カテゴリ「4.2-古都散策」の41件の記事 Feed

2017年2月 9日 (木)

江戸漫歩(152)おしゃれな丸の内のビル群の本屋さん

 東京駅に行くと、いつもは八重洲口周辺の小物屋さんや食べ物屋さんをぶらぶらします。本屋は「八重洲ブックセンター」が行きつけです。
 しかし、最近は反対側の丸の内地域の熱気が気になり、このあたりを歩き出しました。

 丸の内オアゾの中の「丸善丸の内本店」は、本の量にとにかく圧倒されます。
 そういえば、京都の河原町四条にできた梶井基次郎の小説『檸檬』の舞台で有名な「丸善 京都本店」も、2年前におしゃれに生まれ変わりました。私が行く、京都一の本屋さんです。

 さて、東京駅の皇居側にある丸ビルも新丸ビルも、とにかく新鮮な息吹を感じます。

 さらには、南口の前にある超高層ビルJPタワー(旧東京中央郵便局)の中にある底層棟の「KITTE」は、4年前にできた所で98店舗が出店しています。ここは、ユニークなお店が集まっています。ブラブラと歩いていて飽きません。

 その中でも、5階にある「回転寿司 根室花まる」は、いつも長蛇の列です。しかも、若い方が多いので、いつか入ろうと思いながらいまだに果たせていません。今夜もだめでした。


170209_kitte


 その下の階には、書籍・文具・雑貨・カフェというマルチなお店ながら、とにかく品物選びでこだわりの「マルノウチリーディングスタイル」は、特異なお店です。


170209_book


 お店の謳い文句は次の通りです。


大人の知的好奇心を刺激する書籍と遊び心を刺激する雑貨を揃え、スタッフが一点一点こだわってセレクトした商品を取り揃えてお客様にご提供いたします。

 これだけこだわった本選びがなされていると、意外な本との出会いが期待できます。
 ネットショッピングで本を買うということは、小売りの本屋さんを廃業に追い込むことに手を貸すことになります。その意味からも、私はネットで本は絶対に買いません。ほしいと思っている本でも、その本と出会えるまでは気長に本屋さんに通って、本との縁を楽しみにしています。
 そんな私にとって、この本屋さんは予想もしなかった本との出会いがありました。本屋さんへ行く楽しみを、思い出させてくれました。

 東京駅周辺を、もっと歩いてみたいと思っています。
 
 
 

2016年8月24日 (水)

古都散策(60)移転7・古都散策(18)夏の奈良公園と浮御堂

 今夏は古都奈良を散策する予定でした。
 しかし、思わぬ骨折というトラブルに見舞われ、それが叶わなくなりました。
 過去の記事でクラッシュしたために読めなくなっているものから奈良の話を復元し、行った気分になることにしました。

 ここで取り上げている東大寺や浮御堂は、山田洋次監督の映画『男はつらいよ 第一作』(昭和44年8月封切)に出ていました。


160823_torasan1a


160823_torasan1b


 そのことを、昨日たまたま観たホームビデオの映画で再確認したのです。そんなこんなで、今日はこの奈良公園周辺を取り上げます。

 映画では、旅に出た寅さんが、御前様(笠智衆)とその娘冬子(光本幸子)に奈良で出会います。浮御堂の前で記念写真を撮ってから奈良ホテルに入るシーンは、覚えておられる方も多いことでしょう。御前様が浮御堂を背景にして「チーズ」ではなくて「バター」と言うのも、懐かしい場面でした。
 
(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)

********************** 以下、復元掲載 **********************
 
2006年9月10日公開分
 
副題「光の庭と池の静けさの中を彷徨う(8月8日)」
 
 東大寺の南大門から南の飛火野に向かって歩きながら、参道のすぐ左手にある若草山に目を転じると、小さな灯籠の絨毯に驚かされます。正面には、シルクロード国際交流館が聳え、その裏手の若草山には光の文字が刻まれています。この現世において、突如として幻想的な空間の中に身を置くことができます。

 ここには、自分の灯籠を置くこともできるので、無限の世界に自分も参加できるのです。自然の中の夜の闇に溶け込める体験は、おそらく貴重なものとなることでしょう。歴史と文化が横溢する、古都ならではの、ぜいたくな仕掛けです。


1157814604_1tourou


 光の庭から飛火野に歩いていくと、奈良公園の浅茅が原に至ります。ここでも、これまた灯籠が無数に置いてあります。
 その脇道の通路には、竹筒の中でロウソクが燃えています。足下から視線の先が、柔らかで暖かい光の点でエスコートしてもらえます。

1157814604_2asajigahara


 さらに南へ下ると、ライトアップされた円窓亭の真下に、浮御堂が見えてきます。薄暗い中で、不思議な雰囲気の休憩所となっています。その周りの池には、提灯を捧げた貸ボートに乗る2人連れが幾組か、静かな水面にユラユラと漕ぎ出しています。
 池の汀にも光の点が集まっていて、悠久の小宇宙を見せてくれます。

1157814604_3ukimido


 時間がいくらでも吸い取られるかのようなこの地を後にするのは、幾分ためらわれます。しかし、帰り道は満ち足りた思いで、ブラブラと夜の奈良公園を彷徨うことになりました。
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 

2016年7月18日 (月)

古都散策(59)【復元】移転6・古都散策(17)夏の東大寺

 奈良の夜は、ライトアップで魅力が増しています。
 今年の夏は、古都奈良に足を運ぶ予定でいます。
 いつもは、お茶のお稽古のために、西大寺から生駒方面に向かっています。なかなか、西大寺から東に折れることがありません。
 京都と同じように、変わらない寺社の佇まいと再会できることが楽しみです。それでいて、町並みが微妙に変わっていくのも、新たな街の発見につながるようです。
 
(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
2006年9月10日公開分
 
副題「ライトアップに映える天平の鴟尾(8月7日)」
 
 東大寺のライトアップも、世界遺産の一つと言えます。まさに、光の芸術です。

 大仏殿に向かって南大門に歩みを進めると、夜店や露店の間に、春日の神の使いである鹿に出会います。というより、多くの鹿の間を縫って、南大門を目指すことになります。角の生えた鹿もいて、結構緊張します。


160601_toudaiji1


 南大門から望む大仏殿の鴟尾は、天平の甍を実感できます。唐招提寺の鴟尾も素晴らしいものです。それに負けず劣らず、この東大寺の鴟尾も見事な光を反射しています。


160601_toudaiji2


 南大門の左側には、阿形像がデンと立っています。
 この仁王像はわが国最大の木彫像で、像高は8.4メートルもあります。光の中に立つ仁王様は、いつもよりも親しみを感じました。ライトアップにより、私を見守ってくれているように見えるのです。
 小さな提灯を持った若い2人は、この仁王様には興味がないらしくて、楽しそうに話をしながら過ぎゆきました。


160601_toudaiji3


 頭を巡らして右側には、吽形像がデンと仁王立ちです。私は、こちらの方に迫力を感じました。


160601_toudaiji4


 最新の研究成果によると、阿形像は大仏師運慶と快慶が、吽形像は大仏師定覚と湛慶が関わったとされています。鎌倉時代の彫刻に込められた気迫を、存分に感じさせてくれます。ことばでは説明し尽くせないので、ここに書けるのはこれだけです。

 南大門から大仏殿に向かうと、池に照り映えるその姿を己が眼で見て、まさに息を飲むという喩えが実感できます。素人の私ですら、夜なのにこんな写真がデジカメで撮れるのです。私の腕ではなくて、ソニーのサイバーショットというカメラがいいからでしょうが……。


160601_toudaiji5


 この灯火会という催しのすばらしさは、人工的な光を当てるということに留まらない、計算された以上の効果を我々の心の中に残してくれることにあると思います。これまでに体験したこともないものを見ることにより、そこに自然の中の神秘さを感得することは必定です。

 奈良も、なかなかやるのです。
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 

2016年6月24日 (金)

古都散策(58)【復元】移転5・古都散策(16)夏の薬師寺

 夏の夜、古都奈良を散策した時の記事を、クラッシュした資料群の中からとり出して復元しました。
 写真が粗っぽいのは、夜ということに加えて、撮影に使っているデジタルカメラの性能によるものです。オリジナルのデータが見つかり次第、現在の技術で再生させるつもりです。
 
(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
2006年9月9日公開分
 
副題「薬師寺のライトアップを見る場所を探す(8月6日)」
 
 薬師寺の東塔と西塔がライトアップされているのを、夕刻より見に行きました。
 奈良は盆地なので、夏の午後6時はまだ明るい時間帯です。7時前ころになると、ようやく陽が生駒山に隠れるようにして、薄暗くなっていきます。
 薬師寺は西の京にあり、唐招提寺の南に位置しています。飛火野の南、志賀直哉の旧宅がある高畑のさらに南にある新薬師寺と、よく間違えられます……。かつて薬師寺は、高田好胤さんのお寺として有名でした。私も影響を受けて、『父母恩重経』を読んだりしたものです。平山郁夫画伯の玄奘三蔵求法の旅をたどる「大唐西域壁画」のある所、と言ってもいいでしょう。

 奈良市の中心地にある、東大寺・春日大社・興福寺グループに対して、この西の京は、第2の観光地です。第3が、法隆寺・法輪寺・法起寺グルーブ、そして第4が飛鳥グルーブでしょうか。我が町の信貴山と長屋王墓は、第5としておきましょう。

 拙宅から車で矢田丘陵を越えて、真っ直ぐに薬師寺を目指しました。30分もかかりません。しかし、薬師寺の三重塔の真横に着いてみて、肝心のライトアップを見る位置に困りました。車を止める所もなければ、見ている人もいません。
 ここではないと思い、見る場所を探してうろうろしました。仕方がないので、薬師寺の南側の大駐車場に行きました。しかし、そこも木々に遮られて、よく見えません。

 車を置いて、ブラブラと散策することにしました。先ほどの塔の真横まで行ったところ、僧坊のおばちゃん(まさに関西で言うところの人)が外に出て来ました。その人を捕まえて、一番綺麗に見える所を教えてもらいました。それは、まずここだと。自分の家の前だからなおさらです。
 ここからは、こんなふうに見えます。

 まずは西塔です。昭和56年(1981)に再建された、高さ34mの塔です。


160531_yakusiji1


 普段の姿は、次の画像一覧の通りです。

https://www.google.co.jp/search?q=%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%AF%BA+%E8%A5%BF%E5%A1%94&espv=2&biw=1440&bih=930&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwiBu42xnYPNAhUGtJQKHW_AAbkQsAQIKQ&dpr=1

 薬師寺には二つの三重塔があります。カメラを右に振ると、天平の香りを漂わせる国宝の東塔が、こんなふうに見えます。日本で三番目に古い塔で、「凍れる音楽」と呼ばれているものです。

160531_yakusiji2


 この東塔については、次の画像一覧をどうぞ。いろんなことがわかって、本当におもしろいものになっています。

https://www.google.co.jp/search?q=%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%AF%BA+%E6%9D%B1%E5%A1%94&espv=2&biw=1440&bih=930&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&sqi=2&ved=0ahUKEwiSn_iCnoPNAhXEjJQKHRdzBk4QsAQIJw

 光を受けた三重塔を堪能して道を引き返し、車に戻ると、すぐ横では盆踊りをしていました。
 薬師寺前での盆踊りも、また一興でした。夜店のたこ焼きと焼き鳥が、いずれも一舟百円でした。


160531_yakusiji3


 僧坊のおばさんの教えでは、大池(勝間田池)からの眺めもいいとか。帰り道でもあったので、立ち寄りました。


160531_yakusiji4


 帰り道で、西大寺の方での大規模な打ち上げ花火を、走る車の中から見ました。おまけを貰った気になりました
 自宅に帰り着いた頃に、我が町平群グラウンドでは、まだ盆踊りをしていました。
 江州音頭ではイマイチ盛り上がりません。それが、河内音頭になると、急に踊り手も増えて賑やかになります。

160531_yakusiji5


 まさに、日本の夏を体験しました。
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 

2016年6月20日 (月)

古都散策(57)【復元】古都散策(15)興福寺と猿沢池

 古都奈良の夜の様子と写真です。
 当時よりも私の写真編集技術はあがっているはずなので、元の写真を探し出したら、さらに鮮明に浮き上がらせることが可能かと思います。
 しかし、今は10年前に公開したそのままで復元しておきます。
 
(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
2006年7月17日公開分
 
副題「ライトアップされた塔と池のシルエット」
 
 古都奈良も京都に負けじと、夏になると市の中心部の社寺がライトアップされます。
 日ごろは見られない姿が、新鮮な気分にさせてくれます。
 まずは、玄関口となる近鉄奈良駅前の行基の銅像から。
 噴水の中に立つ行基さまは、自らが大勧進に尽くした東大寺をシッカリと見つめておられます。

160526_gyouki


 このすぐ前を南北に走る東向商店街は、観光客のお土産屋さんで賑わっています。
 夜の8時頃にもかかわらず、多くの人が散策していました。
 お店も、最近は遅くまで開けています。

 和食屋さんの前で、ウインドー越しにメニューを睨んでいた外国人の若者が、しばらく思案したあげくに意を決したかのようにして、そばにいた私に、ジェスチャーで尋ねて来ました。
 このうどん屋は、このビルの上にあるのか、というのです。「アップ」とか言っていたので、英語も覚束ないようです。
 私もしゃべれませんので、とにかく「このまま真っ直ぐ歩いて奥へ行けばいいですよ」と、これもジェスチャーで伝えました。手紙や電話ではなくて、直接目の前にいる人とは、何とかコミュニケーションが図れるものです。

 私は、海外でも日本でも、よく道を聞かれます。
 インドのデリーでは、軍服を着た兵士に道を聞かれたことがあります。
 過日も京都の国立近代美術館へ行く途中、東南アジアから来たと思われる女性に、平安神宮へ行く道を聞かれました。この時は、簡単な英語だったので対応できました。
 「ターン ツー ザ レフト。アバウト ファイブ ミニッツ」と。
 「サンキュー」というお礼のことばも、しっかりと聞けました。

 相手が言っている英語の意味は何とかわかるのに、どうしてもしゃべることができません。私は、日本の英語教育の失敗例を、身をもって体現している生き証人と化しています。
 とにかく、道を聞いたり買い物をしたりする時の英会話はいくつか暗記しているので、いつもそれで何とかなっています。

 商店街を南下して抜けて左折すると、猿沢池に出ます。
 池の周りの柳だけがライトアップされているのです。池全体が明るくなっているのかと思っていたので、少し肩透かしです。それも、池の興福寺側(北側)だけが明るいのです。
 この池の回りは、子どもたちをつれて来た時に、よく車を止めたところでした。しかし、駐車違反の取り締まりが厳しくなったせいでしょうか。この日は1台いただけです。それも、運転手付きで。

 南円堂への石段を上ると、右に西国三十三ヶ所の第九番札所の南円堂が明かりの中にありました。すでに西国巡りを3周以上している私は、ここは馴染のお寺です。
 右を見ると、その視線の向こうに、興福寺の五重塔が光を浴びて立っていました。これは、京都の東寺に次ぐ高さの国宝です。

160526_5jyuunotou1


 頂上部分の相輪にまで光が当てられており、幻想的な塔になっていました。贅沢な鑑賞です。
 浴衣姿の人がたくさんいました。旅館やホテルから散歩に来た方々のようです。
 さらに、塔の横の車道から見ると、複雑な木組みのおもしろさが間近に見られます。

160526_5jyuunotou2


 周りの風景が遮断されているために、かえって塔が浮き上がって迫ってきます。

 石段を下りて猿沢池に戻ると、柳のそばで、モデルさんとおぼしき浴衣姿の女性が撮影中でした。カメラマンが道の中央から照らすライトのやや左側に、白っぽい浴衣の立ち姿が見えるかと思います。

160526_sarusawa


 柳の横に佇む美女という構図はいいものです。しかし、サーチライトは池の下からなので、カメラマンのスポットよりも強く下から照らしています。私は、昔物語の一シーンを思い出しました。

 猿沢池は、『大和物語』(150段)にある采女伝説の池として有名です。ここは、帝の愛を失った采女が身を投げた池なのです。
 原文の一部を引いておきます。


なほ世に経まじき心地しければ、夜、みそかに出でて、猿沢の池に身を投げてけり。

帝からのお召しがなくなった采女は、情けなくもあり、これ以上生きていけそうもなくて、夜こっそりと家を抜け出して、猿沢池に入水したというのです。そしてすぐ後に、柿本人麿が詠んだ歌が紹介されています。


わぎもこが ねくたれ髮を 猿沢の池の玉藻と 見るぞかなしき

『枕草子』の「池は」の段や、謡曲の「采女」、さらには芥川竜之介の「竜」も、ここと関係があります。

 愛されなくなった女性の情念が封印された猿沢池です。あの浴衣姿の女性の写真は、どんな雑誌(まさかホラー?)に、どのような形で載るのでしょうか。写す男も写される女も、そんなことが語られてきた場所だとは与り知らないことでしょうが。

 対岸のベンチに人が何組かいたので、そちらへ行ってみました。タクシーも、対岸に一時止まってから、走り去ります。そこへ行って納得しました。ライトを浴びた柳の列の上方に、五重塔の上の三層が視界に入るのです。

160526_5jyuunotou3


 対岸から見た時の塔を引き立てるために、この柳はライトアップされていたのです。柳のそばを通っただけでは、その光の演出がまったく意味をなさないのです。大発見です。

 古代の人々が、こうした光による演出を楽しんだとは思われません。電気がなかったのですから。しかし、篝火や松明などで照らし出される社寺のシルエットは、当時の人々も美しく感じていたことでしょう。

 いかにも夏らしい、古都の再発見となりました。

********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 


2016年5月23日 (月)

古都散策(56)【復元】古都散策(14)かぐや姫ホールと竹取公園/竹取その3

 奈良にある『竹取物語』に関連した場所に案内する、第3回目です。
 これで一先ず終わりとなります。
 復元した拙文とそこに添えた写真は、ちょうど10年前のものです。
 今はどのような景観になっているのでしょうか。
 変わらないものと変わるものを見つめることも楽しいことです。
 そんな視点で採訪して、今後とも記録し続けていきたいと思います。

