カテゴリ「3.5-清張全集復読」の11件の記事 Feed

2017年1月26日 (木)

清張全集復読(10)「情死傍観」「断碑」

■「情死傍観」
 阿蘇山で投身自殺をする人を救う老人の話を『傍観』という小説に書いた後日談で始まります。読者と名乗る当事者から手紙が来た、という想定です。
 作中で紹介された小説といい、それを読んだ女からの手紙の引用といい、ふたつの入れ物をおいての物語です。大きな衝撃のないままに終わったので、拍子抜けでした。【2】
 
 
初出誌:『小説公園』(昭和29年9月)
 
 
■「断碑」
 考古学において、人文科学的な論理や文化史的な考究を文学的な表現で発表した木村卓治は、学会から無視されていました。清張が得意な、在野の研究者の物語です。
 恵まれない立場の者が、嫉妬から憎悪へと心情が変わる様を、清張は巧みに描きます。
 小学校の代用教員だった木村は、恩師高崎の計らいで博物館に就職できるということで上京します。しかし、その話はダメになります。
 


 高崎を恨む心は憎しみに変った。
 それほど卓治は博物館に入りたかったといえる。当時の官学は東京大学は振わず、専ら博物館派と京都大学派が主流であった。博物館入りを望んでいる卓治の心は、いわずとも官学への憧憬につながっていた。
 大部分の在野の学者が官学に白い眼を向けて嫉妬する。嫉妬は憧憬するからである。
 その憧憬に絶望した時が、憎悪となるのだ。爾後の卓治は官学に向って牙を鳴らすのである。(238頁下段)

 中卒でしかない自分を莫迦にしている人間を見返したい、という思いがますます強くなります。
 その存在を疎ましく思う者たちの反応も、さもありなんと思わせるものです。
 その後の卓治は、壮絶な研究生活を送ります。妻との二人三脚も胸を打ちます。妻が亡くなる前後は、人間が支え合う情感が感動的に伝わってきました。
 妻が亡くなった2ヶ月後の、昭和11年1月に、卓治は34歳で亡くなりました。
 その性癖故とはいえ、学会や主流派から見捨てられた一考古学者の姿が、生々しい筆で語られています。人間が反発する気持ちと、寄り添う夫婦の描写が活写された作品です。考古学会で鬼才といわれた森本六爾の生涯をモデルとする作品のようです。【5】
 
 
初出誌:『別冊 文藝春秋 43号』(昭和29年12月)
※原題は「風雪断碑」
 
 
参考資料:『松本清張事典 決定版』(郷原宏、角川学芸出版、平成17年4月)
 
 
 

2017年1月20日 (金)

清張全集復読(9)「湖畔の人」「転変」

■「湖畔の人」
 人から愛されないと自認する矢上は、転任先の諏訪で徳川家康の六男松平忠輝の生涯に理解を示します。流れ流れて不遇のままに生きる姿に、作者が寄せる心情が伝わってきました。この背後には、清張自身があるのでしょう。
 人生を斜に見た男の存在や、新聞社、諏訪湖、徳川家、海辺の情景などなど、井上靖の作品の雰囲気を漂わせていることに気づきました。これはいったい何なのでしょうか。『球形の荒野』のときに似た読後の印象です。
 諏訪湖畔に生きる、穏やかな人々が描かれています。筆致は清張らしくなく、控えめな表現でまとまっています。【2】
 
 
初出誌:『別冊 文藝春秋』(昭和29年2月)
 
 
■「転変」
 慶長四年の関ヶ原の戦い後、家康と福島正則の駆け引きから始まります。
 正則は、家康に感謝されて上機嫌です。しかしその後すぐに、正則は窮地に立ちます。そして、家康の巧みな計らいに、正則はまんまと嵌まることになるのです。
 正則は、秀頼と家康の間で、苦境に追い込まれます。正直なだけでは、家康のようにしたたかな者には子供のように捻られます。
 家康の知略に長けた非情さを通して、人間の生き様を問いかけています。【4】
 
