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2013年9月の30件の記事

2013年9月30日 (月)

井上靖卒読(171)「城あと」「宦者中行説」

■「城あと」
 北陸の小さな山村の様子が、丁寧に描かれています。警察から逃げる2人の男女。なりゆきから強盗殺人を犯した男に、「一人じゃ死ねないでしょう」と言って同行する心優しい女。死に場所を求めて、城跡へ行きます。男は煮え切らないながらも、女を思う優しさが身上でした。最後まで、女を守ってやろうとします。
 井上靖の作品には、死に行く男女がよく出てきます。そこには、虚しさも一緒に語られることが多いようです。人の心の襞から滲みだしてくる感情を、追い詰められた者の視点で描いていきます。それが美しく紡がれるのが魅力でもあります。【3】
 
 
初出誌:文芸朝日
初出号数:1963年5月
 
集英社文庫:青葉の旅
井上靖小説全集31:四角な船
井上靖全集6:短篇6
 
時代:昭和、ある年の春頃
舞台:北陸の山間にある温泉町、日本海が見える権現山の城あと・山小屋
 
 
 
■「宦者中行説」
 中国の高祖の時以来、漢は公主(内親王)を匈奴に嫁がせます。政略結婚です。文帝の時、16歳の宗室が選ばれました。その付き添いを宦者中行説が選ぶことになったのです。ただし、このことは、その後の話には直結しません。
 匈奴に住み慣れた中行説は、文帝と対峙するようになります。歴史の裏面から、もし中行説がまだ生きていたら、という仮定の話で終わります。問題となる、人の一面は見えました。ただし、中途半端なままで、まとまりに欠ける状態で話は終わっています。【2】
 
 
初出誌:文芸
初出号数:1963年6月号
 
新潮文庫:楼蘭
旺文社文庫:洪水・異域の人 他八編
井上靖小説全集18:朱い門・ローマの宿
井上靖全集6:短篇6
 
 
 
〔参照書誌データ〕
 「井上靖作品館」
 
 
 

2013年9月29日 (日)

江戸漫歩(69)特別展「国宝『卯花墻』と桃山の名陶」

 東京日本橋にある三井記念美術館で、「特別展 国宝『卯花墻』と桃山の名陶 ―志野・黄瀬戸・瀬戸黒・織部―」を見て来ました。
 場所は三越本店のまん前です。
 

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 解説には、次のように記されています。


 桃山時代後期、岐阜県・美濃地方で新しい陶器が誕生しました。志野、黄瀬戸、瀬戸黒、織部です。斬新な作行きが活気あふれる当時の風潮と呼応して大流行しました。この特別展では桃山茶陶の代表作とされる志野茶碗「卯花墻」(国宝)と、美濃陶の名品を一堂に展示します。
 桃山時代ならではの気風を感じていただきたいと思います。(「開催中の展覧会」より)

 桃山時代といっても、実際には慶長年間(1596年〜)から元和年間(〜1623年)という、ごく限られた間に作られた焼き物です。

 現在、支倉常長と慶長遣欧使節団派遣400周年の記念事業の一環で、来月下旬に行くスペインのことを調べていてます。
 支倉常長と慶長遣欧使節が、仙台藩主であった伊達正宗の命を受けて、慶長18年(1613)に月浦(雄勝とも)を出発しました。メキシコのアカプルコ、スペインのマドリード、そしてイタリアのバチカンを訪れ、日本に帰ってきたのが元和6年(1620)でした。
 期せずして、今回の特別展で展示されている茶器が作陶された期間にあたります。
 その意味でも、同じ時代のものとして興味をもって見ました。

 名の知られた茶碗・香合・向付などがズラリと並んでいました。
 しかし、まだ私には、その良さや価値はまったくわかりません。
 「志野茶碗 銘 卯花墻」(桃山時代・16-17世紀、三井記念美術館蔵)は、国宝に指定された和物茶碗2碗の内の一つだそうです。とはいえ、これはどこから飲むのだろう、とか、手にするとどんな感じなのだろう、とか、点てるのも大変だろうな、ということしか思い浮かびません。

 とにかく、いいものを1つでも多く見ることで、少しずつでも茶器に親しみたいと思っています。

 なお、三井と国文学研究資料館とは、三井文庫つながりで縁があります。
 三井記念美術館は、三井文庫別館が移転して平成17年に開設された美術館です。
 国文学研究資料館が立川に移転するまであった戸越公園の地は、かつて三井家の別邸でした。そこにあった、戸越公園や三井文庫が分譲され、三井文庫の書庫や建物をそのまま引き継いで国文学研究資料館(当初は文部省史料館)が建てられたのです。
 正門を入ってすぐ右にあった書庫を懐かしむ方も多いことでしょう。
 今もその面影が「文庫の森」という名前とともに残っていていることは、「続・戸越の国文学研究資料館はこうなった」(2013年08月30日)に報告されている通りです。

 その三井文庫にあった多くの写本類が、アメリカのカリフォルニア大学バークレー校に移されました。その和古書については、「カリフォルニア大学バークレー校旧三井文庫写本目録稿」(国文学研究資料館文献資料部『調査研究報告』5、1984年)や、『三井文庫旧蔵江戸版本書目:カリフォルニア大学バークレー校所蔵』(岡雅彦他編、ゆまに書房、1990年)によって、海を渡った写本の事などが確認できます。
 カリフォルニア大学バークレー校へは、私も2回にわたり日本の古典籍の調査で行きました。

 話があらぬ方向に飛びました。
 とにかく、三井のお宝を拝見して来ました、という報告でした。
 
 

2013年9月28日 (土)

読書雑記(81)澁澤龍彦『高丘親王航海記』

 初めて澁澤龍彦の小説を読みました。しっかりした文章、考え抜かれた構成、そして現実と乖離しながらも読者を惹き付ける物語展開。今から千年以上も前の人間の生きざまを、幻想の世界を彷徨いながら追体験しました。
 現実を超越した世界がこのように描き出されていることは、特筆すべきものだと思います。
 

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 以下、日頃はこうした作品をほとんど読まないので、各章ごとに思いつくままのメモを残しておきます。
 
■「儒艮」
 高丘親王が中国の広州から天竺へ向かったのは、貞観7年(865)の正月でした。話はここから始まります。
 7、8歳の親王に天竺の魅力を吹き込んだのは、父平城帝の寵姫であった藤原薬子でした。その薬子が印象的に描かれています。そして、薬子の死と共に12歳の親王も廃太子になったのです。
 20歳を過ぎて落飾。24歳で空海に師事。
 天竺へ向かう途中で、儒艮や大蟻食いの話があり、南洋の雰囲気にさせてくれます。【4】

■「蘭房」
 カンボジアの後宮に行くことになった親王の目に映るものすべてが、異国情緒を漂わせています。奇譚となっていくのです。陳家蘭と呼ばれる単孔の女たちの話が、興味深く語られます。そこにいた7人の全裸の女性は、みな下半身にさまざまな色の羽を持つ鳥だったのです。【2】

■「獏園」
 親王はマライ半島に移ります。そこで土民に掴まったのです。行った先は、今で言う動物園。夢を喰う獏の話は、おもしろく読めます。親王の夢を食べる獏は、いい香りのする分をすると言います。また、夢を見てもすべて獏に食べられるため、記憶に残らないとも。そのせいもあって、親王は鬱屈していきます。そんなある時、薬子が父平城天皇を殺そうとする夢を見ました。その後、獏と少女の不思議な風景を目にします。空想物語がみごとに紡ぎ出されていいて、読みながら引き込まれていきました。【5】

■「蜜人」
 親王たちの船は流されて、ビルマに着きました。そこで、犬頭の男の話が展開します。さらに、蜜人へと。蜜人とは、バラモンが蜜を食べて捨身すると、その屍体が馥郁とした芳香を放つようになる者のことです。アラビア人が言う蜜人採りに、親王たちは関わるのです。インドへ行くために。
 しだいにグロテスクな話となっていきます。作者の本領発揮というところです。
 親王は、よく夢を見ます。得意技でもあります。そして、空海とのやりとりには大らかさが滲んでいて、好感が持てました。その夢の中には、必ず薬子も出てきます。
 現実と空想、過去と現在が行きつ戻りつし、スケールの大きな語り口を堪能しました。【4】

■「鏡湖」
 親王は、お供3人を連れることなく、1人で雲南にやってきました。心細さよりも、楽天的に考える人でした。そこでの体験がおもしろいのです。人間の存在について考えてしまいます。不思議な話に引き込まれます。穏やかな文章もいいと思いました。【4】

■「真珠」
 セイロンへ向かう船の中でのことです。儒艮をめぐって、不思議な話が繰り広げられます。また、死についての話題が多く語られます。船はセイロンには着かないままです。どこに辿り着いたかは、読者には伏せたままです。【2】

■「頻伽」
 ベンガル湾にあると言われた魔の海域に至ります。
 親王たちが漂着したのは、スマトラ島だったようです。しかし、親王たちはそのことを知りません。まだセイロンかと思っていたのです。
 死にゆく親王とパタタ姫の会話は、無機質で干からびた感じがうまく出ています。2人が出した結論は、虎に喰われ、その虎に天竺へ運んでもらうというものでした。発想は奇想天外です。しかし、強い目的のために設定されたものなのです。
 終盤になって、やたら作者が物語の中に顔を出すようになりります。語りが現実味を持ち、これが不自然ではないのです。
 また、薬子が姿を見せます。この夢想の中の話も、柔らかく包まれて語られます。
 そして、幻想的な結末に。
 1年にも満たない高丘親王の旅は、こうして終わったのです。【4】
 
 この作品は、昭和60年に執筆を開始し、62年10月に文藝春秋社から刊行されました。
 今回、私はこれを読みました。
 澁澤龍彦は62年8月に亡くなっているので、遺作となったものです。
 本作品は、第39回読売文学賞を受賞しています。
 
 

2013年9月27日 (金)

千代田図書館の目録調査を2年ぶりに再開

 九段下にある千代田区役所の中に、貴重な資料が保管されている図書館があります。
 先月刊行した『もっと知りたい池田亀鑑と「源氏物語」第2集』で取り上げた、検閲を受けた『源氏物語』の展観書目録の冊子は、この図書館で見つかったものです。

 ここに所蔵されている「古書販売目録コレクション」の調査については、私が金曜日に非常勤の仕事が入ったために、しばらく中断していました。前回、最後に調査を実施したのは、平成23年10月21日でした。あれから2年も間が空きました。

 また、通っていた九段坂病院も、3年前から京大病院に転院したため、この九段下に来るのが少なくなったのも、足が遠のいた原因の一つでもあります。

 地下鉄を上がり、皇居の北東にあたる田安門下の牛ヶ渕を望むのも、本当に久しぶりです。
 写真中央右に、武道館の屋根が見えています。
 

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 今日は前回の続きで、反町茂雄氏の所蔵だった即売会の古書目録の内、昭和26年のものからチェックを始めました。ちょうど私が生まれた年からなので、時を同じくして日本のどこかにあった『源氏物語』関係の古書を確認することになりました。資料を見る目も、久しぶりということもあり、何となく緊張していました。

 大部の目録は、最近新しい中性紙の箱に収められ、保存状態が格段によくなっていました。また、金属の錆が冊子を劣化させるので、冊子を留めている金具を外すことにも着手されていました。大事に後世に伝えていきたい資料群なので、こうした保存環境の整備は大歓迎です。

 ノートパソコンの充電器を持参していかなかったので、今日はバッテリーが切れたところで打ち切りとしました。Mac Book Air は、4時間近く、しっかりと働いてくれました。しかも、iPhone とのテザリングで、ネットワークに繋げた状態だったのにもかかわらず、予想外にバッテリーが持ってくれました。

 千代田図書館に所蔵されている目録は膨大です。私は、まだ1パーセントも見ていません。
 今日半日でどうにか確認したのは、4時間かけて35冊でした。
 これでは、私が独力で終えることは、どう考えても不可能です。

 今やっているのは、活字で印刷された販売目録の頁を繰り、『源氏物語』に関連する情報を抜き出してパソコンに入力することです。また、写真などの図版が掲載されていれば、それをデジカメで撮影します。さらに、写本などで文字が読み取れる場合は、後日その書かれた内容を翻字します。
 単純とは言え、興味深い情報が目録のそこここに散在しているので、目移りがしてなかなか先に進めません。楽しい道草ですが……