(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
2006年7月16日公開分
 
副題「古代を感じながら、みんなで楽しみ遊ぶ所」

 讃岐神社から東南東に一キロほど下ると、田んぼの真ん中に「かぐや姫ホール」が見えてきます。何となく場違いな雰囲気で建っています。町おこしとして見ましょう。
 ホール正面の感じは、なかなかいいものでした。しかし、この施設と周りとの違和感は、どうもいただけません。


160523_taketori1


 古代の香りを、無理やり現代の感覚で蘇らせようとしているのです。こうした施設のデザインは、歴史や景観との調和を考えなければならないので、難しいものだと、改めて思いました。
 ここ数年は、IT(インフォメーション・テクノロジー)ということばが氾濫した時代でした。それが、これからはCT(カルチャー・テクノロジー)の時代だと言われています。
 文化をみんなでどのように共有して継承・発展させるか。こうした箱物を見ながら、考えてしまいました。このままではもったいない、と。

 このホールは400人ほどが収容でき、利用料金も公共施設なので比較的安いと思いました。古典文学に関するシンポジウムや講演会に最適です。いつか、〈NPO法人〉のイベントを、ここでやってみましょう。

 もと来た道を引き返し、讃岐神社の北側に広がる、竹取公園へ脚を向けましょう。

 入口に建つ大きな竹の切り口には、かぐや姫が描かれています。


160523_taketori2


 すでに紹介した、回転寿司屋の横に建つランドマーク「かぐや姫」と同じく、里中満智子さんの絵です。

 ここからブラブラと遊歩道を行くと、里中さんの絵をプレートに印刷したものが左右に見られます。


160523_taketori3


 この絵は、これまた過日紹介した広陵町発行の絵本の絵と同じものです。入口に売店があるので、そこでこの絵本を配ったら、もっとこの絵の意味が訪れた人に伝わることでしょう。普通の人は、文章を細かくは読まないのですから、何だろうな、位にしか思わずに通り過ぎます。私も、最初はそうでした。見せる工夫と仕掛けが必要です。

 この広大な公園は、子どもたちの遊び場でもあります。
 遊具のエリアを抜けると、古代の家屋を復元したものが点在しています。
 眼を上げると、遥かに二上山や金剛葛城の山々が望まれます。
 自然と古代が融合した一帯となっています。


160523_taketori4


 我が家の子どもたちを連れて遊び回っていた頃には、まだこの公園はありませんでした。これは、いい公園です。
 小さな池には、龍が頭と尻尾を覗かせています。背後には、入口にあった大きな竹の切り口のモニュメントが見えます。


160523_taketori5


 なお、毎年中秋の名月の日に、この公園の芝生広場で月を眺めながら、かぐや姫をしのんでの「かぐや姫まつり」が開催されているそうです。機会を見つけて、ぜひ参加したいと思っています。

 この竹取公園は、すぐ北が馬見丘陵公園です。古墳もたくさん点在する地域です。子どもたちや、文学・歴史愛好家にとっては、かっこうの散策エリアです。

 整備が終わったばかりのようで、今はまだ認知度が低いと思います。しかし、ここはすばらしい場所として意義を持つことでしょう。これまた、行政の腕の見せ所です。楽しい仕掛けを、みんなで考えてほしいと思いました。
 
********************** 以上、復元掲載 **********************? 
 
 

2016年5月20日 (金)

古都散策(55)【復元】古都散策(13)竹取物語の舞台/竹取その2

 昨日の続きです。
 『群書類従』所収の「竹と里能翁物語」では、巻頭部分の文章に「名をはさぬきの宮津ことなむ/ぬ=るイ」とあります。このことから、「名をば讃岐の造となむ」と理解されています。異文として「さるき」が傍記されているということも注目すべきです。

 ここに関して、諸本を見ると、これは『群書類従』の独自異文のようなのです。
 参考までに、『竹取物語本文集成』(王朝物語史研究会編、勉誠出版、2008年)に掲載されている15本を見ると、次のようになっています。略号で示した諸本名は、今は省略します。


さぬき(「ぬ」に「るイ」と傍記)—群

さるき—活・新・山・乙・尊・内・正・紹

さかき—武・國・甲・高・蓬

さかき(「か」をミセケチにして「る」と傍記)—霊

 流布本の注などを見比べると、いろいろな説があることがわかります。
 『群書類従』の巻末に記された底本に関する記事は今は省略するとして、塙保己一がよしとした本の本文が独自な異文となっていることから、この本の素性をさらに知りたくなります。
 ただし、すべては後日、としておきます。
 
(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
2006年7月16日公開分
 
副題「讃岐神社と三十六歌仙絵」
 
 子供たちのためのお話「かぐや姫」では、その主人公はかぐや姫です。しかし、『竹取物語』というネーミングを見ると、「かぐや姫の物語」ではなくて、「竹取の翁の物語」というところに主眼があることがわかります。

 また、『竹取物語』の舞台が古都奈良だということは、かぐや姫に求婚する5人の貴公子たちが、持統天皇の末期から文武天皇の初期にかけての実在の人物が想定されていることからも言えます。飛鳥にある大内陵は、文武天皇と持統天皇を合葬しています。竹取の翁が竹を取っていたのは、京都ではなくて奈良の竹薮なのです。

 さて、その竹取の翁、もう少し正確にいうと讃岐造麻呂(さぬきのみやつこまろ)が、竹を取りながら生活していたのは、奈良のどこでしょうか。それは、現在の北葛城郡広陵町ということになります。そして、その広陵町に、讃岐神社があります。


160520_sanuki1


 上の写真は、神社の真横から参拝するところにある標識で、ここはバス停から数歩のところです。
 正面の参道にある案内板は、すでに傷みだしています。


160520_sanuki2


 早く手を打たないと、寂しさを感じさせる場所になってしまいます。ここは、行政のがんばりどころです。竹取の翁に熱中していた、一町長の思いつきの観光スポットに終わらせてはいけません。
 この讃岐神社は、平安時代初期にできた『延喜式』の「神名帳」にも見える、由緒ある神社です。ひっそりと鎮座しているので、知らないと見過ごします。


160520_sanuki3


『竹取物語』というキーワードで、この地域の点を線につなげると、訪れる人の脚を引きつけるはずです。着眼点はよかったのです。しかし、その関連付けがイマイチだと思います。

 この讃岐神社の拝殿には、三十六歌仙の額が掲げられていました。


160520_sanuki4


 参道にあった説明板には、「三十六歌仙扁額六面(別保管)は、元禄十六年九月(1688)海北友賢筆の貼絵を付した貴重な歌仙絵である。」と書かれています。いつか、それを見たいと思います。

 ついでに、現在私が彩色復元中の「架蔵『探幽筆 三拾六哥仙』」もご笑覧を。

 さて、讃岐神社の裏は、もちろん竹林です。
 そして、道を隔てたすぐ横には、「カーウォッシュ竹取」という車を洗う所があります。『竹取物語』とは何の関係もありませんが……。
 いやいや、かぐや姫が月の世界へ帰る時に、その乗り物を洗った所、ということにしておきましょう。


160520_sanuki5


 それでは、次回は「かぐや姫ホール」と「竹取公園」をご案内することにします。
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 

2016年5月19日 (木)

古都散策(54)【復元】古都散策(12)かぐや姫の町/竹取その1

 明後日、埼玉県本庄市で『群書類従』の話をします。その時、『竹取物語』のことを例に出す関係で、過去に書いた記事でクラッシュしたままのものを、この時点で3回に分けて復元しておきます。
 あくまでも、今から10年前の旅の記です。
 写真の場所が今はどうなっているのか、気になるところです。
 いつか再訪したいと思っています。
 
(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
2006年7月10日公開分
 
副題「『竹取物語』の舞台としての広陵町」
 
 「かぐや姫」のお話は、みんなが知っている物語です。
 『源氏物語』の第15巻「蓬生」に、「かぐや姫の物語」が絵になっていたことが語られています。また第17巻「絵合」では、「物語の出で来はじめの親なる竹取の翁」として物語絵が紹介されます。さらに第53巻「手習」では、「かぐや姫を見つけたりけむ竹取の翁」と書かれています。すでに平安時代に、『竹取物語』は最古の物語として認識されていたのです。それが「かぐや姫の物語」だったのか「竹取の翁の物語」と命名されていたのかは不明ですが。

 有名な『竹取物語』の書き出しを記しておきます。

今は昔、竹取の翁といふ者ありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろづの事につかひけり。名をば、讃岐の造となむいひける。(親しくご指導いただいている室伏信助先生の訳注『新版竹取物語』角川ソフィア文庫より)

 ここに記した「讃岐の造」ということばは、「さかきの造」とか「さるきの造」などで覚えた方もいらっしゃるかと思います。いわゆる異文が伝わっていて、難しく言えばいろんな問題があります。しかし、ここは「さぬき」がいいと思われます。この後で「御室戸斎部の秋田」ということばがあるからです。そのことから考えると、大和国広瀬郡さぬき郷で竹を採ることを生業としていた氏族「讃岐氏」が注目されます。

 話がかた苦しくなりそうなので、なにはともあれ、そんなことから、ようやく広陵町の出番です。

 竹取の翁が住んでいたのは、何と奈良県北葛城郡広陵町だというのです。私が住む町の近くなのです。そこで、早速現地へ行ってみました。
 場所は以前から知っていました。三輪神社や長谷寺そして飛鳥へ行く途中に、異様にド派手なランドマークが道端から見え、ずっと気になっていたからです。気恥ずかしくて、わざわざ立ち寄ることを避けていたというのが正直なところです。しかし、古都を見つめ直すという使命感を盾に、思い切ってそばに立ってみました。


160519_taketori1


 近寄るとと、こんなふうに見えます。何とそれは、回転寿司屋の広告塔と見紛うばかりです。


160519_taketori2


 隣接する「サン・ワーク広陵」という町役場の出張所のような施設の職員の方に、このモニュメントの由来を尋ねました。前町長が町おこしの一環として、里中満智子さんに依頼してデザインをして建てたものだそうです。しかし、先般の役場の火事で、詳細な資料もないのでは、とのことでした。そして、かぐや姫に関する2種類の冊子と地域の案内図をもらいました。里中さんの絵が目を引きます。


160519_taketori3


160519_taketori4


 里中さんの作品には『長屋王残照記』があります。しかし、これは我が町〈へぐり〉の陵墓を紹介する時のためにに残しておきましょう。

 この度肝を抜くかぐや姫の敷地を出たところで、道路標識が目に留まりました。


160519_taketori5


 次回は、『竹取物語』の舞台である讃岐神社について書きましょう。
 
********************** 以上、復元掲載 **********************

 
 
 

2016年4月29日 (金)

古都散策(53)大和平群でお茶のお稽古

 今日はゴールデンウィークの初日。
 早朝の東京駅は、とにかくすごい人出です。
 いつもに増して、京葉線からの乗り換えで駅の構内を歩くのが大変でした。

 新幹線も大混雑です。デッキにいた方の多くが、通路にも入り込んで立っておられます。
 いつどのようにでもなる自由席を利用する私は、長蛇の列であっても座れる確率の高いスポットを知っています。
 並ぶ列の見極めが得意なので、今朝もうまくその絶妙のレーンに並んで座れました。
 そのコツは、またいつか書きましょう。

 京都駅からは、いつものように市バスで北上するのではなく、南下して大和西大寺駅から生駒駅経由で大和平群へ行きます。
 時間の都合で、橿原神宮前行きの近鉄特急に乗り込みました。

 生駒駅から王寺駅に向かう生駒線の萩の台駅で、生駒山に聳え立つテレビ塔がきれいに見えました。
 信貴生駒連峰の山並みが、みごとな新緑のグラデーションを見せています。
 この生駒山の向こうが大阪です。


160429_haginodai


 元山上口駅に降り立つと、いつもと変わらぬ新緑が出迎えてくれます。


160429_eki


 単線の遮断機を渡ってすぐの竜田川も、新緑の中を静かに岩間を縫うようにして流れています。


160429_tatutagawa


 お茶の先生のお宅は、この竜田川から10分ほど山を登ったところにあります。

 今日も、丸卓を使った入子点のお稽古をお願いしました。
 ピンポイントのお稽古をお願いしています。
 杉の木地の曲げ物の建水に、茶巾、茶筅、茶杓を仕組んだ茶碗を入れて持ち出すことから始まります。

 なかなかお稽古に行けないので、忘れないようにと、自分でたまに家で練習をしています。
 それがしだいに自分勝手な思い込みでやっていることもあり、全体の流れはわかっていても、細かな所作などで雑なところや、勘違いをしているところが多くなっています。
 そうした点を、いろいろと指摘していただきました。

 身体で覚えるためにも、お稽古を見ていただく回数が、私にとって一番の問題です。
 何かと課題を抱えながらも、とにかく今は機会を捕まえて、この平群の地に足を運ぶことを心がけるようにしています。
 
 
 

2016年4月28日 (木)

古都散策(52)【復元】初夏の散策(11)山背大兄王の墓所

 10年前、大和平群に住んでいた頃に書いた、初夏の旅の記を再現しました。
 この法隆寺の裏手に、しばらく行っていません。
 今はどのようになっているのでしょうか。

(※本記事は、平成19年(2007年)3月に消失したブログの復元です。)

********************** 以下、復元掲載 **********************

2006年7月8日公開分

副題「法輪寺の開放的な雰囲気は取り戻せないのか」

 もう夏。初夏ではなくなりました。
 法起寺から法輪寺を散策した、前回の続きです。

 法起寺から法輪寺へは、ガードレール沿いに一直線です。狭い道を歩き出してしばらくすると、ちょっとした空き地があります。休憩所かなと思いきや、これが「山背大兄王の墓所」を眺めやる場所だったのです。

 法輪寺の一角が見え出す所なので、前ばかり見て歩いていると、つい通り過ぎてしまいます。草が生い茂っていたためでもあります。実は、私も行き過ぎてから、何か変な空き地だなと思って引き返して気付きました。

160417_yamasiro_1


 写真でもわかるように、奥にあるガイド図のプレートは草に覆われていて、通りがかりの者には何だかわかりません。また、道沿いにある説明文を記した案内は、歩いている位置からは、それが道の左側にある陵墓の説明を記したものだとは気付きません。
 説明文は、目の前の陵墓を眺めながら読むようになっています。

160417_yamasiro_2


 ここには、以下のような文章が記されています。

(伝)山背大兄王の墓所
   (富郷陵墓参考地)

 地元で岡の原と呼ばれているこの丘陵は、聖徳太子の皇子・山背大兄王の墓所と伝えられ、現在、宮内庁の富郷陵墓参考地となっています。
 山背大兄王は、法輪寺・法起寺を建てられたとされ、太子の後継者として皇位継承をめぐって田村皇子(のちの舒明天皇)と争われたといいます。
 皇極2年(643)11月に斑鳩宮が蘇我入鹿の軍勢に攻められ、太子一族は滅びました。大化の改新の2年前の出来事でした。

 陵墓の手前では、畑仕事をする2人がのんびりと草取りをしておられました。花もたくさん育てておられます。少し場違いな配色でしたが、きれいにしようという気持ちが感じられました。
 この場所は、もっと行政が手を差し伸べる必要があるように思われました。

 山背大兄王に想いを馳せながら、実際には歴史的にどんな位置にいた人だったのか、必死に思い出そうとしては思い出せないままに歩き始めると、すぐに法輪寺の塔が見え出します。

160417_yamasiro_3


 この法輪寺には、かつて何度も子供を連れて来ては、中の三重塔の周りで遊ばせたものでした。
 しかし、この日は、入口に拝観料を徴収するところが出来ていました。以前は、本堂を拝観する時にだけ受付をするようになっていたのですが……。

 門前払いをされたような、少し縁遠いお寺に変わってしまったように感じました。浄瑠璃寺は、今でも自由に境内を巡ることができるのですが……。

 山門で入山料や拝観料を払ってお参りし、拝見するのが当たり前のご時世でであることは、重々承知しています。私の知っている法輪寺のこれまでがそうではなかったので、何となく冷たくなったような、世俗的な人間臭さを感じさせるお寺になったように思われたのです。
 理屈ではなくて、変化が違和感を生んだのです。

 これまでの解放感からは閉め出された後の、説明に窮する無念さを引き摺りながら、スッキリしないままに帰路につきました。

【付記】
 「山背大兄王」について、『岩波日本史辞典』を見たところ、以下のように記されていました。
 末尾に「墓は平群郡北岡墓」とあるのは、ここのことを言っているのでしょう。
 かつての平群は、広大な地域だったようですから。

山背大兄王【やましろのおおえのおう】
?‐643(皇極2.11) 聖徳太子(厩戸皇子)の子。母は蘇我馬子の女刀自古郎女(とじこのいらつめ)。山代大兄王・山尻王・上宮王などともつくる。異母妹の舂米(つきしね)女王(上宮大娘姫王)を妻とした。岡本宮(後の法起寺)で成長し,父の死後は斑鳩宮に移った。628(推古36)推古天皇の死後,田村皇子と次期大王位を争ったが敗れ,田村皇子が即位(舒明天皇)。643(皇極2)蘇我入鹿は舒明の子古人大兄を立てようと謀り,山背大兄王らを斑鳩に襲い,自殺させた。墓は平群郡北岡墓。

********************** 以上、復元掲載 ********************** 
 
 
 

2016年4月27日 (水)

古都散策(51)【復元】初夏の散策(10)法起寺

 10年前、大和平群に住んでいた頃に書いた、初夏の旅の記を再現しました。

 「法起寺」をどう読むのか、また参拝者にそれをどう伝えるのかは、観光地として今はどうなさっているのでしょうか。
 当時抱いた素朴な疑問を投げかけたまま、詳しく追跡をしていません。
 こうした例は、全国各地にあるはずです。
 インターネットで記事などを検索すると、それこそ詳しい説明があることでしょう。
 行政も、何か手を打っているのでしょう。
 そう思うことにして、今もそのままでいます。

(※本記事は、平成19年(2007年)3月に消失したブログの復元です。)