 
初出誌:『小説公園』(昭和29年5月)
 
 
参考資料:『松本清張事典 決定版』(郷原宏、角川学芸出版、平成17年4月)
 
 
 

2016年11月21日 (月)

清張全集復読(8)「火の記憶」「贋札つくり」

■「火の記憶」
 清張が得意な、戸籍に関する話です。しかも、清張自身が抱える、実の父の存在が背景にあると思われるものです。

 頼子が結婚する相手である泰雄の戸籍から、兄貞一はその父が失踪宣告されていて除籍となっていることに疑問を持ちます。

 泰雄の父が失踪したのは4歳の時でした。母は、泰雄が11歳の時に亡くなりました。後日、事実と対比するために、このくだりを抜き出しておきます。


 僕の父は三十三歳で行方不明となり、母は三十七歳で亡くなった。父の失踪は僕が四つの時で、母の死は十一のときだった。母の死後二十年ほど経つ。
 僕は父母の素姓をはっきり知らないが、父は四国の山村が故郷で、母の方は中国地方の田舎が実家だ。が、両親とも他国に出てからは一度も生れ在所に帰ったことはないということだ。今日まで、僕も両親の郷里に行ったこともなければ、郷里の人たちの訪問をうけたこともない。要するに、典型的な流れ者なのだ。
 従って父母の身の上については他人の口から聞くよしもなかった。三十七歳まで生きた母も、僕にはあまりそんなことを話さなかった。
 父と母が一緒になったのは大阪だということだけは聞いた。しかし四国の山奥の青年と中国地方の片田舎の娘とがどのような縁で大阪で結ばれたかは分らない。しかしこの結婚は、どちらも故郷を出ていわゆる旅の空で出来合ったのであろうことは想像がつく。事実、母は死ぬまで戸籍面では内縁関係であった。当時、父は何をしていたであろうか。父のことになると母は不思議に話を回避した。
 僕は本州の西の涯B市で生れた。大阪からB市に両親が移った事情もはっきりしない。
 父は僕が四つのとき失踪したから、僕の父に対する記憶は殆どない。印象も残っていない。写真すらみたことがない。あるとき、僕がそれを母に云ったことがあるが、
「お前のお父さんという人は写真にうつることが嫌いでのう、とうとう撮らず終いだったよ」
 と母はいった。
 その頃の父の職業は何だったか。母にきくと、
「石炭の仲買での、始終、商売で方々をとび廻って忙しがっていなさったよ」
 ということだった。それが欧州大戦後に襲った不況で山のような借財が重なり、遂に朝鮮に渡ったきり、行方不明になったという訳だ。「大正×年—日、届出ニヨリ失踪ヲ宣告」と戸籍面で父の存在が抹消されたのは、それから十年もたって後である。
 実際、父の足跡はそれきりかき消えてしまった。生きているのか死んでいるのか、もとよりさだかでない。生きていれば、今年六十歳の筈だ。
「ちょっと神戸まで行ってくる」
 といって、トランク一つ提げて家を出て行ったそうだ。商用で旅は常だったから、母は怪しみもせずに出した。それが父の最後の姿だった。最初からその計画で家出したのか、途中でその気になったのか分らない。遺書一つない。朝鮮行きの連絡船で見たという人もあった。(158頁下~159頁下)

 その母の横には、ある男がいたことが思い出されます。それが、河田忠一です。警察官を辞めて、行商をしていました。九州の筑豊炭田でのことです。
 本作品を読んで、最後の第六節の推理はピンボケだと思います。女の心理が読み解けていないとしか言いようがありません。物語を閉じるために、無理なこじつけとなっています。推理作家清張の片鱗だけが感じられました。

 後年、清張は火に拘った作品を書きます。本作では、ボタ山の火です。これは、幼い日に山陰の山中で清張の父が見たと思われる、たたらの火の記憶が蘇っているのではないでしょうか。本作品を読んで、そう確信しました。また、飛鳥の石像遺物とゾロアスター教に興味を持つのも、この延長上のことかもしれません。

