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2013年8月15日 (木)

亡き仲間を偲んで我が家でお茶会

 朝の賀茂川散歩では、いろいろな鷺と出会います。
 楽しそうに集う5羽の鷺を見ていると、日本文学データベース研究会(略称はNDK)で27年間苦楽を共にした5人の仲間との日々が思い起こされます。
 
 
 
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 その内の1人が、先月29日に他界。何をそんなに急いで、と思わざるを得ません。まだまだ一緒にしたい仕事がたくさんありました。
 
 
 
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 春先から病気のことは聞いていました。これまでの経緯は、「27年来の仲間を思い出しながらの追善供養」(2013/8/4)に記した通りです。

 思い出してあげるのが一番の供養である、ということで、今日は2人の仲間が集まってくれました。

 まずは、懐石ではなく、妻手作りの野菜料理で会食です。

 その後、部屋を移ってお茶を点てました。
 お茶室らしく手入れをした部屋には、庭に咲いていた花を妻が素人なりに生けてくれました。
 花が大好きな者が持つ感性が、亡き人への追悼の気持ちと共に、ここには盛り込まれていると思います。
 
 
 
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 また、前回同様に、部屋には「空蝉」のお香を置きました。『源氏物語』の第3巻「空蝉」は、谷口さんに最初にお願いした仕事のためにお渡したデータです。この「空蝉」巻のデータで、『源氏物語別本集成』の版下作成プログラムを開発していただいたのです。世の中の誰一人として、『源氏物語』とコンピュータが結びつくことなど、具体的にイメージすらできなかった時代のことです。
 伊井春樹先生を中心とした我々5人が、日本文学の研究とコンピュータの接点を提案し、新しい研究手法を領導してきたと自負しているのは、こうした先見性を自他共に認め、認めていただいているからです。

 外は今日も40度近い気温なので、亭主役の私は少しでも涼しそうな雰囲気作りをと考え、ガラスの水差しに葉蓋を用いることにしました。葉蓋は、思いつきから実現させたものです。

 事の起こりは昨日のことです。寺町通りの一保堂にお茶を買いにいったところ、近くのアンティークショップでガラスの水差しを見つけました。イランの吹きガラスで、口の直径が15センチほどでしょうか。涼しそうなものです。ただし、蓋がなかったので思案しました。

 別の道具屋さんで蓋の相談をすると、葉蓋にしたら、とのアドバイスをいただきました。
 葉蓋を用いたお手前は、11代家元玄々斎がお考えになったものだとか。表千家ではしない、裏千家だけのお点前であることもわかりました。私はこの時、葉蓋ということばを初めて知りました。

 よし、それではそれにチャレンジしてみよう、と決め、「練習していた洗い茶巾のお点前」(2013年8月12日)は見送ることにしました。多少、自信が揺らいでいたこともあります。何度もお稽古をしている運びの薄茶のほうが安心です。

 お茶の先生に相談したところ、葉蓋を用いたお手前のアドバイスと励ましをいただき、俄然その気になりました。

 我が家の庭に、斑入りですがツワブキがたくさん生えています。これは使えるかな、ということで用意を始めました。
 ところが実際に試してみると、葉の大きさが微妙に小さくて私にはとても扱えそうもありません。もうすぐ仲間も来ます。先生に相談をする時間もありません。

 たまたま、お隣の玄関先に大きな蓮が咲いていたので、急遽お願いして1枚いただき、葉蓋をツワブキから蓮に変更することにしました。仲間の追悼のお茶を点てるので、蓮もまたふさわしい葉蓋になると思ったのです。

 突然の思いつきとアレンジなので、これでどうなのか、実のところよくはわかりません。とにかく、涼しそうな雰囲気を仲間に見てもらいながらお茶を点てることを大事にしました。

 写真を撮るために、蓮の葉を拡げてみました。
 水滴がきれいに大きな水玉になった時、思わずオーッという声と拍手が聞こえました。
 
 
 
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 本来どうあるべきものなのかは、まだ初心者の私にはわかりません。しかし、偶然が重なってのこととはいえ、これだけ楽しいことが目の前に繰り広げられると、みんな大満足です。

 水差しの蓋を取る時、葉を5センチ角に畳んでから軸を突き刺し、葉が開かないようにしてから建水の中に捨てました。

 まずは、亡き谷口さんにお茶をさしあげました。この前の4月7日に我が家でお茶会をした時、お正客の席に座っておられたので、今日もここを本日の追悼の席としました。
 お盆に載せたお菓子の最中には、「翁」という文字が刻まれています。そんなイメージを持ってお付き合いをして来たので、あえてこのお菓子を選びました。
 
 
 
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 そして、続いてお客さんに点てました。お客さんにと用意したお菓子は、大徳寺納豆を仕組んだゼリーと道明寺粉を使ったゼリーで、どちらかを選んでいただきました。

 暑かったので、少し温めのお湯で点てました。しかし、熱い方がいいとのリクエストもあり、3服目には適温になりました。

 お茶を点てながら、この前のお茶会で話した内容や様子を思い出し、この席にいないことが信じられないと言いながら、明るく語り合うことができました。もし元気にこの席におられたら、腰の調子が悪いと言って寝そべり、「てつっ!」と言いながら「楽しいのう。」と喜んでくださったはずです。返す返すも、あの優しい語り口の言葉が聞けないのが残念なことです。