 もしよかったら、どなたか一緒に調査をしませんか。
 お手伝いをしてくださる方を探しています。

 興味のある方は、本ブログのコメント欄などを通して連絡をいただけると、さらに詳しいことをお知らせします。
 次回は、10月18日午後1時からを予定しています。
 
 

2013年9月26日 (木)

読書雑記(80)続木義也『カレーの海で泳ぎたい』

 我が家の近くに、自家焙煎の「カフェ・ヴェルディ」があります。
 このお店のことは、「京洛逍遥(283)下鴨の「カフェ・ヴェルディ」が開業10周年」(2013/8/14)で紹介しました。

 そのお店のオーナーである続木義也さんが、『カレーの海で泳ぎたい インド料理の見方・食べ方・楽しみ方』(マリア書房、2013年8月12日)を出版されました。
 

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 かねてよりカレーと縁の深い方であることは仄聞していたので、早速読みました。
 とにかく、おもしろい本です。

 現在、急激に変わりつつある日本のインド料理の実態が、楽しいエッセーと豊富な写真と、おしゃれな脚注で語られています。コラムも一味違っているので、多彩なマサラの世界が拡がります。

 筆者続木さんは、今年で創業100年を迎えた京都の老舗パン屋さん「進々堂」の四男です。京都人だな、と思うくだりがふんだんに出てきます。
 珈琲店の店主として、コーヒーについての質問を受ければ、それにはその道の専門家として語る用意があると仰います。問われれば、という謙虚な姿勢が顕著です。すぐに熱く蘊蓄を……という東人との違いが行文のそこここに見られて、東西の職人の気質がおもしろいと思いました。

 料理についても、自分は作らずに食べ歩くことに徹しているのも、気持ちのいいものがあります。
 カレーに対する思い入れが、温かく伝わってきます。

 目の前で語っておられるような錯覚に陥るのは、非常に具体的で的確な評価を下しながら、次々と話題が展開するからでしょう。背伸びしない語り口が、目にも耳にも優しいのです。
 これは本なので、残念ながら、舌と鼻は楽しませてもらえません。

 文章に関する注も、お店や地名や料理のことが、脚注というよりも下向きの吹き出しか風船のような仕掛けでぶら下がっていて、工夫された楽しい情報提供となっています。

 筆者の語るインド人気質も興味深いものがありました。私は10年近くインドに通い詰めています。ただし、デリー中心です。その中で掴んだインドの方々の特質が、著者の言うものと大いにズレを感じます。
 これは、インドにどれだけ行ったのかということよりも、インド料理に関わっている人とどれだけ多く接してきたか、ということの違いからくるもののようです。私は学校関係者であり、著者は料理関係者です。自ずと、そこには違いがあるのは当然です。しかし、そこは同じインド人のことです。大いに理解を深める指摘もたくさん出てきました。

 インドとネパールの違いについては、私も同感です。
 両国は違うのに、日本では混同して捉えられています。

 本書は、全編がインド料理を中心にしています。しかし、和食・中華・洋食も取り込んだ食べ歩き記となっています。話題が豊富で、文章にも躍動感があります。
 これは、筆者が一番語りたいことをストレートに語り下ろしているからでしょう。

 著者は、画一的に決めつけるのを嫌い、それぞれの個性を見ようとしています。
 「寿司・天ぷら・スキヤキ」と「ナン・カレー・タンドリーチキン」が、お互いの国の料理だという先入観を批判もしています。単一化がかえって実態をねじ曲げる例とも言えることです。

 次の例は、私がいつもインドでお世話になっている先生の檀那さんがお医者さんなので、以前からよく聞いていたことです。


実は、インド人がよく食べる主食と言えば、圧倒的にライス。特に南インドへ行くと、ものすごい量のご飯を食べるそうである。あまりにもご飯を採りすぎて糖尿病の患者が増えたため、医者がアタで作るパン、チャパティを推奨しているとか。そんなライス文化の国なのだから、カレーもご飯に合うものが多いのは当たり前。(53頁)

 糖質制限食を心掛けている私にとって、この炭水化物の摂り過ぎは興味深い事例です。
 このままではインドは、これからますます糖尿病大国になることでしょう。

 ランチだけでは味は分からない、ということも納得しました。確かに、提供する対象も、調理方法も、ランチとディナーでは違うのですから。

 さらには、こんな話も。


ランチやターリーとアラカルトで味に大差のないインド料理店は、マサラの使い方など総合的な技術を持っていないか、日本人を見下しているかのいずれかかもしれない。(58頁)

 もう一つ。おいしくなかった時のうまい褒め言葉について(85頁)。


日本料理の場合:「懐かしい味ですね」
それ以外の国の料理の場合:「本場の味ですね」

 これは使えます。

 本書には、京都のお薦めレストランが目白押しです。京都のインド料理は食べ尽くしたと自負するほどのことはある、充実した情報です。ぜひとも、私も折々に渡り歩いてみたいと思います。ただし、摂取する炭水化物の量をよくよく注意しながら。

 お薦めのインド料理店は、京都だけではありません。
 好奇心旺盛な筆者は、東京の情報もしっかりと押さえておられます。

 満腹状態で本書を綴じた時、私の大好物のパニールについて、まったくと言っていいほど情報がありませんでした。出てきたのは1回だけで、アラカルトの料理名として「パラクパニール」しかなかったように思います。その注も簡素なものでした。
 私のように、消化管にやさしいインド料理を探し求めている者にとっては、パニールはありがたい料理です。どうして触れておられないのか、機会があれば珈琲店「ベルディ」に行った時に聞いてみたいと思います。

 とにかく、食べ物について人の嗜好はさまざまです。しかも、それが外国発祥のものであればなおさらのこと。食材からして違うのです。一口にインド料理と言っても千差万別です。本場の味などは、どだい無理なので、自分がおいしいと思うものを楽しむことに行き着きます。

 北インド料理から南インド料理へと、現在の状況や流れが広がりつつあることわかりました。しかし、私が毎年行くデリーでは、至るところに南インド料理があり、私もよく行っていました。

 現地の人々が暮らす地域には、デリーであっても南インド料理のお店は多いのです。多少、北インド料理店よりも値段が高く、少し上品な雰囲気の店が多かったのは確かですが。
 北も南も混在するのは、いろいろなものに興味を示すインド人の習性だと思います。北インド料理から南インド料理へと、という流れは、日本にいるインド人の方々から聞いた話を元にしてのことなのでしょう。あくまでも日本でのこと、として理解しました。
 イタリアのように南北に長い国なので、食文化の伝播も日本に適したと思われる北インドのメニューが先に受け入れられた、という事情もあるのでは、と素人ながら思いました。

 私はデリーで、そんなに辛いカレーは食べません。辛いモノを探せば多いのは確かです。しかし、地元の人はそんなにいつもヒリヒリするほどの辛さのマサラ料理は食べていません。
 私はインドへ行くと、いつも体調が良くなって帰ってきます。マサラという薬膳料理を毎日たべるからでしょう。そして、豆とパニール中心の料理は、添えてある唐辛子で辛さを調節するのです。
 これからの日本におけるインド料理は、辛さを競うのではなくて、人にやさしいマサラ料理を目指してもらえたら、と思うようになりました。

 本書の巻末にある「京都のお店」と「東京のお店」と「インド料理豆知識」、さらに「京都マップ」は、早速PDFにして iPhone に入れて持ち歩くことにします。

 盛りだくさんの内容と、楽しい話で満腹です。
 ごちそうさまでした。
 また、「ベルディ」のコーヒーをいただきに行きます。
 
 なお、これまで私は、インドのカレーに関しては、小菅桂子さんの『カレーライスの誕生』(講談社、2002年6月)を折々に推薦していました。この本は、今年の3月に、〈講談社学術文庫〉の一冊として装いを新たに刊行されています。
 
 

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 今回、本書が刊行されたことにより、これも加えることにします。
 
 

2013年9月25日 (水)

源氏物語の古注釈書である『花鳥餘情』を気儘に読む

 一条兼良が著した『源氏物語』の注釈書である『花鳥餘情』は、現在では「かちょうよじょう」と、多くの辞書などには読み仮名が振られているようです。しかし、私などは「かちょうよせい」という呼び方で教わってきたし、そう読んで来ました。

 最近は、こうした固有名詞の読み方で、自分が覚えているものと違う例によく出くわすようになりました。特に、「有職読み」と言われるものに多いようです。その「有職」にしても、最近は「ゆうそく」ではなくて「ゆうしょく」が主流のようです。
 人前でこうした用語を発音するときに、気を使うことが増えました。

 『花鳥餘情』というと、伊井春樹先生が『源氏物語古注集成 1 松永本 花鳥余情』(桜楓社、昭和53年4月)を刊行されたことがまず思い起こされます。
 

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 先生はその解説で、本との出会いについて語っておられたことが、今でも鮮明に思い出されます。
 その後も、本は探している者にお出でお出でをするものだ、と話してくださいました。求めれば、本の方から呼びかけて来る、という経験は、私も何度もしたことがあります。本との出会いは、本当に不思議なものです。

 また、この本が刊行されたのは、私が大学院の修士課程を終えて、大阪で高校の教員を始めたばかりの時でした。新設早々の学校で、生徒の生活指導と家庭訪問に明け暮れる日々の中で、この本を開いては勉強し続けることへの気持ちを高めていました。

 さらに、「兼良の源氏学の形成 -二条家の秘説から『 花鳥余情』へ-」という先生のご論文は、『国文学研究資料館紀要』の創刊号(昭和60年3月)という、記念すべき研究誌に掲載されたものでした。この論文も、貪るように読んだ記憶が今甦ります。

 さて、『花鳥餘情』を読む勉強会があるということなので、さっそく参加しました。
 これは、国文学研究資料館の若い仲間が自発的に始めた集まりです。
 しばらく私は『源氏物語』の古注釈の勉強を怠っているので、若い方々に刺戟をいただいて、また新たな視点で『源氏物語』と取り組みたいと思ったのが、そのきっかけです。

 今日が2回目の集まりだったので、どのようにして進めていくのかはまだ決まっていません。
 とにかく、注釈書を読もう、ということです。
 参加者は5人。本当に自由に、特に方針を決めずに取り組もうという姿勢に好感を持ちました。
 とにかくやってみよう、というのは、本当にいいことです。

 私が研究と言える論文を書いた最初は、『源氏物語』の初期の注釈書である『源氏釈』の注記に注目したものでした。「さくら人巻論の可能性 —源氏物語古系図の検討を通して—」というものです。『王朝文学史稿 第4・5合併号』(王朝文学史研究会、昭和52年)に掲載していただきました。そして、その後の古注釈を扱った論文などと共に、『源氏物語受容論序説—別本・古注釈・折口信夫—』(桜楓社、平成2年、平成2年5月に高崎正秀博士記念賞受賞(國學院大學))に収録してあります。未熟な論考ばかりですが、『源氏物語』の古注釈と本文に取り組み出した、若き頃の産物です。

 その後も、注釈書を扱っていろいろと研究を進めてきました。しかしそれは、古注釈書の注記を資料として扱ったものです。注釈書全体を読んで、その注釈書の性格や注解者のことを考えては来ませんでした。その意味では、今回の注釈書を読む、という視点は新鮮でありいい勉強ができそうです。

 今日の集まりに、私はこの伊井先生の本を持参しました。ただし、みんなで輪読するために用意された資料は、中野幸一先生の『源氏物語古註釈叢刊 第2巻 花鳥余情 源氏和秘抄 源氏物語之内不審条々 源語秘訣 口伝抄』(武蔵野書院、昭和53年12月)でした。
 読み進むうちに、この二冊があると便利であることがわかりました。

 参加者が、順番に注記を音読して、思うことを言い合います。
 刺激的な思いつきが、みんなを活性化させる種となります。久しぶりに、みんなで本を読む楽しみを味わうことができました。

 気長に続けることが大切です。何かと業務としての仕事に追われる日々です。しかし、その合間にこうした勉強会に参加することで、学ぶ気持ちをさらに維持し、高めることができたら、と思っています。
 
 

2013年9月24日 (火)