 そのよくわからない、不遇の中に生きた父に対する清張の思いは、終生頭から離れなかったと、私は思っています。これは、私のまったくの思いつきです。何も文献は調べていません。研究の足跡も確認していません。
 この一連のメモは、勝手気ままに書いている、読書雑記であることをご了解ください。【4】
 
 
原題:「記憶」
初出誌:『三田文学』(昭和27年3月)
   改題改稿したものを『小説公園』(昭和28年10月)に掲載。
 
 
■「贋札つくり」
 明治2年、福岡藩での話です。
 財政困窮の中、窮余の一策が贋札作りでした。絵師・印刷屋・大工などの職人20人が城内の家老屋敷に集められました。しかし、職人の中で病気になった者が家に帰されたことから、その秘密を妻に語ったために露見します。
 人間の思考回路がよくわかります。そして、その結果にどう対処するかも、興味が尽きないところです。【3】
 
 
初出誌:『別冊文藝春秋』(昭和28年12月)
 
 
参考資料:『松本清張事典 決定版』(郷原宏、角川学芸出版、平成17年4月)
 
 
 

2016年11月 3日 (木)

清張全集復読(7)「戦国権謀」「菊枕」

■「戦国権謀」
 慶長12年、70歳近い家康の身辺が語られます。特に、本多正信との親密な関係が際だっていました。
 その子正純は、あらぬ疑いで宇都宮から追い出され、元和8年秋に出羽国由利郡本庄に幽閉されます。さらに、横手に遷されるのでした。
 加えて、ありし日の権勢を語ったことが秀忠の不興を買います。身辺の警備が厳重になったのです。片時も油断のならない身に置かれていることを痛感します。
 幽居11年で正純は72歳で亡くなり、静かに幕が引かれます。栄光と挫折が描かれています。
 人間の感情を押し殺した表現で語られるので、今からみれば清張らしくないと思う作品です。【3】
 
初出誌:『別冊 文藝春秋』(昭和28年4月)
 
 
■「菊枕」
 明治から大正にかけてのこと。中学校の美術の教師と、御茶ノ水を出た文学好きの美貌の妻との話です。
 妻ぬいは、夫との喧嘩ばかりの日々に懲り、俳句を始めます。大正から昭和にかけて、ぬいは知る人ぞ知る俳人として活躍します。しかし、他の女流俳人にはことごとく敵対します。自分の才能に誇りがあるからです。心満たされないままに、しだいに孤立し、狂態のさまを見せます。
 感動的な物語として終わります。抑制した語り口にも関わらず、胸を打つのは筆の力なのです。清張の面目躍如という作品に仕上がっています。
 この作品のモデルは、高浜虚子を偶像化していた小倉在住の俳人杉田久女で、清張は奈良まで取材に行って弟子たちに会っています。遺族から抗議をうけても、清張は相手にしなかったそうです。【5】
 
原題:「菊枕—ぬい女略歴」
初出誌:『文藝春秋』(昭和28年8月)
 
参考資料:『松本清張事典 決定版』(郷原宏、角川学芸出版、平成17年4月)
 
 
 

2016年10月19日 (水)

清張全集復読(6)「梟示抄」「啾々吟」

■「梟示抄」
 話は、明治7年のことです。江藤新平と西郷隆盛、そして大久保利通が物語を動かしていきます。
 佐賀の乱で破れた江藤は、西郷を頼って鹿児島へ行きます。しかし、西郷は動きません。そこで仲間と一緒に宇和島から土佐へと、雪山の中を苦難の道を歩みます。清張には珍しい表現が見られる反面、清張らしくないレポーターのような口調に違和感を覚えました。
 江藤新平に関しては、もっと心の中を描き出してほしいところです。
【2】
 
初出誌:『別冊 文藝春秋』(昭和28年2月)
 
