました。ただし、食後2時間の数値が高すぎます。だいたい、食後1時間から1時間半の間が、一番血糖値が上がる時です。この数値が高いと、合併症を含めて何かと問題を起こすのです。

 血糖値の変化を見るのに、ヘモグロビンa1cの値が有効な物指しとなっています。
 今日も、診察前にあらかじめ血液検査をしていたので、その結果を見ながらの面談となりました。
 昨秋からの数値は、以下のように変化してきています。
 5.8%以下を目標とすることを求められています。

 2010.11.18 6.2%
 2010.12.10 6.2%
 2011.04.21 7.3%
 2011.06.02 7.1%
 2011.07.21 6.9%

 春先から少しずつ下がってきてはいます。この調子で、さらに食生活に気をつけて血糖値をコントロールをしていかなければなりません。

 先生は、前回から薬を使った治療を提案してくださっています。しかし、私の方から、それはもう少し待ってほしいと言い続けています。今日もそうでした。
 前回、もう1回様子をみましょうか、ということで今日になりました。そして、今日も先生は、薬を使うことを切り出されました。しかし、また私の方から、もう少しこのまま様子を見たいと申し出ました。急激に悪くなっているのではないこともあり、先生もそれではもう1回様子を見ましょうか、ということになりました。

 先生からは、食物繊維をもっと摂ることと、玄米食を心掛けたらいいとのアドバイスをもらいました。また、食後の散歩をぜひしなさい、と。
 京都にいる時には、毎日のように夕方になると賀茂川散策にでかけていました。しかし、東京での隅田川散策はあまり気が進まないので、つい歩く機会が減っています。
 賀茂川は歴史と文化と自然の中を歩くので、非常に快適です。それに引き替え、隅田川はマンションが屹立する川縁を歩くことになるので味気ないのと、時々川の匂いが気になるのです。

 とにかく、食後の散歩は私にとっては大事なことなので、これからは何とか東京でも心掛けることにします。

 今回も、貧血気味の数値を指摘されました。これは、ずっと言われていることです。特に治療をしているものではありません。しかし、毎回のことなので、これもいずれ何か対処をすることになりそうです。
 私の名前に「鉄」が付いている割には、鉄分が不足しているのです。
 40年以上も前に胃の3分の2を切除したことが、ずっと尾を引いているのでしょう。そして、昨夏以降は消化器をなくしたので、なおさら貧血の程度が顕在化したようです。

 1日の食事量が少ないので、いろいろと問題が出てくるのは仕方のないことです。しかし、できるだけ身体を動かし、消化活動が活発になるような生活スタイルを、1日も早く作りあげたいものです。

2011年7月20日 (水)

在英国・源氏画帖の情報(続12)

 ケンブリッジ大学のコーツ教授がお持ちの源氏絵(粉本)の紹介を続けています。
 今日は、昨日の「匂兵部卿宮」巻に続く第43巻「紅梅」です。
 
 
<紅梅(本文)>
 
 
 
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■左端に「四十三」とあります。「紅梅」は第43巻にあたります。
■用紙が上から5分の2の所で継がれています。
■用紙の右端に継ぎ跡が残っています。ただし、写真で見る限りは他の巻のように、そこに綴じ穴の跡は認められません。
■詞章は、『新編日本古典文学全集』(小学館)第5巻の48頁に該当します。
■『首書源氏』や『湖月抄』など、江戸時代の版本をまだ確認していません。いずれにしても、江戸時代の流布本によって本文が抜き出されていることは確かなようです。
 
 
  紅梅
花をおらせていそきまいらせ給いかゝ
はせんむかしの恋しき御かたみにはこの
宮はかりこそ仏のかくれ給ひにけむ
御なこりにはあなむか光はなちけむ
をふたゝひいて給へるかとうたかふさかし
きひしりのありけるをやみにまとふはる
け所にきこえをかさむかしとて
  こゝろありて風のにほはす
    そのゝ梅にまつ鴬の
        とはすやあるへき

 
 
<紅梅(粉本)>
 
 
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■右端上に「紅梅」と巻名が墨書きされています。これは、これまでになかったものです。
 そのすぐ下に、「四十三」とあります。「紅梅」は第43巻にあたります。
■用紙の上から6分の1と下から6分の1の所で継がれています。
■左端に綴じ穴の跡が4カ所認められます。
■絵は、紅梅大納言が匂宮に手紙を書いているところです。光源氏亡き後の匂宮の存在意義が語られています。手紙を匂宮に届ける役を担う殿上童の大夫の君が、宿直姿で右下に控えています。紅梅大納言は、娘の中の君を匂宮と結婚させたいと思っています。紅梅に託して、和歌の中の梅が中の君を、鶯は匂宮のことを言っています。手紙の紙は紅色です。粉本である絵の中で、手紙の所に「朱」とあるのが確認できます。これは、画家への彩色の指示です。
■この場面を絵画化した源氏絵は、この他にもたくさんあります。庭の紅梅がポイントとなる絵です。
 
 
 

2011年7月19日 (火)

在英国・源氏画帖の情報(続11)

 ケンブリッジ大学のコーツ教授がお持ちの源氏絵(粉本)の紹介です。
 前回の「幻」巻に続く第42巻「匂兵部卿宮」です。
 この巻の名前について、これまでは「匂宮」巻と言われることが多かったようです。しかし、最近では「匂兵部卿宮」巻と言うことが一般的になっています。
 
 
<匂兵部卿宮(本文)>
 
 
 
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■左端に「四十二(弐?)」とあります。「匂兵部卿宮」は第42巻にあたります。
■用紙が上から半分の所で継がれています。
■用紙の右端に継ぎ跡が残っています。ただし、写真で見る限りは他の巻のように、そこに綴じ穴の跡は認められません。
■詞章は、『新編日本古典文学全集』(小学館)第5巻の27頁に該当します。
■2行目下から3行目にかけての「いと」の「と」の「字母(仮名の元になっている漢字)は「東」です。前回の「幻」と同じように、このような文字を使うのは、鎌倉時代の写本ではよく見かけますが、江戸時代としてはめずらしい例と言えます。意識的に古い雰囲気を出そうとして、または少し凝った用字を心掛けて書いているようです。
■7行目中ばから行末の「やはらきすきて」は、他の本では「やはらきて」となっています。
 前回の「幻」巻の時も言及しましたが、『源氏物語』の本文は、おおよそ2つのグループに分かれます。この「匂兵部卿宮」巻でも、「やはらきすきて」とする尾州家本、陽明文庫本のグループと、「やはらきて」とする保坂本、大島本、言経本、麦生本、阿里莫本、東大本のグループが確認できています。ただし、後者のグループの言経本は、「やはらきて」の「て」をミセケチにしてその右横に「すきて」と書き直しています。これは、「やはらきすきて」と読まそうとしていることになります。つまり、前者の尾州家本、陽明文庫本のグループの本文を伝えようとしているのです。その意味では、この言経本は前者のグループに入れてもいいかと思われます。また、前者のグループの陽明文庫本は、他の巻が鎌倉時代の書写にかかるものでしたが、この巻は江戸時代に補写された写本を取り合わせているものです。
 ここでも、どちらが古いかとかいうのではなくて、『源氏物語』の本文はこのように2種類のものが伝えられていいる、ということが認められるのです。そして以上のことから、この源氏絵の詞書は、前者のグループに属する本文を書写していることがわかります。
 
 
  匂兵部卿宮
老をわするゝ菊におとろへ行ふちは
かまものけなきわれもかうなとはい
とすさましき霜かれのころほいまて
おほしすてすなとわさとめきてかに
   めつるおもひをなむたてゝこの
   ましうおはしけるかゝるほとに
   すこしなよひやはらきすきて
   すいたるかたにひかれ給へりと世
   人はおもひきこえ
           たり
 
 
<匂兵部卿宮(粉本)>
 
 
 
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■右端に「四十二(弐?)」とあります。「匂兵部卿宮」は第42巻にあたります。
■用紙が上から5分の2の所で継がれています。
■左端に綴じ穴の跡が4カ所認められます。
■匂宮は、薫の芳香に挑む気持ちが強く、すばらしい薫き物の香りを衣服に焚きしめるのでした。その、香りに執着する匂宮が、植物などが咲き匂う前栽を眺めやるところを描いています。
■この場面を絵画化した作例を、私はまだ他の源氏絵で確認していません。巻名とも関わる場面でもあり、あえてこの場面を取り上げたのはどのような意図によるものなのでしょうか。
 
 
 

2011年7月18日 (月)