吉行淳之介濫読(13)「白い神経毬」「人形を焼く」

■「白い神経毬」
 病院に入院して4日目に抜け出した学生の小針。病室に戻ると、恋人によく似た看護人の女を見掛けます。それから気になり出すのです。
 手術後、屋上での戯れにひたる間もなく、彼女が看病する男が亡くなります。
 やがて、小針に新しい仕事として、アスリートへのインタビューがきます。
 短いながらもよくまとまっています。【3】

※今回読んだ中公文庫には、34年前に読んだ時のメモが記されていました。再読してみて、チェックした意図も意味も思い出せません。
 
※追記:白い神経毬」の原題は「人ちがい」(『別冊小説新潮』13巻2号、昭和34年1月)、とのご教示をいただきました。(2013年9月28日補記)
 
 
 
■「人形を焼く」
 裸のマネキン人形のそばにいる男の様子が、おもしろく描かれています。
 修理できなくなったマネキンを集めて、海岸で焼いて供養することになります。
 その人形が燃えるのを見て、男の愛人が逆上するのです。
 不思議な味がする作品です。
 マネキン人形が、うまく活かされています。
 友人への疑念が、しだいに炙り出されていくのも、さりげなく語られています。
 佳品だと言えます。【4】

※今回読んだ中公文庫には、34年前に読んだ時のメモが記されていました。再読してみて、チェックした意図も意味も思い出せません。
 
初出誌:『美術手帖』(昭和33年4月)
 
 
 

2013年9月23日 (月)

京洛逍遥(291)台風一過の賀茂川散歩

 連休中の賀茂川の様子を写真で確認しておきます。
 大雨と颱風が賀茂川に与えた影響は、桂川の洪水のような大規模なものではありませんでした。
 しかし、予想外に大きかったように思います。

 先週の土曜日は、ワックジャパンへ自転車で行きました。
 賀茂川沿いに下る途中、出町柳の下流で、濁流の高さがわかる光景を目にしました。
 ポールに巻き付いた、流木や草木が異様な雰囲気を伝えています。
 

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 そばにいる鷺たちは、この物体を何だと思っているのでしょうか。
 また、川面の色も岸に近い所は土砂が堆積しているのか、見たことのない土色をしています。

 北大路橋の橋脚には、こんなにゴミが絡み付いています。
 

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 この橋から下流を見ると、こんな景色になっていました。
 

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 今年の6月に、同じ位置から写した写真は次のものでした。

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 植物園の横の半木の道あたりから北大路橋にかけては、川が砂浜のような様相をていしています。
 普段は、ここに下りることはありません。こんな川岸を見るのは初めてです。
 

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 振り返って、北山の方に目を移すと、何とも痛ましげな景色です。
 

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 今年の5月に撮った写真を並べてみましょう。

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 川は、まだ大水の爪痕を残しています。しかし、近くの白河疎水通りでは、今年もお彼岸になるとお約束のように、真っ赤な彼岸花がきれいに咲いていました。
 

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 アゲハチョウが一羽、蜜を求めてやって来ました。アゲハチョウは赤色に敏感だとのことで、この時期には彼岸花に集まるのだそうです。

 手元には iPhone しかなかったので、大急ぎでシャッターを切りました。
 近くに寄っても逃げるでもなく、のんびりツンツン、そしてヒラヒラと、蜜を求めて彷徨っていました。
 
 

2013年9月22日 (日)

京都で『十帖源氏』を読む「須磨_その6」

 京町家のワックジャパンは、いつも落ち着いた雰囲気で話し合いができて快適です。
 その一室をお借りして開いている『十帖源氏』の勉強会も、順調に「須磨」巻の現代語訳が進んでいます。
 今回は、2階の東側にある小さな部屋で、かわいい机を並べての勉強会です。

 清水婦久子先生が、ご所蔵の『十帖源氏』『絵入源氏』『源氏小鏡』を数冊持参してくださったので、みんなで興味深く拝見しました。刷りの古いもので、版本に疎い私は、先生の説明をありがたく伺いました。最近は、版本も積極的に見るようにしています。やはり、いい本を数多く見ることが大切です。これを機会に、認識をあらためました。

 さて、海外の方々が自国語に翻訳なさるための参考資料となるように、わかりやすい『十帖源氏』の現代語訳を作成しています。

 今日は、大宰大弐が上京する際に、光源氏がいる須磨の寓居を訪れる場面で、校訂本文の読み方に問題が出されました。

 『十帖源氏』には「其比大弐はのほりけるむすめかちにて北の方は舟にてのほる」(82オモテ)

 担当者は、ここで「娘がちにて」としました。しかし、「娘、歩行(かち)にて」ではどうか、という意見が出されたのです。北の方が船であることに対して、娘は徒歩で、ということからのものです。
 『新編日本古典文学全集』(小学館)は、校訂本文を「むすめがちにて」とし、その下段に示された現代語訳は「娘もたくさんいるので」となっています(203頁)。

 その場で調べられた範囲での校訂本文は、「娘がち」ばかりでした。古語辞典も、この「須磨」の例を引いて「娘がち」を立項しています。

 『十帖源氏』のここでは、ほぼ原文をそのまま引いているところです。
 本文の解釈にも関係するので、さらに調べることになりました。

 その後の、「雪ふりあれける比」の現代語訳も、さまざまな角度から検討しました。

 担当者は、ここを「雪がひどく降っている頃、」と訳しました。しかし、この文章は、「月の影すごくみゆる」と続くのです。そのため、雪が降り荒れていることと、月影がもの寂しく見えることの整合性をとる必要があります。ここは、原文を大幅にダイジェスト化したために、こうしたことになっているのです。

 ここで発生した無理を現代語訳でうまく回避する必要があります。
 時間をかけて検討した結果、「雪が降って風が強い日、」となりました。これで、雪よりも風が吹き荒れる様子が強調され、それに続く月影の描写が不自然ではなくなります。
 この月影の箇所をあらためて確認したところ、この直前に「月いと明うさし入りて」とあるのです。なおさら、吹雪の対処が求められる場面でした。

 海外の方々が翻訳しやすいような現代語訳を目指しています。それに加えて、ダイジェスト化にともなう不整合の解消も、現代語訳でしておくことも大事です。

 さまざまな視点で現代語訳を見直しながら、さらに検討会を進めていくつもりです。
 興味と関心をお持ちの方の参加を、お待ちしています。

 次回は、10月5日(土)午後3時から5時までです。
 場所は、同じくワックジャパンです。

 新しくご参加の際には、資料の用意の都合がありますので、事前に本ブログのコメント欄か、NPO法人〈源氏物語電子資料館〉のホームページから事務局にご連絡をいただけると幸いです。
 

2013年9月21日 (土)

京都で『源氏物語「蜻蛉」』の写本を読む(第3回)

 ハーバード大学所蔵の『源氏物語』の古写本を読み進めています。
 京都では第52巻「蜻蛉」を、原本の影印資料を基にして確認しているところです。

 前回は、第1丁のオモテが終わったので、今日は第1丁のウラからでした。
 本文を確認する過程で、私の翻字が不正確であることが指摘されました。
 

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 この箇所を私は、「思給へし」と書いてから「し」の上に「り(里)」をナゾルようにして書き、続けて「しさまを」と書いたとしました。
 しかし、「給」の次の「へ」の書かれたタイミングに疑問が出されたのです。

 確かに「へ」が、「給」と「り(里)」の狭い隙間にかかれている状態は、次の行の真横にある「給へる(累)」における「へ」の文字のバランスからいっても不自然です。
 ここで、「へ」は後で書き加えられたものとみるべきでしょう。とすると、どのような書写の流れだったのか、という推理を逞しくすることになります。

 みんなで検討した結果は、次のようなものです。

 まず、「思給し」と書き、すぐに親本通りに書き写しているのではないことに気付き、「し」の上からなぞるように「へりし」と書き、さらに続けて「さまを」と一気に書き続けたのではないか、ということです。

 そのように考えると、「給」と「り」にはさまれた「へ」の落ち着きのなさが理解できます。「へ」が押し潰された形になっているのは、下に見えている「し」の上に「へりし」という三文字をナゾって書こうとしたためにこうなった、と考えればいいのです。

 写本に写し取られた文字を正確に翻字する際には、いろいろな状況を考慮して読み解く必要があります。ここも、不自然な文字の形から疑問が発生したものです。
 いろいろな目で読むことの大切さを教えられました。

 「蜻蛉」巻の12種類の本文を比較して整理した資料をもとにして、物語本文の異本についても検討しました。ここでは、ハーバード本における特記すべき異文はありませんでした。

 また、『国文学解釈と鑑賞別冊 源氏物語の鑑賞と基礎知識 No.28 蜻蛉』(伊藤編、至文堂、平成15年)を参考にして、物語の内容についても確認しました。

 『源氏物語』の本文を、異本にも目を配って読むと、いろいろなものが見えてきます。
 こうした物語の読み方は、一人で読んでいては気付かないことが見つかります。
 輪読に向いている読み方だといえるでしょう。

 今回は、ハーバード本「蜻蛉」巻の1丁ウラ5行目「〜まとろまれはへらぬにや」まで確認しました。

 次回は、10月5日(土)午後1時から2時半までです。
 場所は、同じくワックジャパンです。

 なお、先週土曜日(14日)の京都新聞「まちかど」欄に、次のような情報を紹介記事として掲載していただきました。今後とも、継続して掲載していただく予定です。
 

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2013年9月20日 (金)

江戸漫歩(68)選択肢が多い東京の地下鉄ルート

 南青山にあるフロラシオン青山で、総合研究大学院大学の東京開催となる教授会がありました。会場が表参道駅の近くなので、終わるとそのまま新幹線に乗って京都へ帰れるように、キャリーバッグを引き摺って出かけました。

 行きは、東西線から半蔵門線へと乗り換えました。これは、國學院大學へ行く時によく利用する経路です。

 改札を出て地上に出ると、少し汗ばむほど太陽が照り輝くいい天気でした。ただし、肌に触れる空気は秋の気配からでしょうか、さらりとしています。
 ビル同士で照り返す日の光が眩しいので、視覚的に暑く感じるのでしょう。

 会議が終わってから、地下鉄で東京駅に出ました。
 JR渋谷駅からは行きません。永田町駅と大手町駅も使いません。乗り換えなしで銀座線だけで京橋駅へ出て、そこから東京駅まで歩くことも避けました。

 今日は、国会議事堂前駅か赤坂見附駅で乗り換えるコースを選びました。しかし、いずれの経路でも、電車は東京駅の丸の内側に着きます。新幹線の八重洲口へは、延々と歩かざるをえません。これは、今の東京ではどうしようもないことです。歩かされる街なのですから。

 7年後の東京オリンピックまでに、新しい線が完成することはなさそうです。新橋から有明を通って豊洲の間を結ぶ交通システム(自動運行のバス)の「ゆりかもめ」は、競技会場への足の便を考えて、もう少し延長されるかもしれませんが。

 とにかく、東京の交通機関は歩くことを覚悟していないと、スムーズに移動できません。
 今日はキャリーバッグを引いています。できる限り地上に出ずに、軽快にコロコロとバッグを引っ張って行けるルートを思案しました。

 その結果、銀座線と丸ノ内線を使うことにしました。他には、千代田線や半蔵門線も使えます。しかし、乗り換えが楽な線を思い浮かべると、この、昔からよく利用した線に落ち着いたのです。
 迷ったら、勝手知ったる学生時代の電車に頼る、というこになっただけですが。

 京都に着いた頃は、満月が煌々と照っていました。
 
 

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 昨夜の隅田川から見た月よりも、今夜、比叡山の右上に出た月の方が、輪郭がはっきりとしているように思えます。海辺と山際の違いなのか、空気の違いなのか、いずれにしても東西の名月を見ることができました。
 
 
 

2013年9月19日 (木)

江戸漫歩(67)隅田川から観る仲秋の名月

 台風一過、今年の仲秋の名月は、みごとな満月として中天に輝いていました。
 ベランダで観るだけではもったいないので、すぐそばを流れる隅田川まで行ってみました。

 宿舎を出て裏庭の方を見ると、建物の壁に光を反射させて照り輝いています。
 

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 隅田川の川縁に出ると、月は高く上がっていました。宿舎の向かいの東京海洋大学南側に係留されている、重要文化財で明治7年に造られた3本マストの船「明治丸」の右上に、まん丸い月が上がっています。
 今年の名月は、先頃決まった7年後の東京オリンピックで選手村となる、豊洲・有明地区を天空から照らしています。
 豊洲のマンション群に住む人々も、今頃はこの真上に置かれた満月を、ただ無心に見上げておられることでしょう。
 

