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2012年5月の31件の記事

2012年5月31日 (木)

インドでのメモ(2002-10)デリー市内散策とコンサート

 過日、偶然に見つかった、10年前のインドでのメモの10回目です。
 
 
■2002年10月28日

 学会も無事に終わり、大任を果たされた伊井先生、N君と共にデリ—市内を散索することになった。
 一日8時間、80キロ、500ルピーでタクシーを雇う。

 世界遺産のフマユーン廟は、私は2回目だったが、二人が初めてだったので行った。入場料が、インド人は10ルピー、外国人は250ルピー。今春行ったこれも世界遺産のタージマハルでもそうだったが、どうも納得がいかない。
 掃除をしていたおじさんが、突然説明をしてくれた。
 
 
 
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 ムガル帝国の第2代皇帝フマーユーンの墓廟で、インド代表的なイスラーム建築である。これはタージ・マハルにも影響を与えたとのこと。
 おじさんは、最初はお金はいらないと言って語りはじめた。しかし、やはり終わると手を差し出していた。大変参考になったので10ルピーを渡す。

 おばさんたちが草取りをしていた。ぺチャクチャと8人ほどで話している。
 
 
 
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 写真を取ってくれと言う。お昼前なのに、草は5分の1ほどしか取っていない。古いモスクを一周しての帰り、草取りのおばさんたちがしつこく写真を撮ってくれと言うので、インドの人は撮られるのが好きだから、ということで3人で一斉にシャッタ—を切った。すると一人のおばさんが後ろから追いかけて来て、お金を払えと言う。いつものパターンなので無視して立ち去る。

 インドでは最高級のオべロイホテルで食事をすることになった。タイ料理屋でビーフンのようなものを注文したが、私には辛かった。おまけに料金がべらぼうに高い。1人3000円位についた。旅行中は、ホテルでの食事は避けた方がよい。

 工芸博物館は月曜休館。しかし、お店はやっていた。タイ料理でお腹がびっくりしたのか、突然便意を催す。トイレに駆け込んだが、どうも雰囲気が違う。四角い部屋の右奥隅に小さな穴があり、正面の壁の中央に水道の蛇口がある。木の戸を閉めるとまっ暗になる。先程ー番手前でー人の男の人が洗濯をしていた。それならこの建物の壁に、右矢印と「Ladies」と書かれていたのは何なのだろう。こんなトイレもインドなら「アリ」だろう、と勝手に決め込んで小さな穴に向かって用を足す。その後がまた大変。何せ蛇口が1mほどの高さにあるので、水を流そうとしても、うまく右隅の穴に届かない。おまけに水飛沫がズボンの裾にかかり、靴もビショビショになった。別の所に二筒所もトイレがあったので、やはりあれは洗濯場だったのだろうか。インドのみなさん、ごめんなさい。

 ガンジーの墓へ行く。広大な墓地だった。ひたすら広い敷地の真ん中にお墓がある。そして、そこには「ヘイ、ラーム」というガンジー最後の言葉が記されていた。
 
 
 
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 すぐ近くのガンジー博物館へ向かう。ただし、月曜日のためにお休み。
 正面入ロ前で、石工職人が大きな石を刻み始めた所だった。次に来た時には、何ができているのだろうか。こうしたところが、インドの楽しみの一つである。次にどう変わっているのか、期待半分とそれが失望に変わる微妙な調合が、インドのいたるところで体験できるからである。

 コンノートプレイスの少し南にある政府の物産館エンポリウムでお買物。クリシュナの絵を描いた木箱を買う。同様の絵を描いた板扉二枚が1万ルピー(3万円)だった。N君が船便で送るものを買えば手続きすることにしたが、彼も突然のことでパニック。後日決めることになった。伊井先生は宝石を買われた。

 街中では、地下鉄工事がいたるところで進行している。一角で、電話回線のチェックをしていた。何とも無防備なこと。このような光景は、いたるところで見かけられる。電話や電気などが突然止まるはずである。
 
 
 
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 夜は近藤房之介さんのブルースコンサー卜。インド工科大学の野外コンサート会場は大音響で大変。
 近藤さんは、1990年にアニメの「ちびまる子ちゃん」のエンディングテーマ「おどるポンポコリン」でデビューした B.B.クイーンズのボーカルと言えばおわかりのはず。なお、私の好きな Mi-Ke の宇徳敬子は、この B.B.クイーンズの音楽コーラス隊だった。このことはまたいずれ詳しく。
 
 
 
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 この大音響に包まれて、伊井先生はノリノリだった。大発見。
 隣に座っていた夫婦が日本語で話しかけて来た。非常にきれいな日本語であった。仕事で日本語を生かしているそうだ。日本に留学したいとのこと。どうすればいいのか相談を受けたが、突然のことでもあり、ご自分でいろいろと調べることを勧めるしかない。外まで送ってくれることになっていたが、出演者のサインや写真などのために断ることになった。新興住宅地のグルガオンに住むまじめな二人だったが、あまり力になってあげられず申し訳ないことをした。

 舞台終了後の近藤さんとインドについて少し話し、ちゃっかり記念撮影をする。
 
 
 
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 会場で一緒になったネルー大学のマンジュシュリ先生の車に乗せてもらい、外の大通りまで送っていただき、そこからオートリクシャで宿舎に帰った。
 
 
 

2012年5月30日 (水)

新刊『古典籍研究ガイダンス』のすすめ

 『古典籍研究ガイダンス 王朝文学をよむために』(国文学研究資料館編、笠間書院、2012年6月8日発行、2,800円)が刊行されました。
 
 
 
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 日本の古典文学作品の研究をこころざしている方や、古典籍に興味のある方、そして何よりも日本の古典文学のことを知りたいと思っている方に、とにかくお勧めできる本です。
 「王朝文学をよむために」という副題が付いています。しかし、この本は日本の古典文学全般を見渡しています。
 まずは書店でこの本を手にして、ページを繰ってみてください。きっと手元に置いて読みたくなるはずです。

 この帯(腰巻き)に記されていることを転載します。この本の性格がよくわかるからです。

自分の力で
どう調べ
どう考えればいいか


わからない
ことがあるから
こそ、
きっと研究は
面白い!


▼古典籍にはどのような情報が含まれているのか。
それらの情報はどのようにして引き出して、
研究に役立てていくことができるのか。
研究方法と成果をわかりやすく
紹介する本です。

▼王朝文学についてより詳しく知りたい、
もっと深い知識を身につけたい、
自分自身の力で調べ考えたい方へ。
必携の入門書です。


 本書は、以下の31名の研究者が、1項目10ページ前後の分量で執筆しています。

執筆者一覧[掲載順]
浅田 徹/寺島恒世/古瀨雅義/藤田洋治/妹尾好信/鶴崎裕雄/齋藤真麻理/藤島綾/山本登朗/松原一義/伊藤鉄也/今西祐一郎/原 豊二/勝俣隆/西本寮子/小川陽子/福田景道/久保木秀夫/小林一彦/田渕句美子/小林健二/日下幸男/神作研一/安原眞琴/田野慎二/小川剛生/鈴木淳/海野圭介/落合博志/野本瑠美/森田直美

 しかも、「です・ます」調のやさしい文章であることと、入門書であることを意識した内容なのです。語られる対象は難しそうです。しかし、具体的な事例をあげて解説する語り口なので、通読にも適しています。
 図版写真として、写本や版本などが82点も掲載されています。
 私自身も『源氏物語』の1項目を担当しているので、よろしかったらご笑覧を。

 内容の細目を確認するためにも、この本の〈目次〉もメモとして以下に転載します。
 これを通覧しただけでも、その多彩なメニューが囁きかける声が聞こえることでしょう。
 特に、後半の「Part.2 本をみる・さがす」は、国文学研究資料館が編集したからこその、研究者必読の事項が並んでいます。これが知りたかった、ということが満載のはずです。

 市販されている、活字で組んだ校訂本文だけで古典文学作品を読んでいる方にとっては、古典籍の原点に立ち返り、自分が手にしている作品本文というものを見つめ直す機会にもなろうかと思います。
 今や、活字本での日本古典文学研究が全盛の時代です。しかし今一度、作品本文や研究資料の意義を再確認すべき時です。多くの資料が、写真版や影印本で刊行されています。さらには、全国に散在する古典籍の原本が、国文学研究資料館に行けばマイクロフイルム等を通して確認できる環境が整備されています。現代は、実に恵まれた研究環境の時代にいることに気付かされます。
 そうであればこそ、本書が、調べたり考えたりする上で、多くのヒントを与えてくれると思います。


〈目次〉

 序…今西祐一郎
 introduction ―わからないことがあるからこそ、きっと研究は面白い

Part.1 読みが変わる・変える

■和歌
 01勅撰集………
  『古今集』を読む―定家本に残るある写本の痕跡…浅田徹
  『新古今集』の本文―校本の作成に向けて…寺島恒世
 02古今六帖………
  貼紙の形態と本文の錯簡から底本を推察する方法
   ―黒川本『古今和歌六帖』写本と寛文九年版本…古瀨雅義
 03私家集………
  私家集伝本の本文―歌仙家集本系統の本文を中心に…藤田洋治
  歌物語的私家集・日記的私家集…妹尾好信
 04歌学歌論………
  「作者自筆本」から何が汲み取れるか―『近代秀歌』の定家自筆本冒頭部を見る…浅田徹
 05古今伝授………
  古今伝授…鶴崎裕雄
 06和漢朗詠集………
  橋の下の菖蒲―『和漢朗詠集』を読む…齋藤真麻理

■物語
 01伊勢物語………
  本文と絵が織りなす世界―『伊勢物語』二三段の場合…藤島綾
  古注釈書を読む―『伊勢物語闕疑抄』の場合…山本登朗
 02多武峯少将物語………
  訪書の喜び―多武峯少将物語の諸本調査…松原一義
 03源氏物語………
  書写により変異する本文―『源氏物語』を写本で読む…伊藤鉄也
  女房の「たばかり」―『太平記』から『源氏物語』を読む…今西祐一郎
  抜書の方法―『源氏物語』の享受世界―…原豊二
 04狭衣物語………
  作り物語から御伽草子へ―『狭衣物語』と「狭衣の草子」並びに天稚御子…勝俣隆
 05とりかへばや………
  写本で伝わる物語―後期物語と『とりかへばや』…西本寮子
 06中世王朝物語………
  写本の書写年代と物語の成立…小川陽子

■歴史物語
 01弥世継………
  幻の「弥世継」をさがす―世継物語(歴史物語)の継続と変転…福田景道
 02栄花物語………
  写本のかたち、本文のちがい―『栄花物語』の場合…久保木秀夫

■日記・随筆
 01土左日記………
  著者自筆原本の復元―『土左日記』の場合…小林一彦
 02枕草子………
  『枕草子』本文から見る先行文学享受の有り様―清少納言が見た『古今和歌六帖』…古瀨雅義
 03紫式部日記………
  現在の作品形態を超えて考える―『紫式部日記』…田渕句美子

■芸能
 01能………
  世阿弥は王朝文学からどのように能を作ったか―能「井筒」を例として…小林健二

Part.2 本をみる・さがす

■基礎知識
  書誌学の手引き―本をみる・さがす前に

■書誌学
 01奥書・識語………
  奥書・識語…日下幸男
 02刊記………
  刊記―歌書の刊・印・修…神作研一
 03古筆切………
  古筆切…久保木秀夫
 04短冊………
  短冊―美の小宇宙…神作研一
 05絵画………
  絵入り写本をみる・さがす―『扇の草子』を例に…安原真琴
  版本の挿絵を読む―歌書を中心に―…田野慎二
 06禁裏・幕府………
  禁裏・宮家の蔵書―砂巌所収「伏見殿家集目録」をめぐる問題…小川剛生
 07国学者………
  近世の注釈と創作の間―賀茂真淵の『伊勢物語古意』をめぐって…鈴木淳

■文献資料・文献情報
 01マイクロ・紙焼etc………
  マイクロ資料・デジタル画像の活用 …齋藤真麻理
 02複製本・影印本………
  複製本・影印本の活用…海野圭介
 03翻刻・校本・校訂本………
  翻刻と校訂―日本古典文学作品を読むために…小林健二
 04web・DB 、蔵書目録………
  「新出」伝本のさがし方―『今鏡』の場合…久保木秀夫
 05歴史研究の立場から………
  日記・記録の写本について…小川剛生
 06原本………
  古典籍の原本を見る…落合博志

■人間文化研究機構 国文学研究資料館 図書館利用案内

 掲載図版一覧
 あとがき…小林健二
 執筆者紹介

 この本は、〈読む事典〉だと言えます。
 私は、今すこしずつ読み出しました。通勤時間が長い私にとって、電車の中で一つ二つ三つと読み耽っています。知っていること、知らなかったことの確認ができ、知的好奇心をいやが上にも掻き立ててくれる内容なので、ページを繰るのが楽しくなっています。
 
 
 

2012年5月29日 (火)

伊藤ハムの糖質ゼロのハムはどこにある

 糖質制限食の一つとして、私は日本ハムの製品をよく買います。
 
 
 
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 この日本ハムの糖質ゼロ商品は、さまざまな店で見かけます。

 これに対抗したのか、伊藤ハムが「ダブルファイン」シリーズとして「ロースハム」「ベーコン」「あらびきウインナー」を出したというニュースをちょうど1年前に見ました。しかし、店頭ではいまだに見かけません。

 昨年春の伊藤ハムのホームページに、

〜家族の健康を想う皆さまに〜
2つのいいこと『ダブルファイン』シリーズ3品を新発売!

「伊藤ハムのダブルファイン(2011年2月7日版)」

というものが掲載されています。
 これは一体なんだったのでしょうか。

 そして、今年の春にはほぼ同じ内容で、

2つのいいこと『ダブルファイン』シリーズをリニューアル発売!

