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2013年12月 8日 (日)

甥の葬儀のこと

 霙もようの寒い朝です。
 昨夜は語り明かしました。
 秋田の冬は、家中を大きなストーブで各部屋を暖めます。
 それでも、一歩部屋を出ると、廊下は冷え切っています。

 戒名は「清照院玉峰成真居士」。
 「成真」は「じょうしん」と読みます。
 きれいな名前です。
 
 宗派は、我が家と同じ曹洞宗です。
 しかし、葬儀の段取りは関西とは大きく異なります。
 出棺、火葬などはすでに終わっていました。
 
 若すぎる死に、たくさんの方々が弔問にいらっしゃいました。
 弔辞は、一番仲のよかった親友です。
 従兄弟のお別れのことばも、語りかけるように情の籠もったものでした。

 お斎きという会食は、正面に御師さんと伴僧の方2人が座られます
 その右側に、甥の新紀元の位牌と写真、そして骨壺と花が置かれています。
 大勢で賑やかに、おいしい精進料理をいただきました。

 東京への帰りも、秋田経由の新幹線こまちです。
 
 今回の秋田行きで、いいお酒との出会いがありました。
 いつも、秋田に行くと、「由利正宗」というお酒をいただきます。
 その「由利正宗」に、「糖類無添加」というお酒があったのです。

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 いつも家では、「月桂冠」の「糖質ゼロ」を飲んでいます。
 これからは、このお酒も加えたいと思います。
 家族からは勝手な解釈を、と言って笑われていますが、主治医の先生からは、お酒は大いに飲みなさい、とおっしゃってくださっています。
 普段は焼酎を中心とした蒸留酒です。それに加えて、糖質ゼロのお酒を飲んでいます。
 もちろん、そんなに量は飲めません。食前は身体が受け付けないので、食後にいただいています。
 これで、私が飲めるお酒のレパートリーが拡がりました。
 
 

2013年8月26日 (月)

葉蓋を使ったお点前のおさらい

 過日、1ヶ月前に亡くなった仲間を偲んでの追悼のお茶会を催しました。その時は、ガラスの水差しが手に入ったこともあり、「蓮の葉蓋」(2013年8月15日)でお茶を点てました。

 素人ながら、なかなかおもしろい趣向になったと思っています。あくまでも、夏の仏事という設定です。しかし、折角ああでもないこうでもないと試行錯誤をしながらやったことでもあり、これを来年まで忘れないように、復習の意味で葉蓋のお稽古をしていただきました。

 梶の葉が一番よさそうです。来年のことも考えて、庭に植えようと思います。
 今日は、里芋の葉を用意していただけました。

 葉の上に水を落とし、水玉がコロコロする状態で、水差しをソロリソロリと運びます。
 この前は、この水玉に手を焼きました。蓮の葉が大きすぎたこともあるようで、動き回る水玉を鎮めるのが大変でした。

 あとは、いつものように運びの薄茶の要領です。
 違うのは、水差しの蓋を取るときでした。
 まず、両手で葉を持ち上げて水玉を建水に捨てます。
 次に葉を二つ折りにし、茎を勝手付きに向けた状態で葉を右、左と折り畳み、そこに茎を差し込んで留めました。
 指先で葉の真ん中に切り込みを入れると、楽に茎が通せました。
 この前は、エイヤッ、ブスリと刺したように思います。見た目にも変だったことでしょう。

 この葉蓋は、建水の中に落とします。ソッと建水に、ではなくて、ポンと投げ入れるように落とした方がスマートでいいようです。

 お点前を終え、建水を持って水屋に下がる時も、これまでと違いました。
 この時点で、すでに水差しには蓋がないのです。そこで、釜の蓋を切ってしめたら、柄杓を蓋置きに引かずに横一文字に持ちます。そして、すぐに蓋置きを取ったら、一膝勝手付きに向いて、そのまま建水を持って帰ることになります。

 イメージとしては一通りのおさらいができたので、来年の夏にまたチャレンジしたいと思います。洗い茶巾とうまく組めば、さらにおもしろいかと思います。ただし、あまりくどくなってもいけないので、また来年の夏の暑さを見ながら考えます。

 今朝は、明け方に寒くて目が覚めました。
 平群の里も、すっかり秋の気配でヒンヤリしていました。
 このまま秋に向かうのでしょうか。最近の天気は予測ができないほど変則なので、これからの寒暖の差が思いやられます。

 今日の午後からは『源氏物語』の注釈書に関する研究会がありました。途中からでも参加するつもりだったのですが、帰りに身体が急に気怠くて重くなったのです。こんな時には無理はせず、明日の部に参加することにして、早めに身体を休めることにしました。
 
 
 

2013年7月18日 (木)

15年目となった職場のウサギの会

 立川の職場では、ウサギ年生まれの仲間で親睦会を持っています。「ウサギの会」と言います。この会がスタートして、もう15年になります。

 私が着任した1999年に、一緒に飲みに行った仲間が、何と3人ともウサギ年だったことから意気投合し、集まりを持つようになりました。しかも、メンバーを募ると、同じ職場に10人以上もいたのです。意外に多かったのです。

 教員と事務方が一緒に酒を酌み交わす機会がなかったので、話が盛り上がるのです。また、同じ干支の一回りである12年の年の差は、不思議と話題が噛み合うのです。

 今日も、立川駅前の無国籍居酒屋で、3時間も話し込みました。職場を共にしているだけなのに、いろいろな話がつながるので、ますますおもしろくなります。
 そして、意外と同郷だったり、同じ学校の先輩後輩だったりします。

 職場で仕事として接している限りは、何も接点がなさそうです。しかし、干支が同じだというだけで、垣根が一気に取り払われます。まさに、事務的な関わりだった事情が一変するのです。

 不思議な縁で職場を共にしただけの、偶然の見知らぬ仲間です。しかし、話をするといろいろな関わりが見つかるものです。会って、話してみないと、気心はわからないものです。

 この、つながりとでもいう接点が見つかると、あとは自然に話が広がります。

 今日も、参加者8人で、予定をオーバーして話し込んでしまいました。
 次は年末に、と言って別れました。
 明日からの職場での人間関係が、また楽しくなってきました。
 
 
 

2013年7月16日 (火)

相変わらず杜撰で性善説に凭りかかった期日前投票

 以前、「【復元】こんな不在者投票でいいのでしょうか?」(2010/6/23)という一文を書きました。不在者投票では、「なりすまし投票」が可能だ、ということです。

 そして、昨年末にも、期日前投票をしました。その時も、事情はまったく変わっていませんでした。
 「初雪の朝に期日前投票をして上京」(2012/12/11)
 どうやら現在の選挙制度は、政治家にとっては変えてもらっては困る裏事情がありそうです。そうでなければ、こんなにいいかげんな投票システムをいつまでも続けるはずがありません。
 恐らく、国会議員の定数を減らさないのと同じ背景のもとに、政治家の都合によって選挙制度も変えない合意か何かがあるのでしょう。当落の全体に影響が少ないとの判断で、放置されているのでしょうか。
 不純な投票による誤差は無視しても構わない、という統計学上の理論があるのかもしれません。完璧を期すことは不可能なのですから。
 その前に、投票率をあげるという至上命令のため、本人であれ他人であれ、1人でも多くの人が投票することが最優先されている、というのが、実務を担当する各選挙管理委員会の本音なのかも知れません。

 さて、今回の参議院選挙も、今週末の投票日には行けないので、期日前に不在者投票をしました。
 届いていたはがきの裏にある「期日前投票宣誓書」に記入し、それを持って区役所へ行きました。
 
 
 
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 右側中程に、印鑑は不要だとあります。
 左側の3行目に「本人確認(誕生月日をお聞きします)」とあります。

 さて、実際に行った区役所の受付では、この本人確認があるとされている誕生月日の確認はありません。もちろん、私が投票ハガキを持参した本人であることの証明も求められません。
 係の方と一言も言葉を交わすことはなく、無言のままに、目を合わせることもなく、2枚の紙に日本語(固有名詞)を書いて箱に入れて帰って来ました。投票所に入って3分もすれば、もう外に出ていました。

 係の方は、私が差し出した1枚のハガキの「番号」と「宣誓書」を見るだけで、投票用紙をくださいました。
 私が誰であるかは、今回もまったく確認されることもなく、投票行動は終了しました。
 ハガキさえ差し出せばいいので、「なりすまし」や「代理投票」を見破る関門はありません。
 もし、私が女装して行っていたら、何か訊かれたのでしょうか。そんなことがあれば、それは性差別ということになるのかもしれません。

 とにかく、相変わらず「なりすまし」や「代理投票」には目を瞑る性善説にたった、理想的な選挙でした。
 日本は平和だな、と実感しました。
 しかし、今回も、何か変だな、と思わざるをえませんでした。
 
 
 

2013年3月27日 (水)

国文研の送別会で鈴木先生に花束を渡す

 今朝は雨でした。
 黒船橋から中央大橋を見やると、その川縁の桜はもう水面に花弁を散らしています。
 
 
 
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 私は、桜の散り敷く芝生や砂場などは好きです。しかし、川面にたゆたい、散り散りになって揺れ動いている桜の花ビラは、どうもいただけません。どう見ても、ゴミ以外の何ものでもないと思われるからです。
 東京は、もうそんな状態になっています。今週末までで咲き揃う花見はおしまいとなるようです。次は散りゆく桜を惜しみ、葉桜を楽しむことになります。

 立川の職場へ向かう脇道では、桜が今を盛りと咲き誇っていました。しかし、これももう週末には葉桜に変わりそうです。
 
 
 
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 今日は、今年度で国文学研究資料館を退職なさる方々の送別会がありました。
 勤務時間後の5時45分からの開始です。合同庁舎に一緒に入っている、国立極地研究所の施設の1つであるサザンクロスという、なかなか粋な名前の建物で行われました。私がこのサザンクロスに入るのは、今日が初めてです。

 今年で退職なさる方は、私が着任する前からいらっしゃった方々や、最近お出でになった方が15人ほどだったでしょうか。折々に助けてくださった方などには、いつも送別会では感謝の念を新たにします。

 専任教員としては、鈴木淳先生お一人でした。
 鈴木先生には、お世話になったどころではない、私が大学に入った時からお世話になっている先輩です。

 鈴木先生に花束を渡す役を引き受けてもらえないか、と幹事役の方が来られました。大学の後輩として喜んでお引き受けしました。
 
 
 
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 現在、ハーバード大学が所蔵する『源氏物語』の古写本の写真版を編集中です。その撮影にあたっては、鈴木先生が配慮をしてくださったお陰で実現した企画です。ありがたいことです。

 私が渡した花束は、こんな感じの花でした。
 
 
 
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 鈴木先生を始めとして、今月で退職なさるみなさま、いつまでもお元気で。
 そして、機会がありましたら、また手助けをお願いいたします。
 
 
 

2013年2月11日 (月)

家の片付けの合間にお茶のお稽古へ

 賀茂川の右岸から左岸に引っ越して早1年。しかし、運び込んだ荷物は、まだ片付いていません。

 この三連休を利用して、思い切って2階の片付けを一気に終わらせようとしています。
 階段の上り下りと屋根裏への行き来で、早々と筋肉痛です。

 そんな中、昨日はお茶のお稽古を控えていたので、掃除の合間を見て、妻を相手に練習をしました。

 1ヶ月ほどお稽古が空くと、細かなことはほとんど忘れています。正客役の妻には本を見ていてもらい、お点前の流れを囁いてもらいます。
 決まって、うっかり忘れる箇所があります。

 我が家の釜の蓋は、摘みが南鐐です。そのため、女性と同じように帛紗扱いで練習をしています。
 そこで、釜の蓋を蓋置きに置いてから、右手に持った帛紗をどのタイミングで左膝横に仮置きし、それをいつ腰に着けるのかが、どうしても思い出せません。

 また、水差しの蓋を取ることを忘れ、終わりの段階で茶碗に水を入れるときに、蓋がされていてアレッ、ということになります。

 妻に、本を何度も引っくり返してもらいましたが、その説明がなかなか見つかりません。

 今朝、時間を見つけて、昨日の復習をしました。そして、昨日わからなかったことがどうにか解消しました。

 この点を、今日のお稽古で早速先生に伺い、確かめることができました。
 出したお茶に口を付けられたら、帛紗を腰につけるのでした。
 水差しの蓋は、どうにかうまくできました。

 もっとも、今はわかっていても、また1ヶ月先になると、スカーッと忘れているので、難儀なことです。

 今日新たに確認できたのは、男性と女性でお手前において作法が異なるのは、一点だけだということです。
 それは、釜の蓋を取るときに、摘みが南鐐か鉄の場合は、男性も女性と同じく帛紗扱いをすることです。それ以外は、男は素手で摘みを持つのです。

 点前座で座る位置、道具を置く場所などなど、いろいろとつながってきました。
 帛紗さばき、柄杓の扱いなども、しだいに正しい形がわかってきました。
 鳩尾を意識し、お腹に力を入れて背筋を伸ばし、手の位置、足の運び方なども、その意味がわかると、さらにうまく振る舞えるようになろうとします。流れるようにとは行きません。しかし、身体を覚えるのを根気強く待つことにします。

 お茶は、本当におもしろい世界です。
 
 
 

2013年1月16日 (水)

夜行バスが大幅に遅れて

 昨夜、京都駅八条口からの夜行バスは、少し遅れて出発したものの、快適に中間地点である浜松サービスエリアを通過しました。

 ところが、朝6時に目覚めても神奈川県に入っていません。バスは、ピタリと高速道路上に、貼り付いたように止まったままです。出発時の不安が的中したようです。
 車内放送では、高速道路が雪のために閉鎖されているため、前に進めない車の渋滞に巻き込まれている、とのことです。

 10時になっても厚木にも着かないので、職場には今日の会議に遅れる旨のメールを送りました。

 その2時間後の正午に、やっと本厚木駅前に着きました。予定では、立川駅に朝6時半に到着の便でした。しかも、これから先もまだまだ渋滞のため、立川に何時に着くかは皆目見当がつかないようです。

 乗客の9割の方が痺れを切らして、もうここで降りて、ここからは電車に乗り換えるようです。バスの運転手の方も、発言には注意しながら、それを勧めておられます。私もそうすることにしました。

 本厚木から立川まで、登戸乗り換えで1時間少々。国文研には2時頃に着きました。
 立川駅から乗ったモノレールの車窓から見ると、職場周辺が広く雪を被っていることがわかります。
 左から、自治大学、国語研究所、国文学研究資料館と統計数理研究所と極地研究所の合同庁舎、右端が裁判所です。
 
 
 
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 この様子から見ても、相当の雪が降ったことがわかります。
 3時までに提出する書類は、何とか間に合いました。

 夜行バスは、これまでにも何度か使いました。しかし、こんなに遅れたことは初めてです。
 12時間以上も乗っていたので、イギリスから空路で帰ってくる時間に匹敵します。ただし、リクライニングシートでゆったりとした席だったので、エコノミークラスのような身体の怠さと時差ボケはありません。

 本厚木駅前でバスを降りたのは、ちょうどお昼の時間帯です。
 私は、いつも軽食を持ち歩いているので、今回も朝食と軽いお昼は、止まったままのバスの中ですませました。
 クッキー、クラッカー、チーズケーキにコーヒーと牛乳です。
 幸い、いつもより多めにカバンに入れていたので大いに助かりました。

 しかし、乗客の大多数はお腹を空かせたままです。さらには、この本厚木から目的地までの交通費千円ほどは、各自が負担することになります。学生さんにはきついことでしょう。

 かつて、新幹線が遅れた時に、何度も特急料金を払い戻ししてもらいました。しかし、この夜行バスでは、そのようなことは考えられません。

 たまたまこのような状況に巻き込まれたので思うのですが、お昼になっても高速道路を降りられない場合には、乗客に軽食か非常食を配ってもいいのではないでしょうか。若者が多い路線だけに、口にするものがない状況で、狭い空間での缶詰状態はよくありません。

 事故のない安全運転に細心の注意を払う次に、この非常事態での食料の確保も、高速バス業界にはぜひとも検討してほしいものです。
 
 

2012年12月11日 (火)

初雪の朝に期日前投票をして上京

 昨日は、京都に初雪が降りました。
 粉雪やボタン雪が舞い、やがて霙になった朝、選挙の期日前投票に行ってきました。

 なかなか投票の連絡が来ません。京都市の選挙管理委員会に電話で確認したところ、私が住む左京区は、先週金曜日にやっと発送を終えたのだそうです。突然の解散で大変なことだったようです。月曜日には届くでしょう、とのことでした。しかし、今週末には東京で研究発表があるので、京都での投票ができません。

 ハガキがなくても不在者投票ができるそうです。大急ぎで区役所へ自転車を飛ばしました。
 テーブルの上に積み重ねられていた宣誓書さえ書けば、投票できるのです。住所・氏名・性別・生年月日を書くだけです。

 以前この件で本ブログに「【復元】こんな不在者投票でいいのでしょうか?」(2010年6月23日)と題して書いた時と、あまり状況は変わっていませんでした。本人確認は形ばかりの紙に書いた文字列で、あくまでも性善説に立って期日前に投票するシステムなのです。7年前と同じでした。違っていることと言えば、宣誓書だけのような気がします。

 本来の投票日と比べると、期日前投票のチェックはあまりにも杜撰です。昨日の投票直前に、必要があって別のカウンターで住民票を申請しましたが、その時には写真付きの本人確認証を求められました。それが、選挙となると、簡単になりすまして投票ができそうです。宣誓書に拘らなければ、のことだけです……

 こんなに甘い本人確認の手続きになっているのには、何か深い訳があるのでしょう。
 そうでなければ、こんなに見え見えの、誰にでもなりすませる方式を何年もやっているはずがありません。
 ただし、ここではこれ以上の詮索は止めておきます。

 その後、すぐに東大路通りをまっすぐに下り、京大病院へ行きました。
 始めは顔に貼り付いたコーンフレークのような雪片も、百万遍を過ぎる頃には、もう晴れたり時雨れたりでした。
 入院の支度をして、この病院の玄関を入られる方がいらっしゃいました。新年をここで過ごすことになる戸惑いが、その顔にはっきりと見て取れます。

 一昨年の夏の私は、大文字の送り火を病棟から見られることが楽しみでした。しかし、新年の入院はと問われると、近くの平安神宮へ初詣に行くのが楽しみで……、とはなりません。
 自宅で新年を迎えたいものです。病気であれ、その他の事情であれ、どこで年を越すかは人さまざまでしょう。少し贅沢にホテルで、温泉地で、海外で、といろいろ好みはあるでしょう。
 まだ自分の意志で決められる内は、私は当分は自宅で、と答えます。紅白歌合戦を見ながら、ということは、ここ数十年なくなりました。それでも、家族みんなで年越し蕎麦を食べながら、新しい年を迎えたいものです。息子が除夜の鐘を友達と旅先で聞くと言って家を空けた年は、なんとなく櫛の歯が欠けた寂しい思いをしたものです。

 新幹線は、いつものように米原付近で徐行しただけで、15分遅れで東京に着きました。そして、いかに東京が暖かいかを実感しました。京都駅と東京駅の、ホームを吹き渡る風が、その違いを教えてくれたのです。

 宿舎に入っても、しばらくはガスストーブのスイッチを入れるのを忘れていたほどです。

 さて、今週から、本年のラストスパートとなりました。来年3月までの年度末をアタフタと迎えないためにも、ここが踏ん張り所です。風邪と闘いながら、さてさて捻り鉢巻の日々の始まりです。
 
 
 

2012年11月23日 (金)

平群へお茶のお稽古に行って

 午前中は時雨模様でした。風邪気味でもあったので、朝の賀茂川散歩は中止です。

 今日の午後はお茶のお稽古があります。
 久しぶりなので、自宅で練習をしてから出かけることにしました。

 今月11月から来年4月までは、炉を用いたお点前となります。
 我が家の炉は本格的ではなくて、電気式の炉壇を畳の下に埋め込んだものです。
 畳の一角を囲炉裏に切ってあるので、そこの畳を捲って床下のコンセントにつなぎ、準備OKです。
 これから半年間、折々に炉が使えるようになりました。

 炉点前は半年も前に教わったことなので、もうほとんど覚えていません。
 何とか夏の風炉点前の感触がつかめたかと思う頃に、ガラリと炉点前に変わるのです。
 お稽古は繰り返さないと覚えられません。本当にうまい仕組みになっています。
 おまけに、月に一度のことでは、なおさら身体にまでは染み着きません。

 妻にお客さん役をしてもらいました。ただし、そのついでに教則本を取り出してきて、お作法の手順と注意点を読み上げてもらいながらの練習です。それでも、わからない所がいくつも出てきます。