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 天変地異の烈しかったこの夏も、もう秋の気配となっています。
 今年の紅葉のことが気になり出しました。きれいに色付いてほしいものです。

 四季が崩れ、日本的な季節感が失われつつある今、今夜の満月は日本古来の月明かりを思い出させてくれました。
 大都会のマンション群を背景にしてであっても、この四季の移ろいには、目と肌で敏感に受け止めたいと思います。
 
 
 

2013年9月18日 (水)

アップルストア銀座でノートパソコンの不具合を治す

 アップルストア銀座に行きました。
 日頃使っているアップルのノートパソコンが起動しなくなったためです。
 電源入れると、アップルのロゴの下に現れる歯車が回りっぱなしです。
 サブシステムでディスクユーティリティを実行しても、特に問題はありません。
 自分で MacOS X マウンテンライオン(10.8.4)のアーカイブインストールをするには、他の影響を考慮して躊躇しました。

 問題を起こしたマシンは、2009年製の MacBook Pro 17インチ版です。

130918_macbookpro17

 あらかじめネットで予約してから、現物を持ってアップルストア銀座に行ったのです。

 アップルストアの前には、「iPhone 5s」の発売を待つ人が20数人の行列をなしていました。
 先頭の方をはじめとして、さまざまなメディアの取材が行われていました。チラリと聞こえたところでは、多くの方がゴールド色の「iPhone 5s」を狙っておられるようです。
 先日の颱風の時には、ストア側は店頭に並ぶ人の安全のため、3階のシアタールームを開放したのだとか。

 ネット社会の次を見据えて、アップルは企業向けのクラウドサービスに本格的に参入しだしました。そうした今、1台の携帯端末を求めて、アップルストア銀座の店頭に並ぶ人々の姿が印象的です。
 見えないものに依存しつつ、時間と空間を短縮して活用しようとする時代に、膨大な時間を費やしてそのツールを入手するため路上に並ぶ姿が、いかにも人間らしい営みとして見えました。
 人間は楽しいな、との思いを強くしました。

 さて、ジーニアスバーでの不具合の確認やその対処については、丁寧な対応でした。
 以前とは格段の違いです。サービスは向上しています。
 ただし、iPhoneの担当者は多いのに、パソコンの担当者が少なくて、予約した時間の5分前に行ったのに35分も待たされました。

 ハード的には問題がなさそうなので、まずはソフト的なチェックをしてくださいました。その結果、システムの不具合が判明し、ハードディスクを初期化していいか、との確認を受けました。

 事前に、そのような展開となるであろうことは予想していました。しかし、素人にはわからない、何か別の原因があるかもしれないので、こうして直接持参したのです。

 起動しなくなったノートパソコンでしたが、持参する前に、別のノートパソコンからターゲット・ディスクモードで外付けドライブとして認識させ、ハードディスクの中のデータはバックアップを取ってありました。
 こうしたことが私の手元で事前にできたので、ハード的に致命的な損傷には至っていないだろうとは思っていました。

 ハードディスクの初期化を経て、起動しなかったノートパソコンが動き出しました。
 ただし、私がインストールしたアプリケーションやデータは、ディスクの初期化によって、もちろん消えています。
 家で、再度のインストールとデータの移し替えをすることになります。
 それでも、こうして生き返ったマシンを手にして、大事に至らなかったことを喜んでいます。

 時間を見て、コツコツとアプリケーションをインストールする日々が、これから数日続きそうです。

 このマシンは、4年もの長きにわたって、毎日毎日働いてくれたパソコンです。
 私は3台のパソコンを同時に使い分けています。主要なデータはクラウドとネットワーク上のバックアップディスクに置いてあり、3台のパソコンにプロジェクト別のデータを振り分けながら仕事をするようにしています。
 今、この MacBook Pro 17が動かなくなっても、特に致命的なことはありません。しかし、仕事によって使い分けているデータが多いので、このパソコンも慎重に元の状態に戻して、自分の仕事の中に再度組み込むつもりです。
 
 
 

2013年9月17日 (火)

井上靖卒読(170)「良夜」「犬坊狂乱」「トランプ占い」

■「良夜」
 30年振りに昔の友と銀座で会います。
 静岡の中学時代、電車で20分の所を10人ほどで歩いて通学していたのです。そんな時代の友との話です。
 その友とは話題が続きません。それでも飲み歩きます。お互いの私生活はわからないままに飲み歩く姿を活写できるのは、作者がそうした経験を豊富に持っているからです。
 特に大きな事件があるわけではありません。しかし、おもしろく読みました。最後の場面の、堤で空を仰ぐシーンは、非常に印象的でした。【4】
 
 
初出誌:キング
初出号数:1957年1月号
 
集英社文庫:青葉の旅
井上靖小説全集19:ある落日
井上靖全集5:短篇5
 
時代:昭和、戦後
舞台:東京都(銀座、西銀座)、静岡県(N市/沼津市、M町/三島町)
 
 
 
■「犬坊狂乱」
 伊那の小さな村を舞台にして語られる合戦の様が、井上靖らしい筆致で活写されます。その中から、一人の男、犬坊が人間として描き出されるのです。井上の巧さを味わえます。
 悪名高い主君に忠誠を誓う犬坊です。合戦の時、相手方の村で見掛けた娘が人質として来てから、犬坊は自分の気持ちが乱れます。失神した娘に唇を合わせたことが、犬坊の気持ちをかき乱し出したのです。荒くれ男の微妙な心理を、複雑な状況の中で巧みに描いています。
 犬坊の取った行動と娘のその後が、静と動の狭間に物語られています。【5】
 
 
初出誌:小説公園
初出号数:1957年3月号
 
角川文庫:真田軍記
旺文社文庫:真田軍記
井上靖小説全集11:姨捨・蘆
井上靖全集5:短篇5
 
 
 
■「トランプ占い」
 クリスマスイブの銀座の雑踏が、活き活き描かれています。人の群れを活写するのは、井上靖の得意とするところです。
 新橋駅裏のトランプ占い師の所に、一人の男が来ました。これから24時間の占いをしてくれと。すると、3回共に不吉とされるスペードの9が出たのです。死を意味します。しかし、占い師はごく平凡だと誤魔化しました。それでも気がかりで、その男の後を追います。このあたりから話が作り事めいて来て、私には白け出しました。
 その後の展開は読むに耐えません。完全に手抜きの作品でした。【1】
 
 
初出誌:オール読物
初出号数:1957年4月号
 
集英社文庫:青葉の旅
井上靖小説全集19:ある落日
井上靖全集5:短篇5
 
時代:昭和31年のクリスマス・イブ
舞台:東京都(銀座、西銀座、新橋、新宿、日本橋)
 
 
 
〔参照書誌データ〕
 井上靖作品館
 http://www2.plala.or.jp/baribarikaniza/inoue/
 
 
 

2013年9月16日 (月)

京洛逍遥(290)賀茂川が氾濫注意水位に達したこと

 本日深夜1時に、鴨川が氾濫注意水位に達したというニュースが流れました。
 その後、嵯峨野・嵐山にある渡月橋の橋脚が水に押し流されそうな状況になっていました。
 京都市に避難指示が出たかと思うと、やがて桂川が氾濫したとのニュース。
 これからの復旧が気がかりです。

 平安時代から都の東を流れる賀茂川はよく氾濫しました。
 直近の昭和10年6月の賀茂川大洪水では、死傷者12名、家屋流出137棟、床上床下浸水24,173棟との記録があります。京都市内にも被害が拡大しました。
 
 

130916_s10kouzuimap


(京都府「鴨川大洪水の被害状況」
http://www.pref.kyoto.jp/kasen/1172825060356.html)
 
 
 自宅のある地域も、この地図の被害地域に入っています。
 近所にあるうどん屋さんの壁には、その賀茂川氾濫時の写真が掲げてあります。
 周辺の小路が水没している、貴重な写真となっていました。

 この経験から、賀茂川は大改修がなされ、今の姿に整備されたのです。
 京都府の「鴨川・高野川の浸水想定区域図」によると、昭和11年から22年にかけての河川改修について、次のような説明がありました。


水防法の規定を踏まえて、鴨川改修計画の基本となる降雨である概ね100年に1回程度起こり得る大雨(3時間雨量:122mm)により鴨川が氾濫した場合に想定される浸水状況を氾濫計算により求めたものです。
(http://www.pref.kyoto.jp/kasen/1172728399781.html)

 最近は、全国的な天変地異が我々の常識を覆しています。ここで「100年に1回程度起こり得る大雨(3時間雨量:122mm)により鴨川が氾濫した場合」とする設定は、おそらく地球規模での異常気象が拡大する現在、再度見直されることでしょう。

 今週末は颱風が来るため、自宅に帰っても京都から上京できそうもないので、私は大事をとって東京に留まっていました。

 息子が京都の自宅周辺の状況を知らせてくれました。
 今日の午後1時過ぎの北大路橋から南の様子と、先月、私が同じ位置から撮影したものを並べます。
 川と堤防の間を南北に走る散策路ギリギリまで、今日は水位が上がっていることがわかります。
 
 

130916_kouzui今日

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 夕方届いた写真では、水が幾分引いたとは言え、北大路橋の橋脚の下はまだ水浸しで、いつもの散策路は通れません。
 

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 それよりも、桂川の氾濫などで甚大な被害を受けておられるみなさまの、一日も早い復旧と復興をお祈りしています。
 
 
 

2013年9月15日 (日)

武井和人先生の研究成果を補完した拙文のこと

 『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」第2集』を刊行してからの後日譚です。

 編著の《連載》の中にある拙文「池田亀鑑を追う(第二回 源氏展の背景にある検閲と写真)」で、「四、昭和六年に大正大学で展示された古写本『源氏物語』」という節があります。
 次のように語り出したところです。


 東京大学で源氏展が開催された前年の昭和六年に、大正大学で一つの展覧会があった。そこには、池田亀鑑が所蔵していた古典籍が多数展示されたのである。これは、これまでに指摘がなかったことである。(213頁)

 ここで、「これまでに指摘がなかったことである。」と書いてしまったことは、実は調査と確認が不足したものでした。

 この展覧会のことは、池田亀鑑のご子息である池田研二先生より拝受した、『国文学資料展観目録』(主催 大正大学郊北文学会、昭和六年五月八日・九日)によっています。

 その展覧会は、「はしがき」に
「高野辰之池田亀鑑亀鑑両人の蔵品中から四百点ばかりを選んで列ねます。」
とある通りです。

 私はこの冊子から、池田亀鑑の所蔵にかかる129点を紹介して、二三の問題を検討しました。

 これは、すでに本ブログ「昭和6年に大正大学で展示された古写本『源氏物語』」(2011年6月16日)で報告したことをもとにして整理し、再構成して収載したものです。

 この展覧会に関連して、私が取り上げたものと同じ展示目録である『国文学資料展観目録』によりながら、池田亀鑑についてではなくて、高野辰之のコレクションである「斑山文庫」に関して論じたものがあったことを、このたび教えていただきました。しかも、それは、旧知の武井和人先生(埼玉大学)からでした。目配りの至らなさに、恐縮しています。

 武井和人「斑山文庫本追尋・続」(『研究と資料』第61輯、2009・7)
がそれです。
 この論文名をクリックしていただくと、論文本体がダウンロードできます。

 ここには、次のように記されています。


 該目録より高野辰之蔵とされるもののみ抄出する(因みに、池田亀鑑蔵とするもののうち、現在、行方が分からなくなつてゐるものが含まれるかと想像され、この紹介も必要なのであらうが、紙幅の関係で省く。今後別途機会を得て考察してみたい。)

 つまり、4年前に武井先生が報告紹介のうえ考察を加えられた資料に関して、それが高野辰之だけに関してのものであったのに対して、私の報告では、もう一人の池田亀鑑だけに関するものだった、ということです。