「伊藤ハムのダブルファイン(2012年2月13日版)」

として掲載されています。

 2012版の記事を見ると、2011年に発売はされたようです。それが、1年経った今年の2月にリニューアルとして、パッケージのデザインも赤系から緑系に変更しての発売のようです。
 しかし、今年になっても、この商品は私の行動範囲の中には一つとして見ることはありません。

 また、本年度の伊藤ハムのホームページでは、

表現も“糖類ゼロ”を“無糖”、“塩分カット”を“減塩”と分かり易さを優先した表記に変更しました。

という表現が加えられています。昨年度の表現が問題視されたのでしょうか。
 いずれにしても、昨年も今年も私の生活圏では見かけません。
 さて、どこに行けば売っているのか、スーパー巡りがまた楽しくなりました。
 
 
 

2012年5月28日 (月)

糖類ゼロのチョコと糖質ゼロの羊羹などなど

 最近、甘いものが欲しい時に口にしているお菓子があります。
 まず、糖類ゼロのチョコレートです。
 
 
 

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 パッケージの裏面には、こんな記載があります。
 
 
 

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 これによると、糖類はゼロでも、糖質は1本につき2.6グラムあるようです。
 ここで、ややこしい「糖質」と「糖類」の違いについて、アサヒビールのホームページからわかりやすい説明を引用します。

栄養表示基準によると、「糖質」、「糖類」は以下のようになります。
「糖質」とは、『炭水化物から食物繊維を除いたもの』の総称です。
「糖類」とは、『単糖類・二糖類』の総称です。『「糖質」から「多糖類・糖アルコールなど」を除いたもの』の総称とも言えます。
栄養表示基準では、総重量の中で、水分、アルコールの他、たんぱく質や脂質、ミネラル、食物繊維のいずれにも分類されないものは「糖質」となります。栄養表示基準上の炭水化物、糖質、糖類の関係を分かりやすく図解すると下記のようになります。

 
 
 
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 そして、お点前をいただく時以外は禁断の羊羹。
 これも、糖質ゼロだとのことです。
 
 
 
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 この羊羹のパッケージの裏には、次のような表示があります。「還元麦芽糖水飴」が使われています。
 
 
 

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 実際に食べても、あまり血糖値はあがりません。直後ではなくて、1時間後の測定値ですが。
 それなりに、抑制されているようです。ただし、長期的に見て、その効能のほどはまだわかりません。あくまでも、自分の身体を使った実験中なのです。

 共に、京大病院の地下にある売店で見かけたのが最初でした。

 チョコは、今では大きなスーパーの食品売り場に並んでいます。100円ショップでも、東京の宿舎の近くの店では、198円で売っています。

 今春、鳥取県へ行った時、鳥取駅前のスーパーマーケットでも、このチョコは売っていました。

 これらは、今後とも支持が拡がればさらに入手しやすくなることでしょう。また、これに類する商品もたくさん開発されるでしょう。

 こうした商品は、「糖質制限ドットコム」の通販にたくさんあります。
 例えば、「糖質制限パン」「糖質制限食お好み焼き」「低糖質どら焼き」「京まんじゅうまいこ」「京NAGOMIおからフィナンシェ」「健康黒豆パスタ」「こんにゃく焼きそば」「こんにゃくラーメンとんこつ」「糖質オフ トマトケチャップ」「ラカントファイバージャム」などなど。商品リストを眺めているだけで楽しくなります。

 今はまだ試行錯誤が繰り返されています。ますます完成度を高くして、廉価に普及することを願っています。
 世はまさに、「低カロリー時代」ではなくて「糖質制限食時代」が到来しようとしています。
 ビールや食肉加工品については、後日とします。
 
 
 

2012年5月27日 (日)

学会で研究発表をする基本姿勢

 東洋大学へ行くために地下鉄白山駅を出ようとしたところ、改札口で伊井春樹先生とばったりと出会いました。昨日の大役を終えられたばかりの先生と、道々いろいろなご相談をしながら会場へと向かいました。

 会場では、隣にお座わりの先生が時々目を瞑っていらっしゃいました。いつものことですが、疲れが溜まっているご様子です。私が最近体重がやっと50キロを超えたことを伝えると、君と反対で僕は60キロを切るようになって、とおっしゃっていました。ベストは64キロのはずです。スポーツジムでのトレーニングは続けておられます。しかし、国文学研究資料館での館長時代以上に、今はさらにご多忙の日々を送っておられます。
 とにかく、無理をなさらないように、とお声がけするのが精一杯です。

 今日の発表の1番手は、豊島秀範先生の一番弟子である神田久義君です。
 発表題目は「『狭衣物語』の堀川大殿 ─今姫君との関係を起点として─」です。なかなかしっかりした発表でした。
 
 
 
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 発表内容に関しての詳細なコメントは、ここに記す立場にないので控えます。豊島先生から質疑応答の対応を含めて温かい指導があることでしょう。
 問題意識を持たずに聞いた者として、以下に少しだけ記します。

 発表資料(レジメ)が、とにかくよくできていました。
 
 
 
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 まず、自分が使う物語本文が内閣文庫本であることを明示してあります。一般に流布する活字による校訂本文の所在と、異本に異文があればそれも明記されています。さらには、先行研究もあげてあり、問題点の所在が初めてこの問題について聞かされる者にもよくわかります。

 さらに、発表内容に即した大見出しがあり、その中に引用した資料30点のすべてに小見出しが付されています。それぞれの資料が、どのような意図による提示であるのかが明快です。
 また、引用本文で検討を加える箇所には、適度な傍線も施されています。最近の発表資料には、四角囲いや白黒反転や網掛けを始めとして、さまざまな飾りがなされているものをよく目にします。ネイルアートのようなゴテゴテした資料を見せられると、目がチラチラします。凝り過ぎです。気が散って、発表に聴き入ることができにくい場合もあります。
 その点、神田君の資料は抑制が利いています。もちろん、発表内容の要旨は、冒頭に今回の発表者全員の所にまとめてあります。

 今回の発表で自分が言わんとすることを何とかして伝えたい、という気持ちが伝わってくるレジメとなっていました。この発表資料に目を通すだけで、おおよその話の流れがわかります。欲を言えば、もう少し大きな文字で印字してあれば、さらに見やすいものとなったことでしょう。もっともこれは、私の加齢にともなう目の問題ではありますが……

 短時間での研究発表における資料の提示としては、お手本と言える出来だったと思います。優等生的な出来映えのせいか、かえって文字だらけという印象が残りました。この対処としては、図表の活用があります。図解はプレゼンテーションでは大切な働きをするものですから。
 限られた時間に限られたページの資料を提示することは、いろいろと苦心するところです。さらなる工夫と効果を目指してほしいものです。

 発表内容に関して一つだけ触れておくと、お2人の先生の論文を引いて自説と違う例にしていたことについて、その提示の仕方や口頭での表現にもう少し配慮があればよかったのでは、と思いました。
 その論文の筆者は、そのような意図のもとにその引用箇所を執筆されたものなのか、ということです。論文の読み取りと引用の仕方です。自分の都合のいいような部分だけを切り取ってきた引用になっていなかったのか。
 実際に質疑応答の場面において、引き合いに出されたお一人の先生が、自分の論文の意図を確認しておられました。
 なかなか難しい問題です。しかし、先行研究をいかに読み解いて自説との接点に対峙させるかは、研究発表での技術的な問題にもなります。これは、さらに研鑽をしてほしいと思いました。

 質疑応答での対応は、丁寧な応答で好感を持ちました。
 最近、質問をしていただいた方との距離感覚が測れない場面によく出くわします。先生からの質問と、大学院生などからの質問に対して、その対応の仕方は自ずと異なるはずです。そのためにも、質問者は所属と名前を言ってから質問しているのです。
 自分が発表者であるという立場を自覚して質問に対処しないと、とんでもない上から目線になったり、失礼な応対になったりします。衆人環視の中での人間関係への配慮は、敬語という道具でうまく切り抜けられます。問われたことに応えることに必死になるあまり、ついこの対人関係のバランスを失したりしがちです。
 そうした意味で、今日の神田君の対応はよかったと思います。

 全体として私の聞いたところでは、提示した命題に対する実証過程と論理と結論に破綻はないように思いました。しかし、それが他人を納得させるものとなっているのかどうかは、今後の評価を待つしかないと思います。

 神田君には、私に関わる仕事を助けてもらうことがあります。現在、国文学研究資料館にもアルバイトで来てもらっています。いろいろな場面で勉強を積み重ねて、さまざまな分野で活躍する研究者に育ってほしいと願っています。

 今回の学会の中で、休憩時間などを通して、多くの先生方や学生さんと話をする機会がありました。これまでのお付き合いのつながりを確認し、今問題しておられるテーマや内容がわかり、さらには新たな情報をいただくなど、学会は貴重な情報確認と収集の場であることを再認識しました。

 白山駅への帰り道で、何と東洋大学へ向かわれる室伏信助先生とばったりと出会いました。
 発表資料だけでももらうために来たとのことです。最近は歩くのが少し苦痛になって、とおっしゃっていたので、すぐに神田君にメールと電話をして、室伏先生の学会資料を確保してもらい、来週私が受け取ってお渡しすることにしました。そして、脚の調子がよくないとおっしゃる先生が誘ってくださるままに、駅前の喫茶店でいろいろなお話を伺いました。
 先生からは、いつもたくさんのお話を伺っています。今日はまず、昨春刊行した『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」第1集』の巻頭に置いた室伏先生と私の対談について、親しくなさっている河北騰先生から訂正してほしいとの連絡が入っている、との話から始まりました。それは、15頁の室伏先生の発言の中にある、立教高校の宿舎に入っていたというのは間違いで、自分の家が新座駅の近くにあったのだ、ということなのだそうです。まずは、この場を借りて訂正します。今秋刊行予定の『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」第2集』で、改めてお詫びと共に訂正するつもりです。
 そして1時間半ほどでしたでしょうか、意義深い楽しいお話を伺うことができました。
 お疲れの出ない内に、また荻窪でお酒をご一緒に、という約束をしてお別れしました。
 
 
 


2012年5月26日 (土)

中古文学会春季大会のシンポジウム-2012年度

 今回の中古文学会は、東洋大学で今日と明日の2日間にわたって開催されます。
 まず今日の初日は、日本文学研究を国際的な視野で牽引してこられた先生方の講演からです。

 第一部は特別講演として、東日本大震災を機に日本国籍を取得なさったドナルド・キーン先生(コロンビア大学名誉教授)です。「日本の古典文学の魅力」と題する講演でした。
 「あいまいさ」というものを取り上げて、日本文学の特質を語られました。
 先生は今年90歳です。お年を感じさせないバイタリティーで、日本全国を回っておられます。
 
 
 
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 キーン先生は、かつて本ブログで紹介したように「雨男」です。

「消失したブログの見出しリスト」(2010年7月 8日)

「雨男キーン先生とポルトガル語訳『源氏』」(2010年7月 9日)

 今日も内心心配していました。しかし、日本国籍を取得なさったこともあってか、今日は幸いにも雨は降りませんでした。晴れて「雨男」返上、というところのようです。おめでとうございます。

 続いて、ハルオ・シラネ先生(コロンビア大学教授)です。「世界へ開く和歌 ―言語・ジャンル・共同体―」というタイトルです。
 ハルオ・シラネ先生にも、ニューヨークなどでお世話になりました。日本文学を大きな視野でご覧になっています。

 冒頭で、研究の紹介が日本からの一方通行になっているという、指摘がなされました。きついお灸です。
 また、日本の和歌は世界文学として認知されていないとのことです。俳句は認められているそうです。俳句は、イメージによる理解が大きな要素となっているからだとのことです。

 最後に伊井春樹先生(逸翁美術館館長、前国文学研究資料館館長)です。「日本古典文学国際化への戦略」と題する、スケールの大きなお話でした。日本国内での人文学の国際化についての現実を、わかりやすく語ってくださいました。
 日本古典文学の情報発信として、4つの提案がありました。

(1)共同研究と情報の公開
(2)研究拠点の形成及び評価
(3)研究成果の発信と翻訳事業
(4)研究者の育成と留学生の受け入れ態勢

 なお、あらかじめインドの大学での日本文学の研究実態を調べるように、という指示がありました。ご報告したのですが、今日は他の国も含めて時間の都合でまったく触れられませんでした。先生ご自身が精力的にメールなどで、イギリス・カナダ・イタリア・アメリカ・タイ・中国・韓国など海外のお仲間から情報を集められたようです。それを伺うことができなかったのが残念です。またの機会ということにして、伊井先生の情報分析の鮮やかさを楽しみにしています。
 今日も、持ち時間の40分ちょうどで終わりました。いつものことながら、職人芸です。

 休憩の後、「第二部 国際シンポジウム ―日本の古典をどう読むか―」に移りました。

 進行・コーディネーターは今西祐一郎先生(国文学研究資料館館長・写真右端)です。
 
 
 
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 パネラーとして、キム・ジョンヒさん(檀国大学校、右から2人目)が、韓国での『源氏物語』の翻訳の実情を報告なさいました。これに関しては、特に私にとって新しい情報は何もありませんでした。ぜひとも、原文からの『源氏物語』のハングル訳にチャレンジしてほしいものです。

 2人目はクリスティーナ・ラフィンさん(ブリティッシュ・コロンビア大学、中央右)です。
 彼女の「国際化」という問題提起は、日本人にとって痛いところを突いたものでした。また、いろいろな先生との出会いから、さまざな研究テーマにぶつかり、そして今があることがよくわかりました。海外で日本文学を研究なさる方々の大変な研究環境がわかり、日本側としてはいい共通理解を得られる場となりました。
 質問に答える中で、カナダでは翻訳だけでは仕事が続けられない、クビになることにつながるという発言が記憶に残りました。翻訳という仕事は大事なことです。しかし、それが実績につながらないのでは、いいものができることは期待できません。どうか、その意義を世界中に周知したいものです。

 3人目のレベッカ・クレメンツさん(ケンブリッジ大学、中央)は、これまでにも本ブログで何度も登場してもらっている、研究仲間です。先日の「読書雑記(50)西村慎太郎『宮中のシェフ、鶴をさばく』」(2012年5月22日)でも、冒頭で紹介しました。海外の若手研究者として私も応援している一人です。
 今日は、日本語学習の経験やオーストラリアとイギリスでの日本文学研究の特徴をまとめて報告していました。呼ばれた立場が中途半端だったのか、いつもの彼女の明快さは発揮できなかったようです。もっと研究内容にシフトしたことを語ってもらう機会を楽しみにしましょう。

 今井上さん(東洋大学、中央左)は、『源氏物語』の引き歌があると思われる箇所を例にして、翻訳における違いを検討して報告する内容でした。あわせて、翻訳を通して日本人として貢献できることは何かを提示されました。なかなか手堅い発表でした。

 以上のパネラーの報告を受けて、ハルオ・シラネ先生と伊井春樹先生がコメントを付けられました。

■ハルオ・シラネ先生
・文学理論、アイロニーは、海外では共通のベースになる。
・宇治十帖が優れている。
・懸詞はユーモアと関係する。日本語は母音が少ないので、多様性に欠ける。
・俳句はイメージで翻訳する。和歌は翻訳しにくい。散文における和歌は理解しやすい。
・コロンビア大学の最初の博士論文は翻訳だった。
 その反動として翻訳を業績として認めない風潮がある。
・国際化にあたっては、口頭発表と発表資料に英語を使うこと。
・日本人は、可能な限り英語で発表してほしい。特に若い人たちは。

■伊井春樹先生
・国際化という言葉に脅迫観念を持っているのではないか。
・翻訳は業績にならないのか。
・オーストラリアの日本文学研究が衰退していること。
・引き歌の認定の難しさ
・翻訳において、引き歌は訳せないのでどうするかということについては、翻訳者の責任でしかない。

 以上のやりとりを取り仕切られた今西先生に対して、ハルオ・シラネ先生から国文学研究資料館に向けての要望が出されました。それは、雑誌論文に関して、論文の本文が出てこないということです。データベースとして、研究に関するものが遅れていると。とにかく、論文そのものをデータベース化してほしい、ということでした。
 今西館長からの回答は、権利の問題に尽きるものでした。著作権と翻刻や図版掲載の問題があって、論文本体を公開できない実情を述べられました。
 私は、ここで問題となっている「国文学論文目録データベース」の作成を国文学研究資料館での業務として担当しています。実際には、多くの大学院生などが来て、論文を読んでそれを分別・分類しています。そのため、論文題目や副題などではわからないキーワードで、驚くほどの正確さで論文が検索できるのです。しかし、読書感想文的な論文はどうでもいいのですが、手堅く資料をもとにして書かれた論文などは、取り扱う資料の所蔵者の許可を得て論文を執筆し、翻字をしているのです。そのため、その掲載許可を一々とっているので、それをウエブにそのままま掲載する前に、さらに所蔵者などに電子的なデータにして掲載することの確認をとる必要があります。つまり、手堅く資料を駆使した論文ほど、その公開にはさまざまな前処理が必要なのです。こうしたものに限って、思いつきの感想や印象の羅列でないだけに、意義深いのものが多いのです。
 館長が今日もおっしゃったように、日本古典文学に関する論文の一般公開は、こうしたクリアすべき問題がまだまだあるのが実情です。一人でも多くの方にご理解をいただくしかない問題だと思っています。ただし、公開の許可が得られた資料を扱っている論文は、1日も早くウエブ上に公開したいものです。この判別の手間に、今後とも相当の時間が必要だといえるでしょう。利用者レベルではなく、執筆者や公開のお手伝いをしている国文学研究資料館が抱える難しい問題なのです。