 釜の蓋を開けるとき、我が家の蓋の摘まみは南鐐なので、帛紗扱いになります。この蓋を蓋置きに置いた後、右手に握っている帛紗をどこに置いたらいいのか、突然わからなくなりました。また、その帛紗を腰につけるタイミングも。

 そんなこんなでなんとか一服点てて、それを妻に飲んでもらいました。少し練習をしただけで、すでにぐったりです。

 大和・平群に着くと、雨は上がっていました。山の中ということもあってか、かつて我が家のあった山手側の紅葉はまだのようです。京都よりも相当遅いのです。
 
 
 
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 お稽古は、なかなか思うようにはいきません。頭で覚えるのではなくて、体で覚えるように、といわれる由縁です。

 今日も、身体がお爺さんのように曲がっていることや、歩く時の手がブラブラしていることなど、いろいろと注意を受けました。気をつけることが多くて、ついうっかりとしています。
 頭の中をフルに回転させて取り組んでいます。しかし、それでも順番や手の動きが、思うようにいきません。うまくできないのに、それでいて、おもしろいのですから、お茶のお稽古は不思議なものです。

 続ける中で、1つずつよくすることを楽しみにして、このお茶の作法を身に付けたいと思っています。続けていれば、いつか身体が覚えてくれることを期待しながら。
 
 
 

2012年11月13日 (火)

再録(13)佐川急便の受け取りを拒否

 佐川急便に関しては、おもしろネタに事欠きません。
 「今でもデタラメな佐川急便」(2011年1月18日)でリンクを張ったサイトの1つが読めなくなるので、12年も前の記事ですが以下に再録しておきます。相当改善されたとのことです。しかし、実際にはどうなのでしょうか。

 全力疾走で配達しておられる姿を見かけると、ご苦労さまと声をかけたくなります。しかし、実情としてはいろいろな問題が引き起こされていることは、ネットに報告されているのでここで追い打ちをかけることはやめておきます。
 私宛に荷物を送られる際には、佐川急便は控えていただくよう、あらためてお願いいたします。

 とにかく、こんなことがあったということを、個人の記録として残しておきます。
 
 
********************** 以下、再録掲載 **********************
 
◇佐川急便の受け取りを拒否〈2000.5.10〉◇
 
 先日、佐川急便に電話をして、今後は佐川急便からの荷物の受け取りを拒否する旨の連絡をしました。預かった荷物の取り扱いが、あまりにも無責任でいい加減で、でたらめだったからです。

 発端から認めます。
 4月26日の午後3時に、佐川急便の配達担当者がK書房という出版社からの荷物を、拙宅に届けに来られたようです。中身は、今月刊行の『G 第五号』で、そこに「源氏物語とニューメディアとの接点」という拙稿が掲載されているものです。しかし私が不在だったために、不在票をドアに挟んでおいて行かれたのです。
 深夜に帰宅した私は、翌日、佐川急便に電話をし、私の実家の方に荷物を転送してもらうようにお願いをしました。ちょうどゴールデンウイークの時期であり、その電話をした27日から実家へ行くことになっていたので、荷物を実家で受け取るためでした。転送先の住所と電話番号を、電話に出られた方に伝えました。何も問題なく了解してもらえました。

 待てど暮らせど、その荷物が、4日経っても実家に届かないのです。不安になり、5月1日に、また佐川急便に実家から確認の電話をしました。電話口にでられた女性は、担当者に聞いて調べた後、折り返し電話をしてくれるとのことでした。またまた、私の住所と電話番号を言わされました。

 ところが、その日はおろか、3日後の5月4日になっても音沙汰がないのです。荷物がどうなったのか不安になり、佐川急便に確認の電話をしました。そして、またまたまた住所と電話番号を聞かれ、さすがに今回は、この前に2回も住所と電話番号を伝えたので記録はないのでしょうかと言うと、担当者が連休の休暇をとっているのでわからないので、もう一度言ってくれとのことでした。しかたなく伝えると、これから調べるので一旦電話を切り、後ほど電話をするとのことでした。

 そして数時間後、配達するはずの荷物は、今、当方のセンターに残っていた、とのことでした。
 なんともはや、荷物は転送の手配すらされずに、倉庫に放置状態だったようです。大至急こちらの実家に転送してほしいというと、明後日になるとのこと。クロネコ大和の宅急便は翌日に届くのですがというと、こちらではそれは無理だというのです。

 私も、たまたま5月のゴールデンウイークと年休を組み合わせて自宅を離れていたのですが、いつまでも実家にいる訳でもないので、この実家と自宅と、どちらに送ってもらうか悩んだ末、しかたがないので一日も早い実家に転送してもらうことにしました。そして、荷物は無事に土曜日の6日に入手し、翌7日にそれを持って自宅に帰りました。

 自宅に着いた途端に、玄関のドアを見てびっくりしました。ドアの隙間に、ヒラヒラと風になびく佐川急便の不在通知票が挟み込まれていたのです。赤地に白抜きで「明日また、お伺い致します。」と大きく書かれた紙です。
 よく見ると、5月1日の午後4時に来て挟んで行かれたものだとわかりました。4月27日に、実家へ転送してくれと連絡したはずなので、転送もせずにのこのこと自宅に持ってこられたようです。そして、その不在通知の紙が、まるまる一週間ものあいだ、自宅のドアの隙間に挟まれたままだったまです。この紙が、「この家の住人は今日もいませんよ。」という不在証明を一週間もしつづけてくれていたのです。

 私が自宅にいないことを佐川急便の方によって、第三者に証明してもらう必要はまったくないし、それは私にとっては迷惑なことです。

 佐川急便については、この「ハイテク問はず語り」の1999.03.09「またまたメディアビジョンのこと」で、以下のように記したことがあります。壊れた状態で配達されたパソコンを返送する時のことでした。


荷物を受け取りに来た佐川急便の方は、何かと急き立てるのです。回収を急いでおられました。こちらは、大切にあつかってもらえると思っていたのに、梱包材料も何も持ってこず、そちらで早く荷造りをしろというのです。
 大急ぎでやると、まだ一方をテープで止めていないのに、さっとテープを一カ所だけ貼って担いで持って行かれました。上記のメモを印字したプリントも、隙間に入れただけでした。何となく不安になる引き取り方でした。おまけに、「預り書」もくれません。
 佐川急便というのは、こんなにいい加減な宅配業者だったのですね。唖然としました。その時以来、いまだに何のお詫びもありません。ということは、今回のパソコンの損傷の全責任は、メディアビジョンにあったということなのでしょう。
 また、今年の2月には、キヤノン販売から送られてきたMacintosh用のビデオボード「ATI XCLAIM VR128」を、2週間がかりで受け取ったということもありました。原因は、夜間配達はしないということなので、いつも朝出勤して夜帰宅する私には、配達してもらう時間帯に家にいることが不可能だったからです。
 職場へ転送をとも考えたのですが、自宅で使うパソコンの部品なので、その大きな箱を電車で持ち帰るのが苦痛だったのと、道中に精密部品が壊れることの可能性をおそれたのです。

 そんなこんなの耐えられない理由の積み重ねもあって、佐川急便に対して、今後の拙宅への荷物の配達をお断りしたのです。

 今回のように、無神経に不在通知書をドアに掲示したまま帰られたのではたまったものではありません。電話口で対応にでられたTさんは、電話の最中に、3度も別の方に相談をするために、電話口から長時間、中座されました。その結論が、とにかく不承不承の「わかりました。そのように手配します。」という主旨の発言でした。
 実際には、もっとぶっきらぼうでしたが。「勝手に好きなことを言え、客の申し出なのでそのようにせざるを得ないのだから」という匂いがぷんぷんする対応でした。今後はこのようなことがないようにしますから、とか、お届けするのが仕事なので配達しないわけにはいかない、などなどの理由をもとに、謝ってこの場を収めようとされたのですが、こちらはもうこりごりなので、今後の拙宅への配達便はすべて受け取り拒否という扱いにしてもらうように、ひたすらお願いしました。
 謝ってすますことが通用しない相手だと観念されたのでしょう。あまりにも形式的な了承でした。この調子なら、また不在中の配達がなされることでしょう。

 なんともはや、佐川急便さんには、利用者の立場に立ったサービス業務に邁進してほしいと望む以外にない、というのが現状のようです。

 以上の理由により、拙宅への佐川急便を使っての荷物は届かないことになりました。佐川急便は会社などが利用するものなので、普通我々が荷物を預けることはありません。コンビニや街角には、荷物の取扱場所がないからです。
 私の場合でいえば、コンピュータ関係のソフトウェアや、出版社からの書籍などが送られてくることが多いようです。これから、機会を見て、会社関係の方々に、佐川急便では荷物を受け取れないということを伝えていこうと思っています。

 私と一緒に仕事をしている人も、佐川はひどいですね、といっています。会社を相手にした商売だからでしょう、とも。とにかく、佐川急便の配達方法には不明確なことが多いので、皆様方も十分にお気をつけください。
 
********************** 以上、再録掲載 **********************
 
 
 

2012年11月12日 (月)

再録(12)コンビニと宅配便の話

 今から14年前に、大和平群に住んでいた頃に書いた記事の再録です。
 (出所︰「大和まほろば発 へぐり通信」→「新・奮戦記」→「ハイテク問はず語り」→「3年目(1997.10.1〜1998.9.30)」→「コンビニと宅配便の話〈1998.9.4〉」)
 
 ここに報告したコンビニや自動販売機や宅配便の問題点は、今ではすでに解消されているのでしょうか。内部的には対策がとられていることでしょう。しかし、利用者から見て、その改善の度合いはよくわかりません。すでに解決されている、と信じるしかありません。
 もっとも、宅配便の傲慢な違法駐車は、最近では相当減ったようです。手押し車や自転車などに積み替えて配達しておられる場面をよく見かけるようになりました。配達される方は大変でしょうが、これはいいことです。

 一方、佐川急便のイケメンのことが話題になっています。しかし、現実の配達実態は酷いものです。このことは、また別の機会にしましょう。
 
 
********************** 以下、再録掲載 **********************
 
◇コンビニと宅配便の話〈1998.9.4〉◇
 
 コンビニで購入した缶入りウーロン茶を飲んで、一人の方がお亡くなりになったとのこと。身近な出来事だけに不気味です。

 不気味と言えば、過日、近所のコンビニエンスストアで「桃の天然水」というペットボトルを買ってきた息子が、突然「これ気持ち悪い」と言って、私の所に持ってきました。よく見ると、透明ボトルに入っている液体の表面に、ドロッとしたブドウの実のとろけたようなものが浮いているのです。表示ラベルを見ると、果汁の沈殿物があるかもしれないが無害である、と書いてあります。しかし、沈殿ではなくて浮遊しているのです。桃の実の一部かとも思いましたが、どう見ても異物なので、購入したコンビニへ持って行きました。

 店員の方は、他の同等の商品と比べてから、こんなものが浮いているのはおかしいと言って、新しいものと交換してくれました。透明ボトルだったからわかったものの、あれが色付きボトルだったらわかりません。缶入りだったら、中身が見えないだけに、それこそ飲み干していたことでしょう。

 昨日の夕方、息子と信貴・生駒の山中を、大阪との県境付近まで1時間ほどジョギングしました。山越しに見えた大阪側の夕日は、まさに茜色でした。
 喉が乾いたので汗を拭き拭き、途中の自動販売機でドリンクを買いました。息子は、すぐにスポーツドリンクの缶の飲み口や底を点検し、「大丈夫(^_^; 」と言っていました。私も笑いながら「気をつけような」と言って日本茶のドリンクを飲んでから、慌てて缶の上下を見ました。
 自分の無防備さを子供に教えられることが、最近は多くなりました。

 一昨日は、拙宅の近所の町で、自動販売機の瓶入り清涼飲料水に殺虫剤が入っていたそうです。無人有人にかかわらず、口にするものを安心して買えなくなってしまいました。日常生活で疑うという訓練をあまり受けなかったせいか、こうした社会の風潮に戸惑いを感じています。

 さて、拙宅から歩いて2分のところに、前記の「サンクス」というコンビニがあります。買い物は車でないと行けない山の中腹に住んでいるため、家族みんながチョッとした買い物によく利用しています。私は、宅急便を頼むのによく利用していました。しかし、今は、わざわざ車で山の下の取扱店へ持っていきます。近所のこのコンビニでの、荷物の取り扱いに不満があるからです。

 その「サンクス」では、預かった荷物を店内のレジカウンターの中に積んでいます。しかし、いつしか足下が狭くなるのでしょう。そうなると、宅急便の荷物を店の外に積むのです。

 その店を通りかかったとき、自分の預けた荷物が外に放り出されているのを見て唖然としました。私が預けた、書類を入れた封筒が、店外に積まれた宅急便の紙箱や段ボール箱の上に、ヒョイと乗せられていたのです。すぐに店に言いに行こうかと思いましたが、「大丈夫だろう」と思うことにして、そのままにしました。
 抗議をするというのは、勇気のいることなのですね。日常の生活圏ならなおさらのことです。

 そうこうする内にその店では、宅急便の預かり荷物がますます粗雑になりました。
 ドリンクやお菓子が入っていた空き箱や段ボールが店外に数十枚積まれている、そのすぐ側に積み並べられるようになったのです。毎週2つ位は宅急便を出すことが続くことがあったときに、店外に出さないで業者が受け取りに来るまでは店内に置いてほしい、と平身低頭お願いしました。そして、外に出すなら、業者からネットが貰えるはずなので、それで覆って貰えないか、ともお願いしました。

 店外ではネットをかけてほしいとのお願いは、3度ほどしました。そして、どうなったかを店員さんに聞くと、業者はそのようなものは用意していないそうだ、との返事でした。
 ヤマト運輸はそのような対策をしていると知人から教えてもらっていたので、再度確認してほしいとお願いしました。しかし、いまだに、夕刻になると預かった荷物は店外に放置されています。

 また、夏休みは、その店外の空き段ボールの山と宅急便の荷物の前で、時間を持て余した中・高校生が車座になってはしゃいでいるのです。自分の荷物がどうなるのか、ハラハラしました。
 これは異常だと思い、その店が頼りにならないので、宅急便の回収時間を目がけて持参することを続けました。しかし、それもばからしくなり、車で山を降り、きちんと屋内で管理してくれる店に持っていくようになりました。

 歩いて持っていけるところにあるのに、わざわざその店の前を通って車を走らせる愚かな自分に腹が立つこともあります。しかし、当の「サンクス」がこちらの要望を無視される限りは、安心して預けるわけにはいきません。そう思って、何々便を扱う街角のコンビニや酒屋やクリーニング店を見ると、結構、預かった荷物が店外や車道や舗道に積まれています。
 預かった店の人の視線の外に、荷物が転がっているのです。荷物の所有権はどこにもないかの状況です。あくまでも、私の生活圏である、奈良・京都・大阪でのことです。

 最近は、預けた荷物がうまく届いたかどうかを、インターネットで確認できるようになっています。私も、預けた店の雰囲気がおかしいときは、これで確認することが増えました。

 まさに、ヤマト運輸を疑い、そして自分の手で確認して安心します。荷物のトラブルが多いからでしょう。
 このインターネットのサービスは、利用者の不信感を何とか紛らわせるための方便なのでしょうか。しかし、利用者の立場からは、預けてから不安がるよりも、こうして確認できることは、ないよりはましです。

 みんな、信頼の上に成り立っている行為なのでしょう。しかし、これは宅配業者が何とか手を打たないと、いずれは信用をなくすと思います。お客様の荷物を預かるという原点が、末端にいけば単なるモノにすぎなくなるようです。そして、その荷物が紛失しても、取扱店も、それを回収する人も、そんなに責任を感じないシステムなのでしょう。
 宅配便の中身には、命を左右すると言えば大げさかもしれませんが、大切なものも多いと思います。預ける側も預かる側も、平和な社会に慣れてしまった一つの例といえましょう。

 海外に行ったときは、郵便物は届かないかもしれないことを前提に投函します。ロンドンの郵便局から日本に小荷物を送ったときは、到着に時間がかかっただけに心配しました。

 荷物の行き先を正確に区分けするバーコードが開発されたとのことです。しかし、上に記した例は、集配業務に入るまでの問題です。荷物を最初に預かる「人」の問題であることが、ハイテクと言われる社会の落とし穴のように思えます。
 企業は「人」を強調しますが、現実には効率的なシステムに依存するところで終わっているようです。とくに、コンビニという便利さを追求するところでは、商品や情報の提供・公共料金収納の代行は得意でも、荷物を預かったりする業務に関しては、まだまだ研究が必要だと思います。

 先日も、2つ持ち込んだ荷物の宛先ラベルを、それぞれを間違って貼り付けられそうになり、慌てて指摘しました。あのラベルは、やはり自分で貼るものですね。親切にやってくださるのを制止できないときは、目だけはラベルをジッと見ていましょう。あらかじめ書いたものを貼ってから持ち込むのがベターです。

 ついでといっては何ですが、もう一つ関連して……。

 宅配便の車です。わがもの顔での違法駐車がいまだにあります。早くからいろいろと指摘されていますが、まさに無法地帯です。宅配業界は、各省官庁や警察関係者にそうとう金品を渡し、接待をしてきたからこそ可能なことなのでしょう。お役人からの免罪符があるのでしょう。貢ぎ物の効き目のある内は、とにかく強気で、道ならどこでも車を止めてよいことになっているようです。町中では、舗道や商店街の中でもお構いなしに車を止め、ドアを開けっ放しで荷物の出し入れをしているのですから。

 近所のコンビニも、交差点の角にあることもあり、宅急便のみならず、商品納入業者の交差点内の駐車はもとより、人の迷惑を顧みない利用者のでたらめな駐車には、いつもいやな思いをさせられています。
 コンビニも、このような店周辺の状況にわざと目をつぶり、知らぬ顔で営業を続けています。このようなお店が全国にあることを思うと、コンビニと宅配流通業は社会への迷惑と地域住民による忍耐の上にあぐらをかきながら、便利さと人々の幸せを強調することによって成り立つ商売と見受けられます。

 自分たちが、人々に不快な思いをさせていることに気づいたときに、コンビニや宅配という業界は人間社会になじむ業種になることでしょう。かつての、村や町の人たちへの配慮があった個人商店のような信頼を得るには、まだまだ時間がかかるようです。もっとも、その信頼が得られるようになったときには、また別の物流形態が生まれているのでしょうが。
(妄言多謝)
 
 
********************** 以上、再録掲載 **********************
 
 
 

2012年10月24日 (水)

初めての長崎へ来ました

 九州には、あまり縁がありませんでした。
 これまでに、博多、太宰府、大牟田に行ったことがあります。今回の長崎は初めての地です。

 長崎空港には羽田から来ました。国内線の飛行機も久しぶりです。羽田は、数年前に韓国に行った時以来でしょうか。
 
 
 

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 今日から4日間、長崎大学で日本の古典籍の調査です。自由な時間は取れそうにありません。そうした中で、見たこと聞いたことを可能な限り書き留めておきたいと思います。

 街中に入ると、最初に目に付いたのは路面電車でした。広島で見かけて以来の路面電車でした。
 
 
 

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 ホテルでのチェックインをすませると、早速中華街に行き、チャンポンをいただきました。なぜか人の少ない店が多かったので、少しでも多くの人が入っている中国料理屋さんに行きました。
 
 
 

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 注文したチャンポンは、魚介類と野菜が多い湯麺でした。炭水化物の少ない食事を心掛けているので、太めの麺はあまり食べないようにしました。固めの麺かと思っていたら、予想に反して柔らかな麺でした。チャンポンのスープは、何となく長崎らしいかな、と思える少し濃いめの味でした。

 とにかく今日は何かと多忙な中での移動だったので、これからゆっくりと休むことにします。
 
 
 


2012年10月 6日 (土)

「今日庵訪問」で貴重な実地実見を体験

 21回目の裏千家「今日庵訪問」に参加しました。
 単なる施設見学に留まらず、やはり自分の目で見ると、それまでに聞いていたことが具体的にイメージできるようになります。断片的に知っていたことが、見たものと少しずつつながります。実地実見には、何ものにも代えがたいものがあります。

 今日庵の中でも、普段は入れないとされている所を、丁寧に案内していただきました。しかも、今日庵は来年から工事に入るそうです。この重要文化財の施設に、文化庁からのいろいろな指示を受けての工事です。補修はしてきたが、工事は初めてのことだ、とのことでした。「今日庵訪問」も来月までで、その次は新しい今日庵の訪問となります。いいタイミングで参加できました。