********************** 以下、復元掲載 **********************

2006年6月18日公開分

副題「寺の名前を何と読むか」

 初めて法起寺を拝観しました。
 これまでに、この寺の横は何度も通りました。しかし、お寺が小さいことと、外から国宝の三重塔がよく見えることから、わざわざ中に入ることがなかったのです。
 聖徳太子の創建にかかり、1993年12月に法隆寺とともにユネスコの世界文化遺産に日本で最初に登録されたお寺です。法隆寺があまりにも有名すぎて、通りかかっても視界に入るだけで、斑鳩の里のはずれにあるこの寺に脚を向けることがなかったのです。
 今回、初めて境内に入り、そのすばらしさと素朴なよさを満喫しました。

160417_hokkiji_1


 山門を潜る時に、素朴な疑問が湧きました。この寺の名前は、何とよむのだろうかと。
 私は法起寺を「ほっきじ」と呼んでいました。しかし、山門前には「ほうきじ」という読み仮名が見え、拝観受付でもらったリーフレットにも「ほうきじ(HOKI-JI)」と書いてあります。

 受付の男性に聞いたところ、昔は「ほっきじ」とも言っていたらしいが、今は「ほうきじ」と言っているようだ、とのことでした。自信なさそうに、よくわかりませんが、とも。
 受付には2人おられました。2人ともシルバーセンターからの派遣のような方で、お寺の関係者には見えませんでした。決められた時間に拝観手続を代行するだけ、といった対応でした。

 まさに『伊勢物語』の築地の崩れの中かと思わせる傾きかけた庫裡を見ながら、収蔵庫に安置されている重要文化財の十一面観音を拝みました。観音像は大好きです。しかし、この仏様にはあまり親しみを感じませんでした。顔が日本的ではなかったからだと思います。

 そしてその右後ろに、三重塔がまさに絵の中に建っているかのように見えます。ただ、きれいの一言です。

160417_hokkiji_2


 江戸時代の初めには、この塔だけが建っていたという荒廃ぶりが、今の境内からも少しは想像できます。
 近くの石の台の上で、男性が一人寝そべっておられました。のんびりとした時間が流れています。
 ただし、塔の後ろの生け垣が整備されていないために、外界の工場などの建物が見えるのには失望しました。もう少し手入れをして、俗界は見えないようにしたほうがいいと思います。
 境内も、もっと手を入れればいいのに、と思いました。駐車場も一応用意されており、敷地と場所はあるのですから、門を開けるなど、なんとか工夫すべきでしょう。歩いて15分ほどもある法輪寺の駐車場を使ってくれ、というのは酷いと思います。

 お寺の出口に近いところで、風雪に耐えた板の説明標識がありました。木の部分は傷んでいました。しかし、墨は盛り上がって残っており、その説明の中の英文の2ヶ所に「HOKKI-JI」と「Hokkiji」という文字が読めました。


160417_hokkiji_3


 かつては、「ほっきじ」と言っていたのです。しかし、この文字の最初の「K」が共に潰されていました。心無いいたずらなのでしょう。
 とにかく、寺の名前の来歴は、パンフレットでもはっきりと書くべきだと思いました。『正倉院文書』や『日本霊異記』などに名前の見える古い寺なのですから。

 ぶらぶらと法輪寺の方に向かって歩き出したところ、道端の標識は「ほっきじ(Hokkiji)」でした。ややこしいことです。地元の方々は、何と言っているのでしょうか。そして、すぐそばのバス停の読みがなは、またバスでの案内は、などなど。
 いつか確認してみましょう。

 なお、法隆寺が昭和25年に聖徳宗を開宗してから、この法起寺も聖徳宗となったのだそうです。
 日本の1万円札などに聖徳太子や夢殿が印刷されていた頃と違い、今ではこの斑鳩の知名度もかつてほどではないように思います。観光客がたくさん来るのがいいというのではなくて、正しく伝える努力を、法隆寺の周辺の社寺もすべきだと思います。法隆寺の絶大な力に負けないでほしいと思いました。

********************** 以上、復元掲載 ********************** 
 
 
 

2016年4月21日 (木)

古都散策(50)【復元】初夏の散策(7)若草山

 10年前、大和平群に住んでいた頃に書いた、初夏の旅の記を再現しました。
 家族だけでなく、多くのお客人をここに案内し、大和の地を眺め、我が家があった信貴生駒の峰々と平群の地を目で追ったものです。

(※本記事は、平成19年(2007年)3月に消失したブログの復元です。)

********************** 以下、復元掲載 **********************

2006年5月8日公開分

副題「『枕草子』の鴬塚はここか?」

 奈良市街を一望のもとに見渡す所といえば、何はさておき若草山です。三笠山の続きにあり、東大寺裏の正倉院横から奥山ドライブウェーですぐに行けます。
 私は、海外からいらっしゃった方を奈良にお連れした時には、まずここに案内します。藤原京から平城京へ、そして長岡京を経て平安京へと、都が北上して行くさまが実感できる位置だからです。
 眼下に東大寺の大仏殿が見えます。
 ここから左上手の方には、我が家のある生駒山地から二上山の山並みも見えます。


160417_uguisu_1


 この若草山の山頂には、鴬塚古墳があります。
 ここは、清少納言が『枕草子』に、「陵は、うくるすの陵。柏木の陵。雨の陵。」(三巻本、第15段)と言った所だと言われています。ただし、いろいろな説があり、確定したものではありません。

 『枕草子』の本文に「うくるす」とあるのは、他の写本では「うくひす」とあり、これによって『大和志』は若草山がそうだとしています。それとは異なる考え方もあり、大阪の百舌にある仁徳天皇陵を充てる『春曙抄』や、藤原氏歴代陵墓のある宇治木幡を充てる『環解』などがあります。

 若草山に上ると、説明板にはここがそうだと記しています。


160417_uguisu_2


 山頂部の石碑の裏には、清少納言の言う鴬塚はここであると刻した文字が、かすかに判読できます。


160417_uguisu_3


 さて、清少納言がいう「うくるす」の陵は、いったいどこでしょうか。
 清少納言は、旅衣でこの若草山を上ったかもしれません。
 麓から歩くと、1時間はかかります。春の若草山の山焼きの後の新緑の頃に、鹿たちと一緒に上ったと、私は想像しています。平安の都から見れば、この平城の都は、まさに古里なのですから、清少納言の興味を惹き付けたはずです。

 『伊勢物語』の初段には、「昔、男、うゐかうぶりして、平城の京、春日の里にしるよしして、狩に往にけり。」とあります。若草の小高い山から見下ろすと、清少納言が好みそうなアングルで古里が一望できるのです。京都の清水寺から見る平安の都よりも、もっと雄大な景色が臨めるのですから。

 若草山の裏には、世界遺産に指定されている春日の原始林が広がっています。「天の原ふりさけみれば春日なる……」と歌われたこの地は、奈良時代から平安時代へと移り変わる雰囲気を、今でも見せてくれます。

********************** 以上、復元掲載 ********************** 
 
 
 

2016年4月19日 (火)

古都散策(49)【復元】初夏の散策(6)赤目四十八滝

 10年前、大和平群に住んでいた頃に書いた、初夏の旅の記を再現しました。

 この赤目四十八滝へは、小学生の頃、家族と一緒にお弁当を持って行った記憶があります。
 滝が流れ落ちる岩場を背景にして写した写真があったように思います。
 ただし、私は20歳の時に火事に遭ったため、それまでの写真のすべてを無くしています。
 この滝のことも、記憶の中にしかありません。
 それでも、両親か姉のアルバムにあるかもしれないので、機会があれば探してみましょう。

(※本記事は、平成19年(2007年)3月に消失したブログの復元です。)

********************** 以下、復元掲載 **********************

2006年5月7日公開分

副題「フラリのんびりブラブラと森林浴を楽しむ」

 小さい頃に赤目四十八滝へ行った記憶があります。40年以上も前のことです。突然ですが、滝の前に身を置こうと思い立ちました。

 奈良と三重とのちょうど県境で三重県側にある赤目四十八滝は、日本の滝百選などで有名です。その割には、なかなか行く機会がありませんでした。新緑の中を、気ままに森林浴をしてきました。

160415__1akame


 赤目は『赤目四十八瀧心中未遂』(車谷長吉)でも知られています。平成10年度上半期直木賞受賞作です。
 映画化もされ、荒戸源次郎監督・寺島しのぶ主演でした。平成15年の毎日映画コンクールで日本映画大賞とブルーリボン賞作品賞も授賞しています。
 赤目の近くの名張市は、江戸川乱歩の生誕地でもあります。

 それはさておき。

 渓流を、水音のささやきを聞きながら、上流へと進みます。青森県の奥入瀬渓谷を散策した時よりも、広さと明るさを感じました。岩がゴロゴロしているところは、奥入瀬とまったく違います。
 全行程を踏破すると、片道2時間の滝トレッキングだそうです。気分転換に来ただけだったので、渓流の3分の1にあたる七色岩で引き返しました。
 朝が早かったので、人出は少なかったようです。引き返す頃には、少しずつすれ違う人も多くなりました。
 今回見た中では、布曳滝が1番でした。30メートルの高さから水が落ちてきます。滝口の水の色も、深い碧でした。

160415__2akame


 こんなに透き通る水の流れを見るのは、ほんとうに久しぶりです。

 ちょうど子供の日だったこともあり、滝の周りではさまざまなイベントがありました。その1つが、伊賀流忍者の衣装を着せてもらい、本物の忍者と記念撮影、というのがありました。

160415__3akame


 「くの一」もチラホラ。
 女の子は、カラフルな衣装を着けていました。

 マイナスイオンが体にいいと言います。理屈はともかく、爽やかな散策でした。
 お昼ご飯の前に、伊賀の隠れ宿とあった旅館に入り、露天風呂に入りました。太陽を浴びながら、緑の風を感じて入る温泉は、気分をほぐしてくれます。赤目温泉の隠れ湯「半蔵の湯」だそうです。

 フラリと行って、ブラブラ散策し、のんびりつかるというのも、これまた一興の一日でした。

********************** 以上、復元掲載 ********************** 
 
 
 

2016年4月18日 (月)

古都散策(48)【復元】初夏の散策(4)生駒の足湯

 10年前、大和平群に住んでいた頃に書いた、初夏の旅の記を再現しました。
 今もここに足湯があるのでしょうか。
 車に乗らなくなったので、行く機会がないままです。
 今度、平群へお茶のお稽古に行った帰りにでも、フラリと立ち寄ってみようかと思っています。

(※本記事は、平成19年(2007年)3月に消失したブログの復元です。)

********************** 以下、復元掲載 **********************

2006年5月5日公開分

副題「生駒の山並みを眺めながら温泉気分」

 我が家の近くに最近、健康施設としての「足湯」がオーブンしました。
 その名も「歓喜の湯 足湯」。
 何の変哲もない施設です。
 しかし、これが気分をほぐしてくれます。


160415_asiyu


 ここは、誰でもが自由に利用できます。
 以前は、地下から掘り起こした温泉を、ガソリンスタンドのようなホース付きのボックスから、百円で灯油缶1杯が持ち帰れました。何度か私も貰ったものです。
 その横に、こんな粋な施設が出来たのです。なかなかいいアイデアです。

 最近フラリと、10分ほど脚を浸けるために行きます。体がホカホカして、何とも心地よくなります。温泉好きの私には、こんなに簡単にその効能が得られるので、大歓迎です。何よりも、無料というのがいいですね。

 写真の左上には、生駒山のテレビ塔が見えます。
 信貴生駒連山を眺めながら、足湯を楽しめるのです。

 城の崎温泉の駅の側に、近年できた外湯の入口近くに足湯があります。
 全国には、こうした足湯がたくさんあることでしょう。
 また、楽しみが増えました。

********************** 以上、復元掲載 ********************** 
 
 
 

2016年4月15日 (金)

古都散策(47)【復元】初夏の散策(5)岩船寺

 10年前、大和平群に住んでいた頃に書いた、初夏の旅の記を再現しました。
 昨日の「古都散策(46)【復元】初夏の散策(3)浄瑠璃寺」に続く内容です。

(※本記事は、平成19年(2007年)3月に消失したブログの復元です。)

********************** 以下、復元掲載 **********************

2006年5月6日公開分

副題「日本的な美は褪色と極彩色にある」

 岩船寺に入ってすぐ目に飛び込むのは、色鮮やかな三重塔です。
 最近の再建かと思いました。しかし、これは室町時代のものを平成15年に大修理したものでした。

160415_iwafunedera1


 素人の私がデジタルカメラで撮影しても、このように絵はがきのような写真になります。カメラを持って、下から上からと、周りをグルッと回れるので、さまざまな角度から撮影できるのです。

 塔内には壁画が描かれています。特別拝観が可能だったので、すぐ傍で見ました。

160415_iwafunedera2


 みごとに、十六羅漢や帝釈天などが修復再現されていました。

 三重塔の柱や壁の木材は相当古いもののようで、その風雪に耐えてきたことが見て取れました。しかし、この三重塔の復元は、その木に色鮮やかな朱をこれでもかと重ねて塗ることによって、創建当時の雰囲気を伝えようとしています。船の塗装を連想しました。剥げたところをペンキで塗り重ねた船体をです。
 内陣の柱などを見ると、壁画も相当傷んでいたことが窺われます。それが、今しがた描かれたばかりかと見紛うばかりの、明るい彩色で再現されています。仏教の明るさを見た思いがしました。

 文化遺産を次世代に伝えるために、補修や修復をします。それは、伝わってきたものの状態をそのまま維持するために、最小の手を入れる場合もあります。しかし、多くは、色褪せたものを色鮮やかだった原初の姿に戻すこととなります。

 そこで、近現代の日本人は違和感を覚えます。近代教育の成果として、日本の伝統的な美は、擦れた、色褪せた、わび・さびを感じさせるものである、という刷り込みがなされたと、私は思っています。私も、キンキラキンのお寺や仏像などは、日本的な文化を感じさせないものだと思ってきました。しかし、長い時間を経過して現在に伝わってきたものは、最初からそのようにくすんでいたのではないのです。最初は、新品のころは、目も覚めるような色遣いのものだったはずです。その色の衝撃が、権力者や民衆に対して、神社仏閣の意義や効能を発揮してきたと思います。
 極端かもしれませんが、今に残る色褪せたものは、仮死状態になった文化とも言えます。

 インドへ行ってまず驚くのは、寺院がキンキラで眩いばかりの色で訴えてくることです。電飾は当たり前。やたらと、ピカピカ、チカチカと視覚に訴えてきます。古いものは壊して、すぐに新しくします。色褪せさせることには、ほとんど価値を見いださないのです。
 インドでは、基本的には今を問題にしているようです。

 日本とは対照的なインドの宗教施設のありようなどを見て、振り返って身近な古都奈良を散策すると、本当に古色蒼然とでもいうべき、色褪せたものに価値を見いだしていることに、今更のように驚かされます。

 浄瑠璃寺の極彩色が残る吉祥天女像や、岩船寺の三重塔の朱色を見て、かつては鮮やかな色遣いでいけないと思っていた気持ちが、最近はそれを受け入れて、作られた当時の姿のままを想像する楽しみを会得したように思います。

 国宝の源氏物語絵巻が、科学的な手法を駆使して、その再現が実現しました(『よみがえる源氏物語絵巻—全巻復元に挑む』2006年2月、NHK名古屋「よみがえる源氏物語絵巻」取材班、日本放送出版協会)。復元された源氏物語絵巻は、色鮮やかなものです。鎌倉時代の人々が望んだ色が、そうした明度や彩度の高いものだったのです。鉱物や植物を使った色合いなので、それをぼかすのもまたみごとな色の変化となっていました。
 徳川美術館の以下のウエブサイトで、その一部が見られます。
http://www.hcn.zaq.ne.jp/internet-gallery/frame6-mokuji.htm

 ぼんやりと霞んだものの善さもあります。
 はっきりと見える善さもあります。
 明るさが与えてくれる元気を、少しずつ体得できるようになりたいと思っています。

********************** 以上、復元掲載 ********************** 
 
 
 

2016年4月14日 (木)

古都散策(46)【復元】初夏の散策(3)浄瑠璃寺

 10年前、大和平群に住んでいた頃の記事を再現しました。
 ちょうど、今の季節の話題です。
 「あ志び乃店」のホームページは今も健在です。
 再掲した画像は当時のもの、リンク先は今のものです。

 ドラエモンは今でも出迎えてくれているのでしょうか。

(※本記事は、平成19年(2007年)3月に消失したブログの復元です。)

********************** 以下、復元掲載 **********************

2006年5月5日公開分

副題「門前の茶店で気持ちも和む当尾の里」

 浄瑠璃寺は、我が家から1時間強の所にあります。ただし、そこは京都の南端。当尾(とーのお)の里と言われる、石仏群で知られる村です。

 秋桜子は「馬酔木より低き門なり浄瑠璃寺」と詠んでいます。
 堀辰雄の「浄瑠璃寺の春」(『大和路・信濃路』所収)も記憶に残っています。掘は折口信夫の影響を受けて、日本の古代に興味を持ち、大和奈良にも脚を運んでいるのです。私が中学から高校までを過ごした、河内・高安の里にも。これは、『伊勢物語』の関係で訪れたのでしょう。堀は、軽井沢との関係だけではないのです。

 浄瑠璃寺へ行く際は、ぜひその門前にある「あ志び乃店」のホームページを見ておくべきです。

160414_asibino


 とにかく、当尾の里を愛してやまない気持ちが溢れる、心温まる情報が満載のホームページです。アクセスするだけで、もう現地へ行った気分にしてくれます。

 私が着いたのがちょうどお昼だったので、門前にある3軒の茶店のうち、この「あ志び乃店」に入りました。風流な門を潜り、植物が生い茂る庭を通ってお店に入ります。
 店内は、文章を書いた紙がたくさん貼られています。長文が、小さい文字でびっしりと書かれているので、目が不自由になってきた私は、途中で読むのを断念しました。味のある文字で書かれています。よほど字を書くのが好きな方なのでしょう。壁から天井まで、いろいろありました。
 お店の方も、心の籠ったもてなしをしてくださいます。昔造りの店です。雰囲気は明るいのです。私は、山菜定食を食べました。そして、タケノコの煮物も追加しました。