 予定された3時間弱の間、よくありがちな退屈さや無意味な沈黙もなく、おもしろくやりとりを聴き入るシンポジウムでした。充実した時間を、ありがとうございました。
 
 
 

2012年5月25日 (金)

授業(6)翻訳事典の上代を確認

 地下鉄半蔵門線の渋谷駅に降り立つと、4日前に発生したエスカレータでの切りつけ事件のことが頭を過ぎりました。今いる真下で起こったことを思い出し、2台のエスカレータに乗った時、思わず後を振り向いて周りに誰がいるのか視線を走らせました。

 今から30数年前の学生時代には、学校の行き帰りにこのあたりをブラブラしていた我が街のはずです。しかし、こうして何となく不気味さを感じる激変に、見知らぬ街に来た感覚に捉えられました。特に地下鉄網はあの頃とは格段に発達し、地下街もきれいになりました。
 今日も開店数分前のヒカリエへ向かうエスカレータを使って、地上に出ました。地上に出ると、そこは見知った街です。駅の周辺はほとんど変わっていません。特に山手線の内側である東方向は。

 授業の最初で、前期試験について連絡をしました。論文・報告書・解題・翻訳・資料などを仕上げて提出です。細かい指示と注意点を説明しました。

 今日からようやく、日本古典文学の翻訳について、具体的な事例を紹介しながら説明をしました。
 使ったテキストは、『日本文学研究ジャーナル第4号』(伊藤鉄也編、2010年)に収録した「翻訳事典(上代〜近世)」です。

 実際には、『第2号』に16点、『第3号』に22点の翻訳解題を掲載し、『第4号』では上代〜近世までの広い時代をカバーする103点を収録しています。
 参考までに、それぞれに掲載した作品のリストを転載しておきます。
 
 
 
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 ここで『第4号』を使うのは、一番多くの作品を取り上げているからです。
 今日は、「上代」に関してだけ確認をしました。
 参考までに、「上代」に関するページをPDFでダウンロードできるようにします。
 
 
「翻訳事典・上代」をダウンロード
 
 

 作品別に見ると、『古事記』6点、『風土記』2点、『日本書紀』1点、『催馬楽』1点、『万葉集』10点、『古語拾遺』1点の計21点です。

 これらは、ほとんどが福田秀一先生から託された資料による解題です。
 これに関することは、「【復元】福田秀一先生を偲んで」(2011年4月21日)をご覧ください。

 そうした事情があっての解題なので、「上代」に関しては最近の情報は盛られていません。

 今年は『古事記』が完成して1300年です。歴女に加えて〈古事記ガール〉がマスコミを賑わわせています。奈良県でも、2020年までの長期プロジェクト「記紀・万葉プロジェクト」を開始したとか。

 5年前まで、私は奈良県民でした。何かお手伝いできないかと思案中です。特に私は生まれが島根県で、それも神話の里・出雲なので、『古事記』には思い入れがあります。専門とする時代は異なりますが、違った視点から『古事記』や『日本書紀』を機会が得られたら読み返したいと思っています。

 また、今月5月10日の京都新聞に、京都大学付属図書館の「清家文庫」に、清原宣賢自筆の写本『古語拾遺』が発見され収蔵されたニュースが載りました。これは、天理大学所蔵の現存最古の写本である嘉禄本とは本文や読み仮名に違いがあり、重要文化財級の貴重な本だそうです。新しい資料が見つかっているのです。

 國學院大學は上代文学に関しても長い研究の伝統があります。
 ここの若い方々の手が借りられたなら、この「翻訳事典」の上代編を補強したいものです。
 
 
 

2012年5月24日 (木)

糖質制限食を続けて来ての朗報

 すでに何度も書いてきたことですが、糖尿病対策としての糖質制限食についてお医者さんたちの理解が得られていない現状を、非常に残念に思っていました。
 このことは、自分自身の体験を通して痛感してきたものです。
 ところが、どうやら時代の流れが微妙に変化しだしたようです。

 私は毎日、「ドクター江部の糖尿病徒然日記」というブログを読んでいます。京都・高雄病院の江部康二先生が、毎日情報を発信しておられるものです。それが、非常に参考になる具体的な事例のオンパレードなので、いい勉強となっています。
 畑違いの仕事をしているので、医学のことなどまったく知りません。しかし、次第に耳学問というのでしょうか、いろいろと専門的な言葉がわかり、状況がわかるようになったのです。

 さて、そのブログに、日本糖尿病学会が糖質制限食に少し理解を示した、というニュースが流れていたので引用します。

 「日本糖尿病学会で糖質制限食が選択肢の一つに!」(2012年5月18日)

 〈しらねのぞるば〉さんから、「歴史的瞬間に立ち会えました」というコメントが、江部先生のブログに寄せられたのです。

 その報告によると、今月5月18日に開催された「第55回日本糖尿病学会年次学術集会」において、次の3点で意見の合意が得られたそうです。


(1)糖尿病食事療法は一律ではなく、患者に応じたオプションがとられるべき
(2)糖質制限食はその一つの選択肢となりうる
(3)糖質制限食における糖質量は130g/day程度を目安とする

 私は現在、糖質量が20〜40グラム/食となるような、スーパー糖質制限食を目指して食事をしています。それから見ると、この「130」というのはやや緩いものです。しかし、これまではまったく聞く耳をもたなかったと言われる日本糖尿病学会が、こうした数値であっても公に合意を見せたことが重要なのでしょう。

 専門分野が異なるので、その意味するところの重さや今後のことはわかりません。しかし、とにかく糖質制限食が学会でも無視できないものとなっていることは事実のようです。

 私が医者の指導を無視して勝手に糖質制限食に取り組みだした昨夏までは、栄養指導という名目で、1500キロというカロリー制限食の指針を示されていました。これは、1日230グラムの糖質量の摂取にあたります。今では、医者の言うことを聞かずに、糖質制限食という食生活に変更したことはよかったと思っています。
 糖質制限食に取り組んで9ヶ月経ったところなので、まだ確かなことは言えません。しかし、血糖値もヘモグロビンA1cの値も、糖尿病の基準とされる領域からセーフの範囲に属する身になりました。

 学会やお医者さんが糖質制限食にさらなる理解を示すようになったら、また病院に顔を出そうかと思っています。非常に上から目線です。これまでの自分の数値はこまめに管理しているので、その時にはこの数値をもとにした指導を受ける中で、より健康的な生活を送ろうと思っています。お医者さんの指導を受ける、というよりも、一緒に対処していくという表現が適切ですが……
 
 
 

2012年5月23日 (水)

江戸漫歩(56)佃テラスから見るスカイツリーと業平橋駅

 昨日5月22日に東京スカイツリーがオープンしました。
 全国的にニュースで広く取り上げられたので、多くの人の知るところとなりました。
 東京タワーに次いで、次世代の東京のランドマークとしてスタートしたことになります。

 私がいる宿舎の近くからも、これが見られます。
 隅田川沿いに歩いて佃島あたりに行くと、川越しに見えます。

 今春3月20日に、石川島公園の中にあるパリ広場に、佃テラスというものができました。
 
 
 
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 これは川俣正氏の作品で、「東京インプログレス─隅田川からの眺め」というプロジェクトの一環として、変遷する都市東京の過去と未来について考え、また定点観測のために建設されたものです。
 第1作は、荒川区の「汐入タワー」で、この「佃テラス」は第2作目だそうです。

 このテラスに立って、スカイツリーを撮影しました。
 
 
 
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 目を川下に転ずると、中央大橋から東京タワーの方角(写真の左外)が遠望できます。
 
 
 
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 このスカイツリーの近くにあった東武鉄道伊勢崎線の「業平橋駅」は、今回を機に「とうきょうスカイツリー駅」(東武スカイツリーライン)と名称が変わりました。ただし、これまでのこともあり、「旧業平橋」と併記されています。

 また、バス停の名前も変更になっています。

・駅前にあった「業平橋駅前」は「とうきょうスカイツリー駅前」に変更
・浅草通り側にあった「業平橋」は「とうきょうスカイツリー駅入口(業平橋)」に変更
・駅から西側に「東京スカイツリー前」

 つまり、鉄道もバスも「業平橋」という名前は併記か廃止となりました。

 『伊勢物語』の「東下り」の段でよく知られる地名が、今回このような扱いを受けたことは、仕方のないところでしょうか。業平は都人なので、東京には特に縁があるわけではないのですから。
 地名等は変遷するものです。しかし、古典に親しんでいる者の一人としては、もったいない気がします。私なら「なりひらスカイツリー駅」にしたいところです。

 駅名の変遷を確認してみました。


・明治35年=吾妻橋駅
・明治43年=浅草駅
・明治43年=東京鉄道業平線
・昭和6年=業平橋駅
・平成24年=とうきょうスカイツリー駅(旧業平橋)

 また、駅南側の交差点の名前も、「業平駅」→「業平橋駅」→「とうきょうスカイツリー駅」と移り変わりました。

 思い立って、先ほど散策がてら隅田川沿いの石川島公園からライトアップされたスカイツリーを望みました。
 
 
 
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 色がやや不自然かと思われますが、それでも折々に目を楽しませてくれそうです。
 このタワーの下も活気が出ることでしょう。それも、今後が楽しみです。
 
 
 

2012年5月22日 (火)

読書雑記(50)西村慎太郎『宮中のシェフ、鶴をさばく』

 息子が料理を専門的に勉強するために、調理師専門学校に入学したのは数年前です。日本料理を極めるという意気込みでした。今はイタリア料理を勉強中のようです。しかし、和食の勉強からは得難いものをもらったようです。

 その息子の入学式の時、大阪城ホールの舞台では、儀式としての「式包丁」が行われました。確か、生間流だったと思います。烏帽子、袴、狩衣姿の家元が、包丁と菜箸で鯛を捌かれました。

 今でも、息子は私にいろいろな食事を作ってくれます。最近は、糖質制限食を頼んでいます。やはり、和食から得た技術は、さまざまな局面で生きているようです。

 さて、本書『宮中のシェフ、鶴をさばく 江戸時代の朝廷と包丁道』(西村慎太郎、歴史文化ライブラリー344、吉川弘文館、2012年5月、223頁)は、実は私の同僚の著作です。
 
 
 
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 歴史畑の若手研究者として、2年前に国文学研究資料館に赴任した新進気鋭の研究者です。
 ケンブリッジ大学の大学院生が尋ねてきた時も、近世の問題ということもあり私には手に負えませんでした。そこで、西村氏にそのサポートを頼み、貴重な助言の数々をして私の負担を軽減してもらえました。とにかく、気持ちのいい青年です。ただし、本書には少しコメントしたいことがあるので、敢えてここに取り上げます。

 本書は、私にとっては息子との話題の共有にもなればと思って丹念に読みました。最初は、歴史的な記述が続きます。しかし、次第に包丁道の話がおもしろくなっていきます。
 一般の方には、語られる内容が固苦しい感じで読みにくいかもしれません。しかし、教わることの多い一冊です。

 以下、私がしるしを付けた箇所を抜き出しておきます。


もし江戸時代の天皇に「権威」が存在するなら、将軍家は天皇家との血縁を濃くしたいと思うであろうが、それをしている形跡が認められないことからも、天皇に「権威」がないことを前提に考えるのが普通であろう。(16頁)

・安永年間の「安永の御所騒動」が、安永8年に21歳で亡くなった後桃園天皇の死期を早めたのではないか、という指摘は興味深いものです。


皇位は遠い親戚の兼仁親王に移るが、ベテラン「シェフ」の大量解雇と新人の大量雇用が死期を早める淵源となった、といってはいい過ぎであろうか。(54頁)

・天皇の食事スタイルについて。


「明治時代以降の朝食はいわゆるフレンチスタイルで、カフェオレとパンのみであった。(57頁)

・由紀さおりの姉安田祥子の夫は澤田久雄。その久雄の兄信一の妻である堤正子は宮中の魚を担った御用商人奥八郎兵衛の11代目の孫。魚を扱う御用商人奥八郎兵衛は、丸太町富小路東入に店舗を構えた。この家は、清和天皇以来の宮中の魚を担う由緒ある家。奥八郎兵衛は「星ヶ丘茶寮」を建設し、北大路魯山人が美食家の料亭にした。空襲で消失した茶寮は、戦後は東急の五島慶太が東京ヒルトンホテルとし、そこにビートルズが宿泊した。(61頁)

・江戸時代の公家の婚礼では、平安時代のような「三日夜餅」や「露顕」というしきたりはなかったようだ、とあります(93頁)。

 とすると、いつ頃まで伝承していたのでしょうか。食物と儀式に関して、興味のあるところです。

 本書は、江戸時代の料理人を巡る話から、やがて鶴包丁の話になっていきます。長屋王の屋敷に「鶴司」が置かれていたというのですから、古くから鶴は儀式の中などで食されていたようです。献上や下賜に鶴が用いられているのです。
 今では食べることのできない鶴です。どのように調理され、どんな味がしたのか、興味を持って読み進んでいきました。まさに、鶴の解体ショーです。ただし、この鶴の話は残念ですが失速します。

 鶴包丁で使われるのは、タンチョウヅルではなくて、クロヅルやマナヅルだったそうです。具体的になればなるほど、食事とはいえ無縁だった動物なので、イメージが生々しくなります。

 松岡行義の『後松日記』に記されている天保4年(1833)の「包丁ノ稽古」が紹介されています。


「包丁道」という名称をだけ見ると、家元がいて、秘伝があって、複雑な作法があるように考えがちだが、実際はそのようなものがないということがわかる。(129頁)

 包丁道に関する資料が少ないこともあってか、後半は関係者の生き様の話になります。歴史話となり、やや退屈になります。鶴がどこかへ行ってしまったからでもあります。

 資料が少ないことも、この分野を記述することの難しさがあります。

 堂上公家の姿がよくわかりました。四条家の包丁道も、よくわからないながらも興味深く思われました。
 ただし、鶴を捌いた高橋家から包丁道を家職とした四条家の話に移る130頁あたりから、しだいに話の生彩をなくしているように思えます。手堅い歴史の舞台裏を語ることが多くなるのです。やはり、本書の標題となっている〈鶴をさばく〉ことをテーマとして一書を編むには、決定的に資料の少なさが影響を与えているようです。後半は、なんとか包丁道に関わりのあるネタでつないだ、という読後感が否めません。

 本書は、歴史を包丁道という視点で見る点で、基礎的な問題を取り上げた貴重なものとなっていると思います。しかし、それと本書のタイトルである[宮中のシェフ、鶴をさばく]とが乖離しています。サブタイトルの[江戸時代の朝廷と包丁道]はわかります。このメインタイトルが内容と密接にリンクさせられなかったことは、残念なことだと思われます。
 書名に惹かれて手にして読んだ人は、読み終えてそこに違和感を抱くのではないでしょうか。否、半ばから読み流されてしまうのではないでしょうか。
 書名が良すぎたのです。内容の良さが、この書名には盛られていません。

 しかし、著者は調査研究を積み上げて、今後ともさらなる成果を示していかれるはずです。
 私は、本書が契機となり、著者のさらなる研鑽と進展が楽しみになりました。
 
 
 

2012年5月21日 (月)

国際日本文学研究集会で研究発表者を募集中

 国文学研究資料館主催の「第36回 国際日本文学研究集会」が、今年11月17日(土)と18日(日)に開催されます。
 日本文学に関する国際研究集会としては老舗です。
 ドナルド・キーン先生、ロイヤル・タイラー先生をはじめとして、世界各国で活躍なさっている先生方は、みなさんこの国際集会での実績がある方々ばかりです。

 現在、研究発表の申し込みを受付けています。
 今年のテーマは「再生の文学 -日本文学は何を発信できるか-」です。
 研究発表の申込締切は、6月25日(月)必着です。

