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2016年8月17日 (水)

読書雑記(176)大谷哲夫『永平の風 道元の生涯』

 お盆にお寺さんがいらっしゃることを気に留めながら、『永平の風 道元の生涯』(大谷哲夫、文芸社、2001.10初版、2002.4第4刷)を読み了えました。
 私は宗教心が薄いと思っています。しかし、両親がよく言っていた「只管打坐」という言葉が『正法眼蔵随聞記』に出てくることばであることは、ずっと後の大学生の頃に知りました。

 私の家と妻の家は、偶然にも共に禅宗の曹洞宗であり、本山も福井県にある永平寺です。お互いの両親は、永平寺へ何度か行っています。
 母を追善しての西国三十三所札所巡りの満願は、子供たちとみんなで行きました。


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 最近の仏事で床に飾っているのは、この時の朱印軸を表装したものではなく、その後に私がガンの手術を経て無事に生還した折に西国三十三所を巡った時のものです。

 曹洞宗は、私が選択したものではないにしても、両親が代々受け継いできた我が家の宗派ということで、それが何であるのかもわからないままに引き継いでいるのが、偽らざる実情です。
 
 今回読んだのは、箱に「駒澤大学学長就任記念特装版」と印刷されている、ずっしりと重い本でした。


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 参考までに、巻末にある著者のプロフィールを引きます。

 


著者 プロフィール
大谷哲夫(おおたに てつを)
昭和14(1939)年、東京に生まれる。
早稲田大学第一文学部(東洋哲学専修)、同大学院文研(東洋哲学専攻修士課程)修了。
駒澤大学大学院文研(仏教学専攻博士課程)満期退学。
曹洞宗宗学研究所所員・幹事・講師を経て、昭和52(1977)年、駒澤大学に奉職。
平成6(1994)年より学生部長、教務部長、副学長を歴任。現在、駒澤大学学長、仏教学部教授。著書に、『訓注 永平広録』(上下2巻・大蔵出版)、『和訳 従容録』(柏書房)、『祖山本 永平広録 考注集成』(上下2巻・一穂社)、『卍山本 永平広録 祖山本対校』(全1巻・一穂社)、『道元禅師 おりおりの法話』(曹洞宗宗務庁)など、論文多数。

 
 さて、本書のことをメモとして残しておきます。

 建久10年(1199)に、源頼朝は53歳で亡くなりました。
 その翌年、正治2年の正月2日に京の松殿別邸で生まれたのが、この物語の主人公である道元です。宇治の木幡にある元摂政藤原基房の別邸で生まれたのです。
 母伊子は基房の三女。父は、具平親王の流れの久我通親です。伊子は、その前は木曽義仲の妻でした。

 道元が生まれた年に、幕府は念仏宗を禁止しました。公暁が誕生した年でもあります。

 道元は、父通親の子、異母兄通具(新古今集和歌集の撰者の一人)が育父となって、久我荘で育ちます。
 時は、頼朝から妻政子の北条氏が実験を握るようになっていました。また、末法思想が広がっている時代であり、法然の浄土信仰が説かれていました。

 そのような中で、道元は母が亡くなる時の「政治の世界に生きるな」という言葉が頭を離れません。


 死期の迫っていた母が話していた言葉の意味をどうしても知りたいと思った。
 ― 人は何のために生まれてきたのか、生きるとはどういうことなのか、人は死んだらどうなるのか、浄土というものが本当にあるのだろうか……。(44頁)

 この母の言葉が道元の生き様を決めるのでした。

 ある夜、夢に現れた母の言葉のままに意を決し、比叡山延暦寺の良観法印(叔父)のもとに行きます。13歳の春でした。この道元が得度式をあげるのは、第69代の天台座主慈円の次の公円の時です。この時から、出家沙門「仏法房道元」が誕生したのです。

 この物語は、簡潔な文章でわかりやすく、きびきびとした語り口で進んでいきます。

 道元は、やがて政治の権力闘争に明け暮れる仏教界に嫌悪を抱きます。
 そして、栄西を偲んで中国の天台山へ行き、正師を求めて諸山巡錫の旅に出ます。仏教の本質、仏教の悟りを求めるための旅です。

 平成19年(2007)に、私は中国浙江省にある天台山に登り、国清寺や万年禅寺へ行きました。山内のことが、今も鮮明に思い出されます。この時は、伊井春樹先生とご一緒でした。


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 この万年禅寺でいただいた境内の石片は、今も仏壇の位牌の横に置いています。