 ハイキングの集団が、庭で弁当を食べさせてもらえないか、と言って入ってこられました。こんな依頼にも、ごく普通に自由に使っていいですよ、と快諾。年配の方々が20人以上もおられたかと思います。みなさん、和気あいあいと持参の弁当を店の前の庭に広げて、庭の草花を見ながら、おしゃべりに興じながらのお食事が始まりました。
 何とも、大らかで長閑な茶店です。

 さて、浄瑠璃寺です。ここは、九体の阿弥陀仏のある寺として、我が国唯一のものです。通称は九体寺とも。新緑の中、阿弥陀さまのフルコースを味わってきました。
 また、特別名勝の浄土式庭園は、此岸に当たる国宝の三重塔と、彼岸である阿弥陀堂に挟まれています。本堂の阿弥陀堂には、吉祥天女もいます。
 ちょうど秘仏公開の日だったので拝むことができました。ここでは、平安朝の寺院の雰囲気が感じられました。

 このお寺には、山門の所に拝観受付がありません。国宝などの庭園や堂塔は自由に見られるのです。どこで拝観料を払うのだろうと、受付をさがしました。回遊式の庭園を1周し、本堂の中の阿弥陀仏を拝もうとした時に、ひっそりと佇む受付が見つかりました。そして、阿弥陀堂の入口では、何とドラえもんが出迎えてくれます。

160414_doraemon


 のんびりとした雰囲気の中で、何とも心を和ませてくれます。
 本堂の出口では、お守りなどを売っていたお兄さんが丁寧に会釈をしてくれます。少しだけお土産物などが置いてあるところでは、お坊さんが達筆で説明文を書いておられました。文章を考え考えしながら書いておられたのには感心しました。
 浄瑠璃寺は、時間が止まったかのようなお寺です。

 本来ならば、岩船寺へは歩いて30分の石仏の道を行くべきなのですが、車で来ているので残念ながら無精をしました。
 この岩船寺のことは次回に。

********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 

2016年4月10日 (日)

古都散策(45)【復元】初夏の散策(8)法隆寺西円堂の錐

 一昨日の「古都散策【復元】初夏の散策(1)当麻寺」に続き、大和めぐりの話題を復元しました。

(※本記事は、平成19年(2007年)3月に消失したブログの復元です。)


********************** 以下、復元掲載 **********************

2006年5月24日公開分

副題「我が家の子供たちの遊び場でした」

 久しぶりに法隆寺を散歩しました。自宅から車で15分の所なので、ご町内といった感じです。
 かつては、山門の真ん前に、今にも倒れそうな建物のお土産物屋さんがありました。聖徳太子のころからやっているのでは、と思わせるような店でした。

 中に食事をするところがあり、その座敷で、私は同僚たちと試験問題の打ち合わせなどをしました。そんなことをしても、何も言われなかったのです。

 その店も、県から強制退去を命ぜられ、その不当性を訴えるニュースが流れていました。
 今は写真のように立ち退き後の場所が整備され、ごらんのようにきれいになっています。

160408_1148399831_1


 ここにあった店の裏は、自由に車を止めるスペースにもなっていました。十数年前のことながら、今となっては懐しい一角です。

 法隆寺の山門を入って正面にいらっしゃる仁王さんの前が、かつては子供たちの遊び場でした。
 私は仁王さんを背にして石段に座り、子供たちはその前の東西の参道を走り回っていました。修学旅行の学生さんが多い日には、子どもにお菓子をくれる女子学生がいました。のどが渇くと、西端にある無料休憩所でお茶をいただきました。のどかな子守でした。お茶は、今でもいただけます。

 その休憩所から北に少し歩いて石段を登ると、西円堂があります。
 この建物は国宝で、内陣には薬師如来や十一面観音、赤不動などがいらっしゃいます。私は、ここの十一面観音が好きです。
 拝観料も不要で、いつでも見られます。五重の塔や金堂に行く人は多いのに、ここまで脚を延ばす人はあまりいません。もったいないことです。

 西円堂の横の小さな建物では、お守りに混じって「きり」と書かれたものが売られていました。コックリコックリと船を漕いでいたおじいさんが、私が「きり」と書かれた包みを手にすると、その気配を感じてか、やをら眼を覚まされました。
 お互いの視線があったので、この「きり」と書かれた包みは何かを聞きました。すると、いましがたまで心地よく居眠りをしていたおじいさんは、突然饒舌になり、詳しく説明をしてくださいました。

 このお堂の薬師如来は「峰の薬師」と言われているが、それがいつしか「耳の薬師」となまり、耳の遠い人が拝むようになったそうです。そして、耳がよく聞こえるようにというので、穴を開ける錐に音が通じるところから、このお堂に錐を奉納するようになったということです。
 確かに、内陣の左側の壁には、たくさんの錐が差してあります。

 説明を終えたおじいさんは、また夢の世界に入っていかれました。
 こうしておじいさんは、一日に一人か二人を相手に由来などを語っておられるのでしょう。気持ちよさそうにお休みでした。

********************** 以上、復元掲載 **********************


 
 
 

続きを読む »

2016年4月 8日 (金)

古都散策(44)【復元】初夏の散策(1)当麻寺

 大和平群で3人の子育てをしていた、昭和57年(1982)12月から平成19年(2007)5月までの25年間、子どもたちを連れて近畿一円を走り回っていました。
 利用していたプロバイダのウェブサーバーが、平成19年3月にクラッシュしたために、ブログとして書いていた多くの文章が読めなくなりました。そんな日々の記録の中から、可能な限り復元したものを再掲載しておきます。

(※本記事は、平成19年(2007年)3月に消失したブログの復元です。)

********************** 以下、復元掲載 **********************

2006年5月2日公開分

副題「中将姫ゆかりの地で新旧文化を見る」

 平群の里の我が書斎から、晴れた日には大津皇子が眠る二上山が望めます。倭建命が「たたみごも平群の山の……」と詠んだ我が町から眺める二上山は、信貴生駒連山の山々と葛城金剛山系の合流点に、ラクダのコブのように盛り上がっています。少し靄った春先には、大和絵の一幅のように見霽かすことができます。

 この連休には、我が家から車で1時間ほどで行ける所を散策することにしました。ここ数年は、海外へ行くことが多かったので、地元を再認識するためでもあります。

 まずは、この二上山に行きました。かつては「ふたかみやま」と言われていました。それが、今は「にじょうさん」として親しまれています。私が大学院の学生になった45歳の時に、大学の研究室主催の最初のハイキングが二上山でした。駅前で恩師と「よもぎ餅」を食べたことを、よく覚えています。

 當麻蹶速(たいまのけはや)塚のすぐ横の相撲館で周辺のイラストマップをもらい、それを片手に当麻寺へ脚を向けました。
 當麻蹶速は、『日本書紀』の垂仁天皇の代に、私の生まれ故郷である島根県出雲の野見宿禰と力比べをして亡くなりました。そして、自分の領地である當麻に、墓が築かれました。蹶速は、相撲の始祖として知られています。

 韓国では、相撲は韓国が発祥の地であって、日本はそれをマネしたものだというキャンペーンを、インターネット上で大々的に宣伝をしています。そう感情的にならず、もっと冷静に歴史と史料に基づく客観的な判断をしたいものです。剣道も柔道もお寿司も、みんな韓国が起源だと言い張るのもいいです。しかし、お茶でも飲みながら仲良く伝統と文化について語り合う中で、お隣同士の仲間意識を育てていきたいものです。

 さて、まずは仁王門を潜って、中将姫を手引きした「導き観音」のある中之坊へ行きました。
 素晴らしい庭園と、ボタンやシャクナゲの花々を堪能しました。
 霊宝館では「中将姫展」をやっていました。壁に架かっていた2幅の江戸時代の中将姫の絵図には、それがあまりにも俗っぽかったのでガッカリしました。
 片隅では、今年の2月に東京の岩波ホールで上映された、釈迢空(折口信夫)の小説『死者の書』を人形アニメとしたもののポスターなどが展示されていました。迢空が着想を得た山越阿弥陀図も、今回は見ることができました。学生時代には、折口信夫全集を熟読することを課せられた日々だったので、30年前の読書体験を想起しました。

 出口では、陀羅尼助を売っていました。これは、子どもがお腹を壊した時に、よく飲ませたものです。たしか、娘が英国へ勉強をしに行くにあたって、この陀羅尼助も持って行ったはずです。真っ黒な、何ということもない炭の塊です。しかし、これが不思議と効き目があるように思われます。

 本堂では、見上げるばかりの曼荼羅に圧倒されました。
 カナダのブリティッシュコロンビア大学の院生であるモニカさんが、昨春までの2年間、博士論文を仕上げるために日本に来ていました。私のところにも何度か顔を出し、いろいろな話を聞かせてくれました。
 中将姫の説話が彼女のテーマだったので、和歌山県にある中将姫ゆかりの地へ、車で案内したことがあります。当麻をはじめとする有名なところはみんな行ったということだったので、一人では行きにくいところにしたのです。確か得生寺で、中将姫の曼荼羅をじっくりと見せてもらったように思います。謡曲で有名な「雲雀山」へも行きました。中将姫は、継母に虐められてさまよった末に、当麻で尼になったのです。

 当麻寺本堂裏にある浄土庭園の中のボタン園は整備されたばかりのようで、今後の充実が期待されます。

1146506795_1


 庭園では、俳句吟行の年配方や高価そうなカメラを構える老若男女が、ボタンやシャクナゲ等を対象にして、心を研ぎ澄ましておられました。
 亡母と同い年くらいのおばあさんが、ものすごく立派なレンズを嵌め込んだカメラを手にしてボタンと向き合っておられる姿には、人間の素晴らしさを感じました。
 その最高度の精密機器と、それに立ち向かう意気込みと、そしておばあさんの姿が醸し出す雰囲気に、はた目から見てあまりにもギャップが感じられるからです。おばあさんは無心にレンズを回してシャッターを切り、軽々とカメラを片手に別の撮影場所を狙うその目つきの真剣なこと……。いい趣味を持っておられることが、我が事のようにうれしく思われました。

 ちょうどお昼になったので、境内にある宗胤院で、奈良ではお馴染の茶粥を食しました。2700円の一品しかありません。和食の粋を堪能しました。手技を凝らした配膳です。原則は予約が必要でしょうが、飛び込みでも食べられました。とにかく、ここはお勧めです。お腹には、ちょうど八分目の満腹感を与えてくれます。

 帰りに当麻寺駅に寄り、駅前で、かつて恩師と入ったお店で「よもぎ餅」をおみやげに買って帰りました。

 今回、何度目かの当麻を訪れてみて、お寺の雰囲気が少し猥雑になったように思いました。
 境内では、各所で拝観料を取られます。シルバー派遣センターの方々の境内での働きぶりは、歴史の厚みを興ざめにさせるものでした。
 また、参拝客の呼び込みは、ぜひともやめてほしいものです。入るやいなや「いらっしゃいませ」はないでしょう。庶民の寺らしく、観光客を意識しない対応が大切だと痛感しました。
 時流に乗らずに、歴史の当麻らしく、密やかな魅力を演出してほしいものです。

 京都とは違う、いにしえの奈良のよさを考えさせられました。
 連休の初日を、新旧さまざまな文化について考えることとなりました。

 自宅に帰ると、玄関脇のボタンが大きな花を咲かせていました。

1146506795_2


********************** 以上、復元掲載 **********************

 
 

2015年11月 4日 (水)

古都散策(43)平城京天平祭 -2015秋-

 今日のお茶のお稽古へは、あらかじめ上京のためのキャリーバッグを大和西大寺駅のコインロッカーに預けておいて行きました。
 大和西大寺駅は、大阪と京都から電車が入る駅なので、展望デッキでさまざまな電車の行き来を楽しめます。大阪から来る電車は正面から、京都からの電車は右から入ってきます。
 子どもたちは、飽きもせず、じっと見続けています。


151103_densya0


151103_densya1


151103_densya2


 大和西大寺駅前の臨時バスで平城宮跡に向かいました。
 バスは、復元された朱雀門の横に着きます。


151103_suzakumon


 先月末から今週末まで、ここで「平城京天平祭 -2015秋- 〜花と古のフェスティバル〜」が開催されているのです。
 大極殿前の広場には、三笠の山を背景にした遣唐使船の模型や龍の「ねのうわさ」、そして天平花絵巻では天平衣装を試着した人々が集っています。


151103_kentousan


151103_ryuu


151103_emaki


 今日は、「シルクロード平城京弦浪漫」という演奏会があります。
 朱雀門のさらに北にある第一次大極殿の特設ステージで、中国の弦楽器演奏家である伍芳(ウー・ファン)さんの、21絃琴の音が聞けるのです。


151103_koto1


151103_koto2


 途中で、二胡と琵琶の合奏もありました。


151103_koto3


 この音色は、京都には似合わない、奈良にふさわしい楽の音です。
 井上靖のシルクロード関連の多くの作品を思い出しながら、しばし聞き入りました。
 気持ちが、西へ西へと惹かれて行く音楽です。

 背景の建物や風景も、この音楽を支えていました。
 日常から切り離された、別次元の音に身体を委ねたのです。
 しかも、野外というのが、気分をおおらかにしてくれます。

 このまま奈良に宿を、とも思いました。しかし、なかなかそうはいかないので、近鉄特急で京都に出て、そこから新幹線で上京の途につきました。
 
 
 

2015年11月 3日 (火)

古都散策(42)平群の史蹟とお茶のお稽古

 奈良の平群駅周辺を散策しました。
 単線の生駒線も、この平群駅では車輌が交差するためにポイントで切り替えます。


151103_station1


 北の方角は、次の駅が元山上口駅で、その先に生駒山が見えます。


151103_station2


 息子がお世話になった「みんなの家 つくしんぼ」は、私が毎朝出勤前に預けに行った保育園です。町長のお嬢さんが運営しておられました。
 子どもが、優しくて温かい先生に育てていただいたことを、今も感謝しています。


151103_tukusinbo1


151103_tukusinbo2


 そのすぐ北は、園児たちが遊んだ長屋王のお墓の御陵園。


151103_nagaya1


151103_nagaya2


151103_nagaya3


 その横に吉備内親王のお墓。


151103_kibi


 平群は、日本武尊が「たたみごも平群の山は〜」と歌った地です。


151103_sigisan


 『信貴山縁起絵巻』で有名な信貴山は、まだ紅葉はしていません。

 子どもたちは、こんな環境の中で育ちました。
 古代の物語に包まれた小さな町で大きくなったのです。

 20年間、子育てをしたこの平群に、私が時間の都合がつく時に、お茶のお稽古に来ているのです。山道や畦道を歩きながら、不思議な縁を実感するところです。

 今日のお稽古は、一昨日の続きです。
 昨日は、妻を相手に家でおさらいをしました。しかし、総荘りにした棗と茶碗を下ろした後に蓋置を持って、はたと動きが止まりました。円卓にまっすぐ向かっていた身体を、ここで炉縁に向かうかどうか、思い出せずに思案の停止です。

 そんな途切れ途切れの、あやふやなお手前を一蹴するためにも、再度やり直しのお稽古に来ました。

 前回の簡略版ではなくて、その前段であるフルバージョンの入子点を教えていただきました。
 これは、お手前に熟達した方がなさることが多いものだそうです。しかし、今週末にお客人をこのお手前で迎えたいので、素人ながらもピンポイントの特訓をお願いしました。
 本当にわがままな生徒で申し訳ありません。

 先ずは、先生がお手本を見せてくださいました。

 そして、私が杉の曲げ物の建水に茶碗を仕組んで入ります。

 昨日迷った、蓋置を手にした後の動作がわかりました。
 また、昨日はお湯が煮立っていて熱すぎたにもかかわらず、どこで水を指せばいいのか困りました。これも、水差の蓋を取る動作の流れと連動させると、そのタイミングがよくわかりました。

 お点前の手順がよく考えられたものであることを、あらためて知らされました。

 そんなこんなで、所作の流れがなんとかわかりました。
 後は、練習と実践を繰り返すのみです。

 上級者のお手前であっても、目の前に目的があるので、そのためにもこれを機会に体得するつもりです。

 この成果は、また後日記しましょう。

 お稽古の後は、大和西大寺にある平城宮跡へ向かいました。
 
 
 

2015年11月 1日 (日)

古都散策(41)お茶で好みのお点前に出会う

 北大路橋から北山方面を見る賀茂川沿いの紅葉も、しだいに色の変化が目立つようになりました。
 植物園の横を南北に通る半木の道は、これからますます色の競演や変化が楽しめます。


151101_kitaoojibasi


 今日は、お茶のお稽古で大和平群に行きました。
 竜田川と平群のお山は、京洛の北山よりも遅れながらも、少しずつ秋の色になっています。


151101_tatutagawa


 十数年前に、私が毎日駅まで駆け降りた山道が通る木立も、しだいに紅葉と柿に包まれていきます。


151101_kouyou


151101_kaki


 今日から11月です。
 風炉から炉にかわり、炉開きのおめでたい日ということで、先生がお善哉を作ってくださいました。
 ただし、私は明日ちょうど京大病院の糖尿病栄養内科で診察があるので、お餅の入らないものにしていただきました。
 小豆だけでしたが、甘さが控えめで口に合い、おいしくいただきました。

 今日もわがままを言って、いつもの丸卓を使ったお手前でも、最初からお茶碗も荘(かざ)った形をお願いしました。
 総荘り(そうかざり)と言う扱いだそうです。

 最初から、棚の下段の地板に水指と蓋置と帛紗を、上の天板には棗、柄杓、茶碗を置いておくのです。この茶碗には、茶巾、茶筅、茶杓が仕組んであります。
 入子点では、杉の曲げ物の建水に茶碗を仕組むそうです。その茶碗も、今回はあらかじめ棚に荘っておくのですから、点てる方としては建水だけを持って出るだけです。
 お客人も、目の前の道具類を見ながら話ができる楽しみがあります。

 出入りが少ないこともあって、お年寄りが好んでなさるお手前だそうです。立ったり座ったりが少ないので、身体が楽なのです。

 それはそれとして、私が家で点てるお茶は、お作法などに拘らない仲間内のことが多いので、一緒に話をすることが中心です。そのために、あまり出入りのない、会話が途切れない流れを大事にしたいのです。

