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2015年11月25日 (水)

読書雑記(147)角田光代『マザコン』

 角田光代『マザコン』(集英社文庫、2010.11)を読みました。


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 母と娘、母と息子、夫と妻などなど、さまざまな組み合わせで、家族や人間関係が語られます。
 特に、母の存在が多角的に描かれます。

 実は、私にはこの一連の作品が消化不良のままです。母と娘の関係が、感覚としてよくわからないのです。
 各作品の題名と内容も、うまく結びつきませんでした。

 本書は、いつかもう一度読むことになりそうです。

■「空を蹴る」

 非常に小気味よく、歯切れのいい文章です。しかし、その割には男の実体が描けていません。話も作り事すぎていて、あれっと思いました。初めて読む作家の作品なので、慣れない作風に戸惑ったからでしょうか。【1】
 
初出誌:『すばる』2004年1月号
 
 
■「雨をわたる」

 親子の関係が希薄な話です。娘の一人語りです。母親が無機質です。文章がだらだらし出しました。娘から見た母は、こんなものなのでしょうか。どこに焦点があるのか、あえてないことにしているのか、私にはまだよくわかりません。【1】
 
初出誌:『すばる』2004年10月号
 
 
■「鳥を運ぶ」

 母が飼っていた六羽のセキセイインコを、入院したことにより移動させる話です。インコを見る目が、なかなか楽しい描写となっています。わが家でも、40年以上にわたって何匹ものインコを代々かわいがってきたので、飼い主の気持ちがよくわかります。外出するのも大変なのです。それにしても、娘を中心とした人間関係が、何となくぎくしゃくしたままです。離婚の話が中途半端です。【2】
 
初出誌:『すばる』2005年1月号
 
 
■「パセリと温泉」

 娘から見た優柔不断な父親の姿が、さもありなんという雰囲気で描かれています。母親が、それに荷担します。
 その母親が胃癌で入院し、幻想からいろいろなことを言います。それに振り回される娘が活写されます。最後に母を見舞いにきた父を見たとたん、娘のものの見方が変わり出します。この話は、私にもわかりました。【4】
 
初出誌:『すばる』2005年9月号
 
 

■「マザコン」

 何事も言葉で説明しようとする男。思いつくままに言葉を連射する女。そんな構図で物語が構成されています。
 私が本書に馴染めないのは、感覚的な女と、観念的な男の対比が、終始気になって仕方がないからではないか、と思うようになりました。【1】
 
初出誌:『すばる』2006年1月号
 
 

■「ふたり暮らし」

 女性が買い物をする楽しさを描きます。「男の人にはわかんないだろうなあ」としながら。ケーキに下着に食料品。
 娘から見た母親がリアルに活写されています。あまり好意的な視点では描かれてはいません。
 母は娘たちを自分だと思っている、というのです。そして、私も自分を母だと思い込んでいると。同性に対する気安さが、その語り口に現れています。【3】
 
初出誌:『すばる』2006年7月号
 
 
■「クライ、ベイビイ、クライ」

 妻と母を相手に、それぞれに自分の気持ちを説明する口調が気になりました。
 自己弁護に終始する男の姿は、あまり感じのいいものではありません。
 本書の最初は歯切れのいい表現でした。それが、次第にだらだらと言葉が続くようになり、物語の内容も痩せてきました。【1】
 
初出誌:『すばる』2006年10月号
 
 
■「初恋ツアー」

 母の初恋ツアーに付き合う息子夫婦の話です。母を見つめる2人の優しさが、ごく自然に描かれています。登場人物のやりとりの軽さがいいと思いました。文章が平板なのが、まだ気になります。【3】
 
初出誌:『すばる』2007年1月号
 
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 収録作を読み終わり、手応えのないのが正直な感想です。しかし、ここに取り上げられている母親というものが、どうも気になります。今の私にはわからないものが、この中にありそうだからです。
 いつかまた、本書を取り出して再読するような予感がします。

 そして今、本作の作者が『池澤夏樹=個人編集 日本文学全集 全30巻』で『源氏物語』の現代語訳を担当されていることに想いを馳せています。
 池澤版文学全集の第3期(2017年5月~2018年3月)に、角田光代氏の訳による『源氏物語』(上・中・下)が刊行される予定となっているからです。
 与謝野晶子、円地文子、瀬戸内寂聴、田辺聖子、中井和子、尾崎左永子、大塚ひかり、林真理子、荻原規子などとは異なる、新しい女性の視点からの新訳『源氏物語』が生まれるかも知れません。
 現在、現代語訳に取り組んでおられるところのようです。その刊行を、楽しみに待ちたいと思います。
 
 
 

2015年11月18日 (水)

読書雑記(146)山本兼一『白鷹伝 戦国秘録』

 『白鷹伝 戦国秘録』は、山本兼一の長編小説におけるデビュー作品です。


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 浅井家の鷹匠だった小林家次は、小谷落城と共に天下一の鷹匠として、長政、信長、秀吉に目をかけられます。その後、家康にも。

 その家次が白鷹「からくつわ」を何とか捕まえました。
 鷹狩りの様子は、図解入りでよくわかります。

 鷹の訓練について、詳細に語られます。その合間合間に、鷹好きの信長や秀吉の動向がオムニバス形式で展開します。

 とにかく、しっかりとした筆致で、丁寧に描かれていくために、知らなかったことが手に取るようにわかってきます。わかった気にさせられます。

 家次は、信長から天下一の鷹師として家鷹という名前をもらいます。
 その直後の、お市の方との邂逅の場面がみごとです。

 信長が東大寺正倉院にある勅封の香木「蘭奢待」を切り取るくだりは、実に生き生きと描かれています。茶人山本兼一の面目躍如たるところです。

 満月の下、相国寺での韃靼人メルゲンの相撲、回想、襲撃の場面、利休が助けて狩野永徳の絵のある大徳寺で養生させられます。作者の筆が生きています。

 家鷹は、師である禰津松鷗軒から何度も諭された「水になったつもりで堪忍して生きよ。」という言葉を心にしまっていました。我慢を信条にしているのです。

 本作で女性は、お市の方にスポットライトが数回当たるだけです。鷹匠の生き様が丹念に、克明に語られています。鷹に魅せられた男の、職人としての一途な姿が語られています。
 信長、秀吉、家康は、あくまでも時間の流れの背景にしか過ぎません。【5】
 
 
書誌:単行本『白鷹伝 戦国秘録』(平成14年4月、祥伝社)
   文庫本『白鷹伝 戦国秘録』(平成19年4月、祥伝社文庫)
 
 
 

2015年11月17日 (火)

読書雑記(145)船戸与一『風の払暁 満州国演義 1』

 いつか読もうと思いながら、全9巻ということでなかなか手がつけられなかった大作です。
 今夏、文庫本として刊行が開始されたのを機会に、少しずつ読み始めました。


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 開巻早々、荒っぽい描写です。
 プロローグに出てくる慶応四年の会津女は、この物語の中でどうつながっていくのでしょうか。第一巻を読み終わっても、まだわかりません。

 期待を持って、第一章、昭和三年の満州における敷島次郎の話を読み進めました。
 次郎は大陸浪人で、馬賊とでもいうべき青龍同盟の頭領です。無頼派なのです。

 今の日本人からは想像もできないほどの、スケールの大きな日本男児が、大陸の原野で大活躍します。
 それでいて、描写は繊細です。
 私は、月光が効果的に使われる場面が、絵のようにきれいなので気に入りました。
 荒々しさと静寂のブレンドがいいのです。

 大学生の四男敷島四郎は、演劇を通して知った左翼思想に傾斜しています。特高とのやりとりが見物です。

 長兄で東大出の太郎は外務省からロンドン大使館の参事官を経て、今は奉天の総領事館にいる官僚です。
 三男の三郎は、陸軍士官学校出で関東軍に配属され、奉天独立守備隊員となります。

 この四兄弟の個性的な動向とドラマチックな展開が、日本と満州を舞台として軽快に切り替わりながら語られていきます。
 息もつかせぬ物語で、本を手から話す暇が見つけられなくて困ります。

 張作霖爆殺事件が詳細に語られます。
 今の北朝鮮に接する延吉や吉林、そして長春に物語の舞台が移ると、数年前に行った地だけに語られている背景が具体的に思い描けます。
 そして、これらの地を両親が戦時中に歩いていたのですから、なおさら親近感を持って読み進めました。
 両親が満州にいた時のことは、「【復元】母子の絆の不可思議さ」(2010/4/29)と、「亡父の代わりに日本人墓地跡へ」(2010/1/17)に書いた通りです。

 今、第一巻を閉じました。
 物語の幕間に、大急ぎでこれを書いています。

 作者が次のように言っているのを見かけました。


従来の満州を語る姿勢を分類すると、ひとつは、ロマン説。新しい国家というのをまっさらに作り上げることの魅力だね。もうひとつは、侵略説。この二つの溝はとても埋められるようなものじゃない。どういうふうに満州国が出来上がっていったのかを語ること以外に解答はないんだ。ロマン説であろうが侵略説であろうが、意義を語るだけでは何の解決にもならないので、具体的な内実を語ることが必要だと思った。だから、断片的な事例や論を語るのではなく、これで満州の全てが丸ごと分かるような作品を書きたかった。(『波』2007.5「[船戸与一『満州国演義』刊行記念]だれも書いたことのない満州を」より)

 次の幕開けが楽しみです。
 書架にある第二巻に手を伸ばし、これからブックカバーを掛けることにします。
 このシリーズ全9巻は、2015年4月22日に亡くなった船戸与一の遺作です。【5】

2007年4月、新潮社刊
2015年8月、新潮文庫
 
 
 

2015年9月28日 (月)

読書雑記(144)片桐洋一『平安文学の本文は動く』

 『平安文学の本文は動く ─写本の書誌学序説─』(片桐洋一、和泉選書178、2015.6、和泉書院)を読みました。本書は、170頁ほどのコンパクトな本です。しかし、私は2度も読み直しをしました。古典が好きな方はもとより、異本と異文の発生について、そして写本と印刷本の違いに興味がある方に、広くお薦めできる本です。


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 とにかく、丁寧に、優しく、わかりやすさをモットーにして語られています。
 出版社の広報誌である『いずみ通信 no.41』(2015-7)に、著者は次の文章を寄せておられます。


拙著『平安文学の本文は動く─写本の書誌学序説─』(本誌47頁)に書いたように、少々の変化はあっても、我々日本人が、およそ千年余もの間、変らない言葉で読める古典を持ち続けていたというのは、まさに奇跡というほかない。この奇跡を子孫に伝えることが、我々の責務であるという気持で、古典を読み解き、古典を教えている自分の人生は、やはりすばらしかった、楽しかったと、あらためて思うのである。

 この、次世代に古典のすばらしさを伝え残したいという思いと、そこに書かれている本文は一様ではない、ということを熱っぽく語っておられるのです。

 本書が一般の読者を意識したものであることは、次の例からもわかります。


 古典文学研究者でも地道に伝本研究をしている人しか興味を感じないようなデータを並べてしまったが、一般の読者でも、俊成の若き日の書写にかかる御家切の本文が、俊成が四十八歳で書写した永暦二年本よりも、七十入歳のときに書写した建久二年本に一致する場合が多いことに気づいていただけると思う。つまり永暦本と建久本の本文の違いは、年とともにデータや解釈が変わって行ったというような違いではなく、その時々において崇徳院御本を採るか、基俊本を採るかという判断によって出来上がったものであることが知られるのである。(92頁)

 本書では、『古今和歌集』や『伊勢物語』を例にして、その写本のありようと、そこに書写されている本文を丹念に見つめます。本文の系統や本文異同はもとより、注記や奥書にも目を配りながら、書写伝流してきた古典文学の実態が炙り出されます。

 書誌学と享受史に対する著者の考察過程が、論文ではなくて物語として記されているのです。
 これを2度目に通読した時には、『源氏物語』の場合に置き換えながら楽しく読み進みました。

 古典籍を愛おしむように語っています。あたかも原典が現前するかのように説明がなされていきます。長年の研究という下地から生まれる、本文が書かれ、そして読まれてきた歴史の解き語りです。
 古典文学の本文が成立する過程を、このように解説されると、一般の方も日本の古典文学が生まれ育った実態が感得できます。

 紹介される例や用語は専門的です。
 また、研究史が筆者の中で消化された上で語られていくので、これまでの成果や到達点が門外漢には見えません。
 しかし、そこは、筆者の語り口に身を委ねていけばいいのです。

 本書の副題にある「写本の書誌学序説」の意図は、みごとに達成された一書だと言えます。

 この本を手にし書名を見ると、何やら堅苦しそうです。しかし、読み進めると古典に親近感を抱くようになる、魅力溢れる一書となっています。
 多くの方に紹介できる、読みやすい、わかりやすい入門書ができたのです。

 特に私は、「Ⅲ 藤原定家の古典書写」の章は、説明が具体的で丁寧なので、非常にわかりやすいと思いました。

 本書を読み進む中で、私が印をつけた箇所を抜き出しておきます。


・「読者の思い入れによる書き込みが本文かしたのではなかったかと思うのである。(中略)
 そのような書き込みを排除しようとする読者もいたということを示している。」(32頁)
 
・「とにかくわたくしがここで言いたいことは、享受者すなわち読者が、制作者すなわち作者の立場に立って本文を補い、作品世界をさらに拡大深化させようとすることが平安時代にはそれほど珍しいことではなかったということであるが、これも媒体が写本であったということと深くかかわっていると思われるのである。」(47頁)
 
・「『伊勢物語』における章段末尾の書き加えの場合になると、成立階段というべきか享受階段と言うべきか迷うのである。つまり書き加えられた部分をも、その時点において完成した作品の文章と見るか、書き加えられた部分は不純な本文で余分のものであると見るかによって、作品成立の過程と見るか、一つの享受の反映と見るか、判断が異なってくるからである。要するに、写本時代においては、写本における本文の異同を成立段階のものと見るか、享受段階のものと見るかは決定し難いということだが、それでも、前章で述べた冷泉家時雨亭文庫所蔵の唐草装飾本『素性集』の詞書や、元永本『古今集』の詞書に見られる本文異同の場合は、作品の成立の過程というよりもある読者の享受の反映という感じが強いことも確かである。」(48頁)
 
・「結論的に言えば、平安時代には作品が生きていた、生きていたから動いたのであり、動いていたから本文の異同が多かったと考えられるのである。作者が改訂版として新写本を書いても、既に広まっている旧写本を廃棄できない。新写本と旧写本、この両者の本文の違いが異本を作るのであるが、読者の方も、興に乗れば、第二、第三の作者と成り代わって筆を加えてゆくのである。そして、享受による異本が生まれるのである。
 しかし、古典籍が研究対象になって、研究者による本文研究が進んでくると、研究者はその作品の原初的な本文を復原しようとする。そして、それが唯一無二の「原本」であると思い込む。原本は唯一で、それが時代とともに書写されてゆくうちに、誤写や意改が生じ、いわゆる末流の本文になってゆく……というのが、かつての本文研究の基盤にあった認識である。しかし、それでは、前述したような、平安時代や鎌倉時代書写の本が残っている作品ほど本文異同が多いという現象を説明できないのではないか。
 作者自身が改訂本や増訂本を書くと、もはや原本は一つではない。あちらこちらで新しい享受本文ができてしまえば、どうなるのか。現在残っている写本は、まさに氷山の一角である。すぐれた作品であればあるほど、あちらこちらで享受本文が作られるために、異本が多くなるのである。異本異文は文学作品を楽しむ心から生まれた。写本時代の、生きた文学研究・本文研究を目指せば、異本異文の研究の持つ楽しみを追体験する姿勢を深めなければならぬと思うのであるが、如何であろうか。」(56~57頁)
 
・「定家本などの通行本は、それらの問題歌を削除した、整えられた本文になり切っていたのではないかと思ったのである。」(141頁)
 
・「池田亀鑑博士の『古典の批判的処置に関する研究』に代表される従来の伝本研究、本文研究の方法では及び得ない本文の世界がそこにあると思わざるを得なかった。諸本を比較検討して不純な本文を削除して行くことによって、純粋な原本にたどり着くという池田博士の「本文研究」の方法だけでは永遠に『後撰集』の本文の実態を解明できないのではないかと思われるに到ったのである。」(141~142頁)

 古典の原本は1つだけではない、という物の見方は、終始一貫しています。
 大いに学ぶべき、心に刻み込んでおくべきことばです。

 最後に、本書の目次をあげます。
 この見出しに目を通すだけで、さまざまな刺激が問題意識を呼び覚ましてくれます。


    Ⅰ 享受本文の生成
 一、我々は藤原定家校訂本を読んでいる
 二、『更級日記』の場合
 三、文学作品はオーダーメードで一点だけ作られる
 四、草稿本と清書本
 五、既発表の巻を改稿して新しい巻を作る―『うつほ物語』の場合―
 六、後人による補筆
 七、読者の書き込みと書き込み排除
 八、享受本文の成立
 九、成立と享受の連続性
 十、成立段階の本文生成と享受段階の本文生成

    Ⅱ 研究本文の生成―『古今和歌集』を例として―
 一、伝承から実証へ
 二、写本の中に情報を詰め込む―清輔本の方法―
 三、俊成の『古今和歌集』本文―清輔との違い―
 四、俊成本『古今和歌集』の諸相

    III 藤原定家の古典書写
 一、藤原定家の『古今和歌集』書写
 二、嘉禄二年本『古今和歌集』の擦り消し訂正
 三、初期の定家本『古今和歌集』を見る―建保五年本―
 四、たくさんあった定家手沢本私家集
 五、「村雲切」から『定家本貫之集』へ
 六、伝西行筆『一条摂政御集』をめぐって

まとめ 平安時代における本文の享受と成立


 
 
 

2015年9月11日 (金)

読書雑記(143)【復元】『坂の上の雲』ところどころ(その2)

 昨日の続きです。
 現在取り組んでいるテーマと関連する情報で、過去にサーバーがクラッシュした際、僅かに残ったファイルの残骸の中から見つかったものを復元しておきます。
 後日の参考情報となるように、いつでもアクセスできる状態にしての復元です。
 昨日と今日の2回にわけてのアップです。
 ここで、英国・韓国・インド・ポーランドを取り上げているのは、私が行った国の中でも、いろいろと話題にしたいことが多い国だからです。
 文中に2枚の写真を引用しています。これは、その後、『日本文学研究ジャーナル 第1号』(伊井春樹編、国文学研究資料館、145頁、2007年3月)に掲載しました。末松謙澄を紹介する写真として、関係者である玉江彦太郎氏(著書『若き日の末松謙澄-在英通信』海鳥社、1992年1月)及び土居善胤氏より掲載にあたっての了解をいただいたものです。
 
(※以下の記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
2006年6月12日公開分
 
副題「末松謙澄と韓国とインドとポーランド」
 
 『坂の上の雲』を読みながら気になってチェックしたところを、自分のための備忘録として記しておきます。これだけの長編を再読することは、もうないだろうと思われるからです。

◆末松謙澄に関すること
 まず、第3次伊藤博文内閣(明治31(1898)年)の頃のことです。


小村は芝公園にある末松謙澄の私邸に伊藤博文をたずねた。伊藤はこの時期、首相官邸に入るまでのあいだ、この女婿の邸に仮寓していたのである。(2巻279頁)

 末松謙澄は若い頃に、英国へは一等書記官として赴任し、同時にケンブリッジ大学で勉強していました。そして、『源氏物語』の英訳をします。『源氏物語』が初めて外国語に翻訳されたことになります。もちろん、『源氏物語』にあまり興味のなかった司馬氏は、このことには深く立ち入りません。

 この間の経緯については、『破天荒〈明治留学生〉列伝 大英帝国に学んだ人々』(小山騰、選書メチエ、1999年)などが参考になります。時代背景と、日本人の動きが活写されています。
 小山氏は、ケンブリッジ大学へ行くたびに、いつもお世話になる方です。明治期の日本人の動きを、よく調べておられます。お話を伺うたびに、その無限の探求心に学ぶことの多い図書館司書の先達です。

 英国での末松謙澄の様子がわかる写真を紹介しましょう。これは、西日本シティ銀行のホームページ(http://www.ncbank.co.jp/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/kitakyushu/009/01.html)より引きました。


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 この末松謙澄の写真のキャプションには、次のように記されています。
「英国公使館の庭で(明治11年4月〜12年6月の間)。上野景範公使(前列中央)。富田鉄之助(後の日銀総裁、前列右端)末松謙澄(後列右端)。」

 『坂の上の雲』に戻ります。
 次は、奉天会戦のときのことです。外交官としての末松謙澄が出て来ます。
 引用が長く、たま改行箇所が煩わしいのですが、一応書かれているままに引いておきます。


 日本は、外相小村寿太郎を指揮者としてうごいている正規の外交機関のほかに、元老の伊藤博文の手もとから派遣した陰の舞台演出家ももっていた。
 米国へは金子堅太郎がゆき、英国へは末松謙澄が行っていた。(中略)この金子堅太郎の派遣と活動は成功した。
 ただし、英国へ行った末松謙澄の場合は、成功といえるような結果はえられなかったといっていい。
 末松は、幕末における長州藩の革命史である「防長回天史」の著者として知られている。
 明治型のはばのひろい教養人で、文学博士と法学博士のふたつの学位をもっている。かれは「源氏物語」を英訳してはじめて日本の古典文学を海外に紹介したことでも知られ、さらには新聞記者時代に多くの名文章を書き、つづいて官界に転じ、伊藤博文に見こまれてその娘むこになり、つづいて衆議院に出、のち逓信大臣や内務大臣にも任じたといういわば一筋縄ではとらえがたい生涯をもっているが、外交をやる上での最大の欠点はその容姿が貧相すぎることであった。
 さらにはこの小男が説くところが誇大すぎるという印象を英国の指導層や大衆にあたえた。末松は、
「昇る旭日」
といったほうの日本宣伝をぶってまわった。不幸なことに英国人は日本が「昇る旭日」のごとく成長することを好まなかった。末松はその講演速記を本にして刊行した。無邪気で楽天的な明治男子の文章であり、元来、日本国家が末松が説くほど栄光にみちた過去をもち、またいかに将来への希望にみちた国であろうとも、英国人には関係のないことであった。英国人はかれの無邪気さを冷笑し、ほとんど黙殺した。
 英国担当の末松謙澄は、米国担当の金子堅太郎とはちがい、政府そのものにはたらきかける必要はなかった。(7巻202頁)
 
・末松謙澄が、いかに「源氏物語」からローマ法にいたるまでのひろい教養のもちぬしであったとはいえ、かれが「昇る旭日」式のお国自慢をかかげて英国の社交界を駆けまわったことは、こういう英国人の気分のなかでは滑稽以外の何者でもなかった。(7巻205頁)

 末松謙澄の容貌のことに言及されているので、参考までに、ウエブ上の「行橋市ホームページ」(http://www.city.yukuhashi.fukuoka.jp/areamap/u1/suematsu/top.htm)にあった末松謙澄の写真を紹介します。


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 この記事にある写真などを転載する際の手続きがどうなっているのか、どなたか教えてください。出典明示だけでいいのでしょうか。

 なお、司馬遼太郎氏は、この末松謙澄という男にはあまり魅力を感じなかったようです。紹介程度に留まっているのが、私としては残念です。『坂の上の雲』では重要な人物ではないのかもしれませんが、日露戦争と英国との関係でもう少し触れてもよかったのでは、と思うのですが……。
 今は、テーマがズレるから、ということにしておきましょう。
 
◆日本と韓国について
 これは、司馬氏の『街道をゆく 2 韓のくに紀行』と共に取り上げたいことですが、今は『坂の上の雲』に書かれた範囲でのことばを引くに留めておきます。


・日本人の猿まねについては、最初にはげしく軽蔑したのはヨーロッパでなく、隣国の韓国であった。(後略)(1巻263頁)
 
・ここで数行のべねばはらないが、朝鮮は日本の植民地ではない。(後略)(3巻67頁)

 
◆インドのこと
 司馬氏のインドに対する視点は、再評価すべきもののように思われます。これも、今は引用だけにしておきます。


・筆者は太平洋戦争の開戦へいたる日本の政治的指導層の愚劣さをいささかでもゆるす気になれないのだが、それにしても東京裁判においてインド代表の判事パル氏がいったように、アメリカ人があそこまで日本を締めあげ、窮地においこんでしまえば、武器なき小国といえども起ちあがったであろうといった言葉は、歴史に対するふかい英智と洞察力がこめられているとおもっている。アメリカのこの時期のむごさは(後略)(3巻179頁)

・ヨーロッパの場合、(中略)人間を無能と有能に色濃くわけてその価値をきめるという考え方に馴れていた。そうでない極端な社会の例が、インドであろう。インドとその文明には人間をそのようにして分類するという考え方にが、まったくといっていいほど欠落していた。(4巻185頁)


 
◆ポーランドのこと
 私の身近なところでは、4人のポーランドからの留学生が仕事を手伝ってくれています。日本とポーランドの間には、かつてこのようなつながりがあったことを、恥ずかしながら初めて知ったので、ここに書き留めておきます。


・ポーランドの農民がどんどん徴兵されて豚のように貨車にほうりこまれ、そのままシベリア鉄道で送られつつあるという。
「開戦当初、クロパトキン将軍の指揮刀の下で銃をとらされている兵士の一五パーセントはロシア人じゃない、ポーランド人だ」(中略)「その後、徴兵はどんどん進んで、いまは三〇パーセントまでがポーランド人である」と、いった。
「憎むべきロシアのためにポーランド人が戦場で忠誠をつくさねばならぬというバカなことがあるであろうか。さらにはなんの怨恨もない日本兵をポーランド人が殺さねばならぬ理由も義務もない。あるいはまた、われわれが友愛の対象として感じている日本兵の銃剣によって可憐なポーランド人の若者が殺されている。このようなことがあってよいであろうか。(6巻169頁)

 なお、『坂の上の雲』の詳細なあらすじが、以下のウエブサイトに掲載されています。お急ぎの方は、これを読まれてもいいかもしれません。

http://www9.ocn.ne.jp/~smatsu/J/2miraikousou/report/01sakanoue/01.htm

 私も少し読みましたが、よく内容を拾っているようです。これは、松下産業の社長さんの読書日記とでもいうものです。ここでの「総括」は、いつかじっくりと読もうと思っています。
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 

2015年9月10日 (木)

読書雑記(142)【復元】『坂の上の雲』における『源氏物語』(その1)

 現在取り組んでいるテーマと関連する情報が、過去にサーバーがクラッシュした際、僅かに残ったファイルの残骸の中にありました。
 9年以上も前の記事です。しかし、そこに盛り込まれた内容が後日の参考情報となるので、いつでもアクセスできるように復元しておきます。
 今日と明日の2回にわけての復元掲載となります。
 
(※以下の記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
2006年5月31日公開分
 
副題「司馬氏は『源氏物語』に興味がなかった?」
 
 司馬遼太郎の『坂の上の雲』(文庫8冊)には、明治時代を生きた男たちのロマンが語られています。今の日本においては、人々が非常に恵まれた環境にあるので、若者がこのように自分の国のことを考えたりする必要のない時代だと言えます。しかし百年前には、自分以外のことに一生懸命になれる若者たちがいたのです。その延長上に今があるのですが、その明治という時代が、私には魅力的に思われます。それは、自分が今の満ち足りた時代に疑問をもっているからでしょうか。

 過日、『坂の上の雲』を読んだ後に、それをまとめる機会を逸していたので、今ここに書いておきます。

 『坂の上の雲』という物語は、日露戦争を背景にした壮大なドラマが丁寧に描き出されているのを、ゆったりと、ある時は展開が待ち遠しい思いで読み進めることができました。その中から、数少ないのですが『源氏物語』に関する記述を抜き出しておきます。『源氏物語』を初めて英語に翻訳した末松謙澄という人に関連する箇所については、また後日にします。

 『坂の上の雲』で、末松謙澄に関連して『源氏物語』に触れている一箇所以外では、次の例が唯一のものです。それは、正岡子規が夏目漱石に写生のことを語るくだりです。


 子規の頭は、真之のことから源氏物語へ一転した。須磨保養院にいたころから「源氏」をふたたび読みはじめていた。須磨のころは場所がら須磨明石の巻をよみ、ちかごろはべつな巻をよんでいる。
 「おどろかされるのは、源氏の写生力じゃ。ちかごろ文壇では写実派などととなえだしているが、その写実の上でもいまの小説は源氏にはるかに劣っている」
と、子規はくびすじを赤くしながら言いはじめた。(略)
 読みさして月が出るなり須磨の巻
という句稿を、漱石にみせた。(中略)
 大和路をあるき、法隆寺まできて茶店に憩うたとき、田園に夕のもやがただよっていかにも寂しげであった。
 柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺
という句は、このとき心にうかぶままを句帳にとどめたものである。(2巻198頁)

 司馬氏は、子規が『源氏物語』を読んでいたことに触れて、「須磨」巻に関して言及しています。そして、『源氏物語』の写実性を高く評価しています。ただし、『源氏物語』に関してはこの一例だけです。ということは、司馬氏にとっては、『源氏物語』はあまり興味がなかったということでしょうか。もちろん、この『坂の上の雲』のテーマと『源氏物語』は直結しないので、当たり前といえばそうですが。

 司馬氏のこれ以外の作品での『源氏物語』の言及に気を配れば、その注目度についてわかるかもしれません。それがわかってどうなんだ、といわれればそれまでですが。
 『源氏物語』がどう読まれてきたのか、ということに興味のある私にとっては、これも調べてみたいことの一つではあります。
 また後日、わかったことを備忘録として記すことになるかと思います。
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 

2015年8月24日 (月)

読書雑記(141)内田康夫『孤道』の新聞連載中断のこと

 今日(平成27年8月24日(月))から、毎日新聞(夕刊)の連載小説『津軽双花』(葉室麟)が始まりました。陸奥弘前藩の津軽信枚に嫁いだ2人の姫の物語だということです。

 今日の初回では、2人の姫君の内の1人目として、徳川家康の姪である満天姫が登場しました。
 もう1人の石田三成の娘である辰姫は、明日以降にどのようにして登場するのか楽しみです。

 今後どのような話として展開するのか、いつもの癖で新聞紙面をハサミで切り抜きながら読みました。
 しばらくは切り抜いて行きます。おもしろくなかったら、縁がなかったものとして止めます。


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 葉室麟氏の作品は、これまでに、「読書雑記(135)葉室麟『山月庵茶会記』」(2015年07月04日)を読んだだけです。
 違う作品も読んでみようかと思っていたので、これを機会に、この新聞連載小説で様子をみます。

 今日から連載小説が新たにスタートしたのは、それまで連載されていた内田康夫の『孤道』が、作者の健康上の理由から突然終了したためです。

 先週20日の新聞には、葉室作品が24日からスタートするにあたってのインタビューが掲載されました。

 その中で、「夕刊連載小説「孤道」が内田康夫さんの病気で中断した後を受けて急に登板を願ったため、中編小説となる。」とあります。
 編集者の背後での慌ただしさが想像できます。

 中継ぎ役は、私の得意とするところです。代打、中継ぎ、代走は、仕事を含めてこれまでにも、私のお家芸となっています。
 葉室氏は、それだけに大変やりにくい役目を負われたのですから、その意味からも葉室作品を読んでみようか、と思っています。

 新聞小説は、井上靖や松本清張や筒井康隆がそうであったように、書きながら形を整えることができます。読者からの反応も、作品に反映させる作家もいます。
 新聞社から単行本として刊行することを前提にして書くのですから、その意味では他の小説とは作品の形成過程が異なります。作品が生み出される「今」が垣間見えるので、私は興味のある作家や作品の新聞連載を読むのが大好きです。

 特に、昭和46年から47年の朝日新聞(朝刊)に連載された井上靖の『星と祭』と、昭和48年から49年(夕刊)の松本清張の『火の回路』(後の『火の路』)は、今も思い出深い作品となっています。毎日食い入るようにして読んだものです。
 作者と共に生きた感触は、作品に親しみを持たせてくれます。

 その当時も、毎日毎日、新聞の連載小説を切り抜いていました。しかし、それがいつしか散佚しています。『星と祭』だけは過去の新聞をコピーして、新聞連載当時の作品の文章が刊行された時にどのような手が入って変質したのか、しなかったのかを調べる資料としています。

 最近では、昨年4月から始まった夏目漱石の『こころ』を切り抜いていました。しかし、私が朝日新聞の購読を断念したために、これは全110回分のはずが103回(2015年9月15日)までで打ち止めとなりました。
 新聞購読中断については、「朝日新聞の講読を解約する決断」(2014年09月11日)をご笑覧いただければと思います。
 ゴール直前で、『こころ』の切り抜きは中断となったのです。デジタル版で読めるので新聞連載時の本文の内容はいい、とはいうものの、中断した事情が事情なので、これについては、またあらためて書くつもりです。

 さて、内田康夫の連載小説が毎日新聞に掲載されたのは、2014年12月1日(月曜日、夕刊)からでした。それが、今月8月12日(水曜日)で連載終了となりました。
 またもや、全回分の切り抜きが達成できませんでした。


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 手元の新聞で確認すると、次の記事が急遽終了する告知の最初かと思われます。


小説「孤道」は12日で終了します

   内田康夫さん病気療養のため
 内田康夫さんの小説「孤道」は、作者の病気療養のため連載の途中ではありますが12日をもって終了します。内田さんは7月26日に軽い脳梗塞を起こし、入院治療しています。今後、「孤道」は書き下ろしで単行本にまとめ、毎日新聞出版から刊行する予定です。内田さんは「連載が続けられなくて申し訳ありません。症状は軽いので心配しないでください」と話しています。毎日新聞社(2015年8月5日 夕刊第1面)

 また、翌日の朝刊(第1面)には、「小説「孤道」」が「夕刊小説「孤道」」として、また「今後、」を削除した同じ文章が掲載されました。

 さらに、連載終了時には、次の文章が掲載されました。


小説「孤道」は終了します

 内田康夫さんの小説「孤道」(5面に掲載)は、作者の病気療養のため連載の途中ではありますが今回をもって終了します。読者の皆様におわびします。内田さんは7月26日に軽い脳梗塞を起こし、入院治療しています。今後「孤道」は書き下ろしで単行本にまとめ、毎日新聞出版から刊行する予定です。
 内田さんは「『孤道』は藤原鎌足の謎に迫ろうとする非常に面白い題材なので、ぜひ完成させたいと思います」と話しています。(2015年8月12日 夕刊第1面)

 連載開始にあたっては、次の紹介がなされていました。


名探偵・浅見光彦シリーズが大ヒットしている人気作家です。今夏「浅見光彦最後の事件」と銘打った新刊「遺譜」で文字通り最後の事件を執筆し、話題をさらったばかり。本作は“最後の事件後の初めての事件”となる注目作です。
 熊野古道で観光客に愛される牛馬童子像の頭部が盗まれる事件が発生します。誰が何のために……。不可解な事件と共に壮大な歴史ロマンの幕が開きます。最後の事件後の浅見がどう再登場するのかも見どころの一つ。(毎日新聞 2014年11月17日 夕刊)

 私は、妻が内田作品のすべてを持っていて読破しているので、そのうち、古代史を扱った10冊くらいは読んだでしょうか。『源氏物語』と関係するのでは、と思って、『「紫の女」殺人事件』(73年)、『「須磨明石」殺人事件』(82年)、『斎王の葬列』(84年)なども読みました。いずれも、今その内容を思い出せません。あまり好きな作家ではないので、真剣に読んでいないのかもしれません。
 手元には『壺霊』が読みかけのままに、上巻が京都に、下巻が東京に放置されています。

 今回、この毎日新聞に連載された『孤道』を、毎日切り抜いて読みました。
 しかし、読みながら、おもしろくないと思っていました。いつかおもしろくなるだろう、と期待しながら。というよりも、この話を作者はどうまとめて行くのだろう、と思いながら。
 運良くと言うべきか、204枚目で打ち止めとなりました。
 この時点での評価は記せないので、単行本になった時にまた再読したいと思います。

 あまりのつまらなさに、切り抜きはボケ防止のためのハサミを使った運動だ、と思うことに重点が移っていたように思います。たしかに、毎日せっせと紙を切り抜くのです。横にまっすぐに切るので、そんなに大変ではありませんでした。そのことが、今となっては楽しい思い出です。

 この作品の終了を惜しむ声は、毎日新聞朝刊の「みんなの広場」の「8月13日」「8月20日」「8月24日」に寄せられていることを、記し留めておきます。
 
 
 

2015年8月21日 (金)

読書雑記(140)井上ひさし『國語元年』

 井上ひさしの『國語元年』(2002年4月、中公文庫)を読みました。元はテレビドラマのために書かれた戯曲仕立てです。


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 明治7年に「全国統一話し言葉」の制定・取調に奔走する南郷清之輔の動向が活写されます。
 その南郷邸に奉公で入ったふみは、全国各地の言葉が入り乱れる環境の中で、意味不明のやりとりでさまざまな悲喜劇が巻き起こります。

 この南郷邸では、薩摩、長州、会津、南部、津軽、山形、名古屋、京都、そして江戸と、実に多彩な方言が飛び交います。その意味がわからないなりにも、わかったこととして進みます。
 それを、清之輔は丹念に記録していきます。

 「イ」と「エ」、「シ」と「ヒ」など、発音がお国によって違うことや、「モモ」と言っても瓜、西瓜、柿、アケビ、梨、李なども同じ言葉で呼ぶ地域があることなどが出てきて、話がなかなか通じない様子が語られます。

 「褌」は、おもしろい例です。
 ツイダナ、ハダマキ、シタオビ、シタノモノ、ヘコジャ、ヘコシ、マワシ、フンドス、ケツワリキンカクシ。

 全国統一話し言葉を考える上で、こうしたお国訛りや単語の違いは、もう統制も、制御も不可能です。

 また、政治的な判断も加わります。

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清之輔 ヂャガ、秋田訛りはドガーいたしましょうかノー。
公民 秋田……?
清之輔 ウム。秋田はノータ、奥州でただひとつの官軍でアリマシタヨ。維新の奥州征伐ではホンマにヨー働いた。ヂャガ、明治二年の維新論功行賞では、一枚の毛布すら貰っとらん。気の毒なことヂャ。そこでせめて、全国統一話し言葉に秋田訛りを加えて差し上げて、維新のときの手柄にむくいたいと思ッチョルでアリマスガノー。
公民 秋田訛りはアカシマヘン。
清之輔 わしもべつにそうはこだわっちょりやアせんが……。
公民 秋田訛りは他の奥州訛りとヨー似たところがおます。ソヤサカイ、秋田訛りを仲間に入れるユーのは、会津若松やら仙台やらの賊軍のお国訛りを仲間に入れるのと、同じことになってしまいますのや。
重左衛門 ン、ソイヂャ、ソイヂャ。
清之輔 成程。ウム、秋田訛りは諦めた。
公民 ときどき秋田音頭でも歌ってあげたら、それでエーのとちがいますか。秋田のお人もそれで充分浮ばれますがな。
重左衛門 ハ、ソイヂャ、ソイヂャ!

