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2015年3月10日 (火)

読書雑記(118)今野真二『日本語の考古学』岩波新書

 今野真二氏の『日本語の考古学』(岩波新書、2014.4刊)を読みました。
 その読書メモを残しておきます。


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 最近は、仮名文字の成立に関する歴史に興味をもっているので、楽しく読みました。
 著者が平安文学の文献にも興味を持っておられるので、その用例が大いに参考になりました。
 また、過去の時点に視点を置いた語り口から、現在がくっきりと炙り出されていたように思います。
 書写されたモノに語らせる手法で解説がなされているので、わかりやすく読み進めることができました。

 以下、切り抜き帳として、注目した箇所を列記します。

・「稿者はかつて『源氏物語』を一帖ずつ「翻字」し続けていたことがある。「翻字」とは、過去の日本語に関していえば、幾分か行草書的に書かれた漢字やいわゆる「変体仮名」を、現代わたしたちが使っている漢字や仮名に置き換えることである。なぜそのようなことをやったのかといえば、ひたすら「過去の文献が読めるようになるため」であるが、これは稿者が大学で国語学を学んでいた頃は、必須のスキルであった。考古学者が遺跡からきれいに出土品を掘り出すためのスキルのようなものであろう。当時写真版で刊行されていた『源氏物語』はすべて翻字したので、結局、『源氏物語』五十四帖を二回ほど(あるいはそれよりも多く)は写した計算になるが、それでもスキルを磨くのに充分とはまったくいえない。そのため、『源氏物語』の翻字が終わった後も十年間ほどはそうしたことを続けていた。するとある時、ある人に、電子化されたものがあるのに、なんで手で写しているのか、電子化されたものをあげるよ、と言われたことがある。しかし、手で翻字することによってわかることは多いし、そうしなければわからないこともありそうだ。スキルを身につけるために時間を費やさなければならないが、その時間は何らかのプロセスでもある。少なくとも稿者はそうした手法を認めたいし、そうした手法に魅力を感じる。」(ii~iii 頁)
【ここで言われる写真版の『源氏物語』とは、おそらく筆者が大学に就職されるまでに刊行された、書陵部本(1968)、高松宮本(1974)、尾州家河内本(1977)、穂久迩文庫本(1979)、陽明叢書(1982)の、5種類の内の2セットあたりでしょうか。】

・(『(宗祇)初学用捨抄』という室町期に書写された初学者用の連歌作法書について)「この写し手は書写の際に、原本の漢字を仮名にしたり、原本の仮名を漢字にしたりという変更を加えていたということになろう。そうすると、この写し手にとっては、(ということはおそらくこの時期の書き手にとっては)仮名で書くか漢字で書くかということは、かならず「本文」どおりにしなければいけないことがらではなかったことになり、これもきわめて興味深い。」(181頁)
【親本に書かれた文字を、どれだけ正確に書写したかということです。この例は、室町期の作法書なので、平安や鎌倉の物語とは、その書写態度が異なるものです。こうしたことは、物語にもいえることなのか。さらなる検証を進めてほしいと思いました。】

・「現代に生きるわたしたちは、「現代」と無関係に存在することができない。わたしたちは今生きている状況において育まれた価値観にしたがって、抽象的な面もふくめて、物事を見たり判断したりする。それは当然のことであり、悪いことではないが、前提としてそのことをきちんと自覚しないと、つねに現代をよしとした基準によって(過去の事物まで含めた)あらゆることがらを判断してしまうことになる。現代を基準として過去を認識しようとすると、見損なうことも少なくない。
 「きちんと」というのは、細部まで目を配って、ということでもある。本書で見てきたように、その時代の意識や認識の仕方というのは、うっかり見落としてしまうような細部にあらわれることもままある。「書き方のそんな細かな違いはどっちでもいい」というのは、その「違い」が失われてしまった現代の感覚かもしれない。」(253頁)
【写本や資料が書写された時代を尊重して、きちんと読み解く必要性を語っているところです。「現代」をモノサシにして、「現代」の感覚でものごとを判断することへの警鐘ともなっています。】
 
 
 

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NPO法人〈源氏物語電子資料館〉広報室より

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