 募集要領及び研究発表申込書の様式等をダウンロードして、詳細を確認してください。

 25分の研究発表だけでなく、10分のショートセッションや、A0サイズのポスターセッションもあります。
 奮って参加申し込みを検討してみてください。
 また、お知り合いの方にもお勧めください。留学生の方や、海外で研究なさっている方の参加も歓迎します。

 なお、参加費は無料ですが、来場のための交通費・滞在費は各自の負担となります。
 
 
 

2012年5月20日 (日)

源氏物語の表紙絵に関する報告

 今西館長の〈科学研究費補助金基盤研究(A)「日本古典籍における【表記情報学】の基盤構築に関する研究」〉について、一昨日の18日(金)に平成24年度年度第1回研究会がありました。
 参加者11名によって、有意義な研究発表と報告に対する情報交換がなされました。

  日時:2012年5月18日(金)15:00〜18:30
  場所:国文学研究資料館 第1会議室(2F)

 まず、今西館長の「日本語の表記雑感 ―挨拶に代えて」と題するものです。
 近世の版本を中心として、漢字が書かれている本と仮名で書かれた本に関して、たくさんの資料をスクリーンに映し出しての詳細な発表を伺うことができました。
 その内容は、この科研の報告書(第2号)に収録される予定ですので、いましばらくお待ち下さい。

 次は、私と阿部江美子さん(プロジェクト研究員)が「国文研蔵『源氏物語』古写本の書誌情報について」と題する調査報告をしました。
 阿部さんの報告内容は、昨年3月に国文研の所蔵となった鎌倉時代の古写本15冊の表紙に関するものです。表記情報学とは直結しない内容です。しかし、今後とも貴重な資料となる古写本の基本情報となるものなので、この時点で整理しておく意味から報告してもらうことにしました。
 その資料は、いろいろな問題点を提起するものです。興味のある方との情報を交換する意味から、以下にその資料をPDFとして公開します。この資料に目を通していただき、何か関連することをご存知でしたら、ご教示の程をお願いします。
 
阿部・鎌倉期書写国文研蔵『源氏物語』の表紙絵について
 

 阿部さんに続いて、それを補完する意味から、私が「鎌倉期写本における書写傾向 ─国文研本「葵」の場合─」と題する報告をしました。
 以下、今回の報告用の資料を転記します。
 これは、写本を書き写そうとする人の意識を探ろうとするものです。


鎌倉期写本における書写傾向
  ─国文研本「葵」の場合─

    はじめに

 国文学研究資料館には、鎌倉時代の書写にかかる古写本が十数冊所蔵されている。その中から、平成二十三年三月に収蔵された「葵木」巻をとりあげる。その紙面に記されている物語本文の各丁末文字を見ていくと、どのような状態で改丁されているかで興味深い傾向が見て取れる。文節で切れているか、単語で切れているか、語中で切れているかの三つの場合がある。語中で切れるのは、二割以下であることが多い。
 古写本における書写者の心理を反映するものとして、以下に例示しながら検討を加えていきたい。
 なお、書写された文字の傾向は、『源氏物語別本集成』の文節単位を基本として調査した。

    一、鎌倉期書写の古写本に対する私見

 まず、これまでに『源氏物語』の古写本の調査をしてきての私見をまとめておく。

(1)『源氏物語』の古写本では、基本的に親本に書かれている通りに書写されている。行単位でほぼ同等の文字列として書写される傾向がある。
(2)各丁の末尾(左下)は、語彙レベルで改丁される傾向にある。語彙が泣き別れで書写されることは少ない。これは、書写ミスを避けるために、自己防衛的な心理が働いての結果ではないか。
(3)異文は、傍記本文の混入によって発生することが多い。現在私は、『源氏物語』の諸本に書き写された物語本文を、その内容によって、〈甲類〉と〈乙類〉の二種類に分別する私案を提唱している。
  〈甲類〉とは、これまでに私が〈河内本群〉と称してきたグループである。そこにおいては、傍記が本行本文の直前に潜り込むことが多い。
(4)今回調査対象とした「葵」は、伊藤の分別試案で言えば〈乙類〉にあたる。そのことは、ここでは詳述しない。機会を改めたい。

    二、「葵」におけるメモ

〈1〉改丁箇所(一二六例)のほとんどは文節で切れる場所。

  ■文節切れ 六九例(五五%)
  ■語中切れ 二八例(二二%)
  ■単語切れ 二九例(二三%)

〈2〉大島本の漢字表記の部分が、国文研本ではほとんどがひらがなになっている。

 「車」「給」など

〈3〉后、宣旨、宮す所、随身、前坊、大殿などの呼び名や官職名は漢字になる。
  ただし、上達部はひらがな。

〈4〉変体仮名の「伊」は行頭に、「葉」は行末に書かれる。
 その理由は?

〈5〉撥音便の「ん」が多様される。

〈6〉真ん中の三一丁あたりからしばらく「給」が使われ出す。
  三〇丁ウでは漢字一例、ひらがな二例。
  三一丁オには漢字七例、ひらがな三例。

 これまでにも何度か、古写本では丁替わりする時には、書写される文字列は文節単位で切れていることが多いことを報告してきました。今回は、葵祭の直後だったので、第9巻「葵」を取り上げただけです。それでも、この鎌倉時代末期に書写されたと思われる古写本も、6割近い箇所において文節で切れる文字列を写してから次の丁(頁)に移っていました。また、単語に切れる例も含めると、8割の箇所で言葉のまとまりを意識したかと思われる状態で、頁替わりをする書写がなされているのです。
 質疑応答で、単語に切れる箇所というのを、さらに活用語尾などに細分化して見ると、またおもしろい結果が得られるのでは、という意見を伺いました。今後、検討してみたいと思います。
 とにかく、写本を写す人の潜在意識の中には、言葉のひとまとりまに対する意識があった、といっていいと思います。それが、こうした書写する頁が変わるところで、目と手を離して紙をめくる時に、切れのいいところで切って、それからその続きを写そうとする意識が働いている、ということです。
 まだまだ検討例が少ないので、今後ともこの視点で確認をしていきたいと思います。

 変体仮名の「伊」が行頭に集中し、「葉」は行末に集中して書かれることについては、文字のスペースを確保するために、こうした画数の多い縦長の文字で埋めようとしたのでは、という教示をいただきました。確かに、「葉」は言えます。しかし、行頭の「伊」は、まだその下に文字列を行末まで書くので、最初にスペースの確保をしたというのも考えにくいことです。これについても、さらに考えていきます。

 休憩の後は、上野英子先生(実践女子大学)の「源氏物語諸本間における仏教用語の表記法をめぐる基礎調査」と題する研究発表がありました。
 これは、非常に明快でわかりやすく、またその結論に納得できることの多いものでした。室町時代の写本の検討がなかったので、それを含めての成果が、本年度の報告書に掲載されることでしょう。今後が非常に楽しみな研究発表でした。

 次回の研究会は8月末に開催され、9月にはイタリアで国際研究集会として開催されます。
 折々に、この研究会の報告もとりまとめて記します。
 
 
 

2012年5月19日 (土)

鴨長明のシンポジウムに参加して

 今日は、東京の霞ヶ関にあるイイノホールで、「人間文化研究機構 第18回公開講演会シンポジウム」というイベントが、国文学研究資料館の主催で開催されました。
 プログラムは以下の通りです。


【テーマ】
  不安の時代をどう生きるか
  鴨長明と『方丈記』の世界
【講演】
 「転換期の歌人長明の鬱情」 馬場あき子(歌人)
 「方丈を生きる」 山折哲雄(元国際日本文化研究センター所長)
【シンポジウム】
 「いま長明・『方丈記』を読みなおす」
■パネリスト
 荒木 浩(国際日本文化研究センター教授)
 磯 水絵(二松学舎大学教授)
 浅見和彦(成蹊大学教授)
■コメント
 馬場あき子・山折哲雄
■朗読
 和田 篤(元NHKアナウンサー)
■司会
 寺島恒世(国文学研究資料館教授)

 鴨長明を取り上げているのは、『方丈記』が書き終えられた建暦2年(1212)から数えて今年が800年目だからです。今の世相を見据えたタイムリーな企画です。

 会場は、380名ほどの聴衆で埋まりました。
 会場を見渡すと、いつもこのイベントにいらっしゃる中高年の女性よりも、圧倒的に高齢の男性が多いように見受けられました。鴨長明という人間像や、災害の記事が半分以上という『方丈記』という作品の性格と深く関係していると思われます。

 まず、歌人の馬場あき子さんが「転換期の歌人長明の鬱情」と題して講演をなさいました。
 馬場さんとは、学生時代にある宴席で横に座る機会があり、お話に交えていただいたことがありました。あれから40年近く経っても、あの頃と変わらない艶のある若々しい声です。
 いつもそうですが、今日も明快なお話でした。鴨長明集にあるいくつかの和歌を紹介され、わかりやすく長明の人と形を語られました。

 続いて、元国際日本文化研究センター所長の山折哲雄先生の「方丈を生きる」です。
 旅先での薮蚊の話に始まり、良寛や谷崎潤一郎のことに触れながら、芸術を捨てなかった人間的な鴨長明の生き方を語られました。講演慣れしておられることもあり、ゆったりと淡々と語られました。
 比叡山における修行は「論・湿・寒・貧」に耐えること。法然、親鸞、道元、日蓮たち思想的巨人は、ここから見えてくるのではないか、と。特に「湿度」の問題は重要だとも。そして、親鸞を鴨長明と同じレベルで比較してもいいのでは、と思うようになったそうです。
 そこから寺田寅彦が指摘する「涼しさ」のあり方に展開し、詩歌などで鋭敏な感覚として表現されることへと話はつながりました。これが、鴨長明の『方丈記』の冒頭にある川の流れと関係し、深い意味をたたえているそうです。また、『方丈記』に語られる風もそうだと。芸術と宗教という2つの空間を、鴨長明は数寄者の生き方で通したのです。
 話の最後は、和辻哲郎の『風土』で締めくくられました。モンスーン列島に関する蘊蓄に満ちた語りに引き込まれながら聞き終えました。

 休憩時間に、朝日新聞記者の白石明彦さんが、私がいた席にお出でになりました。『源氏物語』の千年紀を始めとしてお世話になってから久しぶりです。しばらく、お話をしました。
 いろいろな話の中で、私が刊行するはずだった『源氏物語【翻訳】事典』』が、その後どうなったのかを訊かれました。まだ再校正の段階で、と、歯切れの悪いことこのうえなしです。もう5年もかかっているのです。しかし、こうして気にしてくださっていたことを嬉しく思いました。
 白石さんが朝日新聞に署名入りで記事をお書きになったものは、必ず読んでいます。何紙かの、何人かの取材を受けてきましたが、私は白石さんの姿勢に一番好感を持っています。綿密な取材をもとにした上で、わりかやすく簡潔にまとめて書いておられるので、いつもお書きになる記事を楽しみにして読んでいます。
 今回も、この企画を記事になさるようです。これも、楽しみです。

 【シンポジウム】に移りました。テーマは「いま長明・『方丈記』を読みなおす」です。

 今回のイベントの中では、『方丈記』の朗読が3度ありました。プロの読み方は違います。原文が語りとして染み通って来ます。

 パネリストの発表は以下の内容でした。

◎荒木 浩(国際日本文化研究センター教授)
 漱石の『草枕』と『方丈記』を引き合いに出して語り出されました。漱石は『方丈記』を英訳しています。
 いつものようにテンポが心地よい、切れ味のあるお話でした。
 『方丈記』の「恥」については、もっと聴きたいところでした。今春は、京都新聞で連載を担当しておられたので、あの名調子でもっと語ってほしいところです。しかし、時間の関係で話が流れて行きました。
 提示される資料が今につながる新鮮なもので、今後の『方丈記』の研究の楽しさが伝わってくるものでした。
 
 
 
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◎磯 水絵(二松学舎大学教授)
 数寄三昧の生活の鴨長明は、和歌を声を出して歌っていたようです。
 そして、お話を伺っていて、出家者である鴨長明の、神と仏の多面的な世界にどう向き合い、どう整合性を持たせたのか、ということを知りたくなりました。
 『往生要集』を草庵に持ち込んだ鴨長明の神観念も、さらに知りたくなりました。
 つまるところ、究極の生活について考えようという話でした。

◎浅見和彦(成蹊大学教授)
 5つの大きな災厄を引いての『方丈記』に関するお話でした。
 治承4年(1180)4月の辻風について、藤原定家は『明月記』で「北方」と言い、九条兼実は『玉葉』で「三条四条」で発生したとしています。
 これを鴨長明は、「中御門京極」という非常に具体的な場所を指摘しているのです。
 それは、京都御苑の南端で、南南西の風と言っている。ここに、鴨長明の姿勢がわかると言われるのです。これは、火事の後などに、手元にあった地図にしるしを付けていたので、面積は三分の一で扇型と言えたのではないかと。歩き回る鴨長明の姿を語られました。

 ここで、2回目の朗読となりました。会場がピシッと締まります。

 最後のパネルディスカッションになりました。

 3人の発表者同士がお互いの発表に私感を加えられました。
 さらに、馬場あき子・山折哲雄氏のコメントが続きます。そのおおよそを記録しておきます。

・漱石が五大災厄を訳さなかったことの意味について、荒木先生は、面倒くさかったのだと。
・鴨長明は和歌と管弦のどちらがすきだったかという質問に、磯先生はどちらもだと。
・『方丈記』は体験者の記述だということについて。荒木先生は、実際の災害時には俯瞰的な視点にはなれない。長明は出かけて行ったのではなくて、後に追補して書いたのではと言われる。これに対して浅見先生は、当座の印象だと思われる、とされました。
・馬場さんは、長明は和歌よりも琵琶や琴の方を楽しんでいたのではないかと。
・また、神をこんなに簡単に捨てられるか?とも。
・山折先生は、漱石と谷崎の羊羹のことを引き合いに出し、『草枕』と『陰翳礼讃』で共通する問題を提示されました。
・ジャーナリストの資質という視点から見ると鴨長明はどちらか。取材タイプか救助タイプか、という提言もありました。
・『方丈記』の終章をどう読むか?という司会者からの質問に対して。
   荒木先生、唯識と禅
   磯先生、跋文
   浅見先生、仏に縋りたい
   馬場、わからないという結語
   山折、呟くような念仏

 朗読の3回目は終章の部分でした。
 このように原文を読んで確認する進行は、非常に効果的だったように思います。いかにも国文学研究資料館が主催するシンポジウムらしいものになっていた、と思いました。

 全体として、大変中身の濃い、そして充実感を共有できたシンポジウムになっていたと思います。
 私も、専門外とはいえ、いい勉強をさせていただきました。
 
 最後の今西裕一郎館長の挨拶にあったように、国文学研究資料館では来週の5月25日(金)より約1ヶ月間にわたって、立川の1階展示室で「創立40周年 特別展示『鴨長明とその時代 方丈記800年記念』」が開催されます。入場は無料です。
 主な展示資料としては以下のものがあります。


伝松花堂昭乗筆「先賢図押絵貼屏風」 個人蔵(八幡市立松花堂美術館寄託)
「方丈記」 財団法人前田育徳会 尊経閣文庫蔵
「鴨長明座像」 法界寺蔵
「嵯峨本 方丈記」 当館蔵
「方丈記」 当館蔵(川瀬一馬旧蔵)
「発心集」 個人蔵(国文学研究資料館寄託 山鹿積徳堂文庫)
堀田善衞「方丈記私記」自筆原稿 県立神奈川近代文学館蔵

 どうぞ一度脚を運んでご覧ください。
 
 
 

2012年5月18日 (金)