台風の中をお茶のお稽古に

 昨日までの炎天下の祇園祭が嘘のように、今日の京都は朝から雨でした。

 上京する前に、平群へ娘と一緒にお茶のお稽古に行きました。
 何かと仕事が溜まっているので、行けるときに行くことにしています。

 京都の家から2時間。近鉄特急の車内では、幕の内弁当を食べました。
 雨は少し小止みになったのですが、元山上口駅に降り立った時から、また降り出しました。

 今日は、お薄のお稽古を2度しました。
 まだ、挨拶の仕方で戸惑っています。何かの動作をしながらの答礼は、本当に難しいものです。タイミングと加減がわからないのです。
 これもみな、場数をこなす中で、身についていくのだそうです。

 柄杓に手を伸ばしたり、釜にお水を差す頃合いなどなど、一通りの手順はわかっても、横からの先生の囁きが頼りです。

 手術後から身体の筋肉が落ちたためもあってか、立ったり座ったりしている内に、畳に押し付けられている骨が痛み出します。先週のお稽古の時と同じように、今日も足の骨がヒリヒリします。足腰を鍛えることも、今後は心掛けることにしましょう。
 百人一首のカルタ取りがそうであったように、お茶も体育会系の様相を呈して来ました。

 それでも、お茶を点てながら、少しずつ流れがわかってくると、おもしろくなってきます。新しい発見が多いのです。所作の意味を教えてもらって、なるほど、と納得です。
 知らなかったことがわかるようになり、断片的なイメージの一つ一つがつながった時の嬉しさは、とにかく格別です。それでいて、これを大事に忘れないようにしよう、と思うそばから、しばらくすると次の動作がわからなくなっていて慌てます。
 まさに、スポーツクラブのスタジオレッスンで、エアロビクスの振付の次がわからなくなり、しばし手足を止めて佇む瞬間に似ています。例えが変ですが……。

 まだまだ、ほんの入口に立ったばかりです。これからの長い道のりを、ささやかながらも一歩ずつ前に向かって進んでいきます。

 お稽古を終えて帰る時には、外は大雨でした。台風が近づいて来ているようです。先生が、元山上口駅まで車で送ってくださいました。大助かりです。

 京都駅で妻と待ち合わせをし、それまで一緒だった娘と別れて東京に向かいます。
 娘は、明日から大阪での新しい仕事につきます。フランスから先月帰って来てすぐに、日本での就職先が幸運にも決まったのです。イギリスとフランスの大学を終えたことは、遠回りをしたようにも思えます。しかし、海外で勉強したことが活かせる仕事が見つかったのですから、それもよし、ということでしょう。

 連休明けのせいか、新幹線は満員でした。
 東京駅は、西からやって来る台風を迎える嵐の前の静けさか、空はどんよりと曇った生暖かい風で蒸し暑い夜でした。
 ちょうど宿舎にたどり着いた頃には、ポツリポツリと大粒の雨が落ちて来出しました。
 
 
 

2011年7月17日 (日)

在英国・源氏画帖の情報(続10)

 ケンブリッジ大学のコーツ教授がお持ちの源氏絵(粉本)の紹介を続けます。
 前回の「御法」巻に続く第41巻「幻」です。
 
 
<幻(本文)>
 
 
 
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■左端に「四十一」とあります。「幻」は第41巻にあたります。
■用紙が上端と下から4分の1の所で継がれています。
■用紙の右端に継ぎ跡が残っており、そこに綴じ穴の跡が4カ所あります。
■本文の4行目下に、用紙の上からヘラのようなもので強く押された痕跡があります。これは、「梅枝」以降これまでと同じような状態です。
■詞章は、『新編日本古典文学全集』(小学館)第4巻の528頁に該当します。
■2行目上の「さかりに」の「さ」の字母(仮名の元になっている漢字)は「散」です。また、その下の「またしきも」の「も」の字母は「母」です。このような文字を使うのは、鎌倉時代の写本ではよく見かけますが、江戸時代としてはめずらしい例と言えます。古い雰囲気を出そうとして、または少し凝った用字を心掛けて、字母を散らして書いているようです。
■また、4行目下の「はなやかに」ということばは、他の本では「わかやかに」となっています。『源氏物語』の本文は、おおよそ2つのグループに分かれます。この「幻」巻でも、「はなやかに」とする陽明文庫本、大島本、言経本、尾州家本のグループと、「わかやかに」とする御物本、保坂本、麦生本、阿里莫本、国冬本、中山本、東大本のグループが確認できています。どちらが古いか、とかいうのではなくて、『源氏物語』の本文はこのように2種類のものが伝えられています。この源氏絵の詞書は、前者のグループに属する本文を書写していることがわかります。
 
 
  まほろし
きさらきになれは花の木とも
のさかりなるもまたしきもこすゑ
をかしうかすみわたれるにかの御かたみ
のこうはいにうくひすのはなやかになき
いてたれはたちいてゝ御らむす
 うへてみし花のあるしもなきやとにしらす
かほにてきゐる鴬とうそふきありかせ給ふ
 
 
<幻(粉本)>
 
 
 


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■右端に「四十一」とあります。「幻」は第41巻にあたります。
■用紙が上端と下から4分の1の所で継がれています。
■左端に綴じ穴の跡が4カ所認められます。
■描かれている場所は六条院とも考えられますが、二条院で2月のこと、と見ておきます。匂宮は、紫の上から西の対の紅梅を大切にするように、と遺言されていました。そのことを、しみじみと想い起こし、詩歌を口ずさむ光源氏が描かれています。
■図様としては、梅に鶯という取り合わせです。この後の桜を描く源氏絵が多い中で、紅梅を取り上げるのは少ないようです。
 
 
 

2011年7月16日 (土)

京洛逍遥(193)祇園祭と鱧-2011

 我が家の前の河原から見える、来月の送り火を待つ大文字も、そろそろその気分を漂わせるようになりました。
 
 
 
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 昨年の祇園祭は、今思い返しても忘れられない1日でした。
 あれは、ちょうど1年前の今日のことです。本ブログでは「2010年7月17日」に投稿していますが、実際にガンの告知を電話で受けたのは、2010年7月16日の朝でした。

「心身雑記(59)ガンの告知を受けた時の気持ち」(2010年7月17日)

 そして、その告知を受けた当日である2010年7月16日のブログでは、同じ日のことをまったく別の堺市へ調査に行った話でまとめています。最後の、鱧寿司を妻と食べたことだけが、上記の記事と時間的に重なっています。

「与謝野晶子の源氏訳自筆原稿「夕顔」等を確認」(2010年7月16日)

 早いもので、あれから1年が経ちました。そして、今、元気な毎日を送っています。
 命拾いをし、みなさまに感謝の日々です。

 今年も、コンチキチンで賑わう祇園祭に、妻と出かけました。
 
 
 
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 一昨年は「鯉山」の、昨年は「黒主山」のチマキをいただきました。今年は、「孟宗山」にしました。
 
 
 
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 この四条通り一帯には、32基の山鉾が立ち並んでいます。その中でも私は、我が家から南にまっすぐに下った、新町通の南観音山周辺が大好きです。子どもたちの明るい掛け声が、気持ちを晴れやかにしてくれます。
 
 
 
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 ここでは、「くろちく」という和装小物屋のバーゲンがあるので、それが楽しみだからでもあります。この新町通には、5軒も「くろちく」の店があるのです。
 
 
 
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 向かいにある蔵でのバーゲン会場に入る道も、京都らしくて好きな所です。
 
 
 
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 今年の収穫は、こんなものでした。
 まずは、恒例のブックカバーです。昨年買えなかった網代を施した黒地のブックカバーは、何とか手にできました。
 
 
 
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 次のたこ焼きパーティー用の竹皮皿は、ずっと探していたものです。また、おにぎりケースは、1日5食の食生活のため、日頃持ち歩くおにぎりを入れるのにちょうどいい大きさです。6個いただきました。
 
 
 
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 南観音山の回りには、魅力的な店が多いのです。竹田屋の屏風は、昨年も見せていただきました。
 
 
 
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「京洛逍遥(94)祇園祭と源氏絵屛風」(2009年7月15日)

 その隣で、洒落た扇子と紗のケースをいただきました。
 
 
 
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 今日は宵山です。どこから涌いて来るのか、多くの浴衣姿の男女が四条通周辺に大挙して集まっています。とてつもない文化が、こうして受け継がれていることには驚くばかりです。活気も熱気も、蒸し暑い夏を吹き飛ばす勢いがあります。

 これからも元気な日々が送れますようにと、三条通りを少し下ったところで、今年も鱧を食べて一息入れました。
 
 
 

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2011年7月15日 (金)

在英国・源氏画帖の情報(続9「御法」)