 しかも、その資料を武井先生に提供されたのが、徳江元正先生だったのです。

 徳江先生には、私が國學院大学で授業を教わったことのみならず、私が大阪の高校で教員をしていた頃に、忘れられない出来事がありました。
 私が上京して学会で研究発表をした後、会場近くの食堂で一人で食事をしていた時のことでした。同じ食堂におられた徳江先生が先にお帰りになる時に、君のも一緒に払っておくからね、と言って出て行かれたのです。
 遠い所からご苦労さま、というお気持ちからだったのでしょうか。
 先生とは研究対象とする時代も、テーマも異にしていて、特に親しく指導していただいたのでもなかったので、本当に恐縮しました。

 その後、私が高崎正秀博士記念賞を受賞(平成2年5月)した時も、百周年記念館の廊下ですれ違いざまに、心温まる労いのことばをいただきました。直接の接点がない先生だっただけに、ありがたくお言葉を拝受いたしました。
 当時の私の指導教授とはあまり仲がよくなかっただけに、個人的におことばをかけてくださることが、嬉しくて心に滲みる思いでいます。

 閑話休題
 武井先生にはコンピュータの初期からの知り合いです。私が『新・文学資料整理術パソコン奮戦記』(桜楓社、昭和61年)を刊行した時にお手紙をいただいて以来です。
 2年前にも、私が知らなかったこととは言え失礼なことを書いてしまい、武井先生からやんわりとご指摘をいただきました。
 次の記事の末尾にある、《コメント欄》をご覧いただければ、武井先生の優しさと、私の迂闊さがわかっていただけるかと思います。

「JISカナ・キーボードの存続が危うい」(2011/7/24)

 また、武井先生が指導しておられた大学院生の数人には、私の所でアルバイトをしていただいたり、総合研究大学院大学で学位を取るお手伝いをしたり、埼玉大学へ留学で来ていた大学院生の研究のお手伝いや、中国の東北地方へ案内してもらったりと、枚挙に暇がありません。それでいて、研究分野が異なることもあって、直接お目にかかってお話をしたことはほんの数回です。
 気持ちのいいほど、さっぱりした関係なのです。

 それにしても、今回は私の調査と認識不足により、武井先生がすでに発表なさっていたことも知らずに、新しい資料として紹介してしまいました。同じ資料を、視点と切り口がまったく異なり、お互いが補完する関係となる報告となったことは、偶然とはいえ幸いでした。
 それにしても、私の方が失礼をしたことに違いはありません。

 自戒の念を込めて、ここに報告しておきます。
 
 
 

2013年9月14日 (土)

九条武子と池田亀鑑の写真は昭和2年11月15日撮影と判明

 『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」第2集』の379頁に「対談中の池田亀鑑(昭和7年秋頃)」として掲載した写真について、そこに付した私の説明文の推測部分が間違っていました。このことは、「入江たか子の写真へのこだわりを反省」(2013/9/5)でお詫びと訂正をした通りです。

 私のこの推理の誤りを早急に正すために、その後も調べを続けていました。特に『婦人世界』にポイントをしぼっていました。

 そうした折、横溝博氏(東北大学)より再度、決定的な証拠となる雑誌『婦人世界』からの切り抜き2枚を送っていただきました。ありがとうございました。
 
 
 

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 ただし、掲載誌『婦人世界』の年次は不明とのことでした。そこで早速、国立国会図書館へ行き、デジタル化資料とマイクロフイルムで、問題となっている記事の確認をしてきました。

 以下に掲載する写真は、国立国会図書館から「インターネット・ホームページ等掲載許可申請」を経て私個人が許可を受けたものです。これらの写真を引用・転載なさる際には、お気をつけください。

 以下、横溝氏からの情報を手掛かりにして行き着いた結論までの資料と、その記事へのコメントを記していきます。

 九条武子は、明治20年(1887)10月20日生まれで、昭和3年(1928)2月7日に亡くなっています。
 前掲の写真(右)には「九条武子夫人の尊き臨終とその絶筆」との見出しのもとに、「春めぐれども、聖花再び帰り来らず。婦人世界謹みて哀悼の意を表す。」とあります。
 ここから、『婦人世界』の昭和3年3月号に当たりをつけて同誌を探しました。

 予想通り、前掲写真が掲載されていました。
 目次には、左端に枠囲いで次のようにあります。


□地に帰りませし九条武子夫人を悼みて 婦人世界編集部(判読不能)
□法悦の苑生(絶筆)九条武子(判読不能)

 記事の内容は、また後日翻字します。

 いずれにしても、池田家に残されていたアルバムの写真は、この写真と同一のものであることが確定しました。

 さらに遡って『婦人世界』を通覧しました。しかし、昭和3年2月号には特に注意を惹く記事はありませんでした。

 そして昭和3年正月号に至り、まさに探し求めていた写真と記事が掲載されていることに出会えたのです。


□京に於ける九条夫人 グラビア版
 「記者は、十一月十五日九条武子夫人を京都西大谷の御廟所にお訪ねいたしまして、夫人から、文学、宗教、恋愛、結婚、貞操、離婚等に亘つて、赤裸々なご感想を承ってまゐりました。」
□同     その二 グラビア版
 「(左)は夫人が親鸞上人の廟前にて黙祷をさゝげてをられる所。(右)は手水所に立たれて、水の音に聞き入つてをられるところでございます。」
□九条夫人の近影   グラビア版
 「(上)は京都西大谷の廟の前庭を静かに散策せらるる夫人。(中)は西大谷のお宅の奥庭で、心ゆたかに歌を詠まれてゐる夫人。(下)は最近において、結婚後はじめて丸髷に結はれた時の夫人のお姿でございます。」
□同     その二 グラビア版
 「(上)は夫人が記者を、古風な一室に招かれて、詩を語つてゐらるゝところ。(中)は夫人が△△堂前の前庭から、裏門のきざはしを下りてこらるゝところでございます。

 この後半の2つ、「九条夫人の近影 グラビア版」とあるのが、次の写真にあたります。
 
 
 

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 ここにある「九条夫人の近影 グラビア版」が、横溝氏より提供された上掲写真左側のものと一致します。
 そして、「同     その二 グラビア版」の上の写真が、今回問題としているものとまったく同一のものであることが明らかです。

 また、この関連で「九条武子夫人を訪ふて詩と人生を語る……本紙記者」という記事が、この写真に続いて掲載されています。
 
 
 

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 ここで「京都特派記者稿」とあるのは、池田亀鑑が書いた原稿ということです。
 この本文の冒頭は、次のように書き出されています。


 十一月十五日朝九時、記者は九条武子夫人を京都西大谷廟荼所にお訪ねしました。

 これによって、この写真が昭和2年11月15日午前中のものであることが判明したのです。
 この記者池田亀鑑の文章の全文は、後日翻字します。

 さらに頁を繰っていくと、次のような文章に出くわしました。


□九条武子夫人本誌へ毎号随筆執筆
 九条武子夫人は、今後、毎号本誌に随筆を御執筆下さることになりました。令夫人は、昭和の紫式部として、文名高きお方、必ずや皆さまの魂をふるはせるやうな名文が本誌の巻頭をかざることと思ひます。なほ令夫人は今後長篇小説を御執筆の時には、先ず婦人世界におのせ下さることを御約束下さいました。皆様どうかおよろこび下さいませ。又本号にのせてある特別記事「九条武子夫人と詩と人生を語る」は本紙が、わざ/\記者を京都に派して、親しく令夫人の談話をきいてきたものであります。何卒御愛読願ひます。(313頁)

 これによって、池田亀鑑は社命によって京都へ出張して、九条武子とのインタビューを果たしたことになります。そして、この『婦人世界』の正月号が刊行された2ヶ月後に九条武子が亡くなるとは、予想だにしなかったことであることもわかります。

 以上、取り急ぎの報告です。
 これで、私が問題としている写真を「昭和7年秋頃」としたのは間違いで、「昭和2年11月15日」が正しいことになりました。

 そこで、『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」第2集』の379頁で「対談中の池田亀鑑(昭和7年秋頃)」としたことと、その説明文は次のように訂正することとします。
 お知り合いの方との話題の1つにしていただけると幸いです。


九条武子にインタビュー中の池田亀鑑(昭和2年11月15日)

 池田亀鑑が『婦人世界』の京都特派記者として、九条武子夫人を京都西大谷の御廟所に訪問し、文学、宗教、恋愛、結婚、貞操、離婚等についてインタビューした時の写真。場所はそこの古風な一室。この時の本写真と取材記事は、『婦人世界』の昭和3年3月号に「九条武子夫人を訪ふて詩と人生を語る……本紙記者」として掲載されている。この取材の3ヶ月後に、九条武子は42歳の若さで亡くなった。

 なお、『婦人世界』に掲載されている記事の詳細は、またの機会とします。
 
 
 

2013年9月13日 (金)

京洛逍遥(289)苺ショートケーキの謎が判明しました

 昨日、と言うよりも8時間前の昨夜、「京洛逍遥(288)思い出せない苺のショートケーキの謂われ」という記事を書きました。
 その末尾に、「気になって夜も眠れない日々が続いています。」と記しました。

 投稿して30分もしないうちに、しかも日付が変わってすぐに、イギリスにいらっしゃる中村久司先生が謎解き(?)をしてくださいました。

 ウツラウツラとして目覚めた朝6時に、以下のコメントを拝見し、私の目はパッチリと覚めました。


苺の件、以下をご覧ください!

http://www.ichigo-short.com/feature/twentysecond.html
 

 単純明快なご教示に感謝します。しかも、地球の反対側で、中村先生は午後のティータイムに、私のブログを毎日ご覧になっているそうです。ありがたいことです。
 昨夜も、私が書いてすぐに、イギリスではお昼に、先生は一服しながら一読し、連絡をくださったのです。半日の時差というのは、おもしろいものです。

 それにしても、このブログは個人的な日常の雑記や備忘録ばかりで、本当に恐縮します。

 先生のますますのご活躍をお祈りしています。
 
 
 

2013年9月12日 (木)

京洛逍遥(288)思い出せない苺のショートケーキの謂われ

 今年の夏は、病院の検査を理由に、いろいろな仕事を制限していました。
 そのせいもあって、本ブログでも書き漏らしたことがたくさんあります。
 そんな一つを、忘れないうちに記して、ご教示をお願いしたいと思います。

 8月22日は、京大病院でCT検査を受けた日です。
 その日の夕刻に、賀茂川散歩をしていたら、苺のショートケーキの張りボテが運ばれているところに出くわしました。
 
 
 

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 これを運んでいた数人の学生さんに聞いたところ、毎月22日にこの張りボテを出町柳のデルタ地帯に置いている、とのことでした。そして、どうして22日なのかと聞くと、その意味を説明してくれました。しかし、今、その意味を思い出せないのです。

 京都には芸術系の大学や専門学校が多いので、楽しいイベントに出会えます。常に先進的なことを指向している京都には、長い歴史を引き継いで来たインフラと伝統が息づいています。

 問題の苺のショートケーキについては、語呂合わせで22日が関係づけられていたように思います。しかし、今、その種明かしが思い出せないのです。

 「苺(いちご)」から「15」ではなかったのです。
 「ショートケーキ」と「22」も、うまく結びつきません。
 「ニィニィ」「ニジュウニ」「フタツフタツ」「トゥエンティツウ」と、連想できるものが「苺」と「22」に接点を持たないのです。

 すみません。
 どうもスッキリしないので、どなたかこの謎を解いてくださいませんか。

 この日は、いつもの散歩の交差地点である植物園前の飛び石から、北山に広がるきれいな夕焼けを見ることができました。
 
 
 

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 それだけに、この苺のショートケーキに隠された意味が、気になって夜も眠れない日々が続いています。
 
 
 

2013年9月11日 (水)

災害時を想定した日々の心掛け

 今日も、首都圏では電車が人身事故のために止まりました。
 よくある日常茶飯事です。

 オリンピックの日本招致に関するスピーチで、誇らしくアピールされた自慢の交通機関です。全国各地で、あたりまえのように時間通り、きっちりと電車が走っています。
 この日本の交通システムの緻密さと精確さには、海外から帰って来るといつも驚異に思います。