 この「今日庵訪問」を申し込んだのは初夏だったでしょうか。8月に、抽籤に漏れたとの通知をいただきました。ところが、9月になってから一人分のキャンセルが出たので、という電話が入りました。今日庵からの直接の電話に驚きましたが、とにかく幸運な出来事に違いありません。全国から、たくさんの方々が訪問を希望しておられるのですから。みなさん、なかなか抽籤に当たらないのだそうです。お茶の先生からも、今年がダメでも、また来年申し込みましょう、との慰めのことばをいただいていました。
 午前と午後の内、午前をお願いしました。

 今朝は、今日庵の目の前にある茶道会館に集合です。自宅から自転車で15分。紫式部の墓や宝鏡寺さんに何度も来ているので、この一帯はよく知っています。私が愛用する、竹で編んだ小さな手提げバッグを作ってくださった細川さんの工房も、この近くです。
 紫明通りを堀川通りにぶつかると南に下ってすぐの所に、茶道会館はあります。
 
 
 

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 集合した会館で開式があり、礼を重んじるところからお辞儀の練習を何度もしました。

 参加者は46名で、2つの班に分かれて見学が始まりました。男性は4名だけです。茶道における男女比率はこんなものなのでしょうか。私以外は、みんな若者です。
 男4人はスーツです。女性では、洋服は3人だけでした。たくさんの和服の女性を見ていると、着こなしの上手下手がよくわかります。これでは、民族衣装としての着物は今の日本人には定着しないな、と思いました。一部の人のものであり、こうしたお茶などの伝統文化に結びつくか、海外の方を意識した場での、見せものとしての民族衣装に留まらざるを得ないのです。残念ですが、着物の費用のこともあります。もっともこの点は、古着が一役買いそうですが。

 閑話休題

 2つのグループに分かれて、今日庵の兜門の前で記念撮影をします。
 
 
 

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 兜門から露地を通って玄関へ。
 グループ毎に別れて、各茶室の詳細な説明を伺いました。
 茶室又隠では、突き上げ窓からの採光の妙と、その窓から見えたイチョウが印象的でした。イチョウのいわれは省略しましょう。草庵の雰囲気が体感できました。

 書院造りの寒雲亭では、狩野探幽のふすま絵に見入ってしまいました。
 探幽が描いた絵は、八人の仙人がお酒を飲む姿を描いたもので、楽しい絵です。そして、墨の線の変化に見惚れてしまいました。

 咄々斎には、秀吉が利休に与えたドラが吊ってありました。ちょうどそのまん前に坐っていたので、頭上の意外な所にあり驚きました。

 抛荃斎でお薄をいただきました。老松のお菓子でした。
 先日、東京で研究仲間である先生のお宅に伺った時、この老松のお菓子をお土産に持って行きました。今日のお菓子も、非常に上品であっさりとした味でした。

 利休御祖堂は、利休と三代宗旦をお祀りするところです。今日庵の奥にあります。大徳寺三門の金毛閣の楼上にあり、利休切腹の理由と関わる利休の等身大の木造が、高い位置にある丸窓から見えました。家元は、出張以外は毎朝毎夕ここで勤行なさるそうです。
 記憶違いでなければ、教授昇進の折にはここで許状をお家元から直々にいただくとのことだったように思います。そして、この次のここに来られるのはその時しかないのだそうです。私をはじめとして、ほとんどの方には無縁とも言えることでもあり、それだけ貴重な場所を見ることができた、ということになります。

 一般の見学では見ることのできない、立ち入ることもできない領域へ足を踏み入れることができました。幸運と偶然の巡り合わせからとはいえ、ありがたいことです。

 点心は茶道会館の2階にある大広間で立礼でした。三友居の懐石膳です。ここの懐石料理をいただくのは初めてです。
 お椀には大きな松茸が置かれています。今年初めていただきます。一緒に、大きな鱧が横たわっています。大好きな鱧に満足しました。
 お酒は一献だけいただきました。料理は、ご飯と里芋以外はすべて美味しくいただきました。

 食後は1階で閉式に臨み、家元からのお土産としての寿扇と紋菓と今日庵の冊子をいただきました。

 その後は、手配されたタクシーで聚光院へと向かいました。大徳寺の塔頭の1つである聚光院には、千利休のお墓と、表千家・裏千家・武者小路千家のお墓があります。ここは、利休と三千家の菩提寺なのです。
 
 
 

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 方丈には、狩野松栄と永徳親子の国宝となっている襖絵がありました。私は、永徳の花鳥図と琴棋書画図を、特にじっくりと拝見しました。探幽との違いを感じたかったのです。
 茶室の閑隠席は重要文化財でした。

 帰り道、金毛閣の前で、案内役のNさんから千利休と大徳寺の話を伺いました。Nさんは非常によく勉強しておられる方で、裏千家で広報を担当しておられるようです。
 
 
 

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 この大徳寺で自由解散となりました。しかし、私は自転車を茶道会館に置いていたので気楽に歩いて帰ろうとしていたら、Nさんがご自分の車で送ってくださいました。一人でも多くの方にお茶に親しんでもらいたいとの思いを大切にして、全国の会に出向いておられるようです。勉強熱心な方なので、お茶の心を広めるお仕事で、ますます活躍なさることでしょう。最後に、こんないい青年と出会えたことも幸運でした。
 
 
 

2012年9月17日 (月)

お稽古帰りに見た2筋の虹

 時間の隙間をぬって、お茶のお稽古に行ってきました。

 先月までの入院で、体重がぐっと減りました。ところが、退院後は食事の管理がうまくいっているせいもあってか、体重が5キロも増えています。それが原因なのか、いつもは正座をしても足が痺れないのに、今日は早々と痺れだしました。そうかと思うと、膝を使って左右に向く動作は、いつもよりも楽でした。
 体重が増えたことと関係がありそうです。

 今日も、運びのお薄のお稽古です。
 流れはわかったつもりでも、細かい所作が不正確です。
 茶碗を拭くときや袱紗さばきで、左腕が動いていることを、やっと自覚するようになりました。無意識に動かしていたのです。身体で覚えるしかないようです。

 お稽古帰りに、駅へ向かって山道を下っていると、目の前にくっきりとした虹がかかっているのに気付きました。しかも2筋も……
 
 
 
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 あまりにも色鮮やかな虹なので、誰かが空に映し出しているのかと思うほどです。いかにも虹です、という虹でした。

 珍しくみごとな虹を見たな、と思いながら駅に着いた瞬間、バケツをひっくり返したという表現がぴったりの、土砂降りの大雨になりました。この天気の急変にも驚かされました。

 帰りの乗換駅である西大寺駅で、翻訳文化に詳しい京都府立大学のR先生と待ち合わせをしていました。久し振りに『源氏物語』の翻訳の話などをしました。大学は我が家のすぐ近くにあるのに、実際に会うのが奈良の西大寺というのが私らしいところです。
 とにかく、得難い仲間に恵まれています。また、一緒にいい仕事をしようと、話が弾みました。
 
 
 

2012年9月 6日 (木)

意外な原因でガステーブルの火が消える

 宿舎で使っている2口ガステーブルの燃焼部で、そのうちの一つが不調でした。私がこの宿舎にいなかった8月の間に、右側の温度感知棒が付いているバーナーがおかしくなったのです。手元の点火のつまみを離すと、ボウボウと燃えていた火がたちどころに消えるのです。手を離した瞬間に、フッと燃えさかっていた炎が止まります。
 何度やっても同じです。

 ガスのことなので、放置できません。指示されていた窓口に電話をしました。すると、まず乾電池の確認がありました。そして、センサーの棒と、燃焼口の溝とその回り、さらに炎が出る真ん中の目詰まりの確認をして、それでもだめならもう一度連絡を、ということでした。
 しかし、それをやっても改善されないので、あらためて電話をして、相談をしました。

 すぐに、技術員の方がいらっしゃいました。素早い対応です。そして、点検はすぐに終わりました。電光石火とは、まさにこのことです。

 若いお兄さんから丁寧な説明がありました。火が点かなかったのは、乾電池ボックスの汚れによる接触不良と、単1乾電池のパワー不足が原因だったのです。

 乾電池ボックスの接点が汚れていたのは、ボックスを手前に引き出しても半分しか前に出てこないので、奥の方に乾電池を押し込むことになる構造から来るものでした。奥の方にある接点が腐食していたようなので、よく見たつもりでもわかりませんでした。

 乾電池のパワー不足は、入れていたのがマンガン電池だったからだそうです。アルカリ電池でないと、煮こぼれ防止の過熱センサーに十分な電流が送られないので、最初にカチッとして点火しても、そのつまみを離すと火が止まるのだそうです。
 なるほど、アルカリ電池は力があることは知っていました。しかし、乾電池を入れるボックスには、アルカリ電池をとは書いてありません。また、乾電池の残量を自宅の計器で確認したのに、と言うと、目の前で測定器を取り出して調べてくださいました。たしかに、2個の内の1つが、パワーが下がっていました。
 それにしても、マンガン乾電池とアルカリ乾電池が、そんなに力が違うものであるとは……。それまでが特になにも支障なく使ってきただけに、あらためて知ったことでした。

 とにかく、すぐにガスは使えるようになりました。出張費用と修理技術料は、覚悟したほどではありませんでした。修理費や部品代によっては、新しく買った方が安くつく場合が往々にしてあります。しかし、今はそんな使い捨ての時代ではありません。少しでも使えるものは、可能な限り修理をしてでも使いきる時代です。
 結局、粗大ゴミとして出さなくてよくなったことに安堵しました。

 それよりも、これを機会に台所のガス台の周りの油汚れが一掃でき、ピカピカになったことが一番良かったと喜んでいます。予定外の、夏の終わりの大掃除となりました。

 このガステーブルは、私が初めて単身赴任で上京した時に買ったものです。13年間使ったものです。とはいえ、料理をほとんど作れない私のことなので、息子と一緒にいた一時期と、昨年から妻が上京して来てくれてから、このガステーブルの出番ができたのです。そんなに使わなかったので、13年という年数はこの道具の老朽化とは結びつきません。

 修理のお兄さんが帰られてから、なんとなく爽やかな気分になりました。台所がスッキリしたことと、まだまだ使い続けられることがわかったからでしょうか。
 食事に細心の注意を払って、私は日々の血糖値管理を進めています。そんな折に、こうして現役続投のガステーブルがあらためて認知され、ますますの活躍の場を得たのです。
 私の定年まで4年半。後しばらく、がんばってもらいましょう。
 
 
 

2012年9月 5日 (水)

新しく我が家の一員になったメダカたち

 この夏、東京を留守にしている間に、宿舎で飼っていたメダカとエビがみんないなくなりました。

 我が家のメダカたちのことは、ちょうど1年前の「江戸漫歩(44)深川も夏から秋へ」(2011年9月14日)で紹介したとおりです。

 家族の一員となっていたメダカたちだったので、また豊洲にある同じアクアコーナーで、新しいメダカたちをいただいてきました。寿命は1年ほどだそうです。昨年の第1世代のメダカたちは、天寿をまっとうしたようです。

 この店の若い店員さんは、私がいる宿舎の前にある海洋大学の出身者なのか、とにかく魚のことが詳しいのです。しかも、メダカのことになると、そんなことまで、と思うほど知識が豊富な方です。いい仕事をなさっています。

 新しく我が家の陶器の鉢の中に来た第2世代となるメダカたちは、楊貴妃2匹、ヒメダカ2匹、クロメダカ2匹の、合わせて6匹です。これまでは、ヒメダカ10匹だったので、見た目にもカラフルになりました。
 
 
 
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 涼しくなるこれから、この子たちと、また元気に生活を共にしていきます。
 
 
 

2012年7月 1日 (日)

平群の里で許状をいただく

 雨が降り続く中を、大和平群へお茶のお稽古に行きました。
 
 6月は一度も行けませんでした。今朝は出かける前に、自宅の電熱式の風炉で一通りの復習をしました。

 本を横に置いての練習は、これまでにも何度かやっています。『裏千家茶道 点前教則』という本がナビゲーターです。私はまだ初心者なので、今は最初の第1巻と第2巻の2冊を畳の上に広げ、それをチラチラと見ながら、写真解説を参考にしておさらいをしています。
 しかし、写真を目で追いながらできる部分は良しとして、忘れている部分など説明文を読む必要がある場面になると、どれどれとメガネを外して本を手にとってと、なかなか面倒です。

 お点前の手順が断片的にしか思い出せないので、流れるようにスムーズな練習とは程遠いものです。忘れていたことを思い出すため、と割り切った方がいいようです。

 やるたびに、そうそうそうだった、という塩梅なので、とにかく根気がいります。それでも、繰り返すたびに、いろいろと発見があります。奥が深いとは、こうしたことを言うのでしょう。

 家では襖の開け閉めからやっていました。しかし、先生のお宅では夏のお稽古ということもあり、開け閉めはありません。季節季節に応じた、バリエーションの多彩さがあるのも楽しいものです。
 おまけに今日は、平たくて丸い大きな水差しが最初から出ていました。最初に水差しを入口の建付に置いて挨拶をして、という水差しを運び出すところからではないのです。茶碗と棗を運び込むところからスタートです。

 えーっと、と、一呼吸置いて次の動作を考えて手を膝に置くと、すかさず、手を膝に置いて休憩しない、という先生の声が聞こえます。
 袱紗捌きも、胸を張って肘を上げて大きく、と、いつもの注意を。また、左手が袱紗を折り返すときにちゃんとできていませんでした。先を先へと考えると動きが小さくなり雑になるようです。そうではなくて、少し前を意識すればいいようです。とにかく身体で覚えるしかありません。

 柄杓を取るのも置くのも、少しまごつきながらもどうにか出来ました。

 夏用の茶碗は底が浅いせいか、持ちにくい上に点てる時に手を被せるように押さえるので、慣れないと滑らせそうです。いろいろな道具でお稽古を、ということです。

 どうにか一通り終えてから、もう一度通してやることなりました。ところがどうでしょう。先ほどは次の流れが見えていたのに、今度は混乱していろいろな場面でぎこちなく止まります。先ほど一度はできたという安心感があったせいか、最初のような緊張感が欠けていたせいか、気が緩んでいると不思議と思い出せません。身体で覚えていないせいだと思われます。

 いやはや、牛歩の歩みのお稽古を覚悟しています。

 今日は、今春申請した許状をいただきました。修道過程の入門と小習です。こうしたものを目の前にすると、スタートラインに立ったという気持ちを再確認させらます。
 
 
 

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 修練を積まれた方には、過去の書状でしょう。しかし、これからの者には、気持ちが改まる一枚一枚です。
 茶道という家元制度のシステムはともかく、多くの方が長い年月をかけて築き上げられた学習プログラムに今乗ったのです。そんな思いを強くしながら、雨上がりの坂道を下って元山上口駅に向かいました。
 
 
 


2012年6月25日 (月)

婿殿が内地留学で立川に入寮

 娘の旦那さんが、勉強のために3ヶ月間の学生生活をすることになりました。それも、私の立川の職場からすぐの、目と鼻の先の所にある学校なのです。私がいる建物から、今回入るという寮の窓が目の前に見えます。何とも不思議な巡り合わせです。

 彼は今日上京し、オリエンテーションを受けた後に、早速入寮となったのです。

 大阪から運び込んだ荷物を寮の部屋に置いて一段落してから、私の所に来てもらいました。何かあったら、私の所の方が避難場所としては安全だし、いろいろな設備もあるからです。
 お互いが、有名な立川断層の上に建っているので、まさかの場合の対処は入念にしておくに越したことはありません。

 夕刻から、最寄りの立川駅前の飲み屋で、ささやかながら歓迎会をしました。妻も駆けつけました。一週間前に、大阪で壮行会をしたばかりです。それでも、場所を東京に変えて、3人で再会を祝しての小宴会です。
 食べながら、呑みながら、四方山話に花が咲きました。

 娘は、今夜は婿殿の実家に呼ばれて、両親と一緒に食事をしているとのことです。お互いが入れ替わって食事をしていることになります。こんなこともあるのです。

 これから3ヶ月は、本ブログで突然意味不明の内輪の話になることがあるかと思います。それは、このブログが家族との連絡帳の役割をも果たしているからです。訳の分からない話題になることもあろうかと思います。それには、こんな理由があるからと、ご寛恕のほどをお願いいたします。
 
 

2012年6月21日 (木)

雅楽の音に身を委ねながら考える

 昨夜は、夕刻より神野藤昭夫先生の雅楽鑑賞に相伴して、ゆったりとした一時を過ごしました。

 朝から、ドナルド・キーン先生と伊井春樹先生の対談のお手伝いでバタバタした後、一息いれた夕方から、地下鉄で清澄白河駅と錦糸町駅の間にある住吉駅に移動しました。

 駆けつけた場所は、ティアラこうとう小ホールです。
 「盤渉調の調べと残楽」というテーマで、三田徳明雅楽研究会の水無月公演が開催されたのです。取るものも取りあえず、気忙しい思いで着席しました。
 
 
 
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 内容は、雅楽「唐楽」の中でも「盤渉調」に焦点を当てたものでした。
 最近の奏楽では、盤渉調の調べは明るく、そして軽くなっているのだそうです。それを、安倍家の伝承を重んじ、演奏する機会の少ない楽曲を、京都方楽家の安倍家伝来の篳篥の伝統的な演奏法で上演されたのです。
 特に私にとって、楽譜の説明などは、大いに啓発させられる内容でした。

 一言で言えば、古いものを正しく伝えることが大事だとの認識に立って、本来の雅楽の姿を求める演奏会ということになります。その意義の何たるかは、今の私にはわかりません。しかし、興味深く聞くことができました。これは、多分に三田氏の解説の軽妙さと、横におられた神野藤先生の的確なご教示にあります。

 曲目は、
「狛調子(こまぢょうし)」
「遠楽 遊兒女(えんがく ゆうじじょ)」
「越天楽 残楽三返(えてんらくのこりがくさんべん)」
「蘇莫者破(そまくしゃのは)」
でした。
 明治撰定譜に採録されなかった曲など、演奏される機会の極めて少ない楽曲だとのことです。

 なお、いただいたパンフレットの「演目解説」には、「遊兒女」に「ゆうにじょ」とかなが振ってありました。しかし、横に添えてある安倍家所蔵の「新撰篳篥抄」の楽譜(手付譜)の写真には「遊字女」とあるので、「兒」は「じ」と読んで「ゆうじじょ」でいいのではないでしょうか。余計なことでしょうが。

 出演は、三田徳明雅楽研究会のみなさんと、安倍家第29代当主で宮内庁式部職楽部前楽長だった安倍季昌氏が箏と和琴を。さらに、特別出演として宮内庁式部職楽部楽長補で東儀本家を継承しておられる東儀博昭氏が琵琶と鞨鼓を担当なさっていました。

 私などが飛び込みで拝聴するにはお門違いの、まさに専門家集団のようです。しかし、わかりやすくて面白い解説を交えた進行だったので、私でも楽しむことが出来ました。
 中国や韓国などへも積極的に指導に出向いておられるようです。本家では伝承されていない俗楽が、日本では雅楽として千年の時を経て今なお伝えられていることに、日本文化の継承における懐の深さが知られます。

 芸道と言うと物々しいことになります。日本古来のものをそのまま伝える心構えを訓練する、という気持ちで接すると、日本の文化に親しみが持てます。自分もその一端に触れられることに、知的好奇心が揺さぶられるような気がしてきます。
 その世界に入れば、お稽古という現実があります。しかし、その世界に接する、という心構えだけでも、文化の理解であり継承だと言えます。
 目新しいものに飛びつくことは、確かに前を見て進んでいるように思われます。しかし、温故知新という言葉を引くまでもなく、これまで伝えられてきたものを理解することが、明日を考える基盤になることも確かです。これまで続いて来た一本の道をしっかりと見つめると、目の前に開ける道が見えてくるのでしょう。そんな訓練の場として、こうした古典や文化の鑑賞が意味を持つように思えてきました。
 見て、聞いて、そして感じることを、これからも大事にしたいものです。

 堅苦しい内容になってしまいました。

 舞台裏の話が演奏の合間に混じると、敬して遠ざけがちな雅楽も、興味深く聞くことができるようになります。
 その意味でも、三田さんの語り口は有り難いものでした。

 確かに、夏に盤渉調なのだから、この冬は、夏の調子とされる黄鐘調でしょうか。面白い趣向だと思います。

 こうして椅子に座ってジッと楽の音に身を任せると、自然と気持ちも引き締まってきます。慌ただしいだけの1日が、充実した刻で満たされた思いです。もろもろに感謝しています。

 この前に雅楽会に行ったのは、これまた神野藤先生のお誘いを受け、昨秋、国立小劇場で開催された「越殿楽」でした。

 「国立小劇場での雅楽「越殿楽」」(2011年10月 8日)