 ケンブリッジ大学のコーツ教授がお持ちの源氏絵(粉本)の紹介です。
 前回の「夕霧」巻に続く第40巻「御法」です。
 
 
<御法(本文)>
 
 
 
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■左端に「四十」とあります。「御法」は第40巻にあたります。
■用紙が上から5分の2のところで継がれています。
■用紙の右端に継ぎ跡が残っており、そこに綴じ穴の跡が4カ所あります。
■本文の5行目下から6行目下には、用紙の上からヘラのようなもので強く押された痕跡があります。これは、「梅枝」以降これまでと同じような状態です。
■詞章は、『新編日本古典文学全集』(小学館)第4巻の505頁に該当します。
■4行目後半の「しのひかたきを」の後に、「見いたし給ても」という本文を伝える写本と伝えない写本があります。
 陽明本・大島本・源氏物語絵巻詞書・麦生本・阿里莫本では、「見いたし給ても」(麦生と阿里莫は「も」を欠く)ということばを伝えています。これは、今にも死んでしまいそうな紫の上の様子に光源氏が絶えかねて、庭の風情をごらんになる、ということをいうことばです。
 私がこれまでに確認した諸写本では、このことばを伝えていない伝本は、保坂本・国冬本・東大本・尾州本です。
■6行目の中程に「御なみた」とある所は、諸本では「御なみたを」と「を」があります。この「を」がないのは保坂本だけです。ただし、保坂本は特異な異文見せる写本であり、この詞書との関連はほとんどないので、今は問題ではありません。
■この詞書の最後で「うへのみと」とある所は、諸本すべて「うへとのみ」となっています。ここは、この詞書を書いた人の単純な書写のミスだと思われます。
 
 
    御法
 をくとみるほとそはかなきともすれは
 風にみたるゝ萩の上露
けにそおれかへりとまるへうもあらぬよそへら
れたるおりさへしのひかたきを
 やゝもせはきえをあらそふ露のよにをくれ先たつ
ほとへすもかなとて御なみたはらひあへたまは
すみや
 秋かせにしはしとまらぬ
    つゆのよを誰か
     草葉のうへのみと
            みむ
 
 
<御法(粉本)>
 
 
 
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■右端に「四十」とあります。「御法」は第40巻にあたります。
■用紙が上と下の2箇所で継がれています。
■左端に綴じ穴の跡が3カ所認められます。
■紫の上が露のように消え果てる直前に、光源氏、明石の中宮と3人で唱和をする、感動的な場面が描かれています。
■この場面は、国宝源氏絵巻などでよく知られる図様です。ただし、前栽の秋草は、この源氏絵では特に重要な景物とはなっていません。
 
 
 

2011年7月14日 (木)

在英国・源氏画帖の情報(続8)

 ケンブリッジ大学のコーツ教授がお持ちの源氏絵(粉本)の紹介を続けます。

 前回の「鈴虫」巻に続く第39巻「夕霧」です。
 
 
<夕霧(本文)>
 
 
 
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■左端に「三十九」とあります。「夕霧」は第39巻にあたります。
■用紙が上から5分の1のところで継がれています。
■用紙の右端に継ぎ跡が残っており、そこに綴じ穴の跡が4カ所(?)あります。
■本文の3行目中程に右上から左下へ強く引かれた線の跡があり、6行目下には、用紙の上からヘラのようなもので強く押された痕跡があります。これは、「梅枝」以降これまでと同じような状態です。
■詞章は、『新編日本古典文学全集』(小学館)第4巻の472頁に該当します。
 
 
    夕霧
日たけてとのにはわたり給へりいり給より
   わか君たちすき/\うつくしけに
                 て
     まつはれあそひ給女君は丁のう
        ちにふしたまへりいり
               給へれと
 めもみあはせ給はすつらきにこそは
     あめれとみたまふもことはりな
         れとはゝかりかほにも
            もてなしたま
                はす
 
 
<夕霧(粉本)>
 
 
 
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■右端に「三十九」とあります。「夕霧」は第39巻にあたります。
■用紙が上から3分の1のところで継がれています。
■左端に綴じ穴の跡が4カ所認められます。
■夕霧が六条院から三条邸に帰って来ると、かわいい子どもたちがまつわりついて来ます。絵では、仲良く遊ぶ姿が描かれています。それに反して、左端の帳台の中の雲居雁は不機嫌で、夕霧とは目を合わそうともしません。ふてくされている雲居雁を夕霧はご機嫌取りにかかります。
■今、この場面を絵画化した源氏絵を、まだ確認し得ていません。
■4人の子どもたちが遊ぶ様子が興味深いと思います。
 
 
 

2011年7月13日 (水)

佐倉にある歴史民俗博物館で古筆を熟覧

 千葉県佐倉市にある歴史民俗博物館で、国文学研究資料館との交流フォーラムがありました。お互いに、大学共同利用機関法人 人間文化研究機構と国立大学法人 総合研究大学院大学に所属する兄弟組織です。しかし、イベントで共同開催などの協力体制はとっても、教職員レベルでの全体としての交流はあまりありませんでした。そこで、まずは風通しをよくしよう、というところからの今日の企画です。
 暑い中、成田空港に近い所まで行くのですから、その道中だけでぐったりです。しかし、実り多い1日となりました。

 博物館の中は、一般の観覧者が立ち入らない所は冷房が効いていないので、通路を間違えると行き倒れになります。案内してくださる方にしっかりと付いて歩き、博物館のバックヤードと言われている場所を見て回りました。

 展示資料の収蔵庫は、書籍や文書に留まらず、歴史民俗資料など広範囲に集められているので、大規模なものでした。階によって湿度と温度を変えて管理されており、その分類と整理の大変さが知られます。
 6年前に、学芸員の資格を取るための勉強をしていた頃を思い出しました。大切な資料を保存管理し、それを展示に活用する背景には、日々の調査研究を土台とした地道な苦労があります。
 ごくろうさまです、と頭が下がります。

 展覧会場も、今回の目的に関するものが展示してある一角は、展示担当の先生の説明で見せていただきました。
 私は、『源氏物語』の高松宮本といわれるものを、じっくりと見ました。今日は第43巻「紅梅」が出ていました。
 15世紀後半に書写された本です。複製本も刊行されており、これまでにも原本は何度か拝見しています。しかし、写本はその時々に様々な顔を見せます。

 今日は、この本が意外と小さいものであったことを、改めて認識しました。河内本というと、つい大型本を思い描いてしまうのです。この高松宮本は、尾州家本など他の河内本と呼ばれる本よりも、一回りも二回りも小さいのです。
 本の大きさは、その性格を知る上で大切な情報となるものです。

 その後、歴博ご所蔵の高松宮家伝来の禁裏本などを、別室でじっくりと拝見しました。
 大型の和歌懐紙を貼り込んだ御手鑑は圧巻でした。後水尾天皇や近衛信尋のものなどなど、風格のある手で大きな懐紙に和歌が書かれていました。見るだけで、いい勉強になります。贅沢な時間の流れに身を置くことができました。

 文学研究の基本は、とにかく原稿・原典・原本を見ることだ、と思っています。
 熟覧の手配をしてくださったみなさま、ありがとうございました。
 
 
 

2011年7月12日 (火)

完治という嬉しいことば

 3ヶ月ほど前から、ノドが痛くて微熱があったので、風邪だと思って内科にかかっていました。しかし、それがなかなか良くなりません。
 しばらくしてから耳鼻咽喉科で診てもらったところ、原因が鼻から来るものであることがわかりました。

 今からちょうど25年前に、鼻の手術をしました。鼻中隔彎曲症と診断され、大阪の赤十字病院に2週間ほど入院し、大変な思いをした経験を思い出しました。

 今回診て下さったお医者さんに、かつて手術が大変だったことを話すと、今はいい薬が開発されているので手術をしなくてもいいはずだ、とのことでした。それを聞いて安心し、すべてを任せることにしました。

 実際には1ヶ月間、2種類の飲み薬とスプレーを使って、1日たりとも忘れることなく真面目に治療に専念しました。
 その甲斐があって、今日の診察ではファイバーカメラを使って内部を確認してから、完治しています、と宣言してくださいました。

 お医者さんから、すっかり良くなったと言われるのは、本当に嬉しいものです。
 肩の荷が下りて、気分も軽くなります。
 まだまだ、モグラたたきのような闘いが続きます。一喜一憂を楽しみながら、自分の身体と付き合っていくことにします。
 
 
 

2011年7月11日 (月)

古都散策(33)平群でお茶のお稽古

 バタバタするだけの日々の中で、やっとお茶のお稽古に行くことができました。
 去年、初めてお稽古に来た日も、焼けるような暑い昼でした。

「お茶のお稽古を始める」(2010年7月25日)