 
■「啾々吟」
 弘化3年(1844)8月14日に、肥前佐賀で同日に三人の男の子が生まれました。松枝慶一郎は鍋島藩の家老の子、後2人は大名の子と軽輩の子です。
 家格は低くても秀才だった軽輩の子石内嘉門が、それからどのような出来事に身を置くのか、開巻早々、物語の展開が楽しみになります。
 そして一読し終えて、宿命という言葉が記憶に残りました。
 明治の政争を描く中で、一人の人間の生き様が鮮やかに浮かび上がってきます。【4】
 
初出誌:『オール讀物』(昭和28年3月)
※第一回『オール讀物』新人杯佳作第一席に入選
 
参考資料:『松本清張事典 決定版』(郷原宏、角川学芸出版、平成17年4月)
 
 
 

2016年10月 9日 (日)

清張全集復読(5)「或る「小倉日記」伝」

 昭和15年のこと。詩人K・Mの元に小倉在住の田上耕作から手紙が来ました。小倉時代の森鴎外の事蹟を調べている、というのでした。
 第二節の後半に、「耕作には、六つぐらいの頃、こういう一つの思い出がある。」(全集35頁上段)とあります。この後の話は、清張自身に関わる記憶の一部ではないか、と思っています。特に、鈴の音は記憶に刻まれていた音ではないでしょうか。耕作の身体に障害があることは、これも清張が身辺で見聞きした経験に基づくものではないでしょうか。
 身体が不自由な耕作を、母ふじが献身的に助けます。後年、父親の存在に拘る清張が、母をこのように描いていることに、私は注目しています。
 この作品は、調べるということに何の意味があるのか、ということへの問いかけを背景に持っています。耕作は、調べれば調べるほど、そのことが我が身に返ってきます。
 書かれたものを読み、人を探し当てて話を聞くのです。柳田国男や民俗学のことに触れているのは、この問題意識があるからです。そして、これが後の推理物へと展開していきます。
 昭和25年末に耕作は亡くなります。そして、その2ヶ月後の26年初めに森鷗外の『小倉日記』が見つかります。
 一人の男とその母の、苦楽を共にした旅の意味が、この鷗外自筆の日記の出現によって、読者にあらためて問われているのです。
 昭和28年1月に、本作品が第28回芥川賞を受賞します。最初は直木賞候補だったものが、芥川賞の選考対象となり受賞した、という経緯があります。【5】
 
初出誌:『三田文学9』(昭和27年9月)
改稿再掲載:『文藝春秋』(昭和28年3月)

参考資料:『松本清張事典 決定版』(郷原宏、角川学芸出版、平成17年4月)
 
 
 

2016年10月 3日 (月)

清張全集復読(4)「西郷札」「くるま宿」

■「西郷札」
 展覧会の準備中に西郷札とその覚書を入手した作者は、覚書を現代語にして広く公開することにしました。明治10年頃の宮崎県がその話の舞台です。
 作者は、この覚書をわかりやすく解き語りします。
 東京で車夫になった主人公の樋村雄吾は、ある日、義理の妹季乃に会います。偶然の出来事が波乱万丈の展開を見せるのです。
 原文の一部を引いて綴るこの物語は実に巧みで、読み耽ることになりました。
 物語の末尾に引かれる覚書では、最後の部分が破られていたとしています。そして、雄吾の決断を読者に考えさせます。なかなか憎い終わり方です。
 これは、松本清張が昭和26年に書いた処女作です。昭和25年の『週刊朝日』の「百万人小説コンクール」で三等に入選し、昭和26年の直木賞候補作ともなりました。【4】
 
初出誌:『週刊朝日 春季増刊号』(昭和26年3月)
 