 そこで、丸卓を使ったお手前を中心にしたお稽古を、これまでにして来ました。
 さらに今日は、お茶碗までに荘ってあるのです。
 お客人の前でお手前を始めるまでが、とにかく簡素化されています。

 実際にやってみて、これは私にとって、身体にも感覚としても、気持ちよく馴染むものでした。
 
 これまでと大きく違うことは、仕舞いの茶筅通しの後、茶碗の中の水を建水にあけたら、茶巾を茶碗に戻すのではなくて、その茶巾で茶碗を清めるところでした。

 これは、私にとってありがたいお手前と言えます。

 いろいろなお手前はそれとして、年末年始に向けて、このお稽古に励もうと思っています。
 
 
 

2015年7月13日 (月)

古都散策(40)薬師寺の追善法要茶会で見た娘のお点前

 奈良大和路の西ノ京にある薬師寺で、裏千家淡交会奈良支部が主催する物故者追善法要が開催されました。これは、昨年亡くなられた淡交会の会員の法要を営むものです。

 近鉄特急で京都駅から乗り換えることなく近鉄西ノ京駅に行けます。
 西ノ京駅から東に少し歩くと、すぐに薬師寺の横手の門から境内に入れます。
 塀の崩れ加減といい、木の門といい、少し寂れた雰囲気を漂わせています。


150712_gate


 しかし、境内に入ると、気持ちのいいほどの解放感に浸れます。

 慈恩殿で、物故者の追善法要が営まれました。
 その右の突き当たりに、本日のお茶席となっているまほろば会館があります。


150712_jionden


 私がこの日、足を延ばして薬師寺まで来たのは、このまほろば会館でのお茶会に出席するためです。この扁額は故高田好胤管主の筆になるものです。


150712_mahoroba


 待ち合いの正面には、本日のお茶会の会記が掲示されていました。


150712_kaiki


 席主が森田宗輝となっています。この森田先生が、私がお茶のお稽古でお世話になっている先生です。
 なかなかお稽古に行かれないので、私は手間のかかる弟子となっています。

 今日は、奈良支部の理事である森田先生が、このお茶会を取り仕切っておられるのです。
 そして、日頃私が一緒にお稽古をしているお弟子さんたちが、みなさんお手伝いとして、お茶を点て、お菓子やお茶を運んだりと、慌ただしく立ち働いておられます。
 まだまだ初心者の私は、お客さんとしてお相伴させていただきました。

 私と妻が入った席では、娘がお茶を点ててくれました。
 大勢のお客様が居並んでおられる中で、娘のお点前を見ました。失敗しないかと、はらはらどきどきです。
 そんな親の心配はよそに、娘はなかなか立派に大役を果たしていました。

 薄緑の着物がよく似合っていました。これは、私の姉が見立てた着物です。まさに、家族親族総出で送り出したようなものです。その着物に着負けすることなく、みやびな立ち居振る舞いを見せてくれました。
 娘のすぐ横におられた席主の森田先生から見ると、いろいろとヘマをしていたことでしょう。しかし、何事も堂々と振る舞うに限るようです。贔屓目に見ても、会席者の視線を釘付け(?)にしていました。親の欲目ですが。

 後で先生の所へお祝いの挨拶に行きました。最後の席が終わったことでもあり、ほっとしておられました。今日一日で400名ものお客様がいらっしゃったそうです。
 もっとも、しばらくお稽古に行っていない私には、時間を見てお稽古にいらっしゃい、としっかりと釘を刺されてしまいました。

 無事にお茶会も終わったので、薬師寺の玄奘三蔵院伽藍にある大唐西域壁画殿で平山郁夫さんの絵を見ようと思いました。これまでにも、何度も見ています。しかし、昨日はあいにく公開されていなかったので、南に一本道を隔てた、白鳳伽藍の方を散策しました。

 奈良に住んでいた時から、子供たちと、そしてお客さんが来るたびにここを訪れました。
 生まれたばかりの長女の世話をしに、妻の実家からおいでになっていた義母は、日本の古代史が大好きでした。そのこともあり、奈良の各地を連日車で案内しました。
 ちょうど当時は高田好胤管主で、父母恩重経を義母と一緒に聞いたときのことは今でも忘れられません。

 この前来たのは、ちょうど2年前だったことを思い出しました。

「奈良西の京を中国からの留学生と歩く」(2013年06月30日)

 東僧坊の前に咲き広がる蓮越しに大講堂を望みました。左上の鮪を戴く金堂の向こうに、西塔の相輪がかすかに見えています。

150712_hasu


 西塔は、昭和56年に復興されたものです。しかし、その優美な姿は白鳳の様式を今に伝える印象的なものとなっています。この裳階を付けた三重塔は、一度見ると忘れられません。

150712_saitou2


150712_saitou



 この塔の横には、歌碑が二基あります。
 その向かって左側は、佐佐木信綱の歌を刻んでいます。


150712_kahi


150712_hibun



      信綱
遊く秋農
 や万との
    国能
 薬師寺
   の
塔△
 うへ△△
一ひら濃雲

 戸外で風雨に晒されてきたために、ところどころ読めなくなっています。

 この歌碑を読みながら振り向くと、金堂の右側にある東塔は今も解体修理の工事中でした。


150712_toutou


 頭を左に振ると、金堂とその左に大講堂が迫ります。
 この大講堂には、天平時代の仏足石と仏足跡歌碑があります。


150712_kondo


 この薬師寺は、いつ来ても気持ちが晴れやかになります。
 唐招提寺にまで回る余裕がなかったので、西ノ京駅に戻りました。

 ちょうど入線してきた急行に乗って、京都駅まで出ました。


150712_train



 新幹線に乗る直前に、祇園祭をデザインした缶ビールを見かけたので、お土産にいただきました。


150712_beer1


150712_beer2


 今年は何かと忙しくて、祇園祭は見られそうにありません。
 こうした小物で、参加した気分になっておきます。
 
 
 

2015年5月10日 (日)

古都散策(39)【復元】南都不退寺でタケノコをもらう

 新緑の清々しい季節です。

 パソコンのハードディスクを整理していたら、かつて契約していた業者のサーバーが平成19年3月にクラッシュし、その際に消失した大量のブログの一部が見つかりました。写真は別に溜め置いていたものがあったので、あらためて記事とともに復元してみました。

 今回は平成17年5月3日の記事と写真なので、ちょうど10年前の奈良での話ということになります。
 
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
2005年5月5日
ブログ「たたみこも平群の里から」よりの公開分
 
 奈良市にある一条高校のすぐそばに、不退寺というお寺があります。
 在原業平の建立になるという古寺です。
 気にはしつつも、これまで訪れたことがありませんでした。


150418_futaiji1


 境内には、『伊勢物語』の八十八段にちなむ歌碑が建っています。


150418_kahi


150418_ise88


 本堂には、業平朝臣自作とされる聖観音像や、業平の父である阿保親王座像がありました。
 また、ちょうど訪れた日は、在原業平画像の御開扉日でもあり、修復された業平画像を見ることができました。
 江戸時代のものだとのことでしたが、さてどうでしょうか。
 ガラスケースには、室町時代書写という『伊勢物語』の写本もありました。

 本堂では、男の人が一人一人に説明をしてくださいます。丁寧なことです。
 質問にも答えてくださいました。なかなか詳しい方のようでした。

 帰りに、南門のところで、段ボールにタケノコが入れてありました。


150418_takenoko


「ご自由にお持ち帰りください」と書かれていたので、受付のおばあさんに聞くと、お寺の周りの竹林からはえてくるので、欲しい人に持って帰ってもらっている、とのことです。
 それでは、ということで、四、五本いただくことにしました。
 晩ご飯はタケノコ料理でした。おいしいタケノコでした。
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 

2015年4月29日 (水)

古都散策(39)自生の藤の花とお茶のお稽古

 爽やかな空の下、賀茂川の河川敷ではマラソン大会が開催されていました。


150430_kamogawa


 今日は、今月2回目のお茶のお稽古に、奈良大和の平群に行きました。
 行く機会がなかなかない中で、複数回のお稽古ができるのは久しぶりです。

 来週もお稽古を入れています。
 出来るときに出来ることをする、という持論の実践です。

 奈良は京都よりも、ややひんやりしていました。生駒山の麓だからでしょうか。
 平群を流れる竜田川沿いで、自生の藤の花を至る所で見かけました。


150430_fuji1


 いかにも見てください、という雰囲気ではありません。押しつけがましいところがないのです。
 今年も咲いていますよ、というさりげなさが、目にも優しいと思います。

 その点では、先週行った亀戸天満宮の藤棚のみごとさとは、まったく対照的です。

「江戸漫歩(102)亀戸天満宮の藤まつり」(2015年04月26日)

 たたみごも平群の山の、と歌われる自然の中で勝手に咲いている、何気ない風情でありながらも零れるような藤の花もいいものです。


150430_fuji2


 今日のお稽古では、まず袱紗の畳み方の指導を受けました。
 そして、茶碗を拭くときに、茶碗を持つ手がどうしても動くのです。
 何度やっても動くので、これは今後とも特に意識する必要があります。
 さらには、いつものように背中が曲がっていること。

 細かい注意点はたくさんあるにしても、一つずつを意識しないでできるようになりたいものです。

 元山上口駅の近くにある住宅地で、小さな山を切り開いた斜面に、色鮮やかな花が咲いていました。


150430_flower0


 この平群の里に住んでいた頃、ここが住宅地になる前は、下の息子とランニングでよく駆け上がった小山だった所です。
 気になったので行って尋ねてみました。
 7年前から、個人の方が花を少しずつ植え始められ、やっとこんなにみごとに咲き誇るようになった、とのことでした。


150430_flower


 このあたりの方々も、みなさん楽しみにしておられるようです。
 花好きとはいえ、1人でこの規模までは、なかなかできないことです。
 いい目の保養をさせていただきました。
 
 
 

2015年4月 5日 (日)

古都散策(38)平群の桜と杉棚を使ったお茶のお稽古

 今日の天気予報も、午後から雨でした。しかし、大降りにはならず、曇天ながらも小雨で収まりました。

 久し振りにお茶のお稽古です。

 大和・平群の桜は、山の中の木々に紛れるようにして咲く姿がいいと思っています。


150405_heguri2


 3歳違いの子供たち3人が通った幼稚園には、9年間お世話になりました。
 今も変わらぬ佇まいを見せる園舎と園庭も、お話をうかがえば様変わりしているとのことでした。


150405_heguri1


 お茶の先生の家に向かう坂道では、昨夜来の雨に打たれた桜の花が身を寄せ合っていました。
 かつてこの平群の里にいた頃、少しお酒を飲んで帰る時などには、何箇所かに置かれたベンチで休み休み息を整えながら、急な坂道を登ったものです。


150405_heguri3


 思うように出来ないお茶のお稽古も、丸卓を使って、自分なりに一通りのおさらいはして来ました。しかし、2ヶ月以上も間が空いているので、突然「あれっ」ということになります。
 忘れないために続けている、というのが実状です。
 今年度から、新しい仕事が増えます。ますます、お稽古から遠ざかりそうです。

 今日は、丸卓ではなくて杉棚でのお稽古でした。ただし、ほとんど同じお作法でできるそうなので、安心して教えていただきました。

 事前の準備としては、水指と棗をあらかじめ棚に置いておきます。

 先生の囁きに誘導されながら、それらしくお手前を進めていきました。しかし、棗を中板から杉棚の下段にある水差しの右前に下ろし、茶碗と置き合せる所で、たちまちその手順に戸惑いました。

 丸卓と大きく違う所といえば、水差しの蓋を取る前に、中板を右手親指で向こうに突くことと、水指の蓋を閉めた時に、中板を引いて元の位置に戻すことです。

 棚の手前左上に竹釘があり、そこに柄杓を掛けたり、蓋置をその真下の地板に置くこと、さらには、一通り終えた後、水差しの蓋の上に茶杓を置いたり、その茶杓だけを持って帰ることなどが、今回新しく覚えたことでした。

 私は先生に勝手を言って、自宅にお客さまが来られた時のことを想定したお稽古を中心にして教えていただいています。
 お茶と縁のあるお客さまが我が家にお出でになることはまずないので、お話をしながらお手前ができることを最優先にしているのです。
 道具を持って出たり入ったりすることで話が途切れないように、また、目の前にお茶道具が置かれている様子を見ながらお話ができるような、そんな雰囲気を大切にしたいと思っています。
 そのためには、堅苦しく感じていただくことなく、一緒にお茶をいただきながらお話をするためにも、丸卓や杉棚を使ったお点前が、今は気に入っているのです。

 こんな調子で、お稽古を気長に続けていきたいと思っています。
 
 
 

2015年3月 4日 (水)

古都散策(37)雨の中で見た二月堂の修二会

 夕方から、あいにくの雨となりました。
 雨が次第に強まる中、東大寺二月堂のお水取りに行きました。
 3月1日から14日まで執り行われます。

 奈良県民だった20年間に、子どもたちを連れて何度も来ました。
 二月堂は節分の豆まきとこのお松明、春日大社には若宮の御祭り等々、子連れで順繰りに回ったものです。

 東大寺には、秘密の駐車スペースがありました。それを知っていたので、気楽に車を停めて散策がてらの見物をしていたのです。

 今夜は雨足が強かったので、お松明を見に来られた方は、肩をすぼめて傘の雫を避けながら、午後7時をじっと待っておられました。


150303_kasa



150303_nigatudo1


 やがて二月堂周辺の照明が落とされます。


150303_nigatudo2


 鐘の音が鳴り止むと、下から明々と火に包まれた大松明がノッシノッシと登ってきました。しばらく高欄で休んでから、火の粉を散らしながら横に移動しだします。


150303_nigatudo3


 大松明を振って火の粉を参拝客に振りかけるサービスをしていると、次の大松明が登ってきました。


150303_nigatudo4


 両側で火の演舞が始まると、その真下にいた私も、思わず声を上げました。
 荘厳さと勇壮さが、あたりの闇の中に溶け込んで行きます。
 10本お松明が明滅して左から右へと移動します。
 不思議と静かに進行していきます。
 不思議な火祭りです。


150303_nigatudo5


 井上靖の小説に、『青衣の人』があります。何度か読んだのに、すぐにその内容を忘れて、また読むことを繰り返している作品です。

「井上靖卒読(22)『青衣の人』」(2008/1/7)

 この二月堂に来ると、私は『青衣の人』の話はどんなだったのかな、といつも思います。不思議な作品です。

 奈良の一夜を、絶えたことのない伝統行事に身を置くのもいいものです。
 悠久の時の流れに思いを馳せて、しばし日頃ご無沙汰している方々のことを思い出していました。

 夜8時に、宿への帰路につきました。
 今日ばかりは東大寺の南大門も、目立たないようにひっそりとしていました。


150303_nandaimon



 
 
 

2013年8月24日 (土)

古都散策(36)もちいどのセンター街とシルクロード

 古都奈良の市街を散策するのは久しぶりです。
 毎月のように、下鴨から西大寺に出て、そこから西に向かって生駒経由で平群へと、お茶のお稽古で通っています。しかし、西大寺から東向きに奈良へ出たのは、本当に何年ぶりでしょうか。

 駅前の行基さんは健在でした。
 
 
 
130824_gyouki
 
 
 

 行基さんのすぐ横を南北に走るもちいどのセンター街や猿沢池の南に広がるならまち界隈に来たのは、「奈良町物語館での古典舞踊発表会2011」(2011年11月 4日)を観に来た時以来です。

 この辺りは、様子が変わりました。楽しい雑貨屋さんが増えているのです。しかも、奈良がシルクロードの東の終着点だけあって、中近東の物産が目立ちます。狭い狭い露地の奥に大きなガネーシャの写真が掲げてあり、何だろうと思って行ってみると、インドやパキスタンの雑貨屋さんでした。

 私は、ペルシャの雑貨屋さん「メヘラリ・ショップ」で見かけたミーナ皿(銅の七宝焼き)が気に入りました。お店の方にいろいろと話を伺いました。銅にエナメル細工をし、ペルシアンブルーの琺瑯のような器に仕上げたものなのです。

 このならまちでは、和物屋さんがあっても精彩を欠いています。ここでは、いかにも日本的なものは、インパクトがないのです。奈良が京都と対抗するためには、このお土産物屋さんあたりから意識改革することが必要です。
 奈良は、もっと国際色を前面に押し出すべきです。それも、シルクロードをイメージさせるもので!!!

