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2011年12月の31件の記事

2011年12月31日 (土)

京洛逍遥(209)北野天神・高安墓参・錦市場-2011

 今年も、1年最後の日を無事に迎えることができました。
 諸々の感謝の気持ちを込めて、まずは北野天満宮へ行きました。
 ニュースで、早咲きの「寒紅梅」が一輪だけ咲いたと報じていました。しかし、見渡す限りの梅はまだ蕾が固く、その木は見あたりませんでした。境内には梅が約50種類1500本あります。2月が待ち遠しく思われます。
 
 
 

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 大きな龍の絵馬が懸かった楼門も立派です。
 
 
 

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 その裏には、江戸時代の龍馬とおりょうの人形と、奈良時代の2人(?)の人形がありました。
 
 
 

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 右側の奈良時代の服装の2人は、天皇と皇后のようですが、これが誰で何の意味を持たせようというのか、その意図が私にはわかりませんでした。帰ってから調べたのですが、今もわからないままです。本年最後の疑問にぶつかりました。新年になるとわかるのでしょうか。

 北野から四条に出て買い物をした後、大阪西部にある河内高安の墓参へと足を向けました。

 これまでに何度も書いた、『伊勢物語』の「筒井筒」の段で知られる高安の里です。
 我が家のお墓は、私が小学校高学年と中学・高校時代を過ごした高安山の麓にあります。お彼岸とお盆そして年末年始には、必ずご先祖様へ日頃のよもやまを報告しに行っています。

 年とともに、この高安の地に足を運ぶごとに旧懐の情を催すようになりました。近鉄大阪線の河内山本駅で単線に乗り換えると、とたんに若かった日々が身体に付きまとうので困っています。
 2駅で終点の信貴山口駅は、学生時代の通学駅です。駅前では、ちょうど信貴霊園への送迎バスが待っていました。

 今日はお参りする人が多いと思っていたら、私1人でした。運転手さんの話では、昨日が一番多い日だったそうです。200人以上を2台のバスを出して運んだとか。
 今日はまだ100人強のようです。これに加えて、自家用車での墓参が倍以上はあるので、この年末の墓参者はたいへんな数になります。
 みなさん、昨日の内にお参りをすませ、今日はお節を作っておられるのでしょうか。

 我が家の墓石は、きれいに洗われた直後のようでした。お花も、真っ赤な南天が盛りだくさんに飾られています。お線香も蝋燭も、少し香りを残しています。どなたかが、つい先ほどお参りをしてくださったようなのです。姉や娘に電話をしたところ、違うとのことです。

 すぐに、小さい頃から何かとお世話になっているおばさんの顔が浮かびました。このすぐ下に、我が家の近くがいいとのことで、同じようにお墓を作られました。折々に我が家のお墓にもお花を手向けてくださいます。
 私が東京から大阪に帰って来た時、おじさんは細やかな心遣いで面倒を見てくださいました。お亡くなりになって、もう20年ほどになります。
 今日は、日頃のお礼を兼ねて、私もお参りをさせていただきました。

 墓地から大阪湾を見下ろすと、微かに淡路島が見えています。
 来年こそ見通しのよい日々を、バタバタすることなく、ゆったりと過ごしたいものです。
 
 
 

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 帰り道、河原町に降りたついでに、錦市場に立ち寄りました。
 
 
 

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 東西約390メートルの商店街に130店がひしめいています。
 今年は、琵琶湖の小海老と、どじょうの蒲焼きを買いました。

 明日は、もう暦が改まって新年。
 一体、どんな年になるのでしょうか。
 わからないだけに、大いに楽しみです。
 
 
 

2011年12月30日 (金)

今月の豆腐リスト

 8月の下旬に糖質制限食と取り組んで以来、ご飯・パン・麺類などの主食と言われる炭水化物を口にしていません。
 代わりに、豆腐をご飯代わりに食べています。それも、木綿豆腐です。
 絹ごし豆腐は、のどをつるりとすり抜けるので、食べた感触がないのです。
 糖質制限食の豆腐は木綿に限ります。
 最近は、この木綿豆腐にレトルトのカレーや牛丼などをかけています。なかなかいけます。お試しあれ。

 今月食べた豆腐を並べてみました。
 京都は水がいいせいか、街角のいたるところにお豆腐屋さんがあります。折々に買いますが、包装されていないので、どこのどんな豆腐なのかが目で確認できません。おいしくても、なかなか言葉にできないのです。
 その点では、スーパーなどに並んでいるものの方が、パッケージに内容の記載があり、デザインにも違いがあってリストにするとおもしろいのです。

 以下、今月になって近所で手にした豆腐を、写真で一覧してみましょう。

 まず、私が一番気に入っている服部の「南禅寺」です。これは、しっかりした味と歯ごたえがあって大好きです。おあげさんも、この南禅寺のものが一番美味しいと思っています。どっしりとしています。多分に、名前に影響されているところも、なきにしもあらず、というところもありますが。
 
 
 
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 次に、北野天満宮前の藤野のお豆腐です。2種類あります。ただし、どちらが私好みなのか、まだ決まっていません。この藤野も、おあげさんのいいものを出しています。ただし、その食感は薄くてペラペラした舌触りです。ざる豆腐もありますが、これはまたいつか。
 
 
 
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 それ以外にも、たくさんあります。今月のリストとして、順不同で並べることにします。これらに味の違いがどの程度あるのか、まだよくわかりません。食べ続けるうちに、それぞれの味と食感の善し悪しがわかってくることでしょう。楽しみです。 
 
 
 
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2011年12月29日 (木)

歳末の法善寺横町界隈へ

 歳末の慌ただしい中を、大阪の法善寺横町で娘夫婦と食事をしました。
 
 
 
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 妻は、家の大掃除と引っ越しの準備のため、私1人が出かけました。

 法善寺横町の夫婦小路からお店に上がり、ちょうど水掛け不動さんを見下ろす席に案内されたこともあり、善男善女が列をなして参り集う様子を見ながら、湯豆腐とお刺身をいただきました。ここは、これまでにも宴会で何度か使ったお店です。
 話が弾み、長居をしてしまいました。
 帰りがけに、夫婦善哉をお土産にしました。糖質制限中の私には口にできないものですが、新しくスタートした2人にはぴったりです。

 食後、お不動さんにお水を掛けて、もろもろの報告とお願いをしました。
 苔をびっしりと身に纏ったお不動さんです。この圧倒的な存在感には、とても叶いません。
 
 
 
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 お不動さんは、私が大阪の高校で教員をしていた頃と、まったく変わらないお姿です。

 またまた老いの繰り言で、過去の回想となり気が引けますが、かれこれ30年前のことです。このすぐ近くの難波駅を起点にして、私は大正区の高校に通勤していました。ここを起点にしていたのは、帰りには必ず、日本橋の電気屋街に立ち寄って帰る日々だったからです。

 昭和60年前後は、まさにコンピュータが個人の手の届くものとなり、日本橋も熱狂的なブームに沸いていました。私は、この異様な熱気に包まれた日本橋の電気屋街で、小学生や中学生たちから、コンピュータを操る言語(マシン語)やマニアックな操作方法やプログラムを教えてもらいました。

 この頃に書いた拙著『新・文学資料整理術パソコン奮戦記』(昭和61年、桜楓社)を、お不動さんを見ながら娘夫婦に渡しました。この本は、私が初めて出版したものです。さらに、表紙や挿絵のイラストは、すべて妻が描いています。ちょうど娘が3歳の可愛い盛りのときです(いや、今も)。親としての記念品でもあるので、年を越さない内に渡したかったのです。今日は、それが果たせました。しかも、夫婦善哉とお不動さんの前で。

 食後のコーヒーは、近くにある千日前の丸福珈琲店で、と思って行きました。
 
 
 

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 ここは、昭和9年創業の老舗です。店内の雰囲気もいいのです。
 しかし、禁煙コーナーがまったくないとのことで諦め、難波ウォークの地下街に移動し、英国屋で四方山話に花を咲かせました。これから奈良を再生させる話で盛り上がりました。

 日本橋駅まで2人に見送ってもらい、淡路駅で乗り換えました。
 ホームで乗り換えの電車を待っていたら、そこへ東京から仕事の電話がありました。
 これが、帰路をさ迷う前兆となります。

 電話で打ち合わせを終えると、運良く目の前に電車が来たので飛び乗りました。車中で、いくつもの連絡のメールに返信を書くことに没頭していたところ、「北千里駅終点」というアナウンスが耳に飛び込んできたのです。淡路まで乗って来た電車の後続列車に乗っていたのです。
 慌ててまた淡路まで引き返し、各駅停車と準急と快速特急を乗り継ぎ、6回も乗り換えを繰り返して家にたどり着きました。感が外れるときは、うまく電車もつながりません。

 この歳末に、不覚にも電車で迷走してしまいました。お陰で、電話とメールでいくつもの仕事が捗ったとはいえ、家に帰るのに予定の倍以上の時間がかかりました。

 今日は夕方から、錦市場で新年の買い出しをする予定でした。これは明日にします。
 今年もあと3日。慌ただしい歳末を迎えていることを、こうして肌身で実感しています。
 
 
 

2011年12月28日 (水)

今年 2011年のブログ写真・自選15

 今年も無事に毎日ブログを書き続けることができました。
 常に何かをしようとしていないと書く材料が枯渇します。
 そのためにも健康が第一です。
 今年は、4月から妻が仕事を辞めて上京してくれたので、不規則だった生活もゆったりとしました。
 これが、すべてにおいて、今年の一番の支えとなったように思います。
 そんな1年を通して、たくさんの写真を撮りました。
 その中から、私にとって思い出深い写真15点を選びました。
 
 昨年の「「自選15」」(2010年12月27日)も、ご笑覧を。
 
 それでは、今年の自画自賛です。
 
 
(1)「京洛逍遙(177)上賀茂神社へ初詣_2011」(2011年1月 1日)
 
 元日の初詣は、いつものように上賀茂神社へ行きました。今年の9月に娘は結婚したために、伊藤家の一員としては最後のお参りとなりました。
 
 
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(2)同上
 
 元旦に娘が作った、今年の干支の雪ウサギの和菓子です。私の還暦祝いも兼ねているそうです。
 
 
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(3)「朝日を拝む」(2011年2月22日)
 
 インドのニューデリーにある定宿《ワールド・ブッディスト・センター》から見た、イスコン寺院の背後から昇る朝日です。
 
 
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(4)「西国三十三所の朱印軸」(2011年2月26日)
 
 昨年の手術の後、元気だった日々を取り戻すことを願って回った西国三十三所札所巡拝のお軸が、装いも新たにみごとなできばえで完成しました。
 
 
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(5)「京洛逍遥(182)春を待つ下鴨神社」(2011年3月 6日)
 
 下鴨神社の輪橋(そりはし)の袂に咲く紅梅は、尾形光琳の国宝「紅白梅図二曲屏風」のモデルといわれる「光琳の梅」です。新年3月下旬に、娘の結婚式がここで執り行われます。ブログの記事にある通り、この日も結婚式がありました。
 
 
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(6)「幼馴染みからのお別れの電話」(2011年3月24日)
 
 幼馴染みが持っていた、4歳頃の私とのツーショットです。私は二十歳で火事に遭い、それまでの写真のすべてを消失していたので、貴重な写真といえます。
 
 
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(7)「京洛逍遥(193)祇園祭と鱧-2011」(2011年7月16日)

 和装小物屋「くろちく」の小路は、祇園祭の日にはバーゲン品を求めて必ず足を向けます。
 
 
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(8)「京洛逍遥(195)朝夕元気に散歩しています」(2011年8月14日)
 
 いつも賀茂川を散歩していると、こんな夕景色に出会うことがあります。北山がきれいなグラデーションで霞んで見えます。
 
 
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(9)「京洛逍遥(199)「紫野源水」の茶菓でいただく薄茶」(2011年8月31日)
 
 お茶の先生が娘の結婚祝いとしてくださったお茶碗で、おめでたいお抹茶を娘が点ててくれました。寿命が延びるのだとか。この翌日に娘たちは入籍しました。
 
 
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(10)「読書雑記(42)高田郁『心星ひとつ みをつくし料理帖』」(2011年9月 9日)
 
 江戸深川の黒船橋から中央大橋を見ると、夕焼けがきれいでした。
 
 
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(11)「京洛逍遥(201)白川疎水通りと鱗雲」(2011年10月 2日)
 
 京洛の雲は、さまざまな姿を見せてくれます。平安時代の人たちも見たであろう空は、私たちのイメージを膨らませてくれます。
 
 
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(12)「タイトルを「鷺水亭 より」と改名します」(2011年11月 8日)
 
 賀茂川の鷺たちは、さまざまな姿を見せます。仲良く飛び立とうとする姿は、本ブログの改名を祝福してくれているようでした。
 
 
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(13)「京洛逍遥(205)神々しいまでの朝日」(2011年11月24日)
 
 早朝の如意ヶ岳から昇る朝日です。この日を境に、ラッキーなことが続きました。不思議なものです。
 
 

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(14)「京洛逍遥(206)冬支度の大徳寺境内」(2011年12月17日)
 
 大徳寺の塔頭である高桐院では、紅葉の盛りは過ぎていました。しかし、竹の手すりはいつも絵になります。
 
 
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(15)「京洛逍遥(207)賀茂川の真冬の鳥たち」(2011年12月19日)
 
 寒くなると、ユリカモメたちが琵琶湖から比叡山を越えて賀茂川に大挙してやって来ます。糺の森の周辺は、大変な賑わいです。
 
 
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2011年12月27日 (火)

2011年の十大出来事

 今年も、いろいろとあった1年でした。
 忙しい中を無事に何とか過ごせました。
 皆様方のご理解とご協力に感謝します。
 この1年を1月から順に振り返ります。
 身体と気力も前向きだったと思います。


