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2016年6月22日 (水)

読書雑記(169)山口謠司『日本語を作った男 上田万年とその時代』

 『日本語を作った男 上田万年とその時代』(山口謠司、集英社インターナショナル、2016年2月)を読みました。
 上田万年については、作家円地文子の父と言った方が通りがいいかもしれません。


160616_mannen


 気難しそうな森鷗外と、それを仮名遣調査委員会の司会として迎え撃つ上田万年の姿から語り出されます。
 旧仮名遣い派の森鷗外と、新仮名遣い派の夏目漱石の対立も、興味深く紹介されます。
 次の言葉が印象的です。


万年なしに「漱石」は生まれてこなかった。(25頁)

 本書は、明治から大正にかけての日本語の歴史を語っています。
 井上ひさしの『國語元年』が導入に使われているゆえんです。

 明治十年代後期から明治四十年頃までの日本語論争は、まさに今私が一番知りたいことであり、興味がある時代です。じっくりと読みました。

 チェンバレン、物集高見、アストン、サトウ等々、私も知っている人々が出てきて、楽しく読み進められました。

 ただし、しばしば脱線して明治時代の文学史や文化史に流れます。上田万年は、著者にとっては語りのきっかけにしているに過ぎない、と言うのが当たっているのです。
 とにかく、登場する人物の多さには圧倒されます。それだけ、明治時代から昭和時代にかけての日本語のありように関しては、さまざまな変転があった、ということなのです。

 私が本書を手にしたのは、明治33年に平仮名が現行の字体の1文字だけに統制された背景を知りたかったからです。しかし、このことに関しては、あまり新しい情報を得るものがありませんでした。無い物ねだりだったこととはいえ、残念でした。

 なお、巻末の「本書俯瞰のための国政および国語問題、文学関係年表・附 上田万年年譜」は、通覧していて楽しいものでした。歴史と事実を時間軸から切り取ることに、著者らしい視点で整理がなされたものです。【3】

 最後に、私がチェックをした箇所を列記しておきます。

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・新島嚢に大きな影響を受けてアメリカで教育を受けた内村鑑三は明治二十七(一八九四)年に箱根で行われたキリスト教徒第六夏期学校での講演『後世への最大遺物』でおおよそ次のように述べている。


 日本人が文学者という者の生涯はどういう生涯であるだろうと思うているかというに、それは絵艸紙屋へ行ってみるとわかる。どういう絵があるかというと、赤く塗ってある御堂のなかに美しい女が机の前に座っておって、向こうから月の上ってくるのを筆を翳して眺めている。これは何であ
るかというと紫式部の源氏の間である。これが日本流の文学者である。しかし文学というものはコンナものであるならば、文学は後世への遺物でなくしてかえって後世への害物である。なるほど『源氏物語』という本は美しい言葉を日本に伝えたものであるかも知れませぬ。しかし『源氏物語』が日本の士気を鼓舞することのために何をしたか。何もしないばかりでなくわれわれを女らしく意気地なしになした。あのような文学はわれわれのなかから根コソギに絶やしたい(拍手)。
……文学はソンナものではない。文学はわれわれがこの世界に戦争するときの道具である。今日戦争することはできないから未来において戦争しようというのが文学であります。

 日本語を捨て去って、母国語を英語にするということを、もし、彼らが決めていたとしたら……ということも、必ずしも不可能ではなかったのである。(51〜52頁)
 
・日本語を棄てて英語にしようという急進的な考えは別にしても、日本語ローマ字化と同時に、前年の明治六(一八七三)年には、以前から漢字廃止を唱えていた前島密が『まいにちひらがなしんぶんし』を発行していた(翌年廃刊)。(53頁)
 
・明治三十三(一九〇〇)年、文部省は、それまであった「読書」「作文」「習字」の三つをまとめて「国語」という科目を作るのである。これはまさに「朝廷ー幕府ー藩」という旧体制を脱して、「大日本帝国」という国家の体制が「国家」「国民」「国語」という新しい次元に変化したことを意味するものでもあった。
 明治三十三年の段階では、いまだ、「標準語」は整備されていない。しかし、「国語」を科目として全国の小学校の科目に置くことで、次第に「新しい思想」が「新しい国語」で書かれる道が生まれてくるのである。(57頁)
 
・当時イギリス・ケンブリッジ大学に留学していた末松謙澄は、『日本文章論』(明治十九年刊)のなかで「羅馬字書方」を記し、羅馬字会が作ったローマ字の書き方を改良し、さらに日本語の発音と一体化する綴り法が必要だということを説明する。(81頁)
 