 1988年に、「なら・シルクロード博覧会」がこの奈良市をメイン会場として開催されました。
 飛火野会場では「井上靖・シルクロードの足跡館」がありました。この奈良シルクロード博覧会の総合プロデューサーは、井上靖だったのです。

 それよりも何よりも、当時私は東大阪の高校で教員をしていました。そこで、学年の年間学習テーマをシルクロードとし、国語科の教材もシルクロード関係のものを編集して使いました。英語科や理科や社会科の先生にもお願いをして、授業内容にシルクロードのことを取り入れていただくなど、学年全体が団結して取り組みました。
 
 
 
130824_hyousi
 
 
 

 その巻頭にあげてある「まえがき」を引いておきます。


    謎・未知・冒険の夢街道へ

 本書は、盾津高校第一年次の国語で学習する内容の内、教科書に載っていない文章を集めたものです。特に本年の国語科では、東洋と西洋を結ぶ道《シルクロード》を、一年次の授業のメインテーマにして進めていきます。

 紀元前四世紀という昔から、東西をつなぐ文化・文物の交流路であったシルクロードは、全長七千キロメートルに及ぶ長大な道です。中国から西へ西へとローマまでつづくシルクロードは、実は中国から東へも延びていたのです。その東の終着駅が、わが国の奈良という地になるわけです。そして今年の昭和六十三年度は、その奈良で《シルクロード博覧会》が開催されます。この機会に、学習内容をより身近なものにするとともに、幅広い知識を身につけてくれることを希望します。

 シルクロードをテーマにして勉強するということは、国語ばかりではなくて、社会・数学・理科・英語など、関連した分野の学際的な知識や視点が大切になります。総合的な学習をすることになるのです。また、学校行事などでも、授業から展開した取り組みをすることがあります。視野を広く、心を開いて、悠久の時間の流れと現代社会を見つめる中から、新しい自分の未来を探ってみてください。そのためにも、本書を充分に活用して、楽しい学習の中から確かな学力と思考力を養ってください。
 実り多い高校生活を願っています。
  昭和六十三年四月
    大阪府立盾津高等学校国語科
      伊藤鉄也 大橋政勝 関本幸子 塚口芳章 篤田由美

 文化祭でも全学年でシルクロードに取り組みました。奈良時代以来のチーズともいうべき蘇を実際に作ったクラスもありました。数十メートルの横断幕を、県庁内にあったシルクロード博覧会の事務局へ行って借り出してきて、校舎の中庭に差し渡したりしたものです。
 昭和63年なので、まだユルキャラなどはない時代です。

 共同製作のレリーフも作りました。各クラスで図案を考え、48枚の板を一人一人が彫り、組み合わせて彩色レリーフを12クラス分作りあげたのです。
 私が担当したクラスは、沙漠・ラクダ・夕陽をイメージした作品が仕上がりました。
 カラー写真が見当たらないので、卒業記念文集『思い出つみき』から転載します。
 
 
 
130824_relif
 
 
 

 この時のことは、【3.1-井上靖卒読】「井上靖卒読(101)『敦煌』」(2009/11/17)の後半に、簡単に記しています。

 さて、もちいどのセンター街の一画にある、奈良の町家を生かしたお店で食事をしながら、かつての同僚と十年以上もの久闊を叙すこととなりました。
 生きていれば、いろいろなことがあるものです。
 おいしい和食をいただきながら、中庭の今にも咲きそうな大きな蓮の葉を借景に、思い出話やこれからのことを語り合いました。
 遠慮のいらない、気の置けない仲間は財産です。

 帰りに、手紡ぎの奈良晒で作られたブックカバーをいただきました。麻織物の少しゴワゴワした手触りが夏らしかったのと、ブックバンドのような紐に書物の帙の合わせ目につける爪形の留め具、いわゆるコハゼが気に入ったからです。
 
 
 
130824_bookcover
 
 
 

 千利休は、この麻織物を茶巾として用いたとか。そう聞くと、ますます手触りに親しみが涌きます。
 
 
 

2013年6月30日 (日)

古都散策(35)奈良西の京を中国からの留学生と歩く

 今日は、中国から日本に留学している学生さん2人を、行く機会の少ない奈良に案内しました。
 衛さんは、裏千家学園茶道専門学校で今年4月から半年間、留学生として厳しい勉強をしています。日本の文化を幅広く理解し、茶道の研鑽を日々深めているところです。
 侯さんは、立命館大学大学院で、中世王朝物語を中心とした研究をしています。留学期間があと一か月となり、精力的に日本の歴史や文化を勉強しているところです。

 2人とも、旺盛な好奇心と理解力を持っていて、日本を知ろうという気魄にはこちらが気後れするほどです。
 案内するはずの私も、質問に応えきれない場面がしばしばです。

 東京で開催されたレセプションで2人と初めて会ったときのことは、「北京日本学研究センターの懇談会に出席して」(2013年6月 8日)に書いたとおりです。侯さんは、その後、京都の『十帖源氏』にも参加しています。

 今朝は、8時に近鉄京都駅で待ち合わせをしました。
 車中でいろいろな話をしているうちに、あっと言う間に西ノ京駅でした。電車を降りると、すぐ目の前が薬師寺です。ホームに、薬師寺の石柱がありました。
 
 
 
130701_yakusiji
 
 
 

 薬師寺の東塔は修理中で、平成25年に完了予定だそうです。
 
 
 
130701_yakusiji2
 
 
 

 大講堂の弥勒三尊像の台座に彫られていた四神に、早速2人が反応しました。よく日本のことを勉強しているので、見るもの聞くもの、何にでも関心を示しています。頼もしく、逞しい学生さんです。

 般若心経を書いた扇子がありました。茶道学園で勉強している衛さんは、毎朝朝礼で般若心経を読むそうです。そのためスラスラと暗唱しているので、この扇子に興味を示したのです。

 大講堂の北側には、蓮の花がきれいに咲いていました。
 
 
 
130701_hasu
 
 
 

 玄奘三蔵院伽藍の玄奘塔の扁額に、「不東」と書いてありました。
 
 
 
130701_fitou
 
 
 

 「不」が頭に付いていることに違和感を感じる、と私が言うと、2人はこの「不」に深い意味があるのだと言うのです。
 出発した三蔵法師が、東を振り返らず、ただひたすら西へ向かう決意が「不」には込められているそうです。私が言う「唯西」では決意が弱く感じられるのだそうです。
 しばし、「不」「非」という打ち消しの言葉の働きについて意見交換をしました。

 薬師寺の白鳳伽藍を後にすると、唐招提寺に向かってまっすぐ北へと歩きました。
 
 
 
 
130701_tousyouhe
 
 
 
130701_kondou
 
 
 

 唐招提寺の講堂の中には、論議台が2つあり、そこには次の説明がありました。


 仏壇の前の左右に置かれ、読師と講師が相対して法要するところから、論議台と呼ばれる。(下略)

 傍にいたお寺の方が、さらに説明をしてくださいました。それによると、向かって左が講師の座で、右がそれより低い地位の読師の座だとのことです。

 この説明によると、本尊である阿弥陀如来から見ると、左が低い地位になりります。これは、京都でよく言う天子南面の考え方と違うことになります。何故違うのか、ということを衛さんが言いました。鋭い質問が飛び出し、日本文化に対する理解が問われます。

 堂内の方は、とにかくそうした順番で実際に儀式をしているのは確かで、その深い意味はわからない、とのことでした。

 確かに京都では、右京と左京が逆だし、左大臣が右大臣よりも上位です。
 この堂内の説明では、そのことと矛盾します。
 この疑問は、後でもっと調べよう、ということで終わりました。
 疑問を持つ、ということは理解の原点です。こうした疑問を素直にぶつけることで、日本の若者たちに多くの刺激を与えてほしいものです。

 開山堂では、鑑真和上御身代わり像が公開されていました。
 写真では何度も見ていた像です。今回、初めて実物を拝見しました。
 いいお顔をなさっていました。
 
 
 
130701_kaizando
 
 
 

 そのまま東へ歩き、鑑真の御廟に行きました。
 この一画には、井上靖の『天平の甍』の石碑があります。
 つい見過ごされがちなとこにあるので、2人を案内して井上靖好きな者としての説明をしました。

 お昼を、薬師寺に戻る途中のお店でいただきました。そうこうするうちに、もう大和平群のお茶の先生宅へ行く時間です。

 信貴山へ連れて行き、『信貴山縁起絵巻』の案内もしようと思っていました。しかし、もう時間がないので、それはこの次にして、西大寺から乗り換えて近鉄生駒線の元山上口へ行きました。

 以下、明日に続きます。
 
 
 

2012年1月15日 (日)

古都散策(34)薬師寺での聞香が当たる

 昨年の3月2日に、東京の五反田にある薬師寺東京別院で開催された、「たった9日間だけの特別公開」に行きました。それは、薬師寺の東京出張所とでもいう所で、「新たに確認・修復された寺宝」を見たことは、以下の拙文に書いた通りです。

「江戸漫歩(31)江戸から一転平安の作品となった仏像」(2011年3月 3日)

 さて、今日は別院ではなくて、奈良の薬師寺で開催された「吉祥天にちなむお香とお茶の会」に行ってきました。これは、香道と茶道の隆盛を願っての修正会結願の法楽行事として、芸道の守護神である吉祥天女に習い事の上達を願う催しです。法楽行事自体は、1260年もの長きにわたって続いているとか。
 内容は、聞香・薄茶・寺院内見学・抽選・点心と、盛りだくさんです。

 京都の家から1時間で行けるので、気楽に出かけました。

 まずは、朝早くて鼻が利くうちにと思い、聞香から参加しました。場所は東僧坊で、一席50名の大人数での聞香です。
 
 
 
120115_monkou0
 
 
 

 流派は志野流で、「松竹梅香」という組香でした。
 
 
 
120115_monkou1
 
 
 

 松竹梅の順に3つ出てくるものを試しに聞いた後、順不同で出香される3つのお香の名前(松竹梅)を1つずつ当てるゲームです。

 以前、烏丸四条上ルの松栄堂さんで開催された聞香に参加した時も志野流で、「宇治山香」という遊びでした(「『源氏物語』のお香と、初めての聞香」(2008年4月18日))。
 今回は、それとは違うルールのゲームです。
 
 
 
120115_monkou2
 
 
 

 お香のお作法を、私はまったく知りません。一人で来ていることをいいことに、隣やその前の方のやり方を見ながら、見よう見まねながらも真面目に薫りを聞きました。この前の松栄堂さんで正解だったので、あれがまぐれでないことを確認するためにも、今日も何とかして当てようという、やる気満々で臨みました。

 私は、硯箱に置いた記名済みの小さな紙に「松・梅・竹」と筆で答えを書き、解答を待ちました。
 結果は、幸運なことに、3つともすべて正解でした。
 
 
 
120115_monkou3
 
 
 

 この前の松栄堂さんで行われた時にも正解だったので、あれが偶然ではなかったことがこれで証明され、安堵しました。
 今回の「松竹梅香」の正解者は7名でした。その席に参会した50名の内、私が入っていた先頭グループからは、10名中3名もの正解者が出ていました。
 前に詰めて座っておられたのは、それなりに自信のある方々だった、ということになりそうです。もちろん、私以外は。

 次のお茶席への移動途中に、旧講堂古材料(松)で作ったお茶室の爐壇に乗せる爐縁を見かけました。15万円です。先日私が手に入れた爐縁とは格が違います。いつかこんな由緒のあるものでお茶を、と眺めていました。もっとも、もっとお稽古に行く回数を増やすことが先決なのですが。

 お茶席に入るまでに時間があったので、玄奘三蔵院伽藍の中の絵殿で、私が大好きな平山郁夫の「大唐西域壁画」を見ました。2000年12月31日に奉納されたものです。
 薄墨桜の向こうが、玄奘三蔵院です。
 
 
 
120115_usuzumi
 
 
 

 なお、この平山郁夫の絵については、これまでに何度も書きました。しかし、そのほとんどがサーバーのクラッシュで消失しました。最近のものでは、「平山郁夫の「大唐西域壁画」」(2011年2月12日)があります。ご笑覧ください。

 私にとって「大唐西域壁画」は、正面の大画面もそうですが、それ以上に後ろにある2枚、東側の《明けゆく長安大雁塔 中国》と西側の《ナーランダの月 インド》を見たかったのです。大雁塔は、かつて行った中国の杭州の塔を思い出させてくれます。
 杭州へ行き、天台山登ったことを書いたブログは、これまたサーバーのクラッシュで跡形もなく消失しています。長い報告を書いていたので、そうそう復元できないのです。

 さて、呈茶席は慈恩殿に設えられ、50名ほどが入って新春の薄茶をいただきました。
 
 
 
120115_teitya0
 
 
 
120115_teitya1
 
 
 

 お菓子は「たんちょう」、お茶は小山園の「ゆうげん」でした。
 お茶道具には龍をあしらったものが揃えられ、お正月らしい雰囲気でした。
 今日は私一人で参加していたので、お正客さんや隣の方を見ながら、それなりにお作法らしい振る舞いでいただきました。お菓子もお茶も、私には甘すぎました。しかし、おめでたい席なので美味しくいただきました。
 菓子皿はお持ち帰りを、とのことだったので、懐紙に包んで頂戴しました。
 薬師寺の山田法胤管主のお話を聞きながらのお茶席です。ありがたいことです。

 退席する前に、お道具の説明を伺いました。得難い経験をさせていただきました。
 
 
 
120115_teitya2
 
 
 

 薬師寺の境内では、東塔が修理中でした。
 
 
 
120115_tou
 
 
 

 金堂で吉祥天女像を拝見してから帰途につきました。
 吉祥天は、インドではビシュヌ神の妃であるラクシュミー・シュリと言われる神です。
 インドの神さまと日本の神さまについては、またの機会としましょう。
 
 
 

2011年9月20日 (火)

【復元】初夏の散策(9)萬葉の白毫寺

 先週、松本清張の『砂の器』がテレビドラマ化されたので、そのことを書きました。

「テレビドラマ『砂の器』を観て」(2011年9月12日)

 その後、松本清張の作品で映像化された、私が大好きな『球形の荒野』のことを思い出しました。
 本ブログに昨年書いた、次の2つがすぐに見つかりました。

「テレビドラマ『球形の荒野』は「後編」に期待」(2010年11月27日)

「テレビドラマ『球形の荒野』(後編)を観て」(2010年11月28日)

 しかし、もっと書いたように思ったのでさらに調べてみると、4年前にレンタルサーバーがクラッシュしたために無くなった文書の残骸の中に、DVDで見たときの記事が見つかりました。
 ただし、清張の作品については前半しか書いていません。

 なんとか復元できたので、以下に掲載します。

 まだ他にも、この作品について書いたものがあったように思うので、さらに調べてみます。
 
 
(※以下の記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
2006年5月30日公開分
 
副題「花の寺からささやきの小道」
 
 
 映画『球形の荒野』をDVDで見ました。1975年の松竹作品で、監督は貞永方久でした。
 出演は豪華です。まさに、映画全盛時代の作品です。


芦田伸介 (野上顕一郎)
乙羽信子(野上孝子)
島田陽子 (野上久美子)
竹脇無我 (添田彰一)
山形勲 (滝良精)

 映画は、松本清張の原作小説とは違う設定となっています。
 小説では、芦村節子が奈良の唐招提寺で、芳名帳に叔父・野上顕一郎の筆跡を見たことになっています。そして、その筆跡を求めてすぐに飛鳥の橘寺へ、そして安居院(飛鳥寺)へ行き、予想通りそこでまた野上顕一郎の署名と出会います。

 これが映画では、野上顕一郎の娘である野上久美子が、唐招提寺で父らしい筆跡を見つけます。そして久美子は、唐招提寺からすぐに白毫寺へ行って、2つ目の署名を確認することになっています。映画は、人間関係の複雑さを整理し、事件の展開も最小限に留められています。

 20年以上も前に読んだ小説でしたが、映画を見ながら映画化に伴う変更に戸惑いました。唐招提寺がきれいに描写された小説だったので、過日行ったお寺を思い出して映画を観たのです。原作よりも、相当こぢんまりとした作品に仕上がっていました。特に、終戦前後の和平工作に関するところは、映画は消化不良となっています。こうした問題は、映像化が難しいからなのでしょう。内容はともかく、美しい映像は見る価値があります。

 さて、この映画を観て、すぐに白毫寺へ行きたくなりました。原作にない映画の中の白毫寺が、非常に印象的だったからです。
 行ってみて納得しました。映画に出て来た山門を見上げる構図は、まさに絵になるものでした。原作にはない設定ですが、なかなか考えられたロケーションだと思います。
 
 
 

110920_kyuukei1
 
 
 

 白毫寺は、慶雲2年(705)にインドの僧であった法道仙人によって開かれたお寺です。その境内に犬養孝氏による「万葉歌碑」が建てられています。歌碑には
  高円の野辺の秋萩いたずらに 咲きか散るらむ見る人無しに
と刻まれています。この歌は、志貴皇子が亡くなった霊亀元年(715)に笠金村が詠んだ歌だということです。

 白毫寺は眺望の良いところにあり、向かいには生駒連山から葛城山系が雄大に見やられます。この寺は、質朴で大いに気に入りました。

 白毫寺から春日大社まで散策しました。「下の禰宜道」とある道は、かつて「ささやきの小道」と言っていたところです。子どもを連れて、よくここに来たものです。
 飛火野を散策中の鹿も、ちらほらと木の間に見やられます。木洩れ日の中を歩く、すがすがしい小道です。
 
 
 
110920_kyuukei2
 
 
 

 この写真の中央に、キャンバスを立てて絵を描いている人が写っています。春日野の原生林を写生中、とおもいきや、なんと円と四角の抽象画でした。なぜこの景色の中で、この小道でサイケな絵を? この太古の自然の中で沸き起こる感情を、思うがままの色と形で表現したい方なのでしょう。絵と置かれている位置の場違いさに、新鮮な刺激をもらいました。

 春日大社では、神苑の萬葉植物を見たかったのですが、もっといい季節に来ることにし、その横にある「春日荷茶屋」でお昼をたべました。「大和名物膳」といって、萬葉の茶粥と柿の葉寿司と吉野葛などがセットになったものです。天気もよかったので、外の庭で食べました。
 
 
 
110920_kyuukei3
 
 
 

 その庭で食事中に、向こうにいた若い女性が立て膝で会席を食べておられました。写真の片隅にそのスタイルが写っていたので、拡大してみました。一つの文化として興味があります。これも、先ほどの絵描きさんの絵と一緒で、何となく気になった、それでいて印象深い風景です。
 
 
 
110920_kyuukei4
 
 
 

 最近の若者たちは、どのような姿勢が食事をしているのでしょうか。マンションに一人で生活していると、誰の目もないのですから、食事のマナーや作法はどうでもよくなるかもしれません。この女性は、食後にはテーブルの上で長い文章を書いておられました。旅行記なのでしょうか。非常に知的な感じの方だったので、その立て膝での食事スタイルに違和感を覚えました。これも新しい文化の一端なのでしょうが、私の時代は食事時の躾がうるさかったので、つい自分が育った目で人を見てしまいます。


********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 この記事を掲載したら、お読みになった知人からコメントをいただきました。カイロでお世話になった方です。
 私の返事と共に、これも復元しておきます。
 


 こんにちは。
 立膝の女性は在日の方、或いは韓国の方だと思います。
 学生のころ、韓国人とアパートをシェアしたことがありました。彼女はとても礼儀正しい頭のいい女の子でしたが、食べる時、しっかり立膝をしていました。聞いたところ、お国では立膝座りは、日本の正座にあたるのだそうです。
 日本は散歩するのにいい季節でしょうか。カイロは火炎樹の燃えるような花が咲き、暑くなって来ました。地中海地方特有の昼寝と夜更かしの季節到来です。
 では、ご健勝で!
 
