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2016年8月 6日 (土)

読書雑記(175)ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』

 以前から気になっていた、記号論学者ウンベルト・エーコの『薔薇の名前 上・下』(東京創元社、1990.1)を、行きつ戻りつしながら読み終えました。本年2月19日にウンベルト・エーコ氏が亡くなり、手元に置きながらいつかはと思いつつそのままになっていたこの本のことを思い出したのです。


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 まず、「初めに言葉があった。」と始まります。

 プロローグで、「若き日に立ち会った驚くべき数奇な事件の証言をこの羊皮紙の上に書きとめよう」(上、22頁)と言っているように、僧院での異常な体験を語っています。それは、西暦1327年に、ある僧院で起こった一連の事件が書き残されるのです。

 最後は、次のように結ばれます。

「写字室のなかは冷えきっていて、親指が痛む。この手記を残そうとはしているが、誰のためになるのかわからないし、何をめぐって書いているのかも、私にはもうわからない。〈過ギニシ薔薇ハタダ名前ノミ、虚シキソノ名ガ今ニ残レリ〉。」(下、383頁)

 常に読者がいることを意識した語り口です。

 この小説を読むのは2度目です。世界各国で大ベストセラーとなりました。
 映画も観ました。ショーン・コネリーが主演した映画としても有名です。
 しかし、まったくその内容を覚えていません。修道院で聖書を書写する姿しか、思い出せません。
 どうも気になり、再読に挑戦したのです。読み終わって、今回は盲目の老僧の姿と、最後の火事場の迫力が強く記憶に刻まれました。

 それにしても、再読しながらもあまり心に響くものがないのです。僧院での宗教話が、私に伝わって来ないからだと思われます。

 それでも、私が興味を持ったのは、写字室での様子です。聖書がどのような環境で、どのようにして書写されているかがわかるからです。


最も明るい仕事机は、古文書学僧・熟練の装飾画家・写本装飾家・写字生などに充てられていた。どの机にも細密画や筆写のために必要な道具類が備えつけてあった。角製のインク壺、薄い刃で削りながら使う細い羽根ペン、羊皮紙を滑らかにするために使う軽石、文字を揃えて書くために引く基線用の定規などである。写字生が腰をおろして向かう机の面は傾斜していて、そのはずれに書見台があり、筆写すべき原本が立てかけられて、開いたページには筆写中の行だけを示す仮面枠が乗せてあった。写字生たちのなかには金色のインクやその他さまざまな色彩のインクを使う者がいた。また、古文書を黙読しているだけの者や、自分たちのノートや小板にメモを記している者がいた。(上、121頁)


当時の私は、まだ人生のわずかな部分しか写字室で過ごしたことがなかったけれども、その後になって多くの時を過ごして写字室の事情に通じるようになったいまでは、かじかんだ指先にペンを握りしめながら冬の長い時間を机に向かって過ごすことが、どれほどの苦痛を写字生や写本装飾家や学僧たちに強いるものであるかを、充分に承知している(通常の気温のときでさえ、六時間も書きつづければ、手に恐ろしい書痙が生じて、まるで踏みつけられたみたいに親指が痛みだすのだ)。だからこそ、写本の余白などに、写字生が忍耐(および焦燥)の証に記した落書をしばしば見出すことがある。たとえば〈ありがたや、もうすぐ暗くなる〉とか、〈おお、せめて一杯の葡萄酒があったならば!〉とか、さらには〈今日は底冷えがする、明りが乏しい、この羊皮紙は毛が多くて、どうもうまく書けない〉とか。昔から諺に言うように、ペンを握っているのは三本の指だが、全身で働いているのだ。そして全身で苦しんでいるのだ。(上、204頁)


この翻訳の写本を二部作って、一部を依頼主に納め、一部をわたしたちの文書館に収蔵する予定でした(上、206頁)

 ここには、聖書の写本を作成するのに、分業制で、書写のための枠などの道具を使い、落書きをしたり、副本を作っている様子がわかります。これは、日本で写本を書写する時の様子と対比するとおもしろいと思いました。

 物語を読み進むうちに、年老いた盲人の老修道僧の存在が気になりました。


大いなる老人は、喘ぎながら、言葉を途切らせた。盲目になってから、もう何年も経つはずなのに、いま話しているように彫像の卑猥さをはっきりと覚えているのだから、その記憶力には驚嘆させられた。あれほど情熱をこめていまだに語るくらいだから、視力のあったころにはよほど彫像の魅惑に取り憑かれていたのではないか、と私は思わず疑ってしまった。(上、134頁)

 第二日の話に入ってから、ようやく話がおもしろくなりました。2人の死をめぐってウィリアムとこの物語の書き手であるアドソは、審問官として調査をはじめます。僧院の写字室の実態が明らかになっていくのです。

 盲人に関する描写に関して、あまりにも差別的な視点なので、原文はどうなのか知りたくなりました(上、197頁等)。

 殺人事件については、総院長への疑念がますます大きくなっていきます。

 読み進んでいて、日本語訳の一文が長いので文意を理解するのが大変でした。翻訳物によくあることです。原文がそうなのでしょうか。日本語としては、この訳はよくないと思いました。あまりにも原文に忠実なのでしょう。もっとわかりやすい日本語の文章にする工夫があってもいいのではないでしょうか。
 原作者の文章の尊重と、言語を移し換える上でのわかりやすさの匙加減かもしれませんが。