  ト扇で膝を叩いたのが、公民には「秋田音頭」のお囃子になったらしく、

公民 〽︎コラ、秋田良い所
    美人がギョーサン
    奥州一番ヂャ

重左衛門、合いの手。「ア ソレ ソレ」

公民 〽︎ソヤケド訛りが
    エライ強くて
    誰にもワカラヘン
(後略)
(217〜219頁)
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 こうして、清之輔は『全国統一話し言葉文法』と『全国統一話し言葉語林集成』の完成を目指します。

 『全国統一話し言葉語林集成』には、日常生活に必要な888語を集めました。これは、京言葉、東京山の手言葉、鹿児島言葉、山口言葉が、それぞれ200語ずつ入っていました。

 ただし、清之輔が最終的に考案して提出した『全国統一話シ言葉 文明開化語規則九ヶ条語』は、半紙一枚に言葉遣いの大枠を示したものだったのです。


   全國統一話シ言葉
     文明開化語規則九ケ條
       文部省學務局四等出仕
         南郷清之輔 考案
一 作用ノ詞ハ一切ソノ活用ヲ廢シ言ヒ切リノ形ノミヲ用ヰルコト
二 文末ハ言ヒ切リノ形二「ス」ヲ付スコト
三 言ヒ付ケルトキハ文末二「セ」ヲ付スコト
四 可能ヲ現ハサントスルトキハ文末二「─コトガデキル」ヲ付スコト
五 否定セントスルトキハ文末二「ヌ」を付スコト
六 物ヲ訊クトキハ文末二「カ」ヲ付スコト
七 丁寧ノ意ヲ現ハサントスルトキハ文末二「ドーゾ」ヲ付スコト
八 語彙ハ誰モガ知ツテ居サウナ言葉ヲ用ヰルヤウ務ムルコト
九 物ノ言ヒ方、聲ノ出シヤウハ本江戸山ノ手言葉ヲ手本トスルコト

 これを実践するとどうなるか、というのが最後の場面へと導かれます。

 日本語の多彩さと言葉の面白さを目で見て耳で聞く芝居です。
 これは、実際に舞台で見ると、もっとおもしろいことでしょう。【3】
 
 
初出誌:『日本語を生きる─日本語の世界10』(1985年6月、中央公論社)
 
 
 

2015年8月17日 (月)

読書雑記(139)コーヒーを片手に『京都075』をパラパラと

 昨年来、月に何回かは、起き抜けに逆流性食道炎で苦しむことがあります。
 主治医の先生からは、消化管がないのだから腸液が食道まであがってきてもしかたがない、と言われています。対処策としては、寝る時に枕を高くするように心がけています。

 「ランブラゾール」という酸分泌抑制薬を処方していただいていて、荒れた食道や胸焼けと不快感を和らげています。1日1回、朝食後に1錠を飲んでいます。
 これに加えて、先週の診察で処方された「フオイパン(カモスタットメシル酸塩錠)」を毎食後に当座は服用することになりました。

 この逆流性食道炎については、コーヒーやアルコール等の刺激物は、胃酸の分泌が活発になるので控えめに、とされています。
 もっとも、私は胃がないので胃酸のことはあまり神経質になる必要はありません。それでも、刺激物とストレスが腸液に影響を与えるようなので、気をつけてはいます。

 コーヒー好きの私は、1日にカップ10杯は飲んでいました。今は、少し抑え気味にして、5、6杯にしています。
 お酒は、血糖値を上げないように蒸留酒を飲みます。焼酎のお湯割りを飲んでいました。最近では、ウィスキーを1杯ほど飲むことが多くなりました。それでも、晩ご飯の時に水割りのグラス一杯がせいぜいです。

 何かとストレスを溜めるタイプの私には、嗜好品は要注意です。
 しかし、それがかえって息抜きにもなるので、うまく共存するようにしています。
 手術をしてくださった岡部先生からは、私が呑めないことを承知の上で、お酒はいくら飲んでもいいとおっしゃいます。しかし、そんなに呑めるものではありません。

 コーヒーは、仕事にかかる前に必ず飲みます。
 最近は自宅で、自分で豆を適当に調合して挽いたコーヒーを、その日の気分に合わせた香りと濃さでいただいています。
 そのせいもあって、街中で喫茶店に入ることはほとんどなくなりました。
 それでも、京都の街を歩くと、喫茶店のたたずまいや店の雰囲気と共に、そのお店なりのコーヒーの香りが気になります。

 そんな折に、こんなにおっとりとした雑誌があることを知りました。
 075号室編『京都075 第二号 特集 喫茶』(2008.11、サンクチュアリ出版)です。


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 書名の「075」の意味がわかる方は少ないかと思います。
 京都の電話の市外局番です。
 大阪が「06」、東京は「03」のあれです。
 地域に密着した視線で、日常の自然な暮らしや街を炙り出そうとする本です。


目次


珈琲対談 猪田彰郎×奥野修
珈誹対談 オオヤミノル×中川ワニ勇人
喫茶観察室 燐寸 吾郷結
600-8815 宅間恵一
三つのお茶の話「一保堂茶舗 喫茶室「嘉木』」
       「李朝喫茶 李青」
       「バーバチカ」
京都の喫茶店主 いつものカップとお茶時間
私のおみやげ話 いがらしろみさん
パン調査室 「スマート珈琲店」 松尾綾
〇七五閲覧室 cafe de poche
京都小径探検 的場通りあたり ナカムラユキ
融合飯 ケルン「ケルツァー黒豆シュトーレン」大林ヨシヒコ
京都からの小旅行 近江八幡 門田えり子
room no.北9 yusuke

 京都を歩いて、または自転車で散策された方はお気付きでしょう。
 なんと喫茶店が多いことか、と。
 大通りを外れた小路にも、ひょいと喫茶店があります。
 三条周辺では、イノダコーヒーやスマート珈琲店、そして前田珈琲店はよく知られています。
 我が家の近くにも、北大路駅の伊藤珈琲店や下鴨本通りのベルディなど、いいお店がたくさんあります。

 気に入った喫茶店に出会うと、うれしいものです。
 よそよそしいお店に入ると、次はもう来ないだろうな、ということがすぐにわかります。
 京都には、とにかく至るところに喫茶店があります。
 自分で淹れたコーヒーだけでなく、外のコーヒーも楽しむ余裕が持てると、さらに日常がリラックスするかもしれません。
 この夏の課題としてみます。
 
 
 

2015年7月29日 (水)

読書雑記(138)西野 喬著『防鴨河使異聞』

 西野 喬著『防鴨河使異聞』(郁朋社、2013.9)を読みました。


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 長保4年(1002年)頃のことです。
 防鴨河使(ぼうがし)である蜂岡清経が、捨て子を悲田院に預けることから始まります。

 大雨で三条堤が切れた場面などは、実況中継のような迫力で氾濫の中を走り回る様が描かれます。
 悲田院が崩落する場面も真に迫っています。また、後の内裏炎上を描く筆も力強さに溢れています。

 京洛に住まう貧しい者や病人、さらには地方から出て来てさ迷う民への視線が、この物語を支えています。今で言うところの弱者への視点が顕著です。
 全編を通して、見捨てられた者たちへの温かい眼差しが印象的です。人を思いやる気持ちが丁寧に描かれています。

 賀茂の河原は、恵まれない人々の生死をかけた生活の場所だったのです。それが、防鴨河使と利害を争う交点となります。
 その成り行きが、為政者側と対立し、迫害を受けるのです。主人公である防鴨河使清経は、その間に立って苦悶し活躍します。

 悲田院の静琳尼は、かつての遵子でした。そして、遵子は左大臣藤原頼忠の娘なのです。
 この女性の設定の中途半端さが、本作の完成度を低くしたように思います。このことは、後半になって顕著に見られます。

 第7章「回想」は、本書の中では内容が宙に浮いてしまっています。防鴨河使に直結せず、唐突に周縁の話が持ち出されたからです。この章を、続く第9、10章へとつなげることで、ドラマチックな展開にしようとします。しかし、話がことさらに説明口調となり、上滑りしてしまっているのです。

 物語の構成に不自然なところがあり、読者への配慮が見られません。後出しじゃんけんとなってしまいました。

 それまでの防鴨河使の話が、京洛を舞台にして生き生きと語られていたので、もったいないと思います。物語が人間の情に流されてしまい、解説口調になりました。尻すぼみの作品に脱してしまったことが惜しまれます。【3】

 なお、賀茂川の流路に関しては、かつて「つけかえ説」というものがありました。
 これは、京都市北区雲ケ畑を源とする川が当初はまっすぐに南下し、京都の中心部を流れる堀川に合流していた、というものです。東から流れる高野川との合流地点は、今の六角堂付近だった、とするのです。
 しかし、それは1980年代までで、それ以降は今のままの流れだったことが地下鉄烏丸線の工事の折に証明されました。(横山卓雄、『平安遷都と「鴨川つけかえ」 - 歴史と自然史の接点』、法政出版、1988.6)

 私は、大学時代にこの賀茂川の流れに興味を持ち、京都の図書館などでさまざまな本を読みあさりました。そして、結論は流路は変更されていない、ということでした。

 本作品では、「賀茂川つけかえ説」によって語られています。2012年に執筆された作品なのに、なぜ学会で否定された旧説によっているのか、その理由は今はわかりません。
 「あとがき」にも、そのことは説明されてはいないのです。

 参考までに、本作で「つけかえ説」による記述となっているところを引いておきます。


・なぜ国を傾けるほどの財力と労力を費やして長大な賀茂堤を作り上げ、京の東端を北から南にほぼ真っ直ぐに流れ下るように賀茂川を押し込めたのか、(59頁)
 
・賀茂川を生まれたままの古の姿に戻してやれ、とお考えのようでした。つまり賀茂川の流路を制限する堤や土手をすべて取り払い、流れが勝手気ままに行きたいところへ行くようにし、防鴨河使などという官衙も消滅させる、(60頁)
 
・もともと賀茂川は京の街中の方まで流れ込んでいたそうでございます。(60頁)
 
・都をこの地に定めるにあたって、中国の長安に模した都造りに固執するあまり、氾濫の猛威を軽視し、流路を東端に堤防で押し込めた。降雨で増水すると賀茂川は元の流路に戻ろうとする。ために平安京では遷都直後から人と川の共生は難しいものとなった。もし防鴨河使達の地道な河川管理がなされなかったら、京の人々の生活は一層困難なものとなったであろう。今日、往時の流れを彷彿させるものは何一見当たらない。今見る堤は高度の土木技術によつて賀茂川のDNAを根こそぎ封じ込めてしまった。このことは賀茂川に限らず、現代人が川とどう関わろうとしているのかの一つの答でもある。(あとがき、309頁)

 本作は2012年度、第13回「歴史浪漫文学賞 創作部門 優秀賞」の受賞作(出版化)です。
 
 
 

2015年7月28日 (火)

読書雑記(137)山本兼一『神変─役小角絵巻』

 山本兼一の作品としては、これまでとは異質な世界が語られます。
 それだけ、新たな世界を構築しようとする意欲をもって取り組んだ作品です。
 この『神変』を刊行したのが2011年7月、山本兼一の急逝が2014年2月なので、このテーマの進展を見られないままになってしまったことが、返す返すも惜しまれます。


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 飛鳥に都があった時代から藤原京へと移る頃の話です。役小角は鵜野(後の持統天皇)の政治をはじめとして、あらゆることに腹が立っていました。その逆もまた真であり、鵜野も役小角が好きではありません。

 鵜野は、柿本人麻呂の歌を好んでいました。文化としての和歌が、作中から実感として伝わってきます。作者は、言葉を大切にする姿勢を見せています。

 役小角は、一言主を越えようとして、吉野の山の精気を取り入れるべく修行に励みます。飛鳥の組織力に対抗するために。
 天地は、すべての人間のものであって、飛鳥の一部の政権のものではない、という信念のもとに、役小角は邁進します。すべて、民草のためであり、ひいては山の民のためです。

 しかし、役小角が修行に出ている間に、葛城山の村が藤原不比等の采配で焼き討ちにあいます。
 作者の筆は、視点を巧みに移しながら、多くの民草の活躍と苦悩を活写します。

 藤原京という新しい国を造ろうとする鵜野と不比等たちの存在が、役小角には認められないのです。力で人間を支配することには従えないのです。権力と法律で人民を縛ることに、最後まで反抗します。

 この新都では、柿本人麻呂と軽皇子(後の文武天皇)が、言の葉が持つ力が多くの人々を動かし、国を造ってきた、と語り合います。その言の葉で国の物語を語り伝えようとも。『古事記』を意識してのことです。

 役小角は、山の民に向かって「神仏にすがるな」と言います。すがっても、何も変わらぬと。変えるのは自分であり、変えられるのは自分だけだとも。

 やがて、蔵王権現が役小角に降臨し、乗り移りました。
 そして、役小角は大極殿の玉座から、鵜野や不比等や軽皇子に命令を下すのです。有り得ない事態が進展していきます。現実味を帯びた、気迫溢れる空想話です。この奇想天外な話が実におもしろいので、つい読み耽ってしまいました。

 ここで軽皇子が、稗田阿礼が語り継いできた国造りの物語を、役小角に向かって語り出します。
 しかし、役小角は作り話だと一笑に付します。このやりとりが秀逸です。新しい山本兼一の筆の冴えが見られます。そして、天皇というものの存在に、真正面から疑問を呈します


「そんな話がまともに信じられるものか。そもそも、なにもない混沌とした泥のごとき世界を、いったいだれが見ていたのだ」
「イザナギの尊とイザナミの尊である」
「世のすべてが混沌としておったというのに、その二人は、どこにおったのか」
 軽皇子は、言葉を詰まらせたが、すぐに口を開いた。
「神であるゆえ、どこにでもおわします。埃ほどに小さくもなり、かたちがなくとも漂っておられるのが神である」
 小角が大声で笑い飛ばした。
「ずいぶん都合のよい神だな。では、天の浮橋とやらは、どこから、どうやってあらわれた」
「それは……」
 軽皇子がくちびるを嘗めている。天の浮橋がどうやってあらわれたかについて、稗田阿札は語ったことがない。それは、そこにあったものだと、鵜野は思っていた。
「どうした。混沌の世界に橋だけがあったのか」
 せせら笑う小角の顔が憎たらしい。
「いや……、神であるゆえに、望めばそこに橋があらわれる」
 そうなのだ。神なのだから、それくらいの力はお持ちであるはずだ。
「ならば、おのころ島も自分の力でつくればよいではないか」
「………」
 軽皇子の眉が曇った。
「どうした。神ならば、望めば、天の浮橋があらわれるのであろう。おのころ島はあらわれぬのか」
「島は…、島は大きいゆえに矛の力を頼られたまでのこと。なんの不思議もありはせぬ」
「ふん。中途半端な神だな」
「なにをほざくか」
 激昂した皇子の声が響いた。
「われらの神々を冒瀆すると許さぬぞ」
 思わず鵜野は、声をあげていた。できれば、小角に飛びかかって首を絞めてやりたいが、いかようにもがいても、からだは動かない。皇子も動けぬまま、顔を苦悶させている。
「おう。鵜野の婆さんも、あいかわらず威勢がよいな。けっこうなことだ」
「なにを白々しいことを。勝手な振る舞いは許しませぬ」
「勝手はそちらだ。この天地の物語をでっち上げ、自分たちのものだなどと言いだす騙りの罪は重い」
「騙りなどではない。これぞ、わが家系に伝わる真実の言の葉である」
「ふん。猿の寝言より始末が悪い。そんなたわごとで、この天地の由来が説明できるものか」
小角の言葉に、軽皇子が顔をひきつらせた。(412~414頁)

 続いて役小角は、宇宙界について語るのです。そのスケールの大きなこと。気持ちがいいほどです。

 やがて、鵜野も軽皇子も、天空の霊の世界で役小角と問答となります。身体は浮遊しているのです。
 そこで、アマテラスと蔵王権現の偉大さが比べられるのです。

 とにかく、第13章は圧巻です。山本兼一の面目躍如といえます。
 この一大スペクタクルは、これまでの山本になかったものでしょう。

 「命令しない」「奪わない」「助け合う」をモットーにして、役小角は国を造ろうとするのでした。
 その想いが現実と乖離していくことを感じながらも、それでも役小角は自分の理想を追い求めて生きるのです。最後まで、律令によって国家を統一することには疑問を持っているのです。
 このテーマのさらなる進展が、大いに期待されるところです。しかし、もう山本の語りを聞くことはできません。【4】
 
 本作は2011年7月に中央公論新社より刊行されました。
 今回は、中公文庫(2014年6月)で読みました。
 巻末に置かれた「解説 もうひとつの国のかたち」(安部龍太郎)は、亡き友への追悼文ともなっています。必読です。
 
 
 

2015年7月15日 (水)

読書雑記(136)伊井春樹著『小林一三の知的冒険』

『小林一三の知的冒険 宝塚歌劇を生み出した男』(本阿弥書店、平成27年6月)を読みました。

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 小林一三については、ちょうど1年前に、伊井先生の講演会でお話をうかがいました。
「大和桜井で伊井春樹先生の講演を聴く」(2014年07月27日)
 また、折々に直接うかがったこともありました。
 しかし、本書はその時にはまったく出なかった、新出資料を読み解くことにより、一三の文化や文学に関する関心事を掘り下げることで語り進めるものとなっています。

 一三が小学生の頃に書き残したものが紹介されています。その書写は、南北朝や秀吉などから名所風俗まで、文学の延長としての文化趣味にあふれています。

 このことを知り、池田亀鑑が同じ頃に同じように大人びた文章を書き、編集をしていたことを想起しました。
 一三が「隅田ニ桜ヲ見ル記」を12歳頃に書いているように、池田亀鑑は14歳のとき「花見に友を誘う文」(明治43年)を書いています(『もっと知りたい 池田亀鑑と『源氏物語』 第1集』(伊藤鉄也編、新典社、126頁、2011年)に全文掲載)。
 一三が山梨県で、亀鑑は鳥取県です。地域は離れているのに、少年時代に思いのままに文章を書き、それらを編集していたという点では、まったく同じなのです。明治時代の小学生の意識と教養の高さが知られます。

 さて、本書は新資料である『記事録依小林 甲号』という日記によって、明治21年元旦から10月を明らかにしていきます。
 現存する日記は明治31年元旦からだったので、十年も遡って一三が15歳で上京する時の様子がわかります。また、『逸翁自叙伝』にも漏れている一三の空白の時代が、こうして次第に明らかになっていきます。

 既存の記録との突き合わせからも、興味深い事実を引き出しています。
 一三に迫り、その人間像のみならず内面にも食い込む鋭い洞察は、驚嘆に値します。
 馬車で旅立つ一三に青い毛布を巻くところなどは、井上靖が伊豆を出るときの様子とイメージがだぶりました。祖母に育てられた一三だったのです。

 一三が17歳の明治23年に発表した小説「練絲痕」の分析は、史実と人間を凝視する興味深い調査の結果といえます。

 その他、草稿や粗筋書きや断片的なメモから、伊井先生が得意とされる豊かな想像力で、一三が書こうとしていたと思われる小説作品の世界を再構築していかれます。これは、一緒に読んでいて楽しいくだりです。

 『曾根崎艶話』の大正五年初版本と検閲による削除の話も、興味深いものでした。こうした話は、さらに展開していきそうです。その一部を引いておきます。


もう一点解せないのは、これは記憶によるとしながらも、乳房の表現に「まるで紅梅の蕾だとつぶやいた」とする表現が検閲にひっかかったとする点で、大正五年の初版にはどこにもそのような表現は見いだされないし、まして後に増補した「紅梅の蕾」にも該当する文言は見当たらない。あらためて再版本の「序文」を確かめると、「風俗壊乱として告発され、即席裁判で罰金に付せられて、問題が起りそうになつた」とあり、具体的にどの表現が風俗紊乱とされ、実際に発禁処分があったのか、誰かの告発によって問題が大きくなりそうになったため、罰金の支払いですまされたのか、あいまいなままというほかはない。出版された本を読んだ者が風俗壊乱とどこに告発したのか、各新聞記者はその事件をいち早く聞きつけ、大阪の実業界の方からも「直ちに絶版し玉へ」と忠告されたというので、世間にも広く知られたようだが、具体的な推移は不明である。小林は罰金の支払いをし、後は自主回収ということで、その後の事件は沙汰やみになって一件落着となったのであろうか。もっとも、これは再版するための、小林の虚構による口実かもしれない。
 さらに問題を取り上げると、日記において「再読して見るとその風俗壊乱と目せられた部分は落欠になつてゐるから現在記憶はないが」としており、確かに現存する初版には不穏当な表現は存在しない。ただ、読み直してみると問題の個所は「落欠になつてゐる」というのは、内務省の命による逓信省の発売前の検閲によって告発され、小林は該当部分を削除し、申請し直して出版したのが大正五年の初版というのであろうか。真相は後者あたりだろうが、小林はこれについてあまり多く語ることをしない。記憶によると、問題となったのは二、三行くらいで、乳房を「紅梅の蕾」のようだと表現していたところだったという。ただこれ以上複雑になるため簡略に述べるが、実は「上方是非録」第六十五話「自然主義」で、主人公の「僕」が小田の家を訪れると、古簾を通して目に入るのは座敷の裸の老婦人が腰巻をして肩には濡れ手拭いをした姿、「隣に座ってうつ向いて新聞の小説を読んで居る廿歳余の婦人は、流石に裸体ではない、只だ両肩をぬいで肉付のいゝ桃色の肌と、プクツと高い紅梅の乳房に、恋物語の未来記を召して、束髪の後毛を乱して余念なき横顔が、一寸美しい」とする表現を見いだす。まさに同工異曲といってよく、これなどが後の『曾根崎艶話』に再利用されたのであろう。このような関連から見ても、「上方是非録」は『曾根崎艶話』の習作的な作品で、これを契機にしてより芸妓の姿に焦点を当てた作品に成長したのだろうと思う。(194~196頁)

 小林一三を、事業家ではなくて創作の面から文化人として浮き彫りにしたところが、本書の特色といえます。

 なお、一三の『源氏物語』受容に関することが一例だけ、次のように語られているので引いておきます。


「繙くや源氏にはさむ薄紅葉」などは、舞子から須磨、明石を訪れ、そのゆかりで読みかけの『源氏物語』の本に薄赤く染まった紅葉を挟んだとすると、小林の古典に親しむ優雅な姿が彷彿としてくる。(129頁)

 宝塚歌劇に関連することは、ほとんど言及がありません。これに関しても、貴重な資料で新たな視点から切り込んでくださることを期待しています。すべて次作でまとめてくださるようです。

 参考までに、本書の目次をあげます。


目次

一 韮崎小学校から成器舎へ
 1 祖母の形見の青い毛布
 2 士族のブリキヤ校長
 3 韮崎学校時代の初恋
 4 成器舎時代の生活費
 5 成器舎からの退塾
 6 成器舎の英語教育

二 東京での新生活
 1 韮崎から東京へ
 2 士族校長の高柳
 3 慶応義塾への入学
 4 塾での生活
 5 鶴鳴会の発足
 6 文士としての登場

三 小説家への夢
 1 十七歳の小説「練絲痕」
 2 文学青年としての活動
 3 銀行で想を練った小説の下書き
 4 さまざまな小説作品へ

四 俳句への傾倒
 1 俳人の家系
 2 コウとの結婚秘話
 3 戯れの俳句
 4 句集『未定稿』と『鶏鳴集』の編纂
 5 心情表現の句作

五 「上方是非録」による大阪文化
 1 三美人の乗客
 2 大阪北浜の「夏亭」
 3 大阪の歴史叙述
 4 大阪風俗の描写
 5 大阪改造計画の夢

六 『曾根崎艶話』の執筆
 1 豆千代の襟替
 2 イ菱大尽と伊予治
 3 梅奴の生き方
 4 芸妓論

七 文化人との交流
 1 現代画鼎会の人々
 2 尾崎紅葉と田山花袋の原稿『笛吹川』
 3 俳人伊藤松宇と三好風人の俳画帖

八 果てなき文化への希求
 1 翻訳小説の試み「五十年の昔を顧みて」
 2 鶏鳴への思い
 3 最後の茶会の夢
 4 演劇映画、そして宝塚歌劇への果てなき夢

あとがき


 
 
 

2015年7月 4日 (土)

読書雑記(135)葉室麟『山月庵茶会記』

 葉室麟氏の作品を読むのは、これが初めてです。書名に惹かれて手にしました。
 『山月庵茶会記』(2015.4.21、講談社)は、黒島藩シリーズの第3弾とあります。
 前2作を読もうか読むまいか、思案しながらこの読書雑記を書いています。


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 柏木靫負は、表千家の茶人で孤雲と号し、江戸の駿河台に日々庵を構えていました。四代将軍家綱の時代です。その後、豊後に帰ってからは、山月庵を造ります。

 話の展開の中で、靫負の娘である千佳の受け答えが推進力となっています。しかし、これが不自然なオウム返しに近いものなので、文章が冗長となり重たく感じました。

 靫負の妻藤尾の自害をめぐり、話が動き出します。政争に敗れて国を出た靫負は、その国に帰って真実を知ろうとするのです。これが主題です。

 雪の茶会の後で、千佳の父である又兵衛が落とし穴に落ちる下りは秀逸です。生き生きとした場面となっています。この雰囲気と、お茶人としての靫負の描き方がしっくりと馴染んでいません。

 聞香の話では、『源氏物語』の「梅枝」のことが語られます。


 民部は待ちかねたように浮島に声をかけた。浮島が橋と柳の模様が金箔で描かれた蒔絵香合を手にすると、民部はゆっくりと語った。
「香は古には仏に供えるものであったが、京の殿上人が薫物として使うようになられたという。すなわち殿上人は、女人のもとを訪れた後、おのれの余韻としてどのような香りを残すかに腐心されたのだ」
「まことに雅なことでございます」
 波津が讃嘆するように言った。民部はうなずいて、
「それゆえ衣類に香を焚きこめ、室内に香をくゆらせた。『源氏物語』の〈梅枝〉の巻では光源氏が明石君との間に生まれた姫の入内のために薫物をととのえ、さらに紫上や花散里ら女人たちにも香を調合させて香りの良否を競う〈薫物合〉を行うくだりがある」(71頁)

 香りのことが本作の最後にも出てきます。ただし、上記のことが最後に活かされないままに流れているのが惜しまれます。
 その聞香から雛の茶会へと、話はお茶を中にして滑らかに展開していきます。

 さまざまな詩歌が出てきます。人口に膾炙するものばかりです。

 漢詩
「牀前月光を看る……」
「少年老い易く学成り難し……」

 利休の辞世の偈
「提ル我得具足の一太刀……」

さらには数々の和歌。
「春の夜の闇はあやなし……」
「色よりも香こそあはれとおもほゆれ……」
「空蝉の世にも似たるか花桜……」
「巨勢山のつらつら椿つらつらに……」
「郭公鳴きつる方をながむれば……」

 月の場面で『源氏物語』が取り上げられます。少し長くなりますが、その箇所を引いておきます。


 靭負は、『源氏物語』に、朧月夜が出てくるのを知っているか、と千佳に訊ねた。千佳が『源氏物語』は読んでいないと答えると、靭負は光源氏が出会った朧月夜の女について話した。
 あるとき帝が花見の宴を開かれた。宴が終わり、光源氏はほろ酔いでひとり余韻にひたり宮殿を彷徨っていると、そこにひとりの女人が、
 ─朧月夜に似るものぞなき
 と歌いながらやってくる。『新古今和歌集』にある歌だ。

  照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜にしくものぞなき

 照り輝くでもなく曇り空で見えなくなるのでもない、春の夜の朧月夜に勝る月はない、という歌である。
 靭負はそれ以上、源氏物語の内容にはふれなかったが、光源氏はこの朧月夜の女と一夜の契りをかわす。
 源氏物語に登場する女人のなかでも謎めいて光源氏を翻弄する女なのだ。靭負は話し終えて、気分を変えるように言った。
「せっかくの月だ。今宵は夜もすがら、月見の茶事をいたそうか」
「さようでございますね」
 靭負に言われて、ほっとして千佳は微笑んだ。縁側に立って夜空に目を向けていると、庭の木々も雨で潤い、なまめいた匂いを漂わせている。
 ひとの心は必ずしも自分の思いのままではない。かすかな月の光、木々のざわめき、空気のぬくもりが思わぬところへ心を運ぶこともある。
 心を守るとは、道とも言えぬ隘路へ自ら踏み入らぬようにすることに違いない。たとえ、わずかならず胸に響くものがあったとしても、それはまことの道ではないのだ。そのことはよくわかっていた。
 千佳は自分に言い聞かせつつ、布団をあげて茶事の支度をした。靭負はしばらく黙って月を見上げていたが、ふと、
「月見の茶事が藤尾への手向けとなればよいのだがな」
 とつぶやいた。千佳はせつなさがこみあげてくるのを感じた。靭負のために何もできないことがもどかしい気がした。(161~163頁)

 せっかくの雅な話題と設定が、ここでも生かされずに話は進んで行きます。

 終盤に至って、突然幕府の隠密の存在が明らかにされます。そして、黒島藩という大きな組織がたち現れます。藩主登場のことは、もう少し早く匂わせておいた方が、読者は失望しないですんだと思いました。

 藤尾の自死をめぐって長々と物語られた靫負の話も、急展開します。
 最後は、息を詰めて一気に読みました。

 しかし、妻に対する思い入れが、あまりにもくどいと思いました。その一点が、この物語を支え、引っ張っています。お茶室という狭い空間に閉じ込められた、こじんまりとまとまった話です。もっと別の語り口はなかったのでしょうか。

 例えば、次のような死者との対話は、井上靖が得意とする手法ながらも、これではあまりにも中途半端です。


「もし、わたしが十六年前にこの心で茶を点てることができたなら、そなたを死なせはしなかったであろう。しかし、わたしはあのとき、至らなかった」
 すまなかった、許してくれ、と靭負は絞り出すような声で言った。女人はさりげなく笑みを含んだ声で答えた。
「何を仰せになります。十六年の間、旦那様は片時もわたくしのことをお忘れになりませんでした。ひとは忘れられなければ、ずっと生きております。わたくしは死んでなどおりません」
「そう言ってくれるのか」
「はい、わたくしは十六年の間、旦那様がお点てになる茶の中に生きておりました。温かく、よき香りに包まれて幸せでございました」(237頁)

 また、女性の描き方に精彩を欠きます。情に流された文脈の中で語られているからではないでしょうか。

 それはさておき、山月庵には、月がよく似合います。
 亡き妻と飲むお茶もいいものです。
 最後はきれいな場面となっています。【4】
 
 
初出誌:『小説現代』2013年2月号、9月号〜2014年4月号
 
 
 

2015年6月24日 (水)

読書雑記(134)高田郁『蓮花の契り』

 〈みおつくし料理帖シリーズ〉全十巻が完結したのは、昨年の8月でした。
 以来、次作を楽しみに待っていました。

「読書雑記(105)高田郁『天の梯 みをつくし料理帖』」(2014年08月24日)

 そしてついに、最新作となる『蓮花の契り 出世花』(ハルキ文庫、2015年6月)が刊行されました。一気に読みました。


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 著者のデビュー作である「出世花」は、平成19年に第2回小説NON短編時代小説賞の奨励賞を受賞しています。それに3作を追加した『出世花』が、平成20年に祥伝社文庫から刊行されました。

「読書雑記(26)高田郁『出世花』」(2010/12/6)

 平成23年には、ハルキ文庫からも刊行されました。これは、祥伝社文庫版に若干の加筆・修正が施された、いわば新版としての刊行でした。どのような箇所に筆が加わったり補訂されたのか、非常に興味があります。しかし、今はそのような本文校合をする暇がないので、またいつか、ということにしておきます。
 本書は、その時に予告されていた続編であり、この三昧聖のテーマとしてはこの第2冊目で完結となります。
 
■「ふたり静」
 遊女の亡骸を丁寧に湯灌する三昧聖のお縁を、今回も丹念に描いています。そして、かっての記憶を取り戻す元女郎の香弥、いや、かつてのてまりが言う言葉が印象的です。


 何もおもいださなければ、きっとずっと今のままでいられただろうに(57頁)

 この話では、二人静の花がその背後に横たわり、感動的な物語を裏支えしています。
 最後は、

ひとりよりもふたりの方が賑やかで良い。草花も、それにひとも(78頁)

ということばが、しんみりとした話を明るくしています。【4】
 
■「青葉風」
 暫しの間とはいえ、実母の元で暮らすことになる正縁(お縁)。実の親子の情が、たっぷりと語られています。その背後に、女将のお染が今後の話をおもしろくする布石となるかのように、何か企むことがありそうにして控えています。
 お茶会で亡くなった遠州屋を巡って、それが毒殺ではないことを、お縁は旧知の同心である新藤と共に謎解きに挑みます。
 次のくだりは、お茶会が作法通りには行われていなかったことを端緒として、ここから謎がしだいに解き明かされて行くこととなります。

「では、遠州屋さんも同席の皆さんも、まだ桜花堂の桜最中しか口にされていなかった、というわけでしょうか?」
 お縁の疑問に、新藤は頭を振って茶碗を示した。
「いや、先に治兵衛の点てた薄茶を飲んでいる、その場に居た全員だ」
 新藤の回答に、お縁は首を傾げる。
 確か、茶の湯では先に菓子を食べて、それから濃茶なり薄茶なりを口にする、と聞いていた。先に甘味を口にしておく方が茶の味わいが引き立つから、と。
 お縁の疑問を察したのだろう、新藤は苦く笑ってみせた。
「茶会とは名ばかりで、作法とは無縁のものだ。治兵衛も最初のうちは師範について茶道を学んでいたそうだが、堅苦しいのを嫌って止めたそうな。要するに気心の知れた者同士が、薄茶と桜最中を楽しむ集い、というわけなのだ」
 昨日は治兵衛も含め全員で薄茶を飲んだあと桜最中に手を出した、と聞いて、お縁は畳に両の手をついて、新藤の方へ身を乗り出した。
「では、そのお茶に毒が入っていた、とは考えられませんか?」
「それはない。昨夜、同じ茶を俺も飲んだが、何ともなかった。それに同席していた者たちが一様に、茶ではなく、桜最中の味の異変を訴えているのだ」
 お縁の仮説をあっさり打ち消して、新藤は茶碗を置いた。(125頁)

 そして、やがてお縁は、今で言えば死体検視官となり、棗の葉を挽いてお茶に入れた時の効果に思い至り、事件の解決へと導きます。
 これまでの情が勝った語りではなく、理が先行する展開に拍手を送りたくなりました。
 本作4編の中では、作者の成熟した筆致と構成が確認できる、一番の仕上がりとなっています。【5】
 
■「夢の浮橋」
 自分を捨てた母のことを思い遣りながらも、思案に暮れるお縁です。親子や夫婦の関係に注視する展開となります。
 いい場面に月影が配されています。

 ひとりきりになった部屋で、お縁はただ呆然と過ごしていた。どのくらいの間、そうしていたか、気付くと月の位置がずれて、室内は暗い。草雲雀の鳴き声に誘われて、縁側へと這って出た。
 月影が射して、庭が明るい─そう思った瞬間、お縁は度し難い孤独を覚えた。(183頁)

 私が今住むお江戸の宿舎の近くには、永代橋があります。それを渡るのに橋銭がいる、とあります(188頁)。説明がないので、よくわかりません。これは、いつか調べておきます。
 これまた富岡八幡が出てきたので、地元話に嬉しくなりました。そして、巻頭に置かれた「本書舞台地図」を見ては、宿舎はここにあるな、と確認しては物語の世界に入って行きました。
 やはり、物語に自分が知っている場所などが出てくると、読み進む気持ちに弾みがつきます。それも、今実際に住んでいる場所となると、弥増しに親近感が想像力を増幅するようです。
 永代橋が崩落する場面と、千を越す亡骸一体一体に心を込めて清めていくお縁の姿の描写には、作者の筆の力に気迫と活力があります。災害が描けるだけの力を蓄えての、みごとな復活を感じました。さらにその筆の力は、母子の情愛の姿を描き尽くします。【5】
 
■「蓮花の契り」
 正真の一言、

ひととして生きる道はひとつではない(254頁)

に尽きる章です。そして、「信念」というものの意味を教えられました。
 本話には、締めくくるための様々な手順が見えていて、それがかえって煩わしさとして残りました。
 また最後の場面で、夕映えに輝く松が現出します。しかし、私はできることならば、ここは月にしてほしかったところです。ないものねだりですが……【3】
 
 本作は、時代小説文庫(ハルキ文庫)のための書き下ろしです。
 
 
 

2015年6月12日 (金)

読書雑記(133)指田忠司著『世界の盲偉人 その知られざる生涯と業績』

 『世界の盲偉人 その知られざる生涯と業績』(2012年11月、指田忠司、社会福祉法人桜雲会点字出版部)を読みました。


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 実は、この本は昨夏、日本点字図書館で購入したものです。次の記事の最後で紹介したままでした。