 今日も昨年と同じように、ジリジリと照りつける近鉄生駒線の元山口上駅に降り立ちました。
 相変わらず、単線の駅です。
 
 
 
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 千光寺から流れてくる川上へ、小豆と白色の車体を見せて、ワンマンの電車が生駒へ向かって走って行きました。
 眼下に流れる川は龍田川です。ここは上流なので、こんなに細い川筋です。大和川に合流する下流では、モミジに彩られる名勝の地となるのです。
 
 
 
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 4年前まで24年間も住んでいた若葉台は、目の前の森のさらに奥の山の中にあります。
 
 
 
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 毎日、この山を上り下りしていた頃を懐かしく思い出します。
 この地にお茶のお稽古に来るのは、この山の中で3人の子どもを育て上げた、楽しい思い出に浸れる時でもあります。

 今日は、盆略手前を2度ほどおさらいした後、お薄のお手前に初挑戦となりました。
 昨日と一昨日は、京都の家で、娘に盆略手前の復習をしてもらいました。
 とにかく、忘れています。あっ、あっ、と言いながら、おっかなびっくりで手を伸ばしながら、すぐに引っ込めたりと、頭の中がぐるぐると回る中を、何とか手順を思い出しました。
 そして今日は、先生からいろいろと指示を受けながら、どうにか一通り終えることができました。ということにしておきましょう。

 初めてお薄を点てるために、お茶碗やお柄杓を持って部屋に入ります。
 釜の前は、思っていたよりも炭火の熱さを感じました。
 そして、釜の蓋を取るとき、男は素手でということなので、思い切ってやってみました。熱いのなんの……。何度かやっているうちに、慣れていくものだそうです。それを信じるしかありません。

 四角い塗り箱の中のお水を鉄釜の中に入れたり、夏らしく水の音をさせたり、ガラスのお茶碗があったり、いろいろな趣向があって楽しいお稽古でした。

 最後に、お棗やお茶杓の作者や銘などを訊ねられ、それに応える練習もおもしろいものでした。これまでに何度も見ていたのですが、実際に自分がやる段になると大変です。お茶杓の銘などは、季節を先取りした言葉を使う練習です。私などは、『源氏物語』に出てくる人物や巻名などを応えたらいいとのことです。それなら、四季折々に雅なことばが出てきます。おもしろい遊び心を楽しめそうです。

 畳の上で膝を折ったままで向きを変えたり移動するたびに、足が痛みました。
 つい、畳に手を突いて身体を動かすことになります。これは、よくないようです。
 元来が痩せている上に、昨年の手術後は足腰の筋肉が痩せ細ったこともあり、畳と接する骨が痛むのです。これは、お尻の下に置く小さな椅子を活用して、何とか和らげたいと思います。

 終わってからの雑談で、一昨日の大徳寺でお薄を我流で飲んでおられた方の話をしました。先生は、いろいろな流派があることや、自分がいただくことだけを考えたらいいと仰っていました。
 そうでした。自分の知っていることだけで相手を批判的に見てもいけないし、いろいろな流儀があるので、先ずは自分のことに専念することは、確かに賢い心構えです。
 昨日のブログで、この大徳寺での出来事を批判的に、偉そうに書いてしまいました。改めて、少し反省しています。

 帰り道では、ひんやりと涼しい風が肌に心地よく感じられました。山の中ならではの、きれいな空気であり、爽やかな風です。
 こんなにいいところにいたのか、という想いを新たにして、生駒、西大寺、京都経由で、高層マンションが立ち並ぶ東京に向かいました。

 ここ数日は、夏の日差しを和らげながら流れる賀茂川を散策しました。
 今日は、懐かしい龍田川の川筋を眺めました。
 そして先ほど、高層マンションが夜空に屹立する隅田川沿いの宿舎に到着しました。
 明日のお昼には、九段坂病院での診察があるために、皇居の北側のお堀端の田安門から千鳥ヶ淵を通ります。
 偶然ですが、結果的に景勝の地を経巡る日々になっていることを、こうして大いに楽しんでいます。
 
 
 

2011年7月10日 (日)

京洛逍遥(192)大徳寺の鉄鉢料理と京都駅南口の回転寿司

 今年の京都は、殊の外暑く感じられます。
 昨年の8月末に手術をしてから初めての夏、ということが多分にあります。食事に日々苦労していることもあり、暑さが身に堪えます。

 そんな折も折、先週末に自宅に帰り、久しぶりにエアコンをつけたところ、まったく冷たい風が出てきません。このエアコンは、昨年の手術を控えた8月2日に、新たに私の勉強部屋に取り付けたものです。近所のソニーショップの電気屋さんで購入しました。ソニー製ならいいのですが、残念ながら東芝製です。

 このエアコンのスイッチを入れるのは、昨年の秋以来でしょうか。車のクーラーは、長持ちさせるためにも時々スイッチを入れてコンプレッサーを動かした方がいい、と聞いたことがあります。家庭のエアコンも、同じことなのでしょうか。

 とにかく、購入して1年にもなりません。正確には、あと3週間でちょうど1年です。その、スイッチを入れたことがほとんどないエアコンが、生温い風しか送ってきません。早速電気屋さんに連絡をして、状態を見てもらいました。ガスは大丈夫なので、室外機の熱交換機がおかしくなっているのでは、とのことでした。早速東芝に修理の連絡をしてくださいました。来週、東芝の方が直しに来られるそうです。
 東芝の製品では、春先に炊飯器がおかしくなりました。短い寿命の炊飯器でした。

「3年で壊れた炊飯器」(2011年2月25日)

 今回は、それこそほとんど使う機会のなかった、1年未満のエアコンが不調です。
 機械などは、ちょうど保証期間が過ぎた頃に壊れることが多いものです。しかし、今回は珍しく、保証期限の1ヶ月前に壊れていることがわかりました。幸運だったというべきでしょうか。それにしても、またもやチャチな製品を手にしたものです。家電量販店で処分品を買ったわけでもないのに、またもや欠陥商品が届けられたことになります。
 今、扇風機を2台使って、熱中症に気をつけながらこの文章を書いています。

 京都の自宅は、賀茂川に沿って南北に長いこともあり、風が家の中をよく通ります。そのため、他の部屋にエアコンは1台しかありません。古いものが他に2台ありますが、それは最初からこの家に付いていたもので、燃費も悪そうなので使うことはありません。もう1つのエアコンは、賀茂川からの風の通りが悪いときに使っています。
 今日は風がないせいもあって、とにかく蒸し暑いのです。

 一時の涼を求めて、大徳寺大慈院の中にある精進料理屋さん「泉仙」にお昼ご飯を食べに行きました。
 ここは、手軽に精進が食べられます。
 昨年の夏には、榎木伊太郎さんの会席料理についての講演を4回すべて聞き、有意義な勉強をしました。

「精進料理の思想を学ぶ」(2010年7月31日)

 その時の知識があるので、今日は興味深く料理をいただきました。
 「泉仙」は観光客を意識したお店なので、榎木さんのところとは雲泥の差がありそうです。しかし、和の香りの中に身を置けるので、気分だけは日本的な夏を満喫できます。

 「泉仙」は京都に何軒かあります。京都駅前にも2軒あります。
 
 
 

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 その中でも、私は大徳寺境内の大慈院が好きです。
 
 
 
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 今日も、海外からの方が目に付きました。斜め向かいには、フランス語を話されるお二人がおられました。
 ふっと横のテーブルを見やると、最初に出されたお薄を、何とも無粋に飲む日本のご婦人二人が目に入りました。ビールのジョッキを飲み干すようにして、抹茶茶碗を豪快に口に当てて飲まれるのです。お一人の方は片手でした。向かいのフランス語を話されるお二人が、マナーを守ったお薄の頂き方をなさっていただけに、日本人としてこれでいいのか気恥ずかしくなりました。
 明日は、奈良の平群にお茶のお稽古に行きます。久しぶりなので、今朝は娘に稽古を見てもらっていたので、なおさらこのお二人のお茶の飲み方が気になりました。
 知らない、ということは恥ずかしいことではありません。しかし、時と場合によっては、見たくない姿をさらけ出します。ご本人は気にしておられないようです。しかし、はたから見るとみっともないことこの上なし、という情景が展開されているのです。知らない、ということの強みでもあります。しかし、無知の披露ということは、しないに越したことはありません。知っているからといって偉そうに言うのではなくて、こんな機会に日本の文化や伝統について知るきっかけにでもなればいいのですが、そのようなことをこんな年配の女性にアドバイスをする人がいるはずもありません。