授業(5)翻訳の役割

 渋谷ヒカリエの開店直前に、今日も通りかかりました。男性が数人、開店待ちの列の中にいらっしゃいます。イベントでもあるのでしょうか。

 さて今日は、短歌の解釈について、海外の方々はどのように和歌を理解されているか、ということで、学生のみなさんとの意見交換で盛り上がりました。

 このことについては、イギリスで「日英短歌ソサエティ(A n g l o - J a p a n e s e T a n k a S o c i e t y)」を主宰なさっている中村久司先生の例をあげて、私が知っている範囲での海外における和歌理解について情報を提供しました。

 文学作品の解釈は、その人が馴染み背負って来た生活環境や文化理解に左右されます。そのため、「私はそうは思わない」と言われると、後は話がかみ合いません。自国の作品でも、他国の作品でも、条件は同じです。日本文化の中で育ったから日本文学に対する理解が深い、というものでもないのです。

 外国人に日本文学がわかるか、という理解が正しくないことは言うまでもありません。言葉という壁があるにしても、作品の理解は国境を超えます。ただし、翻訳によっては、置き換えられた言葉や表現の機微が持つ制約から、作品の理解にバラツキが生ずるのは確かです。その意味では、ノーベル文学賞が翻訳に負うところが大なのは、日本文学にとってはハンディーがあるように思っています。あまりにも日本的としか言いようのない、曖昧で微妙な感覚で書かれた表現が、他国の言葉に置き換えらるときに削ぎ落とされる可能性が高いと思うからです。

 翻訳の果たす意義について、さまざまな時代の作品を取り上げてお話するはずでした。しかし、その前段階で意見交換となったので、次回がやりやすくなりました。外国語と翻訳のありように対する基本的な理解が、こうした機会に共有できたからです。

 次回こそ、日本文学の翻訳事典の話です。
 
 
 

2012年5月17日 (木)

『十帖源氏』の現代語訳を楽しむ

 いつものように、新宿アルタの隣のレンタルスペースで、『十帖源氏』を読む会がありました。

 今日は午前中に下鴨神社へ挨拶に行き、それから新幹線の中で何種類かの書類を作成しながらアルタに駆けつけたので、相当疲れた状態での参加でした。しかし、今日もおもしろい問題がたくさん出され、楽しい勉強会となりました。

 今は、第4巻「夕顔」の2回目の現代語訳の確認をしているところです。

 (1)原文「しをん色のうすものも」
 これは、「紫苑色で、袴の上に着用する薄い絹製の裳」のことです。
 この「裳」をどう訳したらいいのかで討論となりました。
 担当者の訳は、「薄紫色の薄い生地のトレーン」でした。
 「夕顔」巻は一度現代語訳を終え、すでに公開しています。しかし、海外の方に翻訳してもらいやすいようにと、さらに検討を重ねているところなのです。
 ここでは、「裳」を「トレーン」ということばで表現していいか、ということです。
 今日集まった中には、「トレーン」は前回初めて知ったことばだけれど感じはわかる、とのことです。私は、教会での結婚式でウエディングドレスの後の方に長く引き摺っている、スカートの裾の部分だと言われ、やっとイメージが湧きました。
 とにかく海外の方々のための現代語訳なので、この「トレーン」でいくことになりました。

(2)原文「手をとらへ給へば、いとなれて」
 そのトレーンを優美に身に着けている中将の君は、光源氏が訪れた六条御息所にお仕えする女房です。この女性が魅力的なので、光源氏はその中将の君の「手をとらへ」たのです。
 この「とらへる」という動作をどう訳したらいいか、ということになりました。
 前回の訳では、「手を取ります」としていました。しかし、ここではもっと恋愛感情が込められている動作なので、単に手を取ったとしたのでは雰囲気が出ないことになります。
 『十帖源氏』の挿絵では、光源氏の手は中将の背中に回っているようです。中将の君も光源氏に撓垂れ掛かっています。
 そこで、「手をとらへ」は「手を握ると」くらいにしておき、それに続く「いとなれて」で工夫をしよう、ということになりました。
 そして、「馴れて」です。
 要するに、中将の君は男との付き合い方がよくわかっているということで、それをどう現代語にするか、ということになります。最初の訳は、「対応に馴れている中将の君」としていました。
 この一時の恋愛遊戯という側面が強い状況で、中将の君は機知に富んだ対応をします。光源氏は、自分がお仕えする六条御息所の想い人なのです。それだけに、その光源氏と自分との関係の微妙なバランスをよく理解し、そして恋愛感情のたゆたいの中で遊ぼうとするのですから、男女の心理ゲームに長けていると言えます。
 そんなことを語り合った後、こんな訳にしました。
 「光源氏が中将の君の手を握ると、男のあしらい方をよく心得ている中将の君は」と。

(3)原文「主人とおぼしきも、はひわたる。」
 これは、夕顔の花の咲く半蔀の家でのことです。表に車の音がすると、若い女性たちはあれが頭中将だとか言い合って、外を覗いているところです。そこで、夕顔の宿の主人と思われる女性も外を見るために「はひわたる」という場面です。
 この「はひ」という接頭語には、赤ちゃんがハイハイするような動作が連想されます。
 最初は「そっと出てきました。」と訳していました。しかし、それでは感じが違います。「にじり寄る」というイメージに近いものがあります。夕顔も、外を通る貴人をできることなら見たいのです。
 そこで、ここは「この家の主人と思われる女も、どれどれと言いながら出てきます。」とすることにしました。
 意訳と言えばそうです。しかし、意訳とは違う、場面と雰囲気が海外の方々に伝わる訳を目指したいものです。

 今日は、現代語訳にする上では細かなところを問題にしました。しかし、これは外国語に翻訳していただくための現代語訳という観点からは、ことばで気持ちを伝える上で非常に大切なところだと思います。

 今後とも、こうしたことばに拘った現代語訳に仕上げる中で、『源氏物語』のお話がおもしろく伝わるようなことばに置き換えて、幅広く提供していきたいと思います。
 
 
 

2012年5月16日 (水)

京洛逍遥(232)葵祭で神仏習合を考える

 昨日とは打って変わって心地よい青空の下、葵祭の路頭の儀が行われました。
 行列は30分ほど遅れていたので、出町の交差点まで下って見物しました。
 
 
 
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 やはり、腰輿(およよ)に乗る斎王代は沿道の注目の的です。
 
 
 
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 お昼は、鯖街道の終点である出町枡形商店街のお総菜屋さんで、私が大好物なしいたけ煮やてっぱいなどを量り売りで買い、賀茂の川原の木陰でいただきました。比叡山が目の前に聳え、右手に如意ヶ岳の大文字を見霽かすいい場所でした。

 行列が下鴨神社に入ってからのことは、一昨年の「京洛逍遙(141)葵祭の社頭の儀」(2010年5月15日)で詳細に記しましたので、そちらをご覧いただければと思います。

 祭儀が終わってからは、下鴨神社で祢宜をなさっている嵯峨井さんからお話が伺えることになっていたので、食事を終えると社務所に向かいました。境内に入ると、ちょうど東游を終えた舞人の方々が和琴を従えて出てこられるところでした。
 
 
 
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 そして、踞と言われる束帯の下襲の後ろに長く引く部分を、三人が協力して石帯の部分に掛け合っておられる姿を見かけました。みなさん歩く時に苦労なさっていたので、なかなか微笑ましい助け合いの風景でした。
 
 
 
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 今年の斎王代は第57代で、四条高島屋の向かいにある老舗呉服店「ゑり善」の敦子さんです。
 嵯峨井さんに葵祭に関するいろいろな話を伺っていた時に、ちょうど斎王代が上賀茂神社に向かわれるところでした。
 今春、娘たちの結婚式で控え室として使わせていただいた重要文化財の供御所から出てこられ、腰輿に乗られる所です。境内内部ということで立ち入り禁止の場所でもあったので、写真が撮れたのは幸運でした。
 
 
 
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 目の前を行く斎王代の眼は、使命を帯びた視線で前を見据えておられ、疲れを見せずに我が家がある方角の下鴨本通りへと出て行かれました。
 
 
 
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 また、西の出口では陪従の方々が馬に乗られる所でした。巻纓の冠を着け、濃い葡萄色の闕腋に獅子・熊・唐草などの蛮絵模様が浮き立つ美事な装束のみなさんと、少しお話ができました。
 
 
 
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 さらに、この行列では最高位である近衛使代の方は、垂纓の冠に、これまたすばらしい束帯姿です。ただし、馬に乗るのは大変そうです。その馬の飾りも美事で、銀面というものを初めて見ました。
 
 
 
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 みなさん疲れを感じさせず、このお祭りが好きでたまらないという勢いで本通りに出て行かれました。

 行列を見送った後は、葵の庭で嵯峨井さんから葵祭の裏話や、かねてより問題意識としてもっておられる神仏習合の話を伺いました。
 大飯殿では、神饌の詳しいことを聞くことができました。
 その中で特に興味を持ったのは、神饌に花がない、ということです。花は仏事中心のものであり、神事には出てこないと。ただし、平安時代の中期から出家神主が多くなるので、一概に仏教色がまったくないのではないようです。その例として、下鴨神社の本殿の中に、仏舎利があったという記録があるそうです。仏教の影響がどのようにあったのか、今後とも研究テーマとして追究していかれるようです。
 また、神事の調理に味付けらしいものは塩だけなので、神さまには味覚がないのでは、という指摘も忘れられません。お下がりに砂糖を加えると、結構おいしいそうです。
 神と香りや味について、今後とも注意してみたいと思います。

 嵯峨井さんは、先年國學院大學で博士号をとられた学者です。長い間、神事に関わってこられた体験を踏まえてのお話であり研究なので、今後とも折々にたくさんのことを教えていただきたいと思っています。
 
 
 

2012年5月15日 (火)

京洛逍遥(231)葵祭が順延となり我が家でお茶会

 楽しみにしていた葵祭の行列「路頭の儀」が、雨天のため明日に順延となりました。15年ぶりのことだそうです。

 「社頭の儀」は勅使を迎えて行われたとのことです。本来なら、祢宜さんから神饌のお下がりの説明を伺うはずでした。しかし、すべてが順延と勘違いした私は今日は脚を向けなかったのです。後で明日の予定を電話で伺うと、すでに神饌は解体され、お下がりを頂いているところだとのことでした。ご一緒にお話を聞くはずだった方々には申し訳ないことをしました。ただし、明日はまた違うところの説明をしてくださるようです。これも、今から楽しみです。

 午後が空いたこともあり、今回の葵祭研修に参加されたみなさんに、我が家でお茶を差し上げることにしました。
 私のお茶の先生とそのお仲間の先生も、八坂神社でのお茶会の帰りに合流してくださったので、急遽未熟な私のお稽古の場となりました。

 学生の方々の前で、それも初心者としてお茶を差し上げるのには緊張しました。
 後ろで先生が囁いてくださる中で、何とか6人のお客様にお茶を点てることができました。
 初級者なりには出来たようです。ホッと安堵の気持ちでお点前を振り返っています。
 炉手前と違い、風炉手前では柄杓の扱いが込み入っています。これは難題です。
 それにも増して、お点前までの水屋での準備の大変さを知りました。もちろん後片付けも。
 先生が手際よく進めてくださったので助かりました。この舞台裏も、実戦を通して学ぶいい勉強になりました。

 私の後は、今春より国文学研究資料館の大学院に入学され、お香をテーマにした研究をなさる方が、遠州流のお点前を見せてくださいました。お香、お茶、書道は一つながりのものであることを知りました。遠州流は裏千家と大きく異なるものであることを間近で見ることができて、これもいい勉強をさせていただきました。

 そして、話題はお香のことに移りました。聞香について、いろいろなことを伺うことができました。源氏香に留まらず、香木や遊びのルールなど、さまざまな仕掛けがあるものです。それを、文学の視点で研究対象にしようとする姿勢に、今後の研究の進展と活躍が楽しみになりました。

 理屈だけではない世界は、時間はかかりますが着実に成果が見えてくることが多いようです。
 弛まずコツコツと、という気持ちの大切さをあらためて思う、実り多いひとときを持つことができました。
 
 
 

2012年5月14日 (月)

京洛逍遥(230)廬山寺のエセ源氏絵展

 芸術家は、芸術という名の下であれば、何を「か(描・書)」いてもいいのでしょうか。
 昨日、驚き呆れる源氏絵の展示を見て、よせばいいのに我慢できずに書くことにしました。
 こうしたことを取り上げるのは不毛なことであり、無視すればいいことです。
 しかし、どうしても愚行を放置して素知らぬふりができないのです。

 お決まりのこととして、『広辞苑 第5版』から「えせ【似非・似而非】」の項目を引きます。


(平安時代には実体の浅薄・劣悪なのを侮りそしる気持を表す語。室町時代以後、悪質・邪悪の意を表すのにも使われた)
(1)似てはいるが、実は本物ではないこと。まやかし。にせもの。「―ざいわい」「―学問」
(2)劣っていること。「―牛」「―太刀」
(3)悪質。一筋縄ではいかないこと。したたか。「―者」

 かつて、「新写本『源氏物語』を平等院に奉納する愚行」(2009年7月 8日)や、「学問とは無縁な茶番が再び新聞に」(2009年8月11日)を、そしてさらには「何故かくも愚行を誇らしげに」(2010年9月26日)を書いて、無知から来る愚かな芸術活動や朝日新聞の記事を批判しました。
 そこでは、活字の校訂本文を元にして、新たな異本『源氏物語』という新写本を書写作成する行為を取り上げました。

 今回は、源氏絵に関して、これまた無知から来る勘違いとしか言えない愚かな展示を見せられることになりました。
 また、そのようなエセ作品の展覧に場を貸すお寺もお寺です。
 この前は平等院で、今回は廬山寺です。共に、評価の高い寺院です。日本文化の一翼を担う寺院として恥ずかしい限りです。
 
 
 
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 とにかく、芸術家を自称する方の一部に意識の低い方がいらっしゃることに対して、言いしれぬ虚しさを感じました。しかも、そのことに気付かないのか、開き直っておられるのか、堂々と展示会をなさっているのです。
 実際にご本人にお目にかかり、お話を伺っても、勉強不足を盾にして逃げの一手です。卑怯です。とにかく注目されれればいい、という程度の認識しか感じられませんでした。先ほど、テレビ局取材があったそうです。どんなナレーションがつくのでしょうか。エセ源氏絵が公共の電波を通して撒き散らされるのです。こんなことでいいのでしょうか。

 『源氏物語』をとりあげて目立ちたいのなら、もっともっと必死に勉強をしてからにしてもらいたいものです。書けばいい、描いてみようでは、とんでもないものが後世に伝えられるだけですし、知らない人に誤った認識を与えます。
 現に、昨日も一人の女性の方が、今回の屏風絵の作者にそのすばらしさから受けた感動の気持ちを語っておられました。絶賛しておられました。何でも『源氏物語』となると、有り難がって見る方も見る方ですが、悪しき前例をこれ以上増やしたくないものです。

 『源氏物語』の受容に関心を持つ者の一人として、いいかげんな二次的な受容の公表が続いていることに辟易しています。書いても切りがないので、以下簡略に述べます。

 廬山寺を紫式部の邸宅跡であり、『源氏物語』が執筆された所だと角田文衛先生が認定されてから、ここは一躍注目されるようになりました。その廬山寺の方丈で、今月5月5日から20日まで、「岡田俊一筆『源氏物語五十四帖』を彩る華麗な屏風展」と題する展覧会が開催されています。
 気になったので、早速行って来ました。そして、その絵のでたらめさに衝撃を受けて帰ってきました。

 第一番目の屏風には、「桐壺」「帚木」「空蟬」「夕顔」の4巻4場面が描かれていました。
 いずれも江戸時代の土佐派の源氏絵のパターンです。中でも特に、「夕顔」の図様に興味を持ちました。
 チラシに印刷されている「夕顔」の一部を引きます。
 