「江戸漫歩(82)高田馬場の「日本点字図書館」へ」(2014年06月20日)

 この本を読み終わろうとしていたところで、先月末に北海道で指田先生と偶然にも昼食をご一緒したのです。縁というものは不思議なものです。
 最後まで読み終わりましたので、あらためてここに紹介いたします。

 本書は、点字ジャーナルに連載された「知られざる盲偉人」に加筆修正したものです。世界中を見渡しての視点で記述されています。非常に幅広い視野から、目が見えない中で偉業を成し遂げられた方々のことが紹介されています。わかりやすい文章なので、読みやすい一書となっています。

 第一部は、学問、文学、音楽、政治などで活躍した視覚障害者30名を取り上げています。、
 第二部は、教育、福祉、文化の向上に尽くした44名が紹介されているので、合計74名が取り上げられたのです。

 ここに紹介されているのは、書名の副題にもあるように「知られざる生涯と業績」に関する人々であり事跡です。知られている、ヘレン・ケラー、アン・サリバン、塙保己一、本居春庭(本居宣長長男)、ルイ・ブライユ(点字発明者)等は出てきません。これが、本書の特色でもあります。

 そのため、人名索引を兼ねて、煩を厭わずに、以下にその目次を挙げることで後日の手掛かりとしておきます。
 なお、本書の『目次」では、ここの人名はゴチック体になっています。しかし、今は手間もかかるし時間もないので、スラッシュ(/)で代用しています。


 ― 目 次 ― 

まえがき(指田忠司)

本書の活用について(依田隆男)

第1部さまざまな仕事で活躍した先人たち
 
 第1章 学問研究の分野で活躍した視覚障害者
  1 英国の数学者/N.ソーンダーソン
  2 失明を乗り越えた天才数学者/L.オイラー
  3 現代数学の開拓者/L.S.ポントリャーギン
  4 点字数学記号の考案者/A.ネメス
  5 米国初の視覚障害原子物理学者/サミュエル・B.バーソン
  6 ドイツの裁判官/H.E.シュルツェ
  7 法学研究と途上国の国家建設に尽力する/H.ショラー
  8 障害者の人権保障に尽くした/J.A.ウォール
  9 米国初の全盲医師/J.ポロティン
  10 歴史学研究と視覚障害者の権利実現のために活動する/F.リード

 第2章 文学の世界で活躍/J.ミルトン
  12 賛美歌の作詞者/ファニー・クロスビー
  13 名作のモデルとなった/M.Aインガルス
  14 オーストラリアの全盲女性作家/M.A.アストン
  15 アジアで才能を開花させた文学者/エロシェンコ
  16 反ユートピア論を展開した/A.L.ハクスレー

 第3章 音楽の世界で活躍した視覚障害者
  17 18世紀英国のオルガン奏者/J・スタンリー
  18 米国の俗謡保存に貢献した/E.デュッセンベリー
  19 天才ピアニスト/ブラインド・ブーン
  20 スペインの代表的作曲家/J.ロドリーゴ
  21 盲目の哲学的音楽家/ムーンドッグ
  22 バッハ演奏の大家/H.ヴァルヒャ
  23 20世紀米国を代表する歌手/レイ・チャールズ
  24 シンガーソングライター/T.ケリー

 第4章 政治分野で活躍した視覚障害者
  25 ロンドン警察の基礎を築いた/J.フィールディング
  26 米国初の全盲連邦議会議員/トマス・D.シャール
  27 米連邦上院議員を務めた/T.P.ゴア
  28 元テネシー州議会議員/J.ブラッドショー
  29 ニューヨーク州知事に就任した/D.パターソン
  30 タイ王国上院議員に選ばれた/M.ブンタン

第2部 視覚障害者の教育・福祉・文化の向上に尽くした先人たち
 
 第1章 視覚障害教育を築いた人々─盲学校の設立と点字・歩行技能の開発訓練
  31 近代盲教育の祖、バランタン・アユイと同時代の盲人たち
  32 パーキンス盲学校初代校長/S.G.ハウ
  33 ハウ博士を支えながら、文学的才能を開花させた/J.W.ハウ
  34 オーバーブルック盲学校の創立者/J.R.フリードランダー
  35 ニューヨーク・ポイントの開発者/W.B.ウエイト
  36 ムーン・タイプの考案者/ウイリアム・ムーン
  37 ドイツ盲教育の先駆者/カール・シュトレール
  38 通信制盲学校を創始した/W.A.ハドレー
  39 白杖歩行の訓練方法を開発した/R.E.フーバー
  40 戦後統合教育の基礎を築いた/G.L.エイベル
  41 アメリ力点字協会の創立者/J.R.アトキンソン
  42 点字触読の普及に貢献した/S.マンゴールド

 第2章 視覚障害者のための福祉団体、当事者団体を築いた人々
  43 RNIBの創立者/トマス・R.アーミテージ.
  44 CNlBの創設と発展の功労者/E.A.ベイカー
  45 AFBの基礎を築いた/R.B.アーウィン
  46 NFB初代会長/J.テンブロック
  47 NFB発展の功労者/K.ジェーニガン
  48 ACB機関誌初代編集長/マリー一・ボアリング
  49 インド障害者運動の父/L.アドヴァニ
  50 オンセの改革に尽力した/A.ヴィンセンテ

 第3章 視覚障害者の文化の向上に尽くした人々
  51 1世紀以上無償で発行しつづけた点字月刊雑誌の創始者/マティルダ・ジーグラー
  52 点字月刊雑誌初代編集長/ウォルター・ホームズ
  53 ナショナル・ブレイル・プレス社を創立した/F.イエラディ
  54 米国の図書館サービスの法制化に尽くした/ルース・S.B.プラット
  55 ラジオとカセットで情報提供を続けた/S.ドーラン
  56 盲導犬普及の父/R.H.ウィトストック
  57 盲界のエジソン/ティム・クランマー
  58 クロスカントリー・スキーの普及に尽力した/R.F.キース

 第4章 視覚障害者の職業自立と人権保障に尽くした人々
  59 視覚障害者雇用に貢献した/J.ランドルフ
  60 視覚障害者の教育と雇用の発展に尽くした/R.レズニック
  61 民間職業リハビリテーション施設を作った/R.クンペ
  62 視覚障害者の職業自立に尽くした/D.K.マクダニエル
  63 フロリダのマザー・テレサ/T.ブレッシング
  64 米国初の盲人外交官/A.ラビー

 第5章 開発途上国の視覚障害者支援に尽くした人々
  65 失明予防に尽くした/ジョン・ウイルソン
  66 視覚障害女性の地位向上に尽くした/S.マクブール
  67 国際協力と視覚障害者の権利保障に尽くした/H.W.スナイダー
  68 WBU元事務局長/ペドロ・スリータ

 第6章 盲ろう者の教育とリハビリテーションの発展に尽くした人々
  69 近代教育を受けた初めての盲ろうあ者/ローラ・D.ブリッジマン
  70 ろう社会で育った盲ろう教育の第1号/J.プレイス
  71 オーストラリアのヘレン・ケラー/アリス・ベタリッジ
  72 盲ろう者のリハビリ訓練を切り拓いた/P.サーモン
  73 盲ろう者の自立に貢献した/R.J.スミスダス
  74 盲ろうのシスオペで活躍する/G.グリフィス
 
あとがき(指田忠司)

参考資料・写真について

 ここには、アメリカ、イギリス、インド、カナダ、スペイン、タイ、ドイツ等々、世界中の人々が、しかも17世紀から今日までと、実にさまざまな事例が取り上げられています。

 この中で私がチェックした箇所を、備忘録として抜き出しておきます。


・ガリレオは、教皇朝による審問の結果、1633年からフィレンツエ郊外に幽閉されていたが、1638年の恩赦でフィレンツェの自宅に戻っていた。ガリレオは幽閉中に失明し、ほぼ全盲の状態だったという。(53頁)
 
・ミルトンの脳裏には、古代ギリシアの盲目詩人、ホメロス(注)とその作品が浮かんでいたとも言われている。(55頁、脚注「ホメロスの存在した証拠はいまでに確認されていない。」)
 
・1970年代半ば、19世紀後半の米中西部を舞台に、貧しい開拓農民一家を描いた物語「大草原の小さな家」(Little house on the Prairie)というテレビドラマが、全米で大ヒットした(注1)。
 このドラマには盲学校で教師を務める「メアリー」が登場するが、これは原作の作者ローラ・インガルス・ワイルダー(1867〜1957)の実の姉、メアリーA.インガルスをモデルにしたものであった(61頁)
(注1)わが国でも、1975年から1982年まで、NHK総合テレビで日本語吹き替え版が毎週放送され、その後も数回にわたって再放送が行われた。
 
・RNIB 本部は、ロンドンの交通の要衝キングズクロス駅に近いジャド・ストリートに移転したが、トマスの胸像はこの新しい事務所の玄関に移設され、以前と同じくRNIB を訪れる人々を見守っている。(167頁)
 
・1947年、ラルはインド政府文部省に入り、手始めに視覚障害者の教育環境の整備に尽力する。1951年にはスニティ・カマル・チャタリー博士と協力してヒンドゥ語の点字表記の基準を作成し、点字雑誌の発行を始める。
(中略)
 ラルの生涯をみると・視覚障害者としてさまざまな分野で「インド第1号」の栄誉を担ってきたが、ラルのすばらしさは、単に第1号となっただけでなく、その先駆者としての役割を自覚して他の視覚障害者、他の障害者のために働き続けたことにある。ラルには論文や著作も多く、彼の歩んだ人生を概観するだけで、インドにおける障害者運動の歴史が浮き彫りになるのである。その意味で、今後もインド、パキスタン、西アジア地域の障害者運動の発展を後づける上で、ラル・アドヴァニ研究が欠かせないものとなるであろう。(185~186頁)

 なお、立体文字に関する記述が、以下の3箇所にありました。
 現在取り組んでいることに関連することなので、引いておきます。


・1784年、バランタン・アユイ(Valentin Hauy)は、パリに王立盲青年協会(後の国立パリ盲学校)を設立し、そこで盲人たちに浮き出し文字を使って読み書きを教え始めた。(127頁)
 
・ウイリアムは、こうした状況をみながら研究を重ね、ついに1844年、26歳の頃、独自の読み書き指導の文字の開発に成功する。この文字は、墨字のアルファベットの形を元にして、指で判読し易いよう浮き出させた14種類の記号を用いるもので、英語で使われる26文字のアルファベットは、この記号の一部を回転させて表す方式で、ウイリアム自身が名付けたかどうかはわからないが、「ムーン・コード」(Moon Code)と呼ばれた。筆者は、1987年にロンドンのRNlB(当時の英国盲人援護協会)を訪れた際、この方式を使って印刷された図書を手にしたことがあるが、その時の説明では、「ムーン・タイプ」(Moon Type)と呼ばれていた。
(中略)
 ここで二つの文字を簡単に比較してみると、ムーン・タイプは墨字の形を基本に置いていることから、中途失明者にも読みやすいという利点がある反面、その作成が自力では困難という点で問題がある。これに対してブライユの6点点字は、触読できるまでに時間がかかるが、自分で簡単に書けるという点で、極めて大きな利便性がある。したがって、ブライユ式点字が普及した後でも、ムーン・タイプの読みやすさに引かれて、中途失明者を始めとして、ムーン・タイプで書かれた図書へのニーズは長く続いたのである。(145~146頁)
 
・米国で視覚障害者用図書の貸し出しサービスが行われるようになったのは、1880年代からで、1832年にマサチューセッツ州ボストンに開かれたパーキンス盲学校の初代校長ハウ博士は、ヨーロッパから持ち帰った浮き出し文字を使った図書を使って教育を行うとともに、その後ボストン・ラインという米国式の浮き出し文字印刷を開発して視覚障害者用図書の製作に努めていた。(201頁)

 本書の編者である指田先生は、積極的に海外にでかけ、精力的に情報を収集しておられます。また、多くの方々とのコミュニケーションを大事にしておられます。

 先日、札幌でのお話をさらに展開できる件で、ありがたいメールをいただきました。
 指田先生との話が進展したら、またここに報告いたします。
 
 
 

2015年5月29日 (金)

読書雑記(132)藤野高明著『未来につなぐいのち』と出会って

 明日から、札幌で開催される「日本盲教育史研究会 第3回ミニ研修会(in札幌)」に参加します。
 明後日のオプショナルツアーでは、今年が生誕100年となる日本点字図書館の創立者である本間一夫先生の生家を訪ねることになっています。

 出発の準備をしていたときのことです。たまたま書棚にあった本を手にして目次を見ていたら、「文化の泉 守った人 本間一夫先生との出会い」とあるのです。何と、こんな偶然があるのです。
 これはこれはと、大急ぎでこの節から読みました。本間先生が2003年8月にお亡くなりになったのを受けて、『視覚障害』(188号、2003年11月)に発表された文章でした。

 著者である藤野高明氏の略歴を紹介します。
 唇で点字を読み、不自由な両腕で点字が打てるようになってからは、夢と希望を実現するために広汎な活動を展開されます。


昭和21年 不発弾爆発により両眼失明、両手首切断
昭和46年 日本大学卒業 教員資格取得
昭和48年~平成14年 大阪市立盲学校教諭
昭和59年~平成15年 大阪府立大学非常勤講師
平成9年〜平成13年 全日本視覚障害者協議会 会長

 本間先生のことは、今回の札幌行きまでは、まったく知りませんでした。
 偶然とはいえ、この本『未来につなぐいのち』(藤野高明、クリエイツかもがわ、2007.06)に出て来る本間先生の生家に、明後日行くのです。これも縁なのでしょう。


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 本書の目次は以下の通りです。


第1章 私の原点—不発弾に奪われた手と光
第2章 『あの夏の朝から』その後
第3章 平和への願い
第4章 生きる力、学ぶ喜び
第5章 バリアフリーを求めて
第6章 全日本視覚障害者協議会とともに
第7章 生き方を学ぶ

 本間先生の紹介は明後日の記事にまとめることとして、本書で私がチェックした箇所を引きます。

 まず、舌で点字を読むことが記されており、文字を読むことの意義を考えてしまいました。


スクーリングで上京するたび、真夏の日本点字図書館を訪ねました。「これはまだ新しいから藤野さんが唇で読まれても大丈夫ですよ」と言って、できたばかりの日本史の参考書十数冊を合宿中のホテル宛に送っていただいたこともありました。(150頁)

 また、点字を触読する速さについて、参考になる情報もあります。


 点字の触読にはかなりの個人差があり、私のまわりの速い人では、森泰雄さんや緒方淳子さんなどは、一時間に九〇ページは普通に読めるようです。私は唇で読みますから、そういう「スプリンター」のような人を羨ましく思いますが、それでも時速二〇〜三〇ページで読んでも、点字本を熟読含味する喜びはまた格別のものがあります。(156頁)

 なお、私が高田馬場にある日本点字図書館に行ったのは、去年の夏でした。知りたいことがありすぎて、とにかくお話を伺うために足を向けました。今回の旅の後に、また行くことになるはずです。

「江戸漫歩(82)高田馬場の「日本点字図書館」へ」(2014年06月20日)

 さて、本書にはさまざまなことが語られています。自身の障害に留まらず、教育・社会・政治・仲間のことなどなど、実に多岐にわたる話題が展開します。
 その中から、私がチェックした箇所をあげます。


・「父や母も何度か盲学校への入学をお願いに行きました。しかし、両手がないことを言うと、点字が読めない、按摩、鍼灸ができないとの理由で、全く問題にもしてもらえませんでした。
 小学二年といえば七歳です。それから二十歳まで約一三年間、わたしは不就学の状態に捨ておかれました。日にちにすれば四千数百日です。その日々の明け暮れは、本人と家族にとって、いかに長く展望のみえない毎日であったか、今思い出しても残念でなりません。当時は「就学免除」という、こちらが決して望まない形で不就学が行政の都合で正当化されたのです。」(14頁)
 
・「わたしが点字の触読に挑戦するきっかけになったのは、入院先の病院の看護婦さんに読んでもらった北條民雄の『いのちの初夜』でした。北條民雄自身、ハンセン病を病み、幾つかの作品を成した人ですが、重症のハンセン病患者の中には、視力と同時に手指をなくし、そのために唇や舌先を使って点字を読む人がいることを知るに及びました。わたしは、そのような壮絶な事実をなかなか信じることができませんでした。しかし、やがてひょっとすると、このわたしも、それなら唇で点字が読めるようになるかも知れないと考えるようになりました。」(16頁)
 
・「わたしは、非常勤講師としての採用を受けることにしました。わたしは、どんな形でもいいから早く教壇に立ちたいと思いました。本採用というホームベースに達するためには、たとえ振り逃げでもデツドボールでも何でもいいから、一塁ベースに出たいと思いました。そして出た以上は最善を尽くして働きたいと考えました。授業を受ける生徒たちにとっては、教師が本採用であろうと、非常勤講師であろうと、そんなことはなんの関係もないと思ったからです。」(22頁)
 
・「省みると、一面不幸な五〇年でした。重い障害、しかも二つの障害を併せ持って生きることなど、言うまでもなく、無い方がいいに決まっています。全盲でさらに両手がないという障害は、僕の「個性」でしょうか。僕は絶対にそうは思いません。それは苦悩であり、ハンディキャップ以外の何物でもありません。「次に生まれてくる時は、障害者になりたい」と望む人がいるでしょうか。僕たちが本当に言いたいのは、どんな障害があっても誇りと生きがいを持って学び働き、普通の人間関係が自然に成立する、そんな社会を作りたいということです。」(28頁)
 
・「私は一九歳の時、数冊の本によって長島愛生園の人たちと出会いました。そして彼らのように唇で点字を触読することを決心し、文字の世界を獲得しました。「文字の獲得は自由の獲得であった」と本当にそう感じたことを、まるで昨日のことのような鮮やかさでおぼえています。」(44頁)
 
・「この私に片方の目をあげてもいいと私の母と同じことを言ってくれたあなたは、看護婦さんだったのでしょうか。本当にありがとう! いつの日かそんな夢のようなことが実現したら、私は岡山の夕映えの空と、そして野原に咲いた小さなスミレの花を一番に見たいと思います。」(46頁)
 
・「戦争は私たち障害者にとって二つのかかわり方をします。
 一、戦争は何よりも大量の障害者をつくります。
 二、戦争は障害者を阻害し、切り捨てて顧みません。」(48頁)
 
・「障害を受け入れて生きるのは、それほどたやすくはない。私はうつうつと、よく思った。たとえ片方の目でも手でもいいから、残っていたらどんなにいいだろうと。また、このような不幸をもたらしたものに対するふつふつたる怒りを抱きながら生きてきた。その意味でずっと日本の戦後史をひきずりつつ歩いてきたと思う。」(54頁)
 
・「(平和の四条件として)
 第四は、人間が作り出した優れた文化遺産を共有し、新たな文化創造に参加できることだ。」(56頁)
 
・「「落ちる」という体験はぼくたちの仲間の多くが味わっている。全盲者が一人歩きしていて一番こわいのがホームからの転落である。ぼくも三度、このいまわしい洗礼をうけた。(中略)
 ぼくたちがホームから落ちるとき、その瞬時に心をよぎるものはなんとも説明しがたい、みじめさである。仲間にも自分にもくりかえさせたくない、危険で忌まわしい体験である。」(102~104頁)

 本書は、『点字民報』などに掲載された文章を集めて編集したものです。
 「あとがき」にも、次のように書かれています。


本書は『あの夏の朝から』を出し、早や三〇年近くたった今、その間に、各種出版物に発表してきた原稿のうちから、いくつかを選び、編集したものです。その際、読みやすくするため、加筆修正を行いました。(203頁)

 そのためもあって、同じ話が何度も出てきます。
 このことに関しては、さらにもう一手間でいいので、プロの編集の手が入っていたら、さらにいい本になったことでしょう。同じ話柄の繰り返しは、感動と印象が薄れます。

 これは、出版社側に編集という仕事の重要性に関する認識があれば、当然避けられたことです。
 今、出版の手法が容易になりました。編集から校正を経て印刷して刊行するプロセスが、一大変革を成し遂げました。コンピュータの導入によるものです。そのために、出版社は何をするのかが不明瞭になりました。編集についても、執筆者に安易に依存する傾向があり、刊行された書籍にプロとしての編集者の姿が見えなくなりました。

 どの分野でも、プロフェッショナルは必要です。
 すばらしい内容の本と出会えただけに、この点が気になりながら、本書を閉じることとなりました。
 
 
 

2015年5月28日 (木)

読書雑記(131)水野敬也『夢をかなえるゾウ3』

 『夢をかなえるゾウ3 ブラックガネーシャの教え』(水野敬也、2014.12、飛鳥新社)を読みました。


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 本作は、〈夢をかなえる〉シリーズの第3弾です。
 これまでのものは、次の2本の記事に雑感として記しています。ご笑覧を。

「読書雑記(122)水野敬也『夢をかなえるゾウ』」(2015年04月03日)

「読書雑記(126)水野敬也『夢をかなえるゾウ2』」(2015年05月13日)

 自分でツッコミを入れるガネーシャが、おもしろおかしく活写されています。
 本話に入る前の「本書の使い方」も、読者に挑む姿に勢いがあって、大いに期待できるスタートです。

 本作の主人公は女性です。しかし、作者は女性を描くのが苦手なのか、あまり女性らしさが伝わってきません。しゃべる言葉遣いは女性らしいのです。しかし、どうも中性的です。掛け合いは、相変わらず巧いと思います。しかし、人物の描写は乏しくて、面白いネタだけで物語が成り立っています。
 小説ではなくて、教訓書なのでしかたがないところでしょうか。

 ガネーシャと黒ガネーシャのキャラクターが被ります。偽者という設定はわかります。しかし、話が混線するだけでした。これは、途中から飽きてしまったので、設定で損をしています。

 中盤から、夢をかなえる話が具体的になります。品物を売るという想定は、売れるか売れないかということになるので、わかりやすいのです。だから、おもしろいのです。

 海外の人を喜ばせるお寿司の話は、もっと語ってほしいところです。
 人を喜ばせることの大切さは、松下幸之助のモットーでした。このことをもっと語ったら、さらに話が盛り上がったことでしょう。

 後半の夢をかなえる手法は、よくできています。作者は説明は下手でも、説教に関しては巧いと思います。特に、「苦しみを楽しみに変える方法」は、わかりやすくて説得力があります。


「苦しみを乗り越えたとき手に入れられるもんを、できるだけたくさん紙に書き出す。そんで、それを手に入れてる自分を想像するんや。そうすれば、今の苦しみは、将来の楽しみを手に入れるための必要な条件になる。また逆を言えば、もし目の前の苦しみから逃げてもうたら、将来欲しいもんが手に入らんようになってまうから、今の自分はもっと苦しまなあかんようになるわけや」(360頁)

 前半は、話を引き延ばし気味でした。第1作のようなキレがないのが惜しまれます。
 語られている教えはもっともなことなので、2弾と3弾というシリーズ化にあたり、ギアチェンジに失敗したといえます。

 本書の最後にまとめとして掲載されている、「ガネーシャの教え」を引きます。
 全体的に、読者に語りかけるパワーとサービス精神が、次第に低下してしまったようです。【2】


自分の持ち物で本当に必要なものだけを残し、必要のないものは捨てる

苦手な分野のプラス面を見つけて克服する

目標を誰かに宣言する

うまくいっている人のやり方を調べる

一度自分のやり方を捨て、うまくいっている人のやり方を徹底的に真似る

空いた時間をすべて使う

合わない人をホメる

気まずいお願いごとを口に出す

今までずっと避けてきたことをやってみる

自分の仕事でお客さんとして感動できるところを見つける

一度儲けを忘れてお客さんが喜ぶことだけを考える

自分の考えを疑ってみる

自分にとって勇気が必要なことを一つ実行する

優れた人から直接教えてもらう

一緒に働いている人に感謝の言葉を伝える

自分で自由にできる仕事を作る

余裕のないときに、ユーモアを言う

目の前の苦しみを乗り越えたら手に入れられるものを、できるだけ多く紙に書き出す

欲しいものが手に入っていく「ストーリー」を考えて、空想をふくらませていく

手に入れたいものを「目に見える形」にして、いつでも見れる(ママ)場所に置いておく

自分流にアレンジする

2015年5月27日 (水)

読書雑記(130)澤井希代治著『夢をつなぐ 全盲の金メダリスト 河合純一物語』

 澤井希代治著『夢をつなぐ 全盲の金メダリスト 河合純一物語』(ひくまの出版、1997,11)を読みました。


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 水泳選手だった河合純一さんは、中学3年生のときに失明します。
 それでも諦めることなく、バルセロナのパラリンピック全盲の部で、男子百メートル自由形で銀メダルを、さらにその後、アトランタのパラリンピックで、念願の金メダルを取りました。

 純一さんは、静岡県の中学から筑波大学附属盲学校高等部に入り、読めなかった点字も修得します。そして、バルセロナで開催されたパラリンピックの6種目に出場して、銀メダル2個、銅メダル3個を取りました。
 早稲田大学に入ってからのアトランタのパラリンピックでは、2個の金メダルと、銀と銅を1個ずつ取りました。

 本書は、静岡県教育委員会から教員採用試験合格の通知が届いたところで終わります。
 つまり、生まれてから社会人になるまでの一代記の形式です。
 この、苦労話をちりばめた努力顕彰型の執筆手法と、著者の筆力の乏しさに、私は大いに疑問を持ちました。

 純一さんを陰で支えた弟が描けていません。先生や水泳仲間のことも表面的で言葉足らずです。
 それよりも何よりも、純一さんの心の中に筆者が入り込んでいません。著者の想像力の欠如が顕著です。

 筆者は、純一さんの従兄弟だそうです。親族の立場から、温かい眼差しで負けん気の強い純一さんを語ります。しかし、その視線があまりにも純一さんに寄り添いすぎました。
 小さい頃から知っているのなら、もっと純一さんが心の中で悩み抜いた葛藤や、自分を応援してくれる人々への思いを代弁しなくてはいけません。そこまで、筆が伸び切らなかったことが、読んでいて返す返すも残念でした。

 ないものねだりかもしれません。しかし、せっかくの若者の貴重な人生が、この程度で語り終えたとされてしまっていることは、純一さん本人も不満足でしょう。これでは、親族やファンクラブの広報か宣伝を兼ねた、自伝を装ってのヨイショ本です。お涙頂戴で盛り上げることにも失敗しています。

 やはり、刊行されたこの内容はあくまでも前章であり、純一さんの夢であった教員として社会に船出してからが本章となるはずです。
 これまでの艱難辛苦が生徒との関わりと自分の生活の中でどうなるのか。
 教員としての生活に、目が見えないことでどのような影響があるのか。
 余人をもって変えられない生活体験が、どのように教育に生かされていくのか。
 さらには、その後のパラリンピックでの活躍の背景にある努力は。
 等々。

 本書のような内容に留まっていては、刊行を急ぎすぎたと言わざるをえません。
 このようなまとめ方で本を出版したことは、純一さんのこれからにもよくないと思います。【1】

※追記
 本書刊行後も、純一さんは、シドニーパラリンピック、アテネパラリンピック、北京パラリンピックに出場してメダルを獲得しています。ただし、ロンドンパラリンピックでのメダルはありませんでした。
 著書に、『夢追いかけて』(河合純一、ひくまの出版、2000.07))、『生徒たちの金メダル』(河合純一、ひくまの出版、2001.08))があります。やはり、本書で十分に語られていないことを、自分の手でなんとかしたかった、ということでしょうか。
 2003年には、本人が出演する映画『夢追いかけて』(三浦友和、田中好子等出演)が公開されました。ただし、これは酷評がなされているので、ここではとりあげません。
 さらには、国政に打って出るのです。そうしたことを読後に知ると、今後のさらなる活躍を願うだけに、本書の存在がかえって無意味なものに思えてきます。
 
 
 

2015年5月25日 (月)

読書雑記(129)『聾史レポート 第二集』

 近畿聾史研究グループ編『聾史レポート 第二集』(2012.10.31)を読みました。


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 本書は、『聾歴史月報』の59号までに掲載されたレポートから、精選された5本に加筆修正を施したものを発表順に編集したものです。

 まず、「目次」をあげます。


はじめに
近世儒者の障害者観…熊田寿貴(42号)
新聞記事にみる大阪摸範盲唖学校…新谷嘉浩(37、38、39号)
奈良県立ろう学校創立以前の私立奈良盲唖学校について…山中照章(51号)
浜松聾唖学校の助詞手話…梶本勝史(36号)
近畿聾史研究グループの活動経過…(新谷嘉浩)
執筆者紹介
あとがき

 既発表の論稿を再編集した構成となっている報告集なので、以下にわかる範囲での個人的なメモを適宜記し残しておきます。

■「近世儒者の障害者観」(熊田寿貴)
 本稿は、次の視点でまとめられたものです。


 海保青陵の思想と盲児や聾児を教育した寺子屋があったことの違いが、当然疑問になる。そこで、江戸時代における儒者が聾者に対してどう考えていたのかについて、生瀬氏の解釈や評価に言及し、この疑問に対して説明を試みる。これが本稿の課題である。(7頁)

 ここに引かれる「生瀬氏の解釈」とは、『近世日本の障害者と民衆』(生瀬克己、三一書房、1989年)に収録されている「儒者の障害者像」を指します。
 生瀬氏の言及を検討した結果、筆者は次の結論に至っています。


 それ(私注・生瀬氏の著書)によれば、江戸時代初期の儒者は、聾唖者を含む障害者への思いやりをもって救済せよと主張していたが、幕末になると、海保青陵の見殺し理論によって障害者が差別を受けるようになったと結論している。しかし、これは近世における儒学史を参考に考察すると、一部分訂正が必要である。すなわち、幕末の儒学では、道徳的に救済することと、経済的な発展のために障害者を排除することなどの考えが混在していた。このような中で、庶民は道徳的に聾児を寺子屋で教育したのである。(25 - 26頁)

 
■「新聞記事にみる大阪摸範盲唖学校」(新谷嘉浩)
 本稿は、明治12年に大阪で初めて開校された公立盲唖学校に関する新聞記事を、丹念に整理してまとめたものです。
 その中から、京都盲唖院の開校前後の記事と、「教唖五十音図」に関するもの、そして盲唖生徒の実数がわかる記事を引きます。

No.4 一八七九(明治一二)四、一七(大朝)(私注・「大朝」は「大阪朝日新聞」の略称)
《雑報》
○西京にて盲唖学校を開かれし遠山氏は今度當地へ来られ中の嶋中学校にて官立摸範学校を開かれる由を願ひ出られしに既に許可になり近々より開校のよし
◎この遠山氏とは遠山憲美〈とおやまのりよし〉(一八四九〜一九一二)のこと。遠山憲美は一八四九(嘉永二)年三月一日に宇和島伊達藩士の遠山帥総の次男として宇和島で生まれた。明治初年に横浜へ留学し、一八七一(明治四)年にアメリカに渡り、サンフランシスコの仏商館で働いている二人の聾唖者の姿に感銘し、日本での盲唖学校設立の必要性を痛感する。一八七七(明治一〇)年に京都に止宿し、愼村正直京都府知事に「盲唖訓黌設立ヲ促ス建議意見書」を提出した。
 遠山の建議提出を知った古河太四郎は、一八七八(明治一一)年一月九日、横村知事に盲唖教場の拡大計画による「盲唖生募集御願」を提出。二者競合のうちに盲唖院設立の運動は急速に盛り上がる。五月二四日、京都盲唖院が開校し、古河太四郎は教員、遠山は用掛として採用された。しかし、古河と遠山の両氏の関係が悪化し、古河と遠山の問題から遠山対京都府に発展し、遂に遠山が退職することとなった。(37 - 38頁)

 次の記事に出てくる「教唖五十音図」は、本『聾史レポート 第二集』の表紙に使われています。
 前掲表紙画像を参照してください。
 この「教唖五十音図」によると、あ行に「ヱ・ゑ」があり、や行に「エ・江」があり、現行の五十音図と異なっています。この明治期の五十音図には、興味深いひらがなとカタカナから配置されています。後日、整理します。


No.34 一八七九(明治一二)一〇、二六(大朝)(私注・「大朝」は「大阪朝日新聞」の略称)
《雑報》
○末吉橋通三丁目和田喜三郎が編輯にて出板せし盲唖五十韻は盲唖院にあるより他に原稿而はなき者なれば同人を呼出し取調られしに道路の夜店にて買入し旨を答へ曖昧なれば戸長等を呼出し取調べられると
◎この和田喜三郎が編輯した「盲唖五十韻」は"教唖五十音図"の事であり、『聾唖教育』第六三号(一九四一年五月二〇日、日本聾唖教育会)に論文と図が紹介されている。それによると"教唖五十音図"は「明治一二年一〇月七日出版御届とある。そして同年同月同日刻成りしものとして、図音出版人は大阪府平民和田喜三郎(大阪府下南区末吉橋通四丁目十六番地)とあり、賣捌所は順慶町心斎橋西、保田與三郎である。そしてこれは指文字による五十音図であり、しかも明治一二年という日付に極めて深い意義がある」と述べている。
◎和田喜三郎は、大阪府下南区末吉橋通四丁目十六番地(現大阪市中央区南船場二丁目辺り)に住み、大阪の版元であり、文楽の筋書きなどの木版本を刊行した。峯入木目込人形を出品。また、他の論文から和田喜三郎が指文字を考案し図を作成したとは考えにくい。では、誰が何の目的でどのようにして指文字を考案し図を作らせたのかを考えると、大阪摸範盲唖学校の教員として正式に採用された(記事 No.28・42)遠山憲美ではないかと考えられる。遠山憲美が古河太四郎に対抗するため独自で考案し、和田喜三郎に"教唖五十音図"の印刷を依頼し、京都盲唖院開校式(一八七八年五月二四日)の時に古河太四郎が考案した指文字を配布した(注47)様に、一一月五日に開催する大阪摸範盲唖学校の開業式の際、唖生に配布する予定だったのではないかと推測する。(68 - 70頁)

 引用文中後半の「※47」とある箇所には、次の注記があります。


(47)京都盲唖院の古河太四郎が考案した「唖五十音字形手勢(形象五十音文字)」は幼児や聴者用に、高学年(三級以上)や唖者互談用には京都盲唖院の開業式で配布した「瘖唖手勢五十音」や私立大阪盲唖院で用いたと見られる「五十音手勢捷法(五十音符号手勢)」がある(岡本稲丸『近代盲聾教育の成立と発展 古河太四郎の生涯から』NHK出版、一九九七年、一七六ページ)。(111頁)

 次の記事には、明治11年から12年の時点で、大阪府盲唖学校で唖生徒25名、盲生徒15名とあります。また、遠山憲美の動静もわかります。


No.44 一八七九(明治一二)一一、一二(大朝)(私注・「大朝」は「大阪朝日新聞」の略称)
○當府盲唖学校は去八日より開業になり就学生徒四拾名の内盲生徒拾五名内八名は予て記せし通り緒方軍医の施療の診断に依りて治療し得べき者なれば此頃同氏の施療を受け追々実効を奏するに至れりと実に該生徒の幸甚なり
○又同校長遠山氏は盲唖の教育法に老熟なる人にて前に西京の盲唖院を開かれしも同氏の尽力なりしが来年三月に至れば鹿児島県へ盲唖院開設に赴むかれる筈なりと
◎大阪摸範盲唾学校々長遠山憲美が、以前に京都盲唖院の開設に尽力したように、来年三月に鹿児島で盲唖院を開設するため、当地へ赴くという記事。鹿児島では盲唖学校開設にむけて着手しているが、未だに開業に至っていないと文部省に報告している。
「廃人学校設立ニ着手シ十一年中在テハ未夕開業二至ラス」
実際に聾唖学校が設立されたのは、一九〇〇(明治三三)年七月五日である。(79 - 80頁)

 
■「奈良県立ろう学校創立以前の私立奈良盲唖学校について」(山中照章)
 本稿は、奈良県で聾学校の設立が立ち後れたのは、財政力の欠乏により余裕がなかった、とした上で、次の問題意識と視点から論ずるものです。

 本稿では、奈良県設置以後、明治半ばから大正まではなぜ設立しなかったのか、良県行政はどのようにろう学校を設立したかについて述べる。
盲唖学校創立以前
 奈良県では、明治三十六(一九〇三)年、東京盲唖学校長の小西信八を招いて、講演を行った。日時・場所など、詳細は載っていない。しかし、奈良県はまだ聾学校を設立する意思がなかっただろうが、なぜ小西を招いたのか、理解できない。(118 - 119頁)

 次は、ロート製薬の創立者山田や天理教に関する記事です。
 紆余曲折の末、昭和六年にようやく奈良県立盲唖学校が設立されたのです。


 大正八(一九一九)年秋頃から奈良盲唖学校の設立を準備しようと立ち上がったのは、小林卯三郎と山田安民であった。(中略)
 山田安民はロート製薬社の創立者であり、盲唖教育について熱心であった。山田は明治元年宇陀郡池上村(現宇陀市榛原)に生まれ、関西法律学校(現関西大学)に入学したが途中で東京に行き、英語を学んだ。しかし、病気にかかり中退し、明治三十二(一八九九)年製薬会社「山田安民薬房」を創立して、胃薬の販売に成功した。明治四十一年目薬の製造に成功した。それがきっかけで盲唖教育について関心を向けることになった。彼は、奈良県には盲唖学校がないことに気がついた。
(中略)
 知事は「予算が付けられるようになったら、県に移管してもらうので、当分は県立代行として、天理教にお願いしたい」と天理教の二代真柱中山正善に経営を依頼した。
 二代真柱は旧制高校生だった。一言で「よろしい」と引き受けた。
(中略)
 そして、昭和五(一九三〇)年頃、県が重い腰を上げて県立移管へ準備を進めた。昭和六年三月二十日に奈良県令十六号が制定され(『奈良県報』八百六十一号)、奈良県立盲唖学校が設立された。
 この年四月に、奈良県立図書館の中二階に最初のろう児六名が入学し、授業が始まった。十月、吉田角太郎校長先生を迎えて、口話教育が始まった。そして、昭和七年四月奈良市油阪町(現奈良市大宮町)に新校舎が完成し、聾学校と盲学校ともに移転した。新しい校舎で本格的な教育が始まった。
 昭和四十四(一九六九)年、現在の聾学校、盲学校の校舎に移転し、現在に至っている。(120 - 127頁)