 
■「くるま宿」
 明治9年の柳橋での話です。
 病気の娘を抱え、生きていくために吉兵衛は人力車夫になりました。
 寡黙で努力家の吉兵衛は43歳。酒も博打もしません。仲間も親方夫婦も、その姿を同情的に見ています。
 ある日、隣の料亭に強盗が入り、それを吉兵衛は見事に蹴散らすのでした。
 それを機に、転職の誘いがあっても断ります。ところが、ある出来事から吉兵衛が実は元直参大目付の山脇伯耆守だったとわかります。しかし、それは娘とともに立ち去った後でした。
 身を隠して市井に生きる男を、静かに見つめる作者の思いは、小倉にいる自分もいつかこのようなことが、との願望が形になったように思われます。依頼原稿の第一号です。【3】
 
初出誌︰『富士』昭和26年12月
 
 
-------------------------------------- 
※この〔清張全集復読〕は、特に断わらない限りは『松本清張全集』(全66巻+別巻、1971年4月~2009年5月、文藝春秋)を読んでの、気ままにメモを記した読書雑記です。
 メモを公開するにあたり、『松本清張事典 決定版』(郷原宏、角川学芸出版、平成17年4月)を参考資料として見、登場人物名や年代などを正確にしました。
 
 
 

2016年6月 5日 (日)

触読調査の後は小倉の松本清張記念館へ

 昨日から福岡では小雨が降り続いています。
 九州は梅雨に入ったようです。

 今朝は、触読研究に関して5人の研究協力者の参加を得て、『変体仮名触読字典』のための触読シート「あ」(立体コピー試作2版)へのチャレンジをしていただきました。


160605_syokudokua



(1)【文字の上下がわからないとのこと】
  これは、シートの角に切り欠きをつけることで解決します。

(2)【何がどのような順番で紙面に配置されているか】
  上から、次の4種類の仮名が掲出されています。
   A.字母の活字体
   B.ユニコード登録予定の字体
   C.古写本に出現する代表的な2つの字体
  左枠外には、各字母を使用した語句2例を掲出
  その右側には、介助者用の読み仮名として、現行の活字体の平仮名と字母を併記
 こうした説明注記を、点字で添えるといいようです。

 まだまだ改良の余地があります。
 この試行錯誤を今後とも繰り返すことで、実用に耐え得る『変体仮名触読字典』を目指したいと思います。明日も、触読シートによる調査と意見交換を予定しています。
 
 昨日の懇親会で、この黒崎からは小倉が近いので「松本清張記念館」へ行くことを勧められましたし、すでに行って来たということでした。かねてより、私は清張に強い問題意識を持っていました。それに加えて、鳥取の日南町に文学碑があることや、松本清張の家系の謎を綴った『白い系譜』のこともあり、私も行ってみることにしました。

 清張の父と母については、次のブログの記事に詳細に書いています。

「松本清張の家系の謎『白い系譜』(1)」(2014年08月08日)

「松本清張の家系の謎『白い系譜』(2)」(2014年08月09日)

「松本清張の家系の謎『白い系譜』(3)」(2014年08月10日)

 黒崎駅から15分で西小倉駅です。そこから松本清張記念館へは歩いて5分。


160605_kinenkan


 清張の生涯が、実物と映像を駆使して展示されています。
 別室で『日本の黒い霧─遙かな照射』というドキュメンタリー映画を見ました。
 その中で、『黒地の絵』に関連する話として、小倉聾学校に脱走した黒人米兵が侵入したことが取り上げられていたのです。昨日来、さまざまな障害に関する研究発表などを聞いた後ということもあり、このことに強く反応しました。

 さらに、特別企画展「世界文学と清張文学」が開催されていました。
 清張の作品が世界中で読まれていることがわかりました。
 海外における『源氏物語』について問題意識を持っているので、清張の海外での情報には大いに興味があります。
 展示図録(2016.1.16)は、貴重な情報が満載です。清張は意外と英語がうまかったようです。


160605_seityouworld


 黒崎駅に戻り、また黒崎神社のおみくじロボットで占いを、と思ったところ、今日は「調整中」とのことでお休みでした。


160605_omikuji



 
 
 

2014年8月10日 (日)

清張全集復読(3)松本清張の家系の謎『白い系譜』(3)

