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2011年9月12日 (月)

テレビドラマ『砂の器』を観て

 週末2夜連続のドラマを、楽しみにして観ました。東日本大震災のため、半年間延期になった作品です。
 どうやら、福島県の扱いに関係するための延期だったようです。

 さて、テレビや映画業界は、困ったら松本清張ものを作ります。その流れでいえば、残念ながら昨秋の『球形の荒野』は大失敗でした。
 そのことは、本ブログ、「テレビドラマ『球形の荒野』は「後編」に期待」(2010年11月27日)と「テレビドラマ『球形の荒野』(後編)を観て」(2010年11月28日)で述べました。

 その前編の記事の末尾で、以下のように書きました。


 松本清張が父を捜し求める作品を書いた背景は、鳥取県の日南町に行った時によくわかりました。
「松本清張ゆかりの日南町」(2009年12月11日)
 父のことを知りたくて立ち寄った町に入れてもらえなかった清張の心は、この『球形の荒野』にも形を変えて生きているように思います。

 このことは、清張の家系への疑問の解明が必要だと思います。

 さて、『球形の荒野』のことがあったので、今回の『砂の器』の出来もあまり期待しませんでした。
 しかし、よくできた仕上がりでした。もう一度観る価値があります。

 難を言おうと思えばあります。
 原作には出ない女性記者に扮する中谷美紀は、果たして必要だったのでしょうか?
 男ばかりのドラマでは視聴率はとれません。どうしても女性が必要とされたために、無理やり押し込んだ感が否めません。

 中谷美紀は、今秋10月3日からパルコ劇場で、井上靖が書いた小説『猟銃』の舞台を、一人三役でつとめることになっています。私としては、中谷がどのような役回りになるのか期待していました。
 しかし、残念ながら、演技はともかく、物語の展開の中ではどうでもいい存在に終始していたように思います。と言うよりも、軽めに振る舞う様子が、かえって話の流れを阻害する存在だったと思いました。
 視聴率稼ぎに、中谷美紀はうまく利用された、と私は見ました。

 今回のドラマでも、父親に対する思い入れが前面に出ていました。ラストに近づくにつれて、この傾向は顕著でした。これは、清張の作品の特徴でもあります。清張文学を読むキーワードの1つを、私は「父」だと考えています。それを、このドラマではさらに強調した形でまとめていました。

 清張と父親については、鳥取県の日南町へ行ったときに、初めて気づかされたことです。
 現地で、足羽先生から伺った話については、上記のブログ「松本清張ゆかりの日南町」で書いた通りです。

 松本清張の研究状況を私はまったく知らないので、清張と父親については、すでに常識なのかもしれません。
 しかし、ブログに書いたように、お墓の問題も含めて、私は非常に興味をもっているところです。
 父と息子の関係は、母と息子の場合よりも、言葉にしづらい影を帯びているように思います。そこに清張が拘ったのは、出生に加えて、生い立ちの秘密を抱えながら生きていたからではないでしょうか。

 これまでにも何度か書いたように、私と妻は『砂の器』の舞台を体現しています。私の生まれが出雲、妻の生まれが羽後なのです。しかも、妻の実家は羽後亀田の隣です。結婚するにあたり、私の父と妻の父が、お互いにズーズー弁で会話をし、何とか通じていました。この言葉づかいというよりも雰囲気は、非常によく似ていることを実証してくれました。

 今回のドラマで、島根県側の出雲弁は上品なことばで話されました。対する秋田弁は、妻によると生まれた地の香りがない、とのことでした。
 実際の小説でも、清張は出雲弁について慎重に方言の校正を亀嵩算盤合名会社にお願いするほどでした。この物語は、出雲地方の方に比重がかかっている、ということなのかもしれません。

 『砂の器』は、国立国語研究所が全国の方言を調査していた間の、昭和35年に書かれました。なかなかいいタイミングをつかんだトリックとなっていることに関心させられます。
 折しも、明日私は、国語研究所が主催する研究会で、研究発表をすることになっています。
 合間にでも、2つの方言の問題と、清張の取材姿勢などについて聞いてみようと思っています。
 
 
 
 

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NPO法人〈源氏物語電子資料館〉広報室より

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