■「私立浜松聾唖学校の日本語指導 ─「助詞の手話」についての聴き取り調査─」(梶本勝史)
 「助詞の手話」とは、手指の動作で助詞や助動詞等を指導するものです。本稿は、太田二郎氏をモデルとして、写真で説明するものです。
 
 目や耳が不自由な方々をとりまく問題点は、その歴史的な変遷と現状確認も含めて、私はまだ勉強中です。その中で、本書からは、これまでまったく知らなかったことを数多く教えてもらうことができました。牛の歩みのような速さではあっても、少しずつ理解を深めていくつもりです。
 
 
 

2015年5月24日 (日)

読書雑記(128)水上勉『はなれ瞽女おりん』

 水上勉の『はなれ瞽女おりん』(新潮文庫所収、平成14年9月)を読みました。


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 暗くて哀しい瞽女さんの物語として、自分勝手な先入観を持っていたせいか、読む機会を逸していました。一気に読み終わった今、人間の透き通るような美しさが描き出されていたことで、作者の表現の妙に感心しています。そして、今はその存在が見えなくなっている瞽女という人々の姿を、あらためて考えるようになりました。

 本作では、貧しさの中で必死に生きていく女と男が、純粋な心の持ち主としてとして語られます。
 複雑な社会と過酷な風土を背景として、おりんも平太郎も共に、はみ出した道を歩んでいくのです。
 北陸から若狭を舞台とする、哀切極まりない語り口に、終始圧倒されて読みました。

 作者は、若狭に生まれ育った自分の体験を元にして、自分なりの瞽女の実態をまず語ります。
 これは、瞽女のありようを理解するのに、簡潔でわかりやすい解説となっています。

 話は越後瞽女へと移ります。その中には、「はぐれ瞽女」「はなれ瞽女」「落し瞽女」といって、掟を破り男と交わったりして仲間外れになった瞽女がいました。本話の主人公であるおりんがそれです。明治30年代の話です。

 瞽女を語る作者の温かな眼差しが、行間から伝わって来ます。
 この物語に横溢する美しさは、その構成と語り口に依るものだと思います。

 中でも、おりんが17歳で月のものを見てからは、大人になった瞽女の様子が克明に語られます。
 本作における読みどころの一つです。

 さらには、おりんにとっては思いがけないことながら、旅先で男の夜襲に遭遇し、はなれ瞽女になって落ちるくだりも見逃せません。

 その中に、「瞽女式目」が出てきます。


「謹んで惟うらく、人王五十二代嵯峨天皇第四の宮、女宮にて相模の姫宮瞽女一派の元祖とならせ給う。かたじけなくも、下賀茂大明神、末世の盲人をふびんとおぼしめされ、かたじけなくもおことのはらにやどらせ玉い、胎内より御目めしいて御誕生ましし、父大王、母后、神社仏閣の御祈祷これあるといえども、大願成就の種なれば、更に甲斐あらず。」(137頁)

 過般、「読書雑記(119)ジェラルド・グローマー『瞽女うた』を読んで」(2015年03月16日)でも、加茂大明神のことをメモとして記しました。ここでは、下賀茂大明神となっています。
 このことは、まだ何も調べていません。もうしばらく課題として持っておきます。

 下駄職人の平太郎と出会った後は、2人の道行き語りとなります。
 後半で警察が顔を出すようになってから、俄然サスペンサタッチになります。話がおもしろくなるのです。それでいて、おりんはまったく変わりません。また、目が見えないことが却って話を自然にしています。

 おりんの『口伝』を随所に使い、聞き語りの手法を生かして物語っています。柔らかな語り口の中に、人間を見据えた鋭い観察眼が感じられました。
 また、北陸地方への愛着も滲み出ています。

 はなれ瞽女おりんは、純粋な心を持った女性として、美しく描き出されています。【5】

 本作は、昭和50年9月に新潮社より刊行されました。
 
 
 

2015年5月20日 (水)

読書雑記(127)琳派400年で鳥越碧『雁金屋草紙』を読む

 鳥越碧氏の『雁金屋草紙』(講談社文庫、1993.9)は、1994年4月に読み、力作だったとのメモを記していました。

 今年は、琳派400年。本阿弥光悦が京都洛北鷹峯に「光悦村」をひらいてから400年です。
 さらには、尾形光琳没後300年でもあります。
 再来週の6月2日には、光琳300年を記念して、ゆかりの妙顕寺で「大光琳祭」が開催されます。

 こうした催しの詳細は、小冊子『琳派四百年記念祭イベントガイド・初夏号』(琳派400年記念祭委員会、2015.4)をご覧ください。


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 本阿弥光悦、俵屋宗達、尾形光琳・乾山、酒井抱一等々。
 京都ではさまざまな催しが行われています。
 そのような中で、鳥越氏のデビュー作『雁金屋草紙』が印象深い作品だったことを思い出し、急遽再読しました。


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 本作は、第1回時代小説大賞(1990年)の受賞作です。満票で受賞が決まったということなので、作者は最初から幸運な作家として始動したのです。
 本作を読み終わってすぐに、第3作である『後朝 和泉式部日記抄』(講談社、1933.10)を読んでいます。これは、また後日取り上げる予定です。

 さて、『雁金屋草紙』です。
 「うなじに雨を感じて、奈津は顔をあげた。」
と始まり、しっかりとした文体で綴られる物語です。
 情感豊かな語り口に、次第に引き込まれていきました。

 この第一章第一節が、最後までこの物語の通低音として響いていました。
 感動とともに本作を読み終わってから、また、この巻頭部分を読んでしまいました。完成度の高い仕上がりです。

 最初は巻末の家系図を見ながら読み進みます。しかし、次第に人間関係がわかると、後は一気に読めました。表現力のある、筆の力を感じる文章で語られていきます。

 寛文11年端午の節句の夜、青い月光を浴びながら市之丞(後の光琳)と奈津が、築山の心字池で夜空を見上げて言葉を交わす場面が、ことのほか印象深く残っています(74〜76頁)。


「奈津、起きとるのか」と、庭の方から低く呼ぷ声がした。
 急いで小袖を重ねて戸を開けると、まだ白装束のままの市之丞が、青い月光を浴びて立っていた。
「なんや、眠れへんのや」
「はあ、うちも」
「そこら、歩いてみいへんか」
 そう云って、市之丞は築山の方へ背を向けた。
 奈津は縁下の庭草履を履き、小走りに追った。
 老松の上にゆったりと夜の雲が流れ、心字池には月の光をうけて、小波がきらきらと光っていた。
(中略)
 奈津は夜空を見上げた。
 小さな星がいくつも煌めいていた。
「奈津、儂、約束するわ。いつかきっと光悦に負けん仕事したやるわ」(74〜76頁)

 感動的な話の背後に、秋の夜の月の光が配されているのです。

 全編、奈津の思いと生きざまが、市之丞(光琳)を背景に置いて克明に語られます。温かい眼差しで、寄り添うように言葉で紡がれる奈津という女性の内面が、大事なものを届けるように読者に伝わります。

 人真似ではなくて、自分というものを探し求める奈津です。

 光琳のことばに、「狩野派の血筋でもない一介の町絵師」(159頁)とあり、そこにかつて私がこの文庫本に引いた赤線が、何箇所かにありました。


「町絵師云うんはな、幕府の御抱えの狩野派の人らとは違うんや、じっと待ってて仕事のくるもんやないんやで」(183頁)
 
「町絵師云うんは、お抱え絵師と違うて不安なもんやなあ」(203頁)
 
「『躑躅図』も狩野探幽への尊敬が露わに出て、兄様も江戸で何かを捉えはったようや、と見るお方もおいでやそうどすけどな。先日は、狩野尚信の『瀑布図』に竜を加筆し、今は時間をみつけては『波濤図』をお好きなままに描いてはるようどすけど」(218頁)
 
「光悦に宗達に、探幽、山楽にかて勝ってやるぞ、」(247頁)

 前回本作を読んだとき、ここに赤線を引いたのは、その年の春に「パリで『探幽筆 三拾六哥仙』を見つけた」直後だったことが関係しています。
 狩野派の絵のことが頭にあり、その視点で本作を読んでいたのです。今回は、琳派の視点から読んでいるので、それこそ本筋を読もうとしている自分を意識して読み進めました。
 琳派400年だからこそ、こうして読んでいるのでした。

 また、お茶を教えるシーンなどは、自分が茶道を実際にするまでは、何にも考えずに読み飛ばしていたところです。それが、そのくだりを何度も読んでは、お作法を確認している自分がいるのに驚きました。
 本の読み方が変わってきたようです。


 茶筅を茶碗から出して、水指の前に置き、お衣音は両手を膝に揃えて、思案している。
「お茶碗をお引きやして」
「ああ」と、はにかんで笑う。
「……回半……」と、思わず声に漏らして茶碗を拭き、棗に手を伸ばしかけて、急いで茶巾を釜の蓋へ置き、茶杓を取る。その両手の右往左往するのも、そこに、少女なりの一生懸命な様が見てとれてほほえましい。
 ようやくお茶を点て、お茶を出した後に両手を膝に八の字に開いて、背筋を伸ばし正面を視つめている様子は、幼い清潔感が表われ出て、奈津は「ああ、市さまのお小さい頃にそっくりや」と眼を細めた。
 お衣音の中に、一樹院をお佐和を光琳を回灯籠のように見て、それが現実に、一人の少女として存在することが不思議な気がした。
 仕舞にかかったお衣音は、茶杓を清めた後で、建水を下げるのに気がついた様子で、
「忘れていましたわ」と笑いながら、舌先をちょっと見せる。
「お舌などお出しになって、あきまへんえ」と、奈津が注意すると、
「へえ」と、素直に頷いた。
 奈津はこうしてお衣音にお茶を教える機会の与えられたことを、つくづく感謝していた。(206〜207頁)

 光琳といえば、『燕子花図屏風』が有名です。その話を、確認しておきます。


「奈津、行こうか、弁当持って来たんやろ」振向いた笑顔は屈托がなかった。
「奈津、儂なあ、この小川のせせらぎのように燕子花を描いてみるわ」
 先を歩きながら光琳が云う。
「せせらぎのように?」
「西本願寺はんへお納めする屏風絵にな、伊勢物語の八つ橋のな、燕子花を描きたい思て写生してたんやが、今ひとつ位置づけに迷うてたんや」
「…………」
「それがな、こう波のようにな、右から左へ右から左へずうっと調べを奏でるように流してみるんや、どうや」
「へえ」
「こう、こう流れていくんや」
 右手を高く低く、高く低く丘陵を描くように泳がせる。
「紫の風の調べどすな」
「そうや、そうやで、紫の風や、なんやうずうずしてくるなあ」
「爽かな調べどすやろなあ」
「うむ、早よ弁当食うて、描きたいわ」(189頁)

 続いて、下鴨神社と関連してよく知られる『紅白梅図屏風』が完成した場面も引いておきます。


「どうや」光琳が奈津を振り向く。
「あかんか?」と、光琳が笑う。
 悪感が奈津を襲った。奈津は狼狽えた。光琳が手の届かぬ、遠い彼方へ行ってしまったと。
 それは、奈津が今までに一度も見たことのない斬新な構図で描かれた、紅白梅図であった。金箔の上に、向って右に紅梅、左に白梅が力強く根を張る。その間を中央に、早春の雪解け水を集めて、銀地に群青の水流がえも云われぬ迫力でうねり流れる。そのうねりに負けじと、左から右から、白梅の老樹が紅梅の若さが存在を競う。白梅の幹の確かさ、紅梅の枝の鋭さ、水流の豊かなうねり、水紋の激しさ、一つ一つが己れを主張しながら、いつしか、紅梅、白梅、水流は自然に一体となって見る者を稔らせる。
 たらし込みの技法で描かれたあくまでも写実的な紅白梅図に、図案化された水流が、互いに効果をあげて迫り、その中に、紅梅、白梅の花弁が優しさを誇る。かつてどの絵師が、このような勝負を挑んだであろう。
「どうや?」と光琳がまた聞く。
 両眼が愉しそうに動く。
「光琳様……どす」
「うん?」
「……これは……光琳様どす」
 そう呟いて、奈津は頷いた。(273〜274頁)

 読み終えて思い返し、各章各節の結びがきれいに語り納められていることに思い至りました。
 丁寧に語っている傑作の1つです。【5】
 
 
 

2015年5月13日 (水)

読書雑記(126)水野敬也『夢をかなえるゾウ2』

 『夢をかなえるゾウ2 ガネーシャと貧乏神』(水野敬也、2012.12、飛鳥新社)を読みました。


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 前作「読書雑記(122)水野敬也『夢をかなえるゾウ』」(2015年04月03日)がよかったので、楽しみにして読みました。
 しかし、この第2作はハズレでした。
 続けての傑作とは、なかなか出ないものです。

 受けない芸人の話から始まります。主人公は、「夢はかならずかなう」と信じています。ライブハウスで出会ったガネーシャに、「人間は生長する生き物なんやで」と言われ、我に返ります。

 中でも、本でも解決できない悩みがある件はおもしろい指摘でした。一理あるのです。


『本』でも解決でけへん悩みちゅうのは何なん? 自分の悩みは地球初の、新種の悩みなん? 自分は悩みのガラパゴス諸島なん? (60頁)

 その他、チェックした箇所を抜き出しておきます。


・「実は『他人に対する言葉や行動は、自分に対する言葉や行動』でもあるんですよ」(185頁)

・「何かを手に入れるということは、何かを手放すということです。そして何かを手放す覚悟のない人が……成功することはありません。」(224頁)

 前作が傑出していたせいか、本作は間が持たず、キレが良くありません。おまけに、理詰めで展開していきます。そして、説明が増えたので、おもしろさよりも興味に訴える物語となっています。

 ことばが先行し、ことばに頼る文章となっています。感性が前作よりも相当劣化しています。

 話題を引き延ばししすぎるため、話のキレが悪くなっています。テンポがよくないのです。説明口調になっているので、軽快な展開となるはずが寸断されているのです。

 最後の「西野勤太郎のメモ帳」を引きます。
 これを含めて、全体的に読者へのサービス精神が低下しています。【2】


■ガネーシャの教え
・図書館に行く
・人の意見を聞いて、直す
・締切りをつくる
・つらい状況を笑い話にして人に話す
・優先順位の一位を決める
・やりたいことをやる

■金無幸子の教え
・楽しみをあとに取っておく訓練をする
・プレゼントをする
・他の人が気づいていない長所をホメる
・店員を喜ばせる
・自分が困っているときに、困っている人を助ける
・欲しいものを口に出す
・日常生活の中に楽しみを見つける

■釈迦の教え
・つらいとき、自分と同じ境遇にいる人を想像する


2015年5月 6日 (水)

読書雑記(125)山本兼一『命もいらず名もいらず 下 明治篇』

 山本兼一の『命もいらず名もいらず』の後半です。


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 次の文章で始まります。


 日本の国が、混乱を深めている。
 攘夷と開国のはざまで、さまざまな軋みが生じている。
 それこそは、明治という新しい時代が生まれるための陣痛であったが、渦中にいる者は、ただ痛みを感じるばかりだ。
 時代が変転し、人々が右往左往するなか、山岡鉄太郎はまるで変わらない。日々、ひたすら剣に励み、坐禅をくみ、書をしたため、仲間と議論し、大酒を呑む。
 そして、あいかわらず貧乏である。いや、ますます貧乏になった。(10頁)

 江戸時代が明治時代となり、徳川から朝廷へと実権が移ります。それに適合できる人と、できない人の思いや動きが、丹念に描き出されています。徳川慶喜の心の中と姿も、あるがままに活写されていくのです。

 勝海舟の言葉遣いが、ことさら江戸言葉になっています。「ねえやな。」「ねえぜ。」「ねえよ。」等々。西郷隆盛も、清水次郎長も、お国なまりを強調しており、それらしい人物が浮かび上がります。作者は、この時代の多彩な人々を描き分ける上で、言葉遣いに相当気を配って描写しているようです。
 次郎長は漢字が読めないのでひらがなだけだった、という興味深い逸話も、時代背景としておもしろいと思いました。

 人間、持ち前の度胸や度量がいかに難局を救うかが、よく伝わってくる話の展開となっています。
 時代の大きなうねりが、鉄舟とその周辺を通して克明に語られていくのです。

 静岡の荒地に江戸から入植した者たちがお茶を栽培する話は、その経緯からして興味深いものがありました。明治2年の牧之原での話です。かつて私が東名高速道路を走って通りかかった時、このことにはまったく気付きませんでした。こうしたことを知れば認識が深まり、その理解が拡がっていきます。

 西郷さんが大きく描かれていました。ただし、その人間像にまでは及んでいません。作者は、桁外れに大きな人間を描くのは苦手かもしれない、と思いました。持て余し気味のように感じたからです。

 また、銀座4丁目角にある木村屋のあんぱんの話は、その前をよく通るだけに意外な接点を知りました。今度行ったら、看板をよく見てきましょう。

 巻末部で印象に残ったことは次の2箇所です。

(1)鉄舟にとって、人間がよって立つべき法は、「嘘と泥棒はせぬこと」という2つだけだった。(544頁)
(2)鉄舟は、胃に穴が開いたために腹膜炎で亡くなった。(571頁)

 (1)には私も同感です。確かに、これだけで人の交わりは円滑にいきます。
 (2)は、私が45年前に体験したことです。もし今の医療技術があれば、鉄舟もまだ活躍できたのです。

 本書は、山岡鉄舟というゆったりとした人物を据えて、明治という一大変革の時代を読み物として語ってくれます。過去を切り捨てがちな風潮に、人間を通して再評価を迫った作品として結実しています。山本兼一が描く人物は、しだいに角が取れていくところに特色があるように思いました。【4】
 
 
 

2015年4月30日 (木)

読書雑記(124)山本兼一『命もいらず名もいらず 上 幕末篇』

 明治維新前後の人々の生き様には、現代とは違う緊張感が感じられます。
 平安時代でもない、昭和・平成時代でもない、明治時代には、日本人が持っている純真な情熱と行動力が、飾ることなくストレートに表出されたと思っています。
 そのような問題意識を抱きながら本作品を読むと、この長大な物語をもっともっと語ってほしかった、と思うようになります。
 山本兼一は、1年前の2014年2月13日に、57歳の若さで亡くなりました。

 『命もいらず名もいらず』は、京都新聞を始めとする各地方新聞に連載されたものです。それに加筆修正して、[上 幕末篇]と[下 明治篇]の2分冊で2010年にNHK出版より単行本として刊行されました。今回は、集英社文庫で読みました。


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 本作品は、次のように始まります。


 とんでもない男である。
 世に正直者や、志の高い人間は多いが、この男ほどまっしぐらな人間はめずらしい。(10頁)

 とにかく器量の大きな、小野鉄太郎高歩(後の山岡鉄舟)の登場です。
 次のくだりでも、そのことが強調され、本作品の太い柱となっています。


「人は、器量に応じた仕事しか為せない。器量に応じた人生しか送ることができない。器量を広げたいと願うなら、目の前のことをとことん命かげでやることだ。人間の真摯さとはそういうことだ。」(64頁)

 鉄太郎の貧乏暮らしと、あるがままに従う妻英子の素直さが、とにかく印象的です。物がないことなど、本当は大したことではないのです。人間の大きさを痛感させられました。それでいて、登場人物たちの目は、確かに日本の行く末を睨んでいます。

 江戸から明治へと、時代のうねりが大きなスケールで描かれていきます。
 若さゆえの情熱と行動力が、淡々とした文章から滲み溢れ出さんばかりに、読者に伝わってきます。抑制された山本兼一の文章と、そこに語られる時代の胎動とのギャップが、物語を確実に明治維新へと導いていきます。
 鉄太郎を通して、幕末当時の激動の歴史が語られていくのです。
 その背景に、大きな変革の波と時間の流れが、絶妙なバランスで映し出されているのです。【4】
 
 
 

2015年4月10日 (金)

読書雑記(123)高島俊男著『漢字と日本人』

 現在一般に使われている「ひらがな」の来歴とその字母、及び点字の「かなづかい」について考えるようになってから、明治33年を意識するようになりました。
 この明治33年に、国語政策の上で何があったのかが知りたくて、資料を探していたところ、『漢字と日本人』(高島俊男、文春新書、平成13年10月)という本を教えてもらいました。


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 現在使っているひらがなの「か」(字母は「加」)については、これまでの写本等の出現率からいえば、当然「可」の崩し字であるはずなのです。しかし、どうして「か」になったのか、ということについて、私はこれまでは冗談半分に、加藤さんがこのひらがなの「か」を決めたのではないか、と言ってきました。
 このことについて、本書で「国語調査委員会の委員長は加藤弘之で主事が上田萬年である。」(189頁)という説明に出会い、まんざらあてずっぽうではなかったのではないか、と思ったりしています。

 本書は、癖のある語り口なので、慣れるのに時間がかかりました。例えば、文末が「である。」「している。」「ことだね。」「ください。」「ますね。」「わけだ。」「ようにね。」「けどね。」「でしょう?」等々となっているので、読んでいて落ち着きませんでした。しかし、内容がおもしろく、具体例がわかりやすいので、最後まで読みました。

 以下、適宜個人的にチェックした箇所を抜き出しておきます。
 私はこの分野には疎いので、あくまでも私の興味のおもむくままに引用するものです。


 日本人の思想をあらわす日本語は、ないことはないが(たとえば、いさぎよい、けなげ、はたらきもの、等)、とぼしい。特に知的方面にとぼしい。われわれはそれらのほとんどを、中国人の生活からうまれた語にたよらざるを得ない。(27頁)
 
 「十一月の三日は祝日で、ちょうど日曜日です」
 こんなむずかしい文章を日本人は毎日のように相手にしている。ごらんなさい。「日」という字が四へん出てくる。最初の「日」はカ、二つめの「日」はジツ、三つめはニチ、四つめはビだ。これを日本人は一瞬にして判断し、よみわける。ほとんど神業としか思えないが、日本人はへっちゃらだ。よほど頭のはたらきのはやいのばかりがあつまった、世界でもめずらしい天才人種に相違ない。(44頁)
 
和語に漢語をあてるおろかさ
 よくわたしにこういう質問の手紙をよこす人がある。─「とる」という語には、「取る」「採る」「捕る」「執る」「摂る」「撮る」などがあるが、どうつかいわければよいか、教えてください。あるいは、「はかる」には、「計る」「図る」「量る」「測る」などがあるが、どうつかいわけるのか教えてください。
 わたしはこういう手紙を受けとるたびに、強い不快感をおぼえる。こういう手紙をよこす人に嫌悪を感じる。こういう手紙をよこす人は、かならずおろかな人である。おそらく世のなかには、おなじ「とる」でも漢字によって意味がちがうのだから正しくつかいわけねばならない、などと言って、こういう無知な、おろかな入たちをおどかす人間がいるのだろう。そういう連中こそ、憎むべき、有害な人間である。こういう連中は、たとえばわたしのような知識のある者に対しては、そういうことを言わない。「滋養分をとる」はダメ、「摂る」と書きなさい、などとアホなことを言ってくるやつはいない。ほんとに自分の言っていることに自信があるのなら知識のある者に対してでも言えばよさそうなものだが、言わない。もっぱら自分より知識のない、智慧のあさい者をつかまえておどす。
 「とる」というのは日本語(和語)である。その意味は一つである。日本人が日本語で話をする際に「とる」と言う語は、書く際にもすべて「とる」と書けばよいのである。漢字でかきわけるなどは不要であり、ナンセンスである。「はかる」もおなじ。その他の語ももちろんおなじ。(87頁)
 
 なおまたついでに申しておきます。漢字をよく知っている人は漢字の多い文章を書く、と思っている人があるようだが、それは逆である。漢字の多い文章を書くのは、無知な、無教養な人である。これは、第一に、かなの多い文章を書くと人にバカにされるんじゃなかろうかと不安を感ずるからである。第二に、漢字をいっぱいつかった文章を書くと人が一目おいてくれるんじゃないかというあさはかな虚栄ゆえである。第三に、日本語の本体は漢字で、どんな日本語でもすべて漢字があり漢字で書くのがほんとうだと信じこんでいる無知ゆえである。ボラはどう書くのムジナはどう書くのナメクジはどう書くのと言っているのは、かならずこういう程度のひくい連中である。ワープロが普及してからいよいよこういう何でも漢字を書きたがる手合がふえてきた。(90頁)
 
 英語を日本の国語にすることをとなえた人たちはみな、日常の会話はともかくも、すこし筋道立ったことを話す際、特に文章を書く際には、日本語よりも英語のほうが容易であった人たちである。明治の前半ごろに教育を受けた人たちは、日本語の文章を書く訓練を受けたことはなく、もっぱら西洋人の教師から西洋語の文章を書く訓練をきびしく受けたのであるから、日本語の文章は書けないが、英語やフランス語なら自由に書ける、というのはごくふつうのことであった。その点、昭和の敗戦後に、フランス語を国語にするのがよいと言った志賀直哉などとは選を異にする。なおまた、言うまでもないことだが、明治前半ごろまでの日本語の文章というのは、それを書くのに特別の訓練を要するものであった。こんにちの日本人が書くような、だらだらした口語体の文章というのはまだなかった。文章は、話しことばとは別のものであった。(172頁)
 
 明治の国語政策(音標文字化)を指導したのが上田萬年である。慶応三年生れ、帝国大学和文学科卒、明治二十三年博言学研究のためドイッに留学、同二十七年帰朝、帝国大学博言学科教授。三十一年国語学研究室創設とともに教授。三十三年文部省国語調査委員。ミ十五年同国
語調査委員会委員、同主事。昭和十二年没、七十一歳。(184頁)
 
 国語調査委員会の委員長は加藤弘之で主事が上田萬年である。ほかに委員が十一人と補助委員が五人いる。実質的に委員会をリードしたのは加藤と上田である。加藤は、日本の国語改革のために秀才を一人選んでヨーロッパに派遣し博言学を研究させるよう政府に建議した人で、上田はその選ばれてヨーロッパへ行った秀才である。この両人に次ぐ領導的位置にあったのが大槻文彦と芳賀矢一である。これらは大物だ。対して補助委員は若手の俊秀で、たとえば新村出(当時二十七歳)がはいっており、新村が京都へ行ったあとは山田孝雄がくわわった。(189頁)
 
 わたしも、「假名」はよくないと思う。本来はまさしく「假名」(ほんとうでない字)の意で命名されたのであり、また実際一段価値のひくい文字とされたのであるから「假名」でいたしかたなかったのであるが、これこそが日本の字なのであるから、「假名」(「仮名」と書いてもおなじこと)ではまずい。さりとて新村の言うごとく新名称をつけるのもむずかしいから、わたくしはかならずかなで「かな」と書くことにしている。(236頁)
 
 漢字を制限してはならない。字を制限するのは事実上語を制限することになり、日本語をまずしいものにするから─。制限するのではなく、なるべく使わないようにすべきなのである。たとえば、「止める」というような書きかたはしないほうがよい。これでは「やめる」なのか「とめる」なのかわからない。やめるは「やめる」と、とめるは「とめる」と書くべきである。あるいは、「その方がよい」では「そのほうがよい」のか「そのかたがよい」のかわからない。しかし「中止する」とか「方向」とかの語には「止」「方」の漢字がぜひとも必要なのであるから、これを制限してはならないのである。あるいは「気が付く」とか「友達」とかの書きかたをやめるべきなのである。ここに「付」の字をもちい「達」の字をもちいることに何の意味もない。こうした和語に漢字をもちいる必要はないのである。しかし「交付する」とか「達成する」とかの字音語は漢字で書かねばならない。すなわち「あて字はなるべくさける」というのは、和語にはなるべく漢字をもちいぬようにする、ということである。漢字はなるべく使わぬようにすべきであるが、それは、漢字を制限したり、字音語をかながきしたりすることであってはならぬのである。(238頁)

 
 
 

2015年4月 3日 (金)

読書雑記(122)水野敬也『夢をかなえるゾウ』

 気になっていた水野敬也氏の『夢をかなえるゾウ』(2007.8飛鳥新社)を読みました。

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これは、現時点ではシリーズ第3冊まで刊行されています。順次ここに取り上げていきます。

 非現実的な話なのに、さもありなんという状況で、のらりくらりとおもしろおかしく進展していきます。関西弁と東京弁のやりとりが、微妙なタイムラグを孕みながら物語を和ませています。

 自分の人生を変えて夢を叶えたい僕と、人の希望を集めるのが趣味のガネーシャのやりとりが、軽妙に語られていきます。ガネーシャは、インド出身で関西弁を話す神様として登場しているのです。

 このガネーシャは、インドの方々を凝縮した性格を持っています。大らかでありながら、日本人と同じように繊細で傷つきやすいのです。感情移入してしまいました。

 ガネーシャは、こんな調子で語ります。


「成功しないための一番重要な要素はな、『人の言うことを聞かない』や。そんなもん、当たり前やろ。成功するような自分に変わりたいと思とって、でも今までずっと変われへんかったっちゅうことは、それはつまり、『自分の考え方にしがみついとる』ちゅうことやんか」(32頁)

 剽軽な語り口の中にも、人間をずばりと射貫いたことを言います。
 私がチェックをした箇所を3つほど。


「もし、あなたが何かを実行に移すのなら、昨日までとは違う何かを今日行うのなら、仮にその方法がまちがっていたとしても、それは偉大な一歩です。」(259頁)
 
「今まで無理やったら、これからも無理や。
 変えるならそれは『今』や。
 『今』何か一歩踏み出さんと。
 自分それ、やらんままに死んでくで。」(268頁)
 
「自分の持ってる隠れた才能の可能性を見出すために、何か世の中に働きかけることがあったとしたら、それは全部『応募』なんや。そして、それこそが自分の人生を変え得る大きな力を持ってんねんで」(295頁)

 本書は、人間の行動規範をわかりやすく、かつおもしろく示してくれています。

 「本書の使い方」に始まり、最後の「本書の使い方 〜最後の課題〜」までの各節末に、[ガネーシャの課題]が示されています。その節でのガネーシャの教えを確認しながら、次へと読み進むことになります。

 その課題とは、次のものです。巻末の「ガネーシャ名言集」の項目を引きます。


(靴をみがく)
(コンビニでお釣りを募金する)
(食事を腹八分におさえる)
(人が欲しがっているものを先取りする)
(会った人を笑わせる)
(トイレ掃除をする)
(まっすぐ帰宅する)
(その日頑張れた自分をホメる)
(一日何かをやめてみる)
(決めたことを続けるための環境を作る)
(毎朝、全身鏡を見て身なりを整える)
(自分が一番得意なことを人に聞く)
(自分が一番苦手なことを人に聞く)
(夢を楽しく想像する)
(運が良いと口に出して言う)
(ただでもらう)
(明日の準備をする)
(身近にいる一番大事な人を喜ばせる)
(誰か一人のいいところを見つけてホメる)
(人の長所を盗む)
(求人情報誌を見る)
(お参りに行く)
(人気店に入り、人気の理由を観察する)
(プレゼントをして驚かせる)
(やらずに後悔していることを今日から始める)
(サービスとして夢を語る)
(人の成功をサポートする)
(応募する)
(毎日、感謝する)

 また、巻末資料の「偉人索引」もおもしろい説明となっています。

 最後の頁には、ガネーシャと僕の会話がイラストとともに掲載されています。


「自分も寄付せんと あかんのちゃうか?」
「は、はあ……」

 そして、最下段に小さな活字で次のように書かれていました。


「ガネーシャの教えにより、本書著者印税の10%は慈善団体に寄付されます。」

 なかなかシャレたオチです。【4】
 
 
 

2015年4月 2日 (木)

読書雑記(121)中野真樹著『日本語点字のかなづかいの歴史的研究』

 中野真樹さんの『日本語点字のかなづかいの歴史的研究 日本語文とは漢字かなまじり文のことなのか』(三元社、2015.1)を読みました。


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 これまであまり取り組まれなかった研究テーマということで、目が不自由な方々が読み書きに使っておられる点字の性格について、非常に多くのことを学びました。

 中野さんは、昨日採択の内定を受けた科研で、連携研究者として協力してくださる、得難い若手研究者です。その意味からも、研究分野を異にするとはいえ、真剣に一文字ずつを読み解いていきました。

 著書の献辞には、次のような文言があります。


 本書は明治期に考案されたかな専用文である日本語点字の表記法のうち、とくにかなづかいについて調査をしてまとめた博士論文を書籍化したものです。
 日本語点字は独自の文字体系と文字文化をもつ日本語文字ですが、日本語学の資料としてもちいられることもあまり多くはなく、特に明治大正期のものを資料としてとりあげたものはほとんどないのかと思います。本書は日本語学文字論・表記論の観点から、日本語点字の文字としての特徴や、表記の歴史などを研究したものです。
(中略)
 また、日本語点字は日本語の視読文字である墨字(すみじ)と平行してつかわれている文字です。明治期からの資料の蓄積もあります。「日本語文は漢字かなまじり文でないと“まともな”文章にはならない」などという偏見により、かな専用文である日本語点字を「不完全な文字体系」とみなすようなこころない言葉をきくこともあります。しかし、こころみに点字文の語種の比率や品詞比率などを調査し、墨字文と比較したところそれらの数値はどちらかというとジャンルや時代差、文体に影響され、点字か墨字かという文字種、表記体の違いにはそれほど影響されていないような調査結果が出ています。漢字が日本語文の可読性に及ぼす機能負担については、言われるほど大きなものではないのではないか、という可能性について考えています。今後はこのような点字文の語彙調査や、分かち書きの規則などの研究にも手を広げていきたいと考えております。

 筆者のこのことばは、本書のテーマがこれまでにあまり触れられなかった視点で論ずるところから、本書を読み進む上で大いに参考になりました。
 もちろん、「テキストのデジタル化にともなう情報処理から日本語点字をどう取り扱っていくか」という課題が残されていることも、著者は十分に認識しています。
 今後の調査と研究の成果が楽しみです。

 私は本書を読み終わってから、「あとがき」に目を通していくうちに、著者である中野さんの生のことばを聞いた思いがしました。この「あとがき」を最初に読んでから本論部分を読むと、筆者の問題意識の根源が見えて来て、論点を理解する上で大いに参考になることでしょう。

 以下、いくつか抜き出しておきます。
 まずは、「あとがき」から、左利きの者が文字を書くことに関連した箇所を紹介します。ここからは、カルチャーショックを受けました。


 日本語の墨字漢字・かなは、もともと右手書字につごうのよいつくりになっている。「正しいペンのもちかた」「正しい筆順」「ただしいとめはね」も右手書字者のものであり、それをおしつけてきた国語科書写教育は、左手書字者への教育的配慮をかいている。そのような状況で、左手書字者に、「右手書字者なみ」であることを要求するのは不当であろう。このような観点から、私は論文「左手書字をめぐる問題」をかき、雑誌『社会言語学』へ投稿した。(179頁)
 
 よみやすさ・かきやすさなどといった実用面から飛躍した、「正しい筆順」や「美しい文字」「格式の高い毛筆でかかれた字」に過剰に意味をもたせる文化に拘泥するひとびとがいること、そしてうまれつきの身体の都合を考慮しない文字の社会的な暴力性に興味をいだくようになり、私は文字論に興味をもつようになった。(180頁)

 今まで、こうしたことに気付きませんでした。確かに、さまざまな面で少数者を無視して物事が進行していることへの警鐘は、耳を傾けるべきことだと思います。
 とにかく、点字に関する研究は、これまでになされていなかった分野です。そこへ、意欲的な切り込みを入れた成果として、本書は大いに称賛すべきものとなっています。

 現代仮名遣いと点字仮名遣いの違いから、それぞれの特質が浮かび上がります。
 点字新聞である『点字大阪毎日』と『点字毎日』を調査した結果は、興味深いのがあります。これは、他の年度も含めて現在も発行し続けているものなので、今後とも継続することで貴重な調査となることでしょう。

 文部省の第1期国定教科書であった『尋常小学読本』(明治37年から8年間使用)の仮名遣いの研究などは、これまでまったく手付かずの分野でした。そこへ果敢にも挑んでいく気持ちのよさに、頼もしさも感じました。

 調査対象とする文献に書かれている仮名遣いについては、資料を直接確認しているために論証過程はあまりおもしろくありません。単調になっています。しかし、そこから導き出される結論は説得力を持っています。

 さて、本書の冒頭に立ち返って、私がチェックした箇所を記録として抜き出しておきます。
 まず、「触読」「体表点字」「耳で読む」「視読」など、文字へのアクセス方法に関して。


 点字は、指先をつかってよまれることがおおいが、舌など指以外のからだの部位をつかって触読する場合もある。また、「体表点字」という電波等による信号を体表につたえるよみかたもある。点字でかかれたテキストをよみあげるといったかたちで、墨字とならんで点字を「みみでよむ」利用法もある。点字の凹凸を視読するという方法もある。(9頁)

 点字かなづかいについて、明確な見解がいくつか出されています。以下、引用を続けます。


 今回調査した資料にあらわれる近代日本語点字のかなづかいは、日本語表記史の観点からは、明治33年式棒引きかなづかいとちかい棒引きかなづかいであると位置づけることができる。(118頁)
 
 明治33年式棒引きかなづかいのもう一方の特徴である和語は歴史的かなづかいでかき、字音語については表音的にかくという折衷的な性質については、日本語点字かなづかいの、古文をかきあらわすさいにうけつがれている。(126頁)
 