 白根正寿著『白い系譜』(備北新聞社、昭和51年3月)に関して、作品を読んでの個人的なメモを残しておきます。

 こんな会話で「序の章」が始まります。
 私が育った出雲地方でも使っていた方言であるズウズウ弁です。


「やっぱぇなあ……」
「あげだぜぇ。……なんぼ、畠山さんでもねゃ……なんの屈託もないのに、……嫁と姑ということなって見るとねゃ」
「そげだわねゃ、このことばかりは……」
「ほんに優しい、いい若御寮さんだったに」

 鳥取県の日野川源流に近い矢戸の村での話です。
 明治3年の早春。地主階級で豪農の畠山家当主である誠一郎(31歳)のもとへ、福成村の庄屋である前原家の美津(16歳)が嫁入りします。婚礼の日、畠山家の門で一悶着あったことが、その後の展開を暗示します。

 姑のてるは、〈尼将軍〉とか〈鬼よりこわい〉と言われる女傑なのです。
 優しい誠一郎と鬼の姑に挟まれ、誠心誠意尽くす中で苦悩する美津が、鋭い筆鋒でみごとに描き出されていきます。作者の筆力には、並々ならぬ切れ味を感じさせます。
 美津の夫である誠一郎の性状については、儒学の影響が色濃く認められます。親への優しすぎることなどで、作者はそれを強調しています。

 お茶の話が出てきました。美津は母から裏千家の手ほどきを受けたのに対して、姑のてるは松江を中心とした松平公の不昧流(53頁下)。当時の福成には、茶道の先生はいなかったようです。
 また、ホオズキで堕胎することは、どこから仕入れた知識なのでしょうか。村に言い伝えでもあるのでしょうか。二条流とは違うようです。(68頁上)

 美津の婚家出奔のくだりには、息をも吐かせぬ緊迫感と臨場感があります。
 美津を追い出すことに成功した姑のてると小姑のお百は、自分たちが仕組んだその後の結婚話に誠一郎が乗ってこないので、おもしろからず振る舞います。
 誠一郎は、明治5年の学制発布のために上京し、教部省(文部省)に入ることになったのです。この思惑が外れて行き違うところが、軽妙に語られます。
 それに比して、誠一郎と美津との相思相愛ぶりは、ドラマ仕立てで展開します。

 立身出世と純愛話に加えて、その背後に陰謀が空回りしながら物語は進展するのです。美津の懐妊についても、姑は我知らずと滑稽に描かれています。

 やがて生まれた勝太郎は、炭焚きの米十に里子に出されます。しかも、産みの親が知らないうちに。このあたりから、清張の父の匂いが行間に滲み出します。

 畠山家を出奔した美津は、姑と小姑が亡くなった後、再度畠山家に入ります。ただし、里子に出された第一子とは会えぬままに……。
 これは、一種の純愛物語です。嫁とは、母とは、という問いかけを、きわめて具体的に読者に突きつけてきます。

 後半では、奥出雲の風物であるタタラの文化についても、しっかりと書かれています。
 さらに、明治5年の学制発布という、教育制度が地方に展開する舞台裏などが詳しく描かれているのも、本作の特徴です。作者が積極的に教育に携わっていたからこそ、こうしたことをしっかりと調査して取り込んでいるのです。

 勝太郎は、矢戸一番の人物として故郷に錦を飾ることを夢見ていました。そのことを息子に語りながらも、果たせないままで亡くなります。知られている清張の父そのままです。
 美津は、昭和7年に81歳で亡くなりました。

 本作は、清張の祖母として登場する美津を中心として、日南町矢戸を舞台にして語られる物語です。
 フィクションとは思えない、極めて具体的な設定がなされています。事実とどう折り合いがつけられているのか、語られる1つ1つの根拠が知りたくなります。
 松本清張の父が里子に出された前後については、この話がどこまで事実を踏まえているのか。それが克明な描写に支えられているからこそ、作者はどのようにしてこうしたネタを自在に操れたのか、知りたくなりました。

 本作に描かれている虚実の揺れを、これから調べて読み解きたいと思っています。
 
 
 