 あれから何を勉強したわけでもないのに、不思議と聴き入る耳になっていることに我ながら驚きました。
 何でも見てみる聞いてみる行ってみる、という精神は、日々の生活を豊かにするようです。そのための気力を養いながら、またの機会を楽しみにしたいと思います。
 
 
 

2012年4月19日 (木)

マスコミで話題の被災予定地域に住んでいて

 最近、新聞やテレビで、私が生活する地域が話題になっています。
 東京都が公表した、首都直下型地震の震度7に関するニュースです。
 その被害の想定を見聞きするだけでも、大変な事態になることが明らかです。

 現在、東京湾北部と言われる江東区の隅田川河口部に宿舎があります。
 その川縁の老朽化した5階建ての2階に住んでいます。津波が来たら塵芥の藻屑です。

 そして、東京の西部の立川にある職場はというと、立川断層帯地震が濃厚となった、その活断層の真上に建っています。活断層の上にあることは、4年前に品川から移転して来る前から話題になっていました。私の部屋は、その3階にあります。免震構造になっているそうです。しかし、その地盤の断層帯が問題になっているので、揺れには強くても足下を掬われたら建物も立っていられないことでしょう。

 この2地点間を、片道1時間50分かけて都内を横断する通勤を続けています。
 宿舎を出て電車に乗ると、しばらくはずっと地下深くを走ります。水に襲われたら、逃げ場はありません。
 通勤電車の中盤からは高架を走ります。これまた、地震の揺れを考えるとぞっとします。

 昼間に地震が来たら、帰宅はできません。立川駅前の国立昭和記念公園で野宿の生活となりそうです。
 夜なら、深川からの逃げ場はありません。

 2ヶ月後に、娘の檀那さんが研修のために立川の自治大学に来ます。私の職場と地続きの建物なので、この夏に地震が来たら彼と一緒に昭和記念公園で暮らすことになります。

 心配なことは、昼間に地震が来たら、妻と離ればなれになることです。
 連絡を取り合うためにも、携帯電話の充電器を持ち歩くことを、先ほども夕食を共にしながら確認しました。

 こんな話を、現実のこととして語り合う事態となりました。

 このところ、私はコンピュータのデータをバックアップしています。クラウドとハードディスクとメモリに分散しています。
 生き残ったときに、どこかに残されたデータで、これまでつづけて来た仕事などができるようにするためです。特に、『源氏物語』の写本を翻字したデータベースは、入念に各所に保存しています。これは、次の世代に受け渡したいものだからです。それ以外は、あくまでも私のためのデータなので、そのまま消えてもいいものです。

 マスコミに煽られるようにして、東京での終末期を想定した生活プランの再検討をするようになりました。京都の引っ越しで、身の回りにあった荷物を整理していたところでした。その延長として、東京での持ち物をこの機会に整理するつもりです。

 過日、「大徳寺瑞峰院老師の書「放下着」」(2012年3月 8日)のことを書きました。
 まだ私には悟りの心境とは縁遠い日々です。しかし、この地震の騒ぎの中で、まさに、「放下着」の意味を考えるきっかけを与えられているようです。

 想定される災難をネタにしては不謹慎です。しかし、それだけ現実のこととして、目の前のものが無に帰する事態を考えさせられる状況が近づいていることは確かなようです。
 これは、京都にいては感じない、東京にいてこそ肌身に伝わってくる感触です。
 
 
 

2012年3月29日 (木)

送別会は前途を励まし合う場

年度末の今日、たくさんの方との別れがありました。

事務の方の定年は60歳なので、還暦を迎えたウサギの会のメンバー3人が退職です。一人は38年、もう一人は36年勤続という、組織を支えておられた仲間です。
 
教員では、3人が定年、2人が大学に転職です。

みなさん、これからの新しい人生が始まるためもあって、話も楽しく弾みます。お別れという湿っぽさは感じられませんでした。

それ以外にも、研究論文の目録をデータベース化するにあたり、さまざまな形で助けてくださった非常勤職員の3人にも、これまでの支援に感謝の気持ちを込めて心からお礼の挨拶をしました。直接顔を見て言葉に出して言うことは照れくさいので、うまく気持ちが伝えられません。しかし、助けられたことが多いので、本当に感謝しています。

また、今日までの勤務となった研究員の一人には、コーニツキ版データベースの文字入力のアルバイトに始まったこれまでの10年間、いろいろな局面で助けてもらいました。
私とはお別れですが、当人には新しい門出です。ますますの活躍を祈る気持ちで、それでいてとりとめもない言葉を交わしました。

みなさんに、うまく気持ちを伝えられなかったので、ここにあらためて感謝の念を記すしだいです。
 
仕事を頼むばかりで、細かな配慮が行き届かなかったことが心残りです。 
私も、ひたすら前を見て走りながらの日常だったので、ご寛恕を願うしかありません。

縁があれば、また一緒に仕事をしましょう。そして、 「まったく、もうしょうがないなぁ」と思いながらでも、これまで通り変わらぬ支援の手を差し延べてもらえたら幸いです。



2012年3月26日 (月)

それはないぞ、と思う時(1)

 日頃は何でもないことが、ある時これはどうも変だ、それはないだろう、と思われることがあります。
 そんなことをいくつか。

(1)新幹線の1両目に座っていた時のこと。
 新幹線に乗った早々、コーヒーが飲みたくなりました。目の前のテーブルの裏の車輌案内図に「自販機 6号車」と書かれていることに目が留まりました。さっそく6号車へ行くと、お茶と水の2種類だけでした。お茶があるなら、ついでにコーヒーと紅茶があっても、と思います。そんな時に限って、車内販売はまだ来そうにありません。
 揺れる車内の狭い通路を6輌分ほど歩いて、もと来た道を戻りながら、これが無駄足だったことをしみじみと感じました。
 
 
(2)郵便ポストを探して京都駅を彷徨いました。
 結局は駅の近くにはポストがないことがわかり、諦めて東京から投函することに決めました。宛先が京都市内だったこともあり、割り切れない思いです。
 京都駅の地下鉄とJRの改札口にいらっしゃった職員の方も、ポストの所在を聞いても要領を得ません。
 近鉄の乗り場までぐるっと回ったところ、その改札の方の説明で、今いる八条口の反対側の北口左手にある郵便局の本局か、南口の大通りを隔てたホテルの中にしかない、ということがわかりました。ポストのあるコンビニも、見当たりません。駅舎の敷地内には、郵便ポストはないのだそうです。以前はあったように思うのですが。
 本当にそうであれば、変な話です。設置しない、もしくは設置できない理由が何かあるのでしょうか。
 新幹線の改札を入ってから駅員さんに確認したところ、在来線の4、5番線ホームにあるのだそうです。乗り換え口でゲートを通過したい旨の説明をすれば行けるとのことです。しかし、それも面倒だし、時間をとるばかりです。
 京都駅の周辺を歩き回れば、郵便ポストはあることでしょう。意外なところにあるものですから。しかし、こんな時には、郵便ポストのためだけに時間を取る余裕を持ってはいません。ついでに投函する、という気軽な気持ちでいました。それも、京都駅ならと思ったのが甘かったようです。
 地下鉄を利用して京都駅に行き、EXカードで新幹線の予約をして乗車する場合は、特に注意が必要です。
 京都駅から郵便物を出そうとした時に、こんなこともあるのだ、ということを記しておきます。

(3)上記郵便ポストの続きです。
 東京駅の構内にも、駅員さんの話ではポストはないそうです。騙されているのかと思い、さらに聞いて回ると、やっと八重洲側の北口を出たコンビニの前にあることを聞き出しました。
 
 
 

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 確かにありました。しかし、何とも嘘っぽいポストです。悪い冗談でからかわれているとしか思えません。
 ただし、投函口の下に次のように書いてあります。


ご安心下さい。
本物のポストです!

 どうやら、これは本物のようです。
 投函しようとしたところ、店員さんが親切にも、このポストは午後3時までで、明日の朝9時まで集めに来ませんよ、とのことです。
 そして、ここ以外には、やはり東京駅の構内にはないそうです。日本郵便は、徹底して駅の構内にポストを置く気はないようです。
 大通りの向こうに郵便局があるとのことで、東京中央郵便局まで行きました。しかし、ATMはあっても、午後5時を過ぎているせいか、郵便局の窓口のシャッターが降りているので手紙が出せません。それも、何とこの郵便局の周りにはポストが見当たりません。ぐるりと一周してもないのです。日本は、ポストが駅や郵便局や街中に置けない制度になったのでしょうか。
 しばらく東京駅周辺を散策し、八重洲通り沿いにやっと見つけました。もっとも、その時間はすでに最終便の午後6時40分が過ぎた時間でした。表示によると、明朝9時に来るようです。この調子ではさらに別の駅の郵便局の本局へ行っても無駄なようなので、その八重洲通りのポストに投函しました。
 いやはや、日本の郵便物の扱いは、どうなってしまったのでしょうか。早々とエープリルフールの悪戯を受けている気分になりました。
 
 
 

2012年3月24日 (土)

楽しくて美味しかった娘たちの結婚式

 娘たちが念願としていた下鴨神社での結婚式が、本日滞りなくお開きとなりました。

 受付には、友達からのプレゼントである縫いぐるみが置かれています。
 
 
 

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 午前中は雨が降っていました。尾形光琳の紅梅白梅図のモチーフとなった紅梅を背景に、雨が止むのをひたすら祈りました。
 
 
 
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 その願いが通じたのか、結婚式が執り行われる重要文化財である葵生殿に入る時には、雲間から日差しが漏れる好天となりました。さきほどまでの雨が嘘のようです。雨天、曇天、晴天と好転したことにより、参列者のみんなが心晴れやかになりました。
 
 
 
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 披露宴でのスピーチは、新郎側の主賓の挨拶だけという、一見非常にシンプルな式でした。しかし、新郎新婦の手作りのものが至る所に配されていて、心温まる中身の濃さに参列されたみなさんは満足しておられたようです。
 
 新郎新婦入場の音楽は、2人が大好きな曲「get along together」です。
 下鴨神社専属の二十弦箏奏者の島崎春美さんと、世界的なギタリストの山本幸二さんが編曲して下さったデュオでした。贅沢な生演奏でスタートです。

 新婦は、葵祭の御所車がモチーフとなった西陣織の色打掛で、手に持つ手毬のブーケと髪飾りは帝王貝細工という花で、花言葉は「永遠」。この帝王貝細工は、秋田からお出での新婦の伯母が、今日のために心をこめて栽培してくださったものです。

 テーブルの上には、これまた秋田の新婦従兄からのプレゼントで、自家栽培して製造したトマトジャム。もう一つは、新婦が去年留学していたフランスの婚礼菓子ドラジェが置かれていました。しかも、その包みは、どちらも神社らしい和の飾りで、日本の伝統が大好きな新郎新婦の手作りです。

 今日の食事は、京料理では別格の下鴨茶寮の会席料理です。この料理をみなさんに堪能してもらうためもあって、式でのイベントは最小限にしたとのことでした。
 私は、今日の料理を完食しました。おいしかったので、赤飯もご飯もいただきました。これは、すぐ後で抹茶をのむことがわかっていたので、食べても血糖値はそんなにあがらない、というこれまでの傾向を確信していたからでもあります。

 そして、この日のメインイベントとでも言える、お茶のお点前となりました。
 今日は、立礼という形式でのお点前です。
 
 
 
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 本日のお抹茶は不肖私が選んだもので、京都寺町一保堂の「契りの昔」です。
 新婦は色打掛でのお点前は初めてということで、お茶の師匠である森田先生が横に控えてくださいました。
 
 
 
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 新婦がたてたお茶を、新郎が自分の両親に運びます。
 続いて、新婦両親には新郎がたてたお茶を新婦が運ぶ、という趣向です。
 
 
 

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 新郎新婦がお色直しのために退席している間は、祇園の舞妓さんが京情緒たっぷりの祝舞を舞ってくださいました。

 新婦のお色直しのウエディングドレスは、私の妻の手作りで、ジムトンプソンのタイシルクを使って作ったものです。4日がかりで完成させ、昨夜は、徹夜で細かい調整をしていました。本当に心を込めて作ったドレスで、みなさんがその出来映えのみごとさに見とれておられました。また、よく似合っていました。

 ブーケも新婦が手作りし、同じ花で新郎とおそろい、また新郎父と新婦父のブートニアも娘のお手製でした。
 
 
 

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 あらゆるものが手作りで構成されていて、日本の伝統的な文化がふんだんに盛り込まれた披露宴会場でした。

 式が無事に終了してから、秋田からお越しのみなさんを我が家にお呼びしました。そして、私と義兄とで、披露宴で点てたお抹茶「契りの昔」を使って、お茶を飲んでいただきながら、わいわいがやがやと語り合いました。

 予定では、5人に私が点てることになっていました。しかし、なんと12名も集まったために、急遽お作法はいろいろと省略して、4つの茶碗をフル回転させてお点前をしました。
 
 
 
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 お菓子は、「えくぼ」という上用饅頭と「かも川」という大納言の砂糖菓子を用意しました。3日前に少し多めに予約していたので、大人数になっても事なきを得ました。

 その後は、みなさんが宿泊なさっている賀茂川畔の旅荘に会場を移し、結婚式を振り返りながら楽しい食事の一時を過ごしました。
 娘のスピーチが、お涙頂戴ではなくて、ことばを選びながら自分のことばで今の両家の両親に対する気持ちを素直に語っていたのに好感が持てた、と褒めていただきました。親として、これは嬉しいことです。淡々と語る中に、誠実さが伝わってきたそうです。思わず、巧まざる内容に感激で涙が出た、という状況だったようです。涙を誘わないスピーチを目指した娘にとって、1つの勲章のようなものです。よかった、よかった、との思いを強くしました。
 
 
 


2012年3月21日 (水)

さまざまな物を整理していて

 相変わらず、身辺整理を続けています。
 今日も、ビデオテープやカセットテープを数百本処分しました。もう、トータルの本数はわかりません。

 例えば、息子と一緒に見た「ウルトラマンタロウ」のビデオ。これは娘も好きだったので、一緒にテレビにかじりついていたはずです。
 またこのビデオを子供と一緒に見たいな、と思いながらも、そんな日はもう来ないだろうな、とも思います。これは、処分すべきものなのでしょう。しかし、捨てる手が、一瞬ですが躊躇しました。

 娘が4歳の時に、まんが「タッチ」の映画版を見に難波の映画館へ連れて行きました。前の方に座って、明治の「きのこの山」を食べながら観ました。
 その映画のビデオも、捨てる手が一瞬止まりました。

 物を整理するというのは、過去を捨て去ることに通じるように思えます。しかし、そんなことを考えていたら、整理などできません。ここは心を冷たくして、過去を回想しないようにして捨てざるを得ません。

 カードの山が出てきました。
 梅棹忠夫の『知的生産の技術』の影響を受けて、あらゆる情報をB6カードにメモしていた頃のことです。私家版のB6カードを設計して大量に作り、それに電動式ひらがなタイプライター(シルバー・リード)で印字していた頃のカードが出てきたのです。
 このカードには、「シェクスピアと平安後期文芸」というタイトルが書かれています。
 
 
 
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 これこそ、昨夏、「JISカナ・キーボードの存続が危うい」(2011年7月24日)で、次のように書いたカードそのものです。


 私は、コンピュータを導入する前は、シルバー精機の電動ひらがなタイプライタを使っていました。京大型カードを使っていたので、そのB6カードの大きさの特製私家版を作り、そのカードをタイプライタに差し込んでメモなどを印字していました。

 写真を見ればわかる通り、黒と赤のインクリボンを使い分けています。
 末尾の「(A−101、P20)」というのは、別の図書整理ノートの図書ナンバーを見ると、『有明けの別れ』(大槻修、創英社、1979・3・10)という本からの抜粋であることがわかります。

 現在、私はこうした抜き書き資料は、Macintosh と iPhone に入れてある「エバーノート」というアプリケーションで保存・管理しています。情報を電子化し、素早くファイリングしていつでも検索できるようにしています。

 30年以上前のカード式情報整理に比べて、今はスピードアップが計られています。しかし、その効率はかつてのカード式より向上したかと思い返してみると、明確に向上したとは言えない面が多々あるのです。特に、カードをめくりながらさまざまな思いの中を彷徨っていたあの楽しさを、今は忘れているように思います。いかに的確に必要な情報に早く行き着くかに精力を払う日々になったように思うのです。

 考える力が衰えたのは、年のせいだけではなくて、考える道具のせいもあるように思えるのです。

 大量のカードが出てきました。カードを繰っていると、連想ゲームをしているようでおもしろいのです。しばらく忘れていた感覚です。

 デジタルだけではないアナログの楽しさに、身の回りの整理をする中で行き当たりました。
 身辺整理を続けながら、老化の始まりかな、との思いが過ぎります。しかし、しばらくはこのテーマを考えてみる価値があるように思うようになりました。
 
 
 

2012年3月18日 (日)

ゆらゆら揺れる釜の横でお稽古

 お茶のお稽古を続けています。今日も大和平群に行きました。

 全体の流れが少しずつわかってきたので、気分的には大分楽になりました。
 とは言っても、まだまだ細かいところがあやふやなことばかりなので、先生からの囁きが頼りです。今日も姿勢が丸まっていました。これはいつもながら要注意です。

 最初の方で、棗と茶碗を持って入り、水差しの正面に置く時のことでした。左手の指を茶碗の底の高台にかけて持っていたので、指が邪魔で茶碗を置くことができません。持って入ってから、自分が何をするのかがまだよくわからないままであることが、こんな時によくわかります。

 また、建水に乗せた柄杓が落ちそうになりました。今は5人にお茶を点てるという想定でのお稽古なので、最初に茶碗を2つ持って出ます。そのため、右手に持った茶碗のことが気になって油断していました。なんとかこらえましたが、なかなか器用にはいかないものです。

 棗や茶碗を置く位置や動かし方は、どうにかかわりました。ただし、まだまだぎこちないので、あとは慣れでしょうか。

 今日は、筒状の小振りの釜が天井から吊ってある形式です。自在鉤に吊された鍋を連想させます。もちろん、もっとスマートで見た目も変化があって良く、さまざまな趣向のパターンがあることがよくわかります。
 この釜が、お湯を汲んだり差したりするとゆらゆらと揺れるので、柄杓で揺れを止めたくなります。余計なことはしないで、お手前に集中しなさいと言われました。

 次から次へと、4服連続で点てました。点て終わると、先の茶碗が帰ってきています。それをきれいにするとまた点てます。同じ動作の繰り返しになると、次第に要領がわかってきます。

 今日わかったことは、何服も点てる時は、釜のお湯を汲んで茶碗を濯ぐ時、柄杓に半分くらいのお湯にしておかないと、お湯がすぐになくなるということです。
 いろいろなケースがあるので、柔軟な対応を身につけておくことが必要です。

 先生にお願いしていた、色紙と短冊を飾るお軸が届いていました。
 早速、家で飾ってみました。床の間ではなくて、普通の聚楽の壁に掛けています。何でもない部屋が、いい雰囲気になります。
 
 
 

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 この色紙については、「色紙の禅語「竹葉々起清風」」(2012年3月13日)に書いたとおりです。

 五月を境に風炉となります。炉手前も、今のうちに少しでも慣れておきたいと思います。そして、道具類も手に入る時に少しずつ。
 何かと物入りです。しかし、少しずつ楽しみが増えていきます。
 四季折々に飽きないように、巧く考えられています。
 
 
 


2012年3月15日 (木)

ささやかな私の地震対策

 昨日の千葉県沖の地震は、関東にいる者にとってはさまざまなことを考えさせられました。大多数の方が、やはりこれは大地震の前触れだと感じたはずです。
 近いうちに来るという覚悟はできています。マスコミも、その日をカウントダウンするかのように煽っています。その思いを強くさせるものであったことは確かです。

 そうであれば、問題はどのような準備をしてその日を迎えるか、ということになります。
 備えあれば憂いなし、などという呑気なことを言っている場合ではなくて、目の前のこととして、もう具体的な対処をすべき段階だと思います。

 そこで、今、自分が行っていることを整理しておきます。

 毎日、枕元には非常持ち出しのカバンを置いて寝ています。これは、高校を卒業して上京し、住み込みで仕事をしながら生活を始めた18歳から実践していることです。成人式の直前に、住み込んでいた店が出火しました。枕元のカバンをしっかり摑んで白煙の中を窓から飛び降りた時も、この用意が生活の立て直しに役立ちました。

 昨秋、防寒対策を兼ねた寝袋と非常用の食料を、職場である立川の研究室に備えました。立川断層の上に四角い箱の状態で建っているので、移転する前から災害時のことが話題になっていました。