 私の回りには、海外の方で江戸時代の版本などをすらすらと読む方が何人もいらっしゃいます。墨で書いた文字が読めない日本の若者と一緒の時などは、日本にいる者として穴があったら入りたい、という気持ちになります。
 知っているか知らないか、心得があるかないかということは、目に見えて確認できる場合は特に、どうしようもありません。しかし、そのどうしようもないようなことを、何とか少しでも身につけておくのが、これも教養の1つといえるのではないでしょうか。

 日本語と日本文化を次の世代に伝えて行くことは、根気強さと粘り強さ、そしてその背景となる環境も必要です。自分の身の丈にあった生活の中で、こうしたことを若い方々に語り、そして実践として伝えていきたいものです。
 
 
 
 駄弁はこれくらいにして、料理を紹介します。
 
 
 
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 そして、食事が終わったら、鉄鉢をしまいます。
 この、食器がピッタリと収まるのが快感です。
 みんな、この完成形を見て、満足感を覚えます。
 食事で、こんな遊びができるのです。
 
 
 
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 夜は、娘の婚約者と待ち合わせをして3人で、京都駅南口にあるショッピングセンターでお寿司を食べました。それも、回転寿司です。
 このお寿司屋さんは、このショッピングセンターがオープンした昨年6月には、まだ工事中でした。

「京洛逍遙(146)京都駅南のイオンモール」(2010年6月 8日)

 それ以降、行く機会がないままになっていたので、これを機に行ってみました。
 活気があり、メニューも豊富で、おいしいお寿司でした。ポン酢がなかなか出てこなかったのが、唯一の不満です。東京ならいざ知らず、関西でポン酢に反応しないとは、経営者は関西人の嗜好をまだまだ勉強不足のようです。さらなるマーケティングリサーチをしておかないと、ここでは生き残っていけないことでしょう。雰囲気のいいお店だったので、健闘を祈るのみです。
 私の京の回転寿司マップに、また1つ行き先が増えました。経営者は関西人ではないようなので、ここで勉強をしながら長く続けてほしいと願っています。
 
 
 

2011年7月 9日 (土)

京洛逍遥(191)四条で講演を聞き千本釈迦堂の陶器市へ

 京の街中では、今年も7月に入ってから、祇園祭の準備が始まっています。
 四条烏丸から四条大橋へと続く約1キロの四条通アーケード下には、祇園祭を盛り上げようと提灯約600個が、今年からお目見えです。
 
 
 
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 この「祇園祭提灯回廊」は、京都市立芸術大の小山格平教授がデザインなさった堤灯です。
 今年の祇園祭は、さらにいい雰囲気の中を散策できます。
 また、この四条通りでは、無料の無線LAN が試行されています。ますます楽しい通りとなりました。

 この四条烏丸の交差点角には、仏教大学の四条センターがあります。ここでは、一般市民のための公開講座が開かれています。昨年の今頃、京料理の榎木伊太郎さんの講座を受けました。
 今日は、知恩院の「おてつぎ文化講座」があったので参加して来ました。

 浄土宗総本山のあの有名な「知恩院」では、元祖法然上人の教えのもとに「おてつぎ運動」を展開しておられます。その一環として毎月「おてつぎ文化講座」がこの四条センターで開催されているのです。45年も続く講座です。

 今日は、「第532回『御先祖様に導かれて』」と題するもので、講師は団扇の「小丸屋」十代目女将である住井啓子さんでした。
 節電が叫ばれている折、東京の職場などで団扇が配られました。
 今日の会場の受付でも、仏教大学の団扇が配布されていました。柄と骨はプラスチックです。しかし、絵柄が祇園祭らしくて気に入りました。
 
 
 
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 最初の30分ほどは浄土宗の歌唱指導がありました。我が家は曹洞宗ですが、私は宗教にはあまり拘らないので、法然さんの浄土宗も仏教という括りの中では仲間です。久しぶりに、楽譜を見ながら歌を唄いました。
 今年は、法然上人の800年大遠忌なのです。会場に集まっておられた多くの方々は、みなさん大きな明るい声を出しておられました。

 その後、1時間ほどが住井さんのお話でした。
 最初は、「小丸屋」さんでの団扇造りを紹介するビデオでした。初めて見る仕事場の様子に、興味を持ちました。竹と紙、そして絵柄の組み合わせの妙がおもしろかったのです。

 住井さんのお話は、人との縁をテーマにしたものでした。
 私はてっきり、団扇造りにおけるご先祖様からの技術と文化の継承の話だと思って参加しました。しかし、実際には、ご自身の家族における病気などの体験談に終始しました。病気と幸運について語られたのですが、手元に何も資料がないので、ただ耳を傾けてお話を伺うしかありません。
 これは、よほどの話術が要求されます。私的なところからお話が拡がることがなかったので、正直なところ私は退屈でした。申し訳ないのですが、ご家族との苦労話に何十分もお付き合いするのが苦痛でした。

 最後になって、ご家族が亡くなられる時の話で涙ぐまれ、声を詰まらせて絶句なさいました。間もなく気分を切り替えて、深草うちわの後継者ができた話で終わられました。
 お話を伺いながら、講師が感極まっておられる状態に、拝聴する身としては困惑せざるをえませんでした。
 人前でお話をすることは、本当に難しいものだということを教えられました。

 帰り道、千本釈迦堂(大報恩寺)で陶器市があったので立ち寄りました。
 
 
 
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 ほしいものがたくさんありました。しかし、東京に持って行くのが大変なので、じっと我慢です。
 京洛最古の古建築である国宝の本堂で、突然でしたがゆるキャラ三姉妹が現れました。浅井家の茶々・初・江でした。
 ここで何があったのかは知りません。京都では、毎日どこかで何かがあります。
 国宝の本堂であることをすっかり忘れて、とにかくシャッターを押しました。
 
 
 
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 夕食では、京都らしさと体調を考えたものにしました。
 「スッポン粥」と「鱧水仙」です。
 
 
 

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 スッポンは、体調を回復するためにも、息子から食べるように言われています。
 鱧は、私の大好物です。しかし、東京ではほとんど見かけないのです。
 祇園祭りと鱧はつきものです。
 京都の夏を満喫しました。
 
 
 

2011年7月 8日 (金)

藤田宜永通読(11)『愛ある追跡』は駄作です

 藤田宜永が『オール讀物』に2008年から9年にかけて、全4回に分けて発表した小説が、新作『愛ある追跡』(文芸春秋、2011年6月)として刊行されました。
 
 
 
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 雑誌に発表された時には読まなかったので、今回まとめて一気に読みました。
 読み終わってみて、これは藤田宜永の代表的な駄作であるとの思いを強くしました。
 藤田は、ハードボイルド物で華々しく活躍した初期から、しだいに純愛物へと舵を切りました。しかし、その転向で大きく躓き、そこから抜け出せないままに、本作でも持ち味を発揮できずに終わっています。
 人間は成長するはずなので、その過程を共有することを楽しみにしていました。しかし、この藤田の堕落ぶりは、どうやら私が藤田のかつてのよき時代に拘っているために、作風を変えた今の良さが見えないのでは、ということだけではすまないほどの重症のようです。今回のような文筆家とは言えない不出来な文章は、1冊にまとめるときに構成を考えながら大幅に書き直すべきだったのです。特に、第4章は目を覆いたくなるほどの愚作です。
 「連作ミステリー」と帯に書いてあることに釣られて本書を手にしてはいけません。
 私にとっては、衝撃的とでも言うべき凡作以下の連作を読まされることになりました。以下に読書の記録として、素直に思いつくままにメモを残すことにします。
 
 
■「男の総決算」
 
 殺人事件の容疑者となりながらも、「殺っていない」と言って逃亡を続ける娘を探し求める獣医師の父が主人公です。
 舞台は、横浜と渋谷。父は、得た情報から風俗に潜り込んでまでして、娘を探し続けているのです。
 近年の藤田の小説は、職業の特殊性を絡めて展開させることが多いようです。
 その仕事の内容に関連させることに注意が向き過ぎることもあり、背景の描写がスポット的となりがちです。話が小ぢんまりと手繰り寄せられる点が目立つので、読みながら物足りなさを感じます。
 藤田の小説には、じっと耐えて自分を自制する男がよく描かれています。そして、思考の中に踏み留まることで、物語を客観的に見つめる人物を設定しています。しかし、それが私にはかえって、藤田の小説を面白くないものにしているように思えてなりません。
 父親が警察に尾行されているところで、行方不明の娘とのすれ違いがあります。読者をハラハラさせて、スーッと話は萎みます。
 まずは序章というところのようです。この続きがどうなるのか、期待させます。【2】
 