2014年8月 9日 (土)

清張全集復読(2)松本清張の家系の謎『白い系譜』(2)

 白根正寿著『白い系譜』(備北新聞社、昭和51年3月)で語られている話を整理しておきます。

 まず、登場人物です。

 清張の生年月日は1909年(明治42年)12月21日とされています。しかし、それは九州小倉市で出生届を提出した公式書類上の日であり、実際には1909年2月12日に広島市で生まれた、ということが正しいかと思われます。

 本書『白い系譜』の最後では、実際の松本清張を匂わせる形で、名前を「成春」として生年月日は明治42年12月21日としています。公式な記録の日時に合わせたのでしょうか。
 名前についても、ペンネームの「せいちょう」ではなく、本名の「きよはる」と合成した「なりはる」になっています。

 参考までに、本書の巻末部の当該部分を引用しておきます。


 やがて勝太郎夫妻は一男児を挙げた。明治四十二年十二月二十一日であった。
 成春と名づけられた。成春は、かつて古舘源八が予言したとおり、誠一郎、美津からは一代おいてだったが、この系統から現われた偉材で、後年文壇の巨匠となって縦横の活躍をするのだが、それはここには語るまい。(250頁上段)

 さて、本書に登場する人物について整理しておきます。
 まず、流布する情報として、ネットに公開されている系図を引きます。
 
 
              松本米吉(鳥取県米子市)
                 ↑(養子)    
      田中雄三郎 ┏━━峯太郎(→広島県広島市)    
 (鳥取県日南町)┃  ┃   ┃
         ┣━━┫   ┣━━━━━━━清張
         ┃  ┃  タニ
        とよ  ┃
            ┗━━嘉三郎(→東京都杉並区荻窪) 
                ┃
               りう
   (ウィキペディア「松本清張」の「家系」の項目より)
 
 
 これに倣って本書の人物関係を系図にすると、次のようになります。
 ただし、これは初読によるメモであり、さらに正確にする必要があります。今は、不正確なままであることを承知の上で参考のために掲載します。
 
 
てる(大御寮33歳で    松下米十(炭焼、M8に伯耆淀江で魚屋
  ┃ 未亡人) 園枝(2人目の嫁  ↑ その後9歳で備後東城)
  ┣━━お百  ┃  大御寮の姪) ↑
  ┣━誠一郎(M3美津と結婚31歳)  ↑(里子)
矢戸の豪農    ┃         ↑
 畠山助左衛門  ┃  ┏━━勝太郎(M4.8.15生、後に松下姓)    
         ┃  ┃  ┃(流浪:西城→庄原→三次→広島)
福成村の庄屋   ┣━━┫  ┃
 前原太郎右衛門 ┃  ┃  ┣━成春(M4.8.15生)
  ┣━━━━━━美津 ┃  ┃
  ┃  (M3結婚16歳 ┃  妻(広島)
  ┃ 4人目の若御寮) ┃             
 久子         ┗━━慶次郎(次男 M9.2.18生) 
            [※2014年08月09日(土)現在の試作版]
 
 
 

2014年8月 8日 (金)

松本清張全集復読(1)松本清張の家系の謎『白い系譜』(1)

 白根正寿著『白い系譜』(2段組252頁、備北新聞社、昭和51年3月)を読みました。
 この本を読まれた方が他にいらっしゃいましたら、ぜひとも連絡をいただきたいと願っています。

 非売品である本書の発掘は、鳥取県日野郡日南町の浅川三郎氏の精力的な探索があっての賜物です。


140711_siroikeifu


 国立情報学研究所(NII)の「Webcat Plus」で調べると、本書について以下のことがわかりました。


人物名ヨミ シラネ マサヒサ
人物別名 白根正寿
生年 1907年
没年 1999年

本の一覧
タイトル 著作者等 出版元 刊行年月
白い系譜 白根正寿 著 立花書院 2000.4
山村の農業経営 白根正寿 著 富民社 1954
 
 
タイトル 白い系譜
著者 白根正寿 著
著者標目 白根, 正寿, 1907-1999
出版地 米子
出版社 立花書院
出版年 2000
大きさ、容量等 319p ; 19cm
価格 非売品

