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2014年8月 4日 (月)

京都府立盲学校の資料室(その1)

 千本北大路交差点角に、京都府立盲学校(高等部)があります。


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 このすぐ近くには、過日行った「京都ライトハウス」(2014年06月12日)があります。

 その京都ライトハウスの野々村好三さんにご紹介いただいた、盲学校の岸博実先生に、本日お目にかかることができました。長時間、京都府立盲学校の歴史に始まる、貴重なお話を伺いました。

 あらかじめ私からは、目の不自由な方と一緒に『源氏物語』の古写本が読めるような環境作りをしたい、という問題意識をお伝えしてありました。
 そのこともあり、明治10年代の盲教育の教材を中心とした、懇切丁寧な説明をしてくださいました。明治10年代というのは、まだ日本に点字が普及する前です。その頃の教材や教具には、今私の念頭にある古写本の文字への対処を解決するヒントがあるように思われるのです。

 点字は、明治23年11月1日が制定記念日だそうです。文政12年にフランスのルイ・ブライユによって発明された6点点字は、石川倉次が明治23年に50音点字としてまとめました。つまり、明治10年代は点字以前のことを知るのに、非常に貴重な情報が伏流している時期です。

 京都府立盲学校の開校は明治11年です。この日本最初の京都盲唖院の院長は、古河太四郎です。古河は、明治10年には京都市の待賢小学校における瘖唖教場に盲児を加え、著しい成果をあげました。
 日本の点字が生まれるまでの13年間は、古河たちによって、さまざまな取り組みがなされた時期です。
 京都盲唖院は、明治23年に京都市盲唖院となりました。

 なお、東京に楽善会訓盲院が創立されたのは明治9年で、明治20年に東京盲唖学校となっています。現在の筑波大学附属視覚特別支援学校がそれです。

 本日は岸先生のご高配により、明治10年頃の道具類を中心に拝見しました。その多くが京都府指定有形文化財です。そのため、写真を本ブログで紹介するには、手続きが必要です。これらについては、追い追い紹介したいと思います。そのおおよそは、ネット上の「京都府立盲学校の資料室」をご覧ください。

 まず、「木刻凸字」を拝見しました。
 これは、6センチ四方の木片にひらがなが彫られたものです。表面に凸字のひらがなが、裏面には同じ文字が凹字で刻まれています。文字がバラバラにならないように、縦長の四角い縁取りされた木枠のケースに5文字を縦に並べるようになっていました。

 この1枚の板の真ん中上には、少し切り欠けがあります。これによって、文字の向きがわかります。裏面の凹字の上にも切り欠けがあり、それは縦方向に裏返すと正しく並ぶように、文字が天地逆に刻まれています。
 こうしたことから、これは縦書きの文字列を読むための道具だったことがわかる、とのことでした。

 また、「七十二例法」といって、草書や行書で書かれた漢字の部首を学ぶ、4.5センチ四方の少し小振りの木片群もありました。そこに刻まれた草書体の文字を見て、点字が普及するまでの文字の教育には、変体仮名の要素が混在した教材があったことを知りました。
 次の写真の真ん中の文字は「春」の草書体です。これは、変体仮名では「す」と読むひらがなです。右隣の「母」は「も」と読む変体仮名の字母です。
 「七十二例法」は部首を学ぶためのものだそうです。しかし、そこには変体仮名として機能する文字も含まれていたのです。これは、私にとっては大きな収穫でした。


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 点字が出現するまでの10数年は、普通に漢字・ひらがな・カタカナを木活字に彫ったもので教えようとしていたのです。その効果のほどはわかりません。しかし、木版技術を高度に発展させていた日本人は、木版技術を持ち込むことでその可能性を追求していたようです。

 木活字による日本語の表記法は、点字の出現によって完全に途絶えました。しかし今、目の不自由な方々と一緒に鎌倉時代の古写本『源氏物語』を読む上で、コミュニケーションツールとして、これは活用できる情報文具となります。
 岸先生のお話を伺ううちに、変体仮名が読める環境作りを模索する意義を、おぼろげながらも見つける機会を得ることとなりました。大きなヒントをいただいたのです。(明日へ続く)
 
 
 

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NPO法人〈源氏物語電子資料館〉広報室より

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