 また、職場から東京の宿舎までは、都心を横断する形で電車に100分以上乗るので、とても歩いて帰ることはできません。災害時には、当然職場に泊まり込むことになります。

 そうしたことを考えると、着替えや軽快な靴も、職場にないと困ります。昨日の地震を受けて、早速細々とした身につけるものも運び入れました。これらは、これからぼちぼちセットして、一週間は泊まり込めるようにするつもりです。

 職場の建物は、免震構造になっています。しかし、部屋にある書籍や資料は、棚から落ちたり散らばったりすることでしょう。これには、手の打ちようがありません。

 さらに、通勤途中に地震に遭ったら、もう成り行きに任せるしかありません。とくに、通勤時間の半分は地下鉄の中なので、その時の我が身は運に任せることにします。

 宿舎の部屋は、伊井春樹先生が若い時に住んでおられた5階建ての2階にあります。もう40年という老朽化した建物です。
 隅田川の河口なので、東京湾から津波が来たらひとたまりもありません。

 同僚が、隣接する10階建ての上階にいるので、何かがあればそこに逃げることにしています。問題は、災害時にそこまで行き着けるか、ということだけです。
 これは、瞬発力と脚力が運命を分けそうです。

 宿舎の部屋は、昨春までは単身赴任だったので、あまり物がありません。
 昨年の地震でも、テレビが倒れてフレームに傷が付いたことと、壁掛け時計が落ちたこと、そして書棚の本が飛び散って襖に穴があいたくらいでした。老朽化した建物ですが、骨組みは昔の工事ということもあり、しっかりしているようです。

 このまま解体を待っている状態の建物でした。しかし、大事が具体的に想定されている最近の現実を踏まえて、建物の耐震補強工事が計画されているようです。隣接する2つの10階建ての宿舎は、耐震工事が3年前に終わっています。私が入っている建物だけが、工事を見送られていたのです。
 朽ちたままでもう少し使おう、というのではなくて、問題が起きない内に対策を早急に施そうという方針転換は英断です。直面する危機に対する緊急避難的な対処であっても、これは大歓迎です。一日も早い工事を待っています。

 週末になると、いつも新幹線で京都に移動しています。
 明日は館長の研究会と懇親会があるので、翌土曜日の一番列車で帰洛します。
 この移動する東海道新幹線が、地震や津波の警戒地域となっているので、これまた気が休まりません。

 京都に帰っても、自宅に近い比叡山の北側には、花折断層があります。

 さすがに、日本海から京洛への津波や、賀茂川の氾濫は考えなくていいようです。しかしそうは言うものの、今の私の生活環境は危険と不安が綯い交ぜになった中に身を置いていることに変わりはありません。この日本のど真ん中を往き来しながら東西に住み続ける限り、これは避けられないことです。

 こうなると、なるようになるさ、というのが今の偽らざる気持ちです。
 最近は庵の生活を標榜しているので、身軽に生きることを実践していきます。その延長上で地震との交点があるのなら、それはそれで私が持っていた運としましょう。そこは、人知の及ばないところなのですから。

 この話題は、夢のないことになりがちです。しかし、そうであればなおさら、夢を自由にふくらませることが出来るよい機会だ、と考えていくつもりです。
 
 
 

2012年3月 4日 (日)

楽しみな結婚式後のお茶会

 小雨の中を、大和・平群へお茶のお稽古に向かいました。
 平群は、生駒山の中腹で小高い丘陵地にあります。コミュニティバスが通っています。
 
 
 
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 しかし、この地に5年前まで20数年間住んでいたときにも、バスはあまり使いませんでした。この急な坂道を登り切った所にあった我が家に着いた時の、適度な疲労感が心地よいのです。

 もっとも、多少お酒が入った時には、一気には坂を登れません。そのためという訳ではないのでしょうが、写真の左下にあるように青いベンチが途中の数カ所に置いてあるのです。ここで一休みして、息を整えながら帰ったものです。

 月に2回のお稽古を目指しています。しかし実際には1回がやっとです。
 これも続けることが大事なので、身構えずに、できる時にできることを、という気持ちで取り組んでいます。

 さて、今日も薄茶のお稽古です。それも、娘の結婚式で集まった方々に一服差し上げるため、5人のお客さまを想定しての練習です。
 前回やったはずなのに、最初からお茶碗を二つ持って出るのを忘れたり、返って来たお茶碗を取り込むタイミングを逸したりと、中々思うに任せられないものです。

 先生からは、柔軟に対応したらいいから、との優しいアドバイスをいただきます。しかし、その多彩だといわれるバリエーションの実態がまだよくわからないので、その柔軟さの程度も加減がわからないのです。これも、場数をこなすことでわかってくることなのでしょう。

 水差しを置く位置、柄杓の取り方、お湯を汲む量、袱紗捌きの時に腕を伸ばすこと、全体としてもっと胸を張って背筋を伸ばすこと、道具を下げる時の足の運び方、などなど。いつまでも初心者というわけでもないので、一つ一つ自然にできるように気を配っていきたいと思っています。

 昨日も、姉や妻にお茶を出して少し練習をしました。しかし、自分勝手な思い込みでやっていたこともあり、いろいろと違っていたことがわかりました。やはり、お稽古を通して身体で覚えるのが一番近道のようです。

 一つ、褒めてもらいました。お茶の点て方がうまくなったと。茶筅でかき混ぜた後、ゆっくりと泡を優しく撫でるようにすると、柔らかい泡に包まれたお茶になるようです。
 正座は以前から長時間座ることができました。しかし、お茶では途中で膝で左右に身体の向きを変えたりします。私は身体の筋肉がすっかり落ちてしまったので、畳を擦る骨が痛むのです。ところが、先生が言われる通りに膝と踵を少し開き気味にして座っていると、その痛みが少ないのです。いろいろと工夫があるものです。

 今日は、お稽古以外にお茶の道具などのこともたくさん教えていただきました。
 床の間に掛ける軸のこと、お花と香盒のことも。
 昨日は茶釜の金気を取るために番茶を沸かしました。その後始末については、ぬるま湯で2回ほど沸かしたらいいそうです。

 そうそう、娘の結婚式の中で、新郎新婦が両親に立礼のお作法でお茶を点てるという場面があります。その時に使う釜は、昨日金気を抜いて錆び取りをした茶釜ではなくて、風炉用の釜を使うということがわかりました。その釜も夏までは使わないので、押し入れに置いてあるだけです。早速、これも金気を抜いておく必要があります。
 これは、ぬるま湯にお酒を一杯ほど入れて、一日沸かすのだそうです。その後、もう一回お湯を沸かすといい、とのことです。

 道具の扱い方もこうして書いておかないと、次に何かあった時に、またおろおろすることになります。
 先達者はあらまほしきことかな、ということを実感しつつ、丁寧に教えていただけることに感謝しています。

 式が終わった翌日、参会してくださった親戚のみなさんに、我が家でお茶を一服差し上げる予定でいます。その日のための練習を、こうして今やっているのです。その席に、新郎新婦も来てくれることになりました。これは、楽しいお茶会になります。みんなで楽しめることが一番ですから。
 おそらく、お作法などなしの談話会になることでしょう。しかし、お茶をいただきながら話が弾むのも、これまた楽しいお茶会と言えるでしょう。
 そうは言っても、娘と私、そして妻の実家の義兄はお茶の心得があることになっているので、そこは気を引き締めて、簡素な中にも品のあるお茶をみなさんに差し上げたいと思っています。

 さて、この一風変わったお茶会はどうなりますことか。
 今から楽しみです。

 お稽古が終わってから、娘夫婦と西大寺の駅前で焼き肉を食べました。
 よく喋り、たくさん食べました。楽しくておもしろい家族が増えたことを喜んでいます。

 帰ってから、気になったので血糖値を測ってみました。200近い数値を想像していたら、なんと71なのです。これは低すぎます。先ほど、少しお腹に入れました。

 お茶のお稽古で甘いお菓子を2ついただき、焼き肉を食べてすぐの数値がこんなに低いとは。
 和菓子をいただいてから時間が経ってはいますが、やはりお茶の効用としか思えません。
 いつか機会を得て、お茶菓子とお茶をいただくタイミングを見計らった血糖値の変化を見たいと思っています。少なくとも、2時間後の数値は何も問題がないのです。1時間後の数値が、今はよくわからないので、それを知ろうということです。

 この調査も、楽しみです。
 
 
 

2012年2月29日 (水)

重たいキャリーバッグを引きずって雪中行軍

 今朝から東京は大雪でした。
 朝8時半頃に中央線の中野駅に入ってきた東京行きの電車は、屋根に雪が積もっています。
 
 
 

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 そして、立川はさらに大雪です。
 
 
 
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 写真左が裁判所の玄関口。前方左に目指す国文学研究資料館がかすかに見えます。

 明日は京大病院で、一昨年の手術に関する経過観察としての検診があります。そして、引き続き出張にでかけることになっています。そのため、今朝から重たい荷物を運んでいるのです。

 職場までの吹雪く中を、20キロ近い重さがあるキャリーバッグを引きずりながら歩きました。7、8分ほどだったと思います。しかし、転がらないキャリーバッグの底で雪かきをしている状態での前進なので、非常に長い時間に感じられました。
 雪の重さを、久しぶりに右腕が実感しました。途中で腕が笑います。引きずるバッグは、雪のために思うに任せず、左右に迷走します。雪をかき集める格好で歩く自分の姿の異様さを思い、自然と笑ってしまいます。
 知っている人に会わなくて幸いでした。

 1日みっちりの会議が終わった夕刻、新幹線に乗るための帰り道は、やや小雪とみぞれになっていました。しかし、道は凍結しており、轍も雪に覆われています。かえって、来るときよりも湿った重たい雪を、キャリーバッグでまたもやかき集めて歩くことになりました。

 こんな時にバスは来そうもないので、モノレールで一駅だけ立川駅まで乗ることにしました。
 ホームで待っていても、電光掲示板に、雪のために電車が遅れているというテロップが流れているだけです。
 20分ほどホームに佇んでいた頃でしょうか、ようやくマイク放送であり、「電車が凍結した坂道を登れなくて運転開始のメドがたっておりません。」と雑音混じりの中で聞こえました。遅れているのではなくて、モノレールは動いていないのです。しばらくモノレールは動く見込みがないとのことです。しかたがないので、歩いて立川駅へ急ぐことにしました。

 道は凍結しています。所々で溶け出した雪が泥濘となり、足を突っ込むと踝まで埋まりました。靴の中は水浸しです。靴下が足下を冷やします。
 こんな時に限り、今回の出張先で改まった式典があるために、普段よりもいいズボンをはいていたのです。他でもない、お気に入りのバーバリーです。それが泥だらけになり、今朝方このズボンを選んだことを悔いました。

 キャリーバッグを引きずりながら、こんな道を25分ほど進みます。水陸両用車で沼沢地を突き進む感覚の中に包み込まれていました。ただひたすら、黙々と前を向いて歩くしかありません。

 ようやく立川駅にたどり着き、遅れている特別快速に乗り込みました。
 予め取った列車には間に合いそうにありません。電車の中で iPhone を使って、予約を変更しました。
 この予約システムは、かつてのMS−DOSという昔懐かしい世界です。見た目はウインドウズらしい画面展開です。しかし、どう見てもプログラマーの手作業の跡がそこここに見え隠れするのです。JRも開発資金がなかったのでしょう。こんな時代があったなと思いながらも、焦って予約変更の操作を続けました。

 東京駅には、どうにか着きました。しかし、試練はまだ待っていました。
 新幹線の乗り換え改札機にICカードをタッチしたところ、あろうことかお決まりの漫才のネタのように、残高不足でゲートを通過できないのです。見渡しても、チャージのできる機械がありません。有人の入口で精算しようとしたら、お釣りがないので向こうの精算所へ回って支払うように、とのことです。出発時間を変更して取り直した列車の発車まで、あまり時間がありません。

 何かと手間取り、やっとのことでギリギリの時間で乗り込みました。
 シートにうずくまり、ここまでの2時間半を振り返ると、何やら突然の障害物レースを走らされた思いがします。
 目に見える損害は、ドロドロになったズボンと下から3分の1が水浸しになったキャリーバッグです。
 お茶を飲み始めた頃には、関節が少し痛み出しました。後は熟睡です。

 夜の京都は上弦の月が照り、冷たいようでも生温い風が吹いていました。
 数時間前のことが嘘のようです。
 先週は、28度のインドのインディラ・ガンディー空港を夜中に飛び立ち、翌朝成田空港に着くと気温は零度、ということがありました。そのお陰で、今も体調不良です。

 相変わらず、いろいろと思いがけない出来事に遭遇します。しかし、最近ではそれが楽しめるようになりました。
 私も歳とともに少しは成長しているようです。
 
 
 

2012年2月11日 (土)

お茶のお稽古で特訓を受ける

 いつもは平群でお稽古をしているお茶を、今日は同じ奈良県内の田原本という町でやりました。
 酒屋さんの2階でした。落ち着いたお茶室になっていて、先生からみっちりと特訓を受けて来ました。
 炉点前はもちろんのこと、それ以外にたくさんのことを教えていただきました。

 今日は、自分自身に課したテーマがあります。それは、5人のお客さまに薄茶を出す、というものです。
 これは、初心者の私には難易度の高いことです。お点前をする時間もかかります。そこで先生は、お茶碗を2つ使って効率よく飲んでいただくやり方を教えてくださいました。

 3人目のときから、2つ目のお茶碗を使い、それからは交互に返されてきたお茶碗で点てる、というものです。
 そして、5人目の方から帰ってきたお茶碗は、勝手付きではなくて、左手で背中越しに茶道口寄りに置き、道具を下げるために柄杓、蓋置、建水を持って勝手口の襖を開けたときに、さっと襖の裏に置く、という技です。

 初心者にはそれなりのお稽古の順番があります。しかし、今は一つの目的のために、とにかく創意工夫でそれらしくお点前をすることに専念したいと思っています。こんな時に、意外とさまざまなことを覚えるようです。そして、何よりも、おもしろいのです。

 お茶は、決まったお作法をひたすら覚える、というのが基本であることは承知しています。しかし、そこは長い年月の間にたくさんの人が楽しんで来たものです。それだけに、柔軟で懐の深いものがあるようです。その一端を先生は、初心者にもかかわらずこうして教えて下さっているのです。ありがたいことです。

 今日1日だけでも、たくさんのことを教えていただきました。お稽古以外に、実用的な知識も。

 お茶道具の冬と夏の違い/風炉先屏風の選び方/掛け軸/電熱式炉壇の温度調節/釜の後始末と手入れ/水差しの選び方/棗にお茶を掃く分量/茶巾の扱い方/などなど

 さらには、私の癖である背中が曲がっていること、道具を持つ高さ、お辞儀をした後に頭をピョコンと上げること、右手が遊んでいる、手を振って歩く、等々。胸を張って、ゆったりと、落ち着いて、ということのようです。

 先生と雑談をしていたとき、お茶には道教も流れ込んでいる、という話がありました。陰陽の思想としてのようです。道教は日本には定着しなかったので、それがお茶の中に入っているということは、これまた私の興味を掻き立てます。
 道教は、陰陽道、修験道、風水などと関係があるということは聞いていました。これからのお稽古を通して、そうしたおもしろい一面が垣間見られる瞬間を、大いに楽しみたいと思っています。
 
 
 

2012年2月 1日 (水)

【復元】釣り銭の錯乱を招いた状況

 
(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
 
2006年4月3日公開分
 
副題「自分の引き算にも一瞬の戸惑いが」
 
 
 奈良から新幹線で上京してすぐに、駅前でテイクアウトのお寿司を買いました。
 最近は毎日、さばのお寿司をかならず食べています。今日も、さばの握りが入った600円のパックを買いました。500円玉がほしかったので、1,100円を出して500円玉を一個もらいました。

 お釣りを貰った時に、「ただいま20%引き」という表示に気づきました。これも20%引きですか、と確認すると、アルバイトの女の子は奥に入って聞いている様子です。しばらくすると、もう一人の若い女の子が出て来て、これもその対象だとのこと。そして、1,100円を返金してくれたのです。

 この子は事情が分かっていないと思ったので、600円の20%引きなので、あと120円を返してくれたらいいですよ、と言って、渡された1,100円を返すと、しばらく2人で相談した結果、今度は私の手のひらに220円を渡してくれました。

 正直言って、私も混乱しました。最近何かと忙しくて、フル回転の日々です。疲れているのかな、と思って素早く計算し直したのですが、私の方が正しいとしか思えません。しかし、この子たちに引き算の説明をしてあげる時間も手間ももったいないし、小雨の中を傘がないこともあったので、とにかくくれるというものをそのままもらって立ち去ることにしました。これはこのまま落語のネタになりそうだ、と思いながら……。

 海外では、よく釣り銭を間違えられます。大きなお金を渡すと、たいていダメな時が多いようです。引き算が苦手な人が多いように思います。日本では、釣り銭はしっかりと計算して渡してくれていたように思います。

 今日のやりとりは、そんなに難しい計算が絡むものではないはずです。日本の若い子たちの引き算の能力は、大丈夫でしょうか。私が推測するに、彼女達の意識の中に、私が千円札と一緒に渡した百円玉が残像として残っていたために、こうしたことになったと思われます。

 彼女達が計算した過程を想像すると、しばらくは楽しめそうです。
 
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 

2012年1月31日 (火)

庵の生活をめざして

 『方丈記』を著した鴨長明は、方丈の庵を折り畳んで移動していたとか。
 それに引き替え、私は何とたくさんのものを持って生きていることか。
 今回の家移りで、そのことを痛感しました。

 本にしても、資料にしても、はたまた道具にしても、たくさん持っていないと不安なのです。何かの時に身近にあれば当座は対処できる、という安心感を求めているのでしょう。
 しかし、これは今回の転宅で、いかに無益無用なものであるかがわかりました。

 本と雑誌は、6000冊以上を処分しました。
 我が家から出た不要品としての金属類は、1トントラックに山積みでした。
 家具やプラスチック製品など、粗大ゴミとして業者に処分してもらったものも、1トントラックに満載でした。
 これだけの物を抱えながら生きていたのです。

 妻からは、何でも大事に溜め込まないで、もっと身軽に生きたら、と常に言われ通して来ました。
 なかったら困るから、と言って捨てずに来ました。

 しかし、今回ばかりは、妻が何気なく言った「庵の生活」という言葉に、私の心が敏感に反応しました。思い直すきっかけをもらいました。

 そうなのです。京都の自宅を「庵」と思い、その「庵」で生活をするという気持ちに切り替えると、これまでの物に囲まれた生活が煩わしく思えて来出したのです。

 「庵」で生活をするには、まだまだ本も雑誌も多すぎます。
 公共図書館にある本は処分すると決めていたのに、それでもたくさんの本や雑誌を抱えています。さらに半分以下にするつもりです。

 コンピュータ関連の機材も、過去の記録やメモ類も、思い出に浸るための物は思い切って手放すつもりです。

 「つもりです」ではいけないので、自宅に帰るたびに「庵」という言葉を心に深く刻んで、迷わないでとにかく実践を続けることにします。

 まずは、3月末を最初の区切り目としましょう。こう宣言すると、家族の目を意識して、実践せざるをえないと思うのです。
 2ヶ月後が、我ながら楽しみです。
 
 
 

2012年1月29日 (日)

子供たちの成長を確認した1日

 引っ越し後の整理に追われる、何かと多忙な1日でした。
 賀茂川の早朝散歩の後は、荷物の整理に没頭です。

 そんな中で、お昼前には娘たちと共に、3月に下鴨神社であげる結婚式のために、金閣寺前の衣装屋さんで先方のご両親と打合せをしました。
 新郎の羽織袴は、定番といえば定番ですが、それにひきかえ新婦の衣装の多彩さは目を見はるものがあります。

 鶴を織り込まれた白無垢や、豪華絢爛な御所車の打ち掛けなど、平安時代の雰囲気が漂っています。
 
 
 
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 特に、下鴨神社の専属という衣装屋さんなので、葵祭をイメージした御所車の美事な西陣の織物は、しばらく見とれるほどのすばらしい出来でした。一と月前に読んだ、「水上勉の『西陣の女』」(2011年12月26日)に描かれた織物の世界を思い起こしました。
 娘ならではと言いたいところですが、これなら、誰が着ても引き立ちます。
 それにしても、お似合いの2人です。下鴨での祝宴の日を、今から心待ちにしています。
 みんなで、和やかで楽しい語らいの一時を過ごしました。

 一緒にお食事をする暇もなく、すぐに大徳寺経由のバスで引き返し、これまでいた家の大掃除です。
 これも、点検するとたくさんの品物が残っていました。
 大急ぎで荷物を移動したために、その時には見えなかったものがいかに多かったが、あらためて見回すと目に付きます。