 ただし、時には乱れます。
 東京の場合は、人身事故によるものが多いようです。

 我々は、正確で安全な交通機関の運行に慣れているので、ひとたび止まると、改札口やホームはごった返しとなります。そして、イライラする人で溢れます。

 そうは言っても、日本人は諦めも早いのでしょう。お互い様ということもあってか、過激な言動は自制され、暴動などにも至らず、整然と復旧を待つのです。この穏やかで文化的なお国柄が好きです。当たり散らして憂さ晴らしをしている方は、日頃からさまざまなストレスが溜まっていることに起因しているようです。

 今日の会議は、参集したメンバーで相談の結果、1時間遅れで開催となりました。一人でも多くの方々と討議をするためにも、最良の選択であり対処です。時間が空いたといっても、山のように抱え込んでいる仕事を一つずつ熟すことに費やすことになります。

 この夏は、昨年以上に異常な天候でした。自然の猛威も、各地で爪痕を残しました。
 元来、日本人は自然を征服して生きる、という発想は持ち合わせていません。八百万の神様に対して、適度に依存して来たように思います。バラバラでありながら、それでいて一緒に物事に当たってきたのです。そのせいもあってか、各自が知恵を働かせて、上手く自然にも人々にも順応して生きて来ました。

 近年とみに多発する災害や事故を見聞きする中で、我が身を守る手だても、こうした中で自ずと獲得しました。
 他愛もないことですが、そんなことを1つ。東京ぐらしでの生きる知恵とでも言えるものです。

(1)電車での移動は、快速や急行に拘らず、一駅でも先に進むことを最優先とする。
 これは、いつ乗り物が止まってもいいように、行ける時に行けるだけの距離を稼ぎ、身体を少しでも前に進めておくためです。これで助かったことが、意外と多いのです。

(2)地下鉄とバスが使える場合は、バスを優先させて移動する。
 地下鉄は、事故や災害の状況によっては、まったく身動きできない事態に置かれます。しかも、東京の地下鉄網は、地底深くにまで張り巡らされています。バスならば、降りると徒歩で地上を移動できます。

(3)妻とは、お互いの位置関係を確認できる状況で移動する。
 そのために、iPhoneの「友達を探す」という機能を、我々は常にオンにしています。バッテリーを使う上にプライバシーが、という見方もあることでしょう。しかし、共に連絡を取り合って合流し、安全なところへ移動して生き延びるためには、どうしても必要なことです。

 これら3点は、どこに目を瞑るか、というレベルの問題だと思っています。

 以上、これにはかえって別のリスクが伴う、という点もあることでしょう。
 しかし、とにかく今は、こんなことを心掛けて東京での生活を組み立てています。
 
 
 

2013年9月10日 (火)

吉行淳之介濫読(12)『男と女の子』

 主人公である岐部は、恋愛を避けて生きています。男と女に関する比喩が、抽象的になり、色彩を伴って絵になるような場面がいくつか現れます。内容よりも、印象に残るシーンが創出されるのです。
 ヌードモデルになりたいと言う少女の様子から描かれます。少女の幼さが浮かび上がります。原爆で孤児になったのです。
 岐部の友人の2人は、長崎の大学に入学し、原爆で亡くなりました。岐部は億劫だったので東京に残ったために、命拾いをしたことになります。
 恋愛感情を極力排して、不機嫌に腹を立てる気持ちを維持しながら、岐部は生きています。自分からは積極的には前に出て行かない男です。
 知り合った少女が歌手になり、テレビに出るうちに場慣れしていく姿を、克明に描きます。
 とにかく岐部は、さまざまなことを考え、思いをめぐらせます。自分で考えて納得しないとすまない性格なのです。
 物語の最後がいいと思いました。着地が決まったという感じです。
 後の吉行のエンターテインメントの要素が、至るところに鏤められているようです。【2】

※ 今回読んだ中公文庫には、34年前に読んだ時のメモが記されていました。
 再読してみて、かつてチェックした意図もその意味も思い出せません。なぜこんな所に線を引いたのだろう、と思いながら読み終えました。
 20代と60代の感じ方の違いであることは明らかです。成長したのか、感覚が鈍感になったのか。
 吉行淳之介の作品は、そのすべてをすでに読んだので、今後は再読しての思いを綴ることになります。可能な限り、かつて手にした本を取り出して来て読み、30年の時を隔てた読後感の変化も楽しみたいと思います。
 
初出誌:『群像』(昭和33年9月)
 10月に大日本雄弁会講談社より刊行
 
 
 

2013年9月 9日 (月)

歯医者さんで手術を受けて来て

 これまでにも何度か記したように、ここ数年は歯の調子が悪くて難儀をしています。
 食事の不便さ、喋りにくさ、歯磨きの面倒くささ等々、四六時中のことなので問題は深刻です。

 今日も、根っ子の治療のはずが、急遽手術となり、歯を1本失うことになりました。
 自分では「痛い」とか「滲みる」と言うしかありません。口の中で生じている事態に対して、具体的に自分でどうこうする術も、判断もできないことでもあり、歯医者さんの言いなりです。

 毎度、歯医者さんからは歯を食いしばらないように、と言われています。
 しかし、そう言われても……

「歯医者さんに歯を噛みしめないでと言われて」(2013/3/9)

 麻酔が効いているので、今はまだましです。
 しかし、明日が思いやられます。
 8月も、左側だけで食事をしていました。
 心なしか顔が歪んできたような気がします。

 前歯と右上と右下に問題があります。
 昨年の初夏から治療にかかり、1年以上たっても、いまだに治療が続いています。
 もう、自分の努力の限界を超えていて、完全に歯医者さんのコントロール下にあります。
 今回の治療が一段落したら、あらためて今後のことも含めて再検討します。

 歯医者さんを替えたら、と妻は言います。
 しかし、それはそれで、これまでの経過を考えると煩わしそうです。
 今の歯医者さんが良いと言って紹介してくれたのは妻です。
 自分だけサッサと治しておいて…………
 何事にも相性というものがあるようです。
 
 
 

2013年9月 8日 (日)

オリンピック東京招致決定で思うこと

 今朝方、2020年のオリンピックが東京で開催されることが決定しました。
 前回の東京大会は昭和39年(1964)だったという報道を聞き、その時に自分が何をしていたのか、思いを廻らせました。

 これが、なかなか思い出せないのです。
 マラソンのアベベの優勝と、女子バレーボールの優勝と、三波春夫の「東京五輪音頭」が最初に思い浮かびました。市川崑監督の「東京オリンピック」という映画を、学校の体育館で観ました。「ウルトラC」ということばも、その時に覚えました。今はそれくらいです。さらに情報を得れば、たくさんのことを思い出すことでしょう。

 自分の昭和39年を、今しがた紙にメモを取りながら、何年生だったかを確認しました。
 ちょうど大阪府八尾市立南高安中学校に入学した年です。中学1年生だったのです。

 私は、小学校の6年生の夏休みに南高安小学校へ転校して行ったので、まだ八尾の地には1年にも満たない頃です。
 小学校4年生まで島根県出雲市立古志小学校に通い、5年生から大阪市立菅原小学校に移り、間もなく奈良県境の八尾市に転居したのです。

 子供とはいえ、新しい生活に慌ただしかったこともあるのか、たくさんのできごとや出会いがあったのか、前回のオリンピック東京大会は私にはあまり思い出がありません。

 我が家にテレビがついたのは、小学校5年生の頃からです。オリンピックの2年前。家で観たテレビといえば「ひょっこりひょうたん島」がまず最初に思い出せます。
 ちなみに、家に電話がついたのは、高校を卒業してすぐ、私が東京に出た年なので、昭和45年です。

 さて、今回の東京大会の会場をあらためて確認すると、なんと私が平日いる宿舎の近くに選手村ができるようです。バレーボール、テニス、水泳、体操の会場へは、自転車で行けます。
 ラッキー、と思いきや、自分の定年のことを忘れていました。

 私は昭和26年(1951)生まれなので、定年は平成29年(2017)3月です。ということは、次の東京オリンピックの2020年に、私は東京にはいないのです。京都の自宅で、賀茂川を毎朝毎夕、気ままに散歩している頃です。
 おそらく、オリンピックを観るために上京することはないと思われます。観るとしたら、テニスぐらいでしょうか。

 そう考えると、少し残念です。
 それはともかく、このオリンピックの招致は、若者たちには最高の贈り物だと思います。そして、海外の方々に、日本の文化に対する理解を深めていただく、絶好の機会だと思います。

 NPO法人〈源氏物語電子資料館〉の東京のメンバーが、海外から来る方たちに『源氏物語』と文化について伝える活動をしてくれたら、と願っています。
 当然、京都のメンバーも何か仕掛けると思います。
 楽しみが増えました。
 
 
 

2013年9月 7日 (土)

江戸漫歩(66)畠山記念館で即翁の朝茶事展

 京都では今日、千少庵(千家二代目、1546〜1614年)の400年忌法要が、大徳寺の聚光院で執り行われたようです。茶道の三千家が合同で営む法要だとのことです。
 少庵は、利休のわび茶を継承し、息子の宗旦に伝えたとされています。

 それに合わせたのではないのですが、東京の白金台にある畠山記念館で開催中の「涼をもとめて —畠山即翁の朝茶事—」に行ってきました。
 
 
 
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 2年前の秋に、「初めてのお茶事に行って」(2011/10/29)という記事で、茶事というものの初体験を記しました。京都の岩倉で、秋の夕方からの茶事でした。

 何でも体験しようという気持ちから、身の程知らずにも飛び込んだのです。やはり、話に聞くだけではわからないことが、実際にその場に身を置くと感ずるものがたくさんありました。貴重な体験でした。些末なことで言えば、袴の扱いに困惑したことなどに始まり、今でもその時の様子を思い出すことがあります。

 今回の展示は、夏の朝の茶事です。しかも、畠山即翁(1881〜1971)が昭和13年7月21日に、上野にある不忍池弁天堂で実際に開催した朝茶事の再現とのことなので、楽しみにして行ったのです。

 茶会記による茶事の再現は、伊井春樹先生が館長をなさっている逸翁美術館で拝見したことがあります。今回も、その時に使われたと思われる道具が展示されていました。
 食事は写真でした。しかし、器がその時のもので、振る舞われた食事をイメージするのに支障はありませんでした。

 即翁自筆の茶会記を目で追っていっても、まったく飽きませんでした。
 この日に呼ばれた方々は、どのようにして参加されたのだろうか、と想像して楽しむこともできました。お茶に関する興味が持続しているせいか、少しは成長したのかもしれません。
 ただし、私は漢字を読むのが苦手なので、特徴的な崩し字に立ち止まることが何度もありました。

 また機会があれば、こうしたものを見て目慣らしをしたいと思っています。
 
 
 

2013年9月 6日 (金)

不思議な縁のとりもちで学習院大学に集った4人

 今日は学習院大学で、たくさんのお話を伺いました。中味の濃い、楽しい時間でした。
 
 
 
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 このメンバーが学習院大学に集まって話をするなど、今から2ヶ月前には想像すらできなかったことです。人と人との出会いは、本当におもしろいものです。奇縁とは、まさにこのことを言うのでしょう。

 面談の場所となった学習院大学史料館は、そうした思い出語りにふさわしいたたずまいです。
 
 
 
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 昭和7年に池田亀鑑が中心となって開催した《源氏物語展》の写真に関して、これまでに何度かこのブログに書きました。

【2-源氏物語】「昭和7年の東大源氏物語展の報道記事見つかる」(2011/10/21)

 そこで紹介した、池田亀鑑が高松宮喜久子さまに説明している写真で、亀鑑の右後ろにいる女性について、喜久子さま付きの老女・小山トミさんであることがわかったのは奇跡的でした。まさに、『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」第2集』の刊行直前であり、最終校正でこのことを書き加えることができたのですから。

 その小山さんのお孫さんである武井絢子さんに、今日はいろいろなお話を聞くことができました。
 武井さんを探し出された、学習院大学史料館の吉廣さやかさんも同席。さらに嬉しいことに、そのような導きをしていただいた永井和子先生も、わざわざお出でくださいました。ありがたいことです。

 とにかく、私にとってはまったく知りようもなかったことが、目の前で語られて行きます。

 武井さんは昭和7年生まれなので、戦前から戦後にかけての話が中心です。私は、にわか仕込みの歴史の知識で、話についていくために頭の中はフル回転です。

 あらかじめ、武井さんから2冊の回想録と資料をいただいていました。
 
 
 