(1)米国ワシントンとボストンで源氏物語の古写本調査。
(2)第6回〈インド日本文学会〉をニューデリーで開催。
(3)妻の早期退職と上京により単身赴任生活にピリオド。
(4)地道な調査研究者を奨励するため池田亀鑑賞を創設。
(5)『もっと知りたい池田亀鑑と源氏物語』選定図書に。
(6)小林茂美先生の奥様であり恩人の登志子先生ご逝去。
(7)糖尿病の血糖値対策で糖質制限食を導入し成果あり。
(8)英国と仏国へ留学していた娘が結婚して大阪に住む。
(9)本年秋は還暦・結婚記念日・誕生日を同日に迎える。
(10)ブログ「賀茂街道から2」を「鷺水亭より」と改名。

 2012年も実り多い1年となりますように。
 なお新年早々に近所へ引っ越しをいたします。
 郵便物などの配達が混乱するかと思われます。
 ただし電子メールやブログは変更ありません。
 来年も相変わらずよろしくお願いいたします。
 
 
 

2011年12月26日 (月)

読書雑記(47)水上勉『西陣の女』

 昭和27年の京都西陣を舞台とするお話です。1968年(昭和43年)に新潮社から刊行された長編小説です。
 信州の貧しい家に生まれた刈田紋は、18歳で西陣の帯地問屋に引き取られます。それからは、魅力的な女性となり、思いがけない人生を歩む紋の成長が語られます。

 最初に、西陣織の業界や、帯が出来るまでの話がまとめてあるので、物語の背景がわかりやすくなっています。
 今から30年前のことですが、私は機織り機の調査を通して、報告書を書いたことがあります(「機業ー福生の民具を通してー」『福生市文化財総合調査報告 第12集福生の民俗・生業諸業』福生市教育委員会、昭和55年3月)。これは、福生市教育委員会の委託を受けて行なった、民俗調査にもとづいてまとめたものです。民具としての機(ハタ)を取りあげ、その歴史的な位置づけと、当該地における実情を、モノを通して論じたのです。聞き書きをもとに構成したものであり、特にライフヒストリーの部分のまとめ方には、新たな視点を導入したつもりです。
 その時の聞き取り調査で得た知識が、今回この作品を読みながら思い出され、イメージを脹らませるのに役立ちました。いろいろなことをしておくものです。

 それはさておき、作中では随所に人間の心の機微が丹念に描かれます。人の心の中が克明に描写されるので、つい読み込んでしまいます。京ことばも、男女共にきれいに語らせています。流れるようなことばのリズムに乗せられて、心地よく読み進めることになります。谷崎潤一郎賞や川端康成のような、書き物としての関西弁とは一線を画す、上品な京ことばです。

 紋は、20歳を境にして、ものの見方や考え方、そして人生が大きく変わります。自分の美貌を自覚し、それまでの生活環境からの脱皮を図るのです。これも、自然な成り行きと言えます。ここが、結末を考えるときの参考になりそうです。紋については、いろいろな解釈のできる人物設定だと思われます。

 大家となっている画家、今畑冬葉の家に住むようになると、それまでの生活が一変します。そして、相想い合う綴れ織り職人の瀬谷松吉の存在は、忘却の彼方となって行きます。気にはなりながらも、新しい生活に馴染んでいくのです。

 京都の年賀の風習が書かれていました。ちょうど年末に読んでいるので、興味深く覚えました。(新潮文庫165頁)

 松吉は意中の紋が約束を違えて画家と結婚したことを知った後、紋が締めることになる結婚の祝儀となる帯を執念で織り上げます。職人は自分の腕で自分の気持ちを表現するのです。怨みではなく、技術のすべてを注ぎ込むことで、誠心誠意の気持ちを伝えようとするのです。その心の動きが、克明に描かれます。職人としての想いと誇りが、仕事に没頭することで、新たな生きがいとなる様が伝わって来ます。マイナス思考ではなく、前向きに仕事に立ち向かう職人魂が、読んでいて力強く響いて来ます。
 松吉の母に対する抱きとられる思いが紋にすり替えられるのも、人の心をよく見据えた展開でいいと思いました。

 松吉は、愛する女よりも愛された女との結婚について、先延ばしをしながらも逡巡します。しかし、同じ頃、愛する女の夫である今畑冬葉が入院するのです。話はますます人間関係と思惑が錯綜するドラマとなって行きます。
 特に、冬葉が前立腺ガンで亡くなってからの展開は、一気に読んでしまいました。雪のシーンはことのほか幻想的で印象的です。

 最終となる第50節後半に、次のように作者が顔を出します。


刈田紋と瀬谷松吉の西陣にまつわる長たらしいこの現代の蒸発物語はこれで終ることになる。(339頁)

 この一文はなぜ書かれたのでしょうか。
 私は、ない方が余韻を楽しめてよかったのでは、と思っています。

 最後の「むかし、西陣におった女どすわ」ということばが心に残ります。紋のことが気がかりなままに本を綴じることになりました。予想外に暗くなく、湿度も感じない薄明かりが射す作品でした。【4】
 
 
 

2011年12月25日 (日)

30年前のパソコン用・漢字ワープロ情報

 昨日取り上げた30年前の雑誌『I/O』(工学社、1981年11月号)の記事の中に、日本語ワープロに関する記事がいくつかあります。
 当時の日本語(漢字)ワープロの事情がわかっておもしろいので、歴史的な資料としてピックアップしておきます。

(1)アップルから「アップル II」用として「ApplePie」というワードプロセシング・システム(40字/行)が、5万8千円で発売予定となっています。また、「AppleWriter」という文書作成プログラムが、2万8千円で発売されています。共に、カセットテープ版ではなくて、ディスク版での発売です。
 
 
 
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(2)昨日の記事では、「パソコン」ということばが1981年11月にはまだ生まれていなかったかのように受け取られたかも知れません。その後しだいに普及しだした「パソコン」ということばも、すでにこの1981年の雑誌『I/O』に見られます。
 なお、今では一般的なパソコン一式(本体、モニタ、プリンタ、外部記憶装置)が、約24万円もしています。
 
 
 
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(3)高電社のPC−8000シリーズ用「漢字ワードプロセッサー ワード3000」
 プログラムだけで9万5千円、ハードウェアとセットで99万5千円です。これを私は電気店のデモマシンで使いました。当時のハードウェアによる性能から見ても、値段が高いとは思いませんでした。カナ入力によって漢字を表示し、ペンで漢字を一文字ずつ選択するので、今思えば面倒でした。漢字もJIS第一水準だけで、この広告を見ると一文書が2,800字だったのです。しかし、漢字とひらがなが自在に画面で操れる夢のような環境が提供されたことに、いたく感激して使ったことを覚えています。この高電社は、私が好きだった会社の1つです。
 
 
 
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(4)コムのPC−8000シリーズ用「PC−KANJI」
 2万円を切ったワープロソフトです。これは、特別なハードウエアを必要としません。ただし、今の感覚で使うワープロではなくて、あくまでもひらがな漢字の文字列をリストとして扱う、というものだったように思います。これも、漢字を探し出して表示するのが、今から思えば大変でした。日本語をコンピュータで扱う技術の進歩を痛感しています。
 
 
 
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(5)アイ・シーのPC−8000シリーズ用「日本語ワード・プロセッサ」
 増設ROMボードを装着し、漢字拡張ユニットをつなげて使用するものです。
 私は、あまりにも大がかりなので、これは使いませんでした。100万円もするものですし。電気店でも、少しだけ触った記憶があります。快適だったような感触を覚えています。しかし、パーソナルユースではありません。あくまでもビジネス向けでした。
 
 
 
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(6)シャープのMZ−80用「漢字ワード・プロセッサ」(手入力版)
 当時の雑誌によく紹介されていた、読者が自分で掲載されたプログラムを入力して使うものです。これはシャープの製品ですが、NECや富士通用なども、いろいろと発表されていました。一例として、これを紹介します。
 タイトルに漢字で「感痔我戸附録切削」と当て字で表記しているところに、この年がワード・プロセッサの普及啓蒙の時期であったことが見て取れます。
 パソコンを使って漢字で遊ぶ、という程度のものですが、これでもワープロでした。文字は自分で作成し、カセットテープを使って読み出したり書き出したりします。初期の簡易ワープロは、こんなにシンプルでした。手間がかかりましたが。
 当時私は勤務していた高校で、富士通のFM7の導入を推進しました。そして、国語の時間には、生徒に雑誌に掲載されていたワープロのBASIC版のプログラムを入力させ、自分で動かして一語ずつ単語を入力して辞書を作らせました。その生徒各自のお手製ワープロで短歌や作文や方言調査結果をまとめて印刷し、卒業時にオフセット版の本に製本して卒業記念文集としました。このことは、またいつか。
 
 
 
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(7)宮崎マイコンショップのPC−8000シリーズ用「JALP」
 ハードウェアに手をつけることなく、プログラムだけで1,600文字の文章を作成できる簡易ワープロソフトです。1万8千円という低価格です。自宅で使ったように思います。しかし、具体的にどんな操作感覚だったのか記憶がありません。
 
 
 
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 当時は、こうした日本語をいかにしてパソコン上で容易に使えるようにするか、という熱気が充ち満ちていました。そして、こうした試作版とでもいうべきワープロソフトがたくさん提供されていました。それこそ、枚挙に暇がないほどに、たくさんの日本語ワープロが生み出されていたのです。
 しかし、それもNECからP0−8800シリーズというマシンが発売されることで、処理速度や記憶装置などの進化が実現し、漢字やひらがなの扱いが容易になり、新たな高性能ワープロソフトが乱立するという時代を迎えます。そして、PC−9800シリーズになって、現在のワープロの姿が確立します。
 PC−8000シリーズは、そのインフラ整備の役割を果たしたともいえるでしょう。

 以上、取り急ぎ認めました。記憶が曖昧で不十分なところはご寛恕を。
 
 
 
 

2011年12月24日 (土)

1981年の雑誌に見られる「パーコン」

 京都の家の荷物を整理していたら、懐かしい雑誌がたくさん出てきました。
 大和・平群から京都に引っ越しした時に、それまで保有していたコンピュータ関連機器とそれに関する書籍・雑誌類のほとんどを処分しました。

「本たちとの別れ」(2007年6月25日)

「愛機たちとの別れ」(2007年6月25日)

 しかし、貴重すぎて捨てきれなかったのか、100冊ほどのコンピュータ関連の雑誌が見つかったのです。

 私の初めてのコンピュータ体験は、1980年(昭和55)のマイコンキットNEC「TK−80」でした。
 1981年にPC−8001で半角カタカナによる『源氏物語』の本文データベースに着手しました。『源氏物語別本集成 正・続』(おうふう、各全15巻)の原点です。
 以来今日に至るまで、30年以上も、ずっとコンピュータと文学研究の接点を求めて彷徨ってきました。

 今回見つかったものは、手に取るのも躊躇されるほどの汚い雑誌類です。しかし、ページを繰ると、今から30年も前のコンピュータ少年(?)だったころのことが、溢れ出るように思い起こされます。
 連日、大阪日本橋に通い、小学生や中学生たちにコンピュータの操作方法や、マシン語といわれるプログラム言語を教えてもらいました。16進数でプログラムを書く手ほどきを受けたのです。子どもたちに、です。当時は、大人のほとんどが子どもたちに、電気屋の店頭でこうしたことを教えてもらったのです。子どもたちが得意満面の時代でした。

 と書き進めながら、この過去を回想する気持ちは、家の整理には禁物であることに気づきました。

 そんな中で、次の1冊はずっと探していたものです。「パーコン」ということばが書かれた、大事な証拠となるものなのですから。

 まずは、その表紙の真ん中を見て下さい。

特集 パーコン強化用ソフト

とあります。
 
 
 

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 これは、『I/O』(工学社、1981年11月号)という雑誌です。
 当時から私は、コンピュータに関する雑誌はほとんどを刊行されるのが待ちきれずに購入し、貪るように情報収集に駆けずり回っていました。「N−BASIC」とか「漢字ワード・プロセッサ」ということばを見ると、目頭が熱くなるご同輩がいらっしゃるはずです。

 最初の目次をみると、これまた涙がこぼれ出て止まりません。
 
 
 
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 新製品情報として、NECのニューモデルに「PC−6000シリーズ」と「PC−8800シリーズがあります。
 
 
 
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 そして、「東芝パーコン『PASOPIA』」の紹介記事もあります。
 記事の上段に、「東芝もパーコンを発表!」とあります。
 
 
 

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 情報の入力や出力が、カセットテープからフロッピーディスクに移行しだした初期のころのものです。

 巻頭近くの広告には、「AppleII J−plus」もあります。このころは、私の眼にはアップルは入っていませんでした。

 とにかく、巻頭から136頁までが、コンピュータ関連の宣伝です。当時は、雑誌の宣伝を見ることで、コンピュータを巡る業界の最新、最先端情報を得ていたものです。

 まさに、「マイコン」ということばが拡がりだした頃に、「パーコン」がこのように雑誌で使われ出したのです。しかし、この「パーコン」は広くは認知されず、やがて「パソコン」が流行語となっていく時代だったのです。

 書き出したら際限がないので、家の掃除に集中するためにも今はこうした話は禁句とし、ここまでにしておきましょう。
 
 
 

2011年12月23日 (金)

極寒の夜の暖かいパーティー

 新婚の娘たちから、両家のみんなでパーティーをするので大阪の新居に来るように、との召集がかかりました。
 そこで、早めに仕事を切り上げ、完全防備で大阪へ出かけようとしていた時のことです。

 ちょうど自宅の玄関まで出たところ、宅配便が届きました。
 10キロを越す大量の本だったので、それを上がり口の小部屋に運び入れ、印鑑を取りに奥の部屋に上がっていったスキに、以前から我が家のセキセイインコのモグを狙っていた近所の猫が、玄関から堂々と入ったようです。
 宅配のお兄さんはウチの猫かと思ったようで、荷物を置くとすぐに帰りました。玄関の上がり框の下に隠れていた猫にすぐに気付いた私は、反射的に手足で追い払いました。もう出かけるところだったので、気付かずにそのまま鍵を閉めていたら、モグはかわいそうなことになっていたはずです。