 
 
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 屏風の前に置かれた説明には「六条あたりの夕顔の花咲く家の付近(頭の中将の恋人)」とあります。
 しかし、この絵は夕顔の家でしょうか。作者岡田氏は、京都国立博物館所蔵の土左光吉筆『源氏物語画帖』を見てそれをなぞるようにして描かれたと思われます。『源氏物語画帖』(勉誠社、平成9年)から当該画帖の一部を引きます。
 
 
 
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 右下で垣根にからまる夕顔の花を取るのは童女(原文では男の子の侍童)で、ここは六条御息所の邸です。左下に御息所がいます。高欄隅に立つ男女は、御息所邸から帰る光源氏と御息所付きの女房である中将の君です。
 屏風絵の作者である岡田氏は、完全に勘違いして、夕顔と光源氏と理解されているように思われます。また、この男性も頭中将と思っておられる節があります。

 また、岡田氏は画面右端の母屋に丸柱を描いておられます。しかし、光吉の絵には金雲がかかっています。ここは、この前後から推して角柱のはずです。光吉の源氏絵には、丸柱は一本も描かれていませんので。

 国文学研究資料館所蔵の『源氏物語団扇画帖』の第8図「花宴」では、ここだけには、丸柱が描かれています。丸柱は角柱よりも古式で、格式の高いものでした。宮中や寺院には、丸柱が描かれることがよくあります。この柱が円いか角かは、好き勝手に描いて良いものではありません。
 実際に作者とお話をした時にも、この柱の丸と角については、そもそも違いがあることはまったく知らなかった、とおっしゃっていました。勉強不足で、とのことでしたが、それでは調べてみますという気持ちは微塵も感じられませんでした。

 今回、廬山寺の受付前で売られていたもう1つの岡田氏の『源氏物語絵図屏風 五十四帖の探訪』の名刺大の絵を見ると、至る所に丸柱が描かれています。丸と角の違いを、まったくご存知ないようです。

 また、今回展示されている屏風絵には、国宝源氏絵の模写と言える図様が混在していました。国宝源氏絵は、ほぼそのまま中心部分を金の霞で覆って取り出してあります。

 「東屋」は、国宝源氏絵巻では浮舟が絵を見ている図様として有名です。今回の屏風では、その国宝源氏絵のコピーを描きながらも、浮舟が墨絵の画帖を見ており、侍女も墨絵の画帖を見ています。国宝源氏絵では、浮舟は物語絵を見ており、侍女の右近は詞書きを記した冊子を読んでいることは明らかです。この右近が見る冊子の改変は、作者の芸術的なセンスなのでしょうか。また墨絵になっていることも。

 たまたま作者である岡田氏がその場にいらっしゃったので、上記二点だけに限定してお尋ねしました。

 国宝源氏絵と土佐派の絵を参照し、自分なりに絵画化なさったのだそうです。というよりも、参照ではなくて模倣と言う方が正確ですが。

 衣服のことや柱のことなどを尋ねると、時代考証や服飾の確認はせず、素人なりに自分の勝手な解釈で絵にしたとのことです。勉強不足なので、専門的な眼で見られたら間違いも多いでしょう、と臆面もなくおっしゃっていました。開き直りです。
 「夕顔」に関しては答えがなく、「東屋」に関しては前後の色彩的な変化を考慮して、墨絵にしたとのこと。右近も墨絵を見ている絵にしたのは、これも前後の流れからだ、とのことでした。流れが何なのか、よくわかりませんでした。

 その他もろもろのお話が支離滅裂でした。「須磨」「明石」「澪標」の説明は傑作でした。
 『源氏物語』はお読みになっていないようです。先人の絵をなぞって、そこに勝手な解釈で自分らしさを加味させておられます。その自分らしさが、無知から来る勘違いが随所にあり、こうした源氏絵を有り難がって見る人がいる現状が心配になってきました。

 展示会場として場所の提供をなさった廬山寺は、どのような絵が展示されるのか、確認なさったのでしょうか。
 酷い話です。
 『源氏物語』と銘打っておけば何でも通用するというのでは、文化的な退廃につながります。
 やはり、『源氏物語』を受容した成果を世に問うのであれば、しっかりと勉強して作品に仕上げていただきたいものです。思いつきで人の注意を惹けばいい、という低レベルの二次的作品の作成には、もっと慎重であってほしいと思いました。

 無視すればいいものに過剰に反応していることかと思います。しかし、こうした軽佻浮薄な『源氏物語』の受容傾向に、どうも納得できないので、しつこく記しました。

 作者からの反論があればいいのですが、昨日直接お話しした限りでは心もとない限りです。どなたかが入れ知恵をなされない限りは、芸術の名の下でのこじつけに終始するだけです。
 見る人の目も、こうしたものを通して試されていると言えるでしょう。

 あまりにも目の毒になるものを見たので、もう源氏の庭を見ても何の感興も沸きません。
 
 
 
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 帰りに寺町の一保堂に寄って抹茶を買って帰りました。
 店先には、葵祭に向けた献灯の提灯があがっていました。
 京洛はお祭の準備が着々と進んでいます。
 
 
 

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2012年5月13日 (日)

お稽古帰りに食育について考える

 午前中に下鴨神社で所用をこなし、大和平群にお茶のお稽古に行きました。
 ワンマンカーが走る生駒線の単線電車は、規則正しく往き来しています。
 
 
 

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 今月からは風炉のお点前です。もっとも、すっかり忘れています。
 炉よりも風炉点前の方が手数が多くてややこしいように思えます。

 水屋での準備で、茶巾のたたみ方からまごついてしまいました。
 煤竹の茶筅のことや、東南アジアの小物をお茶の道具として使ったり、いろいろと新しいことがわかりました。

 初めて、お茶菓子を運ぶことになりました。主菓子と干菓子を出した後、少し後ろに左右と居去ってから退席することも覚えました。何げなく見ていた動作が、実は1つの所作としてあったのです。知ると知らないことの違いを、改めて知りました。

 柄杓の扱いが、炉の時よりも風炉には変化があります。
 置き柄杓、切り柄杓、取り柄杓、引き柄杓、となかなか大変です。確か、炉点前では取り柄杓だけだったはずです。

 水差しの蓋を取るのも、炉は二手でしたが風炉では三手です。

 一度覚えたはずなのに、半年も経つとすっかり忘れています。

 お茶を点てる姿勢をいつものように指摘されました。背中を起こして胸を張ってと。
 手元にばかり注意していると、つい背中が丸くなります。
 これは、賀茂川などをウォーキングしている時にも妻からよく言われることなので、最近の一大課題です。

 棗と茶杓の拝見の時、茶杓の名に今の季節なら「葵祭」が使えることを知りました。明後日はその葵祭です。こうした雅語をお茶で取り込んで使えるのは、何よりも楽しいことです。

 先生が一服点ててくださいました。こうして所作が流れるようにつながる日が来るのを夢見て、牛歩ではありますが練習していきます。

 主菓子をいただく時、小皿に一つだけのっていたので、懐紙を出し忘れ、しかも添えてあった黒文字でいただいたりと、失態続きでした。おまけに麩焼き菓子を、小さかったこともあってそのままガブリとかじりました。懐紙で包んで粉が飛び散らないように、紙で挟んで割ってからの方がいいのでは、という指摘も……
 いやはや、これは躾の問題です。

 そういえば、日本では食育がなされていません。学校でも、体育はあるのに、食育はありません。
 食育は家庭で、ということなのでしょう。しかし、家庭で食育がなされているのでしょうか。我が家では、両親からうるさく言われた記憶がほとんどありません。また、私も子どもたちに口うるさく言った覚えがありません。
 日本の食卓での食育は、改めて導入を考えてもいいのではないでしょうか。
 自分の失態を振り返りながら、そんなことを思うようになりました。
 
 
 

2012年5月12日 (土)

突然身体が冷たくなった時のこと

 昨日、新幹線で京都駅に着き、改札口を出て南北自由通路の中程にある京都総合観光案内所(愛称「京なび」)に入った時のことです。

 来週の葵祭の資料をいただいた直後に、自分の身体の変調を感じ出しました。疲れているだけだろうと思い、そのまま自宅に帰ろうとしたところ、急に身体から体温が抜け出しました。吸い取り紙に吸い取られるような感じがしたのです。

 歩きながら、どうもおかしいと思っている内に、さらには脚が前に進まなくなります。そして、身体が氷のように冷たくなり、歩くことができなくなりました。
 仕方がないので、通路の脇に座り込んで様子を見ている内に、これはただごとではないと思うようになり、急いで東京にいる妻に電話をして状況を伝えました。

 電話口で妻からは、温かいものを飲んで水分を補給し、何かおかずになるもので軟らかいものを食べるように、と指示をくれました。
 すぐに近くにあった小さなコンビニ風の店で、温かい無糖コーヒーとカントリーマームを買いました。おかずになるものがなかったので、手近なものとしてクッキーにしたのです。品数のない、手狭な店でした。

 カントリーマームを口に入れながら、何かあってはと思い、真向かいにある京都伊勢丹の入口横にあったベンチに座って休息することにしました。しばらくすると、冷たくなっていた身体が少し温まりました。寒気は徐々に治まってきています。ただし、まだ気だるいので、もう少しジッとしていることにしました。

 スーッと治まっていくようだったので、少し気持ちも落ち着き安心しました。こんなことは初めてです。
 ヒダルガミがついた時に近い感覚です。最近、妻がよくなるようで、急にポカリスエットを飲んで凌いだり、ブドウ糖の粉末スティックをバックに入れて持ち歩いていて、そんな時にサッと飲んでいます。
 しかし、今回の症状はどうもそれとも違います。もっとも、しばらくこんなことはなかったので、突然の低血糖ならば今後の対策が必要になります。

 メールによる妻とのやりとりで、お昼に何を食べたのか聞かれました。
 お昼は、和風ハンバーグと大根おろしとチキンコンソメスープでした。少し量が少なかったかと思ったので、新幹線に乗る前に急いでキオスクで缶コーヒーとランチパックという小さな卵サンドを買い、乗ってからすぐに食べました。これで、普段の食事の量だと思います。

 伊勢丹のベンチで休んでいたところ、突然お腹が空いてきました。さらに何か食べようと思っていたところ、また身体が冷たくなってきたので、伊勢丹の入り口ではなくて中のイスに移動しました。
 中でジッとしていても温まらないので、バスで自宅に帰り、すぐに身体を横たえることにしました。地下鉄はここからはJR駅の反対側にあり、電車を降りてから15分ほど歩きます。伊勢丹のすぐ前から出ているバスなら、自宅のすぐ近くに留まります。
 バスの中でも、寒気に耐えながらジッとしていました。

 昨日の京都は東京と違って、風がとにかく冷たいと感じました。温かかった東京との極端な温度差も関係しているのかとも思われます。もっとも、帰ってからのニュースを見ると、東京も冷え込んでいるようでした。
 先日は竜巻があったり、大粒の雹が降ったり、大風や大水やらで、自然が人間の意に反する姿を見せています。今は、天変地異の何があってもおかしくない状況にあります。気持ちも、何かあるのでは、との思いが隠せません。薄気味悪い自然の営みを見せつけられているようです。
 身体も調子を狂わすはずだと、変に納得したりします。

 息子曰く、新幹線でジッと座っていたのでエコノミー症候群ではないかと。
 これまでにこんなことは皆無だったので、どうも違うように思います。低血糖というのが近いように思われます。クッキーを食べると楽になったので。
 ただし、私は血糖値が高かったので、今は糖質制限食にしています。血糖値を下げる薬は、今までに一度も飲んでいません。突然低血糖になるものなのか、今後とも気をつけて様子を見ていきたいと思います。

 昨日は、お風呂で温まり、温かいものを食べ、お酒を少し口にし、早々に休みました。
 今後とも身体の変調を来したときのために、昨日の状況を時間を追ってのメモとして残しておき、今後の参考になるように記したしだいです。
 
 
 

2012年5月11日 (金)

授業(4)エバーノート活用法

 渋谷ヒカリエの横を通って國學院大學へ行きました。
 ヒカリエの入口は、ちょうど開店2分前ということで、中高年の女性が列を作って待っておられました。こことは無縁な高齢者男性の一人である私は、それを横目に通り過ぎます。
 こうして露骨に排斥されると、何かこのビルとの接点を求めたくなります。中高年女性に無理に合わせることもないとはいえ、社会的な追放感を味わわない程度の接点なら、いつか見つかることでしょう。

 本日の授業は、情報収集と整理用のアプリケーションであるエバーノートの活用法に終始しました。
 学生のみなさんは、手元のパソコンをインターネットにつなげた状態です。
 私は、自分のパソコンをネットにつなげ、その画面をプロジェクターを使って部屋の壁面に大きく映し出しました。

 エバーノートの活用を通して、文学研究にどう連動させるかがポイントであることを強調します。それも、パソコンとモバイルフォンをシームレスに連携プレーする方法です。
 みなさんには、すでにエバーノートをインストールしてもらっています。私とは1つのノートを共有しているので、私からの情報をあらかじめ取得できるようになっています。

 エバーノートの活用は、私にとっては日常的なことです。しかし、学生さんにとっては馴染みのないものなので、少しついて来るのが大変だったかもしれません。しかし、頭でわかれば、後は実際にやってみることです。それだけ、柔軟な思考と対処のできる学生さんたちですから。

 新聞記事の切り抜きや、ホームページの必要な箇所を取り込むことなどを例にして、後はそれをどのように分類して整理するか。また、ウェブブラウザのブックマークの活用法等々。論文作成に留まらない、日常生活の情報整理とその延長線上の研究活動のあり方を、私の場合を例にさらけ出して解説しました。

 非常に実用的な内容だったので、日々の研究活動にはいい刺激になったかと思います。
 同じことをやってみよう、と思ってもらえたら、それで最初の関門は通過です。

 最後に、配布した冊子に収録してある報告を一緒に見ながら、3年前に英国ケンブリッジ大学で開催した国際集会の様子と、現在のイギリスにおける日本文学研究が先行き不透明な状況にあることを話しました。
 ケンブリッジ大学のピーター・コーニツキ先生と一緒にウエブ上に構築して公開している「欧州所在日本古書総合目録データベース」を実際に検索して表示し、ヨーロッパの古典籍の所在がわかるデータベースの実際も見てもらい、説明もしました。

 次回は、日本文学の翻訳事典についてです。
 
 
 

2012年5月10日 (木)

高校教員時代の書類を廃棄

 自宅の荷物の整理がまだまだ続いています。

 大阪府立の高校で教員をしていた11年間、膨大な資料やプリントや試験問題を作っていたことを、あらためて実感しました。指導困難校と言われる学校ほど、プリントが多いと言われていました。確かに、学校に教科書を持ってこない生徒が多いので、勢い教科書を使わなくても授業が成立するように、それを補うための補助教材を配布することが増えます。板書したことをノートに書き取る習慣もないので、何でもプリントにして予習や復習の足しにしました。その結果、プリントが増えるのです。

 廃棄対象となったプリント類は、ダンボール箱に4個分以上ありました。
 自分の過去の一部分をバッサリと捨てることにしました。
 よくやったなー、と、かつての自分の奮闘ぶりを振り返り、若さゆえにできたことと思うことしきりです。

 そんな中に、パソコンと悪戦苦闘していた頃の資料がありました。
 ここに記録として残しておいて、思い切ってこれらも処分しようと思います。

 私がコンピュータに興味を持ちだした昭和55年(1980)は、まだひらがなや漢字がモニタにもプリンタにも表示・印字できませんでした。せいぜい半角カタカナまでで、例外として「年」「月」「日」くらいでした。
 そのような環境の中で、やがて独学でお手製のプログラムを作成し、JIS漢字コードのリストを読み込んで印字できるようにしました。ただし、そのためには、漢字などに対応した文字コードを調べる必要があります。