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 これがまた興味深い本でした。
 『昭和を生きて』は、学習院女子部の同窓会で常磐会第63回(思苑会)のみなさんによる、昭和を書き残すための文集です。平成19年1月に刊行されました。

 最初は、「まえがき」をはじめとする武井さんが書かれた3編の文とイラストだけを拝見するつもりでした。ところが、その内容がおもしろいのです。そこでついつい、70名もの方々の文章も読まされてしまいました。戦時中の疎開の話など、貴重な生活史が綴られています。
 さらに、喜寿記念文集として出された続編の『だんわしつ』(平成22年12月)も、興味のおもむくままに読んでいました。

 そんなことがあっての、今日のお話です。いろいろと繋がることが多くて、次々に出てくる話に惹き付けられました。

 私の中でじっくりと温めながら、折々に整理して語り継ぎたいと思います。

 史料館を出ると、あたりは木立の中に点在する街灯に照らされていました。
 時の流れが今にリセットされ、秋を感じさせる風が肌に感じられるようになりました。
 不思議な体験と興味深い会話の中に身を置けたことにあらためて感謝しながら、武井さんと永井先生ともども、3人で目白駅に向かいました。
 
 
 

2013年9月 5日 (木)

入江たか子の写真へのこだわりを反省

 先月初旬に刊行した編著『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」第2集』(新典社)の最後に、「アルバム・池田亀鑑(昭和七、八年)」として4枚の写真を掲載し、編者としての私見を付しました。
 そのうち、後の2枚についての推測に関しては、「昭和初年の2人の女優に拘っています」(2013/8/20)でも、私見を整理して掲載しました。

 その後、『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」第2集』をご覧になった浅岡邦雄氏(中京大学)と横溝博氏(東北大学)より、入江たか子ではないと思う旨のご教示をいただきました。
 特に、横溝氏からは、ネット上に公開されている九条武子の写真とともに、以下のコメントも頂戴しました。
 
 
 
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いま、手元に年譜がないので詳細が不明ですが、九条武子が下落合に住んでいたころのことかと思われます。没年である昭和3年以前であることは間違いないでしょう。

 確かに、私が『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」第2集』に掲載し、上記ブログでも公開した女性とこの九条武子の写真は一致します。

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 この貴重なご教示に対して、私からは次のようなお礼と補足説明の返信しました。


『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」第2集』に掲載した写真について、ご教示に感謝します。
実は、中京大学の浅岡邦雄先生からも、横溝さんと同じ指摘をいただいています。
さらには、写真の所蔵者である池田研二先生も、3年前から九条武子では、とおっしゃっていました。
亀鑑の助手だった木田園子さんから、そのように聞いていた、とのことでした。
しかし、池田亀鑑のヘアースタイルに私が拘ったために、昭和7年から8年の写真としたものです。
今回、横溝さんから送っていただいた写真により、顔はもちろんのこと、帯や着物の柄からも、九条武子と認定すべきだろうと判断します。
もう少し裏をとってから、ブログを通してお詫びと訂正の報告をしようと思っています。
現在、「婦人世界」という雑誌に注目しています。
これについて、何かご存知のことがあれば、またご教示いただければ幸いです。

 ここで、池田研二先生のことに言及しているのは、研二先生から先日も以下のお考えを伺っていたからです。
 箇条書きで列記します。


(1)「九条武子」か、「入江たか子」か、の件ですが、私の心中では、いまだ九条武子説を完全には払拭しきれておりません。
(2)亀鑑の助手を務めた木田園子女史からは、確かに九条武子と聞いたと記憶します。
(3)お貸しした古いアルバムは私が整理して貼り付けたものですが、撮影日順に従わず、偶々、古写本展示会の近くに、少し前の写真を貼ったのかも知れません。
(4)この手のインタビューは雑誌に掲載の目的であれば、「日本少年」や「少女の友」への記事の筈はなく、「婦人世界」への掲載と思います。
(5)当時の「婦人世界」の目次だけでもあれば、九条武子生存中、何らかのインタビューを「婦人世界」の読者向けに行った可能性も無いとは言えず、それが分かるかも知れません。
(6)遺された写真や雑誌の整理をしたのも半世紀も前のこととて、全くのうろ覚えで恐縮ですが、「婦人世界」の複写中か何処かでこの写真が掲載されているのを見たような気かしてならないのです。「・・・・右は本誌記者・・・」とか注記してあったような気がします。

 ということで、私が入江たか子と推測したことは間違いで、この写真は九条武子と池田亀鑑ということに訂正いたします。お騒がせしました。

 池田研二先生からいただいていたご教示は、私がこの写真を昭和7・8年と思い込んでいたために、さらなる確認を怠っていました。また、横溝氏ご指摘の写真についても、調査の過程で見たように思います。しかし、これも流してしまったようです。
 弁解がましくなり、恐縮します。

 膨大な資料を渉猟する中で、慎重な確認をせずに遣り過ごしていたことに対して、反省頻りです。
 入江たか子に拘ったことについては、次の『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」第3集』で池田亀鑑が書いた小説を取り上げる予定であったことが、判断を誤らせた原因の一つでもあります。
 池田亀鑑が池田芙蓉のペンネームで書いた『馬賊の唄』という、中国大陸から旧満州にかけての冒険ロマンと、入江たか子の満州国に関する映画作成に気持ちが移っていたことは確かです。
 思い込みの怖さを、今回の件で痛感させられました。

 併せて、4枚目の写真の伊藤智子についても、その妥当性はともかく、昭和8年と限定せずにもっと幅広く見渡すことが求められます。手元に集めた資料を再確認する中で、あらためて考え直したいと思います。

 さて、さらにこの写真における対面の背景を探るためには、「婦人世界」の記事を確認する必要が出てきました。
 これまでに、「少女の友」の調査は終えているので、次のステップに移ろうと思います。
 雑誌記者としての池田亀鑑の実像を明らかにしていくことになります。

 この件でのさらなるご教示をいただけると幸いです。
 
 
 

2013年9月 4日 (水)

読書雑記(79)東西の本屋さんによる受賞作2点

 毎週のように東西を往き来していると、道中でいろいろと目に付くものがあります。
 そんな中から、本の話題を。

 〈本屋大賞〉(NPO法人 本屋大賞実行委員会)というものがあります。
 「新刊を扱う書店(オンライン書店を含む)の書店員」が、売りたいと思う本を投票で選ぶのです。
 創設からすでに10年を経ていて、今回が10回目となります。定着した賞だと言えるでしょう。
 本年度、2013年の大賞は、百田 尚樹 『海賊とよばれた男』でした。
 私はまだこれを読んでいません。

 これまでの〈本屋大賞〉受賞作の中で私が読んだのは、第3回の『東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜』だけです。選考基準と自分の好みがズレていることもあるのでしょうか。

 そんな中で、地域を意識した選書がなされるようになりました。
 今春、本ブログでも「京洛逍遥(265)本屋さんで多彩な京都と遭遇」(2013年3月17日)として、京都関連の本を集めたフェアを紹介しました。
 それが、さらに賞という形に昇華・凝縮して、地域・地元の読者に提供されるようになりました。

 まずは、関西の方から。

(1)Osaka Book One Project
  (2013.7.25発表)
 
 
 
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大阪の本屋と問屋が力を併せて、大阪のお客様に向けて絶対にはずさない1冊を150点以上のノミネート作品の中から選びました。
(ほんまに読んでほしい本)
Osaka Book One Projectは、この本の販売で得られた収益の一部を使い、大阪の児童養護施設の子供たちに本を寄贈いたします。
 
第1回受賞作
『銀二貫』
高田 郁 著
幻冬舎時代小説文庫
 
大阪天満宮を舞台に描かれる大阪商人の素敵な気質と人情...
大坂天満の寒天問屋の主・和助は、仇討ちで父を亡くした鶴之輔を銀二貫で救う。
大火で焼失した天満宮再建のための大金だった。
人はこれほど優しく、強くなれるのか?
一つの味と一つの恋を追い求めた若者の運命は?

 この賞の選考は、書店員有志と出版取次会社の約40人でなされたそうです。
 著書や内容が大阪ゆかりの文庫から4点に絞り、そこから投票で選ばれたのです。

 賞の意図が明確で、大阪という地域を意識した選考です。
 地元大阪はもとより、幅広く全国方々から支持される賞として続くことでしょう。

 なお、この受賞作『銀二貫』については、本ブログの「読書雑記(25)高田郁『銀二貫』」(2010/12/5)で、自分なりのメモを残していますのでご笑覧いただければ幸いです。
 
 つぎは、関東のものを。

(2)エキナカ書店大賞
  (2013.8.29 or 12(フライング?)発表)
 
 
 
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BOOK EXPRESS/HINT INDEX BOOK
 駅のなかの本屋さんが選んだ
いちばんオススメの文庫本!
第2回 ブックエキスプレス HINT INDEX BOOK
エキナカ書店大賞
  第1位
ミッドナイト・ラン!
  樋口 明雄
に決定!

 
 この賞については、チラシの中に賞の趣旨や作品の紹介があります。
 しかし、店頭で見える部分で比較したいので、ここでは情報が少なくなっています。
 以下、補足しておきます。


第2回受賞作
『ミッドナイト・ラン!』
樋口 明雄 著
講談社文庫
 
エキナカ書店大賞とは…
 今年からブックエキスプレスでは「エキナカ書店大賞」を始めました。これは全26店舖の従業員からオススメ文庫を募り、投票・選考会を経て「今いちばん読んでもらいたい本」を決めるというものです。駅を利用されるお客さまが手に取りやすく、電車の中でも気軽に読めるなど、推薦ポイントにはエキナカ書店ならではの特色が出ています。
 第一回受賞作「カミングアウト」(徳間文庫・高殿円著)に続き、今回の「ミッドナイト・ラン!」(講談社文庫・樋ロ明雄著)もエンタメ度の高い作品で読み応えがあります。まだまだ始まったばかりの賞ですが、今後もぜひご期待ください。
実行委員長 金谷真武(ブックエキスプレス東京北口店)

 この賞は、JR東日本の駅構内の書店(BOOK EXPRESS/HINT INDEX BOOK)の店員さんたちが、この1年間に読んで『面白い、お客様にも薦めたい』と思った本を選考したものです。
 昨年の第1回は、高殿 円の『カミングアウト』(徳間書店)でした。

 この『ミッドナイト・ラン!』を私は読んでいないのでコメントはできません。しかし、キャッチコピーなどによると、「エンタメ度の高い作品」だとか、「痛快無比なジェットコースター・ノベル!!」とあるので、刺激的な内容なのでしょう。「ネット心中、アル中、うつ病、引きこもり、集団自殺をするために集まった男女5人」ということばも躍っています。

 この夏に選考された2作品は、東西で特徴的な性格のものが選ばれたようです。
 印象批評は避けつつも、「西の人情味」と「東の疾走感」という選考結果の違いが、その宣伝文句の中から読み取れました。
 
 
 

2013年9月 3日 (火)

東京で『十帖源氏』を読む「花宴」(その2)

 今月は、いつもの新宿アルタ横のレンタルスペースではなくて、荻窪駅前にある杉並区の公共施設「あんさんぶる荻窪」で研究会をしました。
 この会場は初めて使います。
 荻窪駅から線路沿いに徒歩3分と、便利な場所にあります。

 今、「花宴」巻を読み進めています。
 前回の内容は、「東京で『十帖源氏』を読む「紅葉賀」(その5)「花宴」(その1)」(2013年7月25日)をご参照ください。
 担当者は小川千寿香さんです。
 これまでに一通りの訳を終え、ネット上に公開されているものは、「『十帖源氏』の翻字と海外向け現代語訳の公開」の「(8)《十帖源氏「花宴」》」をご覧ください。

 今日は、中頃にある「いだきおろして、戸はをしたてつ。」という部分の現代語訳作りに終始しました。

 担当者の訳は、「光源氏は抱きかかえた朧月夜を、(部屋の中で)《降ろして》、戸を閉めてしまいました。」とありました。

 ここで、「いだきおろして」の意味の取り方に異論が出たのです。
 「抱きかかえた」後に「降ろす」という動作はどういうことか、というところから疑問が噴出しました。
 「抱きあげた」ではなく、お姫さんだっこでもありません。