 奈良の平群の山にいたときにも、飼っていたインコが猫に襲われました。口にくわえて逃げるところを、やっとのことで捕まえました。しかし、インコのミントはすでに絶命していました。一緒に追いかけた子どもたち3人は、呆然として嗚咽を洩らすだけでした。

 そんなことがあったので、日頃から気をつけていました。しかし、年の瀬の我が家の慌ただしさを知っていたのか、猫も今年最後とばかりにチャンスを狙っていたのかもしれません。本当に危ないところでした。

 そんなことがあったために、私は少し遅れて娘たちの家に着きました。妻は、パーティーの準備を手伝うということで、朝から行っていたのです。
 新居の中は、モールや風船や色紙で飾り付けられていました。
 手作りのクリスマスケーキも。
 
 
 
111223_cake
 
 
 

 新しく増えた家族と一緒に手作りの食事をいただき、いろんな話をして、楽しい時を過ごしました。数ヶ月前までは、まったく知らない方々です。しかし、こうして家族となって和やかに語り合えるのは嬉しいものです。家族が増えるのはいいものだなーと、しみじみと感じました。

 経済の勉強をして来られた父子です。興味と関心がまったく違うからこそ、飽きずに話が広がって盛り上がるのでしょう。お母さんも妹さんも、一緒になって大笑いでした。年の瀬のいい息抜きとなりました。
 さて、明日からまた大忙しの日々となります。
 
 
 

2011年12月22日 (木)

京洛逍遥(208)「真々庵」でPHPを考える

 南禅寺と京都市動物園に挟まれた白川通り沿いに、松下幸之助の感性と哲学で造られた「真々庵」があります。
 岡崎公園の府立図書館や、京都市国際交流会館へ行く機会が多いので、この南禅寺界隈はよく来る所です。しかし、パナソニックの迎賓館と言われる「真々庵」は、その前を通っていたのでしょうがまったく目に入っていませんでした。
 それが、縁あってお茶の先生からお声をかけていただき、非公開の「真々庵」を訪問する機会を与えられました。

 「真々庵」は、昭和36年に松下幸之助が松下電器の社長を退任して会長に就任した時、中断していたPHP(Peace and Happiness through Prosperity、物心一如の繁栄によって真の平和と幸福を実現する)活動を再開するために手にした別邸です。名著『人間を考える』もここで書かれたそうです。

 すばらしい庭園に加えて、温かいおもてなしの心に包まれた時間を持つことができました。先生はもとより、「真々庵」の支配人さんとスタッフの方々のお心遣いに感謝しながら、松下幸之助の業績を思い返しているところです。

 「真々庵」については、「松下幸之助のお茶と真々庵」(徳田樹彦、『論叢松下幸之助』第5号、PHP総研、2006年4月)に詳細な説明があります。

 徳田氏の文章の中に、次のような記載がありました。


ここに茶席での写真が残っている。まだ三十歳位の石原慎太郎が浅利慶太と坐っている。よく見ると慎太郎は素足だ。幸之助はそんなことは意に介せず和やかに談笑している。幸之助のお茶は型にとらわれない。常に相手に合わせている。そして、実に楽しそうだ。(110頁)

 私は、ネットからダウンロードした文書を読みながら、ここに添えられた写真をしばし見つめてしまいました。これを見ると、お茶席の意味が変わってきます。
 そして、松下電器の社長松下幸之助という知識が吹き飛び、人間としての松下幸之助が立ち現れるようになりました。

 庭園には、琵琶湖からの疎水を引いたせせらぎがあります。この疎水は、哲学の道沿いに流れて、銀閣寺から左へ大きくカーブすると、白川疎水通りとなって我が家の傍を流れて賀茂川に消えていきます。川伝いに、この「真々庵」の庭と我が家一帯はつながっていたのです。奇縁に人知れず感激しました。

 
 
 

2011年12月21日 (水)

『還暦探偵』の加筆訂正から見えた問題点

 昨日の本ブログに書いたことを受けて、本文研究という視点でこの作品を見ていきたいと思います。
 藤田宜永の『還暦探偵』(新潮社、2010年10月)は、雑誌『小説新潮』を初出とする短編6作品を集めたものです。
 その奥付上部には、次のように書かれています。


単行本化に当たって加筆訂正が為されている。

 ひとたび一般に発表された作品に作者が手を入れることに興味を持つ私は、この作品の中でも表題作となっている「還暦探偵」の文章を比べてみました。
 我が還暦年のしめくくりという意味からも、簡単ではありますが調べたことを報告します。

 「還暦探偵」という短編は、昨年春に出版された『小説新潮 2010年4月号』(第64巻 第4号 通巻791号、平成22年3月20日発売、34〜58頁)に掲載されました。巻頭に据えられた「特集 大人の胸打つ小説集」という企画の中で、重松清の「てるテール娘」の次に置かれています。

 当該誌の扉には、重松清と並んで藤田宜永「還暦探偵」の内容が3行で紹介されています。


定年男二人。時間だけはある。
そこへ、同級生の会長夫人からある依頼が。
よし、俺たちは「ハワイアン・アイ」だ……

 さて、単行本に収録されるに当たり、文字の変更が4箇所、そして6箇所で振り仮名が追加され、さらに11箇所で文章に加筆訂正がなされました。
 内容はまったく変わりません。藤田宜永は、この作品集ではほとんど初出のままに収載したと言えます。吉行淳之介などのように、大幅な手は加えていないのです。藤田宜永の他の作品については、まだ何も調べていません。少なくとも、ここでは、ということにしておきます。
 なお、この作品はほぼ3万字ほどの分量があります。

 以下に、確認した事実だけでも正確に記録として残しておきましょう。

■文字の変更(4箇所)


 ガン→癌・視→観(3箇所)

■振り仮名の追加(6箇所)


巨躯(きょく)・無聊(ぶりょう)・科(しな)・呂律(ろれつ)・蔵前(くらまえ)・別嬪(べっぴん)

■文章への加筆訂正(11箇所)

(1)[初出 38頁上〜下]


「へーえはないだろう。モテはしないけど、俺はちゃんと口説くからね。
「で、逆ナンされてどうしたんだい」憲幸が訊いた。
「気になるか」
「大いに気になるね」
「何もなかったよ。俺は攻めるタイプだから、逆ナンには乗らないんだ」

 最初の赤字部分は、次のように手が入りました。
「モテはしないけど、俺はちゃんと口説くからね。
   ↓
「モテはしないけど、俺はちゃんと口説く。男は攻めなきゃ
 
・「俺は攻めるタイプだから、〜」
   ↓
・「俺は攻めるタイプだって言ったろう。〜」
 この場には、安達憲幸と共に、何十年ぶりかで会った大和田光子(結婚後は市川)という高校時代のクラスメートが目の前にいます。
 この加筆修正によって、塩崎勉が男として積極性のある自信家になっていることが強調されることになります。
 

(2)[初出 40下〜41上頁]


 憲幸の車は国産のごく普通のセダンである。
「探偵には、MGとかトライアンフが似合うな。ユーノス・ロードスターでもいい。ともかく、ツーシーターのライトウェイトスポーツカーじゃないとね」
「馬鹿。オッサンがふたり、オープンカーで尾行したら、すぐに気づかれるだけだよ。それに、疾走してる間に、薄くなったお前の髪、どんどん抜けちゃうぜ」
「嫌なことを言う奴だな」

 この文で、「(中略)ライトウェイトスポーツカーじゃないとね」の後に、「塩崎が言った。」ということばが見直しによって足されています。
 ここは塩崎と憲幸の2人の掛け合いの会話が続くので、誰が言ったのかをまず明示しておいて、その後の発言者についての混乱を防ごうとしています。
 ここでは、車のことで塩崎がスポーツカーのことを言います。憲幸が持っている車は国産車なので、ここは塩崎の発言なのです。
 それを受けて憲幸が髪が抜けることを言うと、塩崎が「嫌なことを」と気分を害します。
 この後で3つの会話文が単行本では挿入されます。そのため、ここでは塩崎を明示することは、話者の確認ともなっていて、配慮としてはいいと思います。しかし、これが問題を引き起こします。この話者の明示という処置が目に見えることにより、それが原因となって、補訂の不具合が顕在化するのです。
 この後に続く話者が、長文の補入が不完全であるせいもあり、初出と単行本で入れ替わってしまい、おかしくなっていきます。手を入れた作者自身が、登場人物の会話文の設定で混乱してしまっているのです。後で3つの会話文を入れたために、その後の話者が1つずつずれてしまう、ということが出来します。

 確認の意味でも、この文章に続く長い補入の部分を引きます。
 

(3)[初出 41頁上]


「俺は真面目に光子の役に立とうと思ってるんだ
「光子には悪いが、老いらくの恋ぐらい、大目に見てやればいい思うがね」
「そうだけど、当人にとってはやっぱり、寂しいことなんだよ」

 まず、最初の赤字部分の「んだ」が、単行本に収録するにあたっての見直しで削除されます。これは、次に挿入される文章へテンポをよくつなぐためでしょう。この部分は、次のように大幅な補訂がなされます。

「俺は真面目に光子の役に立とうと思ってる
「俺もだよ」塩崎がうなずいた。「ボランティアで町の清掃なんていうのはごめんだけど、こういうのはいいね」
「俺もそう思う」
だけど、光子には悪いが、老いらくの恋ぐらい、大目に見てやればいいって思うがね」
「そうだけど、当人にとってはやっぱり、寂しいことなんだよ」
(単行本191〜192頁)

 光子のために、2人が夫の浮気を調査しようとする決意を固めます。そこが、少し詳しくなったのです。なぜこうした文を補入する必要があったのか、私にはその必然性がわかりません。
 それも、「ボランティアで町の清掃」という行為を軽くいなすのは、そのようなささやかなことにでも生き甲斐を感じて携わっている方々に対して失礼ではないか、と思います。初出時にあったフレーズを削るのではなくて、単行本化に際して加えたのですから、なおさら作者の意図がよくわかりません。
 しかも、ここには3つの会話文が入ったので、交わされた順番でいくと、当初の話主がずれてしまいます。
 最初は、「光子には悪いが、〜」というのは塩崎のことばでした。それが、その前に3つの会話が補入された結果、これが憲幸のことばとなります。そして、それに続く「そうだけど、〜」ということばも、当初の憲幸から篠崎のことばに移行することになります。
 なんとも奇妙な手を入れたことになります。何か作者の意図があってのことかと思ってみましたが、そんなに意味がある場面でもないようです。
 私は、初出当初の「光子には悪いが、〜」は篠崎のことばであって、それを受ける「そうだけど、〜」と言うのが憲幸としてあったほうが、この作品における人物設定と合致するように思います。変更により、かえって混乱が増幅しています。
 今は、作者が手を入れたことに伴うケアレスミス、ということにしておきましょう。
 

(4)[初出 41頁上]


そうだよ。きっと待つことが大半だよ」

 ここでは、「そうだよ。」という憲幸のことばの最初が、見直しによって削除されます。同意することばがなくなることで、2人の距離を少しとろう、というのではないでしょうか。話の流れの中では、こうした削除で憲幸の冷静さが際立ちます。このような例は、この後にもあります。
 

(5)[初出 46頁上]


役者不足の気がするけどな。彼女から見たら、〜」

 ここも、単行本化にあたって、憲幸のことばの最初の部分を削除しています。余計なことばを刈り込んで、スッキリとテンポよく話を進めようというのでしょうか。
 

(6)[初出 56頁上]


考えようによってはネットこそ、アナログが躰にしみ込んでいる我々の世代が利用するのに一番いいんじゃないかな」

   ↓

「アナログが躰にしみ込んでいる我々の世代が一番上手にネットを使いこなせるんじゃないかな」

 これも、憲幸のことばの最初「考えようによってはネットこそ、」と、後半の「利用するのに」が削除された例です。文章に手が入ることで、物言いがスッキリとした印象を受けます。
 そして、「一番いいんじゃないかな」を「一番上手にネットを使いこなせるんじゃないかな」となることで、主語と述語が整理され、よりわかりやすい文章になりました。
 

(7)[初出 41頁下]


「俺が歩いて尾ける」
 問題のふたりは国道6号を右に曲がった。
「お前が先回りできるかもしれない。でも、もしもはぐれたら鳥越二丁目の交差点で待ってろ」

 共に塩崎がしゃべっている場面です。ここが、次のように真ん中にあった地の文が削除され、2つの会話文が1つにと変わります。

「俺が歩いて尾ける。お前が先回りできるかもしれないが、もしもはぐれたら鳥越二丁目の交差点で待ってろ」

 この前後で、尾行対象となる男女が「国道6号」を歩いて行くということが頻出するので、煩雑さを避けて道の左右を曲がるということも削除したようです。確かに、これでスッキリします。
 

(8)[初出 47頁下]


 男がひとり入ってきた。縦縞のスーツに白いシャツの襟を立て、小さな洒落たサングラスをかけていた。顔が大きいから、サングラスはまるで似合っていない。〜

 初出では、サングラスが「小さな」ものだったとあります。ここが、単行本化に伴い、「小振りの」と改められます。すぐ後に「顔が大きい」とあるので、「小振り」の方がサングラスとの取り合わせがしっくりと来ます。


(9)[初出 49頁下]


「長女の一歳の誕生日に、五段重ねの立派な雛人形を飾った時の話だよ。〜」

   ↓

「長女の一歳の誕生日に、五段飾りの立派な雛人形を飾った時の話だよ。〜」

 「五段重ね」では重箱のようなので、「五段飾り」と訂正しています。
 

(9)[初出 50頁上]


「ご出身はどちらです?」
「山梨県の韮崎です。中井貴一の親父、えーと、名前、何て言ったっけなあ」
「佐田啓二」敬一郎が答えた。

   ↓

 憲幸たちが幼馴染みだと知った敬一郎に出身地を訊かれた。
「山梨県の韮崎です」塩崎が間髪を入れずに答えた。「中井貴一の親父、えーと、名前、何て言ったっけなあ」
敬一郎が薄く微笑んだ。「佐田啓二」