・促音の符号の如き、或人はッの字をかき、或人はフツクチキの字の右側に●点を施し、或人は—又はツを以て之を区別す。これらも予輩の希望よりすれば、一定の符号仮令ばפֿ字の如きを作り、これを以て総ての場合を総括したきものなり。たとえば
国家 コפֿカ  立法 リפֿポー  一切 イפֿサイ
合羽 カפֿパ  達者 タפֿシヤ
等の如し。これらも亦—と同じく、五十音図中んの下に入るべきは論なかるぺし。(288頁)
 
・明治三十三年は、万年にとって「仮名遣いの革新」という意味では非常に実りある年でもあった。
 帝国教育会国字改良部仮名調査部の会議などを経て、八月、文部省は小学校令において、「読書作文習宇を国語の一科にまとめ、仮名字体・字音仮名遣いを定め、尋常小学校に使用すべき漢字を千二百字に制限」し「仮名遣いの一定として変体仮名を廃止し、字音仮名遣いを改正する(表音式に改め、長音符号を採用する)こと」を決定したのである。(296頁)
 
・「国語調査会」は明治三十五(一九〇二)年三月「国語調査委員官制発布」とともに「国語調査委員会」となる。その構成委員は「国語調査会」とはやや異なるが、正式に「国語調査委員会」を発足させる明治三十五年四月十一日から九月二十五日までの官報を見ると、国語調査委員会の委嘱として、辞令が次の人々に下されている。
 加藤弘之(文学博士、男爵)
 嘉納治五郎(東京高等師範学校長)
 井上哲次郎(東京帝国大学文科大学教授・文学博士)
 澤柳政太郎(文部省普通学務局長)
 上田万年(東京帝国大学文科大学教授・文学博士)
 三上参次(東京帝国大学文科大学教授・文学博士)
 渡部董之助(文部書記官)
 高楠順次郎(東京帝国大学文科大学教授・文学博士)
 重野安繹(文学博士)
 徳富藍花
 木村正辞(文学博士)
 大槻文彦(文学博士)
 前島密
  うち、委員長は加藤弘之、主事は上田万年
 また、補助委員に芳賀矢一、保科孝一、新村出、岡田正美、林泰輔、大矢透、山田孝雄の六名が任命された。(390頁)
 
・明治三十七(一九〇四)年四月一日に「文部省内国語調査委員会」が発行した『国字国語改良論説年表』という書物がある。慶応二(一八六六)年から明治三十六(一九〇三)年十二月末までに起こった国語問題が詳細に記録される。
 つまり、国字国語改良は、この時までにほぼ完了していたということであろう。
 出版の時、すでに日露戦争が勃発して二ヶ月が過ぎようとしていた。(430頁)
 
・万年がドイツの言語学を輸入して日本語の音韻の変遷を明らかにし、芳賀矢一がドイツ文献学の研究を輸入して我が国の文献の歴史を説き、漱石が英語学の専門家としてイギリスに留学させられたのも、もちろん、我が国を近代化して列強と肩を並べることが目的であったが、同時にそれは我が国の教育の根幹となる国字と国語を江戸時代のものから改良し、近代的なものにするためであった。
 しかし、前島の上奏から三十年経っても、結局国の政策としては何も決まらなかった。再び、国語問題が動きはじめるのは明治三十一(一八九八)年五月八日、井上哲次郎が東京学士会院で「新国語確定の時期」と題して演説を行い「現今こそ新しい国語を確定するに其好時期である」と述べた頃からだった。
 ここから、明治三十八(一九〇五)年に言文一致を目指す仮名遣いの改正が諮問されるまでのこと
を、『国字国語改良論説年表』を利用しながら改めて順を追って見てみたい。

〈明治三十一(一八九八)年〉
 五月、万年、フローレンツ、小川尚義、金澤庄三郎、藤岡勝二、猪狩幸之助、新村出らが「言語学会」を設立する。
 九月及び十月、井上哲次郎は『国字改良論』を雑誌『太陽』(第四巻第十九号・二十号)に発表する。

 井上は言う。電信では、欧文の一単語と仮名で書かれる七音節を等価として計算する。日清戦争時の和文電信は、欧文のものに比して安価で簡便である。ただ、国字を改良するというのであれば、速記の記号を新しく仮名のようなものに制定するという案もある。ローマ字が絶対いいという理由も分からないし、新しい国字を作ると言いながらできない。一度ここで、実際のことを十分に考えてみる必要があるのではないか。

