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2016年12月 5日 (月)

読書雑記(184)上野誠『天平グレート、ジャーニー』

 『天平グレート、ジャーニー 遣唐使・平群広成の数奇な冒険』(上野誠、講談社、2012年9月)を読みました。


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 本書については、著者自らが扉裏で次のように記しています。


 期せずして運命の人となり、世界史上稀有の旅行者となった遣唐使判官・平群朝臣広成(生年不明—七五三)—本書はその広成と正倉院宝物、全銭香との奇縁を語る物語である。物語を通じ、万葉びとの思惟の一斑を、かすかながらにでも、感じ取ってもらえたならば—浅学の筆者これを無上の喜びとする。(12頁)

 また、目次の末尾には次の『続日本紀』の記述を掲載し、本作品の典拠資料として提示しています。


十一月辛卯、平群朝臣広成等拝朝。初広成、天平五年、随大使多治比真人広成入唐。六年十月、事畢却帰。四船同発、従蘇州入海。悪風忽起、彼此相失。広成之船一百一十五人、漂着崑崙国。有賊兵来囲、遂被拘執。船人、或被殺、或迸散。自余九十余人、著瘴死亡。広成等四人、僅免死、得見崑崙王。仍給升粮、安置悪処。至七年、有唐国欽州熟崑崙到彼。便被偸載出来、既帰唐国。逢本朝学生阿倍仲満、便奏、得入朝、請取渤海路帰朝。天子許之、給船粮発遣。十年三月、従登州入海。五月、到渤海界。適遇其王大欽茂差使欲聘我朝。即時同発。及渡沸海、渤海一船、遇浪傾覆。大使胥要徳等卅人沒死。広成等、率遺衆、到著出羽国。(『続日本紀』天平十一年条)(10頁)

 さて本書では、天平5年(733)に派遣された遣唐使にまつわる話が、おもしろおかしく展開します。阿倍仲麻呂を初めとして、吉備真備、山上憶良、玄宗皇帝等々、多彩な人物が登場します。
 登場人物と出来事が、非常に具体的でわかりやすく語られており、しばし作者の知識と想像力の豊かさに身を委ねました。

 大使(一等官)は多治比広成、判官(三等官)に平群広成が選ばれたのです。
 平群の先生である山上憶良は、この時は74歳。唐のことをいろいろと語ります。『遊仙窟』という書物は憶良が唐から持ち帰ったものだといいます。

 艱難辛苦の末に、遣唐使たちは長安にたどり着きました。それまでの逸話が、見るもの聞くものすべてが興味津々の中で語られます。日常生活から中国での風物まで、読者も一緒に見てきたような気分にさせられます。

 後半で平群広成たちは、中国・満州・朝鮮を経て、山形県の吹浦にたどり着きます。渡唐以来、足掛け7年の旅でした。
 読み終えて、大黒屋光太夫のロシア迷走とダブりました。「井上靖卒読(200)『おろしや国酔夢譚』」(2015年06月11日)
 共に、忍耐と叡智の戦いです。

 作中、井真成の存在が新鮮です。書籍を集めまくっていた男として。
 大阪の藤井寺へ行った時に、この男の詳細を知りました。「西国三十三所(17)藤井寺」(2010/10/18)にも記したように、もっと知りたい人物です。本作では点描に留まっていたので、少し残念でした。資料が少ないので、自由に描けなかったのかもしれません。

 本作品では、遣唐使の歴史的な背景と、中国の様子がわかりやすく語られています。しかし、登場人物たちの行動はどことなくぎこちないのです。作られた話という感触が拭えません。あらすじを聞いている感じが、最後まで残りました。

 後半に出てくる、林邑国の香木の全銭香の話は、興味をかき立てられました。
 沈香の中でも、蘭奢待に並ぶ名香です。このお香の話も、もっと語ってほしいところでした。

 ないものねだりをもう少し。

 私が20年にわたって子育てをした大和平群の地について、あまり詳しくは語られていません。
 思いつくままに引きます。
 まずは、唐へ出発する前に。


 憶良の宅を辞去した平群は、二ヵ月ぶりに故郷の平群の里に帰った。氏の名も、里の名も「平群」。われらは祖先の時代から、この地で暮らしてきたのだ。平城京の西南。生駒の山から南に続く谷が、平群の里だ。遣唐使判官となった広成を見ると、里の人びとはすぐに脆き、手を合わせた。しかし、広成は母のもとへと道を急いだ。母は遣唐使となったことを、はたしてどう思っているのだろう。
「帰りました。帰りました」
「おお広成よ。よく帰った」
「こたびは、遣唐使となりました」
「それで、どこに旅立つというのか」
「唐でございます」
「ほう、遣唐使とは唐に行くのか。そこは筑紫より西か東か」
「西です」
「ほーう、それよりまだ西があるのか」
「まだ、遠いです」
「そんなところで、大和の言葉は通じるのか」
「通じません」
「ならば、困ろう。だったら、行かぬがよい。ここに居れ」
「私は望んで望んで、判官にしてもらいました。ゆえに、そうはまいりません」
「いつ帰るのか」
「一年か二年はかかると思います」
「そんなに遠いのか。唐へは、馬で行くのか、船で行くのか」
「船でございます」
 これが、広成とその母との別れの言葉となった。(42~43頁)

 次に、唐から帰ってから。


「食事はお口に合いましたか、平群の鹿肉を、平群の"ひしお"(味噌)をつけて焼いてお出しせよと申しつけておきましたが、いかがでしたか」
「久しぶりに、食べました。故郷の味でございます。ありがたく、ありがたく」(369頁)
 
 謁見の翌早朝、平群の里にゆくと、母は元気だった。母には、けっきょく、唐の美味い焼き菓子の話だけをして帰った。それ以外の話は、今後もいっさいしないと心に決めて帰ってきた。母は、あの雛くちゃの笑顔で、ただ笑ってさえいてくれればよいのだ。何も、知る必要などない。何も、教えたくない。母と会って、平城京に戻る帰り道に、こんなことを考えた。(373頁)

 平群の里に長年住まいした者として、その山なみと村里の小道を描いてほしいと思いました。山川草木が季節ごとに風物を語りかけてくれる里です。
 次のヤマトタケルの歌が紹介されていないのも、物足りなく思ったところです。


大和は国のまほろばたたなづく青垣山隠れる大和しうるはし
 
命のまたけむ人はたたみこも平群の山のくまかしが葉をうずに挿せその子

 つい無理な注文を書きました。
 とにかく、スケールの大きな作品です。
 東アジアにおける日本というものを考えるのに、いい機会となりました。【3】
 
 
 

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NPO法人〈源氏物語電子資料館〉広報室より

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