 光子の夫である市川敬一郎とのやりとりの場面です。
 突然に初対面で直接出身地を訊ねるシーンを書くことを避けます。地の文に変更したのです。直接的な問いかけに相応しくないと考えて、直したのでしょう。
 また、「塩崎が間髪を入れずに答えた。」とすることで、しどろもどろになっている探偵役を浮き彫りにします。これに対して、「敬一郎が薄く微笑んだ。「佐田啓二」」と、余裕をもった受け答えをする敬一郎の様子が、なおさら対照的に描かれることになりました。
 手を入れることで登場人物たちの様子が生き生きとしてきたのです。
 

(10)[初出 55頁下]


「『ハワイアン・アイ』に繋いでもらったら」憲幸が塩崎に言った。

   ↓

「『ハワイアン・アイ』を観せてもらったら」憲幸が塩崎に言った。

 テレビをネットに繋げてYouTubeを観る場面です。確かに、正確には「繋いで」ですが、状況としては「観せて」がよくわかります。手を入れて、わかりやすくした例です。
 

(11)[初出 56頁下]


(中略)女どもに占領されてはいるが、あのマンションが我が家だと思い知らされたのだ。

   ↓


(中略)女どもに占領されてはいるが、あのマンションが我が家だと、敬一郎の隠れ家を見たことで改めて思い知らされたのだ。

 敬一郎の隠れ家ということを持ち出し、より具体的な説明とすることで、ここもわかりやすくなりました。

 以上、藤田宜永の「還暦探偵」の初出誌に掲載された文章と、単行本に収録された文章を比較することで、どこにどのような手が入っているかを簡単に見てみました。
 ここにあげたものが、その異同のすべてです。
 他の作品の傾向を見ることで、藤田宜永の創作姿勢が見えてくるはずです。
 また、機会があれば確認をしてみたいと思います。
 
 
 

2011年12月20日 (火)

藤田宜永通読(13)『還暦探偵』

 この『還暦探偵』(新潮社、2010年10月)は、『小説新潮』2008年1月号から2010年4月号に掲載された作品に手を加えて編まれたものです。藤田宜永は1950年生まれなので、ちょうど還暦までの作品を集めたもの、ということになります。

 最近、藤田宜永の作品を読んでいても退屈です。本作も、まだスランプの中にいることが明らかです。一気に読ませる力がなくなったようです。
 これは、藤田宜永が還暦直前の時期に書いた作品集ということで、私自身の還暦記念という気持ちで読みました。藤田宜永は、私よりも1歳上です。しかし、力を抜き過ぎているせいか、特に響いてくるものはありませんでした。その抜き加減が中途半端なのです。

 もっとも、本書の中では「難しい年頃」だけはいいと思いました。このあたりから、新しい藤田宜永が見られるようになればいいのに、と思っています。

 藤田宜永の作家としての力量はこの程度ではないはずなので、今後とも期待しつつ読み続けていくつもりです。
 
 
■「喧嘩の履歴」

 最近はとみに手抜き作品が目立っている藤田宜永です。しかし、これは丁寧に夫婦の諍いを描き出しています。会話にもキレがあります。書き出しは上々です。
 ただし、子供を話題にしての夫婦の会話には、現実感があまり伝わってきませんでした。妻である作家小池真理子との、日頃のやりとりを再現させたものなのでしょうか。
 結末ともども、もう一押しという印象が残りました。喧嘩が口論に留まっているからでしょう。【2】
 
 
■「返り咲き」

 淡々と語られています。冷めた視点で、人間を描いています。ただし、人物が肉付けされていません。頭で考え、口で喋るだけの登場人物に、人間味とでもいうべき膨らみがほしくなります。
 最後の意外な話の転換がおもしろいと思います。ただし、中途半端な終わり方が残念です。話を作り過ぎたからでしょう。前半とのアンバランスが目立ちます。ネタがもったいないと思います。【2】
 
 
■「ミスター・ロンリー」

 男に語らせる作者の眼が乾いています。語りが平板なのです。
 文章にも力がありません。語られる内容にも、夢がありません。前向きな姿勢もありません。
 無気力な登場人物で成り立つこの小説は、果たして小説と言えるのか疑問です。
 後半は、物語らしさを装います。しかし、とってつけたように明るく終わろうとするところに、無理があります。
 回想形式の手法もタイトルも、噛み合っていません。【1】
 
 
■「通夜の情事」

 雑談が続きます。しかし、その先が何も見えません。ただ、話が流れていきます。
 中盤から、男女の話になります。それも、とってつけたような情事の場面で、かえって内容が瓦解してしまいました。【1】
 
 
■「難しい年頃」

 藤田宜永の作品では、久しぶりに味のあるものになっています。
 60歳の定年を2年後に控えた主人公には、野心はありません。
 親友の恋人だった女と、35年振りに会います。そして、こんな会話があります。


「夫婦は、阿吽の呼吸でいいんじゃないのかな」
「そういう時代は過ぎたと思う。話題なんか、何でもいいのよ。女ってかまわれるのが大好きな生き物だから」和美は冷酒を一気に飲み干した。(159頁)

 また、車の喩えも、男と女をうまく捕らえています。

「男は、車の運転に喩えるなら、女のように真っ直ぐ前だけ向いては走れない。バックミラーやルームミラーを見てしまうもんだよ」
「そう言えば、私、サイドミラーを開かずにしばらく走ってたことがあったわ。でも、事故は起こさなかった」(162頁)

 夫婦がお互いにメールで別の恋人と会う会話などに、短いながらも粋なフレーズとなっています。昔を懐古しながら、共にいい関係を保っています。話題が人を結びつけるところは、うまいと思いました。
 無理のないストーリーです。他の恋人の方に向かわず、自分たちのことに話が引き戻されるところに、作者の新しい展開が見えてきました。このスタイルを、これから楽しみにしたいと思います。【4】
 
 
■「還暦探偵」

 これも、懐古で展開します。最近の藤田宜永の手法です。
 みんなが子供の頃に憧れた探偵ごっこを、還暦を過ぎた大人が素人ながらものめり込みます。
 ただし、話は盛り上がらないままです。後半になると、ほとんど話は失速していきます。
 どうした藤田、と言いたくなるほどの駄作です。
 なお、この作品については、『小説新潮』(2010年4月)に発表された直後に、本ブログでその感想を記しました。
「藤田宜永通読(8)「還暦探偵」」(2010年3月26日)
 今回あらためて読んでみて、やはり失望しました。【1】
 
 
 

2011年12月19日 (月)

京洛逍遥(207)賀茂川の真冬の鳥たち

 今年もたくさんの鳥たちが、琵琶湖を越えてやってきています。
 本格的な冬を迎えた週末の賀茂川を、散策しながら写真に収めました。

 下鴨神社を挟むようにして流れる賀茂川と高野川が合流する賀茂大橋の中州では、鷺と鴨が左右に分かれて群れを組んで遊んでいました。
 正面の岸の上は、京阪鴨東線の出町柳駅です。その向こうに比叡山がかすかに見えています。
 
 
 
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 葵橋を少し下ったところ、出町橋越しにユリカメモの大群が日向ぼっこをしています。
 大文字の如意ヶ岳が、正面に見えています。左側に糺の森が拡がっています。
 
 
 
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 出雲路橋の手前では、最近増えたという川鵜(?)を見かけました。
 
 
 
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 これから比叡山を越えて琵琶湖のねぐらに帰ろうという勢いで、一羽の鷺が旅立ちます。
 
 
 
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 北大路橋を少し下ったところの中州では、堆積した土砂を削り取る工事が始まりました。
 左岸から右岸に渡り、北山を望んだ風景を写しました。
 
 
 
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 上流から押し流されて来たたくさんの土砂が、川の中州として成長しているのです。それを、時間をかけて少しずつ削っていこうというのです。生態系が変わるのでしょうが、景観はよくなります。
 観光シーズンの合間を見ては、川を守るために気の遠くなる作業が繰り広げられています。
 
 
 

2011年12月18日 (日)

「バカ」と言われる立場になって

 回転寿司屋でご飯を食べない人を「バカ」と切り捨てている記事に出会いました。

 昨年の消化管全摘出手術を受けた後に、「食事を高カロリーに変える実験」(2010年9月20日)と題して書いた記事の中で、回転寿司屋へ行ったときに、にぎりのご飯を4分の1と少なくしてほしいとお願いしたことを書きました。また、ピラミッドまでではないにしても、少しご飯を皿の横に積んだこともあります。

 今夏から糖質制限食に切り替えたため、今ではお医者さんが推奨するカロリー制限はしていません。そのために、お寿司が食べられない生活になりました。そんな中で、「バカ」と言われる立場になっていることを知ったのです。
 今秋書いた、「なかなか出会えない糖質制限食と食材」(2011年11月15日)という記事は、結果的にその3年前の断定の対象になります。

 かつてのものですがその記事では、質問はおもしろかったのですが、それより「ベストアンサー」に選ばれた回答に注意が向きました。また、「212人」もの方が、この質問・回答が役に立ったという評価をしておられるのです。「単にバカでしょ。」という回答が「役に立つ」と評価されることとどうつながるのか、よくわかりません。賛同した、というくらいの意味なのでしょう。

 なお、この質問に対しては、「ダイエット中で米(炭水化物)の摂取は控えている(だが仕方なく付き合いでこの店に来た)」ということが推測される、という別の方の回答もあります。これは、私がにぎりの酢飯を食べられない状況に該当します。物事がよく見えている方のようです。

 私としては、「バカ」と一刀両断のもとに切り捨てる回答をベストとするのではなくて、後者の方をベストアンサーにしたらいいと思います。世の中の問題で、答えを単純に1つに絞ることもないのですから。無理に、一見小気味いいものに飛びつくこともないのではないでしょうか。

 こうした「バカ」という言葉遣いは、『全国アホ・バカ分布考』(松本修、太田出版、1993年、1996年に新潮文庫)の視点で見ると貴重な研究対象になります。
 このことばについては、「探偵ナイトスクープ」のように粘り腰で情報を集め、さらなることばの変遷をたどっていくとおもしろいと思いました。
 
 
 

2011年12月17日 (土)

京洛逍遥(206)冬支度の大徳寺境内

 師走も半ばを過ぎ、京の紅葉はもう終わりです。道に散り敷くモミジの葉がカサカサと音を立てるのも、季節感があっていいものです。

 自転車で出かけたついでに、大徳寺の境内を通りました。そして、好きな塔頭の1つである高桐院に立ち寄りました。

 細川忠興が開基とされる高桐院は、以前に「京洛逍遥(48)大徳寺高桐院の紅葉」(2008年12月 1日)で紹介しました。あの時は、紅葉が真っ盛りでした。
 
 ここの茶室は裏千家と縁が深く、豊臣秀吉が催した北野大茶会の時の17世紀初頭の茶室や、利休の邸宅を移築した書院などがあります。
 前回来たときには、茶道のことなどまったく念頭にありませんでした。それが、少しお稽古を始めてみるとお茶の背景などを知るようになり、お茶室のことなどが気になり出しました。
 
 
 
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 同じ所なのに、3年前とはまったく雰囲気が異なります。冬支度をした庵、という感じになっています。

 外に出ると、垣根越しの竹林に、まだ紅葉が残っていました。
 
 
 
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 南隣の玉林院では、西陽が射して来ると松が不思議な色に変わりました。陽の光の芸術です。
 
 
 
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 高桐院の裏に当たる西側に出ました。
 今宮門前通りに面した塀が、これまた楽しいのです。
 
 
 
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 正面奥には、朱色の今宮神社が見えています。
 広い境内を包み込む大徳寺を散策していると、その折々に至る所で気持ちが和むポイントと出会えます。

 今朝の気温は1.3度で、昨日は京都市内に初雪が舞ったそうです。
 冬支度が始まっていることが肌で感じられる年の瀬となりました。
 
 
 

2011年12月16日 (金)

ヘモグロビンa1cの値はほぼ安定

 今日は、身体の健康チェックのために、都内を西へ東へ南へと、慌ただしく往ったり来たりしました。

 まずは九段下駅にある九段坂病院で治療を受け、すぐに中野駅前のブロードウェー内にあるケアプロでワンコイン健診をし、そして深川の歯医者へ行って治療をしてもらいました。
 すべて特に問題なしということで、還暦の1年もこれで無事に歳を越せそうです。

 東京も最近は急に寒くなり、くすみがちだった紅葉も輝き出しました。
 皇居の北にある田安門を望むアングルで写真を撮りました。この周辺では、しばらく紅葉が楽しめそうです。
 
 
 
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 本来の予定では、九段坂を神保町に向かって下ったところにある千代田図書館へ行くはずでした。しかし、中野へ行くことになったため、今日は大急ぎでメールを送って急遽中止としました。

 今日のヘモグロビンa1cの値は「6.2」でした。先月が「6.3」だったので、少しだけですが下がりました。「6.5」以上になると病院へ行くように指示がでるので、この値はまあまあです。
 春先からこれまでの数値の推移を整理しました。


 4月 7.3(九段坂で測定)
 6月 7.1(九段坂)
 7月 6.9(九段坂)
 9月 7.1(九段坂)
10月 6.0(ケアプロで測定)
11月 6.3(ケアプロ)
11月 5.9(九段坂)
12月 6.2(ケアプロ)

 8月から取り組んだ糖質制限食は、確実に効果を表しています。
 主食を断つと、こんなに楽に血糖値を下げることができるのです。
 後は、このまま続けることです。
 最近は、果物を食べたり、少し炭水化物が入ったものを食べたりと、食事に変化をつけています。カレーやビーフシチューなどのレトルトパックを取り入れたことで、食事の質が大きく変化したのです。
 とにかく、順調に食生活を改善できたと思っています。
 今のところ、朝のお腹の調子が良くない日があることが、今後取り組む問題点だと思います。
 
 
 

2011年12月15日 (木)

目の前にある「レスキューフーズ」

 災害発生時に使う非常用食料品である「レスキューフーズ」の試食を依頼されました。
 糖質制限食を実施している身には、中身が想像できるだけに逡巡するものがあります。
 
 
 