 さらに、多用されている挿入句は、丸カッコ付きで入れ込まれています。それでなくても長い文章が、さらに鰻の寝床状態となって、訳が分からなくなります。

 中盤になり、聖職者とは、異端者とは、そして修道会や修道士とは何かということが、だんだんわからなくなりました。私がキリスト教に疎いからなのでしょう。それにしても、前が見えにくい物語展開です。

 上巻末尾で、ミケーレ修道士が火炙りの刑に処せられます。この場面の筆は活きています。キリスト教における罪というものや咎とは何かを考えさせられます。

 一巻の秘密の書物をめぐる犯罪は、しだいに謎を深めていきます。しかし、物語の成り行きが時々見通せなくなるので、目次にもどり、詳細な小見出しの列記を確認して、また読み進みました。

 キリストの清貧についての論争がなされるくだりがあります。これなどは、日頃からこうした宗教論議に立ち会うことのない私には、各人の発言の意図や背景がよく見えません。物語を理解するための基礎的な知識の不足を痛感しました。それが要求されるのは、異文化圏での宗教論議が内容の大半を占めていることと関係するかもしれません。
 これは、読者が作品に近づこうと努力する必要があるのか、作者が配慮すべきことなのか、考えてしまいました。特に、本作品は読者を強く意識した語り口なので、余計に思ったことです。

 下巻の中盤以降で、盲目の修道僧であるホルヘ・ダ・ブルゴスが説教を任されます。
 私は、この人物に注目していたので、このくだり以降は特に興味深く読みました。歳は80を越え、目が見えなくなって40年以上。記憶力に優れ、博識なのです。

 物語は凄惨な場面の後、神聖な写本の存在意義を考えさせます。これまでに起こった、いくつもの殺人事件はいったい何だったのか、もっと語ってほしいと思います。寂しさが残る読後感を持ちました。

 それにしても、本書は物語の中に物語が仕組まれているようです。その重層性の一端でも読み解けたら、また別の読書の楽しみが待っていそうです。そんなゆとりのないままに、急ぎ足で読むしかない自分の読書環境を残念に思います。いつかまた、3度目に挑戦するかもしれません。【2】

 本書には、巻末に翻訳者の解説がついています。その中に記された、翻訳にあたっての興味深いコメントを引きます。


 今回の訳出にさいしては、ボンピアーニ社、一九八〇年十月刊の第二版を底本とし、その後に加えられた訂正や変更を一九八六年三月刊のペーパーバック第十一版と照合し、念のため一九八九年一月の同第二十五版も座右に備えて異同を検討した。訳出の事業を引き受けてまもないころ、出版社を介して、ウンベルト・エーコから原文の訂正箇所の分厚いコピーを受け取り、それらは直ちに底本との照合を済ませたが、同時に受け取ったタイプライター印刷コピーによる「『薔薇の名前』翻訳のためのメモ」と題した、数葉の文書のほうは、もちろん、読まないことに決めた。翻訳という営為は訳者が原文と対峙して、それ以外のどこにも助けを求められないと観念したときに出発点に立つのであって、もしも他に支援を求めたり抜け道を探したりするようになれば、訳者の立場は基盤から崩れてしまい、収拾のつかないものになるであろう。(下、389頁)

 この文章を読み、あらためて翻訳とは何かを考えるきっかけを得ました。何をどう訳すか。今、私は本書の翻訳姿勢とその完成度に、大いに疑念を抱きました。このことが、日本語として読みにくい訳になっている原因ではないかと思われます。
 ドイツ語訳、フランス語訳、スペイン語訳、イギリス語訳など、多くの外国語訳ではどのように読まれているのでしょうか。また、引かれているラテン語は、どのように理解されているのでしょうか。
 再度、訳者河島氏の解説文から引きます。


 英語版は、それに比べて、非常な熱意をこめて翻訳にあたったことが窺われた。たぶん、そういう熱意の一つの現われであろう。誤訳はお互いさまとして、あまりにも多い省略箇所が目立った。編集部にざっと計算していただいただけでも、日本語版に換算すれば全篇の長さが二十ページ分は少なくなっているという。もっと少なくなるのではないか、と私は感じていた。プロローグだけでも、原文で五行、六行と脱けていたから。長いところでは、連続して二十五行、三十行という省略箇所もある。スペイン語版の出来映えは、どの程度のものか判断しかねたが、例の黄道十二宮の謎の記号(上巻、二六三ページ)が逆さに印刷されていることを編集部に教えられた。(408頁)

 翻訳における省略という、私が抱える問題が、ここからも浮上してくるのです。
 翻訳は文化の移し替えだと思っています。その意味からも、本書はさまざまな問題を投げかけています。
 そして、この『薔薇の名前』というものが、記号論のための小説だと言われている意味を、記号論をもっと勉強してから考えるとおもしろくなりそうな予感がし出しました。

 解説によると、さらに興味深いことが記されています。


 この小説は第六日を削減され、第七日はさらに削減された。
(中略)
 この小説には読み解かれたくない物語、つまり削除された物語も存在する。この作品が孕む不均衡は、何よりもそのことを窺わせる。
(中略)
 これは文学の本筋からは逸れることになるが、推理小説好きの読者のために、途絶えた糸を復活させ、試みに記しておこう。訳者の想定によれば、削除された物語の中心テーマは、僧院の覇権をめぐる争い。そのために生ずる死者は、修道僧たちのあいだからのみ出て、その数は少なくとも三名である。(415〜417頁)

 おそらく、本書に関しては多くの研究が公開されていることでしょう。このような物語の成立に関わる問題は、今後とも気をつけて見ていきたいと思います。
 
 
 

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NPO法人〈源氏物語電子資料館〉広報室より

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