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2015年7月 9日 (木)

「アメリカに勝ってほしい!」という表現をどう説明するか

 今週の記事、「主語の省略と助詞の変化で反対の解釈が可能となる日本語」(2015年07月06日)に対して、貴重なコメントをいただきました。

 私が提示した文例は、次のものでした。


「アメリカに勝ってほしい!」

 そして、これには次の2つの解釈が可能であることを問題提起しました。


(1)米国の勝利を願う
(2)日本の勝利を願う

 私には、以下のご教示のすべてが、まだ未消化の段階です。しかし、私1人で理解にかかっていてはもったいない濃密な内容なので、ブログを通していただいたコメントということで、3名の方からのご教示を拝受した順番に引用紹介します。

 いずれも、その説明にあたっての切り口が異なるので、いい勉強になります。

 いただいた文言はそのままですので、ご了承の程を願います。
 引き続き、この件に関するコメントをいただけると幸いです。
 
 
【A】
本日(6月7日)のブログ、とても興味を持って拝読いたしました。実は、英語と日本語で生活している関係で、日本語の曖昧さに苦労しています。

事例を挙げ出すと枚挙に暇がないのですが、国会議員・ジャーナリストを含めて曖昧な日本語で「論議」しています。この曖昧さゆえに、メディアの誤報も多いです。それに疑問を持つことなく、国会議員が国際活動を行なった昨年の事例をご紹介いたします。

昨年、元首相や野党幹部を含む日本の国会議員60名が、「陳情書」をノルウェーのノーベル委員会へ提出しました。日本人がノーベル平和賞候補になったので、その候補に授与して欲しいという内容の陳情書です。

陳情書によると、「憲法9条がノーベル委員会によってノーベル平和賞候補に推薦された。その9条に授与して欲しい」です。

実際に行なわれた推薦の実態は、「憲法9条を保持する日本国民(1億2700万人全員だそうですが!)が、誰かによってノーベル平和賞に推薦された」のみです。

日本の新聞や国会議員が大騒ぎする出来事では決してありません。国会議員や大学教授などは、どこの誰でもノーベル平和賞候補に推薦できます。候補には資格は不要です。ナチス・ドイツのヒトラーも、ソビエトのスターリンも、イタリアのファシスト党のムッソリーニもノーベル平和賞候補になっています。

憲法9条は候補にはなれません。推薦は各国の大学教授や国会議員などが行なうのであって、ノーベル委員会ではありません。二重の意味で国会議員は曖昧に状況を把握しているのです。

またこの曖昧さをあたかも利用するかのごとく、「憲法9条にノーベル平和賞を」などのキャンペーンが行われています。同賞は個人または団体に授与されるもので、憲法・憲章・法律などは授与対象にはなりえません。絶対に実現しないスローガンを用いて、国民と世界に日本人グループは訴えているのです。

先生の抱かれました疑問の答えにはまったくなりませんが、日本語と英語の違いをちょっと書いてみました。ご笑覧いただければ幸いです。
 
 
「好きやねん」と「アイ・ラブ・ユー」

「好きやねん」と言われて、「誰が誰を好きやねん?」と問い返す日本人はいないであろう。日本語会話では、「好きやねん」で十分通じるのだ。
「好きやねん」と言う人とそれを聞く人の間柄や、会話の状況から、「好き」と言えば誰が誰を好きと言っているのかが両者の間で明らかなのだ。
日本語では、動詞の主語や目的語を省略しても状況から意味が正確に理解できることが多い。しかし、諸外国の言語では、主語や目的語を省くと意味をなさない動詞が多い。「好き」「愛している」などの動詞のみでは意思が通じない。主語と目的語をつけて、例えば、「アイ・ラブ・ユー」とする。二人だけの間の会話で、誤解の余地がない場合でも主語「アイ」と目的語「ユー」を省くことはない。
ノーベル平和賞騒動は、この日本語の特徴をよく反映した。
「誰が(主語)何を(目的語)どうしたのか(動詞)」が、正確に確認・表現されることなく報道された。その報道を目にした国会議員の中には、報道記事中の主語と目的語のいずれも正確に把握することなく、議員活動に走った。ここに「ファルス」(笑劇)が生まれた。
ノーベル平和賞騒動は、「笑劇」程度で、危険を即もたらすものではない。しかし、国家安全保障や国際平和を論じる際に、日本語の発想や文の構成で論じると無駄を生じたり、時には危険をもたらす。
政治・経済・文化の国際化の進展で、国際社会で相互に影響し合うアクター(行為主体)は、主権国家のみでなく、多種多様な私企業・公企業・国際機構・NGOや、組織形態や内容などの特定が困難な各種グループからテロリスト集団まで、膨大な数に上っている。これらのアクターが「風が吹くと桶屋が儲かる」とは比較にならない複雑さで影響しあっているのが今日の地球社会である。
国際社会における平和を考え論じる場合、これらのアクターの「どれが主語」で「どれが目的語」なのかを明確に見極め、「どうすべきなのか=動詞」を明確に定義しないと、実効性ある帰結をもたらさない。

日本語で主語や目的語を省くことが多くなった理由や歴史は知らない。しかし、万葉集にもそのような事例が多く見られる。和歌の世界ではその後も一貫して見られる。和歌と国際政治とは無関係ではない。言語形態が思惟形態に影響を与える。日本語の特質をしっかりと認識してかからないと危険である。