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 箱の上にあるのは、「災害救助用クラッカー」というもので、中身はヤマザキナビスコのクラッカーです。
 カロリー補給のための補助となるものです。若い人は、これでも足りないくらいでしょう。

 表面には、「レスキューフーズ」「1日セット」「朝 昼 晩」とあり、手前側面に「賞味期限 2013.6.3」と印字されています。
 この箱は「おすすめA」という赤いシールが貼ってあるので、この他にも「B」や「C」のメニューがあるのでしょう。
 シールには、さらに


朝 とりそぼろ 白いごはん みそ汁
昼 ビーフカレー 白いごはん みそ汁
晩 牛丼の素 白いごはん みそ汁

と書いてあります。

 さて、肝心の箱の中です。
 箱を空けると、各種非常食が詰めてあります。
 
 
 
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 レトルトパックの「ビーフカレー」と「牛丼の素」は、左側の加熱袋に発熱溶液を入れて沸かしたお湯で温めます。30分かかるようです。

 最初は期待していませんでした。しかし、これなら私でも、クラッカーとご飯以外は、すべて食べられます。
 あってよかった、という日が来ないことを祈るばかりです。ただし、こうしたものが備蓄してあることを知っていると、まさかの場合に助かることは確かです。

 現実の問題としてこれが目の前にある、という状況になりました。
 職場が立川断層の上に建っているので、これはいたしかたありません。万全の用意を心がけて、日々の職務をこなすしかありません。
 また、私が住む宿舎は、東京湾に注ぐ隅田川の河口にあります。地震や津波が来ると、海から直撃を受ける地域でもあり、今朝の茨城方面の地震にも緊張が走りました。
 日常的な京都と東京の往復にも、新幹線が東海地方を通るだけに、震災の危険から片時も逃れられません。
 そして、京都にも、花折断層が自宅の北東を走っています。

 何かと危うい地域と状況の中に生きています。
 とにかく、無事を祈りながらの日々となっています。
 
 
 

2011年12月14日 (水)

中国語訳『源氏物語』の林文月版(簡体字)入手

 今年の6月に、林文月訳『源氏物語』(全4冊、2011年1月18日)が、中国・南京で大陸版(簡体字)として刊行されました。早速入手しましたので、以下に簡単な報告を記します。
 
 
 
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 繁体字による台湾版の中国語訳『源氏物語』は、昭和48年(1973)に林文月氏が月刊誌『中外文学』に連載を開始したことに始まります。
 同じ年に、左秀霊の中国語訳が出たようですが、私はこれをまだ確認していません。

 中国語訳『源氏物語』は、昭和32年に銭稲孫が「桐壺」巻を、それに続いて昭和36年に豊子愷が翻訳を始めています。豊子愷訳が形になるのは昭和53年の台湾版です。ただし、私はまだこの本を実際に見ていません。手元には、昭和55年版の豊子愷訳から後の各版があります。

 私は中国語をまったく理解できません。しかし、今回の本の序文などから、この林文月氏による繁体字の『源氏物語』が刊行された歴史を確認します。

 初版は中華民国63年(昭和49〜53年、1974)の5冊本です。
 
 
 
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 もう少し詳しく書いておきます。
 昭和49年『源氏物語(一)』「桐壺〜須磨」
 昭和51年『源氏物語(二)』「明石〜篝火」
 昭和52年『源氏物語(三)』「野分〜鈴虫」
 昭和53年『源氏物語(四)』「夕霧〜早蕨」
      『源氏物語(五)』「宿木〜夢浮橋」

 続いて、それを元にして「洪范新版序」が付された2冊本が、1999年元旦に刊行されました。
 
 
 


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 さらに、「修訂版序言」を付した本が、1981年12月暮に出ました。
 
 
 
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 この流れで言えば、「簡体版序言」を持つ本書2011年版は、第4版ということになります。ただし、これだけは簡体字に置き換えたものです。

 『源氏物語』の翻訳の歴史を確認すると、柳呈のハングル訳『源氏物語』が刊行されたのは昭和47年、サイデンステッカーの英語訳が刊行されたのは、昭和51年からです。つまり、この間に林文月訳が出たことになります。

 探せば、まだまだ中国語訳が見つかるかもしれません。
 関連する情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひお寄せいただければ幸いです。
 
 
 

2011年12月13日 (火)

復刊〈へぐり通信〉第5号(昭和63年2月)

 紙媒体での〈へぐり通信〉の最終号となった本誌は、『人文科学データベース情報』の予告版ともいえます。
 ただし、実際には『人文科学データベース研究』(人文研刊行会編、同朋舎出版、1500円)として、昭和63年6月から平成2年11月までの2年半に、全6冊を刊行することになりました。
 
 
 

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 手前味噌になりますが、人文科学に一大センセーションを巻き起こしたと自負できる、歴史的な出版物となっています。
 その内容は、またの機会に紹介します。

 拙文「国語教師と電子文具」は、後に『国語教師のパソコン』(伊井春樹編、昭和63年、エデュカ)の「第六章 国語教師と電子文具」に加筆してして収録しています。なかなか入手しにくい本ですが、もし見つかりましたらご笑覧を。

 こう見てくると、日本文学データベース研究会(略称はNDK)の存在とその活動は、再評価する必要があるように思います。もっとも、今でも活動を続けているので、折を見ては過去を振り返りながら、ということになりそうです。
 
 
 以下に、〈へぐり通信 第5号〉の目次をあげます。
 イラストは、ここでも娘が大活躍です。いろいろと注文を出して書かせたものです。
 その娘も、今年の9月に結婚しました。刻の経つのを実感しています。


『人文科学データベース情報』(仮称)発刊のご案内
『人文科学データベース情報』(仮称)創刊号概要(63年5月刊予定)
『人文科学データベース情報』(仮称)原稿の募集
「MSXの未来」
国語教師と電子文具
おわりに

 
 
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2011年12月12日 (月)

復刊〈へぐり通信〉第4号(昭和62年8月)

 冒頭で、この4号をもって発展的解消を遂げる、と記しています。ただし実際には、好評につき第5号まで出すことになりました。
 冒頭の拙文で、NECの極悪非道さを書いています。さしずめ、今なら、つながらないソフトバンクの通信回線、といったところでしょうか。
 そういえば、先週末の東京と京都の往復で、新幹線の中で iPhone は遅いながらもつながりますが、パソコンとつなぐためのポケット WiFi が異常な状態でした。往きも帰りも、京都から名古屋まではつながります。しかし、名古屋から品川までがほとんどつながりません。つながったかと思ったら、時間切れでメールすら送れません。もちろん、エバーノートの情報はまったく確認できませんでした。これは、本当に痛かったですね。新幹線の中でこなしている仕事が、すっかり頓挫してしまいました。

 ソフトバンクは、ひどいものですね。iPhone ともどもauに変更するはずが、あまりにも乗り換えにお金がかかりすぎるので断念して、とにかくじっと我慢しながら使っています。1日も早く、ソフトバンクが通信業界から撤退してくれることを切に願っている1人です。

 ちなみに、手元の iPhone は、京都の自宅でも、東京の宿舎でも、さらには立川の職場でも「圏外」です。完全にソフトバンクから馬鹿にされた状態で、iPhone を持ち歩いているのが実態です。アップルも、とんでもない会社と組んだものです。

 妻の実家の秋田県地方では、iPhone を持っている人は必ずauか docomo の携帯を持つのが常識だそうです。実際の通信では、ソフトバンクが使い物にならないからです。今ではauでもiPhoneが使えるようになりました。しかし、どれくらいの人が移ったのでしょうか。ソフトバンクの締め付けがひどいので、意外と移れないままの方が多いことでしょう。

 数十年前に、この〈へぐり通信〉で報告した通り、おごれるNECというものがあったように、今のソフトバンクの例も風前の灯火という歴史が記されそうですね。

 それはさておき、〈へぐり通信〉の第4号です。
 写本調査の報告が2本あるうち、大谷氏の文章の中に阿里莫本が漢字で表記する例の多いことが記されています。これは、現在、今西館長の科研で取り組んでいるテーマに関連します。この頃、すでに具体的なことがわかっていたのですね。あらためて気づいたしだいです。

 さらには、「日本文学データベース研究会」が発足したというニュースも特筆すべきものでしょう。この会が、その後の日本文学のデータベース化に先進的な成果を提示しつづけることになります。このこともあり、第5号の発行へとつながりました。

 末尾に、毎日新聞にこの〈へぐり通信〉が紹介されたことを掲載しています。
 また、学校教育関連のいくつかから取材を受けたりもしました。
 文学とコンピュータの取り合わせがニュース性をもっていた時代の一資料です。

 この第4号のイラストは、娘の友達2人も書いてくれました。タッチの違いがおもしろいですね。

 以下に、〈へぐり通信 第4号〉の目次をあげます。


はじめに
M S X の逆襲/互換機大賛成
初めての写本調査
写本調査雑感
『万葉集』データベースの作成について
データベース雑考(その二)
日本文学データベース研究会発足のお知らせ
システム手帳を御存知ですか
おわりに
付録 毎日新聞/キャリアガイダンス

 
 
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2011年12月11日 (日)

タヌキのキンタマから日本文化が見えた?

 めっきり寒くなった冬の朝日の中を、京都西山にある国際日本文化研究センター(日文研)へ急ぎます。
 日文研がある京都市西京区は、桂川の西にあり、比較的新しい区です。センターも新興住宅地の中に建っています。阪急桂駅からバスで30分ほど山の中に入ります。

 バスを降りてセンターへ行くまでの散策路は、急いで通り過ぎるにはもったいないほどの色が鏤められています。
 
 
 
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 総合研究大学院大学の「学術交流フォーラム2011」の2日目は、シンポジウム「日本の中の世界、世界の中の日本」が企画されていました。昨日が学生の研究発表会であったのに対して、今日は教員側からのプレゼンテーションです。

 以下の報告を受け、活発なディスカッションが交われました。

(1)中牧弘充(比較文化学専攻・国立民俗学博物館)
 「日本の中のニッケイ、世界の中のニッケイ」
 梅棹忠夫先生の「都市ホテル論」を引いて、「まれびと」重視政策を踏まえての発言に興味をもちました。
 都市は「定住する人」のためではなくて、「利用する人」のためにあるという視点には、新鮮なものを感じました。自分が東京と京都を行き来する日々なので、それだけこのテーマに関心を深めることになりました。

(2)日高薫(日本歴史研究専攻・国立歴史民俗博物館)
 「交易品を美術史からみる」
 輸出された漆器から、美術の交流と混淆について考えておられます。交易品の中に見え隠れする日本と世界を見る内容でした。
 『源氏物語』の研究においても、河添房江先生を先導役として「唐物」を中心とした交易品の意味が追求されています。『源氏物語と東アジア世界』(河添房江、NHKブックス、平成19年)、『光源氏が愛した王朝ブランド品』(河添房江、角川選書、平成20年)、『唐物と東アジア 舶載品をめぐる文化交流史』(アジア遊学 147、河添房江・皆川雅樹編、勉誠出版、平成23年)などがそうです。この分野は、ますます学際的に展開していきそうで、これからの成果がさらに楽しみな分野です。
 インドの漆器の中でも、螺鈿細工はポピュラーなものとして江戸時代には日本でもよく知られていた、という指摘がありました。インドに思い入れのある私は、このような情報も少しずつ集めて見ようと思います。

(3)井上章一(国際日本研究専攻・国際日本文化研究センター)
 「日本のタヌキと世界のネコ」
 まず、「パワーポイントは使いません。パソコンを持っていない。」ということばから始まりました。
 聴衆の耳をしっかりと捕まえて、興味と関心を引き付けながらの心得た話しぶりでした。
 ケンタッキーフライドチキンのカーネルサンダースの人形は、不二屋のペコちゃんからの発想で日本から始まったようです。この人形はアメリカにはない物で、日本に来たアメリカ人が珍しがって記念撮影をしているそうです。アジア各地域に置かれ出したのは、日本の文化輸出であるとも。日本的なものだったのです。
 招き猫も同じものです。そして、海外に招き猫はあっても、狸の置物はないという指摘へ。リオデジャネイロで見つけたものは、あのキンタマがなかったようです。これがないことによって海外との壁が越えられるのだ、というところから文化論へと展開しました。
 また、「タンタンタヌキノ……」という狸のキンタマに関する歌は、元は賛美歌で、ゴスペルソングが本歌だそうです。意外でした。
 そして招き猫の起源へと話が移り、これは幕末からで、信楽焼の狸は1920年代からとのことです。
 招き猫は、遊郭の縁起棚から来ているそうです。そこには男根が置かれていたのです。女郎が、いい男が来るように、というところからのものです。幕末に外国からの人がそれを見て驚いたようです。以降、明治の警察はその手のものを摘発しだしたのでした。
 明治になって桜田門の警察が男根数万本を回収し、隅田川に流したことがありました。その風景は、今映画で撮影もできなくなっているのが、現代の文化的な事情です。
 この男根から招き猫への過渡期の人形に、おもしろいものがいろいろとあるそうです。猫が男根を被ったものとなった経緯から、そこに「猫を被る」の語源があるのではないかと考えていると、どこまで本当かまじめに話が続いていきました。
 大黒人形も福助人形も男根を飾っていたイメージがあり、話はさらに展開してますますおもしろくなりました。生殖器崇拝を背景にした、日本文化を炙り出そうとなさるのです。
 メディアに引き摺られたものではなくて、下から脹らんでくるポップカルチャーは研究者が目をつけないので問題だ、という問題意識で、非常に楽しくてわかりやすい講演でした。

(4)野本忠司(日本文学研究専攻・国文学研究資料館)
 「計量分析による日米メディアの比較」
 東日本大震災直後の日米のニュースなどを素材として、メディアが流す報道という情報の推移を見ていくものでした。これは、文学研究に適用すると、研究動向の移り変わりが量的な観点から見えてきそうです。
 情報のというものについて考える、いい機会となりました。