初出誌︰『オール讀物』2008年2月号
 
 
■「愚行の旅」
 
 舞台は、三重県伊勢市に移ります。
 3人の男の息詰まる駆け引きは、一人の男が拳銃を持っていることで緊迫感があります。ただし、なぜこの場面に拳銃なのかは、説得力に欠けています。宮入が撃たれたことも、その原因をもっと書いてほしいところです。
 藤田らしい荒唐無稽な展開が、久しぶりに少しだけ味わえました。しかし、抑制が利き過ぎていて、読後感は消化不良のままです。
 話に膨らみがほしいと思いました。ストレートな表現で読み易い分、読者の情感に残るものが乏しいのです。
 話の展開はおもしろいので、そこに心情と情景の描写が丁寧になされていたら、と残念な思いで話の続きを楽しみに待つこととなります。【2】
 
初出誌︰『オール讀物』2008年7月号
 
 
■「じゃじゃ馬」
 
 舞台は、石川県白山市に飛びます。
 殺人の容疑者にされている娘の逃亡と、獣医である父が馬の病気を治す話が、ほとんど結びつきません。発想に無理があるのです。
 2つの話は、それぞれに面白いのです。馬の病気など、知らない知識に引き摺られながら、それで物語は、と思うと白けるのです。
 接点が見出せないままに、話は強引に収束していきます。しかも、人間関係が雑に扱われているような印象も残ります。
 第2話までのささやかな期待が、失望へと堕ちて行きました。さらには、最後はどうまとめるのだろう、という変な期待と楽しみで、連作の終章への思いを馳せます。
 なお、165頁と211頁に寒月のことが出てきます。突然自然がとりあげられるのです。この月に関する描写も、もっと丁寧に扱ってほしいと思いました。【2】
 
初出誌︰『オール讀物』2009年2月号
 
 
■「再出発」
 
 舞台は、群馬県安中市に移ります。
 娘がここでコンパニオンをしているという情報が入ったため、父はここで娘を捜すことになります。しかし、話は盛り上がらず、退屈なままに萎むように終わります。
 最後に大転回を期待していました。が、それも空振りで、結局は駄作に付き合ってしまった悔いが残っただけです。
 かつての藤田らしいパワーは望むべくもないとしても、近年の恋愛もののだらだら感すらないという、詐欺にあったような読後感です。
 藤田は私とほぼ同い年です。こんなに早く潰れてしまっては、これまで作品を楽しみにして読み、応援してきた甲斐がありません。
 一日も早く、読者を唸らせる作品が書ける作家としての復活を、今はただ願うのみです。
 娘の容疑は晴れていません。また、さまざまな不可解なことが、この1冊の本の中ではほとんど解決していません。そうだからといって、もしこの続きをさらに書き継ごうということならば、それはもう辞めた方がいいですよ、と言うしかありません。今の藤田には無理だからです。【1】
 
初出誌︰『オール讀物』2009年6月号
 
 
 

2011年7月 7日 (木)

日本図書館協会の選定図書に選出されました

 本年5月に刊行した『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」 第1集』(伊藤鉄也編、282頁、新典社、2011年5月)が、この度、日本図書館協会の選定図書(全国の各種図書館・読書施設が、図書を選定・購入するときの参考となるよう、選定委員会において選出された書籍)に選出された、との連絡が入りました。
 
 
 
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 これまで私は、いわゆる専門的な書籍しか刊行してこなかったので、こうした一般書としての評価はあまり受けてきませんでした。
 その意味では、日本図書館協会によって選定された『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」 第1集』は、一人でも多くの方々に『源氏物語』の本文研究の実情を知ってもらおうとして編集した本なので、非常に名誉なことだと喜んでいます。
 この本に関わって下さった執筆者の方々と出版社に、改めてお礼を申し上げます。

 現在、第2集の編集の準備を始めています。
 さらに多くの方が読んで下さるように、わかりやすい編集を心掛けたいと思います。

 今日は、もう1つ私が刊行した本に関する連絡がありました。
 それは、『海外における日本文学研究論文 1+2』(伊藤鉄也編、303頁、国文学研究資料館、2006年3月、非売品)(科学研究費補助金(基盤研究(B))研究成果報告書;2003〜2005年度)について、海外から入手の依頼があったことです。
 
 
 
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 この本については、先月も海外の大学図書館から入手の問い合わせがありました。
 これは科研の報告書です。そのため、そのほとんどを配布してしまい、私の手元にはいくらも残っていません。
 海外からの問い合わせには、可能な限り対応しています。しかし、日本国内に関しては、各図書館に寄贈しているので、もう配布できない状況にあります。

 その内容は、海外で公開された日本文学に関する研究論文を、中国語・チェコ語・英語・フランス語・ドイツ語・ハングル・日本語・ポーランド語・ロシア語の各言語に分け、国文学研究資料館から公開している国文学論文目録データベースの分類基準を当てはめて情報を整理したものです。この手の資料集は、意外となかったのです。海外および日本におられる留学生の方々からは、非常に重宝するハンドブックだと好評です。
 この続編となる『海外における日本文学研究論文 3』を作成する機会がありましたら、『海外における日本文学研究論文 1+2』のデータも収録するつもりです。今はそのメドがたっているわけではありませんが、いつか実現したいと思っていますので、しばらくお待ちください。
 
 
 

2011年7月 6日 (水)

酒田市の井上靖文学碑「氷壁」

 井上靖の文学碑は、全国に56基あるとされています。

「井上文学碑 建立年代順一覧」・「都道府県別一覧」

 関東以北には、北海道旭川市(2基)、青森県下北郡、宮城県遠田郡、秋田県雄勝郡、そして山形県酒田市にあります。それから南では、東京まではないのです。

 さて、その文学碑の56分の1を見てきました。
 これまでに、奈良・唐招提寺の碑と、鳥取県・日南町の碑は紹介しました。
 
「古都散策(30)『天平の甍』の文学碑」(2009年11月13日)
 
「井上靖ゆかりの日南町(2の2)」(2009年12月14日)など数回
 
 それに、今回の碑が加わります。これまで、あまり文学碑めぐりはして来なかったので、これを機会に意識して巡ってみたいと思います。

 酒田市の井上靖文学碑は日和山公園内にあり、『氷壁』をテーマとするものでした。
 今回、光丘文庫を訪問した後、下日枝神社から随身門を潜って通りに出たすぐのところに、海を見るようにして建っていました。
 
 
 

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場所︰山形県酒田市南新町一丁目 日和山公園入口
年月︰昭和60年4月20日
建立︰酒田市教育委員会

 『氷壁』は、主人公魚津の親友である小坂乙彦が穂高で滑落して亡くなるという、登山に関する小説です。ナイロンザイル切断事件で有名な作品です。
 その小説の文学碑がここにあるのは、亡くなった小坂の実家が、作品中で酒田市に設定されているからです。そして、魚津が酒田へ行く場面は、『井上靖全集』で6頁にもわたって語られています。
 碑文には、魚津が小坂の実家を訪ね、日枝神社の境内を小坂の妹のかおると一緒に歩く場面が刻まれています(『井上靖全集 第十一巻』504頁)。日枝神社は、ちょうど今回行った光丘文庫の裏にあたります。
 
・中央の【石碑】


風が海から吹きつけているので
ひどく寒かった 丘陵には松が多
く 松の幹の海と反対側の面にだ
け雪が白くくっついている 二人
は丘陵の上を斜めにつっ切って
日枝神社の境内へとはいって行っ
た 公園にも人の姿は見えなかっ
たが 土地の人が山王さんと呼ぶ
この神社の境内にも 人の姿は見
えなかった 境内にはいると地面
には雪が積っていた。
      井上靖(自筆)「氷壁」より

 
・右横の【板碑】

     井上 靖
明治四十年(一九〇七)北海道旭川
に生まれる。京都大学哲学科卒業
後、毎日新聞社に入り、昭和二十
四年(一九四九)「闘牛」で芥川賞を
受賞。文壇に登場してからは「憂
愁平野」「氷壁」等の叙情性ゆた
かな中間小説を次々と発表した。
また「天平の甍」「敦煌」等、大陸も
のの歴史小説を手がけ、高い評価
を受けている。日本芸術院会員。
昭和五十一年文化勲章受賞。

 
・左下の【石碑】

  井上 靖
明治四十年(一九〇七)
北海道旭川で生れる。京都
大学哲学科卒業後、毎日新
聞社に入り、昭和二十四年
(一九四九)「闘牛」で芥
川賞を受賞。文壇に登場し
てからは「憂愁平野」「氷
壁」等の叙情性ゆたかな中
間小説を次々と発表した。
また「天平の甍」「敦煌」
等、大陸ものの歴史小説を
手がけ、高い評価を受けて
いる。日本芸術院会員。昭
和五十一年文化勲章受賞。