 長男にも来てもらいました。獅子奮迅の働きをしてくれました。頼もしくなった息子を、改めて見直しました。とにかく、キビキビと片付けをしてくれるのです。1人で生活をしている内に、さまざまな生きる術を身につけたようです。逞しく育っています。

 車のない生活をしていることもあり、2人で3台の照明器具を担ぎ、運び忘れた姿見を小脇に、さらには大きな荷物を背負って、暗い道を急ぎ足で新居に辿り着きました。
 着くやいなや、私の本を詰め込んだ段ボール箱200箱を移動してもらいました。
 まもなく帰ってきた弟も、加勢してくれました。兄弟で、これまた重たい箱を運び下ろしたり上げたりと、実によく立ち働いてくれました。息子たちに感謝しきれないほどの世話になっています。こんな時、男の子の存在のありがたさを、黙々と動いてくれる姿からにじむ温かさの中に感じました。

 夜遅くまで、私の本と格闘してくれた息子たちは、ぐったり疲れて食事に行きました。
 5年前の、奈良から京都に引っ越した時にも増して、その手伝いぶりが逞しくなったように思われ、安堵することの多い家移りとなっています。
 まだまだ、荷物の整理は続きます。小さな庵に移ったという自覚を持ち、身の回りの多くの本や資料などを、とにかく半分以下に減らすことに専念する決心をしました。物を持たない生活を強く意識したいと思っています。
 なんとかなるという思いを強くして、また東京での仕事に走り回る日々に突き進んでいくことになります。
 
 
 


2012年1月26日 (木)

本を処分すること

 奈良から京都に転居する時に、持っていた本の3分の1を処分しました。
 「本たちとの別れ」(2007年6月25日)には、いつもつらい思いがあります。

 京都に来てからは、本を処分するのは3回目です。
 これで、相当減ったはずなのですが、見た目はそんなに減っていません。

 今回、公共図書館にある本は処分する、という強い意志で臨みました。
 それにしても、いつか読もうと思って買った本の多いこと……。
 一冊一冊が、特に専門書は安くないので、その時々に思い悩みながら買った本なのです。それぞれに愛着があるので、なかなか処分する決断が下せない本が多いのには、困ったことです。
 その点、全集やセット物は思い切り決断が下せるので気持ちが楽です。

 私は、本に線やメモを書き込む癖があるので、なかなか売りにも出せないのです。
 傍線を引いた箇所は、後で論文などに引用しようと思ってしたものです。しかし、そのほとんどは活用しないままに、この日を迎えることとなりました。その傍線を引かれたところに記された文章とは、縁がなかったということにします。

 本の裏に、購入日と価格のメモを記しています。こんなにたくさんの本をよくも買ったものだと、今更ながら感心しています。この数十年間は、書籍とコンピュータにお小遣いを使ってきたのです。そのお陰もあって、いろいろな仕事をしてこられたので、これでよしと思っています。

 本日、よく知っている古書籍を扱う方に、処分を予定していた半分を引き取ってもらいました。残りは、古紙を扱う業者に、すぐに裁断してもらうということで引き渡しました。

 私の部屋から、今日1日で2,000冊以上の本がなくなりました。身が軽くなったように思います。
 
 
 
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 本の仕分けをしながら思いました。この本を読んだから、いまの自分があるのだと。
 しかも、知っている方の手を通して、他の人に読んでもらえる幸運を待つことになります。
 本たちの、これからの出会いを温かく見送ることができて、これで一安心です。
 
 
 

2011年12月23日 (金)

極寒の夜の暖かいパーティー

 新婚の娘たちから、両家のみんなでパーティーをするので大阪の新居に来るように、との召集がかかりました。
 そこで、早めに仕事を切り上げ、完全防備で大阪へ出かけようとしていた時のことです。

 ちょうど自宅の玄関まで出たところ、宅配便が届きました。
 10キロを越す大量の本だったので、それを上がり口の小部屋に運び入れ、印鑑を取りに奥の部屋に上がっていったスキに、以前から我が家のセキセイインコのモグを狙っていた近所の猫が、玄関から堂々と入ったようです。
 宅配のお兄さんはウチの猫かと思ったようで、荷物を置くとすぐに帰りました。玄関の上がり框の下に隠れていた猫にすぐに気付いた私は、反射的に手足で追い払いました。もう出かけるところだったので、気付かずにそのまま鍵を閉めていたら、モグはかわいそうなことになっていたはずです。

 奈良の平群の山にいたときにも、飼っていたインコが猫に襲われました。口にくわえて逃げるところを、やっとのことで捕まえました。しかし、インコのミントはすでに絶命していました。一緒に追いかけた子どもたち3人は、呆然として嗚咽を洩らすだけでした。

 そんなことがあったので、日頃から気をつけていました。しかし、年の瀬の我が家の慌ただしさを知っていたのか、猫も今年最後とばかりにチャンスを狙っていたのかもしれません。本当に危ないところでした。

 そんなことがあったために、私は少し遅れて娘たちの家に着きました。妻は、パーティーの準備を手伝うということで、朝から行っていたのです。
 新居の中は、モールや風船や色紙で飾り付けられていました。
 手作りのクリスマスケーキも。
 
 
 
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 新しく増えた家族と一緒に手作りの食事をいただき、いろんな話をして、楽しい時を過ごしました。数ヶ月前までは、まったく知らない方々です。しかし、こうして家族となって和やかに語り合えるのは嬉しいものです。家族が増えるのはいいものだなーと、しみじみと感じました。

 経済の勉強をして来られた父子です。興味と関心がまったく違うからこそ、飽きずに話が広がって盛り上がるのでしょう。お母さんも妹さんも、一緒になって大笑いでした。年の瀬のいい息抜きとなりました。
 さて、明日からまた大忙しの日々となります。
 
 
 

2011年12月10日 (土)

若手の春画と翻訳に関する研究発表を聞いて

 総合研究大学院大学(総研大)文化科学研究科による「学術交流フォーラム2011」が、京都の国際日本文化研究センターで開催されました。これは、学生主体の事業です。そこに我々教員がシンポジウムなどに参加して、一緒に学術交流を深めようという取り組みです。

 昨日は、今西館長の科研研究会終了後に、夜遅くまで立川で懇親会がありました。楽しい情報交歓会をしてすぐに、こうして京都への移動となりました。

 国際日本文化研究センターは京都でも少し不便なところにあります。いつもは阪急桂駅からバスでいくのですが、今日は東京から直行なので、京都駅からバスで50分以上揺られて到着しました。
 裏山の紅葉は、山奥にあるせいか赤や黄色が明るく輝いています。
 
 
 

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 国立大学法人の総研大には、いくつかの研究科があります。その中でも文化科学研究科は、次の5つの文科系の研究基盤機関が専攻を持ち寄って構成する大学院大学です


国立民俗学博物館
国際日本文化研究センター
国立歴史民俗博物館
放送大学
国文学研究資料館

 本部は、神奈川県三浦郡葉山町(湘南国際村)にあります。

 今回のフォーラムの会場は、国際日本文化研究センターです。
 今日の総合司会は、日本文学研究専攻(国文学研究資料館)の紅林健志君でした。
 紅林君は、韓国で講師として教員生活を経て、また総研大に復帰して博士論文の執筆に励んでいる、元気いっぱいの若者です。
 今日予定されていたのは、「学生による口頭発表」と「ポスター発表」そして「レセプション」というプログラムです。
 
 
 
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 自分の備忘録として、忘れたくないことを以下に記しておきます。

 開会式の後、早速「学生による口頭発表」となりました。
 トップバッターとして登壇した鈴木堅弘君(国際日本研究専攻)は、非常に明るく元気な発表が始まりました。
 その題目は「春画における背景表現の機能と変遷 ─江戸期と明治期の図像比較を中心に─」という、えっ、と思うテーマです。
 発表内容はしっかりとしており、裸体画は猥褻か美術かというところにまで展開しました。以前にも、彼の研究発表を聞いたことを思い出しました。

 その「まとめ」は、以下のようになっていました。


 本発表を通じて、江戸期と明治期の「春画」の「背景表現」に着目することで、次の三点の視座を新たに示すことができた。
①江戸期の春画には、その「背景表現」に「見立て」・「趣向」・「もじり」などの演出が複合的に描かれている。
②明治期の春画では、それらの「背景表現」が失われる。
③今日のわれわれが「春画」に抱く「猥褻画」(ポルノ)という認識(「春画」の「性交表現」のみに着目する近代的視座)そのものが、実は歴史的に作りあげられてきたものである。

 また、

江戸時代の春画は「性交表現」のみで成り立っているのではなく、その周辺の「背景表現」の方に多くの表現が重ねて描かれている。
 また、「背景表現」の描写を統計的に把握すると、江戸期の春画には約八割以上に「背景表現」が描かれている。

ということを踏まえて、それがなぜ明治期になると「背景表現」描かれなくなるか、ということを問題にしていきます。次を聞きたくなる構成です。

 その一例として、上村松園の肉筆春画などを見せられると、いかがわしさが払拭されて芸術的な香りがしてくるからおもしろいものです。
 さらには、明治38年に黒田清輝が友人へ出した手紙で、


裸体画を春画と見倣す理屈が何処に有る……日本の美術の将来に取つても裸体画の悪いと云事は決してない 悪いどころか必要なのだ」

と言っている資料を見ると、時代の美術認識を新たにしたくなります。

 日頃はあまり耳にも目にもしない情報のオンパレードだったので、新鮮な気持ちで聞きました。おもしろい研究テーマがあるものです。本人は大変でしょうが、はたから見ると、楽しそうな博士論文になるのだろうな、とこれからの研究の進展に期待がもてます。
 
 続いて、屋代純子さん(日本文学研究専攻)は、「田山花袋の翻訳・翻案に関する調査研究 ─明治34年「村長」における「受容化(domestication)」と『異質化(foreignization)の問題」と題する発表でした。
 常日頃、日本文学と翻訳についての異質性に興味を持っている私は、非常に興味深く聞きました。ここでは、モーパッサンの「ロックの娘」を田山花袋が明治34年に「村長」という作品に翻案したことを取り上げたものです。
 屋代さんは、昨年度、国文学研究資料館で私が授業としておこなった「海外における源氏物語」に参加していました。ハングル訳をはじめとして、海外の翻訳について詳しかったことを覚えています。そうした興味が、今日の研究発表の下地にあるようです。

 今日の発表のまとめとして、次のように整理していました。


明治期翻案作品としての再評価
●「受容化」の側面から
「村長」は西洋文学からの翻案作品である。だが、それだけでなく同時代の日本の読者意識を反映させて、新たな奇談として再編成された作品と評価することができる。
●「異質化」の側面から
日本に舞台を置き換えた翻案作品でありながら、「村長」には文化的に相容れないはずの表現が用いられている。

 そして、その結論として、次のように言います。

『受容化」「異質化」双方の諸要素の相克する場として、作品を捉え直すことができる。

 全体的に、もっと元気な声で、メリハリをつけることで、聞く者に何だろう、と思わせる工夫が必要だったように思います。
 これも経験です。今後とも、積極的に多くの場で発表をして、度胸をつけてほしいものです。
 たまたま私の隣に、屋代さんの主任指導教授であるT先生がいらっしゃったので、私がふと疑問に思ったことを聞いてみました。それは、モーパッサンがフランス語で書いた作品なのに、それを英語で訳されたものを使っているのは、これでいいのか、と。フランス語から英語に移し替えた時点で、作品が変質していないかとの疑問をもったからです。
 この単純な問いかけに対してT先生からは、花袋が英語訳で読んでいるのでこうした研究手法になる、とのことでした。なるほど。

 それなら、と私は1人勝手に想像をめぐらしました。
 私なら、モーパッサンが言いたかったことが英語訳でどのように変質し、さらに花袋がその英語訳から翻案することで、日本人にはモーパッサンが描いた作品世界がどのように受容されることになったか、ということを問題にしたくなるところです。こうなると、ことばを通じた文化の受容と変移という問題になっていきます。ますますおもしろいテーマとなるはずです。しかし、それだけで、総究大での目標である3年間で博士論文を仕上げるのは大変かな、などとも思いました。

 その後の3人の発表は、エチオピア・コミュニケーション・韓半島をテーマとするものでした。学生さんには申し訳ないのですが、以下ここでは省略、ということにしましょう。
 一昨日は、私自身の研究発表の準備で徹夜をし、昨日は遅くまで館長共々飲んでいました。明日もシンポジウムがあるので、このへんで早々に身体を休めることにします。
 
 
 

2011年12月 3日 (土)

自治会や町内会での持ち回りの仕事

 東京の宿舎には自治会があり、持ち回りでさまざまな仕事が回ってきます。
 今月は、3棟ある内の私が入っている棟のとりまとめ役と、階段を共有する10軒のお世話をする仕事が、同時に回ってきました。おまけに、今日の合同当番会では司会をしてほしいとのことで、年の瀬の慌ただしい折に、いろいろなことが雨模様の小雨とともに降りかかってきました。

 本来なら、当番は我が家ではありませんでした。しかし、いるのかいないのかわからない方がパスなさったことにより、急遽こちらに回ってきたのです。結婚して間もない若い夫婦ということもあるのでしょうか、自治会活動はみんなで分担協力して、ということに興味も関心もないようです。
 二つ重なった当番を断るとまた別の方に迷惑がかかるので、快く引き受けました。ずっとパスし続けておられその方も、実際にいつか宿舎の当番を担当されると、その役割と仕事の内容の意味が理解されることでしょう。そのようにして、社会の成り立ちを学ばれるのではないでしょうか。
 いい歳をした方に失礼な言い方とならないように気をつけていますが、たくさんの方々との中で生活する上でのルールを守ることは、理屈ではないだけに言いにくくて難しい問題です。

 それはともかく、今日の合同当番会が終わってから、5人の親当番で議事録をまとめることになりました。すると、別の棟の親当番になっておられる一人の若い男性が、やおら MacBook Air を取り出して、議事の進行に合わせて入力しておられたものを、こともなげに示されました。これには驚きました。
 聞きながらまとめて入力していたのだそうです。事務処理能力の高い方のようです。きっと、職場でもこうした気の利いた対応を心掛けておられるのでしょう。仕事の出来る人とは、こうした方のことを言うのです。
 勘違いがあってはいけないので、とおっしゃり、みんなでそのメモを確認しました。そして、その方のお陰でスムースに議事録が完成し、お疲れさまと言って参会となりました。

 さすがはMac遣い、とは言いません。
 機転と行動力のある若者を見て、爽やかな気持ちで家に帰ることになりました。Jさん、ありがとうございました。とにかく、謙虚な姿勢で、それならやっておきますから、という何げない対応に好感を持ちました。
 良い方に出会えて、雨模様にもかかわらず晴れやかな気分になりました。気持ちのいい若者に出会うと、こちらも気持ちが明るくなります。

 久しぶりに自治会の役員さんたちの仕事ぶりを拝見しました。
 みなさん抽選によって担当者になられたにしても、一生懸命いろいろな問題と対峙なさっています。それぞれに仕事を持ちながら、300戸の居住者のために雑務を背負って奮闘しておられます。自然と頭が下がります。

 どこの地域でも、こうした自治会活動はあるものです。今私が住んでいるところは、しっかりと自治会が運営されており、確実に引き継がれているようです。

 3つある棟の全体を、一人の管理人の方が受け持っておられます。しかし、やはり住民のみなさんの力を借りないとできないことが多いはずです。その意味では、この持ち回りの役割分担は、地域にとっては有効な対処方法だと思われます。

 東京は世帯数が多いこともあり、1ヶ月交替です。しかし、実家のある京都での町内会の当番は3ヶ月間担当します。
 実は、我が家は今年の10月から12月まで、京都での町内会の当番にもなっているのです。
 回覧するものも多く、中には上賀茂神社や下鴨神社に始まり、各神社仏閣のお世話の一部も役割分担の中にあります。

 地域社会の中でこのような分業により、住みよい環境が維持されているのです。世話役になって、改めて日頃は見えていないことが見えてくるものです。
 こんな時に限って、こうしたことに背を向けてそしらぬ風を装っておられる方の姿も目に止まります。しかし、そこは他人の集まりなので、そんな人もいるさ、と気にしないようにしていますし、最近では気にならなくなりました。

 年末のこの時期に重なった仕事ですが、滞りなくやり終え、東京でも京都でも、次の方にバトンタッチをして新年を迎えることになります。
 早いもので、今年もあと30日を切りました。1日1日が矢の如く過ぎていく師走です。
 本厄でもある卯年の私は、とにかく無病息災を祈りながら、次の妻の干支を待ちながら年末の多忙な日々を過ごしています。
 
 
 

2011年11月 8日 (火)

タイトルを「鷺水亭 より」と改名します

 還暦を迎えたことを機に、このブログの標題「賀茂街道から2」を「鷺水亭(ろすいてい)より」と改めます。
 
 
 
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 気分を一新しての旅立ちとなります。
 
 
 

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 3年半ほど前から、さまざまなことを毎日こつこつと書いていました。

 多くの方々のご教示に助けられ、日々の出来事や思うことを、勝手気ままに綴って来ました。
 
 
 
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 今後とも今のスタイルで、個人的な日録を書き留めて行きます。

 引き続き、折々にお読みいただければ幸いです。
 
 
 

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2011年11月 3日 (木)

大和平群での炉開き

 京都駅経由の近鉄電車で、平群へお茶のお稽古に行きました。
 
 
 
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 早いものでもう11月。囲炉裏の開炉の月で、4月まで炉手前が行われるのです。

ネットを見ていたら、「茶の湯の楽しみ」の「炉開き」の用語解説に、以下の説明文が見つかりました。


「茶人の正月」と呼ばれる。普通、陰暦亥(い)の月の初亥(い)の日(2005年は11月11日)に開くとされる。中国から伝わり、平安時代に宮中行事となった「玄猪(げんちょ)」という儀式に由来するといわれ、陰暦十月上亥の日に餅を食すと万病が避けられるということで、その餅を亥子餅といい、また猪は子をたくさん産むことから子孫繁栄を祝うものとされたので、女房の間でお互いに餅を送りあうことが盛んに行われていた時期もあった。

 このような説明を先生から今日伺いました。しかし、思い出せないことが多いので、この記事で代えさせてもらいます。

 さて興味津々、先生のお宅の炉を覗き込んでみました。
 炉の中に五徳が置かれ、墨の端が赤くなっているのが見えます。畳を四角に切った周りには、炉縁が嵌め込まれていました。釜からは、湯の音がします。

 おめでたい日なので、床の間には「寿 無量」と書かれたお軸が掛けてありました。

 最初に、まん丸なお餅の入ったお善哉をいただきました。先日のお茶事で甘いものを食べても大丈夫だったのでもう安心です。本当に久しぶりです。おいしくいただきました。

 今日は、濃茶とお薄をいただきました。辻利のお茶だそうです。先日のお茶事では一保堂でした。
 ほんの少しですが、味と香りの違いがわかったようなわからないような。何となくわかりだした、ということにしておきましょう……

 先月までの風呂手前と違い、視線から下にある炉に置かれた釜から立ちのぼる湯気が畳とよく似合います。
 チリチリとたぎっていたお湯が、水を差されると瞬間に鳴りをひそめます。この音の変化がおもしろくて、水が差される瞬間を楽しんでいました。

 最近、茶花の本を買いました。
 
 
 
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 今日も、床の間には菊が竹に差してあり、つい見入ってしまいました。
 先ほど、手元の茶花の本を見ると、竹一重切花入というものに似ています。まちがっていたらすみません。
 何か、見えてくるものが、これまでと違ってきたようです。自分自身の中のおもしろい変化を、ささやかながら自分で楽しんでいます。

 帰り道で、平群の秋を眺めました。
 
 
 
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 竜田川はまだ紅葉していません。錦に織りなされるのは、今月末でしょうか。
 
 
 
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 単線の元山上口駅から、奈良駅へ行き、奈良町で開催されるインド舞踊を観に行きました。

 なかなか慌ただしい「文化の日」です。
 
 
 

2011年9月12日 (月)

テレビドラマ『砂の器』を観て

 週末2夜連続のドラマを、楽しみにして観ました。東日本大震災のため、半年間延期になった作品です。
 どうやら、福島県の扱いに関係するための延期だったようです。

 さて、テレビや映画業界は、困ったら松本清張ものを作ります。その流れでいえば、残念ながら昨秋の『球形の荒野』は大失敗でした。
 そのことは、本ブログ、「テレビドラマ『球形の荒野』は「後編」に期待」(2010年11月27日)と「テレビドラマ『球形の荒野』(後編)を観て」(2010年11月28日)で述べました。