 ---------------------------------------------------------------------
 
 お隣の国の文化には思い至りませんでした。
 そういえば、昨年も韓国に2度行きましたが、立て膝スタイルでの食事風景を思い出しました。その可能性が大きいですね。
 その女性の手元の紙には、文字がびっしりと書かれていました。ハングルではなくて、日本語でした。留学生の方でしょうかね。それとも取材?
 私の仕事を手伝ってくれている留学生の方々の中に、韓国からの女性がいらっしゃるので、こんど聞いてみましょう。

 
 
 

2011年7月11日 (月)

古都散策(33)平群でお茶のお稽古

 バタバタするだけの日々の中で、やっとお茶のお稽古に行くことができました。
 去年、初めてお稽古に来た日も、焼けるような暑い昼でした。

「お茶のお稽古を始める」(2010年7月25日)

 今日も昨年と同じように、ジリジリと照りつける近鉄生駒線の元山口上駅に降り立ちました。
 相変わらず、単線の駅です。
 
 
 
110711_motosan1
 
 
 

 千光寺から流れてくる川上へ、小豆と白色の車体を見せて、ワンマンの電車が生駒へ向かって走って行きました。
 眼下に流れる川は龍田川です。ここは上流なので、こんなに細い川筋です。大和川に合流する下流では、モミジに彩られる名勝の地となるのです。
 
 
 
110711_motosan2
 
 
 

 4年前まで24年間も住んでいた若葉台は、目の前の森のさらに奥の山の中にあります。
 
 
 
110711_motosan3
 
 
 

 毎日、この山を上り下りしていた頃を懐かしく思い出します。
 この地にお茶のお稽古に来るのは、この山の中で3人の子どもを育て上げた、楽しい思い出に浸れる時でもあります。

 今日は、盆略手前を2度ほどおさらいした後、お薄のお手前に初挑戦となりました。
 昨日と一昨日は、京都の家で、娘に盆略手前の復習をしてもらいました。
 とにかく、忘れています。あっ、あっ、と言いながら、おっかなびっくりで手を伸ばしながら、すぐに引っ込めたりと、頭の中がぐるぐると回る中を、何とか手順を思い出しました。
 そして今日は、先生からいろいろと指示を受けながら、どうにか一通り終えることができました。ということにしておきましょう。

 初めてお薄を点てるために、お茶碗やお柄杓を持って部屋に入ります。
 釜の前は、思っていたよりも炭火の熱さを感じました。
 そして、釜の蓋を取るとき、男は素手でということなので、思い切ってやってみました。熱いのなんの……。何度かやっているうちに、慣れていくものだそうです。それを信じるしかありません。

 四角い塗り箱の中のお水を鉄釜の中に入れたり、夏らしく水の音をさせたり、ガラスのお茶碗があったり、いろいろな趣向があって楽しいお稽古でした。

 最後に、お棗やお茶杓の作者や銘などを訊ねられ、それに応える練習もおもしろいものでした。これまでに何度も見ていたのですが、実際に自分がやる段になると大変です。お茶杓の銘などは、季節を先取りした言葉を使う練習です。私などは、『源氏物語』に出てくる人物や巻名などを応えたらいいとのことです。それなら、四季折々に雅なことばが出てきます。おもしろい遊び心を楽しめそうです。

 畳の上で膝を折ったままで向きを変えたり移動するたびに、足が痛みました。
 つい、畳に手を突いて身体を動かすことになります。これは、よくないようです。
 元来が痩せている上に、昨年の手術後は足腰の筋肉が痩せ細ったこともあり、畳と接する骨が痛むのです。これは、お尻の下に置く小さな椅子を活用して、何とか和らげたいと思います。

 終わってからの雑談で、一昨日の大徳寺でお薄を我流で飲んでおられた方の話をしました。先生は、いろいろな流派があることや、自分がいただくことだけを考えたらいいと仰っていました。
 そうでした。自分の知っていることだけで相手を批判的に見てもいけないし、いろいろな流儀があるので、先ずは自分のことに専念することは、確かに賢い心構えです。
 昨日のブログで、この大徳寺での出来事を批判的に、偉そうに書いてしまいました。改めて、少し反省しています。

 帰り道では、ひんやりと涼しい風が肌に心地よく感じられました。山の中ならではの、きれいな空気であり、爽やかな風です。
 こんなにいいところにいたのか、という想いを新たにして、生駒、西大寺、京都経由で、高層マンションが立ち並ぶ東京に向かいました。

 ここ数日は、夏の日差しを和らげながら流れる賀茂川を散策しました。
 今日は、懐かしい龍田川の川筋を眺めました。
 そして先ほど、高層マンションが夜空に屹立する隅田川沿いの宿舎に到着しました。
 明日のお昼には、九段坂病院での診察があるために、皇居の北側のお堀端の田安門から千鳥ヶ淵を通ります。
 偶然ですが、結果的に景勝の地を経巡る日々になっていることを、こうして大いに楽しんでいます。
 
 
 

2010年10月24日 (日)

古都散策(32)西大寺チャリティー茶会

 京都と奈良の中継地点である西大寺駅は、乗り降りはしても、この駅前にあるお寺まで足を運ぶ人は少ないと思います。東大寺が、あまりにも有名だからでしょうか。

 その西大寺で、茶道裏千家淡交会奈良支部主催のお茶会がありました。私のお茶の先生から、良かったらと言われていたので、娘と共に行って来ました。西大寺は久しぶりです。
 
 
 
101024_tyakai
 
 
 

 娘が着ている着物は、私の母が仕立てたものです。母の実家は呉服屋だったこともあり、着物の仕立てなどをして生計を助けていました。これは、私の姉のために縫った着物だとか。それを娘が譲り受けたのです。とても着やすいそうです。

 日本は、自分たちの民族衣装を自分で着られない、数少ない民族です。
 それを意識してか、娘は自分で着られるようになりました。今日も、なかなかうまく着られた、とご機嫌でした。
 私にも着物を着たら、と言います。しかし、なかなか着て出かける機会がありません。この次は、着物でお茶会に出られるように、準備をしておいてもいいかな、と思うようになりました。

 京都市長は、いつも着物です。市議会の議員さんにも、何人かいらっしゃいます。
 昨年、鳥取県で実施した池田亀鑑に関する講演会のポスターでは、私はお正月の着物姿の写真を載せてもらいました。
 
 
 

101024nitinanikeda
 
 
 

 そんなに恥ずかしがることもない歳になったのです。お正月以外でも、折を見て着るようにしたいものです。

 さて、まずはバザー会場に行きました。
 茶碗やバックなどがたくさんありました。茶道具でもあれば、と思っていたのですが、もうないようなので、そのままお食事をいただきに行きました。
 海苔巻きと煮物、そして柿やお吸い物をお盆に乗せてもらいました。
 これで小腹を満たした後、愛染堂でのお茶会に参加しました。40人位が一堂に会してのお茶会です。

 懐紙と楊枝を出して気持ちを落ちつかせる間もなく、お菓子が運ばれてきました。
 今日のテーマは、酒と紅葉だそうです。
 
 
 
101024_okasi
 
 
 

 お菓子をいただいていると、すぐにお茶が運ばれてきました。大急ぎで懐紙などをしまい、お茶をいただきました。
 慌ただしいことです。勝手がわからないので、横にいる娘に聞きながら、突っつかれながらも、美味しくいただきました。

 きれいに着物を着飾った女性が、左手の親指を突き立てて茶碗を持って、いただいておられました。癖なのか、お作法に慣れておられないのか、姿形が決まっていただけに、目立っていました。

 立礼のお茶席にも行きました。
 
 
 
101024_nodate
 
 
 

 先生がここにいらっしゃるとのことだったので、帰り際にご挨拶をしました。

 立礼の今日のお道具は、こんな感じでした。
 
 
 
101024_dougu
 
 
 

 この日、西大寺では表千家のお茶会もありました。
 境内を往き来する人の九割九分は女性でした。そのうち、4割近くが着物姿です。
 茶道が女性によって支えられていることを実感しました。

 駅を降りたとき、すぐに西大寺駅が変わったことに気づきました。
 まず、南口駅前のショッピングセンターがあったビルが、完全に消えていました。マンションにでもなるのでしょうか。
 
 
 
101024_ekimae
 
 
 

 さらに、駅のホームの電車の行き先案内が変わりました。奈良行きの表示が簡略化され、わかりにくいことこの上もないのです。おまけに、奈良行きの電車が15分も来ないのにもかかわらず、次に何分に来るのか、新しい表示盤ではわからないのです。旅行客は、みんなどうなってるのだろう、と不満顔でした。

 駅員さんに聞くと、最近列車の表示が変わって、と電車がいつ来るのか調べるのに時間がかかりそうです。
 奈良よ 西大寺よ、どうした! 大丈夫か? と、かつての住民として、この西大寺の退化に不安を覚えました。
 たまたま、この時間帯に西大寺から奈良行きの電車がしばらく来ないだけだと、好意的に理解します。しかし、乗客を不安がらせる駅は、生き残り策をしっかり詰めないと、敬遠されることでしょう。

 西大寺駅がこれ以上に寂れないことを願いながら、十数分後にやっと来た電車に乗りながら、奈良再生を思いました。
 今は、平城遷都博で賑わっています。しかし、それも来月までとなりました。阿修羅に頼っても、それだけでは持ちません。
 観光で自立できる街づくりとメニューを、大急ぎでまとめるべきでしょう。そうでないと、単なる不便きわまりない乗換駅にすぎなくなります。
 
 
 


2010年4月25日 (日)

古都散策(31)平群の時代祭

 久しぶりに奈良に行きました。西大寺駅が様変わりです。エキナカ風になっていて、ショッピングモールがありました。奈良らしい柄のブックカバーがたくさんありました。奥には展望デッキがあり、電車の行き来が眼下に展開します。楽しい駅になりました。

 やがて降り立った、かつて我が家があった町の平群駅は、まったく変わっていません。
 
 
 
100425hegurieki1
 
 
 
 電車もまだ単線で、ホームですれ違うために、しばし反対方向からの電車を待つのは相変わらずです。 
 
 
 
100425hegurieki2
 
 
 
 平群駅の前に、自然食のお店が開店していました。
 
 
 
100425hegurieki3
 
 
 
「らららランチ」と「るるるランチ」と「れれれランチ」違いがよくわかりません。
 私は、「大豆丸ごと豆腐ランチ」にしました。
 お店の中に、こんなパンフレットがありました。
 
 
 
100425hegurieki4
 
 
 
 信貴山も、法隆寺と共に大いに宣伝していいと思います。その時には、『信貴山縁起絵巻』のことも忘れずに。
 千年以上も前の文化を大切に温めている町として、一人でも多くの方に平群という町を知ってほしいものです。

 時代祭を見るために、会場である道の駅の方に歩いていきました。
 駅を振り返ると、彼方に生駒山のテレビ塔が見えます。その左の山の中腹には、私が住んでいた若葉台があります。二十数年間住んだ町です。楽しい想い出がいっぱいの町です。
 
 
 
100425hegurieki5
 
 
 
 法隆寺の方を見やると、緑の山々が目に飛び込んで来ます。
 
 
 
100425hegurieki6
 
 
 
 道の駅では、さまざまな催しがなされていました。すでに平群の長屋王や島左近などの時代行列は終わっていました。

 ステージでは、舞楽をやっていました。
 
 
 
100425hegurieki7
 
 
 
 フリーマーケットの横で、こんなお菓子を売っていました。今日が初売りの新商品だそうです。
 
 
 
100425manjyuu
 
 
 
 このイベントには、たくさんの人が参加していました。平群に、こんな熱気があることを知り、嬉しくなりました。
 
 
 

2009年11月14日 (土)

【復元】古都散策(2)唐招提寺

 かつて、「たたみこも平群の里から」と題するブログから、さまざまな情報発信をしていました。しかし、契約していたサーバーがクラッシュし、そのすべてがなくなってしまいました。
 いろいろと多彩な記事があったこともあり、折を見て手元の控えをもとに復元して再掲載します。これも、その一つです。

 この記事は、「初夏の散策(2)唐招提寺」として、2006年5月4日に公開したものです。「鑑真ゆかりの瓊花(けいか)咲く」という副題がついていました。

 過日、落慶法要の日に行った時、入口で受け取った小さな案内記は、3年半前と同じものでした。末尾が少し違うだけのものでした。懐かしい想いで、目を通しました。その理由は、以下に記してある事情によるものです。

********************** 以下、復元掲載 **********************

 唐招提寺といえば、井上靖の『天平の甍』が有名でしょうか。しかし、私がこの寺ですぐに思い至るのは、松本清張の『球形の荒野』です。西の京を訪ねた芦村節子が唐招提寺で、今は亡き叔父の筆跡を芳名帳に見かけたことから、この物語は始まります。国際外交を背景にした異色推理物語です。奈良が、京都が、物語の舞台として巧みに配されています。冒頭の唐招提寺は、特に印象に残っています。この物語を読んでいて、井上靖の作品のような気にさせられた記憶があります。いつもの清張とは違う、古都奈良に対する愛情が感じられた作品に仕上がっていたように思われます。

 さて、この唐招提寺は我が家から車で30分です。今回は、唐招提寺のお向かいにある薬師寺は門前を素通りさせてもらうだけにしました。

 唐招提寺は、平成12年より金堂の大修理に入っています。金堂をスッポリと覆う工事の大屋根は、拝観を躊躇させます。
 
 
 
1146717589_1
 
 
 
 しかし、入口の案内に「瓊花」が咲いているとあったので、入ることにしました。受付で拝観券と一緒にもらった小さな案内記は、写真も何もない、表に伽藍配置図のイラストがあるだけの簡素なものでした。B5版を2つに折ったもので、大半の方は読まずに思い出の品物の1つとなるだけのものでしょう。
 
 
 
1146717589_2
 
 
 
 しかし、その中に記された文章は、とても味わい深いものでした。

「ここは奈良市五条町。奈良の郊外といった感じだが、都が奈良にあった千二百年前は平城京右京五条二坊に当り、いわば首都の中心街区であった。」

と始まります。格調高くお寺を紹介した後、終わりの方では読む人への心配りが記されています。

「以上は拝観者のみなさんの比較的たやすく目に触れ得るものについて概説した。それも近来の旅行形態に鑑み、当山内での所要時間を一、二時間と見込んでの案内であってみれば、もとより委曲をつくすこともできぬのはけだし止むを得ぬ。」

 なかなかいい文章です。唐招提寺にお越しになった折には、文字だけのペラペラの紙1枚ですが、受付で受け取っても読まずにそのまま、というのではなくて、丁寧にお読みになることをお勧めします。これは、どなたがお書きになったのでしょうか。心の籠った温かい解説がなされていて、感心しました。
 そこで、何事もつい調べたくなる癖が、翌日、電話を取らせました。唐招提寺の寺務所にお電話をして、このリーフレットのことをお尋ねしたところ、すぐに「松本楢重さんですわ。」という答えが返ってきました。「お寺の現状と違うことも書かれていますが……」という電話口の方の言い訳は、この文章のことで何か苦情を言ってきたのか、と勘違いされたのかもしれません。「いい文章なので、どなたがお書きになったものなのか知りたくなりまして……」というと、安心されたのか「ありがとうございます」と言って、少し詳しく話してくださいました。
 松本さんはもうお亡くなりになっているそうです。奈良のことをよく調べておられ、歴史的なものについてよく書いておられたとのことでした。唐招提寺とは特に縁のある方ではないそうです。
 突然の電話にもかかわらず、すぐにこの文章を書いた方の名前を教えてくださるとは、このことがよく質問されるのか、寺内ではよく知られたことなのか、いずれにしても素晴らしいことだと感嘆しきりのできごとでした。

 さて、唐招提寺の入口である南大門を入った正面、修理中の金堂の中でビデオを見た後、境内を散策し、お目当ての瓊花を堪能しました。
 
 
 
1146717589_4
 
 
 
 花の番人らしき方の話では、今年は、花の咲くのが例年よりも遅いのだそうです。貴重なものを見る機会を得たことに感謝しました。

 奥まったところにある鑑真和上御廟の前にも、瓊花が植えてありました。これは、その横の石碑に「中華人民共和国首相 趙紫陽首相閣下手植瓊花」(王+京)とありました。
 
 
 
1146717589_5
 
 
 
 日中友好のための話題として、記憶に留めたいと思いました。

 新宝蔵では、贅沢なまでの国宝や重要文化財を見ました。特に、金堂の屋根にあがっていた2体の鴟尾は圧巻でした。まさに、天平の甍を実感させてくれます。西方にあったものは1200年前の創建当時の奈良時代のもので、東方のものは鎌倉時代のものだそうです。東方の鴟尾には、文章が刻まれていました。その文字が今でも読めることに感動しました。

 唐招提寺を出てすぐの、西の京駅に隣接する「がんこ一徹長屋」にも立ち寄りました。こだわりの職人が作る逸品を手にして見、買うこともできます。しかし、この一角に脚を踏み入れるのに入場料が500円とは、何か勘違いをしておられるように思われます。これでは、人は入口で引き返しますし、入った私もスッキリしません。ただし、敷地内の「墨の資料館」の入館料も含むとのことなので、それならと思いますが、それならいっそのこと別にすべきでしょう。「墨の資料館」で、奈良の伝統的な墨が出来る工程を見られたことは、いい勉強になりました。実演もありましたが、長屋も資料館も、来訪者への思いやりがありません。建物は綺麗なのですが、片づけられていません。説明が不親切です。もったいない施設だと思いました。匠の頑固さはいいのですが、来た人は何となく不満を抱いて帰ることになるのではないでしょうか。
 唐招提寺での充実した時を持ち込んでの感想ではなくて、ごくあたり前に再訪を抱かせる場所となるように工夫し、努力してほしいものです。

 春の連休が長いせいでもあるのでしょうか、この日の人出は非常に少ないように感じられました。
 連休の最初のせいか、交通情報でも渋滞は少ないようでした。四月末日の穏やかな半日となりました。

********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 

2009年11月13日 (金)

古都散策(30)『天平の甍』の文学碑

 唐招提寺の境内の北東奥に、開基である鑑真和上の御廟があります。
 
 
 
091103tousyoudaiji5
 
 
 