 『氷壁』は、映画化が1度、テレビでは3度もドラマ化されています。映画の時に酒田市でロケが行われているようです。小坂の生家として、江戸時代の酒田を代表する廻船問屋だった「旧鐙屋」が使われたとか。もう一度映画を見るのが楽しみになりました。

 なお、この井上靖の文学碑のすぐ近くに、松尾芭蕉の碑もありました。芭蕉像は、日下部幸四郎氏の作品だそうです。石碑には、「暑き日を海に入れたり最上川」(昭和54年、酒田ロータリークラブが健立)とあります。
 芭蕉と井上靖が並ぶのも、異質な組み合わせで、なかなか楽しい空間となっています。
 この周辺には、文学碑が非常に多いので、時間があれば散策に最適です。
 
 
 

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2011年7月 5日 (火)

山形県酒田市立光丘文庫の最終調査に来て

 久しぶりに東北へ来ています。
 結婚した当初は、毎年のように、夏になると妻の実家がある秋田へ帰省していました。しかし、二十数年前に父が亡くなってからは、自分の家のお盆のことがあり、なかなか行けなくなりました。妻と子供だけは、お盆明けに帰省していました。

 妻の実家は、松本清張の『砂の器』で有名になった、羽後亀田に隣接する羽後岩谷にあります。
 私の生まれは、島根県出雲市です。ここも、『砂の器』の舞台です。
 我々はまさに、『砂の器』で調査を迷走させた、あのよく似た方言を持つことで知られることになった、日本海側の遠く離れた世界に育ったのです。
 お互いの両親が、私たちの結婚を契機として、共にズーズー弁で会話が成り立っていたのを目の当たりにして、柳田国男の「方言周圏論」を実感したものです。
 そして今、あの『砂の器』でズーズー弁の謎を解くカギを渡した国立国語研究所の先生と一緒に、アメリカに渡った『源氏物語』の写本の調査・研究・公開の仕事をしています。『砂の器』は、幾重にも私とは縁の深い作品です。

 それはさておき、今回は、山形県酒田市にある光丘文庫へ、所蔵資料の最後の写真撮影の立ち会いと、収集させていただいたマイクロフイルムなどの画像資料の公開に関するお願いで来ました。

 新幹線「とき」で東京から新潟へ来て、そして特急「いなほ」に乗り換えました。東京の宿舎から6時間の旅です。最近は天変地異で予想外のことがあります。出張中の東北地方の天気は強い雨、ということも手伝って、いつでも引き返せる無理のない態勢と行程を組んで来ました。

 新潟までの車中は、節電のご時世にしては贅沢なことに、寒くてジャケットがいるほど冷房がガンガンよく効いていました。新幹線対策として上着を持ってきてよかった、と思いました。

 東京での単身生活も、今年で13年目になりました。今年からは妻が仕事を辞めて上京し、私の健康管理をしてくれているので、単身赴任の生活は12年でした。しかし、今でも宿舎にはエアコンはありません。十年以上、扇風機だけの生活です。それだけに、毎週京都へ帰る新幹線のクーラー対策には、いろいろな工夫をしていました。
 今回、久しぶりに東北行きで乗った新幹線も、東海道と同じようにクーラーが異常なまでによく効いていました。クーラーに親しんでいない身には、この冷気は身体を気だるくさせます。日本人は、いつまでもこんなことをしていていいのか、疑問を感じます。

 罰金100万円に脅されて、15%の節電目標に真剣に取り組む人々をあざ笑うかのように、新幹線はクーラーを目一杯効かせて疾走していました。JRは、電力不足などどこ吹く風と、相変わらず強気のようです。
 新幹線は、自家発電で走っているのでしたっけ?
 それにしても、車内の照明も間引くことなく、すべて点きっぱなしです。このご時世に、お殿様感覚でこんな営業をしていて、本当にいいのでしょうか。昔の国鉄体質の残滓を見た思いです。

 東京の中央線などでは、車内の電気が消されるのです。私の通勤時間は1時間50分もあるのに、本が自由に読めない始末です。その点では、新幹線は特別料金を払っているので、こうした厚遇がなされているのでしょうか?
 それにしても、節電キャンペーン以前の問題として、この新幹線のエネルギー資源の浪費は無駄の極みです。

 さて、酒田の駅は、非常に明るくて華やかでした。
 
 
 

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 しかし、それに反して駅前通りは活気が感じられませんでした。賑やかなのは、少し離れた一角だけのように見えました。まだ他に活気のある地域があるのでしたら、お許しください。

 駅前の閉店の多い通りを歩いて抜けると、山王森の高台に酒田市立光丘文庫があります。
 まずは、光丘神社にお参りをし、それから光丘文庫に行きました。
 
 
 

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 この建物は、大正14年に竣工したものです。左右に翼を拡げた社殿造りで、玄関の破風はその存在感を誇らしげに示しています。来館者を圧倒する偉容です。しばし、魅入ってしまいます。

 文庫長の後藤さんの案内で、書庫も拝見しました。本間家に伝わった和漢の古典籍など、8万冊にも及ぶ貴重な書籍が収蔵されています。木製の書架に並ぶ本は、まさに圧巻です。一人でも多くの方が、こうした資料をさらに有効に活用されることが望まれます。

 国文学研究資料館による光丘文庫の資料調査とマイクロフィルムによる収集は、昭和48年から今日まで続けられたことになります。約1700点にも及ぶ調査を踏まえて、収集点数が約1600点、マイクロフィルムで575リールとなりました。
 これまでに、この光丘文庫の調査に関わってこられた多くの先生方のご苦労があったからこそ、こうして最後の調査を迎えることができたのです。お一人お一人のお名前は列記しませんが、その精力的なご努力に対して頭の下がる思いでいます。

 調査の終了と共に、この貴重な資料をネットで画像を公開することについて、光丘文庫文庫長である後藤さんと酒田市立図書館館長の小松さんに、協力のお願いをしました。お二人からは、非常に理解のあるお返事をいただき、早速資料公開のための手続きに入ることになりました。有り難いことです。これで、誰でも居ながらにして、インターネットを通して光丘文庫の資料が閲覧・確認できるのです。

 今後とも、光丘文庫で所蔵されている資料が多くの方に活用されることでしょう。そして、その評価も高くなることでしょう。
 この光丘文庫の調査と収集を担当していた1人として、研究環境が一歩も二歩も前進したことにより、ほっと一息つくことができました。
 光丘文庫に関わってこられたみなさま、ありがとうございました。
 
 
 

2011年7月 4日 (月)

井上靖卒読(129)「帽子」「魔法壜」

■「帽子」
 
 ようやく中学に入学できた頃を回想しての、作者の自伝です。
 大きめの帽子と靴の話が、ユーモラスに語られていきます。若いときの一コマです。
 育ち盛りのときに身につけるものは、その大きさに迷うのは誰しも経験したことです。
 母と父とのことを思い描きながら、活き活きとした文章で綴られています。倹約家だった母がまだ健在のころに書かれた小品です。【3】
 
 
初出誌︰潮
初出号数︰1966年1月号
 
新潮文庫︰少年・あかね雲
井上靖小説全集31︰四角な船
井上靖全集7︰短篇7・戯曲・童話
 
 
 
■「魔法壜」
 
 六、七歳の子供の頃の話です。
 好奇心旺盛な頃でもあり、不可思議なことが身の回りに溢れています。勘ちゃんという友達が、毎日のようにやって来ます。病気がちの作者の身の回りで、何かと面倒なことを起こすのです。体温計を割ってしまい中の水銀の玉が転がる様子、魔法壜をぶつけて中を壊したり、石鹸入れの蓋の穴から指が抜けなくなったり。
 一つ一つの出来事が、大人の目から見ると微笑ましくもある話です。しかし、当の子供にとっては一大事なのです。
 この作品が発表された当時の昭和42年には、明治生まれの人が人口の3パーセントだったとか。その人たちが共有する体験に根差した、楽しいエピソードとなっています。【2】
 
 
初出誌︰別冊文藝春秋
初出号数︰1967年6月15日号
 
新潮文庫︰少年・あかね雲
井上靖小説全集31︰四角な船
井上靖全集7︰短篇7・戯曲・童話
 
 
 

〔参照書誌データ〕
井上靖作品館
http://www2.plala.or.jp/baribarikaniza/inoue/
 
 
 

2011年7月 3日 (日)

読書雑記(37)水上勉「雁の死」

 『雁の寺』の最終章となる第4部「雁の死」です。
 先日の「読書雑記」で取り上げた、第3部「雁の森」を受けて話は展開し、収束していきます。

「読書雑記(36)水上勉「雁の森」」(2011年7月1日)