 その前編の記事の末尾で、以下のように書きました。


 松本清張が父を捜し求める作品を書いた背景は、鳥取県の日南町に行った時によくわかりました。
「松本清張ゆかりの日南町」(2009年12月11日)
 父のことを知りたくて立ち寄った町に入れてもらえなかった清張の心は、この『球形の荒野』にも形を変えて生きているように思います。

 このことは、清張の家系への疑問の解明が必要だと思います。

 さて、『球形の荒野』のことがあったので、今回の『砂の器』の出来もあまり期待しませんでした。
 しかし、よくできた仕上がりでした。もう一度観る価値があります。

 難を言おうと思えばあります。
 原作には出ない女性記者に扮する中谷美紀は、果たして必要だったのでしょうか?
 男ばかりのドラマでは視聴率はとれません。どうしても女性が必要とされたために、無理やり押し込んだ感が否めません。

 中谷美紀は、今秋10月3日からパルコ劇場で、井上靖が書いた小説『猟銃』の舞台を、一人三役でつとめることになっています。私としては、中谷がどのような役回りになるのか期待していました。
 しかし、残念ながら、演技はともかく、物語の展開の中ではどうでもいい存在に終始していたように思います。と言うよりも、軽めに振る舞う様子が、かえって話の流れを阻害する存在だったと思いました。
 視聴率稼ぎに、中谷美紀はうまく利用された、と私は見ました。

 今回のドラマでも、父親に対する思い入れが前面に出ていました。ラストに近づくにつれて、この傾向は顕著でした。これは、清張の作品の特徴でもあります。清張文学を読むキーワードの1つを、私は「父」だと考えています。それを、このドラマではさらに強調した形でまとめていました。

 清張と父親については、鳥取県の日南町へ行ったときに、初めて気づかされたことです。
 現地で、足羽先生から伺った話については、上記のブログ「松本清張ゆかりの日南町」で書いた通りです。

 松本清張の研究状況を私はまったく知らないので、清張と父親については、すでに常識なのかもしれません。
 しかし、ブログに書いたように、お墓の問題も含めて、私は非常に興味をもっているところです。
 父と息子の関係は、母と息子の場合よりも、言葉にしづらい影を帯びているように思います。そこに清張が拘ったのは、出生に加えて、生い立ちの秘密を抱えながら生きていたからではないでしょうか。

 これまでにも何度か書いたように、私と妻は『砂の器』の舞台を体現しています。私の生まれが出雲、妻の生まれが羽後なのです。しかも、妻の実家は羽後亀田の隣です。結婚するにあたり、私の父と妻の父が、お互いにズーズー弁で会話をし、何とか通じていました。この言葉づかいというよりも雰囲気は、非常によく似ていることを実証してくれました。

 今回のドラマで、島根県側の出雲弁は上品なことばで話されました。対する秋田弁は、妻によると生まれた地の香りがない、とのことでした。
 実際の小説でも、清張は出雲弁について慎重に方言の校正を亀嵩算盤合名会社にお願いするほどでした。この物語は、出雲地方の方に比重がかかっている、ということなのかもしれません。

 『砂の器』は、国立国語研究所が全国の方言を調査していた間の、昭和35年に書かれました。なかなかいいタイミングをつかんだトリックとなっていることに関心させられます。
 折しも、明日私は、国語研究所が主催する研究会で、研究発表をすることになっています。
 合間にでも、2つの方言の問題と、清張の取材姿勢などについて聞いてみようと思っています。
 
 
 
 

2011年8月 8日 (月)

真夏のお茶のお稽古

 暑い中を、平群へお茶のお稽古に行きました。
 今日はまず、お茶会を想定して、床の掛物を真のお辞儀で拝見し、花と花入れ、そして香盒を見ることをやってみました。花は芙蓉が竹で編んだ縦長の籠に差してありました。香盒は茄子だったように思います。
 続いて、釜と風呂を拝見します。
 こうして、少しずつ覚えていくことが増えていきます。

 濃茶と薄茶を続けて点てていただく場面だったので、お菓子のいただき方もバリエーションが増えました。濃茶のお菓子は、先生が小豆を練って作られたものでした。三段重ねのお重のようなものに入っていたので、一見お弁当かと思いました。黒文字で懐紙に取り、下の段に重ねて次客に送りました。お菓子は甘さが抑えられていて、美味しくいただきました。
 薄茶の時はカラフルな干菓子でした。

 濃茶は初めていただくものでした。どろりとしていて、薬のようです。喫み口を拭くための小さな茶巾も、こんな時に必要になることを知りました。
 道具のことも、少しずつわかってきます。

 練習は、風呂の薄茶点前です。
 襖の開け閉めから歩き方や袱紗さばき等々、立ち居振る舞いと所作も本格的になると、いろいろと注意をうけます。改めて、丁寧に教えてもらいました。

 背筋が曲がっているので、伸ばすことも意識することになります。頸椎が左手を痺れさせていることもあり、この機会にしっかりと姿勢をよくする習慣もつけることにしましょう。

 お茶のお稽古を通して、たくさんのことを知るようになります。そして、身体の動きも見直すきっかけとなりました。お茶を点てたり飲んだりする以上に、日常生活につながるところで得るものが多いようです。

 たくさん覚えることがあって、お茶をいただき、点てる中でパニックになります。しかし、何度も繰り返すうちに、それ以外のことも多く吸収しようと思っています。

 なかなかお稽古に行く時間がとれません。しかし、機会を見ては、多少の無理をしてでも足を運びたいものです。
 
 
 

2011年7月18日 (月)

台風の中をお茶のお稽古に

 昨日までの炎天下の祇園祭が嘘のように、今日の京都は朝から雨でした。

 上京する前に、平群へ娘と一緒にお茶のお稽古に行きました。
 何かと仕事が溜まっているので、行けるときに行くことにしています。

 京都の家から2時間。近鉄特急の車内では、幕の内弁当を食べました。
 雨は少し小止みになったのですが、元山上口駅に降り立った時から、また降り出しました。

 今日は、お薄のお稽古を2度しました。
 まだ、挨拶の仕方で戸惑っています。何かの動作をしながらの答礼は、本当に難しいものです。タイミングと加減がわからないのです。
 これもみな、場数をこなす中で、身についていくのだそうです。

 柄杓に手を伸ばしたり、釜にお水を差す頃合いなどなど、一通りの手順はわかっても、横からの先生の囁きが頼りです。

 手術後から身体の筋肉が落ちたためもあってか、立ったり座ったりしている内に、畳に押し付けられている骨が痛み出します。先週のお稽古の時と同じように、今日も足の骨がヒリヒリします。足腰を鍛えることも、今後は心掛けることにしましょう。
 百人一首のカルタ取りがそうであったように、お茶も体育会系の様相を呈して来ました。

 それでも、お茶を点てながら、少しずつ流れがわかってくると、おもしろくなってきます。新しい発見が多いのです。所作の意味を教えてもらって、なるほど、と納得です。
 知らなかったことがわかるようになり、断片的なイメージの一つ一つがつながった時の嬉しさは、とにかく格別です。それでいて、これを大事に忘れないようにしよう、と思うそばから、しばらくすると次の動作がわからなくなっていて慌てます。
 まさに、スポーツクラブのスタジオレッスンで、エアロビクスの振付の次がわからなくなり、しばし手足を止めて佇む瞬間に似ています。例えが変ですが……。

 まだまだ、ほんの入口に立ったばかりです。これからの長い道のりを、ささやかながらも一歩ずつ前に向かって進んでいきます。

 お稽古を終えて帰る時には、外は大雨でした。台風が近づいて来ているようです。先生が、元山上口駅まで車で送ってくださいました。大助かりです。

 京都駅で妻と待ち合わせをし、それまで一緒だった娘と別れて東京に向かいます。
 娘は、明日から大阪での新しい仕事につきます。フランスから先月帰って来てすぐに、日本での就職先が幸運にも決まったのです。イギリスとフランスの大学を終えたことは、遠回りをしたようにも思えます。しかし、海外で勉強したことが活かせる仕事が見つかったのですから、それもよし、ということでしょう。

 連休明けのせいか、新幹線は満員でした。
 東京駅は、西からやって来る台風を迎える嵐の前の静けさか、空はどんよりと曇った生暖かい風で蒸し暑い夜でした。
 ちょうど宿舎にたどり着いた頃には、ポツリポツリと大粒の雨が落ちて来出しました。
 
 
 

2011年7月 2日 (土)

「戦前期の出版検閲と法制度」の講演会

 今日も、いろいろと多忙でした。特に、午後からは慌ただしい時間を過ごしました。

 朝食後に少しお腹に違和感があり、昼食後は腹痛に襲われました。ゆっくりと食べていたのに、キリキリと痛みます。このところ、何かと忙しく立ち回っていたので、週末になり気が緩んだのでしょうか。

 1時間ほど休息をとり、すぐに千代田図書館へ急ぎました。中京大学の浅岡邦雄先生の講演があるからです。
 今日のタイトルは、「戦前期の出版検閲と法制度」です。
 
 
 

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 池田亀鑑が深く関わった昭和7年の『源氏物語に関する展観書目録』が検閲された時日について、まだ解決していない問題があるのです。本ブログ「昭和7年の源氏展冊子の奥付が書き換えられたこと」(2011年6月 8日)をご参照ください。

 仲間を通して、あらかじめ私が抱えている問題を浅岡先生に伝えてもらっていたこともあり、また、先生が私のブログを読んでくださっているとのことなので、今日はご講演の前にとりあえず名刺交換だけをしました。

 私が抱えている問題については、いずれまた詳しく教えていただこうと思っています。

 さて、今日の講演の内容は、まだあまり研究されていないテーマだそうです。それだけに、つい話に聞き入ってしまいました。
 時代としては、関東大震災から昭和12年までを扱われました。昭和13年以降は、検閲の事情が違ってくるのだそうです。

 納本や検閲に関する出版法規として、「出版法」(明治26年)と「新聞紙法」(明治42年)の2つがあることを知りました。
 また、一般に「発禁」といっていますが、これは紛らわしい表現であり、実際には内務大臣が関わる「発売及頒布禁止」と、裁判所が関わる「発行禁止」があるそうです。確かに、区別する必要があります。

 非常に興味深いお話が続いていました。しかし、講演が始まって1時間ほどで、私には次の予定があるために、残念ながら会場を離れなければいけませんでした。あらかじめ浅岡先生には中座することをお断りしていました。先生ごめんなさい、と心の中でつぶやきながら、九段下から次の打合せの場所へと急ぎました。

 そこでは、個人研究と共同研究を混同したやりとりが交わされ出したので、そのことについての私見を、ほんの少しでしたが述べさせていいただきました。個人研究である小規模予算を、関係者みんなで食い潰してはいけない、との思いがあったからです。
 しかし、朝からの体調不良もあり、そこそこのところで強く言うことはやめました。みなさんが共同研究の方向で取り組もうということで一致したので、「個人研究に深くは立ち入らない」という私の中のルールは引っ込め、流れにまかせることにしました。

 体調がよくないと、話し合いでもすぐに引いてしまいます。これも、仕方のないところです。
 内輪だけの懇談会のはずが、いつの間にか、参加者みんなの要望と参加意義を満たすための会議をすることになってしまった印象です。小さな懇談会として組まれた予算で、いつしか大会議をすることとなり、とりまとめ役の先生に無理と負担がかかることが必定なので心配です。
 今回の研究テーマは、この予算規模で取り組めるものではないので、共同研究に持ち込むのは至難の業です。研究テーマと研究費に落差がありすぎるのです。これも、なかなか難しい問題です。

 個人研究には立ち入らない、という私なりの姿勢を保持しながら、今後ともこの集まりには参加していきたいと思います。とにかく、船頭となられる先生が無理をなさらずに、これからの会の運営と予算の運用をしていかれることを願っています。また、その方向でお手伝いをしていきたいと思っています。

 その後の懇親会は体調が思わしくなかったので遠慮しました。早々に帰宅し、ゆっくりと1時間半をかけて食事をしました。
 
 
 

2011年3月27日 (日)

伊井春樹先生の古稀を祝う会

 京都御所にほど近い京都ブライトンホテルで、伊井春樹先生の古稀をお祝いする会が開催されました。
 先生を知るものはみんな一様に、古稀と先生のイメージが合いません。とにかく、歳を数えると70だから、ということでお祝いのパーティーとなっただけです。
 先生ご自身も、歳のことなどはすっかり忘れて、今も走り回っておられます。

 第一部は、平安装束の着付け鑑賞会でした。
 山科流の福呂一榮さんによる着装です。
 
 
 
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 写真の右端は、文官の束帯姿のモデルとなられた同志社大学の岩坪健先生です。よくお似合いでした。岩坪先生は、伊井先生の教え子の第1号にあたられます。今回の祝う会の実行委員長でもあります。

 第二部は、京都らしい和食の祝宴でした。今日のお祝いに参加したのは約40人でした。先生のご意向により、こぢんまりとしたお祝いの会でした。
 なお、先生に博士論文を提出した者の内の21名で、お祝いの意味を込めて研究論集を刊行しました。
 詳しくは、笠間書院の新刊案内である「伊井春樹編『日本古典文学研究の新展開』」(2011年3月16日)をごらんください。
 私は、「新出『源氏物語(若菜上・残巻)』と本文分別に関する一考察」という一文を寄せています。
 ずらりと並んだ論題を見ただけでも、伊井先生の教え子の幅の広さが実感できます。
 
 
 
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 先生のご挨拶の中で、最近は涙腺が緩くなって、ということが語られました。
 そういえば、教え子の思い出話をお聞ききになりながら、目頭を気にしておられました。いつもは、とにかく歳を感じさせない行動力でお仕事をなさっています。そのような先生がどうなさったんだろう、と気になっていました。これを、古稀になられたしるしとしておきましょう。

 来週末からは、先生が館長をなさっている逸翁美術館で、「与謝野晶子と小林一三」という展覧会が始まります。
 
 
 
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 展示図録によると、第 V 章の「晶子の新出書簡」は伊井先生が担当されたものです。
 昭和11年(2通)と14年(1通)の計3通は、晶子の文学史年表に新たに書き加えられるものとなります。
 
 
 
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 また、与謝野晶子の自筆原稿『新新訳源氏物語』(堺市立文化館与謝野晶子文芸館蔵)の中から、「桐壺」巻が展示されます。

 この展覧会については、また報告します。

 相変わらずお忙しい先生です。身体には充分にお気をつけになって、いつまでも刺激的なお仕事で我々に活力を与えて下さることを、これまで以上に楽しみにしたいと思います。
 と言う暇もなく、早速、帰りには今週刊行された新著を手土産にいただきました。
 このことは、明日にでも書くことにします。
 
 
 

2011年3月14日 (月)

京都と東京を慌ただしく往復した一日

 今朝は、関東地方の交通機関の運行状況を見ながら、東京の同じ宿舎にいる2人の同僚とは電話で情報をもらい、職場とは電話とメールで連絡をとりながら、タイミングを見計らって京都駅から新幹線に乗り込みました。

 出発する間際に、東京で振度4の地震があったので、そのまま新幹線に身を委ねることに躊躇がありました。しかし、仕事のためには、命がけでも行くしかありません。
 それでいて、立川地区は午後から停電だそうです。
 モノレールも午後は止まるとか。
 難行苦行の一日となりそうです。

 名古屋駅を出てしばらくした頃に、新幹線の自動ドアの上にある電光掲示板が目に付きました。
 以下の表示が流れていました。


【JR東日本首都圏・新幹線 運行状況】山手線・京浜東北線(赤羽〜蒲田)・中央快速線(東京〜立川)・常磐快速線(上野〜松戸)・常磐緩行線(綾瀬〜松戸間)・埼京線(大崎〜大宮)・上越・長野新幹線※その他の線区は終日運転を見合わせ

 この電光板は、一度に7文字半だけ表示されるものです。8文字目が順次右から左へと流れるようにして押し出されてくる方式です。

 これを見る限り、「長野新幹線」に続く「※その他の線区は終日運転を見合わせ」とある字句が、その間にコンマも中黒点もスペースもないので、その前の字句とどういう関係になるのか、即座にわかりませんでした。
 肝心の字句が「運行状況」の中に含まれています。運行中と理解していいのか、その後の「※」印の「見合わせ」とどのような関係にあるのか、私には理解できません。

 次に流れた情報は、こうでした。


【JR東海 運転状況】終日運転見合わせ 東海道線(熱海〜函南間)・御殿場線(国府津〜下曽我間)

 さらに、こう続きます。


【JR東海 運転計画】計画停電の影響で、次の線区、時間帯で運転を見合わせます。《東海道線》函南〜三島間 9:20〜13:00頃、沼津〜富士間 15:20〜18:20頃、函南〜富士間 18:20〜19:00頃、 函南〜三島間 19:00〜22:00頃

 これなら、最初に「終日運転見合わせ」とか「時間帯で運転を見合わせます。」とあるので、それ以下の内容の意味がよくわかります。

 通りかかりの車掌さんに聞くと、手持ちの機器を操作して、「中央快速線(東京〜立川)」は運行している、との回答を得ました。

 この電光掲示板の日本語の表示は、結論がわかれば、「※」の前までが運行で、その後が見合わせだったんだ、と何となくわかります。しかし、流れ続ける固有名詞の羅列の長文を読解するには、なかなか大変な労力を強いられる文章だと思います。何が運行中なのかが明記されず、読み手に推測させている文だと思います。
 とにかく、「※」が理解を混乱させています。

 東京には、定刻に着きました。
 ホームに降り立つと、矢継ぎ早の放送が耳に届きました。流れ続ける放送によると、電力会社の計画停電のため、エスカレーターは停止しており、エレベーターを利用してくれ、とのアナウンスです。

あれッ?