 お茶と話でお腹が一杯になったこともあり、また隣の部屋に移って、思い出話や日本文学データベース研究会の今後について語り合いました。

 楽しい時間というものは刻を忘れさせるようです。気が付いたらもう6時半を回っていました。
 すぐ近くのバス停まで見送りました。
 何十年という時が凝縮された半日となりました。そして、今後の活動の確認もできました。
 気の置けない仲間というのは、ありがたいものです。
 NPO法人〈源氏物語電子資料館〉を舞台にして、また新たな提案をし続けようと思います。
 今後の我々の活動を、どうか楽しみにしていてください。

 明日は、京都五山の送り火です。
 京都が大好きだった谷口さん。
 京都大学で、そして光華女子大学で、本当にいろろいとお世話になりました。
 これまで同様に、我々をずっと見守っていてください。
 ご冥福をお祈りしています。
 
 
 

2013年8月 4日 (日)

27年来の仲間を思い出しながらの追善供養

 日本文学データベース研究会(略称はNDK)を立ち上げたのは、今から27年前の昭和62年のことです。
 当時は大阪大学にいらっしゃった伊井春樹先生のもとで、精力的に研究会を開催し、積極的に成果を公開してきました。

 その時以来ずっと一緒に、日本文学にコンピュータを導入した研究を啓蒙推進してきた、心強い仲間の一人であった谷口敏夫(浅茅原竹毘古)さんの訃報を、今日知りました。
 お亡くなりになったのは、7月29日とのことです。
 『源氏物語』の写本を翻字したテキストデータを、自由自在に処理するプログラムを開発していただきました。私たちのわがまま勝手な注文にも、とにかく夢を叶えるべく開発に取り組んでくださいました。

 末期癌と聞いてすぐ、今年の4月には、お正客として下鴨の我が家にお出でいただきました。
「27年も続くパソコン仲間との交流」(2013年4月 7日)
 心を込めて、薄茶をさしあげました。お点前の作法よりも何よりも、リラックスして美味しく召し上がっていただくことを心がけて、お茶を点てました。

 初夏より覚悟はしていました。それ以降、特に連絡もなかったので、そろそろまた我が家でご一緒にお茶でも、と思って準備を進めようとしていた矢先の訃報でした。

 今年4月の上記ブログにも引いたように、2010年8月に、私が癌で入院手術をする直前にも、この仲間が我が家に集まっています。あの時は、賀茂川の西にある北大路の家に住んでいた時でした。手術前の私をリラックスさせてくださいました。

 折々に、節目節目に逢い、食事をしながら楽しい夢を語ってきました。
 奈良に住んでいた時にも、何度か我が家に来ていただきました。

 今、これまでのことが、さまざまに駆け巡っています。
 今、すぐに思い出すのは、次のような表現で私を語っておられたことです。


 昭和62年2月、三人の男が奈良の近鉄西大寺駅ホームに集合した。ホーム番線は不明だがおそらく、京都方面から奈良に向かっての電車が到着する最後部のベンチ辺りであったろう。
 日も暮れた6時すぎだった。
 三人のうち、二人は既に顔見知りで、残りの一人は全く面識がなかった。たがいに接近遭遇する符丁として、二人組は[ THE BASIC ]、一人は[ ASCII ]をそれぞれ、これ見よがしに持っていた、と記録にはある。
 どれほどたがいに気恥ずかしい思いをしていただろうか。二人組の一人は30半ば、京都からの一人は年齢不詳だが互いにいい歳した中年、関西風ではオッサンがガキの読む[ THE BASIC]や[ASCII]を人混みの中でひらひらさせて相手を捜すのだから。免れていたのは、現場に居合わせた20代半ばの長身痩躯紅顔の青年一人であったろう、と記録にはある。
 三人はそのまま申し合わせたように路地奥の赤提灯に歩みを進めた。
 これがNDK(日本文学データベース研究会)の始まりの最も原始引金であった。この時三人がシティーホテルの高級レストランや、高級料亭でなく、西大寺路地裏の「だしまき」(関西では卵をダシでといて卵焼きを作るが、これをダシ巻という)一皿150円の店に集合したのが、その後の道筋を象徴的に現わしている。地方志向、建前よりも質実、軽快。
(中略)
 それにしても西大寺の夜、実際に伊藤さんの関わるプロジェクトや(源氏物語別本大成)、それにまつわるよもやま話は最初奇談じみて聞こえた。伊藤さんの御師匠筋にあたる伊井春樹先生や大学時代の諸先生のこと、パソコン奮戦記(これは伊藤さんの著書名でもある)、どれをとっても雲をつかむような事ばかりであった。
 圧巻は源氏のことだった。新聞記事で伊藤さんの仕事の内容は知ってはいたが、今に伝わる源氏物語に異本が何十種類もあって、それを本当にパソコンPC-9801にデータ登録しているという、事実をじかに知って、ま、目がくらくらした。「この人誇大妄想ちがうやろか」それが私の伊藤さんへの第一印象だった。(「プロムナードのこと」『人文科学データベース研究 創刊号』昭和六十三年、同朋舎出版)