 当時は、何とかして学級や学年の運営にコンピュータを導入することにより、担任業務を軽減する方途を模索していました。学習指導の何十倍ものエネルギーを生活指導に充てる毎日です。連日の家庭訪問が続いていました。年間に入学生の3分の1の100人以上が退学するので、担任はとにかく学校と家庭とを走り回っていたのです。そのためにも、少しでも担任業務などの軽減が必要だったのです。

 そこで、まずは生徒たちの名前をどの資料にでも、何度でも引用できるようにすることに挑戦しました。それだけで、手書きの手間が助かり、生徒の生活指導の時間に振り分けられます。また、パソコンでできる作業ならば、担任でなくても副担任にお願いしてもいいのです。

 入学式の後は、新入生の名前を一々JIS漢字コードを調べて一覧表にして、必要とする担任の先生方に渡しました。まだ他の先生方はパソコンに親しんでおられなかったので、率先垂範よろしく、私が徹夜をしながら各クラスの名簿をJIS漢字コードに置き換えました。
 
 
 

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 これは、私が担当したクラスの名列表です。例えば、2番の「伊藤」君はJIS漢字コードで表記すると「304B」+「4623」と表現することになります。
 この英数字コードを読み取って漢字表記ができるプリントができるプログラムを作成したのです。

 今なら、日本語ワードプロセッサがあるので、何でもないことです。しかし、当初はこのように漢字1文字を表記・印字するのに、こんな手間がかかっていたのです。

 こうしたJIS漢字コードの文字列がわかると、成績通知表などにも、生徒の名前に漢字が使えます。
 カタカナ表記という不細工なものではなくて、漢字で名前が書いてあると、生徒も成績通知表を貰ったそばからポイとゴミ箱に捨てたりしにくくなります。印刷されたものに対する一定の距離感が、軽率な行動にブレーキをかける働きがありました。

 次のメモは、成績通知表を印字するのに必要な漢字のJIS漢字コードを調べた時のものです。昭和57年(1982)とあるので、私が初めてマイコンキットNEC〈TK-80〉を体験した昭和55年(1980)から1年後には、こうしてコンピュータで漢字を扱うことに熱中していたことがわかります。

 手作業で調べて作成した対応漢字コード表を元にして、さまざまな漢字混じりの処理をするプログラムを作っていたのです。
 次のものは、成績通知表のためのJIS漢字コードの抽出作業メモです。
 
 
 
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 いろいろな先生方の要望を聞き入れながら、折々にJIS漢字コードを調べてメモを貯めていたようです。こんなものも出てきました。
 
 
 
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 この辺りになると、もう学年や学級運営のための資料に、たくさんの漢字が印字できるプログラムを開発していたことがわかります。先生方には、重宝がられたことを覚えています。

 その後のコンピュータの進歩は目を瞠るものがあることは、すでにご承知のとおりです。
 何かと苦労したことの披露ではなくて、学校の現場では、コンピュータで漢字が使えるようになる背後にはこんなこともあったという一例として、ここに記しておきます。
 
 
 

2012年5月 9日 (水)

越智波留香さんの作品展 -2012-

 東京駅前にあるブリヂストン美術館から西に4本目の通り、明治屋の斜め前にある画廊「ギャラリー坂巻」で、越智波留香さんの個展が始まりました。
 
 
 
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 前回同じ場所であった個展については、「展覧会「水の記憶」を見て」(2011年2月 8日)で記した通りです。

 狭いながらもスッキリとしたギャラリーの展示室の壁には、次の文章が掲げられていました。

─廻るもの─

絶え間なく廻る雨や風と時間の流れとを重ね合わせ、日々がそれら

に包まれて静かに在るさまを描きたいと思いました。

 今回も、静かな時の流れが、優しいタッチで表現されています。
 ギャラリーのホームページに、簡単ですが今回の個展の案内があります。
 越智さんが描く絵の感じが、少しは伝わるかと思います。

「廻るもの 越智波留香 個展」

 今後とも、ますますの活躍が楽しみです。
 
 
 

2012年5月 8日 (火)

糖質ゼロのお酒3種

 糖質制限食を、相変わらず続けています。
 最近は、食前に食べるグレープフルーツの効用に興味を持っています。血糖値の上昇を抑えてくれるようです。これは、気長に様子をみたいと思っている、今注目の果物です。

 糖質制限食では、蒸留酒は適量なら呑んでも構わない、とされています。ウイスキー、ブランデー、焼酎等です。
 とすると、焼酎をグレープフルーツで割ったらいいのでしょうか。まだ試していません。楽しみです。

 2年前に胃を全部摘出してから、お酒が呑めなくなりました。元々そんなに呑む方ではありません。どうにかお付き合いできる、という程度でした。

 京大病院の主治医からは、気分転換になるのでどんどん呑んでもいい、と言われています。そうは言われても、少し呑むと自然に止まってしまいます。一合も呑めたらいい方です。

 一時は、養命酒でお酒を呑む練習をしていました。しかし、糖質制限食の生活になってからは、養命酒も飲まなくなりました。

 最近は、糖質ゼロを謳い文句にするお酒を、修行と称して飲んでいます。
 
 
 

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 「月桂冠」は紙パックの大(1.8L)と小(900ml)の2種類があります。
 「大関」は小さな紙パックしか見あたりません。

 また、糖類ゼロの赤ワインもあります。
 ただし、これには炭水化物が100グラム中12.4グラムもあるので、少し敬遠気味に呑んでいます。
 
 
 

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 その気になって探せばもっとあることでしょう。しかし、身近なお店で売っていないと意味がないので、今はこの3種類が私の生活圏にある、ということです。

 この他に、チョコレートや羊羹、ハム、ベーコン等々、いろいろな糖質ゼロを標榜する商品がスーパーの棚に並ぶようになりました。

 最近とみに、砂糖漬けの食品が目に付きます。農耕社会になってからはどうしても避けられない、糖質・炭水化物に依存した食生活になりました。それが身体に良くないと自覚する者には、糖質ゼロ食品の普及は歓迎すべき傾向です。

 折々に、そうした商品を記録として残していきます。
 
 
 

2012年5月 7日 (月)

ウルトラサイン(五十音表)について

 連休中にいろいろと荷物を整理をしていたら、こんなものが出てきました。
 20年近く前に子どもたちと遊んでいたウルトラマンに関するものです。
 ウルトラの国で使われていた文字です。
 子音と母音の組み合わせによる表音式の文字表で、我々人間が使う五十音図と同じだという想定のようです。
 手元にはコピーしかありません。
 『てれびくん』という子供向けの雑誌に掲載されていたようですが……
 ただし、何年の何月号かわかりません。
 とくに急ぎませんが、これに関してご存知の方がいらっしゃいましたらご教示のほどを。
 
 
 
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2012年5月 6日 (日)

新聞に写真が載ったこと

 朝、京都新聞を開くと、昨日の上賀茂神社での競馬会の写真が載っていました。
 15歳の中学3年生が見事に勝ったレースの、ゴール付近の迫力あふれるショットです。
 
 
 

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 報道関係者には、このゴールの場面でシャッターを切ると、観衆が写真の背景にうまく入るカメラマン席が、しっかりと用意されています。そのため、私はいつも、このカメラマン席の近くか向かい側に陣取ることにしています。
 昨日も、私は観客席の一番端のゴール地点の隙間にいました。
 新聞に載っていた写真を見ながら、カメラマンの立ち位置を想像していました。しばらくして、新聞を妻に渡したところ、記事を見るが早いか、「あっ私が写っている!」と言い出したのです。しかも、一緒に行った婿殿と共に。立ち上がったところなので、よく目立っていると。確かに、知っている人が見れば、誰だか特定できます。

 娘は、と聞くと、あまりの暑さで日陰に待避していた時だったとのこと。
 大喜びの妻は、すぐに娘にメールを送っていました。

 インターネットで電子版の京都新聞を見ました。同じ写真が掲載されています。ただし、少し大きくするとぼやけるので、新聞のように顔の判別はできません。

 妻は、5年前の節分の日にも、廬山寺の法楽に行った時の舞台の下にいたところを、鬼の股の間からハッキリと顔が確認できる写真が、同じく京都新聞に掲載されました。

 私も、取材を含めて、何度か掲載してもらいました。家族がこんな形で新聞に載ることは、悪いことをした記事ではないだけに、何となく楽しくなります。しばらくは、家族の話題になります。

 午後、上京するために新幹線のチケットをネットで予約しました。ただし、満席で思うようには取れません。長時間かかって、夜の便がやっと取れました。もちろん、それに乗る気はまったくありません。より早い時間の自由席に乗ります。

 毎週のように、新幹線のチケットはエクスプレス予約で取っています。しかし、駅に着いたタイミングで自由席に乗るので、予約した列車に乗ることはまずありません。予約は安心のための保険の役割を果たしています。私が予約した席は誰も座らないままに、列車は走っているのです。

 もったいないことです。誰か別の人が座れるのに、とは思います。しかし、あの使いにくい予約システムでは、もう一度ネットに接続して変更する気になりません。すぐに乗った後、予約席をどうするのか、具体的な方策は提示されていないようです。JRの方は、みんなが予約席に乗っていると思っているはずはないのに……。

 私なら、もっと使い勝手のいい画面展開にして、さっと実際の席に座れる方式にすることができます。また、自分が予約した席を、それより早い自由席に座った時にキャンセルできるシステムも。
 問題は、iPhone などの、小さな画面で使いやすくすることが先決問題だとも言えます。

 毎度毎度、出来損ないのプログラムをJRはいつまで使い通すのか、興味深く見つめています。
 少なくとも、マックユーザーはあんな不細工で面倒なボタンを画面に配置したりはしません。デザイナーを代え、予約通りに指定席に座っていない実態に即したウエブ予約システムを、一日も早く構築される日を、楽しみに待っています。

 連休最終日ということもあり、のぞみは満杯でした。私は、ひかりに乗り、途中まで立って東京まで来ました。
 通路は人で埋まった状態でした。やっと座れてからも、横で立っている方に申し訳ない気持ちでジッとしていました。
 こんなすし詰めの時は、検札もワゴンサービスもありません。かといって、ずっと前の車両まで買いに行くために席を空けるのも気が引けます。
 腹ぺこ状態でしたが東京駅に無事に着いて、ホッとしました。
 
 
 


2012年5月 5日 (土)

京洛逍遥(229)上賀茂神社の競馬会 -2012-

 葵祭を迎える頃になると、下鴨神社と上賀茂神社でさまざまな神事が行われます。

 端午の節句の今日は、下鴨神社で歩射神事があります。一昨日の3日に行われた馬上の流鏑馬に対して、地上で矢を射ることで葵祭の沿道を清める、魔除けの神事です。

 このことは、「京洛逍遥(67)下鴨神社の歩射神事」(2009年5月 5日)で書いた通りです。

 今日は下鴨ではなくて、勇壮な上賀茂神社の競馬会の方に行きました。
 この競馬会の詳細な説明は、これまた3年前に書きましたので、以下のブログをご参照ください。

「京洛逍遙(68)上賀茂神社の競馬会」(2009年5月 5日)

 たまたま娘夫婦から電話があり、これから競馬会に行くところだと言うと、自分たちも行きたかったとのことで、上賀茂神社前の御園橋で急遽合流することになりました。
 賀茂川に架かる御園橋の近くにあるスーパーで買ってきたおかずや飲み物を、賀茂川の川原にある大きなベンチに拡げて、まずは4人で腹ごしらえです。

 中洲には、顔馴染みの鷺がいつものように、ジッと北山と送り火の舟形を見つめています。
 
 
 
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 涼しい川風が吹き渡ります。木陰に場所を確保しての食事でした。しかし、とにかく日差しがきついので、馬場での暑さが思いやられます。

 会場となっている馬場は、たくさんの人で埋まっていました。
 最初の勝負は儀式としてなされます。赤い装束の左方が勝つことになっています。
 
 
 
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 それに続く競馬は、真剣勝負ということで迫力満点です。目の前を疾駆する馬も人も、必死の形相です。
 
 
 
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 後から迫り来る左方が、前の黒い装束の右方を追う気魄には、鳥肌が立つほどのすごいものがありました。追われる右方の馬上の騎手(乗尻)の表情が、追われる身の怯む姿を物語っています。
 
 
 
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 祭りの後は、三ノ鳥居の横を流れる、ならの小川で水遊びをする子どもたちの歓声が、木々の間をそよぐ涼風と共に届いてきます。
 
 
 
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 帰りに娘夫婦も我が家に立ち寄るというので、我々は自転車で、バスで来た娘たちは賀茂川散歩です。
 家に着くと、早速お茶をいただくことになりました。今月からは風炉釜です。お菓子は、先ほどの上賀茂神社の鳥居前で買った名物の焼き餅と柏餅です。

 初めて使う電気炉をセットし、にわか仕立てのティータイムとなりました。
 まずは娘が3人に点てます。それを見ながら見よう見まねで婿殿が3服点て、続いて私が2回り分以上を点てることになりました。何杯もお代わりがあり、なかなか忙しいお薄のお点前となりました。先週のお稽古で教えていただいた、自分で点てて自分で飲むこともできました。

 今月からは風炉手前になります。娘も私も、炉から風炉に突然変わったこともあり、多分にうろ覚えのお点前です。しかし、喋りながら楽しく美味しくいただきました。素人のまねごとながら、これも立派なお茶会だと思います。
 お茶を取り入れた生活は、肩から力が抜けて気持ちも落ち着き、なかなかおもしろいものです。お作法のことは、こうした機会をたくさん持つことで、少しずつ身についていくことでしょう。

 なお、部屋には娘たちの前途を祝して手に入れた軸を掛けました。
 写真に収めるために並べてみました。
 右が、過日の「色紙の禅語「竹葉々起清風」」(2012年3月13日)で紹介した、大徳寺の前田昌道老師がお書きになった色紙を軸に掛けたものです。
 
 
 
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 左は、一昨日届いたばかりのお軸です。


[回光返照](朱印)

  為君葉々
   起清風
 横梅山主鶴仙俊菫[鶴仙](朱印)[俊菫](朱印)

 この墨蹟は、愛知専門尼僧堂々長、特別尼僧堂々長及び正法寺住職の青山俊菫老師が、障害者福祉向上を願って揮毫されたものです。
 チャリティーの入札で落札し、茶掛けの表装をしていただいたものが、ようやく届いたものです。そして偶然にも、たまたま立ち寄ってくれた娘たちの来訪に間に合ったのです。

 この言葉の意味は、上記のブログ「色紙の禅語「竹葉々起清風」」にゆずります。
 2つの文字を比べると、形式の違いはあるにしても、それぞれに味のあるものとなっています。
 娘夫婦が来た時には、歓待と末永く仲良く過ごすことを願って、この軸と色紙を掛けることにしましょう。
 
 
 

2012年5月 4日 (金)

京洛逍遥(228)鹿ケ谷の安楽寺

 法然院から南へ少し歩いたところに、青紅葉に包まれた安楽寺があります。ここは、お寺であることを忘れさせてくれ、時間を感じさせない自由な空間という雰囲気を持っていました。
 
 
 
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 鎌倉時代に法然上人の弟子の住蓮と安楽が鹿ケ谷に草庵を結びました。そこへ、後鳥羽上皇に女官として仕えていた松虫姫と鈴虫姫がやってきます。あまりに上皇からの寵愛を受けたため、まわりから恨みや妬みを受け、苦悩の果てに出家を決意したのです。『源氏物語』の桐壺更衣とよく似た境遇に身を置いた二人は、心の病気になる前に心の平安を求めて仏門に入るのです。