 また、降ろしたのはどこか、ということも問題です。
 「戸を閉めてしまいました。」とあるのは、2人の位置関係からどこの戸なのか、ということも考えました。

 さらには、原本に挿入されている絵は、高欄があったり簀子だったりで、建物の絵が統一されておらず、本文とも違いすぎます。
 
 
 
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 突っ込み所が満載の絵となっているのです。
 そうした問題点もうまく掬い取り、適当に誤魔化した現代語訳にするのが、腕の見せ所だともいえます。

 ということで、結局は次のようになりました。


「光源氏」は抱きかかえるようにして「朧月夜」を細殿に連れ出し、戸を閉めてしまいました。

 また、挿絵の説明文も、補訂しました。最初は、次のようになっていました。


抱きかかえた朧月夜を降ろし、光源氏と朧月夜が互いの扇を取りかえる場面。

 これを、今日の検討を通して、次のようにしました。


光源氏と朧月夜が互いに歌を詠み交わす場面。

 「抱きおろす」という言葉に関しては、さらに調べることになりました。

 今回の会場は、なかなか快適に勉強ができるところでした。
 次回は、10月8日(火)(第2火曜日)の午後6時半から、今日と同じ「あんさんぶる荻窪」の5階にある会議室で行います。
 よろしかったら、1度参加してみてください。
 そして、さまざまな分野から、お知恵を貸してください。
 
 
 

2013年9月 2日 (月)

読書雑記(78)寺澤行忠『アメリカに渡った日本文化』

 寺澤行忠著『アメリカに渡った日本文化』(淡交社、2013.7.19)を読みました。
 
 
 
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 目次は次のようになっています。


序章 日本文化の特質
第1章 伝統文化
第2章 現代文化
第3章 日本美術
第4章 宗教
第5章 俳句
第6章 日本語図書
第7章 日本語教育
第8章 大学における日本研究
第9章 アメリカ各地の日本文化
終章 文化立国・日本へ

 著者の「あとがき」の一部を引いておきます。
 調査した事実に基づいて今後の日本の方向を示そうとした、意欲的な報告書となっています。

まず、アメリカに渡った日本文化の全体像を出来るだけ客観的に肥述することを心がけながら提示し、その上で日本文化をよりよいかたちで海外に紹介するための方策や、日本が進むべき方向について考察した。(232頁)

 その調査は、自分の足で歩き、そして千人近い方々からの聞き取りを通してであることは、とにかく徹底しています。日本文化が海外でどのように受け入れられているのかを、著者の五体を存分に活用しての成果なのです。日本文化の伝播が、具体的な情報や事例を基にして語られているのです。

 まず、茶道が話題となります。
 アメリカにこんなに本格的に伝わっているのかと、驚きました。
 裏千家の積極的な海外への普及活動は、特筆すべきものがあるようです。

 古典芸能の海外公演は、海外における日本人に日本文化の再認識を促す効用を持つという指摘は、それが具体的な分析によるものであるだけに、おもしろいと思いました。

 日本からアメリカに渡った日本美術の詳細な報告は、とにかく圧巻です。よくもこんなに、と思うほどです。これを見て、里帰り展と言われるものの位置づけを考えさせられました。アメリカに保管されていてよかった、と思われる事例がいくつもあるからです。

 今、私はハーバード大学が所蔵する『源氏物語』の調査を終えた所です。これは、鎌倉時代の中期といってもいいほどの写本で、『源氏物語』の中でも最も古い部類に属するみごとな古写本です。これも、アメリカに渡ったために、こうして無事に残っているといえるのですから。

 宗教としての禅がアメリカで広まっている情報は、貴重だと思います。日本の芸道の理解が、さらに深まることでしょう。

 日本文学の翻訳については、私がまとめた以下の仕事も紹介していただけました(103頁)。こうした機会を得て、広く知られることはありがたいことです。


『海外における上代文学』(国文学研究資料館、2006)
『海外における平安文学』(国文学研究資料館、2005)
『海外における源氏物語』(国文学研究資料館、2003)
『海外における日本文学研究論文1+2』(国文学研究資料館、2006)

 翻訳の重要性は、日本文化の国際理解に直結します。
 日本の翻訳事業について、国際交流基金の仕事の重要性が語られています。これは、海外に行って翻訳本の調査をすると、その意義深さが実感できます。

 これに関連して、事業仕分けで問題となった文化庁の「現代日本文学の翻訳・普及事業」について、興味深い数字が示されています。日本では年間予算は1億5千万円だったのが、フランスでは52億円も計上されているというのです(107頁)。理由はあるせよ、これは日本の文化行政の立ち後れであることは明らかです。真剣に考えるべき課題が、こうしていくつも提示されているのです。

 さらには、日本語の国際化についても提言があります。


鈴木孝夫氏が説かれるように、日本語を国連公用語にすることも検討されるべきであろう(『新武器としてのことば』、二〇〇八年、アートデイズ刊)。日本は国連に対し維持運営のための拠出金を、アメリカに次いで二番目に多く負担している。国民総生産(GDP)は、最近中国に抜かれたが、それでも世界第三位である。日本語を母語として使用する人口は、一億二五〇〇万人、世界第九位で、フランス語のそれより多い。日本語が日本一国でしか使われていないというなら、中国語も同様である。現在国連の公用語は、英語、フランス語、ロシア語、中国語、スペイン語、アラビア語の六言語であり、日本語はこれらの言語の一角に加えられる資格は充分にある。日本語を加えることによる国連経費の増加分は、日本が負担することは当然であろう。(118頁)

 国連の公用語については、初めて知りました。
 確かに、日本語を理解しようとしている人々は、私の知る限りでも世界各国にたくさんいらっしゃいます。一言語としてではなくて、歴史や伝統と文化を併せ持つ言語として、自信をもって国際的な場でも使えるような環境整備から検討されてしかるべきだと思うようになりました。

 アメリカの図書館情報も興味深いものが目白押しです。ワシントンにある議会図書館の詳しい情報は、日本文化の伝わり方を理解する上で有益でした。

 アメリカの大学における研究者の情報も、網羅的で理解を深めます。アメリカ各地の日本文化とその研究に関する実態が炙り出されているのです。
 外国として訪れた者が見逃している日本文化の拡がりと足跡が、著者の足を使っての聞き取り調査により、具体的に現前してきます。気持ちがいいほどです。

 日本人留学生の減少については、ハーバード大学における次の例が典型的だと思いました。
 それは、次のように記されている箇所です。


ところで近年、日本人学生のアメリカに留学する数が、かなり減少傾向を示している。アメリカ国際教育研究所が発表した二〇一二年度の統計を見ると、アメリカにもっとも多くの留学生を送っている国は中国で一九万四〇〇〇人、次いでインドが一〇万人、さらに韓国七万二〇〇〇人、サウジアラビア三万四〇〇〇人、カナダ二万七〇〇〇人と続き、日本は台湾に次ぐ第七位、約二万人である、九四年から九八年にかけては、アメリカへの日本人の留孚生数は世界一であった。ところがピークの九七〜九八年に四万七〇〇〇人いた留学生が、今はその半分以下となり、中国の約一〇分の一に過ぎない。一方中国は前年比二三・一%増、アメリカにおける留学生の二五・四%を占めている。二〇一二年度におけるハーバード大学学部課程の留学生は、中国人五〇人、韓国人四七人に対し、日本人は九人しかいなかった。(215頁)

 これは、非常にショッキングな情報だ、としかいえません。

 終章で、日本が文化立国・文化大国を目指すように、著者は訴えています。

 今は、文化侵略などできない時代です。過去のことを持ち出して前に進めない状況に縛られることなく、国と民間の役割を見直すことが大事です。
 ソフト・パワーによる世界貢献のためには、本書の情報はますます判断する上での貴重な材料となります。そして、今後進むべき道やビジョンを検討する有益な情報源ともなります。

 なお、国立国語研究所のプロジェクトの一環として、議会図書館に収蔵された『源氏物語』の翻字や影印をインターネットに公開していることにも触れてほしかったと思います。
 アメリカに渡った日本の文化資源を、日本側で新たに掘り起こして日本の技術で世界に公開しているものなのです。これは、ハーバード大学所蔵の『源氏物語』についても同じことです。

 また、福田秀一先生の業績について、参考文献にあげられただけでは物足りなく思いました。
 アメリカに拘ってのものなので、思い切られたのでしょう。しかし、福田先生の功績は、忘れられないと思います。本書を一読して、福田秀一先生のお仕事の延長に位置する、すばらしい仕事の成果だと思いましたので、少し言及しておきます。

 著者が聞き取られた情報は、大学の日本学や日本語教育に関するものだけでも、今回はほんの一部だとのことです。続刊で、こうした点をさらに掘り下げて、分析結果を示していただけると幸いです。【4】
 
 
 

2013年9月 1日 (日)

品川区戸越にあった国文学研究資料館の跡地

 古典文学に関するポータルサイトである「やたがらすナビ」をご存知ですか?
 「やたがらすナビって何?」をご覧になると、このサイトの性格とその意義がよくわかります。
 または、「やた管ブログ」の方を紹介した方がいいかもしれません。

 このサイトを運営なさっている中川さんは、精力的に情報を収集し整理してくださっています。ありがたいことです。
 折々に提供される情報を参考にさせていただいています。

 そのブログの記事として、一昨日は「続・戸越の国文学研究資料館はこうなった」(2013年08月30日)が掲載されました。

 国文学研究資料館は2008年2月に立川市に移転しました。
 それまで館があった品川区戸越の跡地の様子が、9枚の写真とともにブログで紹介されています。
 その変貌ぶりには言葉もありません。

 私は、この戸越にあった国文学研究資料館に、1999年から9年間通いました。2008年に立川へ移転してからは、1度も訪れていません。行こう行こうと思いながら、忙しさにかまけてご無沙汰だったのです。

 その戸越における最後の様子は、「仕事場との別れ」(2008/2/19)として自分のブログに書いています。
 その数日後、新しい立川での様子を、「立川での新生活がスタート」(2008/2/27)として報告していますので、併せてご笑覧いただければと思います。

 さて、私が戸越の国文学研究資料館に初めて行ったのは、今から38年前です。大学院生だった私が、当時は助教授としておいでだった伊井春樹先生を訪ねて行った時でした。
 伊井先生は創設当初からのスタッフでした。研究室へお邪魔し、館内を案内していただき、すぐに利用登録をしてくださいました。

 私が大学院の修士課程を修了して大阪の府立高校で教員をすることになった時、東京を離れるにあたってご挨拶をするために戸越へ行った日のことも、鮮明に覚えています。

 その伊井先生とは、国文学研究資料館から大阪大学に移られてすぐの1984年に、大阪で再会しました。
 1997年に、私は大阪大学大学院博士後期課程に入学し、遅ればせながら伊井先生の指導を受けるようになりました。しかし、満期退学直前の1999年に私が国文学研究資料館に身を移したため、2000年の課程博士ではなく、2002年に大阪大学から論文博士の学位をいただきました。
 その先生が、2005年に国文学研究資料館の館長として着任なった時には驚きました。
 ちょうどその頃、私が日本国家公務員労働組合連合会(国公労連)の支部の委員長をしていた関係で、過半数代表者として伊井先生と労働協約に関して交渉や調印をするなど、忘れられない時代となっています。
 そして先生は、戸越から立川への移転や組織の法人化などの難題に取り組まれ、2010年の退任後は逸翁美術館の館長をなさっているのです。

 そんなこんなで、戸越から立川へと移り変わる時期は、私にとっても思い出すことの多い激動の時代だといえます。

 その戸越の地の今を、中川さんの記事とともに写真で見ながら、かつてを思い出そうとしました。しかし、気持ちのいいほど、旧懐の情は湧きません。懐かしさが甦るのではないのです。小旅行のために現地をあらかじめ確認する時の心境で、ネット越しに「文庫の森」を見ています。あまりにも違う光景が展開しているからでしょうか。

 とはいえ、実際に現地へ行けば、不思議な気持ちになることでしょう。
 いろいろなことを思い出すことでしょう。
 そんな機会を、近いうちに持ちたいと思っています。

 中川さん、貴重な情報と写真を、ありがとうございました。
 
 
 

NPO法人〈源氏物語電子資料館〉広報室より

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