 二語に分解しにくいかどうかが問題となる連濁の「ぢ」「づ」についても、たとえば「せかいじゅう」か「せかいぢゅう」かについても、「世界中」と漢字で表記すれば悩むこともない。また、「布地」を「ぬのぢ」ではなく「ぬのじ」とかくその根拠は、この事例は連濁ではなく「地」という漢字に「ち」と「じ」という2通りの音をもっているためであるという説明がされるが、これも漢字で「地」とかいてしまえぼよい。このように、「現代仮名遣い」をつかうには、漢字のたすけをうけ、「漢字かなまじり文」でかかれることが前提となっている。いいかえると、「現代仮名遣い」がこのように複雑でむずかしいものでありながらそれが意識されることがすくないのは、漢字かなまじり文を習得してしまえば、そのむずかしさがみえにくくなってしまうためである。(147頁)
 
 国語教育では、学習者が漢字かなまじり文をかくことを目標としており、かな専用文は漢字に習熟するまでの過渡的な表記であるとかんがえられている。そのため、かなづかいの習得と並行して漢字学習がおこなわれる。漢字かな交じり文でかく場合には漢字でおおいかくすことができるかなづかいよりも、習得に膨大な時間を必要とする漢字学習が優先される。ただし、漢字未習語は「ただしく」ひらがなで表記するように求められる。(150頁)
 
 日本点字委員会(1985)は、「改定現代仮名遣い(案)」にたいして、2点の要望をだしている。1点は、助詞「は」「へ」に「わ」「え」の表記の許容を存続すること、もう1点は、オ列長音の本則を「オ列+う」とすることにたいして、「オ列+お」の許容を存続することである。しかしながら、昭和61年内閣告示第1号として公布された「現代仮名遣い」において、まえがきに「7 この仮名遣いは,点字,ローマ字などを用いて国語を書き表す場合のきまりとは必ずしも対応するものではない。」という一文が追加されたのみで、日本点字委員会の要望は反映されてはいないまま、現在にいたっている。点字と墨字の間は互いに翻字される機会もおおくあり、点字使用者と墨字使用者は無関係でいられるわけではない。日本点字委員会からだされた要望について、墨字使用者もむきあう必要があるだろう。(156頁)
 
 日本語点字と墨字は、どちらも日本語を書き表すための文字表記システムであり、並行してつかわれている。また墨字から点字への、そして点字から墨字への翻字がおこなわれる機会もおおくあり、お互いが没交渉でいられるわけではなく、時には対立する場合もあろう。そうであるならばお互いがどちらも同等に尊重されるべきものであり、表記の合理性をめぐっての議論がおこることもあるだろう。その場合は、墨字も点字も同等に、観察され分析される対象であるはずである。しかしながら、墨字漢字かなまじり文「現代仮名遣い」になれているひとびとは、「現代仮名遣い」を基準として、点字かなづかいがどれだけそこから「逸脱」しているかをしりたがり、そしてその「逸脱」の「理由」を説明するようにもとめる。つねに判断をするのは墨字使用者のがわであるとしんじている。もちろん、じぶんのつかいなれているものを基準にしてなにかほかのものを判断するということは、だれにでもおこりうることだろう。問題なのは、そのような墨字使用者が、日本の社会においては多数派であり、現状としては社会全体としての文字・表記のありかたに影響力や決定力をよりおおくもつマジョリティなのである。
 そして、この文字・表記における点字と墨字のマイノリティ/マジョリティのちから関係の不均衡は、日本語学の文字・表記研究分野においても反映されているといえるだろう。(162頁)
 
 1977年に刊行された『国語学研究辞典』には点字の立項がない。その新版と位置づけられる2007年に刊行された『日本語学研究事典』にも同様に、点字の立項がない。また、2011年に刊行された日本語文字論・表記論の概説書である『図解 日本の文字』にも点字にかんする記述はない。
 そして啓蒙的な目的で2007年に刊行された国立国語研究所編刊『新「ことば」シリーズ20 文字と社会』では、「公共サービスの文字」という節であっても公共サービスで長年使用実績のある日本語点字についてはのべられず、墨字のみの記述となっている。(165頁)

 いろいろなことを考えさせられました。
 今後の成果が、さらに楽しみです。

 そんな中で、昨日、連携研究者をお願いしていた科研の内定を受けたことを報告したところ、今日の返信に就職が決まった、とありました。
 群馬県にある関東短期大学に、急遽昨日より赴任したとのことです。
 嬉しい知らせです。
 今日のブログに取り上げる予定だったことを伝えました。
 本記事が、期せずしてお祝いを兼ねるものとなりました。
 新天地でのますますの活躍を祈っています。

 
 
 

2015年3月20日 (金)

読書雑記(120)新井たか子著『愛情の庭 若き盲女の日記(復刻版)』

 新井たか子著『愛情の庭 若き盲女の日記 復刻版』(社会福祉法人 桜雲会 点字出版部、2014.7.25)を読みました。


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 戦前、東京盲学校師範部で学んでいた女学生の日記を編集したものです。昭和17年に「愛情の庭」(興亞書房)として発行された後、約70年もの間「幻の名著」と言われていた本です。
 戦中戦後の混乱期を潜り抜けた1冊が、偶然に著者の手元で見つかり、こうして復刻されたのです。

 著者である新井たか子さんは、1920年に栃木県足利に生まれました。高等女学校の時に字が見えなくなります。足利盲学校から東京盲学校師範部鍼按科を卒業した後は、弱視ながらも多方面で活躍します。「和歌の会」を結成し、歌人窪田空穂の指導を受けたりもしました。

 本書の巻頭には、西條八十の「二元の生活者」(昭和17年5月)、川端康成の「序」(昭和17年5月)を置く、贅沢な編集となっています。

 著者は、しっかりとよく物を見て考えます。感受性の豊かさが伝わって来ます。
 弱視のため、全盲の人との間に入って悩む姿が、読む者の心を惹き付けます。
 学校での明るい生活と、その反面も対照的に語られており、見えないことと生きることの苦渋が、行間から直に伝わってきます。

 日記として記される文章も、表現がしっかりしています。二十歳そこそこの少女とは思えない、さまざまな思いが言葉としてつづられています。この日記には、硬軟取り混ぜての、理知的なものと抒情的な表現が散見します。

 なお、引用文を作成するにあたっては、校正の手間を省いたために、所によっては旧漢字で引いていない箇所があることをおことわりしておきます。


一すぢにもえ上る友情を、冷静な、しかも底に涙を藏した學校當局の處置、經験と境遇の相異からくる生、死といふものへの見解の差、死といふものを大したことに思はぬ私等と、最大の不幸となす先生との間に横たはる大きな距りはまたなんといふ接近し、感電しやすい兩極であらう。先生の氣持をうなづきつゝクラスの熱意を支持してやまない私ではある。(17頁)

 (中略)
 あゝ、なんといふうらゝかな日和だらう。木々は緑に萌え、空は限りなく優しく、花壇には赤や白や黄のチユーリツプが絢燗と咲きき匂つてゐる。はら/\とちりゆく櫻の花びらを掌に受けとめて、櫻貝のやうな一ひらをそつと唇に當てれば、甘い、やはらかな感觸は溢れるやうな抒情そゝる。(40頁)

 (中略)
 護國寺のものしづかな丘をあゆみながら、春井さんは私の取つてあげたうす紫の野菊をそつと唇にあてゝ、うつとりしてゐたが、その可憐な小菊を親指と人さし指とで輕くつまんで、斷髪にかけたそら色のリボンにそつとさす。そしてちよつと小首を傾けて、
「ね、似合つて?」
 とにつこり笑ふ。
 私の返辭は、このひとへの鏡になるのだ。
 あたりの景色はみんな冬枯れた褐色と灰色に蔽はれてゐたゞけに、嚥脂のワンピースを着た春井さんの姿は浮繪のやうに美しくあでやかだつた。(218頁)

 著者は、弱視で本を読むことは何とかできます。読書と批評の様子も記されています。


 朝からぶつつづけに小読「若い人」をよむ。終ひには、目がぼんやりかすんで活宇が、ごちや/\になつておどり出してくるやうな氣がする。酷使だと思ひつゝも、よみだしたら終る迄やめられないのが私の性分だ。聲を出すのでのどがカラ/\になつて聲がへばりついて出ない。二三頁よんでは休み、一頁よんでは目をつむる。
 春井さんは机によりかゝりながら熱心にきいてゐる。私の何時も驚歎する事は彼女がとても鋭い感受性で、私などの氣付かないやうな批評をし、感動を物語ることだ。何時だつたか、「女の學校」と「ロベエル」の批評を互ひに言ひ合つた時、「ジイドの意圖したもの」に對する鋭い解剖と批剣の正確さに、私は全く壓倒されてしまつた。今日も江波の性格、その母のタイプを解剖して、彼女の本質を驚くべき記憶力で捉へて、時々の會話、動作等の適切な例を引いて究極までつつ込んでゆく。彼女の頭の中には聞いたストーリイの一語一語が整然と收つてゐるやうな氣がする。(44頁)

 著者は、何よりも本を読むことが好きだったのです。『更級日記』の作者を彷彿とさせる、とにかく本が読みたい盛りの少女だったのです。それを支える母の存在の大きさには圧倒されます。


 今日のやうなことがあると私は泌々と十五六歳頃の自分の日々の生活を思ひ出す。
 私の視力は殆んどなく、僅かに明暗が分る程度でしかなかつた。女學校へ通へなくなつた私は全く絶望して終つた。友だちとも一時全然會ふ事をさけた。暗黒と孤濁の世界にとぢこもつて、われと我身を憎み、世間を、果ては親をさへうとましく思はれた。
 けれど家人にきづかれぬやうに、こつそりと一町許りはなれた鎭守の杜にひざまづいて、ひそかに祈つた願ひ─。
 ”何も見えなくてもいゝ、どんな不幸になつてもいゝから、どうぞ本をよまして下さい。本に向つた時だけでも私に視力をお與へ下さい”
 あゝ、なんといふ可憐なひたむきな祈りだつたらう。あの時の自分の最も苦しかつた事は御飯よりも好きな本がよめなくなつたことだ。鎭守の杜から歸つて來ては本を開いて見る。けれど相變らず、私の網膜は私の期待する一字をさへ反映してはくれないのを知つてどんなにくやしく、情けなく思つたらう。
 母や?母は、私の一生を考へて、ずい分心配したらしいが、私が苦しんだのは只”本がよめないこと"そのことだけだつた。
 母は毎晩十時十一時迄、私の爲に本をよんで呉れた。母は疲れと眠さの爲に聲が出なくなり、本を掩つてウト/\とする。私は母の寝息をきゝながら、焦燥とやるせない悲しみとを以て母が再びめざめてよんで呉れる迄ぢつと待つてゐる。しばらくすると母は又首をあげてよみはじめる、が直ぐに再びねむつてしまふ。ぢつと私は待つてゐる。
 ついに堪らなくなつて床に入るやうに母に言ふ。その言葉にやゝめざめた母はまた、一しきりよみつゞけるのだ。うす暗い電燈の光は、この戰ひゆく母子の姿を毎夜ぼんやりとてらしてゐるのだつた。
 幾夜、布團をかぶつて涙をかみしめたことか─。
 あゝ、お母さん!! かう書いて來ると私はたまらない。涙が、こんなにポタ/\とおちてくる。
 なんと淋しい、哀れな姿。そして又なんと尊い美しい姿だつたらう。二人の間には一分のへだたりもなかつた。お母さんは私の心を一番理解してくれてゐた。口にはなんにも言はなかつたが……。進んで盲學校へ入れたのもお母さんだつた。
 未亡人として二兒を育てあげて來た母の生活は、本當に人生とがつちりと組合つたやうな強く逞ましいものであつた。けれどもまた弱い脆い一面を持つ母だつた。
 私が目が見えなくなつたあんな時でさへ母は私に不安な色ひとつさへ見せず、勇敢に次に進むべき道を示してくれた。しかしその反面で母はどんなに尊い涙を流してゐたことだらう。
 私は全く母の愛によつて更生したのだ。母は私の命の根だ。この母のためなら自分はどんな困難と戰つても立派に生きぬいてゆける。(46〜48頁)

 著者は、『更級日記』などの古典に親しんでいたから、このような描写になったのか、あるいは少女に相通ずる資質なのか、興味のあるところです。
 後に、「紫式部」という言葉が出て来るので、そこも参考までに引いておきます。
 これなども、『紫式部日記』のことを知ってのことなのでしょうか。


 學校時代に、歴史の試験答案を七五調の韻文で書いて先生を驚かしたといふエピソードを持つてゐる友は、クラス雑誌に盛んに小説をかき、短歌をつくり、詩をよんだ東盲の才媛だつたのだ。
 「紫式部」、それが彼女の仇名だつた。ある先生などは、若し彼女が目が見えて、適當な教育を受けて行つたら、實にすばらしいものになつたらうと語つてゐるほどだ。(204頁)

 文学少女は、夏目漱石の『心』を読み、雑司ヶ谷の墓地へも行きます。


 雑司ケ谷の墓地は夏目漱石の墓があり、彼の「心」といふ作品をよんでから私は、こゝがなんとなく壊かしく、時々氣の合つた友と、或ひはたつた獨りで時を忘れて逍遙する。初夏のたそがれの此處は、殊に私たちの若い心を優しくやわらかく愛撫して呉れる。─貴女の好きな文學を專心おやりなさい。若し私で出來ることだつたら、どんなにでもお手傳ひしませう、と私は心から桑野さんを勵ます。(50頁)

 作者の眼は、温かく周囲を見ています。そして、甘えない厳しい眼も見せます。
 みんなが一所に集まり、生活を共にし、いろいろと悩み考え助け合った日々。
 その一日一日を書き記した日記にも、東京盲学校を卒業すると共にみんなが別れる辛さ寂しさを感動的に語ります。ありのままの思いを書き付けているので、素直に読み手に伝わってくるのです。


「目が見えないのに、寫眞を下さいなんて恥しいけど、でもかたみには何よりも寫眞がうれしいわ」
 などゝ言ひながら、私のを貰つてくれた。この寫眞にはかの人のうつし姿が生きてゐるのだとその滑らかな面をそつとふれて見てなつかしむ時もあることであらう。(272頁)

 また、この日記の背後には、第2次世界大戦が横たわっています。そのことに言及する記事も、貴重な記録となっています。


 みんな各部屋でつゞつた慰問文に點字のはカナを振つて封筒に入れ、一個に四五通づゝ入れる。かはいゝ初等部の子のや中等部、師範部の生徒の烈々やくが如き熱誠あふるゝ文など、兵隊さんはどんなお氣持ちでおよみ下さるだらう。
 點字にふつたかなの文字を月の光にすかしてよむ尊い勇士のお姿があり/\としのばれる。
「おゝ目の見えぬ子からのおくりものだ」
 この慰問袋を開いた時、鬼をも恐れぬ勇士の胸は一種の強い感動に動揺するのではあるまいか。
 一室に二十人許りの女子が集つて、見えない人は鋭敏な觸覺で手ぬぐひをきちんと折り、脇と底を裁縫にして口をくゝる。四五十の袋が忽ち出來上ると、めい/\一品づゝ受持つてそれを袋に入れると次の人にまはす。袋が一周すると手ぬぐひがはち切れさうに一杯になる。(101頁)

 (中略)
 私たち女同志が手をとり合つて出かける時、街のちまたに立つてどうぞ一針と出される千人針。ハツと思ふが、目が見えませんからとそのまゝ通りすぎる事が出來ようか。さし出した人もハツと一瞬當惑と後悔が胸をかすめる、がすぐに「恐れ入りますが」と圓いしるしの所へ針をさして貰ひ、それをぬいて二度三度、糸をかけて結ぶそのまごころ……。どうもありがたうございました、と心からお禮を言はれて、かへつて恐縮して歸つて來る氣持ちは複雑だ。
 今日の慰問袋がどこの勇士の手に抱かれるか誰も知らない。けれど私たちの眞心は、荒野の果てに假寝の夢をむすぶ勇士の一人一人の心にあたゝかく通つてゐるのだ。
 さう思ふ時、私たちの心も安らかに、今日の終りを感謝してねむることが出來るのだ。(103頁)

 (中略)
 美しい便りが來る。軍事郵便と赤い判のおさつた角封筒を受け取つて、見知らぬ名前に急いで披いて見る。と、きちんとたゝんだ便箋の間から、ハラ/\とおちた幾葉かの押花。拾ひあげて見ると、丹精した後の見える美しい鈴蘭の押花ではないか。
 "僕は先日、陣中クラブのグラフで御校、東京盲學校の女子寄宿舎生一同が、見えぬ目に慰問袋をつくられ、陸軍省へ献納された寫眞を見まして非常に感激しました。銃後の皆様の熱誠は、前線の僕等の心を激勵してくれます。僕等はきつと皆様の御期待にそふことを心から誓ひます。
 皆さまには、御不自由にて何かと大變でせうが、どうぞ一生懸命勉強して立派な大和撫子になつて下さい。
 これは北滿の國境にさく鈴蘭です。警備の合ひ間に採集したものです。どうぞお受け取り下さい。生々とした鈴蘭の香りをお送り出來ないのが残念です。"
 短い文章だつたが、この鈴蘭の香にもまして、なんとかほり高いなつかしい武人の心だらう。戰野に鈴蘭をつみ、美しい抒情をこめて押す心、目の不自由な者に特に同情して優しい便りをよせる心。
 緩急あれば身を挺して敵陣におどり込み、鬼をもひしぐ勇士の、あゝなんといふ尊とい美しいお心であらう。
 私達はこのおほらかな、豊かな愛情に抱かれてゐる。なんといふ幸幅な惠まれた私達だらう。

 女性と男性を対峙させた記述もあります。


 「目の見えぬ女性」それは「目の見えぬ男性」と並べて考へうるものではない。
 この「目の見えぬ世界」にも、また、宿命的な女性の道が横はつてゐるのだ。
 一般社會の女性が、結婚といふことについて「選擇する」とか「選擇される」とか言ふ事に悩み苦しんでゐる時、目の見えぬ女性たちは、より根本的な「可」「否」といふ問題に苦しまねばならぬのだ。前者は、巳に「可」といふ前提が暗黙の中にもうけられてゐるが、後者にはそれが自覺によつてもうけられねばならぬのだ。そして、そのいづれにもせよ、いかに多くの忍從と犠牲とが必要であるかは明らかである。
 目の見えぬ女性が瞬間的、享樂的にならうとする自己を持しつゝ、如何に困難な勉強をつゞけつゝあるか、それは一般人の想像以上であらう。
 私はこの女性の危險な、一歩あやまれば自殺もしかねないやうな心的状態を救ふ道は、偉大なる精神力によつて文化的事業に身をさゝげられる喜びを與へるにあると思ふ。
 それは教育でも治療でも又その他のなんでもよいのだ。(207頁)

 (中略)
「目の見えぬ者」といへども人間である以上、女性は女性としての道を進みゆくことは望みたいことである。又、出來得る限り、さうせねばならぬと思ふ。
 要はいづれにもせよ、女子の自覺、覺醒と實行力、及び、偉大なる精神力である。それが女性の「幸」「不幸」を決する。
 結局、女性には、男性よりも更に大きな宿命的重荷があり、それを征服してゆくには、血のにぢむ努力が必要とされるのだ。(208頁)

 この日記に記された、東京盲学校で受けた教育と寄宿舎での生活から得たことが、著者のその後を後押ししていくことが容易に想像されます。

 本書の巻末には、日本盲教育史研究会会長である引田秋生氏の解説が付されています。
 本書をお読みになる前に、この解説に目を通してから読み進めると、本書の位置づけが明確になり、読みやすいかと思います。
 
 
 

2015年3月16日 (月)

読書雑記(119)ジェラルド・グローマー『瞽女うた』を読んで

 『瞽女うた』(ジェラルド・グローマー、岩波新書、2014.5)を読みました。


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 門付けをする瞽女の立場からの視点と聞き手側の視点が、バランスよく取り扱われているのが、本書の特質となっています。
 近世の文献もよく調べてあり、考察にも行き届いた配慮を感じる一書となっています。
 まず、その実態の確認から引きます。


 近世の瞽女人口は関東上信越、甲斐、駿河に集中した。出雲国、隠岐国、石見国など中国、四国、中部地方にも芸人として活躍していた「盲女」は各地におり、九州にも門付け芸を演じる瞽女が二十世紀まで見られた。にもかかわらず、戦後に「瞽女」といえば「越後」と受け取られるようになった。それはなぜであろう。
 越後の瞽女は、明治以降も県政府に弾圧されることはなく、村人も瞽女の活躍を長らく支援し続けた。新潟県では大正、昭和にも瞽女は珍しくなかった。しかし近代化にともない、越後瞽女の多くも按摩業に転業し、結婚し、しだいに現役を退いた。戦後は高田(現・上越市)と長岡の瞽女稼業に不可欠な仲間組織、すなわち年功序列を基本とする職能集団が維持できなくなり、瞽女文化の終焉は時間の問題となった。(6〜7頁)

 瞽女の本質は、その唄の節回しにあると言います。
 しかし、それも商売なので、疲労を避けるためにも楽に歌ったりしていたそうです。なかなか、手の抜きどころを弁えた門付けなどをしていた話は、人間味溢れる逸話で楽しく読み進められます。

 瞽女唄の復元についても、歴史的な文脈の中で、現代の聞き方で聞く必要性を強調します。


 地方在住の農民が明治まで培ってきた「特有の聴き方」は、それぞれの時代にふさわしい聴き方ではあったろう。それらの歴史的文脈を顧慮せずに無理矢理復元しようとすれば、かならずや時代錯誤に陥る。我々は復古ではなく現代の聴き方を探らなければならない。古き時代へのノスタルジーの虚妄に浸ることなく、過剰評価することなく、いまや一種の異文化として生き続ける瞽女唄を、絶えず変わる歴史的現象として聴くこと。そうしてはじめて瞽女唄の真の意味が我々の耳にも聞こえてくるであろう。(30頁と)

 加茂大明神のことに触れる個所があったので、記録として残しておきます。


「瞽女縁起」は光孝天皇を嵯峨天皇に置き換え、「雨夜の尊」を「天世の姫君」に変えるなど、当道の伝説を大幅に改訂している。当道の「古式目」にある「加茂大明神を当道衆中の鎮守とあふ[仰]ぎて、古中今ともにをこたり[怠]なく信じて」と「十宮崇敬信すべし、かり[仮]にもかろ[軽]しむべからず」という要請を、「瞽女縁起」では「如意輪観世音は妙音菩薩なり、信心之凝らすべきなり、妙音弁才天加茂明神を常々怠りなく祈るべき事なり、世渡りの道守護の本尊なれば疎に心得べからず」と書き直している。(62頁)

 瞽女の実体については、次のように語ります。


 第一章で見てきたように、瞽女が長旅をしながら食い扶持を稼いだ歴史は中世に遡るが、往古の瞽女の正確な人数、旅路、収入などを伝える史料は皆無に等しい。しかし江戸期に入ると女性視障者の活躍の輪郭は次第に鮮明となってくる。
 江戸初期の瞽女・座頭の重要な収入源のひとつは、幕府、諸藩、武家などから婚礼、初産、元服、家督相続、法事などの吉凶に際して支給された米銭であった。瞽女・座頭は不定期に配られる施行を集めるために東奔西走した。(94頁)
 
 時代が明治に変わると、関東とその周辺地域のほとんどの村の「予算」から瞥女・座頭の賄いに充てられた財源は影も形もなく消えてしまった。為政者はそれを進歩と合理化と考えたであろうが、瞽女と座頭にとってこのような「文明開化」は迷惑千万に他ならなかったのである。(115頁)

 既得権が奪われた大勢の視障者にとって明治維新は「文明開化」どころか、さらなる苦難の幕開けであった。(200頁)

 瞽女が演奏する詞章について、その言葉の異同について、次のような傾向を指摘しています。これは、芸道における言葉の変移を考える上で参考になる事例です。


 杉本キクエが二十年間あけて二回録音した「祭文松坂」の「葛の葉子別れ」を聴くと、ほぼ全ての語句が再現され、しかもほぼ同じ順番で出現している。一方、伊平タケの二種の演奏では、多くの語句が入れ換わっており、語句のストックからその場で選んでいるようである。
 結論を先取りすると、「祭文松坂」の演奏における詞章の構成は一様でなく、師匠の口伝に忠実な杉本キクエと自由を求める伊平タケをその両極端として、山本ゴイと小林ハルはおそらくその中間に位置しているようである。「祭文松坂」には旋律の正調が無いことはすでにのべたが、「歌詞の正調」も無かったといえる。(178頁)

 著者は、視障者と晴眼者に分けています。男性視障者、瞽女、座頭、当道などの語も出てきます。
 そして、近世の芸能史を背景にして、瞽女が権利を確保する様子を、資料をもとにして手堅くまとめています。障害者を社会との関係で見ていく点に、実態が浮き彫りになっています。

 著者の専門が音楽学ということもあり、後半の瞽女唄の演奏については詳細です。楽譜を見ても素人にはわからないので、容易に音が聞けたらいいのにと思っていたら、ネット上にしっかりと用意されていました。読者への気遣いを感じました。

 最後に著者は、次のような問題提起をしています。これは、携帯音楽プレーヤーで日常的に音楽を聴く若者たちへの問いかけでもあります。物語唄の消滅の意味と、音楽とは何かを考えさせてくれるものとなっています。


 瞽女は意識しなかったかもしれないが、彼女たちの唄は、我々に問いかけている。なぜ、音楽市場から、あのように長い物語を展開する唄は消えてしまったのかと。肉体的には江戸時代の人々と変わらぬ集中力を持っていても不思議ではない現代人にとってなぜヒット曲の大半は、三分程度で終わるのであろうか。なぜ、ポップスは機械的なビートに終始しているのであろうか。柔軟なリズム感は、いったいどこに行ってしまったのであろうか。細かい装飾音の多い旋律を、なぜ聴衆(消費者)は要求しなくなったのであろうか。それを要求しなくなったのだとすれば、瞽女唄を好まない聴衆の嗜好は一体どのように発生し、どのように操作され、どれほど制限されてきたのであろうか。聴衆が無言のままに甘受している、こうした音楽の諸限界は、誰のいかなる利益となっているのであろうか。かくして瞽女唄は、枚挙に暇がないほどに多様でかつ痛烈な批判の矛先を、現代社会の我々に向けているのである。(226~227頁)

 
 
 

2015年1月31日 (土)

読書雑記(117)嶺重慎・広瀬浩二郎編『知のバリアフリー』

 『知のバリアフリー 「障害」で学びを拡げる』(嶺重慎・広瀬浩二郎編/京都大学障害学生支援ルーム協力、京都大学学術出版会、2014.12)を読みました。私が現在抱え込んでいる問題意識に、多方面から知的刺激をもらえる本でした。


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 その問題意識とは、目の不自由な方々と一緒にハーバード大学本『源氏物語』が読めないか、というものです。
 普通の墨字が読めない方が、それも変体仮名など読めるはずがない、というのが一般的な反応です。しかし、私は可能だとの確信を抱いています。精神論ではなくて、具体的な感触としてそう思っています。そのための試行錯誤も始めています。

 今後は、その具体的な成果を少しずつ提示して確認しながら、牛歩のさまであっても、一歩ずつ前に向かって進んで行くつもりです。その意味からも、本書からは多くのヒントをいただきました。

 本書の目次の詳細は、「京都大学学術出版会のホームページ」で確認できます。

 巻頭には、触ってわかる触地図が2種類付されています。琵琶湖周辺の地図が、点図(凹凸の点線や点のパターン)とサーモフォーム(プラスチックシートの真空熱処理成形)によって、触る口絵となっています。次の写真は、サーモフォームの地図から、比叡山・京都駅・平等院の部分を抽出したものです。京都駅と平等院の位置を示す○の下に、点字で「きょーとえき」「びょーどーいん」と書かれています。中央を左右に走る太い波線は東海道新幹線です。


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 平面の高低や凸部のエッジが指に感触として伝わるので、筆で書かれた仮名文字の認識を課題としている私にとって、これを触るとイメージが拡がります。

 本書は、さまざまな方々が「障害」を切り口にして、大学などにおける実情をもとにした「障害学習」について語るものです。その内容は20人の方々の「物の見方や考え方」が、多岐にわたって展開します。聴覚障害に関する部分からは、古写本を触読する際に「音」が果たす役割を考えるヒントをいただきました。

 以下では、私がチェックした箇所を引用することで、これからあれこれ考えるための手控えにしたいと思います。
 多くのヒントが鏤められた本なので、課題にぶつかる度に本書を繙くことになると思います。
 


■「現在の学問体系は、ほとんど障害者の存在を前提にしないところで成り立っています。「障害学習」という新しい視座で学問の再構築を行い、その成果を社会に発信することが、21世紀における大学の役割ではないでしょうか」(嶺重、 ix 頁)

■「視覚障害者にとって日本史はハードルの高い学問分野です。点字使用者が自力で古文書を解読するのは不可能ですし、ボランティアも専門知識がなければ、史料を正確に点訳・音訳できません。古文書については、大学院の先輩に「チューター」という形で音読・パソコン入力していただき、どうにかこうにか論文を読み書きしました。」(広瀬、11頁)

■「皮肉なことに、本来、学生の理解を助ける手段である視聴覚教材を使用することが、障害学生に対する情報伝達をより複雑なものにしています。たとえば、ビデオを使用する場合、聴覚障害学生には、字幕の付与や内容の解説文が必要になります。」(佐野、25頁)

■「私は、「自分の出している音」がわからないことに最も悩みました。生活音の問題です。私の母は健聴者で、聞こえる人の立場から、聞こえない人がどう振る舞う必要があるのかを教えてくれます。そのアドバイスの中に、生活音に気をつけたほうが良い、というものもありました。聞こえない人は自分の出す音に無頓着になりがちだから、知らず知らずのうちに周囲の人に不快な思いをさせている場合もあるかもしれない、と。でも私は自分の出している音がどうしてもわかりません。一人暮らしを始めてしばらくの間は、どんな音が迷惑なのかよくわからず、家事ひとつにもひどく気を遣いました。」(岡森、53頁)

■「iOSやAndroidなどのモバイルOSではVoiceOverやTalkbackといったスクリーンリーダーが標準搭載されるようになりました。とてもすばらしいことです。アプリケーションの開発者がアクセシビリティに配慮して開発を行えば、障害のある人もない人も使えるアプリケーションを開発することができます。また点字携帯端末をスマートフォンに接続することもできます。これにより、点字携帯端末でスマートフォンを操作したり、メールやチャットなどを点字で読んだり書いたりできるようになります。」(石川、91頁)

■「昨日できないことを今日はできるようにしたい。今日わからないことを明日はわかるようになりたい。そういう気持ちをエンパワーするのがアクセシビリティなのです。」(石川、97頁)

■「「みんなと同じにできるように頑張ろう・努力しよう・鍛えよう」と考える前に、「自分なりに楽にできる方法はないか?」と一緒に考えます。「迷惑をかけないように」と考える前に「困ったときは周囲に頼んでみよう」と実際にやってみます。「できるだけ間違わないように」ではなく、合い言葉は「失敗は学ぶチャンス」、周囲も「転ばぬ先の杖を出さないように」だったりします。」(近藤、100頁)

■「ヘレンケラー・ホーンとは、画面をなぞる指の動きを察知して文字情報を得る電話なのでした。上下、左右の指の動きの組み合わせで点字を入力でき、スマホが点字のパターンに合わせて振動することによって、使用者は自分の入力を確認することができます。あっと驚く発想の転換です。」(嶺重、139頁)

■「アナログ的な情報の取り扱い、たとえば、古文書などもその例です。草書などで書かれた手紙などはまず読めません。その内容を知るだけなら、他人に読んで貰ったり、点訳して貰ったりすることで解決できるかも知れませんが、その文字をどう読むかが問われる場合には対応は不可能です。」(尾関、208頁)

■「私は、すべての視覚障害者に、とは言いませんが、希望する者には、漢字・漢文の教育が十分に与えられるよう希望します(高等部の選択科目で十分でしょう)。そのためには、点字で漢字を表現する方法を工夫する必要があります。現在、8点や6点の漢点字と呼ばれるものがありますが、この目的のためには不充分に思われます。」(尾関、211頁)

■「明朝体は、漢字の横線などに細い線が使われており、弱視の方には見えにくいのです。すべての線が同じ太さで、線と線がくっついているところ、離れているところがはっきりわかることが、読みやすいフォントの条件です。」(嶺重、219頁)

■「見常者(見ることに依拠して生活する人)中心の社会で視覚障害者が「健康で文化的」な日々を過ごすためには、苦労と工夫が必要です。苦労を克服(軽減)するのが「障害者史」、工夫を積み重ねるのが「盲人史」という発想になります。
(中略)
「同じ」を追求する進化が障害者史、「違う」にこだわる深化が盲人史につながっています。」(広瀬、234頁)

■「共活のポイントは、複数の基準を持つことです。「盲=目が見えない」は現代日本では否定的にとらえられており、少なからぬ盲学校が「視覚特別支援学校」に名称変更しました。公文書等では「盲人」に代わって「視覚障害者」が使用されています。それでは、「盲=視覚に依拠しないライフスタイル」と定義してみてはどうでしょうか。すると、「盲」のプラスの要素が浮かび上がってきます。」(広瀬、255頁)


 
 
 

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2014年12月17日 (水)

読書雑記(116)清水義範『秘湯中の秘湯』

 『秘湯中の秘湯』(清水義範、新潮文庫)をやっと入手して読みました。


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 中部大学の蜂矢真郷先生から本書のことをご教示いただいたのは今夏でした。気にかけながら書店を探しても、絶版とのことでなかなか本屋さんで売れ残ったものが見つからないのです。
 検索をしていたら、たまたまネットで見かけました。しかし、私はネットショッピングは日本文化を破壊し、人間関係を断ち切るおぞましい仕掛けだという信念を持っているので、よほどのことがない限り欲しい品物があってもネットでは買いません。

 とにかく、自力で現物を手にして買うように心がけているのです。この、自分の足で探すことに無上の楽しさを感じます。ほしいものとの出会いは感動的であり、見つけた時の嬉しいことといったらありません。
 そんなある日、宿舎の近くのブックオフに行くと、108円の棚に『秘湯中の秘湯』が並んでいました。捜しあぐねていた本が、なんと108円なのです。ラッキーとばかりに購入し、すぐに読みました。

 本書は、論理的な考察や客観的な報告を心掛けて語っているものです。その真摯な姿勢が行間に溢れているので、おもしろい読み物となっています。
 ただし、ことばに拘りながら同じ調子で語られるので、読んでいて飽きてしまうという問題点も抱えています。その反面、文章をおもしろおかしく綴る上での苦労を、退屈な行間から教えてもらえます。
 裏表紙には「爆笑小説全11編」とあります。しかし、私には「爆笑」というよりも「朗笑」がふさわしいと思いました。

■「秘湯中の秘湯」
 どこまでが本当なのか、訝しがりながら読み進みました。入りたくなる温泉、遠慮したいがどんな所なのか行ってみたくなる温泉。とにかく楽しめます。
 中でも、私は「空中温泉」に入りたいと思います。付載の温泉情報には、次のようにあります。
  交通 秘密。
  泉質 不明。
  効能 気分がいい
  宿  なし
 
■「非常識テスト」
 物を知らないことを競うかのような女子大生の実態報告です。「七輪」を「五輪」からの連想で「ノーベル賞」と答えたのが秀逸だと思いました。
 ただし、最後のオチも含めて、もう一捻りできたように思えます。
 
■「痩せる方法」
 空回りの論理が展開するだけです。面白くしようとしているのはわかっても、まったく話題が盛り上がりません。
 
■「故事付成語」
 最初の矛盾だけが真面目で面白くありません。しかし、それがかえって面白いということになります。ごまかそうとする筆者が顔を出すので、そこを楽しむべきでしょうか。言葉のキレは悪いです。
 
■「取扱説明書」
 文明が高度になり、電子機器が高性能になるにしたがって、それらを使いこなすテクニックが必要になります。その時に言葉での説明が無意味であることが縷々と綴られています。電子機器のトリセツでは、今も悩まされています。
 
■「アンケート結果分析」
 消費者の心理を読んだ分析が綴られています。あまりおもしろくない語り口です。作者の手法に、そろそろ飽きてきました。最後の開き直りの主張は、作者も先刻ご承知だからでしょう。

■「結婚したい女性・百三の条件」
 アイデア倒れかな、と思いながら読み飛ばしました。

■「恐怖のニッポン食べ物ガイド」
 和食を題材にした、異文化体験論が、展開されます。アメリカ人から見た和食です。もっと書いてほしいと思いました。これでは生煮えで中途半端です。

■「周到な手紙」
 母のために、道順を順序立ててくどくどと説明している文です。だらだらと続く所に作者の意図があるとしても、正直言って飽きました。ここにオチがあったらいいですね。

■「只今会議中」
 不毛な会議のパターンが、いくつか例示されています。無駄ということを納得させられます。落としどころもいいですね。

■「ジャポン大衆シャンソン史」
 日本語が翻訳されていて、それを日本語に訳し戻すとどうなるか、という実例が列記されています。
 これは、現在私が科研で研究しているテーマと合致します。
 蜂矢真郷先生は、私が科研のテーマをお話しした時にその連想から、この話が本書にあることを教えてくださったのです。
 例えば、こんな例があります。
 小柳ルミ子が歌った「瀬戸の花嫁」のフランス語訳を、そのまま日本語にしたら……


「瀬戸物の花嫁」(一九七二年)
 瀬戸という陶器の町に夕闇が迫り
 遠くの島へ結婚のために行く陶器の花嫁
 若いということを人々が心配するのだが
 愛があればおそろしいことは何もない
 二段ベッドのような畑がサヨナラをする
 幼い弟は行かなかったり泣いたりした
 もし弟が男だったら泣くこともなく
 ねえ 父と母は陶器を大事にしている

 小柳ルミ子が歌った歌の歌詞をあらためて思い出しては、「あれっ」と意味を考えたりします。

 現在、『源氏物語』の外国語訳を日本語に訳し戻ししてもらっています。
 さて、海外では『源氏物語』がどのように訳されているのでしょうか。
 今しばらく、調査結果を楽しみにお待ちください。
 
 
 

2014年12月 2日 (火)

読書雑記(115)大胡田誠著『全盲の僕が弁護士になった理由』

 昨夜(平成26年12月1日午後9時より2時間)、TBS系列で放映された[月曜ゴールデン特別企画『全盲の僕が弁護士になった理由 〜実話に基づく 感動サスペンス!〜』]の原作となった本のことを記録として残しておきます。
 大胡田誠著『全盲の僕が弁護士になった理由 あきらめない心の鍛え方』(2012年3月、日経BP社刊)がそれです。帯には、次のように書かれています。


困難と闘う すべての人へ
「だから無理」より
「じゃあどうする」のほうが面白い!