万葉集巻第二〇・四三二二番  若倭部身麻呂

我妻は いたく恋ひらし 飲む水に 影さえ見えて よに忘られず 

➀ 主語は、「私の妻は」と明確である。

➁ 「激しく恋しがっているらしい」の目的語は省かれているが、「私を」である。(若倭部身麻呂が妻を恋しがっているのも事実であるが。)

➂ 「飲む水に」は、「私が」が省略されている。「私が飲む水に」である。

➃ 「影さえ見えて」は、「私が飲む水の上に妻の影が見える(映っている)」である。

➄ 「どうにも忘れられない」のは、「私は」「妻を」どうしても忘れられないのである。

主語や目的語を完全に省いたり、明確に目的語を明らかにしなくても文意が読む者、聞く者に伝わる日本語とは対照的に、英語やドイツ語やその他の多くの外国語では明確であっても省略はしない。
ドイツの詩人ハインリヒ・ハイネ(一七九七〜一八五六年)の詩に「宣言」がある。その一部に、話者がノルウェーの森の大きなモミの木を引き抜いてエトナ山の火口で火をつけ、暗い天空に火の筆で一文を描く広大な詩的風景がある。天空に描かれた一文は、次のようだ。

Agnes,ichliebeDich!(アグネス、我は汝を愛する! =私はあなたを愛している!)

「アグネス」と呼びかけているから、日本語的に考えると「アグネス、愛している!」)で、十分気持ちが伝わる。しかし、ドイツ語も英語の「アイ・ラブ・ユー」と同様にこのような文の構造になる。

日本語おける省略は、日常会話や詩歌の世界のみではない。
一例は、戦後に建立された「広島平和都市記念碑」(原爆死没者慰霊碑)だ。

安らかに眠って下さい  過ちは  繰返えしませぬから  (慰霊碑の表記通り)

「過ちは繰返しませぬから」の主語は省かれている。誰であろうか。この慰霊碑の英文解説では主語が「私たち」(we)となっている。

それでは、私たちとは具体的には誰を指すのか疑問が浮かぶ。
広島市の説明では、「全世界の人々」「すべての人々」である。
しかし、広島市・広島県・日本や、あるいは世界の誰かが、「繰り返しませぬから」と全世界の人々に代わって誓うことが果たして可能であろうか。
誓約とは、神聖なものであり厳格なものである。一国や誰かが全世界の人々に代わって行なえる性格のものであろうか。

広島市には、「和解の像」というブロンズ像も建っている。

「和解」は誰と誰の和解であろうか。今さら日米の和解の必要性をブロンズ像を建立してまで訴える必要はないであろう。この像は、英国のビジネスマンによって寄贈された。第二次世界大戦で戦った日英間の和解であろうか。まさか、人類と核兵器の和解ではなかろうが。
 
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【B】
はじめまして。中古文学の文法に興味がある関係で、よく拝読しております。
国文法を少しかじったことがあるのですが、問題の「アメリカに勝ってほしい」の多義は、一つの文に同じ格助詞ニが複数回出ること、それぞれの格助詞ニが意味が異なっていること、によるのではないでしょうか。
「勝つ」は「AガBニ勝つ」という格枠組みをとります。勝者はガ格項Aです。
これが、話者の願望を表すシテホシイと結びつくと「私ガAニBニ勝ってほしい」という格枠組みになります。Vシテホシイは、Vがとるガ格をニ格に変換します。「日本がアメリカを倒す」は「私が日本にアメリカを倒してほしい」になります。
また、Vシテホシイのガ格項は通常、一人称に限られ、頻繁に省略されます。「AニBニ勝ってほしい」がよく見られることになります。条件が揃えば「太郎は日本にアメリカに勝ってほしかったらしいよ」とも言えます。
問題の文では、まず、元のVがニ格項をとる動詞である上にVがとるガ格項がテホシイによってニ格項になり、ニ格項が2つ存在しています。最初のニ格項はVのガ格項で勝者であり願望の向かう先です。後ろのニ格項はVの元々のニ格項で敗者です。それぞれのニ格項の意味が全く異なります。「日本にアメリカに勝ってほしい」の時点で、語順が自由である日本語では、どちらの二格項がどちらの意味を担っているのかが識別できず曖昧になります。
このうち片方が省略され「Xに勝ってほしい」となったのが問題の文です。XがAなのかBなのか、最早分かりません。
一つの文に同じ格助詞が複数出てくることはよくあります。その場合、どちらの格助詞がどちらの意味であるかはよく曖昧になります。また、特にニ格項は多義の幅が広く、行為が向かう場所を表す場合(アメリカに行く)もあれば行為が出発する場所を表す場合(太郎に殴られる)もあり、他にも正反対のものを表すことがあります。
と、このような説明を考えたのですが、いかがでしょうか。
 
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【C】
僭越ながら・・・
(1)米国の勝利を願う
場合の「に」は、『大辞林』の分類によれば「動作・作用の起こるみなもとを表す」ものです。通常は受身・使役とともに使われます(「母に叱られた」→「叱るのは母」)が、「ほしい」が使われているので使用可能(「勝つのはアメリカ」)です。
(2)日本の勝利を願う
場合は、同様に「に」が「目標・対象などを指定する」意味で使われています。受身・使役でもなく「ほしい」や「もらう」もない場合はこちらの読みしかできません。
 なお、「は」「が」は、ここでは本質的な問題ではありません。
 おそらく以上で正しいかと存じます。
 
 
 

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NPO法人〈源氏物語電子資料館〉広報室より

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