 舞台は、京都府と滋賀県の県境、慈念の父がいることがわかった琵琶湖西岸の比良に移ります。
 比良というと、井上靖が何度か舞台として取り上げている土地です。物語の場所として、文学的な香りを感じさせるところのようです。というよりも、水上勉も井上靖も、共に琵琶湖を背景にした多くの作品を残しています。作風は異なります。しかし、その底流には、土地の雰囲気や匂いが取り込まれています。しかも、水上勉の方が、土地と風土に根差した生活が描かれているように思われます。

 それはさておき、……

 前作「雁の森」の最後に、慈念の父が比良で寺の塔を修築していることがわかりました。そのことを受けて、慈念は昭和13年の秋、京都から比良に現れます。
 慈念は、若狭から京都へ、その京都から若狭に戻り、さらにまた京都に出てきました。その京都に半年いて、それからしばらくして滋賀に移ったことになります。

 月光の中、完成間近の三重塔の中で、慈念と父の親子二人が、母だ誰かということを巡って緊迫したやりとりがなされます。今この地にいる女が母ではないか、と慈念は父に迫りま。それを最後まで否定する父。この物語の見せ場です。
 ただし、第1部の「雁の寺」で提示された完全犯罪のことは、ここでは親子の問題へとすり替えられています。全4部のテーマがうまく繋がっていません。このあたりに、作者がこの連作に不満を抱いていた理由がありそうです。
 完成度の高かった「雁の寺」が、その後の3作にうまく引き継がれていないのです。

 また、この作品の最後が「堀之内慈念の行方は誰も知らなかった。作者も知らない。」(文春文庫、317頁)となっているのも、作者が最後に投げ出した感が否めません。

 『雁の寺』の各作品のストーリーは興味深いものとなっています。それが、うまく有機的につながらなかった、という印象が拭えないのです。
 『雁の寺』は、水上勉の小説作法を知るのに、たくさんの手がかりを与えてくれそうです。【4】
 
 
 

2011年7月 2日 (土)

「戦前期の出版検閲と法制度」の講演会

 今日も、いろいろと多忙でした。特に、午後からは慌ただしい時間を過ごしました。

 朝食後に少しお腹に違和感があり、昼食後は腹痛に襲われました。ゆっくりと食べていたのに、キリキリと痛みます。このところ、何かと忙しく立ち回っていたので、週末になり気が緩んだのでしょうか。

 1時間ほど休息をとり、すぐに千代田図書館へ急ぎました。中京大学の浅岡邦雄先生の講演があるからです。
 今日のタイトルは、「戦前期の出版検閲と法制度」です。
 
 
 

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 池田亀鑑が深く関わった昭和7年の『源氏物語に関する展観書目録』が検閲された時日について、まだ解決していない問題があるのです。本ブログ「昭和7年の源氏展冊子の奥付が書き換えられたこと」(2011年6月 8日)をご参照ください。

 仲間を通して、あらかじめ私が抱えている問題を浅岡先生に伝えてもらっていたこともあり、また、先生が私のブログを読んでくださっているとのことなので、今日はご講演の前にとりあえず名刺交換だけをしました。

 私が抱えている問題については、いずれまた詳しく教えていただこうと思っています。

 さて、今日の講演の内容は、まだあまり研究されていないテーマだそうです。それだけに、つい話に聞き入ってしまいました。
 時代としては、関東大震災から昭和12年までを扱われました。昭和13年以降は、検閲の事情が違ってくるのだそうです。

 納本や検閲に関する出版法規として、「出版法」(明治26年)と「新聞紙法」(明治42年)の2つがあることを知りました。
 また、一般に「発禁」といっていますが、これは紛らわしい表現であり、実際には内務大臣が関わる「発売及頒布禁止」と、裁判所が関わる「発行禁止」があるそうです。確かに、区別する必要があります。

 非常に興味深いお話が続いていました。しかし、講演が始まって1時間ほどで、私には次の予定があるために、残念ながら会場を離れなければいけませんでした。あらかじめ浅岡先生には中座することをお断りしていました。先生ごめんなさい、と心の中でつぶやきながら、九段下から次の打合せの場所へと急ぎました。

 そこでは、個人研究と共同研究を混同したやりとりが交わされ出したので、そのことについての私見を、ほんの少しでしたが述べさせていいただきました。個人研究である小規模予算を、関係者みんなで食い潰してはいけない、との思いがあったからです。
 しかし、朝からの体調不良もあり、そこそこのところで強く言うことはやめました。みなさんが共同研究の方向で取り組もうということで一致したので、「個人研究に深くは立ち入らない」という私の中のルールは引っ込め、流れにまかせることにしました。

 体調がよくないと、話し合いでもすぐに引いてしまいます。これも、仕方のないところです。
 内輪だけの懇談会のはずが、いつの間にか、参加者みんなの要望と参加意義を満たすための会議をすることになってしまった印象です。小さな懇談会として組まれた予算で、いつしか大会議をすることとなり、とりまとめ役の先生に無理と負担がかかることが必定なので心配です。
 今回の研究テーマは、この予算規模で取り組めるものではないので、共同研究に持ち込むのは至難の業です。研究テーマと研究費に落差がありすぎるのです。これも、なかなか難しい問題です。

 個人研究には立ち入らない、という私なりの姿勢を保持しながら、今後ともこの集まりには参加していきたいと思います。とにかく、船頭となられる先生が無理をなさらずに、これからの会の運営と予算の運用をしていかれることを願っています。また、その方向でお手伝いをしていきたいと思っています。

 その後の懇親会は体調が思わしくなかったので遠慮しました。早々に帰宅し、ゆっくりと1時間半をかけて食事をしました。
 
 
 

2011年7月 1日 (金)

読書雑記(36)水上勉「雁の森」

 『雁の寺』の中における第3部にあたる「雁の森」です。前回の「読書雑記」で取り上げた第2部の「雁の村」を受けて展開します。

「読書雑記(35)水上勉「雁の村」」(2011年6月27日)

 舞台は、若狭から京都に戻ります。

 冒頭で、「昭和十三年の秋末の夕暮れ、二人の僧がこの森に向っていた。」(新潮文庫、179頁)とあります。ただし、その後で、「堀之内慈念が、若狭からつれてこられた昭和十二年の秋は、」(197頁)と語られています。
 慈念が若狭から京都に連れてこられたのは、昭和十二年のはずです。
 昭和十三年五月に、再度上洛して世話になった奇崇院の越雲住職が亡くなります。その時、慈念は「去年の十一月末に、音海の海音寺の和尚さんときました。」(245頁)と答えているからです。

 文春文庫(1978年10月 第3刷)の誤植なのか、それとも、作者水上勉のケアレスミスなのか。
 全集などの本文が確定しているもので確認すべきでしょうが、今は手元にないので、今の時点でのメモとして記しておきます。

 さて、慈念は若狭から京都の宇多野にある寺に入ります。そこは仁和寺に近く、現在の陽明文庫があるあたりです。おそらく、等持院あたりを意識しての舞台設定だと思われます。これも、まだ調べてはいませんので、私が勝手に書いているだけです。
 陽明文庫は、『源氏物語』の写本の調査で通っているところです。等持院は、娘が渡英するまで、この近くのマンションで学生時代を過ごしていました。私も、立命館大学で非常勤講師をしていたことがあります。この一帯は、私にとって馴染みの地域です。

 孤峯庵の時と同じように、奇崇院でも隠寮に匿し女がいることが、話の展開に色香を添えています。寺院を舞台とする小説に、華やぎと色艶を与えています。
 慈念の完全犯罪は、ここに至ってもまだ成立しています。しかし、生きていくためには、身を潜め、何事にも耐えていかなければいけない、と言い聞かせます。やがて、慈念は宗念と改名します。

 男色の話に強姦後の悲劇と、話題は豊かに展開します。読み耽ってしまいます。しかし、テーマが重く暗いこともあり、盛り上がりには欠けます。

 慈念の世話をしてくれていた住職越雲が亡くなる前夜、丸い月が出ていました。澄んだ空気が感じられます。
 越雲没後、慈念は出奔し、それから15年後には火事で宇多野の伽藍は消失します。そして、「堀之内慈念の行方を知る人は誰もいない。」(247頁)と結ばれます。

 この作品は、前の「雁の村」と共に、作者自身がその杜撰さゆえに気に入らず、書き直しに時間を費やしたものでした。手を入れる内に、さらに緊張感が薄れたようです。【3】
 
 
 

NPO法人〈源氏物語電子資料館〉広報室より

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