 地震の時には、エレベーターを使うなと、昨夜からテレビでしつこく言っていたのに、この東京駅ではまったく逆のことを言っています。それも、新幹線に乗る直前に東京で振動4の地震があったことを知っているので、アナウンスが奇異に聞こえます。
 確かに、エスカレーターはロープが張ってあり、止まっています。
 エレベーターへ急ぐ人の群れを尻目に、階段を使って改札に向かいました。

 すぐに、東京駅に着いたことを職場へ知らせました。
 予定の時間までは1時間半あります。幸い、東京と立川間は電車が走っています。電話で、間に合うはずだと伝えました。わかりました、との返答でした。

 立川駅のルミネには、こんな張り紙がしてありました。
 
 
 

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 職場には、無事に予定より15分前に着きました。
 入口には、展示の案内パネルに、張り紙がありました。
 
 
 
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 また、エレベーターにも、計画節電の張り紙がありました。
 
 
 
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 新幹線でとんぼ返りをする前に、宿舎の地震による被害を確認するため、少し寄り道をしました。
 京葉線は運休とのことなので、地下鉄東西線で門前仲町まで行きました。途中、竹橋駅で停車中に、地震が東京地方にあったとのことです。しばらく電車が止まっていた間は、ここで津波に襲われたら終わりだと、観念して座席に座っていました。電車内は、ものすごい混みようです。
 ようやく宿舎にたどり着き、部屋の無事を確認しました。

 部屋の大きなテレビが前のめりに倒れていました。液晶パネルは大丈夫でした。
 書斎の本棚も無事でした。すっくと立っています。しかし、上に乗せていたガラス戸付きの棚が落ち、ガラスが辺り一面に飛び散っていました。本は、たくさん下に散乱しています。
 パソコンの液晶モニタもひっくり返っていました。しかし、それだけです。無傷です。幸いでした。
 部屋はそのままにして、京都へ向かうことにしました。

 京葉線は依然として運休です。東西線の門前仲町駅が、改札制限のために、入場は2時間待ちになっていました。ものすごい人が、改札の前で列を作っていました。
 仕方がないので、大江戸線を使って浜松町経由で東京駅に出ました。

 こうなると、諦めてノンビリ帰るしかありません。
 新幹線で京都の自宅に帰り着いたのは、夜の11時でした。

 関東東北地方で震災に遭われた方々のことを思うと、こんなことは大したことではありません。
 いろいろなことがあった、京都と東京を往復する一日でした。
 
 
 
 

2011年3月 5日 (土)

高校入試で行書体の文字を問うこと

 昨日(2011/03/04)京都で行われた平成23年度公立高校の入学試験で、毛筆で書かれた行書体の文字を答える問題が出ていることを、今朝の京都新聞で知りました。
 プレゼンテーションにおいて、発表資料に毛筆で書いた文字を使うという想定で、漢字の偏の行書体を問うものです。
 
 
 
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 京都新聞に掲載された「京都公立高校入試問題」を見て、これはいい傾向だと思ったので、過去の入試問題を調べてみました。

 京都新聞のウエブサイトには、「平成12〜23年に実施された京都府と滋賀県の公立高校入試問題と解答」が公開されています。
 滋賀県の平成23年の試験問題はまだ公開されていませんが、過去12年間の国語の試験問題を見ると、平成18年の京都で、次の問題が出ていました。
 プレゼンテーションをするときの文字遣いについて、行書体と楷書体の違いについて問う問題です。
 
 
 
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 また、平成22年の滋賀県の問題には、次のものが出題されていました。
 これも、行書体と楷書体の違いを問うものです。
 
 
 
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 平成11年以前についてはわかりませんが、平成18年以降は、3例とはいえ行書体について注意を向ける質問が出されているのです。
 私は、この傾向を歓迎します。

 『源氏物語』の古写本の翻刻・翻字を進めていて、若い学生さんたちが墨で書かれた文字を読むことへの関心が薄いことを、常日頃から残念に思っていました。

 まずは、行書体でいいのです。
 中学生時代に行書体に意識を向けさせ、高校生時代に草書体を学べば、日本古来の手書きの文字に興味を向けざるを得なくなります。変体仮名は、その後で興味を持ってから、自学自習で大丈夫です。割り箸の袋に「御手茂登」と書いてあることに注意が向けばいいのです。「御楚者」と書かれた暖簾も、いつか「御そば」と読めるようになるのですから。

 携帯電話やパソコンのワープロなどによって、活字体の文字に囲まれる現在、筆記体の変形文字に対する柔軟な目は、若いうちに養っておいてほしいものです。

 京都府と滋賀県以外では、どのような状況なのか、今はわかりません。
 何かご存じの方は、ご教示いただけると幸いです。
 
 
 

2011年2月26日 (土)

西国三十三所の朱印軸

 自宅のすぐ前の賀茂川の河川敷が、昨年からの補修できれいになりました。
 
 
 
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 芝生の養生のためにロープが引き回されています。この芝生が育つと、さらにいい散策路になることでしょう。

 もう、防寒コートはいりません。対岸の半木の道の桜並木は、あと一月もすると蕾が出るはずです。今年も、みごとな桜を見せてくれることでしょう。
 この半木の道は桜の名所として全国的に知られるようになり、4月に入るとたくさんの人で賑わいます。春はもうすぐです。

 昨秋、病気平癒を願って巡拝した西国三十三所の朱印軸が、きれいに表装されてようやく届きました。
 新町通りにある芳村芳雲堂に西国三十三所のお軸の表装をお願いしたのは、昨年11月初旬でした。あれから3ヶ月半で、こんなにすばらしい軸にしてくださいました。
 
 
 
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 これまでのものと同じようにと、現物をお見せしてお願いしました。それが、希望したものよりも数段いいものとして完成したのです。さすがは、京の表具屋さんです。
 届けてくださった奥様は、この地に生まれ育った方で、なんと私と同い年でした。インドの話になった時に、このあたりにも昭和30年代には牛がいたとのことです。少し話し込んで行かれましたが、永くこの地でいい仕事をなさるお家です。
 みごとなご詠歌のお軸に仕立てていただきました。ありがとうございます。
 
 
 

2011年1月18日 (火)

今でもデタラメな佐川急便

 1995年9月からスタートした私のホームページ〈へぐり通信〉の中に、【ハイテク問はず語り】というセクションがあります。もう15年も前から、個人レベルでの情報発信を続けているのですね。よく続いているものだと、我ながら感心しきりです。

 【ハイテク問はず語り】で「5年目/2000.1.1〜2000.12.31」の記事の一つとして、「佐川急便の受け取りを拒否」〈2000.5.10〉という一文を書いています。佐川急便の荷物の扱いのでたらめさと、配達の酷さを憤慨しながら綴ったものです。
 10年前には、ブログという発信スタイルがなかったので、ホームページの中でこんな話を掲載していたものです。

 この佐川急便という会社は、その後もコンスタントにでたらめさを発揮してくれました。

 「相変わらずでたらめな佐川急便」(2007年6月29日)もそうです。


 そして今日も、不可解で不愉快な思いをして荷物を受け取りました。

 なお、日本郵便の荷物の配送も酷いものです。昨年の信じられないミスは、次の記事をご笑覧ください。
 「迷走する「ゆうパック」で届いたハンガリー語訳源氏」(2010年8月 2日)

 今、日本でまともに荷物を配達してくれるのは、クロネコヤマトの宅急便だけのようです。ペリカン便は昨年「ゆうパック」に引き継がれたようです。業務用はともかく、一般家庭で信用して利用できる宅配業者がクロネコヤマト1社というのは、何とも寂しいことです。

 さて、今回の顛末です。

 海外出張用のキャリーバッグが、あまりの酷使に耐えかねてか、綻び始めました。そこで、ネットで探して注文し、東京の宿舎に届けてもらうことにしました。
 昨日届くように発注したのですが、私が宿舎に帰ったのが午後8時を少し過ぎたため、不在通知票がドアポストに投函されていました。すぐに電話をしたところ、もう今日は配達はおわった、とのことです。午後9時までではないのかと聞くと、午後8時までなのだそうです。

 しかたがないので、今日の夜に再配達してもらうことにしました。一番遅い時間に配達してもらえるように依頼すると、7時だということです。あれっ、と思いましたが、佐川急便とは、もうもめたくないので、一応それで了承しました。
 ただし、午後7時までには帰れないので、7時以降の可能な限り遅い時間に配達してもらうようにお願いしました。
 そして、宿舎で受け取れなかったら、私が江東店に電車で受け取りに行くと言うと、場所は知っているかということで少しやり取りをした後、先方から受け取れなかったらその時に考えればいいことなので、その時点で電話をしてほしい、とのことでした。何とも、突き放した対応でした。

 そして、今日は朝から職場では会議続きの一日でした。午後4時からは私が議長の会議でした。問題山積の議案を扱ったのですが、荷物は今日ダメでもしかたがないと諦め、とにかく審議を尽くして会議を終わったのが午後6時少し前でした。
 大急ぎで宿舎に辿り着いたのは7時半でした。
 外の集合ポストを見ると、そこに昨日と同じような不在通知票が入っていました。いつもは、ドアのポストに投函されます。それが、この外の集合ポストに宅配便の不在通知が入れられたのは初めてです。階段を上るのが面倒だったようです。
 郵便物はすべて京都に転送しているので、この外の集合ポストは、ピンクチラシが投げ込まれるところです。

 外の寒風に吹き曝しとなっていた不在通知票は、午後7時に配達に来たことになっています。
 昨日の約束では、午後7以降で可能な限り遅い時間ということで確認したはずです。それが、午後7時きっかりに再配達にいらっしゃったようです。

 今が午後7時半という時間を確認して、これなら今日の再配達をしてもらえると思って、不在連絡票に記された電話番号をプッシュしました。しかし、いくら呼び出しても出られません。何度目かからは、電波の届かないところか電源が入っていない、というメッセージに変わりました。

 時間ばかりが経つので、江東店に電話をしました。すると、私の耳に届いたのは、「もう上がったのでしょう」という、信じられない返答でした。午後7時半に配達業務を終えて帰るとは、何とも不可解です。
 昨日のやりとりを説明して、あまりにも対応が無責任ではないか、と不満を言うと、急に態度が変わり、調べるので後で電話をする、と言われるのです。

 しばらくして電話があり、今晩9時までには届ける、とのことです。そして、7時以降に配達という連絡が伝わっていなかったようで、とおっしゃいます。
 昨日は、10分近く電話口で受け取り方の相談を含めて話をしました。その言い訳では、昨日配達のためにお出でになり、電話の対応をしてくださった配達担当の?さんはいったい何だったのでしょうか。昨日の不在連絡票を見ると、お名前が書いてありません。今日の不在連絡票には、ハッキリとKという名前が記されています。

 いずれにしても、今日の配達業務は、午後7時までではなかったのですか?
 昨日は8時までしか配達しないのに、今日は9時まで仕事をなさるのですか?
 おまけに、7時半から電話を受け付けない設定にして仕事から上がられた方に、急遽時間外勤務が課せられた、というのでしょうか。

 9時前に、荷物が届きました。配達された方は、サインを受け取ると逃げるように帰って行かれました。何か言われたらどう応対していいのか困るので、ここは逃げるが勝ちと思われたのでしょう。
 こんな時に使う日本語として、「ご迷惑をおかけしました」というコトバがあります。それすらなしに、私の名前を確認して、後はサインを、と言っただけで、紙片を受け取ると風のように飛んで帰られたのです。

 以前からお願いしていることですが、私の所に荷物を送られる方は、佐川急便以外の宅配業者にしてください。これまでにも、いくつかの佐川急便が持ってきた荷物は、受け取りを拒否して、送り元に返しています。そして、別の会社の宅配便で送り直してもらっています。

 お手数をおかけしますが、毎度毎度、不愉快な思いと無駄な時間に振り回されたくないので、私に佐川急便で荷物を送ることはお控えください。ご協力の程を、よろしくお願いします。
 
 
 

2011年1月15日 (土)

【復元】入金中の銀行ATMが突然操作不能に


 5年前にアメリカへ行ったときの後日談の第4弾です。
 不運でした。しかし、問題は後に引きずりませんでした。
 何事も、余裕を持って行動しなさい、ということなのでしょう。

※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。
 
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
 
2006年2月25日公開分
 
副題「悪条件が重なった中での災難」
 
 
 不幸は、いつなんどき、我が身に降りかかるか、本当にわかりません。私は、なかなか楽しい人生を送っていると、心密かに自負しています。
 さて、2週間前のことです。2月12日(日曜日)の午前11時15分。横浜駅前の某銀行での出来事。
 アメリカへ出発する前に、銀行の自動引き落としの対処をするために、ATMに入金して行くことにしました。横浜発の成田エキスプレスの発車までには15分あるので、駅から徒歩2分の銀行へ行きました。
 ATMにキャッシュカードを挿入し、パネル操作をして、入金口に現金を入れました。マシンがお札を数え出すとすぐに、何と見かけない文字列が、目の前の画面に表示されました。一口で言えば、「私は操作不能となったので、横のインターホンで係員に連絡せよ!!」と。

 しばらく、なま暖かい呼び出し音を聞くことになります。こんな時の時間は、非常に長く感じられます。なぜ今、どうしてこんな事態に自分がいるのかが、理解できなくなります。

 やおら受話器口に出られた女性は、私の事情説明を聞くと、今日は日曜日なのでその銀行には行員がいない、すぐにセキュリティー職員に連絡するので、係の者が到着するまでそのまま待っていてほしい、とのことです。その声にかぶせるように聞くと、30分ほどで係員は到着する、と。

 5分もあれば入金手続きは済むと思っていたので、これから成田空港に向かうことを話し、私はATMの中にカードと現金が入ったままだが、大至急この場を離れることを伝えました。10日後に帰国してから、このカードを受け取りにこの銀行に来ることを、今から思えばあたふたと告げました。

 そして、入金口に吸い取られたままの現金を、私の口座への入金処理を依頼し、大急ぎで駅に引き返し、何とか横浜発の成田エキスプレスの発車に間に合いました。

 銀行が入金処理をしてくれない場合を考えて、空港から妻に電話をして、さらなる対処を頼みました。
 私はいつもはオンラインバンキングを利用していますが、海外から日本の銀行口座を見るのは危険だと思い、意識して確認はしませんでした。ただし、アメリカに到着してすぐに、アメリカにある当該銀行のサポートセンターに電話(フリーコール)をし、日本における対処の確認をしました。出先での無料電話は、こんな時には助かります。おまけに、日本語だけで大丈夫でした。

 そして、その後どうなったかは、帰国までの楽しみにしました。

 帰国後、すぐに当該銀行から確認の電話連絡がありました。丁寧な対応に好感を持ちました。
 銀行の窓口へ行き、ATMに吸い取られたままだったキャッシュカードを返却してもらいました。私が放置して立ち去った後の現金も、無事に入金処理されていました。
 支店長代理だという方が、その日は対応してくださいました。印象ですが、このようなことは頻繁とは言わないまでも、ままあるケースのようです。私の場合は、ちょうど日曜日だったために、また急いでいたために、こんなに面倒なことになっただけのようです。平然と対応しておられましたので、そんなふうに感じました。

 こんな場合には、私のようにトラブルの対処を銀行側にすべて任せ、後日窓口に吸い取られたままのカード類を受け取りに行く方法と、キャッシュカードを郵送してもらって受け取る方法、の二つがあるそうです。銀行側の説明は、手慣れたものでした。休日の対応は、あのセコムに依頼しているそうです。

 銀行などのATM機器はよく利用します。しかし、こんなトラブルは初めてです。私が入れたのが新札だったからかもしれません。慌ててクチャクチャにして入れた覚えはありません。新札を揃えて入れました。いずれにしても、降って湧いた災難でした。 
 
 
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 

2010年12月17日 (金)

図書館でのペットボトル

 3週間ぶりに京都の自宅に帰りました。
 賀茂川沿いに自転車を走らせ、岡崎公園にある京都府立図書館を目指しました。義務教育期間の国語科の教科書を調査することを再開するためです。一月ほど空いてしまいました。

 自宅のそばの賀茂川は、散策路の工事が始まっていました。これは、下流から北上してきた公園整備の一環です。やっと我が家の前まで来たことになります。
 
 
 
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 対岸から我が家の方を見やると、こんな様子です。
 
 
 

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 来春には完成することでしょう。環境整備はありがたいことです。気持ちよくウオーキングができます。

 下鴨神社の近くから、真冬の大文字がきれいに見えました。
 冬鳥も気持ちよさそうに飛び回っています。
 
 
 
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 賀茂川はみんなの憩いの場所です。三条から四条にかけてのアベックの光景は、二条から上って我が家の方にはまったく見られないのです。散策は御池から北に限ります。観光(?)は、御池から南です。

 途中で、新郎新婦の記念撮影に出くわしました。
 
 
 
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 寒そうですが、なかなかいい雰囲気です。
 私なら、前方の北山をバックにして写真を撮ります。冬の北山のグラデーションもいいものです。 
 
 さて、図書館での調査は、今日は中学校の教科書の続きです。これが膨大にあるので、来春までに終わればいいと思って根気強く続けています。

 私が使える範囲内のテーブル一面を使って、分類整理しながら一冊ずつを確認していた時です。右横の席で調べ物をしておられた若い方が、持ち込んでいたペットボトルのお茶を私の右側の、ちょうど数冊積んだ教科書の横に置かれたのです。私が右の方の領域を侵犯して机に資料を並べていたわけではないのです。

 大事な資料を、それも昭和20年代から30年代の教科書を広げていたところだったので、何かあってはと思い、隣の人に「ペットボトルを反対側に置いてもらえませんか」とお願いしました。
 すると、「口は閉めてあります」と憮然とした表情でおっしゃいます。顔色が変わっていました。
 私は、「いま貴重な資料を見ているので。紙に水気は良くないもので……」と丁寧に言いました。すると、また「口は閉めてあります」と不満そうです。
 しかし、ここは出納カウンターのすぐそばで、大型本や新聞や特別な本をみるテーブル席です。そのために、少し広めのテーブルが、司書の方の目の届く場所に設置されているのです。

 私が、「閲覧する机上に飲み物を置いてはいけないと思いますよ」と優しく言うと、不承不承ペットボトルを私の横から反対側に移されました。
 その方は、それでも納得できないのか、腹の虫が収まらないのか、閲覧カウンターの所へ行って、図書館のリーフレットを持って来て、館内で飲み食いをしないでほしい、と書いてある箇所を私に示されます。飲んでないのだからいいじゃないか、と言いたそうです。
 しかし、「本は湿気を嫌いますから」とヤンワリと言うと、「そんなことは知っている」とおっしゃいます。知っているからペットボトルを私の横から反対側に移動したのだ、と顔が言っていました。

 私にしたら、今は50年前の教科書を調べていて、本の紙が酸化していてページの周りの色が茶色になり、めくるときに注意を払っているのです。その本の横にペットボトルを置くなど、非常識です。
 その方は、自分の行為がいけないことであったことに気づかれたようです。「図書館では常識ですよ」と言うと、また「そんなことはわかっている」とふてくされて言われます。しかし、注意されたことが不愉快で素直になれない、というところのようでした。

 見たところ、法令関係の論文をたくさん調べておられるようです。それなりに知的な様子なので、まともに話はできる方のようです。第一印象としては、この近くの大学の法学関係の大学院生で、年明け早々に提出する修士論文を執筆中、という雰囲気がありました。これは、まったく私の勝手な想像です。学部の学生が卒業論文に取り組んでいる姿ではありません。

 外も暗くなり、閉館時間も近づいたので、今日の調査の収穫を別のコーナーでコピーしました。そして、自分の席に戻ると、先ほどのペットボトルが私と彼の間に置かれていました。彼のささやかな抵抗だったようです。
 
 
 

2010年11月28日 (日)

テレビドラマ『球形の荒野』(後編)を観て

 『球形の荒野』の後編は、戦争と平和がテーマになっていました。難しいテーマが、わかりやすく展開しました。
 ただし、このドラマを観ていた人の多くは、このような深刻な問題を突きつけられるとは思っていなかったのではないでしょうか。前編でもっと伏線を張っておいたらよかったと思います。
 しかたがないのでしょうが、前編は殺人事件と父娘の関係の推理に、どうもバランスが傾きすぎでしたから。

 この小説の時代設定についても、疑問があります。
 『球形の荒野』は、昭和35年に発表された小説です。それを、今回のドラマ化するにあたっては、東京オリンピックが開催された昭和39年の物語になっていました。東京オリンピックが中途半端にドラマの中で浮いていました。あの外交絡みの和平交渉や、その背景にある暗さを表現するには、何ともギクシャクし過ぎです。うまく噛み合っていないジグソーパズルのようなドラマになってしまいました。また、連続殺人事件の犯人たちについても、無理があります。これは、清張自身が連載時から単行本の刊行時において、さまざまな削除の手をいれたことと関係します。清張の迷いと苦悩が、このドラマでもストレートに混線した状態で映像化されています。これは、脚本の問題かもしれませんが。
 これは、かえって現代に置き換えるべきでした。そのほうが、すっきりと内容に入れたと思われます。

 原作の改変を含めて、登場人物の関係や時代設定について、よくわからないままに、違和感を持って観た人が大半ではないでしょうか。

 今は、新幹線の開通や東京オリンピックのことが、ほとんどイメージしにくい時代にあります。観る人を50歳台以上に設定したとしても、伝わるものが少なすぎました。若い方々には、なおさらわかりずらかったと思われます。
 逆に新鮮だったと感じた人もいるかもしれません。それは、原作から離れすぎたところから生まれる、計算外の効果と言えるでしょう。

 父娘で海を臨みながら「七つの子」を歌うシーンも、川奈温泉の海辺ではスケールが小さすぎます。これでは、清張が泣きます。清張には、荒々しい波が必要です。
 原作通り、観音崎の岩場にしなかったのはなぜでしょうか。これが、インパクトのないドラマになってしまった典型的な事例です。

 全体的に、スケールが極端に矮小化されていました。こぢんまりした清張作品になっていて、失望です。

 あまり貶してばかりではいけないので、最後は褒めておきましょう。

 久美子役の比嘉愛未は、後編になると役所が掴めたのか、表情がとても柔らかくなり、好感を持って観ていられました。このドラマでは、数少ない救いでした。

 また、本来なら父娘で「七つの子」を歌って終わるところを、このドラマでは、さらに野上が日本を離れる空港のシーンが付け加えられていました。それがかえって、このドラマが一番アピールしたいところになっていたと思います。。

 空港での別れ際に、江口洋介が田村正和に、日本の印象を聞きます。カサブランカ並みのアングルでした。それはともかく、ここで、主役が田村から江口に代わったと感じました。江口洋介が物語の中心に躍り出た場面になっていました。それだけの、意欲的な原作への付加でした。
 これは、後編での堅苦しくなった流れを何とか必死に立て直そうとした中で生まれた、昭和39年当時のことばで言う「ウルトラC」でした。このシーンを付け加えたことにより、この後編で迷走したドラマが、その伝えたかったテーマを鮮明にしました。ことばを代えれば、この空港での別れのシーンがなければ、このドラマは完全に失敗、ということになりかねなかったのです。

 この2人の空港での向き合い方が、清張の作品の解釈として視覚的に表現できたことが、このドラマの最大の成果と言えるでしょう。
 この終わり方を設定できる監督なら、『砂の器』をどう料理されるのか、少し楽しみになりました。
 ただし、キャスティングのミスのないように、慎重に人選をしてほしいと希望します。
 
 
 

NPO法人〈源氏物語電子資料館〉広報室より

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