 七月、万年、「国語改良会」結成。
 十一月、万年は文部省専門学務局長兼参与官に任命される。

 これに伴い、文部省専門学務局長兼参与官であった澤柳政太郎(一八六五〜一九二七)が普通学務局長に昇格した。
 澤柳は、万年とは東京府第一中学変則科で同級だった頃からの親しい友人である。また、澤柳は、狩野亨吉とも親友であった。
 狩野は、この年、漱石の招きで熊本の第五高等学校にいたのを退職して、東京の第一高等学校に校長として赴任した。漱石は、狩野が住んでいた家に越した。澤柳と狩野は、三十三歳、万年と漱石は三十一歳になっていた。

〈明治三十二(一八九九)年〉
 五月、漢字廃止論に反対する重野安繹が、『東京学士会院雑誌』に「常用漢字文」を発表。五千六百十字を選んで使用することを提案した。
 五月末、漱石に長女・筆子が生まれる。
 六月、鴎外は小倉に左遷される。

〈明治三十三(一九〇〇)年〉
 二月十五日、『言語学雑誌』第一号発刊。
 二月二十二日、帝国教育会国字改良部漢字部では、
  (一)漢字節減に関する材料を蒐集すること
  (二)固有名詞は凡て漢字を用いること
  (三)形容詞及び動詞はなるべく漢字を用いざること
  (四)簡易にして普通定用的なる漢字は之を保存し置くこと(例えば、郡市町村月日数字円銭等)
を議定する。
 四月十六日、第一回国語調査会が開会される。
 五月二十四日、帝国教育会国字改良部新字部は、速記文字を以て新字とすることに決し、かつ新字大体の標準を発表する。
  (一)日本の発音を写し得ること
  (二)早く書き得ること
  (三)読み易きこと
  (四)覚え易きこと
  (五)大小自在に書き得ること
  (六)印刷に便なること
  (七)タイプライタアに適すること
  (八)字体の美なること
  (九)短縮を記し得ること
  (十)字体は一種なるべきこと(赤文字は引用者による)
 五月二十五日、帝国教育会国字改良部仮名調査部は、以下の諸項を決議する。
  (一)文字を縦行に記す
  (二)片仮名平仮名を併用す
 六月十三日、漱石、芳賀矢一、高山樗牛らに留学の辞令が下りる。「同年九月から満二年」という期限である。
 六月三十日、箱根で芳賀を囲んだどんちゃん騒ぎの宴会が開かれた。
 八月、文部省は、小学校令において、「読書作文習字を国語の一科にまとめ、仮名字体・字音仮名遣いを定め、尋常小学校に使用すべき漢字を千二百字に制限」した。
 また、「仮名遣いの一定として変体仮名を廃止し、字音仮名遣いを改正する(表音式に改め、長音符号を採用する)こと」を決定する。
 九月、漱石と芳賀矢一はヨーロッパ留学のために横浜を発つ。(463〜467頁)

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 以下に、発売元である集英社インターナショナルのホームページから、本書の概要と目次を引いておきます。


概要

夏目漱石、森鷗外、斎藤緑雨、坪内逍遥…そして上田万年。
言葉で国を作ろうと明治を駆けた男たちがいた。

「日本語(標準語)」を作ることこそが、
国(国家という意識)を作ることである――。

近代言語学を初めて日本に導入すると同時に、標準語の制定や仮名遣いの統一などを通じて「近代日本語」の成立にきわめて大きな役割を果たした国語学者・上田万年とその時代を描く。

明治維新を迎え「江戸」が「東京」となった後も、
それを「とうきやう」とか「とうけい」と様々に呼ぶ人がいた。

――明治にはまだ「日本語」はなかったのである。
 
 
目次

第1章 明治初期の日本語事情
第2章 万年の同世代人と教育制度
第3章 日本語をどう書くか
第4章 万年、学びのとき
第5章 本を、あまねく全国へ
第6章 言語が国を作る
第7章 落語と言文一致
第8章 日本語改良への第一歩
第9章 国語会議
第10章 文人たちの大論争
第11章 言文一致への道
第12章 教科書国定の困難
第13章 徴兵と日本語
第14章  緑雨の死と漱石の新しい文学
第15章 万年万歳 万年消沈
第16章 唱歌の誕生
第17章 万年のその後


 
 
 

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