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2012年12月 5日 (水)

従兄弟の喪中を知って思うこと

 歳と共に、喪中につき新年の挨拶を失礼する旨のハガキをいただくことが、めっきり多くなりました。
 今年はすでに30通をこえています。ご両親がお亡くなりになった方が多いようです。
 私が出す年賀状は300枚プラス α なので、1割ということになります。

 その中でも、従兄弟の勲さんが亡くなられたことを知り、はたと時間が止まってしまいました。

 私は大阪の高校を卒業するとすぐに、朝日新聞の奨学生として上京しました。大田区の新聞販売店に配属されました。有楽町の駅前の朝日新聞社で手続きをし、すぐに販売店の所長さんと一緒にお店に行き、その日から住み込みで仕事をすることになりました。身元保証人には、吉祥寺にいらっしゃった勲さんが快く引き受けてくださいました。

 勲さんの吉祥寺の家へ挨拶に行った時の朝食で、生まれて初めて、あのネバネバする納豆というものを食べました。大徳寺納豆は知っていました。しかし、話には聞いていた臭い糸を引くものを、我慢して一口食べて遠慮しました。無理をしなくていいよ、と言ってもらいました。

 新聞配達の仕事を始めて10日ほどで、朝食後に突然腹痛がして、這うようにして2階の自分の2畳の部屋に帰ると、しだいに意識が朦朧としました。すぐに部屋を転がり出て所長さんの部屋の戸を叩いたところまでは覚えています。意識を失ったようです。気が付いたときには、すぐ近くにあった総合病院のベッドの上でした。

 看護婦さんの説明では、十二指腸が破れて体内に食べ物が回っているので、大至急手術をするとのことです。家族ですぐに来られる人に連絡を、ということでした。しかし、両親も姉も大阪の八尾市にいます。
 父か母が連絡を取ってくれたのでしょう。勲さんが保証人になるとのことで、妻の典子さんが吉祥寺から大森まで飛んで来てくださいました。保証人としての確認がとれたとのことで、すぐに手術が始まりました。

 それまでに、私は体毛を剃られたり、鼻から管がいれられたりで、見るも無惨な姿をベッドに横たえていました。
 麻酔がよく効いたようで、あのテレビドラマの「ベンケーシー」の冒頭シーンであった、手術用の寝台車から見る天井が目まぐるしく移動する場面は覚えていません。

 4時間の手術でした。胃液が神経の酷使で濃縮され、その出口にある十二指腸が徐々に濃縮された胃酸で溶けて穴が開いたのだそうです。そのために、胃液の分泌量を少なくするために、胃の3分の2と、穴の開いた十二指腸と、小腸を少々ですが切除されたのです。
 私の胃は18歳ということもあり、あまりにきれいなピンク色をしていることと、みごとにまん丸い穴が空いているとのことで、地下の標本室に飾られることになりました。もっとも、私はいまだに自分の胃と面会はしていませんが。

 無事に手術が終わり、病室に帰って意識を取り戻した時、典子さんが私の脚をずっとさすってマッサージをしてくださっていることに気づきました。心地よい刺激がずっと続いていたことを覚えています。

 このマッサージの意味が、一昨年の胃ガンの手術後にわかりました。エコノミークラス症候群のようにならないために、京大病院では空気を送り込む道具で手術後の脚を一晩中マッサージをしてくれていたのです。あの、43年前に典子さんが私の脚をずっとさすってくださったのは、こんな意味があったのです。そして、あらためて感謝の気持ちで一杯になりました。

 43年前に手術をしたとき、私がそろそろ歩いてもいいというタイミングで、典子さんはスリッパをお見舞いとしてくださいました。
 一昨年の胃の全摘出の手術のときは、切った翌日から歩行訓練でした。しかし、当時はそんな対処ではなかったのです。1日も早くベッドから降りて歩きたかったのです。
 そのタイミングを見計らってスリッパを差し入れてくださった典子さんの心遣いに、さりげない優しさを教えていただきました。勲さんは私の手術の成功を見守ると、慌ただしく出張に行かれたと思います。

 勲さんは、石川島播磨にお勤めでした。今、私がいる東京の宿舎は、その基地があった佃島のすぐそばです。散歩でいつもこの辺りを歩いています。

 私が十二指腸潰瘍で胃の3分の2を切除したのは、大阪で万博が開かれた1970年でした。半年後に、体調も復したので、再度上京しました。
 そして、勲さんに2つの相談をしました。1つは、ブラジルに行って新しい仕事をしたいこと、2つ目は、お茶の水のアテネフランセでフランス語を勉強して、バカロレア制度でフランスへ行って勉強をしたいことを。
 勲さんは、今から思えば突拍子もない私の話を、じっくりと聴いてくださいました。反対はされませんでした。しかし、もっとよく考えたらまたおいで、と言ってくださいました。ブラジルの資料を取り寄せたり、アテネフランセへ行ったりして、私なりに調べました。そして、やはり東京の大学に行こうと決心し、その準備に入りました。

 若い時には、こんな風に、脈絡もなく今の自分の環境を変えて、新しい人生を歩もうと思うようです。これも、成長の一過程なのでしょう。そんなことがあったから、今の自分があると思います。いろいろと生き方に迷ったことは、無駄なことではなかったと思います。いろいろな道を模索し、その結果として今があるのですから。

 勲さんは、ブラジルや中国に何年も行っておられました。私も海外に行くようになってから、海外の様子をお話ししに行こうと何度も思いました。しかし、忙しさにかまけて、ついつい行かずじまいでした。

 今にして思えば、若き日のスタートを見守ってもらいながら、本当に失礼なことをしたものです。
 私のことは、風の便りに聞いておられたようです。頑張っているな、と喜んでおられたそうです。なぜ直接話をしに行かなかったのか、今はしきりに悔やんでいます。

 亡くなられた通知をいただき、早速お供えをお送りしました。
 それでは気がすまないので、知多半島に脚を運ぼうと思っています。あらためて地図で確認すると、なんと京都からは1時間ほどで行けるのです。あー、何と不精をしていたことかと、今はおわびの気持ちと、ご冥福を祈るのみです。

 40年以上も挨拶していません。
 年賀状を差し上げるだけでした。
 ご自宅に線香をあげに行きます。
 その時これまでの報告をします。
 本当にありがとうございました。
 世界を飛び回って大変でしたね。
 どうか安らかにお休みください。
 
 
 

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NPO法人〈源氏物語電子資料館〉広報室より

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