 この4名の先生方の講演を受けて、パネルディスカッションは三輪眞木子先生(メディア社会文化専攻・放送大学)の司会進行でおこなわれました。

 やはり、インパクトの強かった井上先生のタヌキとネコの話が話題の中心となりました。
 置物とハローキティとの関連は、との質問がありました。
 アメリカで作られたキティは非常にセクシーなイメージがあるそうです。
 バービーちゃんやジェニーちゃんなどは、アメリカはスタイルが強調されているが日本人は体型を平べったいものとして作っているようです。
 「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿は日光の東照宮からですが、これも下からのポップカルチャーのようです。川崎の金山神社は「かなまら祭」で有名ですが、「せざる」「させざる」を加えた五猿があるそうです。
 また、ダルマや福助はヨーロッパに出ているが、タヌキが出ていないのは、また別の問題ではないかとも。ただし今日は、生殖器文化に絞ったのだったので、今後とも調べを続けて行かれるようです。
 神道の問題と関連するのでは、との質問に対しては、秘宝館を営む方には神社関係の方が多いとか。陽物崇拝は世界中にあるが、タヌキの例のようにキンタマを崇拝の対象にするのは日本だけではないか、という指摘はおもしろいものでした。
 全日空の飛行機の中で売られていた招き猫の写真を、会場の方が紹介してスクリーンに映写なさいました。4万円だったそうです。三条大橋の袂の壇王法林寺が招き猫の発祥だという情報も出てきました。いろいろな話が湧いて出てきます。
 猫が幸いや人を招くことは、古くからあるものです。20世紀の文学作品に、水商売や花柳界の案内物に招き猫との関係が触れられているようです。1930年代までには、呪い物として認識されていたとか。話はどんどん発展していき、終わりそうもありません。
 今回のシンポジウムは、このテーマが非常に受けたといっていいでしょう。
 また、井上先生の話し振りがおもしろいので、つい聴き入ってしまいました。調べていて楽しいということは、確かに研究の原点なのでしょう。ものの見方について、貴重な視点を教えてもらいました。

 午後は、ワークショップがあり、こうしたテーマを学生たちとグループ形式で語り合うことになりました。 
 異文化体験の中でいろいろと考えることになった、実り多い2日間のフォーラムでした。
 
 
 

2011年12月10日 (土)

若手の春画と翻訳に関する研究発表を聞いて

 総合研究大学院大学(総研大)文化科学研究科による「学術交流フォーラム2011」が、京都の国際日本文化研究センターで開催されました。これは、学生主体の事業です。そこに我々教員がシンポジウムなどに参加して、一緒に学術交流を深めようという取り組みです。

 昨日は、今西館長の科研研究会終了後に、夜遅くまで立川で懇親会がありました。楽しい情報交歓会をしてすぐに、こうして京都への移動となりました。

 国際日本文化研究センターは京都でも少し不便なところにあります。いつもは阪急桂駅からバスでいくのですが、今日は東京から直行なので、京都駅からバスで50分以上揺られて到着しました。
 裏山の紅葉は、山奥にあるせいか赤や黄色が明るく輝いています。
 
 
 

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 国立大学法人の総研大には、いくつかの研究科があります。その中でも文化科学研究科は、次の5つの文科系の研究基盤機関が専攻を持ち寄って構成する大学院大学です


国立民俗学博物館
国際日本文化研究センター
国立歴史民俗博物館
放送大学
国文学研究資料館

 本部は、神奈川県三浦郡葉山町(湘南国際村)にあります。

 今回のフォーラムの会場は、国際日本文化研究センターです。
 今日の総合司会は、日本文学研究専攻(国文学研究資料館)の紅林健志君でした。
 紅林君は、韓国で講師として教員生活を経て、また総研大に復帰して博士論文の執筆に励んでいる、元気いっぱいの若者です。
 今日予定されていたのは、「学生による口頭発表」と「ポスター発表」そして「レセプション」というプログラムです。
 
 
 
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 自分の備忘録として、忘れたくないことを以下に記しておきます。

 開会式の後、早速「学生による口頭発表」となりました。
 トップバッターとして登壇した鈴木堅弘君(国際日本研究専攻)は、非常に明るく元気な発表が始まりました。
 その題目は「春画における背景表現の機能と変遷 ─江戸期と明治期の図像比較を中心に─」という、えっ、と思うテーマです。
 発表内容はしっかりとしており、裸体画は猥褻か美術かというところにまで展開しました。以前にも、彼の研究発表を聞いたことを思い出しました。

 その「まとめ」は、以下のようになっていました。


 本発表を通じて、江戸期と明治期の「春画」の「背景表現」に着目することで、次の三点の視座を新たに示すことができた。
①江戸期の春画には、その「背景表現」に「見立て」・「趣向」・「もじり」などの演出が複合的に描かれている。
②明治期の春画では、それらの「背景表現」が失われる。
③今日のわれわれが「春画」に抱く「猥褻画」(ポルノ)という認識(「春画」の「性交表現」のみに着目する近代的視座)そのものが、実は歴史的に作りあげられてきたものである。

 また、

江戸時代の春画は「性交表現」のみで成り立っているのではなく、その周辺の「背景表現」の方に多くの表現が重ねて描かれている。
 また、「背景表現」の描写を統計的に把握すると、江戸期の春画には約八割以上に「背景表現」が描かれている。

ということを踏まえて、それがなぜ明治期になると「背景表現」描かれなくなるか、ということを問題にしていきます。次を聞きたくなる構成です。

 その一例として、上村松園の肉筆春画などを見せられると、いかがわしさが払拭されて芸術的な香りがしてくるからおもしろいものです。
 さらには、明治38年に黒田清輝が友人へ出した手紙で、


裸体画を春画と見倣す理屈が何処に有る……日本の美術の将来に取つても裸体画の悪いと云事は決してない 悪いどころか必要なのだ」

と言っている資料を見ると、時代の美術認識を新たにしたくなります。

 日頃はあまり耳にも目にもしない情報のオンパレードだったので、新鮮な気持ちで聞きました。おもしろい研究テーマがあるものです。本人は大変でしょうが、はたから見ると、楽しそうな博士論文になるのだろうな、とこれからの研究の進展に期待がもてます。
 
 続いて、屋代純子さん(日本文学研究専攻)は、「田山花袋の翻訳・翻案に関する調査研究 ─明治34年「村長」における「受容化(domestication)」と『異質化(foreignization)の問題」と題する発表でした。
 常日頃、日本文学と翻訳についての異質性に興味を持っている私は、非常に興味深く聞きました。ここでは、モーパッサンの「ロックの娘」を田山花袋が明治34年に「村長」という作品に翻案したことを取り上げたものです。
 屋代さんは、昨年度、国文学研究資料館で私が授業としておこなった「海外における源氏物語」に参加していました。ハングル訳をはじめとして、海外の翻訳について詳しかったことを覚えています。そうした興味が、今日の研究発表の下地にあるようです。

 今日の発表のまとめとして、次のように整理していました。


明治期翻案作品としての再評価
●「受容化」の側面から
「村長」は西洋文学からの翻案作品である。だが、それだけでなく同時代の日本の読者意識を反映させて、新たな奇談として再編成された作品と評価することができる。
●「異質化」の側面から
日本に舞台を置き換えた翻案作品でありながら、「村長」には文化的に相容れないはずの表現が用いられている。

 そして、その結論として、次のように言います。

『受容化」「異質化」双方の諸要素の相克する場として、作品を捉え直すことができる。

 全体的に、もっと元気な声で、メリハリをつけることで、聞く者に何だろう、と思わせる工夫が必要だったように思います。
 これも経験です。今後とも、積極的に多くの場で発表をして、度胸をつけてほしいものです。
 たまたま私の隣に、屋代さんの主任指導教授であるT先生がいらっしゃったので、私がふと疑問に思ったことを聞いてみました。それは、モーパッサンがフランス語で書いた作品なのに、それを英語で訳されたものを使っているのは、これでいいのか、と。フランス語から英語に移し替えた時点で、作品が変質していないかとの疑問をもったからです。
 この単純な問いかけに対してT先生からは、花袋が英語訳で読んでいるのでこうした研究手法になる、とのことでした。なるほど。

 それなら、と私は1人勝手に想像をめぐらしました。
 私なら、モーパッサンが言いたかったことが英語訳でどのように変質し、さらに花袋がその英語訳から翻案することで、日本人にはモーパッサンが描いた作品世界がどのように受容されることになったか、ということを問題にしたくなるところです。こうなると、ことばを通じた文化の受容と変移という問題になっていきます。ますますおもしろいテーマとなるはずです。しかし、それだけで、総究大での目標である3年間で博士論文を仕上げるのは大変かな、などとも思いました。

 その後の3人の発表は、エチオピア・コミュニケーション・韓半島をテーマとするものでした。学生さんには申し訳ないのですが、以下ここでは省略、ということにしましょう。
 一昨日は、私自身の研究発表の準備で徹夜をし、昨日は遅くまで館長共々飲んでいました。明日もシンポジウムがあるので、このへんで早々に身体を休めることにします。
 
 
 

2011年12月 9日 (金)

今西科研の第3回研究会の報告

 今日は、国文学研究資料館の今西祐一郎館長が研究代表者をなさっている、科学研究費補助金・基盤研究A「日本古典籍における【表記情報学】の基盤構築に関する研究」の研究会がありました。
 これは、本年度の第3回研究会となるものです。

 まず、今西館長のご挨拶の後、2つの研究発表と1つの報告がありました。


(1)研究発表(田村隆︰九州産業大学)「元和・寛永期古活字版『源氏物語』の表記」
(2)研究発表(村上征勝︰同志社大学)「源氏物語の文章の数量分析」
(3)研究報告(伊藤鉄也︰国文学研究資料館)「鎌倉期の本文について」

 お二人の充実した研究発表は、後に報告書として印刷されるので、それにゆずります。
 以下、私が現在取り組んでいる問題点を報告したことを、備忘録として記しておきます。
 その正式な報告題目は、「鎌倉期写本における行頭と行末の表記 ―国文研本「柏木」「夢浮橋」の場合―」です。

 実は、この報告ための資料を作成するために、昨日から徹夜です。
 写本の翻字とその整理に手間取り、直前までレジメの作成に追われました。何とか無事に終わりました。しかし、いつものことながら、準備が間に合わなくて急かされるばかりの数日でした。今も、眠い目をこすりながら、こうして拙文を認めています。

 さて、国文学研究資料館では、本年3月に鎌倉時代の古写本16冊をまとめて購入しました。今西館長の英断です。
 その写本に写し取られている本文を、このところずっと調べています。その中間報告を兼ねて、この館長科研の表記情報学のテーマに合わせて、お話をさせていただきました。

 以下、配布資料に沿って記します

 まず、これまでの私の研究成果を踏まえて、古写本の理解と本文分別について整理をしました。

【鎌倉期の古写本に対する私見】


○『源氏物語』の古写本は、基本的に親本に書かれている通りに書写されている。
 行単位でほぼ同等の文字列として書写される傾向がある。

○各丁の末尾(左下)は、語彙レベルで改丁される傾向にある。
 語彙が泣き別れで書写されることは少ない。
 これは、書写ミスを避けるために、自己防衛的な心理が働いての結果ではないか。

○異文は、傍記本文の混入によって発生することが多い。
 私は〈甲類〉と〈乙類〉の2分別を提唱している。
 〈甲類〉はこれまで〈河内本群〉と称してきたもののグループである。
 これは、傍記が本行本文の直前に潜り込むことが多い。

○今回の2本は、前回報告した「桐壺」と同様に、伊藤の分別試案の〈乙類〉である。

 以上の説明と整理をした後、鎌倉時代の古写本とされる「柏木」と「夢浮橋」の2帖について、その文字表記上の特徴を確認するための目安を提案しました。それは、「給」と「たまふ」という語句の書写され方に着目する、という問題提起でもあります。
 つまり、行頭と行末に書写されている「給」と「たまふ」のありようから、その写本の特徴が理解できないか、ということです。

【本日の報告内容】


◎「給」と「たまふ」は、各巻に均等な割合で出現する。その使用率は約7%である。

◎書写された文字の傾向は、『源氏物語別本集成』の文節単位を基本として調べていく。

◎親本の行頭に「たまふ」と、ひらがなで書かれていた場合。
 書写時に漢字に変えても、字数が少なくなるので、行末での調整が比較的楽である。
 次行の字句を1、2字分追い込むだけで、書写速度が上がり文字列を記憶する負担も軽い。
 書写紙面の字数調整が不要なので、親本のままか?

◎行頭の「給」をひらがなに変更すると、文字数が2文字ほど増える。
 行末が詰まり、調整が必要となる。
 次行に1、2文字送るため、記憶しておく時間が延びて文字列も増える。
 結果的に書写速度が落ち、ミスを誘発する。
 そのため、行頭の『給」も、親本のままに漢字である場合が多い?