 その左横の木立の中に、「天平の甍」と彫られた文学碑があることを、まったく知りませんでした。過日の落慶法要の折に気づきました。
 
 
 
091103tousyoudaiji6
 
 
 
 このどっしりとした石は、生駒石というものだそうです。

 碑があることがわかってみると、それも当然のことだと納得できます。
 次回の「古都散策」で、3年半前にサーバーのクラッシュで消失した「鑑真ゆかりの瓊花(けいか)咲く」を再掲するつもりです。その時にも、唐招提寺は松本清張の『球形の荒野』に引きつけて見ていました。

 さて、その『天平の甍』文学碑は平成8年5月25日に建立されたもので、安藤更生と井上靖の業績を記念する碑となっています。2人に関するものとなっているのは、その碑文によってわかります。

 表面には、井上靖直筆の「天平の甍」と「井上靖」という文字だけです。
 裏面には、遠藤證圓大僧正の揮毫になる、以下の文が刻まれています。

千載の昔 淡海三船元開撰述の

『唐大和上東征傳』あり

早稲田大学教授安藤更正博士

『鑑真和上傳之研究』著す

作家井上靖氏その教示を得て

小説『天平の甍』を世に贈る

大和上の行實巷間に広まるは

両氏の功大なり


 帰りに、「天平香 瓊花」を求めました。「瓊花」については、次回の再掲ブログでその写真を掲載します。
 立川では、折々にお香を焚いています。
 これまでは、法隆寺の「沈香」を焚いていました。
 
 
 
091103tousyoudaiji8
 
 
 
 これからは、この唐招提寺の「瓊花」も楽しむことにします。
 
 
 
091103tousyoudaiji9
 
 
 
 お香を焚く道具の下敷は、米子の井上靖靖記念館の売店で購入したものです。
 期せずして、鑑真と井上靖の対面となりました。
 
 
 

2009年11月10日 (火)

古都散策(29)2年ぶりの正倉院展

 昨秋は、源氏物語展の開催に集中していたために、どこへも行かずじまいでした。
 今回、ようやく時間を見つけて、正倉院展に行くことができました。

 一昨年は、「古都散策(25)正倉院展」として、本ブログに書きました。

 あの頃は、展示のことばかり気になっていたせいか、学芸員の眼で見ていました。
 今年は、研究者の眼で見て回りました。
 今回は、特に写経に関するものが気になりました。

■「続々修正倉院古文書(写経生の作業報告書)」
 
 
 
091109syousouin1
 
 
(正倉院展の図録104頁より・部分)
 
 
 これは、天平14年(742)までの写経事業に関する報告書です。
 経師(書写を担当)・校生(校正を担当)・装瀇(装丁を担当)は、毎月末に各自が作業報告書を提出していたのです。
 この古文書は、提出された紙を貼り継いで、集計に用いたものです。
 作業従事者と、それを処理する事務担当者の現場が、こうして生々しい資料で見られるのです。しかも、1250年も前のものだけに、すごいことです。それが、我々にも記された文字が読めるのですから、日本の文化は恐ろしいということを実感します。
 
 
■「続々修正倉院古文書(写経生の報酬等に関する規則ほか)」
 
 
 
091109syousouin2
 
 
(正倉院展の図録105頁より・部分)
 
 
 
 天平勝宝3年(751)の記録で、写経所で仕事をする人々の給与計算に関するものです。
 図録の解説から列記します。

・「経師」は、紙40枚に写経をして「布一端」の給与を得る
・「校生」は、初校と再校を500枚ずつで「布一端」の給与を得る
・「装瀇」は、400枚で「布一端」の給与を得る
・表紙に題を書く「題師」は、100巻で「布一端」の給与を得る

 さらに興味深いのは、「経師」が書写する文字を間違った場合です。
 給与が減額される、という現実があったのです。

・脱行1行につき紙4枚分の減額
・脱字5字または誤字20字で紙1枚分の減額

 校正をする「校生」にも、減給があります。

・脱行を1行見落とす毎に、紙100枚分の減額
・脱字を1字見落とす毎に、紙20枚分の減額
・誤字1字につき、紙5枚分の減額

 ウーン、と唸ってしまいます。
 写経生たちの厳しい現実を、この生の資料は語っています。

 今年の正倉院展も、充実した内容で満足しました。

 なお、奈良公園の中の興福寺でおこなわれていた阿修羅等の拝観は、2年前に見ていることと、待ち時間が2時間以上だったのでパスしました。

 2年前のちょうど今頃、本ブログに「古都散策(26)興福寺の秘仏」として書きました。
 おついでの折にでもどうぞ。
 
 
 

2009年11月 8日 (日)

古都散策(28)唐招提寺の落慶法要

 古都奈良に関しては、2年ぶりの記事となります。
 2年前に居を古都から京洛へ移してから、奈良に行く機会がなかなかなかったのです。
 秋晴れのもと、西の京の風は心地良いものでした。

 先月中旬に「井上靖卒読(97)『天平の甍』」を書きました。

 その物語で最後の舞台となる唐招提寺に、この日、脚を運びました。
 行った日は、折しも金堂の落慶法要の最中でした。
 この平成の大修理は、平成12年から10年間にも及ぶものです。
 奈良にいたときから、唐招提寺には何度も行きました。しかし、金堂はいつも修理の大屋根に覆われていて、あの<天平の甍>はしばらく見られなかったのです。

 平成の大事業が終わったばかりの所へ行けたのも、何かの縁なのでしょう。知らずに脚を向けたら、ちょうど落慶の日だったのですから。
 
 
 
091103tousyoudaiji1
 
 
 
 もちろん、私は招待者ではないので、一般の入口であるテントに並びました。入場のパンフレットが手渡され、そのままどうぞ、と言われました。拝観料はいらなかったのです。

 金堂の回りは、紅白の幔幕で囲まれています。
 その中で、折しも読経と楽の音が聞こえます。
 一般の私たちは、その法要を覗き見ることすらできないので、少し残念でした。
 見上げると、新しい天平の甍が輝いています。
 
 
 
091103tousyoudaiji2
 
 
 
 後で知ったことですが、この日、谷村新司の落慶法要ライブがあったそうです。

 反対側に回ると、鴟尾にきれいな布が巻かれていました。
 
 
 
091103tousyoudaiji4
 
 
 
 新しい息吹を境内の雰囲気から感じ、こちらも気持ちが改まりました。

 新宝蔵も、この日は自由に入れました。
 創建時の奈良時代からずっと、屋根の上には鴟尾がありました。
 西側の奈良時代の鴟尾と、鎌倉時代に造られた東側の鴟尾が、平成の鴟尾と交代で下ろされました。そして、役目を終えた2つの鴟尾は、今この宝蔵に置かれていたのです。

 天平の甍を間近に見ることができました。
 なんとなく来てしまった唐招提寺でした。しかし、なんとなんと、私は鑑真さんから呼ばれたような気持ちのまま、帰路につきました。

 帰りのバス停に佇んでいたら、次の停留所が「都跡小学校」とあり、これまた驚きでした。
 
 
 
091103tousyoudaiji7
 
 
 
 「都跡」という地名は、昨年から話題となっている大澤本の元の所有者の所在地なのですから。『鑑定雑記』に出てくる地名です。
 意外なことに出会い、意外なものを見つける、何とも不思議な日となりました。
 
 
 

2008年1月 3日 (木)

【復元】古都散策(24)龍田大社へ初詣

(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)


☆2007年1月1日

人出の多い元日の龍田越え


 新年を迎え、いつものように家族で、河内高安にあるお墓参りに行きました。

 我が家のお墓は、『伊勢物語』の第23段「筒井筒」で有名な大阪河内の高安山の中腹にあります。大阪市内から淡路島までが一望できる地です。我が家のある平群の里は、ちょうど山の反対側に当たります。在原業平とおなじように歩いて山越えすれば、2時間ほどでしようか。

 私の出身小学校は大阪府八尾市立南高安小学校、中学校は同 南高安中学校です。まさに、高安の地です。
 中学校の冬のマラソン大会は、学校から奈良側の山を越えた平群町の信貴山までを往復することでした。小さい頃は河内高安で、大きくなってからは大和平群という、まさに業平の竜田越えの世界に私は生きているのです。

 お墓参りの後は、これまた例年のごとく、我が町の信貴山にある朝護孫子寺に初詣です。
 河内側から高安山を経て信貴山へ行くと、ことのほか人出が多いようでした。
 信貴山は虎が守護するところだけに、阪神タイガースの聖地です。優勝した年の人手はすごいものがあります。しかし、今年は優勝した年でもないのに、初詣客が多いのです。
 駐車場への待ち時間がすごいので、明日にすることで下山しました。
 反対車線の登りは、山頂から麓の王寺町まで、それも息子が卒業した信貴丘高校の校門あたりまで、車の列が続いているのです。こんなことは初めてです。

 我がご町内のお寺に、こんなに人がたくさん来ることは大歓迎です。しかし、ゴミが溢れ、自然が汚されるのはかないません。複雑な心境です。

 信貴山を下り、竜田の地にある龍田大社(大和国平群郡 龍田坐天御柱国御柱神社、現奈良県生駒郡三郷町立野南)にお参りすることにしました。


Y8zotvpc_s龍田大社の鳥居



 『日本書紀』の675(天武4)年4月10日の条に、龍田大社の風神祭のことが記されています。
 また、『延喜式』には「龍田風神祭祝詞」というものが収録されており、旧官幣大社の一つとしても全国に知られています。

 なお、法隆寺のすぐそばに龍田神社(大和国平群郡 龍田比古龍田比女神社、現奈良県生駒郡斑鳩町龍田)があります。
 私もその昔、この龍田神社を、かの有名な龍田の神の社だと思って、レタンサイクルで訪れたことがあります。しかし、平群の地に住むようになってから、そうではなくてもっと西の立野の地にあるのが、風の神の龍田大社であることを知りました。ややこしいことです。

 この龍田大社も、すごい人でした。賽銭を投げてお祈りをしようとする人が、長蛇の列をなしていました。


Gm07ocis_s本殿



 こんなに人が多い龍田大社は初めてです。
 本殿の横で振る舞い酒がありました。


Azkgy05b_sお屠蘇



 月桂冠でした。車で来ていて、おまけに糖尿病の私は、日本酒は避けました。
 例年、この場所では焚き火に人が群がっていました。しかし、今年の元日は非常に暖かかったからでしょうか、焚き火はありませんでした。

 いつものように、この龍田大社の破魔矢を買って帰り、床の間に掲げました。


Crnm5vt1 破魔矢



 今年も家族全員が無病息災で暮らせますように。



2007年12月 8日 (土)

古都散策(27)法隆寺と龍田川の紅葉

 久しぶりに、古都奈良の紅葉を見て来ました。
 少し曇っていたせいか、紅葉もややくすんでいたように見えました。例年は、もっと赤味があったように思うのですが……。もっとも、京都のような鮮やかさはないのが、奈良の特徴ではないでしょうか。

 法隆寺へは、東端の夢殿の方から境内に入りました。


9azy4ypz_s法隆寺の参道



 この長い参道は、我が家の子どもたちの遊び場でした。
 この直線距離を、行ったり来たりと、走り回っていました。そして、修学旅行の生徒さんたちからお菓子をもらい、また元気に走っていました。
 法隆寺は、我が家の庭の一部だったのです。

 法隆寺に来ると、私はいつも西端にある西円堂に足を向けます。金堂や講堂や五重の塔は、お客様をお連れした時だけ見ます。

 その西円堂に行く曲がり角に、湯茶のある休憩所があります。その和室に、紅葉が舞い込んでいました。


Mplgffs1_s休憩所の和室


 この雰囲気は、まさに奈良です。

 この休憩所で、二人の男の子が拾い集めた紅葉を、お母さんに競うようにして見せ合っていました。
 ほほ笑ましい光景だったので、思わずシャッターを切りました。


Te3ooszd_s紅葉を見せ合う



 ここから五重の塔を見ると、紅葉のすき間からかすかに見えます。


_fopubxk_s五重塔



 お茶飲み場をでて右に曲がると、目の前の石段の上に西円堂があります。国宝です。しかし、ほとんど人が来ません。


3oggr7dt_s西円堂



 ところが、今日はたくさんの人がいました。
 ボランティアの案内によって、ここに来た人たちのようです。

 西円堂は峰薬師をお祀りしています。しかし、私はその右横の十一面観音が大好きです。
 仏様を独り占めできる空間です。贅沢な時間を過ごせます。

 帰り道に、池の傍らに建っていた句碑に、初めて気付きました。


Wtr1cn_h_s柿くへば



     法隆寺の茶店に憩ひて
   柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 子規


 この俳句は知っていたのですが、句碑がここにあることは知りませんでした。地元ということで、観光ガイドブックを見ていなかったからでしょう。

 平群の自宅に帰る途中、龍田川の紅葉を見ました。一番きれいなのは、もう少し下った、龍田大橋の下のほうがいいのですが……。


Inwwbw2c_s龍田の紅葉



 我が家の下を流れていた龍田川は、かつては生活排水が流されて泡が浮いていました。しかし、今はきれいになっています。ただし、紅葉を愛でる川にまではなっていないのが惜しまれます。

 今日は、平群の家ともお別れの日です。
 最後まで残しておいたものを持ち帰ります。
 玄関の門柱に24年間も埋め込まれていた表札も、丁寧に外しました。


Ss7zmwtp_s表札の跡





 石の窪みの中にセメントで着けてあったので、取り外すのに30分弱かかりました。
 これは、父がくれたものです。
 長い間、家族を見守ってくれた品の一つです。

 京都の秋を堪能した後に、こうして奈良に来てみると、その違いを実感できました。

 空気の重さが違うようです。奈良が少し重いような……。
 空気の色が違うようです。奈良が少し彩度を落とし気味?
 空気の香りが違うようです。奈良は木の葉の香りがします。

 大学を出てから、河内高安に住みながら平安時代を見てきました。
 そして、古都奈良に住んで平安時代というものを眺めて来ました。
 これからは、平安京の市中から、その歴史の舞台を肌身に感じていくことになります。

 日々、楽しみが増えています。

2007年11月 8日 (木)

古都散策(26)興福寺の秘仏

 7dsbpxra_sパンフレット


 興福寺では、今月の下旬まで「秘仏特別公開」がなされています。
 国宝館で「国宝・八部衆像」がすべて公開されていたので、早速、見に行きました。

Cw5pk_at_s拝観券


 私は、阿修羅像が大好きなので、じっくりと見ました。
 この手のバランスが、何とも言えず好きです。
 そして、胸の前で合わす両手の微妙な隙間も、目が釘付けになります。
 顔が3面ありますが、私は正面がいいと思います。

 八部衆がみんな見られたのも、感動しました。写真集などで、1つ1つはよく見ていたのですが、自分の目で八部衆のみんなをジッと見つめると、また違った味わいがあります。

 鎌倉時代の製作になる、国宝・千手観音像にも魅入りました。
 中国の耳の不自由な方々が演じられる千手観音の動きが、目の前に像を置くと、その手が今にも動きそうに思われました。
 今春、中国の天台山に行った時に、このパフォーマンスのCD―ROMを買ってきました。本当にすばらしい演技です。ずっと、演じつづけてもらいたいと思っています。

2007年11月 4日 (日)

古都散策(25)正倉院展

 芸術の秋、とはよく言ったもので、芸術・文化に接する機会が多い季節です。

 この時期には、京都文化博物館で「トプカプ宮殿の至宝展」が開催されています。しかし、先般、京都文化博物館へ行ったにもかかわらず、今回も見る時間のないままに、古写本の調査という仕事だけで帰りました。
 トルコへ行った時には、ジックリとは見られなかったものが来ているのです。次回、ここに来た時には、きっと見たいと思っています。

 先日行った天理図書館では、2階で「中国の絵入本」という特別展をしていました。


Xrfd3hes_s中国の絵入本



 私は、漢籍のことはさっぱりわかりません。しかし、わからないなりにも、絵本ということでもあり、楽しく貴重な本の数々を見て来ました。

 天理からの帰りに、奈良市の中心部にある、奈良国立博物館で、正倉院展も見て来ました。


8jhev1kc_s正倉院展



 正倉院展は、ほぼ毎年見ています。
 現在、博物館の学芸員の資格を取るために、大学へ通って勉強しているせいか、展示されているものだけでなく、展示の仕方や、会場のセッティングに注意が向きました。

 御物には小さなものが多いせいか、展示ケースに油膜がたくさん着いていました。じっくりと見たいために、顔をガラスケースに近づけるからでしょう。観覧者の額や鼻や掌のアブラが、ガラスに着いているのです。
 ところが、それを布巾で拭き取る、アルバイトと思しき青年が活躍しているのが、目に留まりました。
 これは、展示方法を考えなければなりません。来場者が、どのようにして展示物を見るのか、もっと研究が必要です。

 そして、もう一つ、展示物で気になるものがありました。それは、「紅布衫」(べにぬののさん)です。これは、袍などの中に着る肌着です。
 その背面の裾に、墨で「刑部小君」と書かれています。展示解説の表示板によると、これは着ていた人の名前だとあります。そして、そこに「おさかべのおぎみ」と読み仮名が振ってありました。
 「小君」を「おぎみ」と読ませていたのです。
 『源氏物語』でいうと、第3巻「空蝉」や第54巻「夢浮橋」にでてくる「「小君」は、一般には「こぎみ」と読んでいます。「おぎみ」という読み方の、その根拠が知りたくなりました。
 今回の展覧会の図録の解説では、この「小君」には振り仮名がありませんでした。会場の説明板にあった振り仮名が、どうして図録にはないのでしょうか。
 手元の『源氏物語』の本文に関するデータベースで調べたところ、古写本のすべてが「こきみ」「こ君」「小君」となっていて、「おぎみ」は一例もありませんでした。
 これは、さらに調べることにします。

 博物館のある春日大社の広大な境内を散策していると、こんなものがありました。


Yemjft6u_s御神竹



 木の中から、竹が生えているのです。
 これは、非常に珍しいものに出会えました。
 秋の一日、充実した時間を持つことができました。

NPO法人〈源氏物語電子資料館〉広報室より

Powered by Six Apart
Member since 07/2008