 このお寺の本堂で、由来と松虫鈴虫の話を伺いました。録音テープの解説ではなくて、実際に語って下さったのです。語りかけられる説明は、実感が籠もっていてそれが伝わってくるのでよくわかりました。

 後鳥羽上皇は、許可なく松虫と鈴虫を出家させたことから専修念仏教団への弾圧を始めます。建永2年(1207)のことです。法然と親鸞は流罪、住蓮と安楽は斬首と、悲惨な処遇と処罰がなされました。ただし、松虫と鈴虫は和歌山の粉河寺に身を移し、さらに瀬戸内海から安芸の宮島の小島で念仏三昧の日々を過ごすのです。
 出家当時は19歳と17歳だった二人も、松虫は35歳で、鈴虫は45歳で亡くなりました。二人の墓は、境内の奥にひっそりとたたずんでいました。
 
 
 
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 やがて荒廃した鹿ヶ谷の草庵は、流罪地の讃岐から帰京した法然が亡くなった住蓮と安楽のために追善の寺「住蓮山安楽寺」とし、今に伝えています。
 
 
 
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 境内の一画には、2年前に飛騨高山の大工さんの力を借りて、立派な客殿「MOMIJI 椛」が造られました。カフェもあり、ゆったりとできます。
 
 
 
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 今日は、左側の応接セットに身を沈め、お薄をいただきました。お菓子は小振りの桜餅と干菓子でした。
 木肌の温もりが直に伝わってくる、日常から切り離された空間を満喫しました。
 ここは、さまざまなイベントにも使われているようです。お寺と言うよりも、宗教や歴史を感じながら日常の延長としてのフリースペースになっています。

 参考までに、松虫鈴虫にまつわる七五調のお話を、安楽寺のホームページから引いておきます。
 
 


安楽寺松虫姫鈴虫姫和讃
 
帰命頂礼 都にて 東山なる 鹿ケ谷 仰いで松虫 鈴虫の あらまし由来を 尋ぬれば 円光大師の 御弟子にて 住蓮上人 安楽は 柴の庵の 明け暮れに 心を澄ます 谷水の 流れを人の 聞き伝え 人里まれなる 鹿ケ谷 なお山深く 分け入りて 柴の庵を 結びつつ 恵心僧都の 御作なる 座像の弥陀を 安置して 不断念仏 なしたまう
 
その頃松虫 鈴虫は 後鳥羽御門の 后にて 容顔美麗に なりければ 御門の寵愛 浅からず 数多の官女の 妬みより とかく浮世を 厭い捨て 菩提の道を 求めんと 一念心を 傾けて 剃髪染衣を 求めんと 夜も深々と 丑の刻 錦の褄を 手に持ちて 徒歩や跣で 二人連れ 潜み潜みて 裏門を 手に手を取りて 出でたまう
 
おりしも九月の 末なれば 月は隠れて 真の闇 足は急げど 夜の道 歩みも馴れぬ 山坂を 辿り辿りて 鹿ケ谷 いまだ東雲 明けざるに 住蓮安楽 二方は はや晨朝の 勤め声
 
朝の嵐か 松風と 宝の起伏 極楽を したう思いの 山寺の 門の扉を 押し開けて いとしみじみと 礼拝し 住蓮安楽 二方は 具に事の 由を陳べ 剃髪染衣を 願いなば 言葉揃えて 御歳は 幾歳にならせ たまうぞと 問わせたまえば 松虫は 歳は十九に 鈴虫は 十七歳と 答えたまう
 
雲居に住みし 女中方 花か蕾を 見るような いまだ年端も いかぬ身で 出家を願う こころざし 最も殊勝の 事ながら しばし時節を 待ちたまえ 示したまいて 剃髪を 止めたまえば 女人らは 余りに儚き 娑婆世界 老いも若きも 諸共に 今に出かくる 未来をば 心に懸けし われわれよ
 
密かに禁裡を 出でしより いとど出家が 叶わずば 哀れ尊き 法のみを 何処の河辺に 沈むとも ふたたび禁裡へ 帰るまじ
 
暇の誓いを たまわれば 住蓮安楽 二方は 詮方なくして 許したまう
 
憐れなるかな 女人らは 緑の黒髪 剃り落し 松虫妙智と 鈴虫は 妙貞法尼と 名を変えて 容顔美麗の 姿をば 松葉の煙に くすべつつ 墨の衣に 麻の袈裟 夜半に紛れて 粉河へと 月の行く影 諸共に 都の露と 消えたまう
 
その後住蓮 上人は 出家を許せし 咎として 建永二年の 春の頃 二月九日 午の刻 衣に邪見の 縄を掛け 辛き憂目の 近江路や 馬渕の里に 曳き出だし ここにて暇を たまわると 西に向かいて 手を合わせ 念仏唱える 後ろより 閃く太刀の 稲妻の 首のあとより 一本の 妙なる蓮の 咲き出でて 消えて儚く なりたまう
 
その後安楽 上人は 倶に籠れる 鹿ケ谷 出家を許せし 咎として 建永二年の 春の頃 二月九日 午の刻 六条川原に 引き据えて 西に向かいて 手を合わせ 日没礼讃 行じつつ 六条河原の 水の泡 消えて儚く なりたまう
 
その後松虫 鈴虫は 加多ヶ浦より 船に乗り 安芸国なる 厳島 光明三昧 院に着き 住蓮安楽 二方の 菩提を弔い たまいしに おりしも松虫 局には 三十五歳の 御歳にて その後鈴虫 局には 四十五歳の 御歳にて 光明輝き 華も降り 紫雲棚引き 極楽の 音楽歌舞と 諸共に 消えて儚く なりたまう
 
かかる謂れを 聞く人は 仏恩報謝の 為にとて 明け暮れ称名 唱うべし
南無阿弥陀仏 阿弥陀仏
 
安楽寺さんの 御詠歌に 身も安く 心も安き 古寺の 深き恵みは 楽しかりける


2012年5月 3日 (木)

京洛逍遥(227)下鴨神社の流鏑馬神事

 葵祭の前儀の一つとして、毎年5月3日には下鴨神社の流鏑馬(やぶさめ)神事が糺の森の馬場で行われます。流鏑馬神事は、葵祭の道中を祓い清める行事とされています。公家の狩装束姿の騎手が、馬を走らせながら「陰陽」と声をかけながら、3つの的を鏑矢(かぶらや)で射ぬきます。
 矢を射る技術の高さだけでなく、その衣装に興味深いものがあります。特に最初の3人は平安の公家の服装なのでなおさらです。4人目からは江戸時代の装束になります。

 馬を走らせながら鏑矢を射ることから「流鏑馬」と言われているのです。明治時代初期までは、騎射(きしゃ)と呼んでいました。明治時代に一時中断したそうですが、昭和48年に復活し、今に至っています。

 社務所の裏では、馬の調教がなされていました。暴走すると危険なので、入念な調整が行われていました。
 
 
 
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 ちょうど同じ時間に、一の鳥居(南口鳥居)と楼門の間の社務所前では、神職などにより安寧を祈っての儀式が行われていました。みなさん、冠り物に葵桂をつけておられます。
 
 
 
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 今年は、一の的の前で見ました。鴨長明の『方丈記』800年記念で話題になっている河合神社が、ちょうど目の前にある場所です。

 馬場には、100メートルおきに的が置かれています。的は三つあるので、馬場は400メートルあることになります。正確には全長360メートルです。的は50センチ四方の杉の板です。
 私が待機したのはスタートしてすぐの場所なので、二の的や三の的のように加速した人馬一体の迫力には欠けます。しかし、当たる確率が高いと思って待機しました。

 下鴨神社では、諸役が平安装束に身を包んでの公家流鏑馬です。ここ以外の全国の流鏑馬は武家流鏑馬なので、これは平安装束の勉強の場にもなります。
 公家の流鏑馬は11世紀末あたりから始まり、武家の流鏑馬は平清盛が熊野詣での帰りに行なったのが最初だそうです。これは、糺の森に流れた解説による情報です。

 新緑に埋め尽くされた糺の森は、多くの観客でごった返しています。昨日の雨もすっかり上がり、日差しが強くなりました。しかし、緑の森に包まれ、吹き渡る風が心地よいので、立ったままで待っていても疲れません。
 ところどころで、脚立から降りろ、とか、子供を肩車するな、とか、お祭りにつきものの小競り合いがあります。

 例年のことですが、フラッシュ撮影は繊細な馬が驚くので危険だとの注意が繰り返しなされます。しかし、性能のいいカメラは普及しても、それを使いこなせない人が多いので、最後までフラッシュは至る所で発光しています。
 隣の人も、数十万円の最高級カメラのシャッターを切っておられます。ただし、フラッシュは頻繁に光っています。
 教えてあげた方がいいものか、相手の素姓が知れないので迷います。結局はご自分では発光禁止にできなかったのか、別の人が解除しておられました。間抜けな話です。
 事故が起こったらカメラメーカーの責任にすれば、その時に初めてメーカーも真剣に対策を立てることになるのでしょう。残念ながら人身事故待ち、というのが現状のようです。

 さて、今年の射手は優秀で、3つとも的に当てる人が何人もいました。中でも、2番目の方は特に美事でした。今年は撮影する角度を変え、射手を迎える角度で写しました。
 
 
 
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 流鏑馬は、飛鳥時代から記録があるそうです。その経緯の詳細は、2年前の記事で紹介した通りです。
 また、この当たりの的は記念に墨書きしてもらえます。

「京洛逍遥(137)糺の森の流鏑馬神事」(2010年5月 3日)

 今年も記念にするかどうか迷いました。しかし、2年前のものを大事に床の間に飾っているので、いただきませんでした。しばらくは、幸運の杉板を引き継いでいきます。
 
 
 

2012年5月 2日 (水)

電動式ひらがなタイプライタの資料

 相変わらず、仕事の合間に蔵書や資料の整理をしています。整理というよりも、ひたすら捨てることに専念です。「放下着」の実践です。ただし、まだ心に迷いがあるので、手が止まることがしばしばです。そして、本や資料に見入ってしまうこともしょっちゅうです。

 今から30年以上前のことです。カード式の情報整理をしていた頃、電動式ひらがなタイプライタを活用していました。コンピュータで文字が扱えるようになる以前のことです。
 このことは、「さまざまな物を整理していて」(2012年3月21日)で書きました。
 さらに詳しくは、拙著『新・文学資料整理術パソコン奮戦記』(昭和61年11月、桜楓社)の30頁をご笑覧ください。
 この電動式ひらがなタイプライタは、昭和59年2月頃に大阪難波のデパートで購入しています。3万円でした。

 その電動式ひらがなタイプライタ「Silver-REED MODEL 8000」の「取り扱い説明書」が出てきました。現物は、すでに5年前に奈良から京都に引っ越すときに処分しました。

 ハンマーの先端に小さな活字が取り付けてあり、そのアームがパチャパチャと飛び出してきて紙を叩くタイプライタなるものを、今では知らない人が多くなりました。しかも、私が使っていたのは「電動式」で「ひらがな」を打つ「タイプライタ」なのですから、その存在を知っている人はさらに限定されます。
 こんなものがあったことを、それを使っていた者としては、どうしても記録として残しておきたくなりました。
 
 
 

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 このタイプライタは、今でも私がコンピュータで文字を入力する時に、ひらがな配列のお世話になっている原点となったものです。このひらがな配列で、私は28年間もキーを叩き続けているのです。今さら、ローマ字入力など無理です。
 20年以上も前にはプログラムを作成していたので、アルファベットのキーは今でも覚えています。しかし、そのアルファベットを組み合わせて日本語にするなど、指も頭もバラバラになります。ローマ字入力をする人を見て、よくも頭が混乱しないものだと感心しています。
 
 
 


2012年5月 1日 (火)

読書雑記(49)谷崎松子『倚松庵の夢』と潤一郎への想い

 本書は、谷崎松子の潤一郎回想記です。昭和40年から42年にかけて書かれた、長短12編の随想が収録されています。谷崎潤一郎の晩年から死に至る背景が、優しい柔らかな文章で綴られています。

 松子夫人は、谷崎潤一郎の妻としては3人目です。いろいろな作品に影を落としていて、『細雪』の幸子のモデルとされています。そのいちいちは知らなくても、本書は充分に潤一郎と夫人の心の通い路が読み取れます。

 全編を通して、傍にいた人としてもっと語ってほしいところです。奥ゆかしさから語られないことや、話がきれいに浄化されていると感じられる箇所があるように思いました。それでも、心のつながりがそうした面をうまく包み込んでいて、読後は爽やかさを感じました。これは、松子夫人にとっての谷崎潤一郎という一人の男を、きれいに語り収めたものなのです。

■「銀の盞」(原題「『源氏』と谷崎潤一郎と私」)
 潤一郎と松子の、『源氏物語』の現代語訳をめぐる日々が語られていて興味深い内容となっています。
■「湘碧山房夏あらし」
 潤一郎の最後の様子が活写されてまいす。松子の文章力に引き込まれました。中絶した男児のことを思い出すくだりは、人の心の揺らぎが美しく語られています。
■「倚松庵の夢」
 谷崎との思い出を大事にしていたことを紡いでいます。谷崎からの手紙がいいと思いました。「盲目物語」や「蘆刈」の裏には、谷崎の松子への思いがあったことがわかりおもしろい内容です。
■「細雪余談」
 谷崎を思い出しながら、「細雪」の中の平安神宮の場面を回想します。特に、最後の一文がきれいな文章となっています。


 今は儚い蝶のような思出かも知れぬが、私には消えるまでの生命の書いても書ききれぬ繋がる絆なのである。読んで下さる方こそ迷惑千万のことゝ、書き終えて身の縮まる思いがするのである。

■「源氏余香」
 これによると、谷崎の『源氏』嫌いは、新々訳を終えてからのようです。『源氏』訳の背後に、貧乏物語があるのがおもしろいと思いました。
■「終焉のあとさき」
 亡き潤一郎に語りかける松子がいます。一方的な会話です。しかし、思い出深い場面なので、様子がよく伝わってきます。病気に追い立てられるようにして、新々訳『源氏物語』は進んでいきます。一人の男の臨終のさまがつぶさに語られていて、人間の温かさがある文章となっています。谷崎のことを思うと、ペンが不思議に走り出すと言っています。さもありなん、と思われます。細やかな愛情に満ちた生活だったことが偲ばれます。
■「「吉野葛」遺聞」
 歌碑をめぐる旅の記です。しっとりとした文になっています。
■「秋声の賦」
 お稽古事を始めとして、何事にも不器用だった谷崎の姿が目に浮かんできます。
■「夏から秋へ」
 走馬燈のように、谷崎との思い出や遺品が点綴されています。
■「桜」
 与謝野晶子が愛でた大島桜が印象的に語られています。
■「桜襲」
 道成寺の桜から歌舞伎へと、話が展開します。松子の奥深い素養がにじんでいます。
■「薄紅梅」
 「台所太平記」の舞台裏が語られます。下鴨にあった潺湲亭のことは、年老いた谷崎の意外な面が見えていておもしろい話です。『源氏物語』に関する一文は、谷崎が『源氏物語』を訳した時の心中が窺えます。そこには、谷崎の松子への深い思いがあるのです。
 最後に次のように書かれています。

京のたよりにきのうもきょうも風花が舞っているという。法然院の墓石は寂として静まり、枝垂桜の咲く日を生きていた日と同じように待っていることであろう。

 この一文を読み終え、そうだ谷崎の墓石がある法然院へ行こうと思い立ち、昨日のブログに記したように自転車を漕いで行ったしだいです。
 左の「寂」の下に、2人は眠っています。
 
 
 
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NPO法人〈源氏物語電子資料館〉広報室より

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