◎いずれの場合においても、写本は原則的に親本を忠実に書写しようとする傾向が強い。
 書写しながら本文が書き換える、と発言なさる方がおられる。
 しかし、書写の実態を確認していると、それは非常に困難な想定であることがあきらかである。

◎「柏木」で、行末に「給」が隣り合った2行や3行に並ぶ例がある。
 「夢浮橋」には、行末に「たまふ」が隣り合う2行に並んでいたりする。
 これは、どちらかをひらがなにして避けたくても避けられない理由があったはずである。
 それは、親本に忠実であろうとする意識と、文字列の調整を兼ねた処置ではないか?
 書写紙面において、見た目の美的なセンスとは、また別の問題である。

☆「のたまふ」という表記部分では漢字を使わない。
 ただし、「柏木」と「夢浮橋」で、共に1例ずつ書き分けがなされている。

 このような見通しのもとで、調査報告としての用例数と比率をまとめた資料(後掲)を提示しました。
 これは、写本の各行の行頭部分と行間と行末部分に書写された「給」と「たまふ」の用例をカウントしたものです。

 後半に「須磨」と「蜻蛉」の例をあげておきました。これは、鎌倉時代に書写された『源氏物語』の写本として最も旧いものの1つと考えているからです。この2帖は、現在、アメリカのハーバード大学の美術館にあります。この写本の影印本を刊行する準備を進めているところなので、その実像は近いうちに公開する予定です。
 国文学研究資料館に収蔵された鎌倉時代の古写本を考えるとき、このハーバード本は非常に参考になる点の多いものです。

 この調査結果の詳細な検討については、近日中に論文という形でまとめますので、しばらくお待ち下さい。
 まずは、このような結果を得たことと、写本の行頭と行末において「給」と「たまふ」という文字表記がなされている状況に注目することで、その写本の特色を理解する一助になる、ということを速報として報告しておきます。
 なぜ「給」と「たまふ」か? と問われたら、これまで数多くの写本を読んで来た過程で、自ずと浮かび上がったキーワードになる着目語だ、としか今は答えられません。
 さらに明快な説明ができるように、さらに調査を進めていきます。
 
 
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【調査資料】


36柏木 4784文節
頭/給   中/給   末/給     計
22例   214例    62例     298例
0.5%   4.5%   1.3%     6.2%
 
頭/たまふ  中/たまふ  末/たまふ   計
2例      12例    9例     23例
0.04%    0.3%   0.2%    0.5%
 
 
54夢浮橋 2017文節
5例   42例    9例    56例
0.3%  2.1%   0.5%    2.8%
 
13例   41例    8例    62例
0.6%   2.0%   0.4%   3.1%
 
 
12須磨 5255文節
12例    205例    20例    237例
0.2%    3.9%    0.4%    4.5%
 
13例    119例    17例    149例
0.3%    2.3%    0.3%    2.8%
 
 
52蜻蛉 6458文節
19例   275例   51例     345例
0.3%   4.3%   0.9%    5.3%
 
4例    87例    10例    101例
0.1%   1.4%    0.2%   1.6%
 
 
 

2011年12月 8日 (木)

復刊〈へぐり通信〉第3号(昭和62年4月)

 25年前の記事に目を通していると、パソコンという情報文具には隔世の感があります。しかし、こうした熱気の背景には、見果てぬ夢を求めて、手探りの状態の中、みんなで語り合っていた時代でもあります。青春時代を懐かしみ、旧きよき時代を賛美するだけではなくて、こうした時代を共有できた仲間がいたことを、あらためて幸せに思います。

 第3号でも、非常に具体的な事例が報告されています。試行錯誤でパソコンを使い出した時代だったこともあり、多くの方の活用において参考になったことと思います。

 その頃、私は古文ワープロ「へぐり」なるものを真剣に作ろうとしていました。
 現代文を入力すると古文で表示され、古文を入力すると現代文に置き換えてくれるというものです。結局は完成までには至りませんでした。しかし、今あってもおかしくないものではないでしょうか。

 この第3号は250部を作成して配布しました。版下を作成したソフトは、イメージワープロ「ジーズワードJG」というすぐれものです。コンピュータグラフィックとテキストを混在させて編集できるもので、当時は画期的で刺激的なソフトでした。しばらくは、このソフトでさまざまな版下を作成しました。

 今回も、参考までに〈へぐり通信 第3号〉のもくじを作りました。

〈へぐり通信〉 第3号(昭和62年6月)
■はじめに
■データベース雑考(その一)
■自動変換機能の評価
■富士通の新パソコン
■C&CーVANデータベースサービス体験記
■和泉式部日記本文のデータ・ベース完成
■私のハードディスクも壊れました
■古文単語認定プログラム
■日本文学データ・ベース全集(覚書)
■おわりに
 
 
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2011年12月 7日 (水)

『十帖源氏』を読む会に室伏先生をお招きして

 有志8人ほどで『十帖源氏』を読み進めています。
 活動場所は、新宿アルタ横の喫茶店内にあるレンタルスペースです。
 毎月1、2回のペースで集まり、現代語訳を作りながら読み進んでいます。
 これまでに、第9巻「葵」までを終えました。
 「桐壺」から「葵」までの資料は、「多言語翻訳のための『十帖源氏 葵』」(2011年9月 8日)をご覧ください。

 昨日は、立川での会議や業務で走り回った後、小雨の中を新宿に急ぎました。そして、いつもお世話になっている室伏信助先生とアルタ前で待ち合わせをして、そのすぐ横の喫茶店の4階に上がりました。狭い階段だったので、足の調子がお悪い先生には、本当に恐縮しました。

 室伏先生には、ちょうど1年前に対談のお相手をしていただきました。その時のことは、「室伏先生との充実した源氏物語対談」(2010年12月22日)に書きました。また詳しい内容は、『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」 第一集』の巻頭をご覧いただければ幸いです。

 昨日は2人が欠席だったので、先生を交えた6人で、すでに終わった「帚木」の再確認をしました。先生からは、たくさんのご意見やお話を伺いました。何よりも、ことばを大切にして解釈なさるので、本文を読む気持ちが引き締まります。海外の方に翻訳しやすい日本語訳なので、と言い訳をしても、やはり古語の理解に厳しい先生の解釈は重たいものがあります。

 昨日は、敬語のことで盛り上がりました。
 『十帖源氏』の現代語訳では、帝以外には原則として敬意はつけずに訳をしています。それでも先生からは、謙譲語が人間関係の微妙さを表すことの重要さを指摘され、新たな視点で『十帖源氏』に立ち向かうことになりました。
 下二段活用の「たまふ」の使われ方は、日本人の人間関係の把握と円滑な交流のための道具として、絶妙な相手方への気持ちを表現するものです。それを、先生は丁寧にすくい上げて示してくださいました。

 この会のメンバーは、みんなが『源氏物語』の研究をしている者ではありません。半分ほどが平安文学の研究をしていて、後は中世、近世、近代と、さまざまな分野に興味を持つ者が集っています。もちろん、出身大学も異なります。そんな中にお越しいただいた室伏先生のお話は、みんなにとって刺激的で新鮮でした。もちろん、私にも。

 ちょうど雨夜の品定めで夕顔と玉鬘が出てきたところで、予定の2時間となりました。
 このレンタルスペースはワンドリンクで2時間まで利用できるのです。
 続きは次回ということで、そこから新宿南口方面に少し歩いて移動して、先生を交えての懇談会にしました。急ごしらえの忘年会です。

 先生は、たくさんのお話をしてくださいました。みんなもよくしゃべりました。みんなが時間を忘れて話に聞き入っていたこともあり、気がついたら11時を回っているのです。慌てて帰り支度となりました。

 外は雨があがっていました。しかし、冷たい風が頬にあたります。
 先生は、大好きな『冬のソナタ』のマフラーをしておられます。「いいでしょう」とおっしゃるので、触らせていただきました。

 もう何年前のことでしょうか。私のところにアルバイトに来ていた韓国からの留学生Cさんに案内していただき、先生とご一緒に新大久保のコリアンタウンに出向きました。そして、『冬のソナタ』の韓国版ビデオテープを探したのです。
 偶然2セットあったので、先生と私は嬉々として購入しました。

 今回先生は、ユン・ソクホ監督による『秋の童話』に続く第3作目の『夏の香り』はぜひ見なさい、と推奨しておられました。心臓移植を受けた女性との、運命的な出会いのお話のようです。機会を得て、ぜひ見たいと思っています。

 先生は、『源氏物語』と『冬のソナタ』に関するユニークな考察もなさっています。柔らかな思考で、この一見異質な2つの共通性を見抜かれたのです。

 暖かいマフラーに包まれた先生と駅でお別れしたのは、もう0時に近い頃でした。
 遅くまでお付き合いいただき、いつものことながら感謝しつつ再会を楽しみにして帰路に着きました。
 
 
 

2011年12月 6日 (火)

復刊〈へぐり通信〉第2号(昭和62年4月)

 昨日掲載した、「復刊〈へぐり通信〉創刊号(昭和62年2月)」(2011年12月 5日)は、画像があまりにも不鮮明で読みにくいので、もう少しきれいにしたものに入れ替えました。
 あまりのひどさに読むことを断念された方は、差し替えた画像でもう一度ご覧いただければ幸いです。
 もっとも、まだ読みにくいのですが、これ以上はどうしようもないのでご寛恕のほどを。

 さて、今日は第2号を復刊します。全部で14頁分あります。
 話題が非常に具体的になっているので、当時の実態がよくわかると思います。

 巻末の「ロシア革命」は、当時私が勤務していた高校の日常生活を活写しています。まさに、こんな日々の連続の中にいたことを、今あらためて思い出しました。いわゆる進学校しか知らない方々には、今もこのような学校があることを知っていただきたいと思っています。このような授業風景が、一年中、そして3年間続くのです。

 私はこの学校の新設段階から三巡り9年間勤めて、次の学校に転勤しました。毎日のように家庭訪問に出かけました。夕陽の沈む大阪湾の河口で、渡し船に自転車で乗り込んで停学中の生徒や退学する生徒の家庭に足を運びました。毎年百人以上の生徒が退学していきます。辞めていった生徒の顔は、今でも覚えています。卒業式の日に退学届けを父親と一緒に持って来たJ子ちゃんには、お別れに『新・文学資料整理術パソコン奮戦記』を渡しました。彼女は、今どうしているのでしょうか。素直で生活力のある生徒だったので、きっと元気に幸せな生活をしていることでしょう。
 
 以下、この〈へぐり通信 第2号〉のもくじを列記しておきます。
 娘のイラストも、快調に描いてくれています。
 
〈へぐり通信〉 第2号(昭和62年4月)
■はじめに
■平群の里にて(ミーティング報告)
■PCー9801UV2試用記
■パソコン通信への不信感
■共立女子大学の研究会
■文学研究のためのデータベースソフトに望むこと
■ハードディスクのトラブル
■まだまだあった文豪ミニ5Gの欠陥
■頂いたお便りから
■御意見・原稿を
■おわりは私事で
■「ロシア革命」
 
 
 
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2011年12月 5日 (月)

復刊〈へぐり通信〉創刊号(昭和62年2月)

 パソコン草創期の話になると、必ずといっていいほど話題にしてもらえるものが手元にあります。紙に印刷して配布していた、手作りの情報誌〈へぐり通信〉です。
 昭和62年2月から翌年2月の1年間に、第5号までを発行しました。創刊号は200部ほど作りました。

 その後、インターネットの初期と言える平成7年から、〈へぐり通信〉というホームページを発信しました。
 このネット版〈へぐり通信〉は、文学関連のホームページとしては、日本でもっとも古いものとされています。

 こうした情報発信は、その後も継続して来ました。〈源氏物語電子資料館〉へとバトンタッチし、今はブログという形で〈賀茂街道から2〉を経て、この〈鷺水亭より〉に引き継いでいます。

 もう、今から25年も前のことになります。『新・文学資料整理術パソコン奮戦記』(昭和61年11月、桜楓社)を刊行したところ、予想外に反響がありました。
 
 
 

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 そのアフターサポートの意味で、各種の情報を取りまとめて印刷し、郵送で配っていたものが、〈へぐり通信〉なのです。今で言うフリーペーパーです。
 私が、文科系でパソコンを活用した「草分け」と言われるのは、こんなものも配布していたからでしょう。

 自宅に東芝のレオドライという大型の電子複写機(今のコピー機)を設置し、家族総動員で印刷をし、紙を折って綴じ、封筒に宛名書きをして、興味を持ってもらえる方々に郵送していたのです。
 紙面を作成するのには、「μCOSMOS」というリレーショナルデータベースソフトに組み込まれていた「CWORD」というソフトを使っています。もう、ほとんどの方が知らないソフトだと思います。

 その紙面を復元しようにも、電子媒体ではデータが見つからないのです。そこで、今手元に残っている印刷物をスキャナで画像に変換してアップします。
 これを印刷すれば、何とか読めますので、興味のある方は試してみてください。また、画面で見るためには、少し拡大しないと読めないでしょう。精細な画像を提供できなくて恐縮します。

 内容は、今から26年も前のパソコン情報なので、すでに干からびたものだと思われることでしょう。しかし、今回そのすべてを読み直してみると、意外や意外、今に通じる話が多いことに驚きます。

 いまは亡き稲賀敬二先生や今井源衛先生をはじめとして、さまざまな方のお名前が見当たります。そのほとんどの方が、今では立派な研究者として活躍なさっています。みなさん、情報に飢えていた時代でもありました。ソフトやハードの名前を始めとして、パソコン通信の初期の事情もわかり、思い出話のネタには事欠きません。

 どうぞ、一風変わった異次元体験をしてみてください。26年前に、こんなことがあったのです。こんな熱気があったのです。

 紙面の片隅に添えたイラストは、4歳になったばかりの娘が書いたものです。そして、この時すでに娘はタブレットを使ってコンピューターグラフィックを楽しんでいます。
 娘が生まれたときには、すでに我が家にはPC−8001というパソコンがありました。ただし、入力できる文字は半角の英数字とカタカナでした。2バイト文字のひらがなや漢字が、まだ使えなかったのです。生まれて間もない頃から、娘はキーボードで遊んでいる内に、テレビの画面に表示される文字を見て、キーボードに刻印されたカタカナから文字というものを覚えたようです。こんな文字体験も、歴史的には珍しいことだと思います。ただし、私も妻も国語の教員をしていたこともあり、ずっとワープロはさせませんでした。

 参考までに、〈へぐり通信 創刊号〉の目次を作成してみました。


〈へぐり通信〉創刊号(昭和62年2月発行)
■はじめに
■いただいたお便りから
■ボランティアの呼びかけについて
■ソフトウェア情報の交換
■ハードウェア情報
■パソコンの輸送を日通に頼んでひどい目にあいました
■パソコン通信について
■これからパソコン通信をとお考えの方に
■一太郎も色褪せたようです
■学会・研究会のお知らせ
■文学とコンピュータに関する文献・記事
■スクラップ
■ご意見・原稿をお寄せ下さい
■おわりに
■新聞記事2種

 それでは、興味の赴くままに、26年前へのタイムスリップをお楽しみください。
 
 
 
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2011年12月 4日 (日)

実験と称して回転寿司を食べる

 8月下旬以降、医者が勧めるカロリー制限食から、主食を抜く糖質制限食への転換ということにチャレンジしています。以来この3ヶ月半のうちでご飯を口にしたのはお茶事の時1回だけという、スーパー糖質制限食を心掛けて来ました。