 道元が正師と出会うことと、師とする明全が死にゆく場面、そして大悟した道元を正師である如浄禅師が認証する「第二章 ほととぎす」は圧巻です。

 道元が宋で修行していた1223年から1227年までの5年間は、北条氏の執権政治が行われていました。その間に、日本も変わっていたのです。

 道元の生涯が、歴史語りと共に活写されます。
 仏教の専門用語もわかりやすいことばで記されているので、難しい宗教的な背景もよくわかりました。
 本書は、道元の死までを静かに語ります。道元の生き様が印象的に描かれているので、禅というものを考える時に思い出すことになるでしょう。

 本書には、口絵として「道元画像 自賛」「如浄画像 自賛」「道元嗣書」の3点のカラー図版があり、本文中には、田中伸介氏が描いた28葉の挿し絵(モノクロ)が、見開き左側の頁にあります。
 517頁の書物なので、16頁に一葉の絵が置かれていることになり、物語絵巻の雰囲気があります。
 また、巻末には、詳細な「道元総年表」や「主要参考著書一覧」等もあり、道元を理解するための手引きとなっています。【4】

 私がチェックしたのは、以下の文章です。
 5箇所ほどを抜き出しておきます。
 


 道元は、ひたすらなる坐禅こそが、釈尊から達磨へ、そして如浄から自分へ正しく伝わった仏法を学ぶ唯一の正門であると宣言した。
 それは、道元が出家し、比叡山の修行時代から抱き続けていた疑問、
「人は生まれながらにして仏であるとしながら、なぜ修行しなければならないのか」
 という命題への明確なる解答の序章とも言えるものであった。(303頁)

 

仁治三年(一二四二)正月に、四条天皇がわずか十二歳で崩御したため、兄弟の宮もいない天皇の皇嗣として土御門上皇(一一九五~一二三一)の皇子邦仁王が天皇の位についた。すなわち後嵯峨天皇(一二二〇~一二七二)である。天皇は、道元の父通親の第一子である久我通宗の娘通子を母とするので、道元にとっては甥にあたる。これによって久我家は天皇の外戚としての権力を獲得することになったのである。特に、久我通宗のあとを継いだ通親の第四子定通は道元の異母兄にあたるが、その累進はめざましく、朝廷の実権を握り叙位除目をほしいままにする勢いであった。
 道元が、その正伝の仏法の教線を京にまで拡張しえたのは、道元自身の好むと好まざるとにかかわらず、そのような政治情勢の激変を”追い風"にすることができたことにもよる。(348~349頁)

 

 翌仁治四年(一二四三)一月十六日に「都機」を撰述し、三月十日に「空華」を示衆した。「都機」は、万葉仮名で「月」のことで、「月」を主題として説示しているが、この巻に示された「月」は単に虚空に浮かぶ美しい月をいうのではない。道元が「月」によって説き示したのは、仏祖たちがしばしば月に仮託して語った「諸法無我」、あるいは「諸行無常」といった言葉に集約される正伝の仏法の真実義なのである。つまり、道元は、「月」を説示しながら、背後には常に”都機”(仏法のすべてのはたらき)を詩的ひらめきを駆使して説いたのである。(369頁)

 

 道元は、まず五家を中心とした中国宋朝禅を、「密語」「無情説法」「仏教」「見仏」などの巻において徹底的に批判し、次に儒教・仏教・道教の三教一致説を「仏経」「諸法実相」などの巻において舌鋒鋭く否定して、自らが如浄より受け嗣いだ仏法の正統性を論理的に説き明かしたうえで、その全一性と純粋性を強調した。
 「仏道」の巻において、諸仏諸師の中に「禅宗」という宗派を唱えたものはないとして、禅宗という呼称を、また、「曹洞宗」という呼称についても、歴史的事実に照らして誤りであることを指摘し、徹底的に否定した。
 臨済、曹洞をはじめ、五家の宗名を立てることを徹底して道元が嫌った裏には、旧日本達磨宗の弟子たちが、臨済宗大慧派を中心とする禅風の弊害に陥る危険性を憂える気持ちが多分にあったからにほかならない。五家分派以前の古風禅を参究し、五家の宗派を超えた、これこそ道元が生涯をかけて主導した仏法であった。(408~409頁)

 

 それでは、山に帰ってきた感慨を言葉で、どのように表現したらよいであろうか。次のように言おう。
 私が山を離れての半年ばかり、鎌倉という俗世間にいた心境は、
 まるで孤独な月が虚空にかかるようであった。
 しかし、今日、山に帰ると、諸君ばかりでなく、
 山川草木すべて雲までが喜んでいて、
 私の山を愛する気持ちは、昨年、山を出たときよりもさらに深いものがある」
 道元はこの上堂で、自分の仏法は「明得・説得・信得・行得」、つまり、道元自身が、確実に明らかにさとり、充分に説明することができ、明らかに疑いもなく信じることを身につけ、さらにそれをきちんと行じてきた、それが"わが仏法"だと明言した。(463頁)

 
 
 

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NPO法人〈源氏物語電子資料館〉広報室より

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