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2012年11月14日 (水)

読書雑記(52)岡崎琢磨『珈琲店タレーランの事件簿』

 この小説には、〈また会えたなら、あなたの淹れた珈琲を〉というサブタイトルが付いています。
 私なら、このサブタイトルの方を書名にします。もっとも、今後のシリーズ化を狙ってのことなのでしょうから、このタイトルで行くのなら、もっと事件やミステリ性を盛り込んでサービスを心掛けないと、読者に失望を与えます。
 なお、本作品は、第10回「このミステリーがすごい!」大賞(2012年度)の応募作であり、最終選考まで残ったことにより「隠し玉」として出版されたものだとのことです。

 私は、毎日のように自分でコーヒーを淹れています。自分で気に入った豆を買ってきて、電動ミルで挽いて淹れるのです。
 一度に5杯分を作るのが、朝夕の楽しみです。ほぼ毎日10杯近くものコーヒーを飲んでいることになります。
 まったく同じコーヒーメーカーを3台持っていて、京都、東京、立川の3ヶ所に1台ずつ置いています。
 何度かフィルターを交換したので、よく使っている方でしょう。
 
 
 
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 それぞれの場所で、挽く豆も変えています。好みは、香り高くソフトな味の豆です。京都北大路にある伊藤珈琲店の「さくらブレンド」が一番のお気に入りです。次は、これも京都にある小川珈琲の「KAORI」です。京都は、コーヒーの文化も楽しめる街です。

 挽いた粉が飛び散るので、粉のお掃除には、100円ショップで見つけたお化粧用で太い刷毛を使っています。
 この小説を読み、ハンドミルで豆を挽くのもいいかな、と思うようになりました。

 忙しい時期には、すでに挽いてある粉を買ってくることもあります。さまざまなブレンドがあるので、おもしろ半分ではあっても、いろいろと楽しめます。

 この小説は、読んでいるとコーヒーの香りが漂う作品です。ただし、少しだけ温めのコーヒーを飲んだ後の感触がするのは、どうしてでしょうか。特に取り立てて心躍る事件がなかったせいかもしれません。

 バリスタである切間美星が謎解きをする物語です。テンポよく会話が遣り取りされて、話が進行していきます。
 コーヒー豆を、ハンドミルでコリコリと挽くのが、謎を解き明かす時の一つのパターンとなっています。
 コーヒーの香りが行間から匂い立つ中で、ささやかながらも理詰めの推理が展開します。そして、舞台は京都。

 取り立てて大きな事件が起きるわけではありません。男と女の関係を通して、人間のつながりのおもしろさが描かれていきます。
 第3話(103頁)で、北大路にある焙煎屋さんから豆を仕入れている、とあります。私が好きな伊藤珈琲店ではなさそうだし、どこだろうと、地元民としてはあれこれと思いをめぐらせました。京都には、たくさんの喫茶店と、豆を挽いてくれるお店があります。この豆選びは、私の楽しみの一つとなっています。

 さて、物語は想像力を刺激する話が並んでいます。ただし、そのつながりが弱いせいか、話の展開に置き去りにされることもあります。特に、第3話など。
 作者の構成力が足りないのか、原稿に手を入れすぎたためにこうなったのか。この作者の今後の成長を見たいと思いました。

 バリスタの美星さんを描く筆が冴えています。丁寧にふっくらと焼き上げたオムレツのように、魅力的に語られています。
 ちょうど真ん中あたりで、美星さんがこう言います。


「これは私の勝手な希望かもしれませんが、アオヤマさんとはいずれ、互いの内側の深いところまで立ち入ることのできる間柄になるのでは、という予感がしています。けれども今はまだ、その勇気がないのです。どうか、もうしばらくそっとしておいていただけませんか。しかるべき時期がきたら必ず、私のほうからお願いいたしますので」(208頁)

 このセリフを美星さんに言わせた時点で、その後の展開が見えてきました。
 作品の構成力が弱いのは、こうした不用意な発言を挟んでいるからだと思われます。原稿に手を入れすぎたために、人間の感情がこんなところに紛れ込み、かえって話がぼやけてしまっています。読んでいて、ここで余計なことを言わせなければいいのに、と残念に思った場面です。

 また後半で、美星さんの秘められた過去というものが語られます。これは、もっと早く匂わせておいた方が、作品全体に緊張感を与えたと思われます。これも、手の入れ方が中途半端だったからだと言えるでしょう。

 この作品の推理は、あまりにも日常的なレベルでの小事に終始しています。これがこの作品の上品さだとしても、もう少しダイナミックさを加味してほしかったと思っています。そこに、物足りなさを感じました。
 
 全体的に、理詰めで堅苦しさが感じられます。しかし、文章に歯切れの良さがあることが救いとなり、一気に読めました。エピローグは、映画のエンディングのようでした。
 脚色を工夫すれば、京都を舞台にしたいい映画ができそうです。

 なお、最終章である第七章は、なぜか、節が「 2  4 5 6」となっています。ローマ数字の「」と「」が用いられているのは、何か意味があるのでしょうか。その他の章ではないものなので、校正ミスなのでしょうか?【2】
 
 
 

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NPO法人〈源氏物語電子資料館〉広報室より

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