 仕事に私事にと自分なりに多忙な日々の中で、何かと悩ましい問題のいくつかが解決を見たこともあり、少し食生活の制限を緩めてみることにしました。つまり、スーパー糖質制限食から、お昼だけは主食としての炭水化物(糖質)を食べるという、スタンダード糖質制限食への移行です。本来は1日3食の内の朝か昼の1食は主食を食べて糖質を摂るというものですが、1日に5回以上食事をする生活をしているので、まずはお昼を対象にしてみたのです。
 そして、選んだものはもちろん回転寿司です。

 今日は雲一つない晴天でした。柿を啄む椋鳥(?)を見ると、糖質制限はしなくていいのかと心配になります。
 
 
 
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 深川の富岡八幡宮では恒例の骨董市が開催されていました。
 所狭しと並べられた陶器や茶道具、昔懐かしい玩具などに、落ち葉がたくさん散り敷いた状態が印象的でした。
 
 
 
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 ペアのグラスがあったので、このところうち続いたもろもろの慰労と記念を兼ねて、祝杯用として買いました。
 
 
 
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 さて、いつもの、といっても久しぶりの回転寿司屋へ行きました。
 相変わらず人が多く、ネタも新鮮です。マグロ、ツブ貝、エンガワ、ウナギの4皿と、キモの軍艦を1貫と、合わせて9個のにぎりを食べました。飲み物は、味噌汁を避けてお茶だけにしました。ショウガは多めに、醤油は使わずにいつものポン酢を少し使いました。東京でポン酢を出しているところは少ないので、この深川のお店は好きなのです。

 宿舎に帰って、まずは食後30分後から30分おきに血糖値の変化を見ました。


食後30分=301
  60分=342/目標は180以下
  90分=264
 120分=172/目標は140以下

 この結果を見る限りでは、やはりお寿司は避けた方がよさそうです。そもそもご飯がそうですが、それに加えて酢飯に入っている砂糖が一番の問題のように思われます。もちろん、素人判断ですが。

 自分の血糖値の時間的な推移は、食事の内容によってほぼわかってきました。後は、何がどのような変化を示すのかを、胃と十二指腸のない自分の身体で時間をかけて検証と確認をしていくしかありません。
 先日、ボルシチは大丈夫だったので、気になっていた回転寿司に手を伸ばしたのです。しかし、これはよくなかった、ということにしておきましょう。
 お寿司に関しては、関西で実験をすることと、押し寿司のテストもしてみたいと思っています。

 こんな調子で、少し食生活に幅と変化を求めるようになったということは、比較的順調に自分の消化活動がわかりだしたということでもあります。食事をすることが楽しみになりました。
 さらなる実験と称する試行錯誤を続けて行くことにします。
 
 
 

2011年12月 3日 (土)

自治会や町内会での持ち回りの仕事

 東京の宿舎には自治会があり、持ち回りでさまざまな仕事が回ってきます。
 今月は、3棟ある内の私が入っている棟のとりまとめ役と、階段を共有する10軒のお世話をする仕事が、同時に回ってきました。おまけに、今日の合同当番会では司会をしてほしいとのことで、年の瀬の慌ただしい折に、いろいろなことが雨模様の小雨とともに降りかかってきました。

 本来なら、当番は我が家ではありませんでした。しかし、いるのかいないのかわからない方がパスなさったことにより、急遽こちらに回ってきたのです。結婚して間もない若い夫婦ということもあるのでしょうか、自治会活動はみんなで分担協力して、ということに興味も関心もないようです。
 二つ重なった当番を断るとまた別の方に迷惑がかかるので、快く引き受けました。ずっとパスし続けておられその方も、実際にいつか宿舎の当番を担当されると、その役割と仕事の内容の意味が理解されることでしょう。そのようにして、社会の成り立ちを学ばれるのではないでしょうか。
 いい歳をした方に失礼な言い方とならないように気をつけていますが、たくさんの方々との中で生活する上でのルールを守ることは、理屈ではないだけに言いにくくて難しい問題です。

 それはともかく、今日の合同当番会が終わってから、5人の親当番で議事録をまとめることになりました。すると、別の棟の親当番になっておられる一人の若い男性が、やおら MacBook Air を取り出して、議事の進行に合わせて入力しておられたものを、こともなげに示されました。これには驚きました。
 聞きながらまとめて入力していたのだそうです。事務処理能力の高い方のようです。きっと、職場でもこうした気の利いた対応を心掛けておられるのでしょう。仕事の出来る人とは、こうした方のことを言うのです。
 勘違いがあってはいけないので、とおっしゃり、みんなでそのメモを確認しました。そして、その方のお陰でスムースに議事録が完成し、お疲れさまと言って参会となりました。

 さすがはMac遣い、とは言いません。
 機転と行動力のある若者を見て、爽やかな気持ちで家に帰ることになりました。Jさん、ありがとうございました。とにかく、謙虚な姿勢で、それならやっておきますから、という何げない対応に好感を持ちました。
 良い方に出会えて、雨模様にもかかわらず晴れやかな気分になりました。気持ちのいい若者に出会うと、こちらも気持ちが明るくなります。

 久しぶりに自治会の役員さんたちの仕事ぶりを拝見しました。
 みなさん抽選によって担当者になられたにしても、一生懸命いろいろな問題と対峙なさっています。それぞれに仕事を持ちながら、300戸の居住者のために雑務を背負って奮闘しておられます。自然と頭が下がります。

 どこの地域でも、こうした自治会活動はあるものです。今私が住んでいるところは、しっかりと自治会が運営されており、確実に引き継がれているようです。

 3つある棟の全体を、一人の管理人の方が受け持っておられます。しかし、やはり住民のみなさんの力を借りないとできないことが多いはずです。その意味では、この持ち回りの役割分担は、地域にとっては有効な対処方法だと思われます。

 東京は世帯数が多いこともあり、1ヶ月交替です。しかし、実家のある京都での町内会の当番は3ヶ月間担当します。
 実は、我が家は今年の10月から12月まで、京都での町内会の当番にもなっているのです。
 回覧するものも多く、中には上賀茂神社や下鴨神社に始まり、各神社仏閣のお世話の一部も役割分担の中にあります。

 地域社会の中でこのような分業により、住みよい環境が維持されているのです。世話役になって、改めて日頃は見えていないことが見えてくるものです。
 こんな時に限って、こうしたことに背を向けてそしらぬ風を装っておられる方の姿も目に止まります。しかし、そこは他人の集まりなので、そんな人もいるさ、と気にしないようにしていますし、最近では気にならなくなりました。

 年末のこの時期に重なった仕事ですが、滞りなくやり終え、東京でも京都でも、次の方にバトンタッチをして新年を迎えることになります。
 早いもので、今年もあと30日を切りました。1日1日が矢の如く過ぎていく師走です。
 本厄でもある卯年の私は、とにかく無病息災を祈りながら、次の妻の干支を待ちながら年末の多忙な日々を過ごしています。
 
 
 

2011年12月 2日 (金)

名和先生の連続講演も最終回「歌合(2)」

 名和修先生の「古典資料の創造と伝承」と題する連続講演会も、今日の第5回「歌合(2)」で最後です。

 今日も、会場はギッシリ満員でした。
 最終回は、男性の参加が増えたようです。

 最初に、「外は非常に寒いですが、私は上着がいらないほどにカッカと燃えております。」という元気な言葉で始まりました。

 今日は二十巻本の話が終わってから、十巻本の話ができたらいいが、と、歌合について語り出されました。二十巻本の巻十二「大臣 下」に収められた歌合の主催者である藤原忠通のことを、配布資料の系図を見ながら詳細に話されました。

 続いて、目録のことになり、歌合のために罫線が引かれた用紙の説明へと話は移りました。

 類聚歌合の資料の中の紙背文書は、歌合集を作成するための目次の役を果たすものであり、今で言うプログラムだとのことです。現在陽明文庫に残っている資料では、罫線はあまり明確ではないとも。

 用紙に書かれた筆跡の違いを、スライドで見ていきました。

 近衛家の方々も、年齢によって書かれている字が変わってくる場合があるそうです。人の書く文字は変わる場合と変わらない場合があり、また家熙さんの字も、慕う人が書くと自ずと似通ってくるそうです。周辺の人が書くと、字が似てくることもあるようです。これは、非常におもしろいことです。と同時に、筆跡鑑定の難しさでもあります。
 字から人物を同定することは、それだけ難しいという話になりました。

 私は、巻八の「六条斎院禖子内親王物語歌合」の話をもっと聞きたいところでした。しかし、もう残された時間がありません。話はどんどん進んでいきました。

 今回の講演会の内容は、古写本や巻子本の書誌や筆跡に拘ったものでした。
 筆跡の異同を写真で見比べるという、いわば玄人好みの話題です。萩谷朴先生の筆跡の認定を紹介しながら、筆者の違いをスライドに映しながら確認し、墨で書かれた文字を見ていかれたのです。
 それを一般の方々が、研究者ではない方々が熱心に聞き、配布資料に目を通し、スクリーンを見ながら、多くのメモを取っておられるのです。

 名和先生が、提示された資料に書かれている歌合の中の和歌を、懇切丁寧に解釈されることはありません。あくまでも、紙に書かれた文字というものに集中しておられるのです。
 その展開と会場のみなさまの姿を最後列で見聞きしていて、名和先生の話に引き込まれている参会者の方々のレベルの高さを実感しました。
 そして、そのような内容をごく自然に語り進め、普通に話し終えられた名和先生の巧みな話術に感心しました。

 これまで通り、3分超過で講演を終えられました。ただし、最終日ということもあり、その後で和歌史を踏まえたまとめがあったために、結局15分オーバーでした。

 名和先生、5回にわたる連続講演をありがとうございました。
 非常に密度の濃い時間を共有できました。

 終了後すぐに、下の階で開催されている特別展示を見に行きました。
 本日のお話にでてきた国宝や重要文化財を、しっかりと眼に収めました。
 本当に、贅沢なことです。

 今回の特別展示「王朝和歌文化一千年の伝承」は、12月4日(日)までですので、後2日となりました。すでにご覧になった方はもう一度、まだの方はこの機会にぜひとも立川に足をお運びいただければ、と思っています。
 
 
 

2011年12月 1日 (木)

博士論文の中間報告を聞いての雑感

 国文学研究資料館は、総合研究大学院大学の中にある文化科学研究科日本文学研究専攻という博士後期課程の基盤機関でもあります。大学のように学部や修士課程を持たない、博士(文学)の学位を取得するための博士後期課程だけの大学院なのです。
 そのせいもあって、残念ながら一般にはその存在があまり知られていません。

 現在、来年度の学生を募集しています。願書の受付は、明日、12月2日(金)から8日(木)までの一週間です。受験希望もしくは興味をお持ちの方は「日本文学研究専攻ホームページ」をご覧になり、ぜひとも受験の検討を進めてください。
 担当教員と授業科目の内容は、「授業科目」のページをご覧ください。

 さて、この日本文学研究専攻では、毎年この年の押し詰まった時期になると、研究指導を全教職員で当たることと、大学院生が博士論文の進捗状況を報告するために、中間報告論文研究発表会を開催しています。

 今日おこなわれた発表会で、私が興味と期待を持って聞いたものを、以下にメモとして残しておきます。


「草子本『さんせう太夫物語』に見る寛文期草子屋の活動」
             博士後期課程2年 林 真人

 専門外の私は、今日の発表を自由な立場で、非常に興味深く、また楽しく聞きました。

 草子本『さんせう太夫物語』は、江戸時代寛永期の正本を参照して作られた読み物だとされているようです。この草子本については、現存最古の姿を留める寛文期の与七郎本の姿がよくわかる点で、注目すべき本といわれています。ただし、与七郎本が直接の典拠ではなさそうです。

 林君の報告では、挿し絵と本文が矛盾するところがあるとのことです。例えば、草子本に「やまおかの太夫」たあるところが、絵には「むらをかの太夫」とあるなど。

 今日は、書誌・本文・挿し絵の検討を加えることで、従来ほとんどなされていなかったテーマに、資料を基にして実証的に手堅く迫っていました。その真摯な姿勢に、大いに共感を覚えました。
 ただし、もっと本自体の書誌的事項をきっちりと資料に明記してもらうと、さらに安心して聞くことができたように思います。

 また、草子屋が、本文をわかりやすく作り替えたり、挿し絵を当世風に作り替えたりしているようです。これは、『源氏物語』の読まれてきた経緯を思い合わせると、非常におもしろいテーマだと思いました。

 誰がどのようにしてお話を書き替えるのか。その工程が知りたくなりました。
 『源氏物語』においても、異本の異文は、書写者が書き写しながら物語本文を書き替えている、という方がおられます。しかし、『源氏物語』のように比較的早い時点で評価が定まった作品は、そんなに簡単に本文を書き替えながら書き写すなど至難の業です。さらに、『源氏物語』は長編物語なので、少し手を入れるとストーリーの至る所に不自然な部分が生まれます。

 そんなことを思い比べながら、今日の林君の発表を聞いていたのです。

 質疑応答でわかったこととして、この草子屋の存在は、謡曲や古浄瑠璃の草子化にもつながっていくものだそうです。文学作品の受容の問題として、これも刺激的な視点をいただきました。

 この分野では、発表資料の最後に上げてある先行研究を見ても、2000年以降の成果は塩村耕氏の『近世前期文学研究︰伝記・書誌・出版』(若草書房、2004年)くらいです。ほとんど手が着けられていなかったテーマだけに、今後の調査研究には大変な困難が伴うことでしょう。しかし、これからの研究者を目指す若者だからこそできることです。怯むことなく、まっしぐらに調べて考えることを続けてほしいと願うのみです。
 私などは専門を異にするので、何一つ言葉をかけることができません。教えてもらうことが多いのです。しかし、なかなか興味深い問題を抱える研究課題のようなので、林君の今後のますますの進展が期待されます。
 
 
 

NPO法人〈源氏物語電子資料館〉広報室より

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