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 昨夜のドラマのように、全盲(触常者)の弁護士のもとに持ち込まれた離婚話や、工場での殺人事件を解決したことが本書に書いてあるわけではありません。
 本書の内容が一覧できるように、目次をあげておきます。


はじめに
序章 ある受刑者からの手紙
    見えないから、見えてくるもの/ある受刑者からの手紙
    痛みに寄り添う/被害者に土下座/声にならない声
第1章 全盲弁護士の仕事術
    弁護士はつらいよ/最後の受け皿/いつもマイナスからのスタート
    アシスタントと二人三脚/IT機器を駆使する/耳で読む
    見えなくても、何とかなる/法廷で勝つために
    毎週ハーフマラソン/安心できる町医者
第2章 光を失って
    生い立ち/先天性緑内障/「肉を食べてはいけない」
    小学校は特等席/一番の理解者/特別扱いしないという「特別」
    7歳で富士山登頂/最後の景色/初めての絶望/故郷を去る決意
    毎日が合宿/人生を変えた一冊/門前払い/住む場所がない
    差し伸べる手/憧れの人との対面
第3章 司法試験
    出だしでつまづく/初挑戦で木端微塵に
    孤独な闘い/ロースクールへ/法務省の門戸を開く
    36時間30分/新司法試験始まる/限界の先にある自分
第4章 家族
    全盲のパートナー/一期一会/会話の多い夫婦
    「助けられ上手」になること/震災、そして出産/全盲夫婦の子育て
    人と人とは鏡映し/あげられないもの、あげられるもの
終章 見えない壁を打ち破る
    17人に1人は障がい者/悪意のない差別/一言で世界が色づく

 著者である大胡田氏ご本人は12歳で失明、3歳下の弟は11歳で失明ということで、非常に困難な家庭環境が推し量られます。しかし、両親の理解と温かい見守りの中で、著者である兄は弁護士に、弟は県立高校で英語の教員にと、能力を遺憾なく発揮しての生活をしておられます。

 全編を通して、自分のことや家族のことを、ありのまま率直に語っておられます。日常に始まり、素直な思いが綴られているので、身構えて読みそうなところが少ないのがいいと思いました。
 必死に、がむしゃらに生きて来られたはずなのに、それをあけすけに朗らかに語っておられるので、読む側の負担も軽減されます。
 この手の本にありがちな、悲壮感や同情を共有させられることはないので、好感のもてる文章となっています。それでいて、各所で感心し、感激もしました。

 静岡県の伊豆に生まれ、沼津に移ったとのことなので、井上靖を思い起こさせる生い立ちです。先般記した「読書雑記(112)『愛盲―小杉あさと静岡県の盲教育』」(2014年11月04日)にも思いが及びました。静岡県に親近感を抱くようにもなりました。

 本書を読みながら印を付した箇所を、以下にメモとして引用しておきます。

 著者は、人の心を的確に読み取ることに長けておられます。それは、目が見えないことから、聞こえる音声で人を判断しておられることに起因するものです。音声に対する指摘は、我が身に当て嵌めるとドキッとすることでした。確かに、私も声では正直に自分をさらけ出しているのでしょう。これは意外な指摘です。


 自分の感情を初対面の相手にストレートに出す人はほとんどいない。相手への気遣いや警戒心、恥じらいや後ろめたさを誰でも持っている。目が見える人は、無意識のうちにまず表情を作る。しかし、声となると正直なものだ。言葉を選ぶことはできても、息遣いや抑揚、間のとり方まで装うのは意外と難しい。(10頁)

 目が不自由な触常者が、最近では電子機器を駆使しておられる実態も、詳細に語られています。この点は、触常者がおかれている環境を理解するのに、大いに役立ちました。
 身近には、国立民族学博物館の広瀬浩二郎さんがおられます。確かに彼も、情報機器を駆使しておられます。これは、これからのお付き合いにおいて、知っておくべきことです。
 その意味でも、障害を持った方が、どのような方法でコミュニケーションをとっておられるのかは、見常者である我々は知る必要があります。そうでないと、余計なことに神経を使い、知らないために遠慮をしたり、誤解をしかねないのです。


 読み書きが難しい視覚障がいは、長年、「情報障がい」とも言われてきた。しかし、IT機器の進歩によって健常者との格差は大幅に縮んできている。(中略)
 最近では、点字の電子手帳が普及しつつある。「点字電子手帳」は筆箱ほどの大きさの機械で、中には大量の点字データを記憶するメモリーが入っている。値段は1台20万円と高性能パソコン並みだが、僕にとってはなくてはならない道具になっている。毎日のスケジュールや、依頼者との面談のメモなど、大事な情報は何でもこれに記録する。本体の上面には15文字ほどの点字を表示できるディスプレーがあって、小さな突起が忙しなく出たり入ったりして次々と点字を表示する。
 本体の上面にはディスプレーのほかにボタンがいくつかついていて、これを両手でタイプして点字データを入力する。USBでパソコンなどにつなげば、外部から点字データを取り込むこともできる。ネット上には、ボランティアが点字に翻訳(点訳)した小説などのデータを提供しているサイトがある。それをパソコンでダウンロードしてから点字電子手帳に取り込んで、通勤時間などに読むのが僕の毎日の楽しみの1つになっている。
 事務所には、紙に点字を打ち出す「点字プリンター」も置いてある。これをパソコンにつなぐと、ワープロソフトで作成したテキストなどを点字として打ち出してくれる。ただ、打ち出す際の音が昔のドット・インパクト・プリンターよりもさらに数段うるさいのが難点だ。
 スピーチなどでこうして打ち出した点字の原稿を手元に置いて指でなぞりながら読むと、正面を向いたまま、まるで原稿なしでしゃべっているように見える。(48~49頁)

 次の、大学の授業での体験は、今はどのような状況になっているのでしょうか。現在が知りたくなります。その意味からも、触常者が活用している電子機器に関する情報は、もっとまわりに語られてもいいと思いました。


 大学でも障がいを理由に、ある英語の授業の履修を断られたことがあった。その授業は、毎回英字新聞のコピーを配布して、それを教材にして講義をする形式だった。僕にはそのコピーが読めないから履修はできないというのだ。
 しかし、授業の前日までにコピーを渡してくれれば、スキャナーでパソコンに取り.込んで、音声で予習をしてから授業に臨むことができる。なぜ、話を聞きもせずに、初めから「できるはずがない」と決めつけてしまうのだろうか。(112~113頁)

 視覚に障害を持つ触常者の実態は、意外なことが多いものです。
 点字は、触常者のほぼ全体に普及していると思っていました。これは、認識を新たにさせられます。


 実は意外と知られていないのだが、全国に約30万人いる視覚障がい者のうち、点字を満足に読み書きできるのはおよそ1割にすぎない。大人になってから視力を失った中途視覚障がい者では、点字をまったく読めない人も多い。
 仮に読めたとしても、何歳から点字を覚え始めたかで、読める速さは全くと言っていいほど異なる。健常者も文字を読む速さは人それぞれだが、点字ではそれとは比べ物にならないほど大きな個人差が生じる。例えば、12歳で視力を失った僕よりも、生まれつき目が見えず点字で言葉を覚えた妻の亜矢子の方が、2倍も速く読める。(143頁)

 読み進んでいるうちに、著者が書かれている、「障害」でも「障碍」でもなく「障がい」と書く理由を、知りたくなりました。どこか他のところで、この用字について語っておられるのでしょうか。ご教示いただけると幸いです。

 本書は、日ごろはなかなか知ることのない、障害を持った方が素直に語られる、その心の中が伝わってくるものです。自分の意識を再認識する上でも、いい本との出会いとなりました。
 
 
 

2014年11月25日 (火)

読書雑記(114)三宮麻由子『目を閉じて心開いて』と『源氏物語』

 三宮麻由子著『目を閉じて心開いて—ほんとうの幸せって何だろう』(岩波ジュニア新書、2002年6月)を読みました。


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 4歳で失明した著者が、成長する中で周りの人々との交流で直面する心の揺らぎを綴っています。その語り口が明るくて前向きなので、ジュニア向けとしてお薦めできる本です。

 著者の周囲に対する遠慮が、文章のそこここに感じられました。視覚に障害を持つ方の意識のありようについて、学ぶことの多い内容です。

 気になったこともあります。理屈が勝った行文で語られているために、著者が身に纏う鎧が見え隠れしています。情をコントロールしようとしているせいでしょう。これは、フランス文学を学問という視点で考察された経緯があることから滲み出てくるものかもしれません。
 また、幸せを大上段に語られると少し照れ臭く思うのは、私が歳を取ったせいでしょうか。
 しかし、これがジュニアには、説得力を持つものとなるとも言えます。

 全体を通して、会話をすることの大切さと、長編小説を読んで「しじま」を感じることの意義が印象に残りました。
 私が注目した文章を、以下に引きます。特に、『源氏物語』に関しては、貴重な記録となります。


■「点字一四冊の『随想録』読破で熱くなった指も冷めやらぬころ、私はまたしても、別の興味から『アラビアン・ナイト』を読みはじめてしまった。こちらは、点字にして九九冊あった。三重県の図書館に、地域の点訳サークルの人たちが、一点一点手で打ち込んで作った本があると聞いて、さっそく貸出しをお願いしたのである。私は、そこから二冊ずつ借りては読み、読んでは返す日々を過ごした。(中略)
 不思議な魅力に取り懸かれるままに、私はゆっくりと読書できる時間を少しずつ作っては、急ぐことなく物語を味わっていった。そんなふうに読みふけるうちに、私は大学院の勉強も終えて就職し、全巻を読み終えたときには、かれこれ一〇年の歳月が過ぎていたのだった。」(60~61頁)
 
■「いま私は、人生で三つめの超大作、『源氏物語』とともに夜のしじまを過ごしている。「月のくまなく照り」などの有名な描写はもちろん、この物語から、私は植物の擦れる幽かな音と、浦に寄せる静かな波の音を聞いているような気がする。平安のころの日本は、家の中にまで竹が生えていたり、茅葺き屋根からたくさんの草が生えて、今でいつ屋上緑化みたいなことになっていたりと、現代からは想像もつかないくらい植物が近くにあったようだ。源氏と女性たちのつややかな関係もさることながら、彼らの歌の中に、いつも植物や海が歌い込まれていることがそれを物語っている気がするのだ。
 たとえば、有名な「若紫」には、こんな歌のやりとりがある。源氏の君が若紫を訪ねたときに、道すがらの家の「女」と交わす歌だったと思う。

  朝ぼらけ霧り立つ空のまよひにも行き過ぎがたきいもが門かな
  立ちとまり霧のまがきの過ぎうくは草の戸ざしにさはりしもせじ

 霧の空、垣根、草、そんなものに閉ざされた静かな家と外で、源氏の熱い恋心と女性たちの微妙な気持ちが交錯する。そんななかで、植物の小さな葉擦れの音のなかで交わされる和紙の音。これが源氏世界の音なのではなかったろうか。私は、この物語の筋はもとより、そこから聞こえてくる古の音に、絶えず耳を傾けているらしい。
 この本がお手元に届くころ、おそらく私は源氏を読み終えていることだろう。そのときに、いったいどんな思いに包まれているか、私自身楽しみである。
 なぜ私が、並み居る名著の中からこうして長編だけを選んでお話ししたのか。それは、これらの長編は私に、一つの大切なものの存在と、その大いなる価値を教えてくれたからである。長編がくれた大切なもの、それはこの『源氏物語』に象徴されるような「しじま」であった。」(62~64頁)

 著者は、すでに『源氏物語』を読み終えられたことでしょう。どのような本を手にされ、どのようにして読み進められたのか、その感性を基にした読書体験を伺いたいと思っています。
 
 【追記】
 いろいろと資料を探していたら、次の情報があることがわかりました。
 確認したら、また報告します。


(1)「「源氏物語」の香りをたずねて」三宮麻由子
 (『オール讀物』2008年10月号)
 
(2)「私はというと、本を読んでいると香りや音を感じることがよくあります。
 源氏物語では、日本がいかにも海洋国家だったことを伝えるように、さまざまな浦の波音や船の櫓、笹や竹が軒先に揺れるささやかな音がきこえてきました。」
 (三宮麻由子著「きっとあなたを励ます「勇気の練習帳」」PHP 86~87頁)

 
 
 

2014年11月21日 (金)

読書雑記(113)松永兄弟の遺稿集『戦争・文学・愛』

 『戦争・文学・愛 ─学徒兵兄弟の遺稿』(松永茂雄・松永竜樹著、和泉あき編、三省堂新書、1968年)を読みました。松永茂雄と松永龍樹の兄弟の遺稿集です。

 戦地で古典文学作品を読む記事がある、というT君からのご教示をいただき、本書を深川図書館から借り出して興味深く読みました。


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 T君からのメールには、以下のような文言がありました。


 兄の茂雄は一高中退、弟の龍樹は國學院大學卒業です。
 兄弟ともに新古今集を愛し、遺稿集にも頻繁に言及されます。
 茂雄は「重機関銃の握把を握り締めながら新古今の歌を語っている学徒兵の姿を想像してほしい」とも書き記しています。
 新古今が中心ですが、ところどころに源氏物語への言及もあります。

 確かに、この時期に教えていただかなかったら、読む機会のない本でした。
 若者の生き様を通して、古典の意義を再認識させられました。

 まず、本書の裏表紙に書かれている文言を引きます。本書の内容を的確に示しているからです。


二人の死
「ぼくは追憶や感傷のために遺稿集を出すのを、一つのぜいたくとして軽蔑する」と書き残した松永兄弟の手記には、日中戦争から太平洋戦争にかけて、死を目前にして誠実に生きた青年の姿があますところなく描き出されている。
二人の兄弟には、詩・短歌・劇その他の小品などたくさんの遺稿があるが、本書では、学生時代の日記と、軍隊時代のノートを中心に編集した。
多くの学生が戦場におもむかざるをえなかった「学徒出陣」より、25年が経過したが、遠い大陸に死んだこの二つの青春は、現代に生きる人々に大きな指針を与えるであろう。

 「もくじ」は以下の通りです。


 略年譜
 松永茂雄・松永龍樹について
1 兄を憶う 歌日記 松永龍樹
2 学徒兵の手記 松永茂雄
   学窓の友へ
   学窓からの学界展望 方法自覚の問題
   空色の手帖・その他
     文学ニツイテノ メモ
     学徒兵メモ
     第三ノオト
   立原道造
   詩─美しい虚構 その他
3 学生時代の日記と従軍手帖
      ─「学徒兵の手記」に答えて 松永龍樹
   卒業論文のための「サロン」(一九四〇年一月〜八月)
   ゆかりのための「サロン」 (一九四一年四月〜十一月)
   最後の「サロン」 (一九四一年十二月〜一九四二年一月)
   従軍手帖 (一九四三年二月一日 於 保定)
 松永君のこと 佐藤謙三
 主要遺稿リスト
 編集に当たって 和泉あき

 
 まず、二人の「略年譜」を引用し、その人生を通覧しておきます。


略年譜

(松永茂雄)
一九一三年(大正二年)四月三〇日東京に生れる
一九三一年(昭和六年)四月、東京府立第一中学校を経て、第一高等学校理科入学、立原道造も同級で深交をもつ
一九三二年(昭和七年)、同校中退
一九三四年(昭和九年)一月二〇日、前年の徴兵検査で、陸軍第一歩兵連隊に現役入隊、翌三五年除隊
一九三五年(昭和十年)、練馬にあった私立花岡学院小学部で児童教育の実践にあたる。並行して文芸同人誌『ゆめみこ』を翌年四月まで八冊刊行。この年、劇作、詩、エッセイ、歌論等の創作さかん
一九三六年(昭和十一年)四月、国学院大学文学部予科入学。弟、龍樹も同級
一九三七年(昭和十二年)十月十五日、在学のまま応召入隊、約一か月後、上海派遣軍飯塚部隊高見部隊上野隊に配属される。翌年休学を決意
一九三八年(昭和十三年)秋、山地戦中、マラリヤ、気管支炎大腸炎を併発、十一月二二目細菌性赤痢と診断され、二七日より穿孔性腹膜炎併発、二八日午後四時二〇分、呉淞陸軍病院伝染病棟にて戦病死。二十五歳。陸軍伍長
 
(松永龍樹)
一九一六年(大正五年)八月二日、東京に生れる
一九三六年(昭和十一年)四月、東京府立第一中学校を経て、国学院大学文学部予科入学
一九三八年(昭和十三年)四月、同大予科より文学部国文学科に進む
一九四一年(昭和十六年)三月、同大学卒業、卒業論文は「新古今序説」、四月より同大学国文研究室助手。九月十四日、綾子夫人と結婚
一九四二年(昭和十七年)一月、海軍予備学生試験に体格のため不合格、陸軍入隊決定。同月二八日助手辞任、二月一日応召入隊。約一週間後、朝鮮を経て中国へ向う。幹部候補生試験に合格
一九四三年(昭和十八年)済南で実習。少尉任官
一九四四年(昭和十九年)五月八目、中国河南省魯山付近の戦闘で戦死。二八歳(ママ)。陸軍中尉(1頁)

 茂雄二十五歳、龍樹二十八歳の命でした。大正2年から昭和19年の間に、二人が短い人生を駆け抜けたことが、本書に描かれている姿からはすぐには結び付きません。自分でしっかりと考えて生きているからでしょう。

 読み進めながら、メモとして抜き書きした文章を以下に列記しておきます。
 この記述の背景にある、想像を絶する戦時下という状況を忖度しながら、今は自分の中で未整理ながらも今後のために記録として残しておくものです。
 二人は『新古今和歌集』や藤原定家に篤い想いを抱いています。しかし、私は自分の興味から、『源氏物語』に言及する箇所を中心にして抽出しておきます。


☆私は陣中で源氏物語や古今集を講義させたという戦国の武将の故事を思いうかべながら、時に社会科学を論じ、時に定家の芸術を語った。(58頁)
 
☆源氏物語をはなれて伊勢物語を愛した高原の夏、…戸隠の冬…ボクが作った歌は新古今風のそれであった。死んでいった愛する人々を思う哀傷は、どんなものよりも定家の"なき人恋ふる宿の秋風"でなければならなかった。(そのころドストエフスキーとシエストフを愛した)現世にあらゆる望みを失い、しかも古典の教養を身につけかけてしまった者に、興味にはなりえない苦痛の興味は、ただ、新古今の恋と哀傷にひそめられていった。
 十三代集はもうみむきもされない。十三代集は心の深さがない。それはただ、技巧と形式のなごりにすぎない。そこには悩む者の姿がない。ボクがどうにでもして、新しい人生を始めようと努力する時、ポクは本当に、身において、新古今人の苦悩を感じた。しずかで意欲のない人々の時代には十三代集こそ真の詩であろう。意欲を持ちながらそれを現実に社会の中に満たしてゆかれない時、私たちの心は、本当の意味での新古今の本質をつかむ事ができる。(85頁)
 
☆例の原稿二十三枚、折口先生におわたしする。(十八日)
 論究に源氏論わたす(同日)。(91頁)
 
☆君は君らしく、やさしく物を思わない方がいい。君が物を思うのは"若菜"以後の巻でよい。"若紫"ボクのゆかりちゃん! おやすみ、ボクも美しい眠りにはいろう。(101頁)
 
☆ボクにはもう文学がいらない。ボクには"江戸紫"の必要がない。だってボクには"ゆかり"がある。綾ピン! いつ君と時間を惜しまず語れるのか。今夜もあいたいが、がまんしている。明日電話かけようか。なぜ昨夕約束しなかったのだ、今度からいつも次の約束をしてしまおう。電話で呼んでくれやしないかと夜待っていたがだめ。(104頁)
 
☆ ことばの心理学は、現代文学の粗悪をきらい日本語の美しさを古典の中に追いはじめる。そしてあの幼かったセンチメンタリズムは王朝の女性に文学を見いだす。"蜻蛉日記"や"源氏物語"が理想とされ"新古今"の形式主義は無上のものと信仰される。それらの言語の心理的な巧妙さは、谷崎や藤村のレトリツクの比ではなく、そのニヒリズムやロマンチシズムもまたはるかに深い美しさをたたえていた。古典の発見はボクの"文学"の転換であった。さがしてもさがしても立原君の詩以外に叙情できる文学のない明治以来の小説は、もう"文学ではない"と安心して言い切れる。文学と学問とが一つになる時が来た。"吉野拾遺"や"増鏡"に出発した古典へのやさしい愛は、やがて源氏・蜻蛉・新古今・枕草子をとらえ、次いで"文学史"への意欲と燃えた。こんな昔の形式の中に、こんなにボクのための文学が待っていようとは! そしてそれらの文学を、国学者は何と無味乾燥に扱っていることか。文学者はそれらの存在をすら知らないではないか。ボクの心理学は、ここでその対象を古典に限りはじめた。(145頁)
 
☆もう一つは、古典と空想の世界、定家や雅経がどんなにリアルな肉体を持った精神となって、僕に迫りだしたことか。戦友たちが都の女のうわさをする時、僕は、平安の歌人たちと膝を交える錯覚にひとり興奮を覚えるのだ。(173頁)

 
 
 

2014年11月18日 (火)

読書雑記(112)想い出の中にあった壺井栄『あしたの風』

 この本をずっと探していました。

 「ウィキペディア」に「あしたの風」として壺井栄の小説が紹介されています。


「NHKにおいて1961年5月21日に単発ドラマとして放送。」
「NHK連続テレビ小説の第2作で、1962年4月2日から翌1963年3月30日までに放送された。原作は“家族制度”を追及した作品として知られている。」

 しかし、私が読んだのはこの長靴の話ではなかったように思います。
 読んだ時期は、昭和45年(1970)で、大阪で万国博覧会が開催された年の秋でした。

 新本ではもちろんのこと、古本屋やネットでも見つけられませんでした。
 今回、読み終わってからあらためてネットで探すと、この本について、いろいろと古書や記事が見つかりました。
 探したはずなのに情報を的確に掌握できなかったのは、真剣に探していなかったからでしょうか。それとも、「ウィキペディア」にある内容の記事に惑わされたせいでしょうか。

 それでも、いつか見つかったら読もうと、無意識の内に探していたのでしょう。
 それが、深川図書館で偶然見つけたので、すぐに借りて来ました。
 壺井栄の『あしたの風』(新潮社、昭和33年2月)は、私にとってはなぜか忘れられない本なのです。ただし、私が読んだのは文庫本でした。青色の表紙だったことを鮮明に覚えていたので、ネットで探し当てることができました。


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 この本のカバーには、次の文章が印刷されていたようです。
 今回、あらためてインターネットの情報の便利さを知りました。


「今日をせい一ぱい生きれば、それによって明日生きる道は開ける」
―あしたの風とはそういう意味である。母の恋を遂げさせようと、希望にもえて入学した神戸の高校をやめ、家業を手伝うために小豆島へ船に乗る百合子。素直にのびやかに生きてゆく娘を中心に女のさまざまな愛情の姿をえがき、しみじみと心温まる物語。

 45年ぶりに、いつかもう一度読もうと思っていた本を手にできたのです。こんな思いで本を手にすることは、そうそうありません。得難い経験です。

 この本は、高校卒業後に上京するやいなや十二指腸潰瘍穿孔性腹膜炎で手術をし、大阪の八尾の自宅に帰って静養し、その秋に体調も回復したので再度上京して新聞配達店の2階の住み込みの三畳一間の部屋で読み、涙が止まらなかったものです。
 何がそうさせたのか、そのことが知りたくて読もう読もうと思いながら、いつしか45年が過ぎていたのです。

 次の表題がつけられていて、19の章で構成されています。


花の由来
唐草模様
藤陰
緑の風
昼の朝顔
海辺の道
空のどこかで
一度でよい
昔を今に
蝕める花
細霧
心紅葉
雲のかげ
こだま
渦まき
おぼろ月夜
飛ぶ鳥
白い花赤い花
あしたの風

 汐崎百合子という主人公には、今となってはまったく思い当たるものがありません。
 父が戦死し、優しい母に育てられます。そして、18歳で小豆島から神戸の女学校「藤蔭学院」(現在の神戸松蔭女子学院大学らしい)へ行き、住み込みの小遣いさんとなって家の負担を軽くします。弟は新聞配達のバイトをし出します。
 次第に思い出しました。
 18歳で上京して新聞配達をしながら大学に行かせてもらった自分の境遇と、少しずつオーバーラップし出しました。

 初めて親元を離れた時だったこともあってか、この本に出てくる家族思いの母親に感情移入したのかもしれません。
 それにしても、どうしてこの本をタコ部屋と言われていた新聞販売所の自室で読んだのか、今となってはわかりません。
 昔から、小説を貪るように読んでいた中で、何かの解説書か本の案内書で知ったのでしょうか。

 高校時代には、テニス部の練習が終わった帰りに、近鉄布施駅前にあった(今もある)「ヒバリヤ書店」にいつも立ち寄っていました。当時自分で決めた目標として、文庫本と名のつくものを日本も海外も、そのすべてを読むということがありました。家庭の事情で本を買うことができなかったので、立ち読みでそのすべてを読破しようとしたのです。読む順番は、文庫本の目録で決めていたように思います。その中に、この壺井栄の『あしたの風』があり、上京する時に買って持って行ったのかもしれません。古本だったので、高校の行き帰りに、上本町6丁目にあった天地書房で買ったと思われます。

 作中のこととして、夏休みになっても自分の家に帰れない百合子に、自分でも毎日配達の仕事があるので大阪の家に帰れないことがダブったことでしょう。
 何度も、帰りたいなーと、思ったことでした。八尾の高安にいる母から届く温かい手紙が、日々の辛さを慰めてくれました。いつも、手紙にはソッとお小遣いが入っていたものです。もう時効だからいいでしょう。

 いろいろな物が、父に内緒で母から送られて来ました。その点、父はまったく連絡をくれませんでした。父なりに、私の自活を黙って見つめていたようです。新聞販売店が火事で全焼し、着の身着のままで焼け出された時には、父と姉が真っ先に駆け付けてくれました。父が常に私のことを気にしてくれていたことは、折々に感じていました。

 焼け出された後、阿佐ケ谷にあった、父が勤める会社の社員向けの育英寮と東中野の社員寮に入った時は、何かと心配してくれました。非常に事務的に対処していたのは、父なりの思いやりだったようです。

 2年前に、父が遺してくれていた帛紗を見つけ、私に対する細やかな気持ちを感じることができました。

「父が遺していた焼けた帛紗の由緒書」(2012年12月24日)

 そういえば、私が中学生のころでした。父は会社にさまざまな提案をして、その御褒美としていつも私が読みたいという文庫本をもらってきてくれました。
 文庫本の内扉に印が捺してある、新潮文庫でした。
 このことをかつて本ブログに書いたように記憶していました。しかし、見つかりません。このブログも何度かクラッシュしているので、その消えてしまったブログの記事の中にあるのでしょう。いつか再現したいと思います。

 親の気持ちは、子供にはよくわからないものです。しかし、常に気にかけていてもらっていたことをこうした折に知ることは、自分の親を見つめ直すことにも通じていて嬉しいものです。

 さて、今回この本を読んでみて、素直に生きるということを再認識した本だったように思いました。
 そして、家族みんなの思いやりを。さらには、母の包み込むような存在が、行間から滲むように感じられました。上京したての若者には、心揺さぶられる話だったことを確信できました。

 ただし、本作では父親の陰は薄いものでした。作中、父は娘の名付けの理由に、中條(宮本)百合子という「えらい小説家」にちなんでのものだと言っています。日本プロレタリア作家同盟には中條百合子がおり、壺井栄も『戦旗』のかげで貢献していたので、このあたりは背景を調べるとおもしろそうです。

 私が高校2年生の時に東大紛争の安田講堂占拠事件があり、大学入試が中止になる中で、大阪市内であったデモなどに私も参加していました。そのことを題材にした「隆司の場合」という短編小説を学内誌に発表したことは、またいつか書きましょう。
 この壺井栄の作品を読んだのは、その時の学生運動仲間から聞いた話の流れで、これを手にしたものかもしれません。それにしても内容が当時(昭和44年)の社会情勢にそぐわないので、これもよくわかりません。

 貧乏という言葉が何度も出ることにも、無意識に反応したのかもしれません。
 私が大学に行くことは、我が家では考えられないことだったのです。国鉄マンだった伯父は、国鉄に入って給料をもらいながら大学へ行ったらいいと提案し、一時はその方向で私の身の振り方が決まりかけていました。しかし、卒業後に国鉄で働くことに馴染めなかった私は、同じような条件で大学に行かせてもらえる朝日新聞の奨学生を選びました。新聞記者になりたい、という希望があったからです。

 この小説にもあるように、私の母も私の病後の身体のことをいつも心配し、辛かったらいつでも辞めてもいいよ、学校に行くお金は何とかするから、と言ってくれていました。こうしたことが、この作品に感情移入させられた原因の一つだと思われます。

 ただし、この作品の底流をなす母の秘密と心の裡に、当時の私がどれだけ読み及んでいたのかは、大いに疑問です。話の設定と、親子の情愛に感じていただけのように思えます。

 読み直してみて、これは大人が読んでも人情の機微を堪能できることを知りました。もっとも、45年前の想い出探しという目的がなければ、あえて今この本を読まなかったようにも思います。
 最終章をなす「あしたの風」も、なんとなくあいまいな切れ味の鈍い文章のように感じました。昭和30年頃の作品だから、ということなのでしょう。文中に2度ほど出てくる「あしたはあしたの風がふく」ということばとテーマも、今となっては伝わり難い話の流れです。

 いずれにしても、気掛かりだった作品を読み終えて安堵しました。
 
 
 

2014年11月 2日 (日)

読書雑記(111)澤田ふじ子『宗旦狐』

 澤田ふじ子の『宗旦狐—茶湯にかかわる十二の短編』(光文社時代小説文庫、2013年10月)を読みました。


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 本書に収録された作品は、裏千家の月刊茶道誌『淡交』の平成14年1月から12月まで連載されたものです。1作品につき400詰原稿用紙20枚という制約があったようです。

 本文庫本に収録された「初版本のあとがき(平成15年春)」で、作者は次のように言っています。


 わたしはこうして短く制限された枚数の中で、一つのテーマにもとづいた作品を書くのが、スリリングで好きだ。
 茶湯は権力や財力に支えられて大きく広まり、茶道具によって贅の色に染められた。当然、血腥い話は数々伝えられている。しかし特殊な茶道誌という関係から、血腫い話はタブーとされ、苦労を強いられたが、徳間書店から刊行されるに当たり、収録作品中「御嶽の茶碗」の最後の部分を二行ほど改稿した。
 表題作「宗旦狐」の千宗旦は、茶道史の中で神格化された人物。多くの逸話をいまに残すが、わたしが作り上げた宗旦狐の話が、やがて歳月が経ったとき、かれの逸話の1つに数え入れられたら幸いだと思っている。
 なおこの一冊の中に平成二年三月、千利休四百年忌にあわせ、講談社が書下ろし短編小説集として刊行した『利休七哲』のうち瀬田掃部「仲冬の月」を収録させていただいた。(300頁)

 この20枚という制約は、作者のことばはともかく、私には中途半端なままで閉じられることになった最大の原因であると思っています。

■「蓬莱の雪」
 京都五条大橋のうどん屋の弥助のもとに留め置かれた雪村の画幅。無銭の客がうどんの形に置いて行ったものでした。話は、思わぬ展開をします。ただし、作り事めいていて、先が見えてしまいました。それでも、年の瀬らしい、いい話に仕上がっています。【3】
 
■「幾世の椿」
 東九条村の百姓甚助親子の話です。裏庭の椿を、一人のあやしい男が、初釜にかけるために見つめています。椿をめぐる話は、爽やかです。【3】
 
■「御嶽の茶碗」
 大垣藩領の天野九左衛門の茶室をめぐる話です。一つの青磁茶碗が2人の運命を狂わせます。最後の急展開がうまいと思いました。【3】
 
■「地獄堂の茶水」
 四条高倉錦小路上ル、小間物問屋菊屋の女主お貞は、毎年3月6日に、鴨川の源流である大原の地蔵堂の水を正午きっかりに汲んで、お茶を一服点てることを続けていました。その水をめぐる話が、感動的に語られます。【4】
 
■「戦国残照」
 山城国大山崎にある、国宝の茶室「待庵」が出てきます。摂津国広瀬村の小夜の話です。小夜の夫は、関ヶ原の合戦で亡くなりました。ところがその夫が、四条小橋のたもとで茶売りをしているのを見つけます。記憶をなくしながらも、小夜が作ったお守りを大事に持っていたのです。感動的な話です。【5】
 
■「壷中の天居」
 応仁・文明の乱の頃の東洞院通りが舞台です。戦の後に新しい町屋が作られていきます。そうした中で、坪庭にまつわる話が語られます。1話としては、まとまりのない作品です。【2】
 
■「大盗の籠」
 上京・五辻通りで竹籠作りを生業としている六蔵の話です。茶の湯と籠花入れの話題が、後の河竹黙阿弥の歌舞伎「白波五人男」へとつながります。利休の孫である宗旦が言った「分相応」を語るいい話です。【4】
 
■「宗旦狐」
 寺町今出川の茶屋が舞台です。利休の孫宗旦が食べた団子の串が話題となります。さらには、筆の話へと、おもしろく展開します。ただし、落ちが見えるので、少しがっかりです。【2】
 
■「中秋十五日」
 丹波篠山藩での、中秋十五夜の茶会の話です。始めは、モタモタしていました。しかし、切れ味のよい、みごとなできの作品です。【4】
 
■「短日の霜」
 上京実相院町の裏店での話です。仇討ちや松江と不昧公が出るなど、仕掛けが気に入りました。ただし、最後がもの足りません。【3】
 
■「愛宕の剣」
 宇治の茶畑が出てくる、今に残る上林家にまつわる話です。ただし、話がまとまりません。ネタがもったいないと思いました。【1】
 
■「師走の書状」
 上京の御所八幡町が舞台です。利休自筆の書状など、やや無理な設定です。いい話なのに、小さくまとまりすぎたようです。【2】
 
■「仲冬の月」
 素性や履歴が不明ながらも、豊臣秀吉の家来で利休七哲にも数えられる瀬田掃部のことから始まります。室町期の絵師のこともよくわかります。瀬田は秀吉のもとで、とんとん拍子に出世します。しかし、やがて離れていくのです。人物の描写がぼんやりとしているのが気になりました。【2】
 
 
※2003年3月 単行本(徳間書店)
 2005年5月 文庫本(徳間書店)
 
 
 

2014年10月 6日 (月)

読書雑記(110)澤田ふじ子『地獄の始末―真贋控帳』

 澤田ふじ子『地獄の始末―真贋控帳』(徳間書店、2001年7月)を読みました。


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 古物としての書画の鑑定を家職とする古筆見了意を軸にして展開する、連作の物語です。
 個人的には、所有者の思いが籠もった古物を扱う題材の性格からいって、もっと人間の情を盛り込んだほうがふっくらとした作品に仕上がるように思いました。作者のスタンスの問題なので、これはこれで澤田流の味付けとして読みました。
 
 
■「雪村の絵」

 開巻早々、ならず者と浪人が喧嘩をする場面が、生き生きと描かれています。話は、古筆了意が見せた不吉な陰をほのめかして進みます。読者を惹きつけるのがうまい展開です。ただし、最後は話の収まりがよくないと思いました【3】。
 
初出誌︰『問題小説』2000年5月号
 
 
■「利休の判形」

 古筆家の目利の真価が語られます。入門用の知識が参考になります。なぜ古典籍に極め書きが付いているのか、というその理由がわかります。所持者は、これが本物だという証明がほしいのです。それだけ偽物が多い、ということでもあります。
 本話は、利休の掛け花入けの出現で、めでたく話が収まります。趣向が作り事めいていて、興ざめでした。しかし、おもしろく読むことができました【3】。
 
初出誌︰『問題小説』2000年8月号
 
 
■「二天の鵙」

 偽物の古筆了意が、大垣城下に出現します。古筆見としての自家を守るために、江戸からの帰りに通りかかった了意は、当人に会いに行くのでした。人間関係の謎解きに引き込まれます。それ以上に、絵が転々として今に残る事情も語られており、興味深い美術伝来の歴史もうかがえます。気になったのは、最後の詰めの一点だけです【5】。
 
初出誌︰『問題小説』2000年10月号
 
 
■「暗がりの土地」

 清貧の心がけでおかきを焼き続ける清助が、淡々と語られます。清々しささえ伝わって来ます。
 織部の沓茶碗と黒織部や青織部など、室町期の美濃焼が話題にのぼります。目の前の3つの茶碗は本物なのか。清助が庭から掘り出したものだけに、つい読まされます。そして、歴史の背景が語られ、さらに驚かされます。現代の発掘話まで引かれ、たっぷりと楽しめました。ここまでは、あまり情を前面に出さなかった作品の中でも、本作はほろりとさせる仕上がりです。
 題名が暗すぎるので、もっと別の命名にすべきだと思いました【5】。
 
初出誌︰『問題小説』2001年1月号
 
 
■「世間の罠」

 平安・鎌倉時代の仏画が出てきます。応挙に又兵衛と、話題となる出演者も豪華です。西陣の説明に国会図書館の資料が紹介されているなど、現代と江戸時代の自由な往き来がいいと思います。ただし、話は中途半端なままに幕切れとなります【2】。
 