 白根氏には、『山村の農業経営』という著書もあるようです。

 今回、浅川氏が手配してくださった『白い系譜』を、幸運にも実際に手にして読むことができました。

 この本の奥付けは、次のようになっています。


昭和51年3月1日発行
著者 白根正寿
発行所 岡山県新見市 備北新聞社
発売元 新見市 市民会館内
    備北文学会

 発行日は「昭和51年(1976年)3月」です。
 上記「Webcat Plus」の書誌では、「平成12年(2000年)4月」でした。
 この24年の間隔は、何に起因するものなのでしょうか。
 また、発行所も発売元も「立花書院」と「備北新聞社(備北文学会)」と異なります。

 こうしたことは、今後の調査として保留にしておきます。
 なお、9月にさらなる調査のために現地を訪問する計画を立案中です。
 わかりしだいに、順次報告します。

 また、「東寺百合文書WEB」の中に、次の論文がありました。


白根正寿 “たまがき”について 『新見庄 生きている中世』備北民報社 1983 荘園史 新見荘(備中国)

 白根氏は学校の教員をなさっていたと仄聞しています。これは、その成果の一端なのでしょうか。

 「レファレンス協同データベース 9月1日」(情報の発信母体は不明)の中に、この白根氏の論文について更なる情報がみつかりました。
 これは、次のような説明の元に紹介されているものです。


たまかきの生涯について知りたい(岡山県立図書館)

 新見市は今年度から「新見庄愛の書状大賞」と銘打った手紙文コンテストを実施した。これは同市が地域活性化を企図して平成二年度から行っている「ロマンの里づくり事業」の一環で、新見庄の「たまかき」の書状にちなんで行われたイベントである。
 ここで、たまかきについて簡単に紹介しておこう。彼女は、京都の教王護国寺(東寺)領の新見庄の荘官で、惣追捕使の福本刑部丞盛吉の妹といわれるが、生没年に関しては不明である。東寺から派遣された直務代官として僧祐清が新見に着任したのが寛正三(1462)年のことである。たまかきは祐清の身辺の世話をする事になり、その時 心を通じ合ったと思われる。しかし、年貢の取り立てを厳しく行っていた祐清は、翌年七月に年貢未納の名主の一人を追放したことを機に、庄民によって斬殺される。葬儀の後、たまかきが東寺に向けて祐清の遺品を求めた手紙が「たまかき書状」で、中世農村女性の自筆書状として全国にも希有なものとされている。
 たまかきに関する直接的な史料は「東寺百合文書」(京都府立総合資料館蔵)の中のこの書状と、「祐清注進状」程度の限られたものである。ここでたまかき及び祐清殺害 に触れる郷土の文献を幾つか紹介すると、
(中略)
(4)『新見庄 生きている中世』(昭58・備北民報社)、(中略)(4)の中に収められている白根正寿氏の「”たまがき”について」という論文では、一枚の書状という限られた史料の中から、たまかきの亡き祐清に対する慕情等を推察も加えつつ執筆されている。(http://www.ai-21.net/news/pm/new_data719.html)

 白根氏は、収集した情報を想像力を逞しくして、可能な限り再構成するのが得意だったようです。これは、『白い系譜』の創作についても言えそうです。

 前置きが長くなりました。とにかく、松本清張が終生こだわった自分の不可思議な家系について、その実態と思われる秘話が、『白い系譜』では小説という形を借りて実話風に語られています。
 この『白い系譜』という作品は、さらに詳しく検討する価値の高いものだと思われます。ただし、そうした資料的なことは今は措き、次回はこの小説の内容を確認したいと思います。(つづく)
 
 
 

NPO法人〈源氏物語電子資料館〉広報室より

Powered by Six Apart
Member since 07/2008