初出誌︰『問題小説』2001年4月号
 
 
■「地獄の始末」

 小野道風が書いた『古今和歌集』の色紙が話題となって始まります。昭和13年の国立京都博物館展覧会の話や、昭和31年の売春防止法のことなど、島原遊廓を舞台にして人情噺が紡がれます。
 書画骨董をからめて人の心を語るのが、本作の本領です。いい話です【5】。
 
初出誌︰『問題小説』2001年6月号
 
 
※本書は、同書名で「徳間文庫」(2004年1月)と「光文社文庫」(2007年11月)にも収録されています。
 
 
 

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2014年9月18日 (木)

読書雑記(109)広瀬浩二郎のことば切り抜き帳(1)

 目の不自由な方と一緒に『源氏物語』の古写本を読む方策を模索する上で、やはり全盲の研究者である広瀬浩二郎さんのことばには、多くのヒントがあると思っています。

 ここでは、『さわっておどろく! 点字・点図がひらく世界』(広瀬浩二郎・嶺重慎、岩波ジュニア新書、2012年5月)から、意識しておくべきことばを抜き出しておきます。
 嶺重さんが執筆なさっている第5章からは、今は引きません。


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 私にはまったく理解の及ばない世界のことでもあり、とにかく抜き出すことで、後で考えるための資料集にしたいと思います。

【障害者と共生社会のありかた】


 共生、つまり障害の有無に関係なく万人がともに生きることをめざすならば、どうしてもマイノリティである障害者はある種の頑張りを強いられることになる。時に共生とは多数派の論理となり、障害は克服すべきマイナスと一方的に決め付けられてしまう。そてして、それを克服できない者は、共生社会から排除されるのである。障害の克服を金科玉条とする共生社会では、いつになっても障害者は「お母さん、生きててよかった」と美談の主役に祭り上げられることになるだろう。(21頁)

※(私注)共生をいいながらも、今の社会には明らかに多数派の論理により区別なり排除がありますね。
 
 
【過渡期の視覚障害教育】

 近年、「インクルーシブ教育」「特別支援教育」という理念の下、障害児教育をめぐる情勢が激変しています。しかし、まだ流動的な部分もあり、「本質は何も変わっていない」というのが僕の個人的な感想です。本書では過渡期を迎えている視覚障害教育の現状や問題点には立ち入らないことにします。(32頁)

※(私注)いつかこの過渡期と言う教育の現状について聞きたいと思っています。
 
 
【古文書が読めないこと】

 僕は少年時代から歴史小説が好きだったので、他の選択肢は考えずに日本史学科を選びました。でも専門の授業が始まって、あらためて全盲には歴史研究が難しいことを痛感しました。最大のハードルは古文書を解読することで、自分では読めないし、周りのボランティアに頼もうとしても無理です。文字どおり八方ふさがりで、遅ればせながらこれはチョイスを誤ったかなと思いました。
 しかし自分が好きで選んだ学科ですから、どうにかしないといけません。いろいろ試行錯誤する中で、聞き取り調査をする方法に方向転換しました。いまだに文献が自由に読めないのはハンディキャップなのですが、全国各地に行って我流で聞き取り調査、フィールドワークをする過程で「さわって楽しむ」ことに目覚めていくわけです。(38頁)

※(私注)古文書を一旦手放した広瀬さんに、今私はひらがな主体の古写本を一緒に読もうと持ちかけています。
 
 
【「人に優しい」ことへの違和感】

 僕は先駆者の尽力に感謝しつつも、当初からなんとなく「人に優しい」というフレーズに違和感を抱いていました。目が見えない僕は、「人に優しい」バリアフリー製品の恩恵に日々浴しています。でも、誰が誰に優しいのかと考えると、どうしても健常者(博物館スタッフ)の障害者(来館者)に対する善意・親切、「してあげる/してもらう」という図式を感じてしまうのです(優しさに反発する僕は、たぶん「誰にも優しくない」人間なのでしょうね)。(40頁)

※(私注)これは辛辣な現代日本社会への批判だと思われます。
 
 
【触覚という情報入手法】

 触覚は量とスピードで劣っていますが、視覚のように受動的な情報入手ではありません。自分の手を動かし、情報を増やしていく。点だった情報を面、そして立体へと広げていく。あたかもパズルを組み立てるようなおもしろさがあるし、逆に難しさもあります。(48頁)

※(私注)古写本を一緒に読みませんかと呼びかけることで、おもしろさと難しさを共有しようと思っています。
 
 
【広瀬流三要素】

 ◎広瀬流「視覚(見る)と触覚(さわる)の三要素」
 look=視線を向けて意図的に見る→手線を意識し、大きくさわる
 watch=注意してものの動きをじっと見る→一点に指先を集中し、細部を小さくさわる
 see=自然に見える、目に入る→皮膚感覚を研ぎ澄まし、全身を手にしてさわる(54頁)

※(私注)これはまさしく、古写本を読む時の心構えとなるように思われます。
 
 
【障害者の呼称】

ここ数年、『障害」の表記に関する種々の議論が繰り返されています。「害」の字が否定的なニュアンスを持つので平仮名にすべきだという「人権」思想に基づき、役所等の文書では「障がい」「しょうがい」を使用するケースが増加しました。しかし、「がい」や「しょうがい」そのものには何もポジティブな意味がありません。そもそも障害とは、社会の多数派が少数派に貼り付けたレッテルです。漢字を仮名に置き換えるだけの事勿れ主義でなく、障害という一方向的な強者の論理を克服することが、二一世紀を生きる僕たちの真の目標であるはずです。
 僕は晴眼者/視覚障害者の陳腐な二分法に対し、「見常者(けんじょうしゃ)=視覚に依拠した生活をする人」「触常者(しょくじょうしゃ)=触覚に依拠した生活をする人」という新しい呼称を提案しています。「さわる文化」は障害の有無を超越する人類共通の財産であり、その復権が今こそ求められているのではないでしょうか。さわって学び、楽しみ、愕く。触文化の探検、すなわち見常者と触常者の自由な交流の場が増えれば、障害という概念は雲散霧消するに違いありません(なお、本書では弱視者や中途失明者を含む「目が見えない人、見えにくい人」の客観的な総称として、「触常者」でなく「視覚障害者」を用いています)。(55~56頁)

※(私注)「見常者」と「触常者」という呼称は、最近私も意識して使っています。
 
 
【点字の今後】

 医学の進歩により、今後ますます視覚障害者の数は減少するでしょう。また、パソコン等の普及で若い視覚障害者の「点字離れ」が進行し、一方では中途失明者の点字習得の困難さも指摘されています。このような状況下、視覚障害者用の文字である点字の未来はどうなるのか。僕自身は二二世紀にも点字が生き残ることを確信していますが、そのためのキーワードが"点字力"なのです。(70頁)

※(私注)点字と共に、ひらがなを触って読めるようになることと、縦書きの習得を広瀬さんに提案しています。
 
 
【凸文字の触読の難しさ】

 社会の多数派である見常者と円滑に交流・通信するためには、視覚障害者が墨字を使うことが必要なのも確かでしょう。しかし、凸文字は触読に適していませんでした。さらに、凸文字を用いて生徒がメモや手紙を書くことはきわめて困難です。日本では漢字を凸文字にした明治一〇年代の鍼灸・箏曲の教科書が残っていますが、それらを一文字ずつ解読していた生徒の苦労は想像を絶するものがあります。アルファベットにしても仮名・漢字にしても、一般に線による文字は視覚で認識しやすいものです。イメージ(像)として瞬時に文字をとらえることができる視覚に対し、触覚(指先による触読)には点を線、面へと広げていく難しさがあります。直線と曲線が不規則に混在する墨字を習い覚えるためには、専門的なトレーニングが不可欠です。そのような時間と労力を費やす教育実践が、一九世紀の盲学校で行なわれていたことは評価できますが、凸文字による学習効果は点字に比して、はるかに劣っていました。(72頁)

※(私注)広瀬さんを説得するためにも、今、15センチ四方の板に『源氏物語』の変体仮名を彫って触読の実験をしようと思っています。
 
 
【日本は点字投票の最初の国】

 点字大阪毎日の運動などもあって、大正一四(一九二五)年の衆議院議員選挙法(普通選挙法)で点字投票が認められます。日本は点字投票を制度化した世界で最初の国です。(77頁)

※(私注)日本人特有の優しさであり、思いやりの文化が背景にあると思われます。
 
 
【パソコンの意義】

 一九八〇年代後半には、点字で文章を書いていた視覚障害者が、パソコン(点字ワープロ)を用いて墨字文書を作成することが可能となりました。従来の点字・墨字の相互変換には、点字のルールを熟知する見常者のサポートが必須でしたが、現在では点字ユーザーと点字を知らない見常者がEメールで文字情報をやり取りすることが日常化しています。ITが視覚障害者にもたらした恩恵は大きく、パソコンは情報弱者のハンディを補う有力な武器となっているのです。視覚障害者が墨字に直接アクセスする機会が増えたことによって、点字と墨字の表記の「違い」に戸惑いを感じる人が多くなりました。若い視覚障害者の中で読点使用に反対する者はいませんし、墨字との整合性を重んじ、表記法の一部改正を求める意見も出されています。(81頁)

※(私注)まだ未発達の情報文具の活用は、見常者ですら使いこなせていない現状において、まだまだ可能性があります。
 
 
【多文化理解教育】

 近年、多文化理解教育の一環として手話を第二外国語科目とする大学が徐々に増えています。手話と同様に、点字も福祉の枠組みとは一線を画する新しい角度からのアプローチが進むことが望まれます。手話は言語としての明確な位置づけができますが、日本点字は日本語を書き表すための文字体系ですから、厳密な意味での言語ではありません。でも、もともと点字は墨字との「違い」の上に成立したものであることを再認識し、その「違い」を継承する形で多文化理解教育における点字のプレゼシスを高めていかなければならないでしょう(詳しくは本章末の「付録皿」を参照)。(84頁)

※(私注)古写本による墨字の再認識を、私は広瀬さんに提案しているところです。
 
 
【点字の有用性】

 日本だけでなく、「点字離れ」は世界各国の視覚障害者に共通する現象となっています。
 とはいえ、視覚障害者がじっくり読書しようとすれば、自分のペースで能動的に情報を獲得する手段として、今のところ点字に勝るものはありません。また、日常生活における私的なメモなどでも、簡単に書いて、すぐに確認できるという面で、点字は便利です。能動性と簡便性が点字の最大の特徴であり、これは音声情報ではカバーできない触覚文字の長所といえます。紙媒体から電子媒体へのさらなる移行は進むにしても、点字が完全に消滅することはないでしょう。(85頁)

※(私注)ここに、ひらがなの触読ということを加えると、見常者と触常者が文化を共有できるようになる、というのが広瀬さんへの私からの提案趣旨です。
 
 
【マルチモーダル図書とは何か】

 マルチモーダル図書とは、同じ内容の情報に複数の手段でアクセスできる図書のことです。例えば、今回われわれは、同じ内容の本を、①活字版(墨字版、通常の紙印刷の本)、②点字版(点字および点図からなる本)、③音声版(音声を録音し耳で聞く本)、④電子ブック(パソコン上で読む本)の四つの異なる形式で同時製作しました。(125頁)

※(私注)点字版に、ひらがなの浮き出し文字を加えたいと思っています。
 
 
【点字版は著作権の対象外】

 点字版は著作権の対象外なので、たとえ著者の承諾が得られなくても出版できますが、音声版や電子ブックにおいてはその限りではありません。簡単にコピーできるために、本が売れなくなるという理由から、マルチモーダル出版をきらう著者もあると聞いています。しかし、多くの視覚障害者にとって音声版や電子ブックはきわめて有用です。著者が、点字・点図版や音声版の作製にも関われば、著作権の問題は発生しません。(127頁)

※(私注)点字版の有用性をもっと評価することで、ひらがなの浮き出しシートの開発は意義があると思います。
 
 
【鈍角は指先で知覚できない】

 鈍角を指先で知覚するのは難しいのです。次の図は楕円ですね、これも、真円と思いました。このように、手で読むということは、視覚で見るのとは、大きく異なることがよくわかります。(130頁)

※(私注)ひらがなの浮き出し文字を提案している私にとって、この鈍角に認識の困難さが一番のネックとなるように思われます。
 
 

2014年9月17日 (水)

読書雑記(108)佐藤隆久著『日米の架け橋』への不信感

 本読書雑記(108)は、いつものように好意的に語っていません。本意ではないままに、十分に語り尽くせなかったことを、まず最初にお断りしておきます。

 それなら、取り上げるな、と言われそうです。しかし、今私が持っている関心の中に入って来た書籍であり、自分の問題意識を整理するのには役立ちました。
 問題の多い内容だったために、かえって自分の問題意識と知識の再確認ができたのです。
 あえて、この時点で刊行された本であり、自分が目を通した本であることを記録として残すことに意義を感じ、こうして取り上げる次第です。

 佐藤隆久氏の『日米の架け橋 ─ヘレン・ケラーと塙保己一を結ぶ人間模様─』(熊本第一ライオンズクラブ、2014.7.16)は、佐藤氏が20年間の調査を経て自費出版されたものです。


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 見開きで、左頁が日本語で右頁が英語による、日英対照となっています。

 本書を読みながら、私はヘレン・ケラーと塙保己一とのつながりに興味を持ちました。それと同時に、なぜこのような本が出版されたのかに思いを致して残念に思っています。これは、出版されることでかえって目の不自由な方々への誤解を招く構成であり内容だと思うからです。

 その典型的な部分を、まず引用しておきます。
 以下の記述は、もし再販されるのであれば、最低限ここは削除されたほうがいいと思ったところです。


 この問題はひょんな事から解決した。バカンス中の女子大生たちの会話からであった。曰く「…シーダーポイントのローラーコースターは凄いのよ…」というひと言であった。つまり、「シーダーポイント」は都市の名前ではなく、遊園地の名前であった。ちなみに、わが国では「ジェットコースター」というが、これはローラーコースターの和製英語だそうである。それにしてもわだかまりが残った。何でシーダーポイントを膝の擦り切れたバカンス中の女子大生から習わなくてはいけないんだ? …君たちからだけはライオンズを語られたくない!(171頁)
 
 過日、私は熊本県立盲学校に盲人福祉関係の資料を集めに行った。その折に担当職員に何気なく聞いたのである:「ライオンズクラブってどんな団体かご存知ですか? ライオンズクラブの盲人福祉活動ってご存知ですか?」と。しかし、いずれも否定的な答えを察知した私は愕然として早々に話を切り上げ、盲学校をあとにした。(191頁)

 以下、本書の内容を否定するようなことの列記となるのが本意ではないために、本書の問題点を箇条書きにすることに留めます。


■聾唖教育に関する言及に、はてな、と思う箇所にいくつか出会いました。現在、目の不自由な方々と一緒に日本の古典籍をよむ方策を模索中なので、よけいに敏感に反応したのかもしれません。それにしても、目の不自由な方に対する記述に、違和感を持ちました。あまりにも興味本位からの視点で述べられていると思えるからです。

■ヘレン・ケラーと塙保己一との接点について、伊沢修二、グラハム・ベル、アン・サリバンの説明が、推測を重ねた思いつきの上で空中分解しています。(15頁、137頁、161~165頁、229頁)

■『群書類従』の版木の彫り方や、小笠原島の記述などに、認識不足と私情が混在しています。多数の書籍をご覧になってまとめられたようです。しかし、資料の学問的な選択に恣意があり、そのまま受け入れがたい箇所が多いことは、本書を読む上でも気をつけたほうがいいと思いました。

■設定したテーマに対する熱意と、そのテーマを解決しようとする研究手法の客観性がアンバランスです。

■幕末から明治にかけての歴史が詳しく語られます。しかし、それはそれとして、これだけのスペースをヘレン・ケラーと塙保己一の話題に割いたら、もっと一書としてのテーマが明確になったことでしょう。私には、調べたことを何でも盛り込む、ページ稼ぎにしか思えませんでした。
 その意味からも、第4章の20頁分はすべて不要です。

■ヘレン・ケラーと塙保己一の同じ写真が、随所に使われています。第4章のヘレン・ケラーの5枚、第5章の塙保己一の5枚の写真は、共にすべて扉に大きく掲載されているので、すべてスペースの無駄です。同じ写真を繰り返して挿入することは、本書の印象が軽くなり薄れます。

■この内容の日本語文を、すべて英語にする意義を感じませんでした。英語併記というのは見かけ倒しであり、潤沢な資金を背景に出版されたと思われることと併せて、私は不信感を抱きました。

■紹介されているエピソードに、出典を明記してもらいたいと思います。また、なぜここでそのエピソードを、と思う箇所が多々ありました。

■クリーブランド大統領の例のように、同じエピソードが重出するのは無駄であり、読む気力を失わせます。

■話題が脈絡もなく飛び飛びに語られています。しかも、枝葉に事細かな説明が付くので、本筋がまったく見通せません。

■2羽のカナリアの写真は、寒々しい思いになります。なぜこんな、目を覆いたくなるような写真を掲載されたのでしょうか。(115頁)

■第10章は、ヘレン・ケラーの生涯となっています。本書の構成がよくわかりません。

■全体を通して、推定と推測と事実認識が混在しているので、戸惑いを感じながら通読することになりました。

 以上、私は著者と一面識もありません。あくまでも、本書を真剣に読んだ者の1人としての感想を記しました。非礼はお詫びします。ただし、上記のように、なぜ? と首を傾げながら読むこととなったために、ストレートに雑感として記しました。
 最後の年表は労作と思います。しかし、これに対しても自分なりに再確認をしてから利用させていただこうと思っています。 妄言多謝
 
 
 

2014年9月12日 (金)

読書雑記(107)沢田ふじ子『短夜の髪 京都市井図絵』

 沢田ふじ子著『短夜の髪 京都市井図絵』(光文社時代小説文庫、2014年4月10日)を読みました。


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 沢田さんの小説を読むのは、古筆家を扱った『これからの松』(朝日新聞に連載後、朝日新聞社、1995年12月刊)以来です。
 京言葉での会話が生き生きとしています。

■「野楽の茶碗」

 京都室町筋にある柊屋という茶道具屋の物語です。
 心地よい京都弁で始まります。この丸みを帯びた、軽快で滑らかな言葉によって交わされる会話の遣り取りが、本作の特徴の一つです。
 野楽の茶碗とは、「茶碗屋」と呼ばれた焼き物師たちが、京都の各地で手捏りの黒楽や赤楽の茶碗を作ったものです。楽は、温度の低い小規模な窯でも出来たので、あちこちの茶会で使われたのだそうです。
 正月初釜を舞台にして、話は展開します。仕覆を取り換えるために預けたはずの野楽の黒茶碗が、何とお茶席に堂々と出て来たのです。茶道具をめぐる興味深い話を背景にして、事件は見事に収まります。道具屋という商人の姿が活写されています。【4】
 
初出誌︰『小説宝石』(光文社)2012年1月号
 
 
■「危ない橋」

 室町筋の突抜町にある、茶道具屋「柊屋」の話です。千家三世の宗旦が造った信楽の小壺が話題となります。お寺から仏画が出る事情や、表具と表装、さらには古典籍の伝来の背景についても、よくわかる説明がなされています。
 一万両の値打ちのある巨勢金岡の仏画をめぐる話は、突然幕が下ろされます。次の話へ、ということでしょうか? 【3】
 
初出誌︰『小説宝石』(光文社)2012年2月号
 
 
■「短夜の髪」

 話は一転して、御池にある古着問屋「笠松屋」の主である正兵衛と異母姉のお登勢の話になります。威勢のいい女のしゃべくりと大活躍が語られます。
 この笠松屋には、「柊屋」から買った俵屋宗達の「寒山拾得」の屏風がありました。貧しい長屋で育ったお登勢と母の話には、胸が詰まります。情が冷静に書き綴られてています。いい話です。
 最後に出てくる誕生仏は、26両で「柊屋」が引き取ります。しかし、これは次巻で200両で売れるのです。【5】
 
初出誌︰『小説宝石』(光文社)2012年5月号
 
 
■「暗がりの音」

 大八車に京野菜を積んで売り歩く朝吉は、大きな夢を持っています。八百屋を町中に持つことでした。
 本話での、印章や落款の話は勉強になります。偽物や贋作についても、興味深く読みました。
 さて、朝吉が盗品故買に加担していることがわかり、おもしろい展開となります。名物手といわれる大井戸茶碗が話題となり、「柊屋」が活躍します。
 話に躍動感があり、見事な話の綴じ目を見せます。【5】
 
初出誌︰『小説宝石』(光文社)2012年6月号
 
 
■「世間の篝火」

 平安時代の来迎図や、巨勢金岡筆の聖徳太子の孝養図など、由緒のある名品が話題になります。ただし、最後に筆が急いだ印象が残りました。もっと話を聞きたいと思わせる、そんな話題が提供されています。【3】
 
初出誌︰『小説宝石』(光文社)2012年7月号
 
 
■「誰の徳利」

 酒好きの父を思いやる娘と、賀茂茄子の絵徳利が主役です。しかも、徳利は、織部の本物なのです。人間の心の清らかさが描かれています。意外な展開でいい話です。【5】
 
初出誌︰『小説宝石』(光文社)2012年8月号
 
 
※単行本︰光文社刊 2012年10月
 
 
 

2014年8月29日 (金)

読書雑記(106)中津文彦『塙保己一推理帖 枕絵の陥し穴』

 中津文彦の『塙保己一推理帖 枕絵の陥し穴』(光文社時代小説文庫、2010年1月)を読みました。
 これは、『移り香の秘密 ー 塙保己一推理帖』(光文社、2006年3月)を改題したものです。

 〈塙保己一推理帖シリーズ〉としては、「読書雑記(104)中津文彦『塙保己一推理帖 観音参りの女』」(2014年07月16日)に次ぐ、第2作目です。なお、第1作の『塙保己一推理帖 観音参りの女』(カッパ・ノベルス、2002年8月)は、『亥ノ子の誘拐 ー 塙保己一推理帖』(光文社時代小説文庫、2009年12月)と改題して刊行されています。
 

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  ■「移り香の秘密」  江戸の大相撲に関して、雷電をめぐる話が展開します。松江藩主松平不昧公のお抱え力士だったのです。  殺されて川に投げられた娘の話は、その事情説明がくどくて、読んでいる途中で飽きてしまいました。話の聞き役が太田南畝という粋人だということに起因するのでしょうか? あるいは、南畝という描かれる人間が持つ魅力だけで語ろうとするせいでしょうか。話の力点が崩れているように思いました。  話の中に、宿舎がある越中島が出てくるので、物語の舞台となる情景に感情移入してしまいます。自分が知っている場所が出てくると、つい身を入れて読み進みます。黒船橋や深川仲町が出ると、身近な今の話のように思うから不思議です。  本話は盛り上がりません。お香がポイントです。しかし、話題に興味を持っても、そこに鋭い切れは感じられませんでした。【2】  


■「三番富の悲劇」
 江戸時代の旅の仕方やお金の価値など、知識編とでも言うべき章になっています。
 伊能忠敬の話が突然出てきました。深川の富岡八幡宮に伊能忠敬の記念碑があるので、物語られる地域に縁の深い人です。しかし、ここまでに話題となった孝行息子の卯吉が磔になったことと、なかなか結びつきません。
 卯吉が父親のことを調べるために伊勢に行ったことが、物語の背景で謎をさらに脹らませます。うまい構成です。ただし、余分な話があまりにも多すぎます。
 主人公である保己一に謎解きをさせないこの終わり方も、それはそれで秀一だと思います。【3】
 

■「枕絵の陥し穴」
 闇夜に展開する人殺しの様が、音だけの世界としてリアルに描き出されます。うまい語り始めです。
 下手人は、温古堂で版木を刻む彫り師の1人です。殺されたのは、地本問屋の夫婦。娘だけは一命を取り留めました。俄然おもしろくなります。
 この時は享和三年。西暦1803年。オランダから西暦が伝わった頃です。そしてこの頃は、多色刷りの木版技術が発達し、色鮮やかな錦絵が広まったのです。枕絵を裏で販売する地本問屋が大儲けをしていたのです。
 浮世絵の話になると、私も知っている名前のオンパレードとなり、楽しくなりました。
 鳥居長清、鈴木春信、喜多川歌麿、蔦屋重三郎、東洲斎写楽、などなど。
 物語は意外な展開をたどります。犯人はすぐにわかります。しかし、そうであっても、うまく話ができていて楽しめました。
 もう一つ、保己一の妻となった三人の女性のありようも、おもしろく点描されています。著者会心の作と言えるでしょう。【5】


2014年8月24日 (日)

読書雑記(105)高田郁『天の梯 みをつくし料理帖』

 高田郁の『天の梯 みをつくし料理帖』(角川春樹事務所ハルキ文庫、2014年8月)は、先週読み終えていました。しかし、何かと雑事を始めとして本ブログにも他に書くことが多く、やっと今日になりました。これが、「みをつくし料理帖」シリーズの第10巻にあたり完結編です。


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■「結び草――葛つくし」
 自力で生きることを決心した澪は、頼もしく成長していました。夏の旱魃が、人々の心の優しさを浮かび上がらせます。
 俎橋から見上げる月が、きれいな場面を生んでいます。人間の情が節度を持って語られているので、上品な作品として心に染みます。【4】
 
■「張出大関――親父泣かせ」
 酢の物が絵皿を溶かすことが印象的です。一気に読ませる筆力が戻りました。自然な流れで、江戸の食べ物事情が理解できました。そして、何よりも源斉先生の描き方が変わりました。【3】
 
■「明日香風――心許り」
 正月の艶やかさと華やぎが伝わる、上質な文章で語られています。加えて、酪をめぐる謎解きや
緊張感溢れる展開が楽しめました。本作でも、月が効果的です。
 最終巻を冷静に語り収めようとする、十分に計算された作者の気働きが伝わってきます。【5】
 
■「天の梯――恋し粟おこし」
 「粟おこし」は、小さい頃から私の好物でした。「岩おこし」と言って、小さな塊をおやつとして母からもらい、口にしていました。島根県の出雲にいた小学校低学年の頃は、生活をしていた本家の離れの2階の屋根裏部屋で、両親が夜業仕事としておこしを作っていました。お米や粟を加工したものを水飴で固めたものを、父は行商としてポン菓子作りの工賃を稼ぎながら持ち歩いていました。私も父の自転車を押したりポン菓子機を回したりして、山奥の村々で売るのを手伝ったりしました。このことは、「わが父の記(2)川で流された時」(2008/5/20)に記した通りです。おこしの生姜味は、出雲や大阪にいた頃の想い出深い味として、さらには両親が苦労した日々と共に、旧懐の情を呼び戻します。

 それはさておき、本話はみごとな大団円となっています。【5】
 
■「特別付録・文政十一年 料理番付」
 勧進元は「日本橋柳町 一柳 改メ 天満一兆庵」です。
 東大関は「自然薯尽くし 元飯田町 つる家」
 西大関は「病知らず 四ツ橋 みをつくし」
 本書から11年後の番付です。眺めていて飽きません。
 私は、西小結の「寒天尽くし 西天満 井川屋」が気になりました。
 後日、特別巻を刊行する用意があるようです。この番付がその内容を予測させます。
 
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 高田郁の「みおつくし料理帖シリーズ」については、この5年間に以下のような感想を記してきました。
 これまでの9冊へのリンクと、併せてそれ以外の高田郁の作品関連の記事のリストは、以下の通りです。ご笑覧いただければ幸いです。
 
 
(1)「読書雑記(21)高田郁『八朔の雪 みをつくし料理帖』」(2010/11/25)
 
(2)「読書雑記(22)高田郁『花散らしの雨 みをつくし料理帖』」(2010/11/26)
 
(3)「読書雑記(23)高田郁『想い雲 みをつくし料理帖』」(2010/12/2)
 
(4)「読書雑記(24)高田郁『今朝の春 みをつくし料理帖』」(2010/12/4)
 
(5)「読書雑記(33)高田郁『小夜しぐれ みをつくし料理帖』」(2011/4/22)
 
(6)「読書雑記(42)高田郁『心星ひとつ みをつくし料理帖』」(2011/9/9)
 
(7)「読書雑記(48)高田郁『夏天の虹 みをつくし料理帖』」(2012年04月09日)
 
(8)「読書雑記(74)高田郁『残月 みをつくし料理帖』」(2013年07月26日)
 
(9)「読書雑記(94)高田郁『美雪晴れ―みをつくし料理帖』」(2014年02月20日)
 
 
(A)「読書雑記(25)高田郁『銀二貫』」(2010/12/5)
 
(B)「読書雑記(26)高田郁『出世花』」(2010/12/6)
 
(C)「読書雑記(85)高田郁『あい 永遠に在り』」(2013年11月22日)
 
 
(壱)「江戸漫歩(74)『みをつくし料理帖』の舞台を歩く」(2014年02月23日)
 
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 なお、「Roadside Library」で構築されているデータ集のうち、「時代小説館」の中の以下の情報は、「みおつくし料理帖シリーズ」の書誌情報として簡便ながら非常に有益なものです。
「高田郁「みをつくし料理帖」 シリーズ一覧」(2014年08月22日)
 
 
 

2014年7月16日 (水)

読書雑記(104)中津文彦『塙保己一推理帖 観音参りの女』

 江戸川乱歩賞作家の中津文彦氏が70歳でお亡くなりになったのは、2012年4月24日でした。
 中津氏の作品では、以下の推理物を本ブログの読書雑記で取り上げる予定でした。
 その機会を逸したままだったので、これから順次とりあげます。


(1)『塙保己一推理帖 観音参りの女』
(2)『移り香の秘密 塙保己一推理帖』
(3)『つるべ心中の怪 塙保己一推理帖』
(4)『千利休殺人事件』

 まずは、『書下ろし連作時代小説 塙保己一推理帖 観音参りの女』(2002年8月、光文社。、カッパ・ノベルス)からです。

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■「観音参りの女」
 手際よく、同郷で幼馴染みの保己一と善右衛門のことが紹介されます。
 折しも近所で火事があり、後妻と子供が焼死しました。その状況に疑問を持った保己一は、ことの真相に挑みます。
 江戸市中の組織のことが克明に描かれており、松平定信が『群書類従』を支援したことも、丁寧に語られます。『群書類従』の校訂事業の中で保己一の女性とのことも、しっかりと書いてありました。よく目の行き届いた物語です。
 『群書類従』刊行のありようが、詳細に語られていて、集書と出版に対する意識が高まります。
 後半で、深川が舞台として出てきました。本書を読むのは2度目です。前回は横浜の宿舎にいた頃に読みました。今回は、江戸深川に宿舎を移してから読んだこともあり、住まいの周辺が物語展開の中で出て来ると、イメージが具体的になっておもしろさが格段にあがりました。物語られる舞台に住んでいるとか、あるいは知っているということは、物語を理解する上では大きな影響力があるようです。
 謎解きは、保己一の嗅覚が大事な役割を持っていました。ただし、母親の子への想いに関して、中途半端なままで描ききれなかったように思えます。表題も生きていないようです。【2】
 
 
■「五月雨の香り」
 聖徳太子の十七条憲法が『群書類従』の雑部に入っていることの説明について、興味深く読みました。第2条の「篤く三宝を敬え」とは、実は「三法」のことで、神・儒・仏のことではないかと。その疑念が残るので、律令の部ではなくて雑部に分類しておくのだ、というのです。資料に対する見識の問題です。
 また、お香の話は、最近興味を持っていることなので、おもしろく読みました。推理に関して、話は次第に高まります。いいラストシーンでした。盲目の女性が上手く描かれています。【4】
 
 
■「亥ノ子の誘拐」
 江戸時代の寛政期の市井が、裏面史も含めて活写されています。特に、出版界の事情は、『群書類従』の話にも関連するので、おもしろく読めました。また、学者保己一の話も、よくわかりました。興味深い話に仕上がっています。
 ただし、謎解きのキレが悪くて、説明口調になってしまったのが残念でした。【2】
 
 
 巻末に掲載されていた、EYEマークに注目しました。
 こうしたことは、初めて知ったからです。

「EYEマーク」&「許諾文」

この本をそのまま読むことが困難な方のために、
営利を目的とする場合を除き、「録音図書」「点
字図書」「拡大写本」等の製作をすることを認め
ます。製作の後は出版社まで、ご連絡ください。

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2014年7月12日 (土)

読書雑記(103)平和学博士のロンドン案内は辛口の英国論

 中村久司著『観光コースでないロンドン イギリス2000年の歴史を歩く』(高文研、2014年7月、272頁)を、一晩で一気に読みました。おもしろかったのです。


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 前回の『「読書雑記(53)中村久司『イギリスで「平和学博士号」を取った日本人』」(2012年11月15日)以上に、著者の筆鋒は英国と日本を鋭く突いて来ます。
 観光ガイドかと思いきや、しだいに中村久司ワールドへと引き摺り込まれて行きます。イギリス2000年の通史と人権や自由を求める人々の姿が活写されているので、圧巻の読後感を残します。予想通りと言うべきか、非常に重たい問題をソフトに語る内容でした。

 ロンドンへ行ったことのある人は、ぜひ読んでください。もう一度行きたくなること請け合いです。
 これから行く方は、他のガイドブックと一緒に本書も持って行かれたらいいと思います。ロンドン通の方々と、楽しいロンドン話ができるに違いありません。
 とにかく、極上で質の高い、そして奥の深いロンドンへ誘ってもらえます。

 ロンドンを中心とした語り口の端々に、英国の歴史、文化、政治、経済、宗教、思想、戦争などのエッセンスが鏤められています。著者の視線は、弱者に向いています。筋の通らないことには、いささかもゆるがせにしない精神が横溢しています。格調高い辛口の英国紹介であり、さらには英国論になっています。

 読み出してまず、英国では国歌を教えていないので歌えない、という、英国国民の考え方にぶつかります。日本から見た異文化に直面するのです。

 ロンドンは歩き回ったつもりでした。しかし、ビッグベンの直下にあるブーディカ女王像のことは知りませんでした。
 また、ハイドパークの中のダイアナ・メモリアル・ファウンティンのことも知りませんでした。娘が小学6年生の時、ロンドンに連れて行きました。ハイドパークで一日中、リスと遊びました。街中の公園も、いろいろと変化しているようです。ロンドン初のコーヒーハウスも知りませんでした。
 そんな意外な観光ポイントが、さまざまな切り口で続々と紹介されます。その歴史や文化の奥深い事情や背景を知り、さらに興味を持つことになります。

 『源氏物語』を例にして説明される箇所では、英国史が相対化されてよくわかりました。日本の古典文学に精通しておられる著者ならではの、読者への心遣いです。


・クヌート王の即位により、イングランドは、スカンジナビア諸国を統治するバイキング王国の一つとしてその勢力下に置かれる。その状況は、一〇三五年にクヌート王が亡くなった後も、王位を継承した彼の二人の息子によって、一〇四二年まで維持された。
 この時代の日本は、平安中期の摂関政治が絶頂期を迎えた時期にあたる。
 「源氏物語」はすでに宮廷で広く読まれ、一〇一八年には、藤原道長が、「この世をばわが世とそ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と、その栄華を詠んでいる。だが、クヌート王は、藤原道長以上の広域圏を同時代に掌握していたのである。(52頁)
 
・ザ・シティは、今日まで継続して存在している世界最古の地方自治体である。この自治継続期間を日本の歴史に当てはめると、鎌倉幕府が樹立されたころから今日までに該当する。(64頁)
 
・「真夏の夜の夢」を女王が観たのは彼女の晩年であったが、女王は一六〇三年に亡くなった。その年に日本では、徳川家康が征夷大将軍になっている。(94頁)

 本書を一気に通読して著者らしさを痛感したのは、黒人奴隷と大学の自治の話の件です。差別に対する平和主義者としての鋭い視線は健在です。ハイドパークのスピーカーズコーナーにおける言論の自由や出版の自由も、わかりやすく述べてあります。
 労働者、貧困者、女性への差別と偏見にも、毅然とした態度で切り込んであります。人間が平等である空間として、日本の茶室を思い出すという箇所に、著者が日本人の心も大切にしておられることが伝わってきます。

 本書の後半は旅人の視線ではなく、英国在住27年の日本人平和学者の素顔が前面に出てきます。ロンドンを歩きながら、本書で語られていることを想起するとおもしろいと思います。観光ガイドブックでことさらきれいに楽しそうに書いてあることが、あまりにも浅薄な視点で語られていることを実感するはずです。本書から、2000年の歴史を背負った英国が新たに見えてきます。

 例えば、ピカデリーサーカスの中心にある像は、キューピッドでもエロスの像でもないのです。アンテロス像という、裸の若い男性像だそうです。そして、その社会的歴史的な背景を知り、英国を見る目が変わりました。
 女性マッチ労働者組合の話もそうでした。
 イーストエンドにある庶民のマーケットに、私はよく行きます。本書でその背景を知り、ロンドンへの理解を深めました。
 セツルメント運動とトインビーホールの話も新鮮でした。
 私はラッセルスクエアが好きです。ホテル・ラッセルには何度も泊まりました。ブルームス・ベリーのことはいろいろと調べました。しかし、タビストック・スクエア・ガーデンズにある良心的兵役拒否者の碑と広島の桜や、そこにガンジー座像があることは知りませんでした。

 本書は、知らないことを教えてもらえることに留まりません。その歴史的・文化的・思想的・政治的な背景を教えてもらえるのです。並の旅行ガイドブックではないのです。

 第Ⅴ章以降の語りは、平和学博士としての著者の独壇場です。これは、他の誰にでも語れることではありません。

 日本の外から英国の平和を語り、そしてその言葉が日本にも向かってきます。さまざまな味のする読み物です。そして、平和学からの一本の筋が確りと通った話となっています。

 本書には、「もっと深い旅をしよう」という角書きがあります。考える機会を与えていただいた一冊となりました。
 
 版元の高文研がネットにあげている目次には、少し異同があります。
 参考までに、本書の目次をあげておきます。

 また、本書の編集担当者である真鍋かおる氏の「●担当編集者より」は、本書の性格を理解するのに資するところがありますので、参照されることを奨めます。


はじめに
Ⅰ 英国とロンドンの素描
 イギリスという国家は存在しない
 連合王国の誕生と「イギリス」の語源
 議会・王室・教会
 英国国旗と三人の聖人
 教育現場で用いられない国旗
 学校で教えない国歌「神よ女王を救い給え」
 ロンドンは北国の首都
 グレーター・ロンドンと東京二三区
 ロンドンの中心はチャーリング・クロス駅前
 テムズ川が語るロンドン二〇〇〇年の歴史
 七五〇〇台の赤いバスと平等思想
 ロンドンのタクシー規制は一六三六年から
 世界一取得が難しいタクシーの運転免許
Ⅱ 異民族支配の一五〇〇年
 古代ローマ軍の侵略
 ブーディカ女王の反乱
 ロンドンに残るロンディニウム
 ローマ軍占領の「遺産」
 アングロ・サクソンの侵入
 イングランド国王に即位したバイキング王
 フランス系「ノルマン」の征服
 ウィリアム征服王のイングランド統治
 薔薇戦争
 ドラゴンと赤い十字架の紋章
 独自警察を持つザ・シティ
 六八六代目のザ・シティの市長
 マグナ・カルタ(大憲章)は英国人の誇り
 今日に生きるマグナ・カルタ
 マグナ・カルタを否定したローマ教皇
 国会議事堂周辺とウェストミンスター特別区
 イングランド議会の誕生
 古くて新しいウェストミンスター大聖堂
 キリスト教のイングランドへの渡来
Ⅲ 国家アイデンティティーの確立
 イングランド国教会の創設──妻二人を斬首刑にした国王
 レディー・ジェーン・グレイの処刑
 「ブラディー・メアリー」と呼ばれた女王
 「バージン・クィーン」=エリザベス一世
 イングランド初の世界一周航海
 スペイン「無敵艦隊」を排撃したエリザベス一世
 王立取引所と東インド会社
 女王が観た「真夏の夜の夢」
Ⅳ 清教徒革命と王政復古
 バグパイプとキルト
 「ガイ・フォークスの夜」と国会爆破未遂
 「メイフラワー号」と清教徒
 清教徒革命の二人のブロンズ像
 革命への道
 清教徒革命
 禁止された女性の化粧やクリスマス
 王政復古──処刑されたクロムウェルの埋葬遺体
 王立協会の創立──「誰の言葉も信じ込むな」
 科学革命──占星術から天文学へ
Ⅴ 奴隷貿易から産業革命へ
 ロンドン・砂糖と奴隷制度
 三角貿易と国王の奴隷貿易会社
 ロンドン大火と冤罪
 ザ・シティの再建と個人主義
 ロンドン初の「コーヒー・ハウス」
 「コーヒー・ハウス禁止令」を出した国王
 「コーヒー・ハウス」と男性ビジネス文化
 結婚持参品だった紅茶とボンベイ
 ロンドン初の紅茶専門店
 名誉革命と「オレンジ・オーダー」
 名誉革命の結果──「王は君臨すれども統治せず」
 英語を知らなかった国王と最初の内閣首相
 産業革命と陶磁器のウェッジウッド
 なぜ英国で産業革命が起きたのか
Ⅵ ナショナリズムと自由・平等
 トラファルガー広場のライオン像
 「鉄の公爵」とナショナリズム
 ロンドンにもいた黒人奴隷
 論文出版が契機となった奴隷解放運動
 結社・労働組合活動の自由
 自由・平等の大学創立
 カトリック教徒差別の撤廃
 大英博物館とカール・マルクス
 マルクスを守った「表現の自由」
 ハイド・パークと自由権
 労働者・貧困階級と紅茶
 焼失した「クリスタル・パレス」
Ⅶ 政治・社会改革の時代
 ビクトリア女王と「ミセス・ブラウン」
 バッキンガム宮殿
 起きなかったロンドン革命
 ピカデリー・サーカスの「アンテロス」像
 グラッドストン首相の立像と女工の鮮血
 歴史に火を点けた「マッチ女工たち」
 セツルメント運動
 スラム街へ入った若者と知識人
 婦人参政権と「ホロウェイ監獄」
Ⅷ 二つの世界大戦
 第一次世界大戦
 秘密情報機関創設 
 婦人参政権運動を分断した第一次世界大戦
 良心的兵役拒否
 第一次世界大戦とシルビア・パンクハースト
 ロンドンの労働者の国際連帯
 「セノタフ」=空の墓
 赤いポピーのファシズム
 ジェームズ・ボンドの虚像と実像
 ロンドンとファシズム
 第二次世界大戦
Ⅸ 福祉国家・世界都市へ
 「揺りかごから墓場まで」
 反核運動とレディー・ガガの刺青
 国際都市を象徴する国際バス駅
 「鉄のレディー」サッチャー首相の登場
 サッチャー政権の有形遺産
 新労働党=「サッチャーの息子たち」
おわりに

 
 
 

2014年7月10日 (木)

読書雑記(102)足羽隆著『松本清張と日南町』の奨め

 先月、池田亀鑑賞の授賞式のために鳥取県の日南町に行った折、いつも参加してくださっている足羽隆先生から自著『松本清張と日南町 ─父の故郷への熱い思い─』(私家版、2013年10月1日)を拝受しました。143頁の冊子です。


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 その中身は、ご自身の足で集め、町内外のみなさんから聴き回って収集された情報で組み立てられた、松本清張と父峯太郎の人間像を浮き彫りにするものです。松本清張と日南町のつながりの輪を探索する中で、独自の視点で清張親子の歴史が綴られています。

 私と日南町との縁は、一面識もなかった久代安敏さんからメールをいただいた時からです。まず、そのことから確認しておきます。

 2009年11月4日に「予期せぬ夜の祝祭」と題する記事をブログに書きました。それをご覧になった日南町の「池田亀鑑文学碑を守る会」の事務局長である久代安敏さんから、11月3日に池田亀鑑の碑の除幕式をしたというコメントをくださったのです。「わたしの町には井上靖と松本清張と池田亀鑑の文学碑があります。」とも。

 このことは、「日南町議の久代氏と思わず握手」(2009/12/15)に詳細に記しています。

 この時、足羽先生に大変お世話になりました。これまた、「松本清張ゆかりの日南町」(2009/12/11)に記した通りです。

 松本清張との縁で日南町とつながり、そして井上靖、さらに池田亀鑑へと、この町は私にとって赤い糸なくしては語れません。

 その、最初の日南町訪問の折にお世話になった足羽先生が、待ちに待ったご本『松本清張と日南町 ─父の故郷への熱い思い─』を刊行されたのです。

 本書の内容について、現在の学会でどのように研究が進められ、本書の調査結果と足羽説がどのような評価を受けるものなのか、今の私には専門を異にすることもあり、まったくわかりません。
 しかし、こうして現地を歩き回り、聴き回ってまとめられた調査は、確かな重みを持っていると思います。そして、非常に興味深いことが語られており、私は一気に読みました。

 ここでは、その概要や私感を記すよりも、この本の主要部分を抜き出すことで紹介に代えます。

 まず、「はじめに」において、足羽先生は次のようにおっしゃっています。
 矢戸は日南町にある、清張の父峯太郎が生まれた地名です。


 峯太郎にとっては、不遇な人生のスタートになった矢戸でありながら、生涯矢戸のことが心から離れず、いつか必ず矢戸を訪れることを夢見ながら生き抜いたことに驚きました。そして、清張もまた、「私の故郷は日南町である」と言い切るほどまでに日南町に強い愛着をもっていたことに感動しました。
 この本は、いろいろな機会に書いてきたこと、県内の研修会などで発表してきたこと、さらには最近になって新たにわかったことなどを含めて、雑多な内容を個人的な思いのままに一冊にまとめたものです。
 私もすでに八〇歳を過ぎましたが、少しでも元気な今のうちに手元の資料をまとめておきたいという個人的な思いと、清張の作品や講演を通して強く感じた峯太郎と清張の「日南町に寄せる熱い思い」を広く町民のみなさんに知っていただき、さらに理解の輪を広げていきたいという思いを込めて書いたものです。
 検証も不十分なために、今後の研究によって修正されるところが多いと思いますが、「文豪松本清張と日南町のつながり」について理解を深めていただく上で、少しでも役立つことができれば幸いです。

 そして、次に本書の目次のすべてを揚げます。
 これによって、本書の内容がわかると思います。


はじめに
一、日南町で生まれた父峯太郎
   松本清張の父峯太郎は日南町矢戸の出身
   峯太郎の父雄三郎は田中家の二男
   田中家と松本峯太郎・清張のつながり
   松本家に「里子」に出された峯太郎
   「里子」から「養子」へ
二、注目される田中家の嫁と姑
   カギをにぎる嫁と姑の関係
   峯太郎の母はなぜ一時実家に帰ったのだろうか
   母とよの復縁を知らせた手紙の謎
   田中儀一郎の遺言『心得書』が問いかけるもの
三、峯太郎の母とよの弟は、霞の足羽家の婿養子に
四、峯太郎の心に焼きついた矢戸
五、松本清張の誕生と作家への歩み
   北九州市で生まれた松本清張
   文学に心を惹かれた少年時代
   やがて朝日新聞社の広告部へ
   『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞
   思いがけない井上靖との出会い
六、清張の作品にみる事実と仮構
七、四回に及ぶ矢戸訪問
   初めて見る父の故郷「矢戸」
   二回目は米子での文化講演会のあと
   三回目は日南町中央公民館の落成記念講演会
   「私の故郷は日南町である」
   四回目は文学碑の除幕式と記念講演会
   「日南町を舞台にした小説」を約束
   この他にも矢戸訪問があったのでは
八、峯太郎の生家「西田中家」の墓地
九、松本清張直筆の文学碑
   何回も断られながら実現した文学碑の建立
   文学碑の建立にあたって二つの要望
   全国でも数少ない清張直筆の文学碑
   文学碑のそばに立てられた案内板
   国道の改修で大きく変わった松本清張記念公園
一〇、「日南町を舞台にした小説」の夢
   「日南町を紹介したい」という強い思い
   『数の風景』は日南町も舞台に考えていたのでは
   清張が書こうとしていた日南町の小説は
   日南町の「たたら製鉄」にも強い関心
一一、矢戸の「かえで」
一二、晩年まで続いた井上靖との交流
   心を許してつきあった間柄
   「日南町名誉町民」では異なる対応
一三、松本清張資料館の夢
   「蔵書は日南町に寄贈する」と言われていたが
   「井上文学展示室」と「松本文学展示室」
   日南町図書館には「特設コーナー」を置く
   日南町美術館には書と色紙が
一四、松本清張と日南町のつながりを大切に
一五、日南町が出てくる松本清張の作品
   日南町のことが出ているもの
   日南町のことが背景にあると思われるもの
   身近な地域が舞台になっているもの
終わりに

主な参考文献
松本清張略年譜
矢戸ガイドウォークマップ
写真・図版・資料等提供者一覧

 この中でも、特に松本清張と井上靖とのことは、自分のためのメモとして、あらためて書き出しておきます。


 井上靖は、松本清張の芥川賞受賞より三年前に小説『闘牛』で第二二回芥川賞を受賞していて、小説家としても活躍していました。それだけに、同じ芥川賞を受賞した清張を特別な思いで見ていたのでしょう。
 清張は、まだ小説だけで家族の生活を支えていく自信がなくて、今後の活動のありかたに迷っていましたが、この井上靖のことば(伊藤注:「わたしの顔を見て、もう新聞社に居る必要はないでしょう」)で自分の迷いがふっきれ、一九五六(昭和三一)年に朝日新聞社を退職して、本格的に小説を書くことになりました。(48頁)

 本書の最終章に「日南町が出てくる松本清張の作品」という項目があります。松本清張と日南町のことを考える上で非常に参考となるものなので、その内容も抜き出して資料としておきます。

  一五、日南町が出てくる松本清張の作品

 日南町のことを中心に書かれた作品はありませんが、作品の中に日南町のことが出ているものがいくつかあります。また、直接日南町のこととして書かれていなくても、日南町のことが背景にあるものもあります。次に、その作品名をあげてみましたので、ぜひ読んでみて下さい。


    日南町のことが出ているもの

『父系の指』一九五五(昭和三〇)年
 「私の父は伯耆の山村に生まれた。……生まれた家はかなり裕福な地主でしかも長男であった。それが七カ月ぐらいで貧乏な百姓夫婦のところに里子に出され、そのまま実家に帰ることができなかった。……」で始まる自分のことを中心に書いた自伝小説です。故郷矢戸への熱い思いとともに、豊かな暮らしをしている親せきの人たちへの恨みゃ憎しみの気持ちも読みとることができます。

『ひとり旅』一九五五(昭和三〇)年
 大阪からの出張の帰り道に、ふと思い立って父の故郷を訪ねることになりました。広島から芸備線に乗りかえ備後落合の駅前で一泊し、翌日伯備線で生山駅に降りるまでのようすが書かれているエッセイです。

『山陰』一九六一(昭和三六)年
 文化講演会で井上靖らと米子を訪れた翌日、一人で父の故郷矢戸を訪ねました。このときの矢戸のようすや、親せきの人たちが集まってご馳走してくれたことなどが書かれているエッセイです。

『山陰路』一九六三(昭和三八)年
 これも米子での文化講演会のあとに矢戸を訪れたときのようすが書かれています。昭和三六年に書かれた『山陰』と同じような内容のエッセイです。

『半生の記』一九六六(昭和四一)年
 書き出しが「父の故郷」から始まる、自分のことを中心に書いた自伝小説です。父峯太郎が日南町矢戸で生まれたことと、里子に出されたいきさつから、小説家として独立するまでの四〇年間の自分の半生を振り返りながら書いたものです。これは、清張の生き方と作品を考える上で大変貴重な記録として注目されているものです。
 最初は『回想的自叙伝』として雑誌に連載されましたが、後に単行本として出版するときに『半生の記』に改題されました。

『碑の砂』一九七〇(昭和四五)年
 昭和三六年に矢戸を訪問したときのことと思われますが、親せきの人たちの案内で祖父母の墓詣りをしたようすから書き始められているエッセイです。

『雑草の実』一九七六(昭和五一)年
 広島県出身の母のことを中心にしながら、清張自身の歩みをたどったものです。最初のページに父峯太郎のことが書かれていますし、最後のところでは、清張が井上靖と出会って励まされ、小説家として独立する決意をしたときのことが書かれています。

『骨壺の風景』一九八〇(昭和五五)年
 祖母カネは、清張が一七、八歳のころ亡くなりましたが、その骨壺はお寺に預けたままになっていました。祖母の夢がきっかけでそのお寺を探し歩くことから物語は始まります。この中に、ほんの少しだけ父の生い立ちのことが出てきます。

『数の風景』一九八六(昭和六一)年
 小説の最初に日野郡や日南町のことが数ページにわたって書かれていますが、中心になるのは石見銀山から始まって鳥取県の南部町で終わる推理小説です。


    日南町のことが背景にあると思われるもの

『田舎医師』一九六一(昭和三六)年
 小説の舞台は島根県になっていますが、日南町における峯太郎と清張の姿が作品の背景にあります。物語は、地主の家に生まれながら幼い時によその家に養子に出され、若い時に家を出たまま一度も帰ることなかった父の故郷を、主人公の杉山が出張の帰り道に訪ねるところから始まります。

『暗線』一九六三(昭和三八)年
 新聞記者の主人公が、父の故郷を訪ねて父の出生の秘密をさぐる物語で、島根県の奥出雲が舞台になっています。

『夜が怕い』一九九一(平成三)年
 胃の治療のために入院した主人公が、夜一人になるとよく亡き父のことを思い出します。島根県が舞台ですが、父峯太郎の生い立ちが背景になって書かれています。


    身近な地域が舞台になっているもの

『砂の器』一九六〇(昭和三五)年
 「砂の器」は松本清張の社会派推理小説の代表作の一つとして高く評価され、これまで何回となく映画やテレビドラマ化されています。
 事情があって住みなれた土地を離れていく親子をめぐる物語です。東京で起きた殺人事件の被害者が島根県奥出雲町で巡査をしていたことから、奥出雲町亀嵩も作品の重要な舞台になっています。事件は迷宮入りかと思われましたが、今西刑事の執拗な追求で解決に向かい、一人の若い芸術家の隠された足跡が浮きぼりになってきます。
 世の中にある偏見と差別が父と子を引き離していきますが、そんな社会に対する清張の怒りの気持ちを読みとることができる作品です。
(129~135頁)

 最後に、巻末の「終わりに」の全文を引用します。
 足羽先生の人柄がにじみ出ているあとがきです。
 ますますのご活躍とご健筆をお祈りしています。


 終 わ り に

 松本清張没後二一年になりました。できれば二〇年の節目にまとめたいと思っていましたが、資料の確認や執筆とその整理に時間がかかり発行が遅れてしまいました。しかし、そのために収録できた貴重な資料もいくつかあります。「文学碑の建立にあたって二つの要望」もその一つです。年を経るごとに新しい資料の発掘はなかなか難しくなってきましたが、日南町での研究や啓発活動はまだまだこれからだと思います。
 私は、清張文学の愛読者でもなければ研究者でもありません。たまたま読んだいくつかの作品や日南町での講演を通して、清張自身の「父の故郷日南町への愛着と熱い思い」を知って心を動かされ、このことを町民のみなさんに伝えたいとの思いで、いくつかの活動に参加してきたに過ぎません。
 この本は、「松本清張の日南町に寄せる熱い思い」を伝えたい一心でまとめたものです。自費出版のために、苦手なパソコンに向かい失敗を重ねながら自分で編集しましたので、読みにくく誤字や脱字も多いと思いますが、松本清張と日南町のつながりを考える材料の一つに加えていただければ幸いです。
 最後になりましたが、松本清張と日南町のつながりをまとめる過程で資料の提供や助言をいただいた多くのみなさんと、出版にあたって格別のご指導とご支援をいただいた今井印刷の古磯宏樹さんとスタッフのみなさんに、心からお礼申し上げます。

   二〇一三(平成二五)年八月四日

                  足羽 隆

 なお、本書は自費出版のために書店での購入はできません。
 しかし、日南町総合文化センター(http://culture.town.nichinan.tottori.jp)に問い合わせることで、2,000円以内(送料込)で入手可能とのことでした。本書に興味をお持ちの方は、連絡を取ってみてください。
 
 
 

2014年6月10日 (火)

読書雑記(101)谷津矢車『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』

 『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』(谷津矢車、2013年3月、学研パブリッシング)を読みました。これは、作者の小説デビュー作です。


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 先日、山本兼一の『花鳥の夢』を読んだばかりだったので、狩野永徳の人生や洛中洛外図屏風などが頭の中で錯綜しました。ただし、小説作法も作風もまったく異なるものなので、きれいに読みわけられました。

 狩野のお家芸は、粉本をそのままに描くことでした。その手法への疑問と抵抗を強く示す源四郎(後の永徳)が語られています。絵の注文主は、絵師個人の絵ではなくて、狩野工房に代々伝わる絵を求めている、ということへの反発です。

 土佐家から預かった蓮という娘が、生き生きと源四郎に絡んできます。物語を背後で支え、雰囲気を明るく鮮やかにしています。妻となってからよりも、それまでの描写がいいと思います。

 粉本に依る狩野の絵の先を見る源四郎と、その粉本を守る父松栄との確執は、何度も迫力をもって語られます。ものまねからの脱却を心に秘めた源四郎が強調されていきます。
 父松栄の生き様は、その描き方に意地の悪い視線を感じました。ここまで醜く描かなくても、と思ったほどです。それだけ巧い語り口だ、ということです。
 源四郎がこれまでの狩野を越えることを強調するためには、この父への反発が必要だったとしても、父をこのように扱うことには納得できない思いが、読後の今も残っています。人間に対する作者のまなざしに、もう少し温もりを、と思いました。

 読み終えて、最終章である「5業火」が一番力強い文章になっている、と思いました。それまでは、妻の蓮を丁寧に描いていました。最後に一番弟子の平次を看とる場面で、作者の筆の冴えを感じました。

 なお、山本兼一の『花鳥の夢』(2013年4月刊、初出誌:『別冊 文藝春秋』2009年11月号~2012年9月号)では、参考文献と取材先への謝辞が明記されています。ただし、洛中洛外図屏風の絵は掲載されていません。
 それに対して、本作『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』(2013年3月刊)では、表紙と裏表紙の見返しに、上杉本洛中洛外図屏風の全体図と拡大図が掲載されています。しかし、参考文献などの明記はありません。
 こうしたあたりに、この2冊の本の性格の違いがうかがわれます。

 洛中洛外図屏風絵について、私はあったほうがいいと思いました。読み進みながら、絵にどのように描かれている話なのかがイメージしやすいからです。もっとも、これは絵画の知識をあまり持ち合わせていない一人の読者からの注文です。

 もし再読する場合には、山本兼一の『花鳥の夢』では当初の通りに、屏風絵はいらないと思われます。語られることばで、十分に屏風絵のイメージが描けそうだからです。
 その点から言えば、本作はどうしても屏風絵の拡大図が必要です。
 歴史物における地図や系図の要不要に関係するものです。主人公である狩野永徳が洛中洛外図屏風を描く顛末を語るこの2冊の小説の場合に、挿し絵としての参考資料の有無は、その要不要を考えるだけでも楽しい一時を過ごせます。【3】
 
 
 

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2014年6月 3日 (火)

読書雑記(100)山本兼一『利休の茶杓 とびきり屋見立て帖』

 山本兼一の新刊『利休の茶杓 ─とびきり屋見立て帖』(2014/5/29、文藝春秋)を読みました。これは、本年1月に急逝した山本兼一が遺した、シリーズ第4弾です。幕末の京都を舞台として、若夫婦の真之介とゆずが茶道具の見立てで奮闘します。


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■「よろこび百万両」
 初秋の東山で、蔵に収蔵されている茶道具の目録作りが進んでいます。真之介とゆずは快調に整理をしています。そして、大変なものを預かることになり、話が俄然おもしろくなります。ここでは、茶道具の値打ちが1つのテーマとなります。唐物のすごさが、読む者にも伝わってきます。千両の値をつけた盆に、お茶菓子を盛って薄茶をいただくシーンがあります。満ち足りた心のゆとりが語られている場面です。
 なお、「三条大橋のたもとを左に曲がった。(改行)ゆるい坂をすこしくだって……」(18頁)とあります。山本氏は、三条通りが秀吉によって築き上げられたものであり、寺町通りの鴨川寄りが南北方向に盛り上がっていることを、よくご存知のようです。よく調べておられます。【5】
 
(初出誌『オール讀物』2011年8月号)
 
 
■「みやこ鳥」
 桂小五郎、三条実美、近藤勇などが御所での騒乱に登場します。風雲急を告げる世相が活写されます。文久3年(1863年)のことです。『伊勢物語』や『古今著聞集』の和歌が出てきて、教養話となっています。三条公らの七卿都落ちです。話は静かに次へとつながっていきます。【2】
 
(初出誌『オール讀物』2011年11月号)
 
 
■「鈴虫」
 長次郎の黒楽茶碗の話です。お茶道具のいい勉強になります。作者は、よほどよく調べたものと思われます。長次郎の鈴虫と2代目常慶の春雷という黒楽茶碗が、入れ替わっていたという話でまとまります。きれいに収められています。【4】
 
(初出誌『オール讀物』2012年2月号)
 
 
■「自在の龍」
 自在置き物の龍の首を、あるサインで向きを変えながら飾ることが、幕末の京都の政情とリンクしています。ミステリーじみた展開に、読み進む楽しみが殖えます。幕末という社会情勢がいろいろと顔を見せ、おもしろいのです。桂小五郎が龍の首の向きを確認して立ち去る場面などは、いかにも三条近辺でのできごととして見てきたようなので、非常に楽しめます。芹沢鴨は、このサインが見破れないのもおもしろいところです。【3】
 
(初出誌『オール讀物』2012年6月号)
 
 
■「ものいわずひとがくる」(単行本化にあたり改題)
 11個の楽茶碗と東西の家元の話が、おもしろく展開します。そして、タイトルともなる「ものいわずひとがくる」ということばに、道具や人間だけでなく、意外な意味を持たせることになるのです。味わい深い小品です。【4】
 
(初出誌『オール讀物』2012年9月号)
 
 
■「利休の茶杓」
 日本一の茶道具屋を目指す真之介たちは、茶杓簞笥に入っている茶杓をめぐって勉強会に精を出します。芹沢鴨と若宗匠とが茶杓をめぐる目利き勝負をする様子が、おもしろおかしく語られます。利休と織部の朝顔の茶事の逸話が、この話の背景にあるのも、物語の奥行きを感じさせます。
 さて、利休が削った茶杓「しのゝめ」はどこに消えたのか。楽しい推理物ともなっています。茶杓、筒、箱、添状が揃い、めでたしめでたしとなるお話です。書名にふさわしい最終となっています。【5】
 
(初出誌『オール讀物』2013年12月号)
 
 
 なお、この〈とびきり屋見立て帖シリーズ〉に関して、これまで本ブログでは以下の3本の記事で取り上げています。
 本年1月に山本氏が急逝されたことにより、この第4作目が最後となったことは、返す返すも悔やまれます。

(1)「読書雑記(56)山本兼一『千両花嫁 ─とびきり屋見立て帖』」(2012年12月18日)

(2)「読書雑記(57)山本兼一『ええもんひとつ —とびきり屋見立て帖』」(2012年12月19日)

(3)「読書雑記(63)山本兼一『赤絵そうめん』でお茶のイメージトレーニング」(2013年04月17日)
 
 
 


2014年5月30日 (金)

読書雑記(99)山本兼一『花鳥の夢』

 山本兼一の『花鳥の夢』(2013年4月25日、文藝春秋)を読みました。


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 巻末にあげてある参考文献のうち、『狩野派絵画史』(武田恒夫、吉川弘文館)・『御用絵師 狩野家の血と力』(松木寛、講談社)・『謎解き 洛中洛外図』(黒田日出男、岩波書店)を読んでいたので、絵画史における狩野家の役割などは理解していました。ただし、絵師である永徳個人について具体的にはよく知らなかったので、非常に興味深く読むことができました。

 話のおもしろさと語り口の巧みさに、思わず引き込まれ、一気に読みました。人間の大きさや小ささが、行間から伝わってきます。時代背景と史実と芸術とを語る中で、永徳という一人の人間を描いていきます。それをとりまく人々も、人間の中身までえぐり出すように丁寧に述べていきます。

 「絵は端正が第一義」という狩野家の画法を永徳はどうするかが、まず語られます。
 十三代足利将軍義輝は、狩野元信の子で現当主松栄直信ではなくて、その子の永徳の力量を見抜きます。そして、「人の世には、花と夢がなくてはかなわぬ。」と言って、洛中洛外図を描かせるのです。

 父は、狩野家に伝わる粉本(模本)を永徳に渡します。しかし、永徳はそれを使う気はありません。都の華やかさと賑わいを描くためには、それではもの足りないのです。父の反対を押し切って、京洛を歩き回り、自分の目に収めます。父を見下す息子の気持ちがよく伝わってきます。
 そして、画帖を作りました。祖父元信が言った「よい絵からは、よい音が聞こえる」という教えを心に大事にして。

 永徳は、京洛から都のざわめきが聞こえる洛中洛外図を目指します。
 永徳の洛中洛外図の構想を通して、読者も京の旅気分に浸れます。
 その後、父から受けた教えは、魅せる絵ではなくて、観る者の心が遊ぶ場所を作る、ということでした。永徳が父を見直すきっかけになる言葉です。

 永徳の成長や信長の話が一頻り語られ、長谷川等伯が弟子入りしてからが、さらにおもしろくなります。そして、永徳が等伯を破門するくだりは圧巻です。

 後半で、黒田官兵衛が出てきます。現在、大河ドラマで話題になっている人物なので、この存在もおもしろく読めました。
 最後に、利休が永徳の父の凡庸と思われる絵を褒める場面があります。なかなかうまい一場となっています。そして、利休は長谷川等伯の絵を大徳寺で採用します。
 人間の美意識の違いが、利休によって浮き彫りにされていきます。利休の考え方も注目です。

 全編を通して、等伯からのプレッシャーと闘う永徳の姿が、みごとに活写された作品に仕上がっています。【5】

 なお、『源氏物語』の絵画化について、以下の3ヶ所で、少しだけですが触れています。


 そもそも、永徳の祖母も、女ながら絵師であった。土佐光信のむすめとして生まれ、祖父の嫁となったのである。土佐派の奥義を身につけているだけあって、源氏の絵巻などを描かせれば、いたって達者だった。
 狩野の画風は、和漢を兼ねている。(32頁)


その奥の対面所は、筆頭弟子の宗十郎が華やかな源氏物語図を描いた。大和絵の手法をもちいて、内裏に遊ぶ公家や女官たち、桜に柳、牛車などを達者に描いた。
 人物に生硬さがあるが、男たちは大仰な衣冠束帯、女たちは色目も鮮やかな十二単をまとって長い黒髪を垂らしているので、あまり気にならないのが幸いである。(404頁)


絵の具が乾くあいだには、源氏物語、花鳥、秋草の図を描いた。どの絵も描いているのが楽しくてならなかった。(448頁)

 
 
*初出誌:『別冊 文藝春秋』2009年11月号~2012年9月号
 本書で加筆・修正。
 
 
 

2014年5月22日 (木)

読書雑記(98)山本兼一『銀の島』で追悼

 山本兼一は、本年(2014年)2月13日に、57歳という若さで亡くなりました。この訃報は、ベトナム・ハノイ大学での調査を終えてホテルに帰り、インターネットで日本のニュースを見て知りました。

 山本兼一の〈とびきり屋見立て帖シリーズ〉は、絶品といえるほどの傑作でした。
 三条木屋町で道具屋を営む真之介とゆず夫婦の話は3冊まで刊行され、シリーズとしてますますおもしろくなっていました。今後が大いに期待できる構想の豊かさが実感できる作品だったこともあり、次作の発表を楽しみにしていました。それだけに、もう読めなくなったことが本当に残念です。

 これまでに私がこのブログで取り上げた山本兼一の作品は、以下の通りです。

「読書雑記(56)山本兼一『千両花嫁 とびきり屋見立て帖』」(2012年12月18日)

「読書雑記(57)山本兼一『ええもんひとつ ―とびきり屋見立て帖』」(2012年12月19日)

「読書雑記(63)山本兼一『赤絵そうめん』でお茶のイメージトレーニング」(2013年04月17日)

「読書雑記(58)山本兼一『利休にたずねよ』」(2013年01月07日)

「読書雑記(59)山本兼一『利休の風景』」(2013年01月08日)

 昨年末に海老蔵が主演で映画化された『利休にたずねよ』(2013年12月28日)を京都三条の映画館で観た後、次に山本兼一のどの作品を読もうか、と思案していた時にベトナムで知った訃報でした。
 次は、『花鳥の夢』(2013年)、『命もいらず名もいらず』(2010年)、『戦国秘録 白鷹伝』(2002年)の順番で読む準備をしていた時だったので、とにかく驚きでした。もう新作が出ることはないので、遅ればせながら、これからゆっくりと他の作品を読もうと思います。

 さて本作『銀の島』は、『小説トリッパー』(2007年夏季号〜2008年冬季号)に『ザビエルの墓標』として連載されたものが元となっています。それを大幅に加筆した上で『銀の島』と改題し、2011年6月に朝日新聞出版から単行本として刊行されました。
 今回、追悼の意味で朝日文庫として緊急出版されたのです。


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 すでに、島根県のアンテナショップである「にほんばし島根館」で、世界遺産に指定された石見銀山を紹介するパンフレットなどの資料を揃え、一通り目を通していました。その準備が、今回役に立ちました。


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 通俗小説を書いていた主人公は、明治43年にザビエルのことが知りたくて、横浜から船でゴアへ行きます。そして、ザビエルの伝記に欠かせない資料が、ゴヤで見つかったのです。そこに書かれていたのは、衝撃的な内容でした。そこから、石見銀山がクローズアップされるのです。300年前に安次郎が日本語で書いた手記を託された私は、それを英訳する前の筆写に厚遇を得る中で手を付けます。巧みな物語展開です。波乱万丈の冒険譚の始まりです。

 時計は、天正15(1587)年に戻ります。
 安次郎は、東南アジアからインドのゴアへと、艱難辛苦の人生を送ります。そこにザビエルとの出会いがあり、運命が大きく展開します。ヨーロッパと東南アジアと日本の物流がよく描けています。『唐物の文化史』(河添房江、岩波新書)を読んでから、唐物のことに興味を持ち出したこともあり、多くの舶載品の動きに注意を向けながら読みました。香木の話も出てきます。貿易についてもわかりやすく語られています。

 外国人の目から見た日本人の描写が新鮮でした。こうした逆転した視点から見ると、日本の文化がよく炙り出されます。特に、礼法については、日本人はおもしろい文化を持った民族であることがわかります。

 やがて話は、バラッタの登場によって、大内氏の石見と、尼子氏の出雲の話になります。山口の大内氏の話になると、吉見氏や吉川氏の名前が出てきます。大島本『源氏物語』にまつわる話に出てくる氏族の名前ということもあり、どんどん引き込まれていきました。ただし、話が石見銀山を舞台としてから、しだいに面白みに欠けるようになりました。展開が平板になったのです。話が嘘っぽくなってきたこともあります。作者の無理が見え出したこともあります。鉄砲の話の時もそうでした。調べたことに集中するあまり、ドラマ性がなくなってきたのです。

 最後の場面で、人として生きていく上で一番大切なものは「仲間」だと言います。その考えで、また話は大きく進展していきます。
 月光を浴びる中での海戦の様は、読みごたえがありました。
 作者は何度も、「あなたは、いったいなにをしに日本に来たのか。」とザビエルに問いかけます。あの『利休にたずねよ』という小説を思い出させるラストシーンでした。

 もっとも、「石見銀山占領計画」なるものがこの小説の中心になるはずが、どうもうまく作品の完成度を上げるのに貢献していません。おもしろく読者を引っ張ってくれます。しかし、肝心の話は盛り上がらないままだったように思われます。独創性が失速した読後感となりました。【3】
 
 
 

2014年4月22日 (火)

読書雑記(97)千梨らく著『翻訳会社「タナカ家」の災難』

 たまたま書店の棚でこの書名の背文字を見かけたことから、千梨らく著『翻訳会社「タナカ家」の災難』(2013年9月、宝島社文庫)を読みました。

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 軽いタッチの作品なので、行き帰りの電車の中で、一気に読み終えることができました。こんなに軽い小説は久しぶりです。病院の待ち時間に、マガジンラックに入っていた週刊誌を読み終えた時の感覚に近いものがあります。マンガを見終えた時の印象に近いとでも言いましょうか。

 冒頭、「六本木ヒルズの裏手に〜」と始まるので、若者の青春群像が語られるのかと思いました。しかし、場違いにも都心に堂々と佇むおんぼろ一戸建を社屋とする翻訳会社「タナカ家」を舞台とすることから、吉本新喜劇の要素もあることがわかります。このゆるキャラ的な要素が、この作品の持ち味かもしれません。ただし、私にはこの傾向はよくわかりません。

 カバー裏表紙のキャッチコピーには、「極上の翻訳エンターテインメント小説!」とあるので、現在翻訳に興味を持っている私は、とにかく翻訳物ということに惹かれて読んでみました。

 ストーリーは入社間もない女性、押切可南の目を通して進んでいきます。もっとも、この設定がよかったかどうかは、非常に微妙です。それは、この押切可南の存在が中途半端だからです。
 押切が物語の進行役を果たすのは、その魅力が不透明なだけに、この物語展開では時期尚早の感を抱きました。まだ、魅力に欠ける女性だからです。
 その立ち位置が曖昧です。その存在を考え直すと、この作品はさまざまなエピソードを交えながら、英語にコンプレックスを抱いている日本人には、受けるシリーズになることでしょう。

 さて、この物語は軽快なテンポで展開します。マンガを読むように楽しめます。翻訳業の舞台裏を見せられているところを、おもしろいと思いながら読みました。もっとも、中身のない話に失望したことも事実ですが。

 各章末に置かれた「Talk Time」は、知的な味付けで、一服の清涼剤の効果がありました。

 「認め合い、分かち合い、助け合い」をモットーにしたタナカ家は、一人息子の新社長の出現で、「独立独歩」が社訓となります。この切り替えのテンポの良さはスマートです。
 切り捨てられる情の世界がどう展開するのか、読者に期待させます。

 ただし、翻訳会社の話が上滑りしています。著者は、今も翻訳会社勤務されているとか。それにしては、翻訳の現場の臨場感が欠如しています。思い出しながら話している、という印象が拭えません。現場では、もっと人間としての悩みや苦闘があるはずです。それがリアルに表現されていません。描写力の不足です。
 あまりにも若者受けを意識した、軽いタッチの話に落としすぎです。悪役がいないせいかもしれません。

 最後になって、やっと話が盛り上がります。しかし、もっと前から仕掛ければ、話の出来は違ったことでしょう。これは、作品の構成の問題です。
 次作に期待しましょう。

 なお、本書の巻頭に、若者の読者を意識したと思われる、登場人物の略説とイラストがあったことが悔やまれます。
 物語を読みながら、自分なりにその登場人物をイメージし、姿形を勝手に想像する楽しみを奪われたのです。今の若者向けの本の常套手段なのでしょうか。

 何年かしたら、このイラストはなくなることでしょう。新聞の連載小説などに挿絵があるのは、今の時点で読む者にとっては楽しみでもあります。しかし、一書になった時には、作品が発表された時の時間軸から自由になるためにも、登場人物に関するイラストなどの情報は不要です。歴史物なら、人物略説や年表や地図は、理解を深める意味から必要だと思います。しかし、現代物では、当座は不要だと言えます。

 この作者は、2009年に『惚れ草』で第4回「日本ラブストーリー大賞」エンタテインメント特別賞を受賞してデビューされた方だそうです。その意味でも、おもしろい話が創作できる方だと思いました。次にこの千梨氏の作品が目に触れる時を、大いに楽しみにしたいと思います。【1】
 
 
 

NPO法人〈源氏物語電子資料館〉広報室より

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