 この時からご一緒に、道なき道を雑草を掻き分けながら猛進してきました。無事に『源氏物語別本集成』を刊行し、『CD-ROM 角川古典大観 源氏物語』も作り、さらなる展開を期していたばかりでした。

 今思い返しても残念なのは、『源氏物語別本集成 続』の第8巻以降を見てもらえなかったことと、『データベース〈平安日記・物語〉』が作成途中であったこと、そしてNPO法人〈源氏物語電子資料館〉にさらに深く関わっていただけなかったことです。

 「てつ!」とか「てっつぁん」と、親しく呼びかけてくださった優しい声が、今も耳に残っていて、いつでもその姿を思い浮かべることができます。
 私は、もう少し仕事をさせていただきます。
 これまでと変わらない「てつ!」という声を励みにして、もう少しやり残した仕事をします。

 私が初めて書いた『新・文学資料整理術パソコン奮戦記』(昭和61年)が毎日新聞に取り上げられ、それに対して連絡をいただいたのが最初のご縁でした。お陰で今も、日本文学研究とコンピュータの接点で仕事ができています。

 来週には、『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」第2集』が刊行されます。辛口の批評が聞けなくなったことが残念です。
 とにかく、27年前と同じように、私は前に向かって進んでいきます。
 2人で語り合った夢が1つでも2つでも叶うように、見守っていてください。
 
 ご冥福をお祈りします。
 
 実は、谷口さんをお呼びしてお茶会を、という準備を進めていたところでした。
 思い出してあげるのが最高の供養だと言われています。
 近い内に、追善供養のお茶会を、また我が家で開くことを考えています。
 
 以下、谷口さんにご尽力いただいて刊行できた本を列記し、思い出すよすがとします。
 


(1)『資料検索表示ソフトウェア〈プロムナード〉』同朋舎出版、昭和63年

(2)『人文科学データベース研究 創刊号』同朋舎出版、昭和63年6月
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   『人文科学データベース研究 第6号』同朋舎出版、平成2年11月

(3)『データベース・平安朝 日記文学資料集 第一巻 和泉式部日記』同朋舎出版、昭和63年11月

(4)『源氏物語別本集成 第一巻 桐壷〜夕顔』桜楓社、、平成元年3月
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   『源氏物語別本集成 第十五巻 蜻蛉〜夢浮橋』おうふう、平成14年10月

(5)『四本対照 和泉式部日記 校異と語彙索引』和泉書院、平成3年5月

(6)『データベース・平安朝 日記文学資料集 第二巻 蜻蛉日記』同朋舎出版、平成3年6月

(7)『CD—ROM 古典大観 源氏物語』角川書店、平成11年11月

(8)『日本文学どっとコム』おうふう、平成14年5月

(9)『源氏物語別本集成 続 第一巻(桐壷〜夕顔)』おうふう、平成17年5月
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   『源氏物語別本集成 続 第七巻(野分〜梅枝)』おうふう、平成22年7月

(10)『本文研究第一集 - 考証・情報・資料』和泉書院、平成8年1月
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   『本文研究第六集 - 考証・情報・資料』和泉書院、平成16年5月


 
 
 

2013年1月 5日 (土)

王朝文学研究会創立50周年記念祝賀会

 京都ほどではないにしても、東京も寒い一日でした。
 そんな中、午後は標記の祝賀会に出席しました。

 國學院大學での恩師小林茂美先生がお作りになった王朝文学研究会が、今年で50周年という記念の年を迎えました。先生は3年半前にお亡くなりになりました。しかし、その意志を継ぐ研究会のOBや現役会員たちが、記念の祝賀会を催すことになったのです。
 この会は、私の10年後輩にあたる秋澤亙君(國學院大學教授)が受け継ぎ、今は第二期王朝文学研究会として、たくさんの学生に支えられて活発に活動を続けています。

 祝賀会の場所は、國學院大學の若木タワー18階にある有栖川宮記念ホールです。
 大きなガラス窓から外に目をやると、この研究会で勉強していた40年前と同じように、東京タワーを望むことができます。遅くまで小林先生の研究室で資料作りや議論をしていて、ふと窓を見ると東京タワーがライトアップされていて、そのシルエットが印象的だったことを、昨日のことのように思い出されます。違うのは、こんなにたくさんの高層ビルが建ち並んではいなかったことでしょうか。
 
 
 
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 今回の祝賀会にも、若手がたくさん参加していました。参加者は100人近くいました。名簿を見ても、私は前の方の世代となってしまいました。それが証拠に、乾杯の音頭をとらされたのですから。

 日本の古典文学の勉強をしようとする若者が激減している昨今、こんなに人が集まるとは凄いことです。しかも、『源氏物語』を中心とした「王朝文学」に興味を持つ関係者なのです。一人でも多くの人が、日本の文化としての古典文学を、折々に語り伝えていってほしいものです。

 この会では、設立10年目にして『しのぶ草』という会誌を創刊しました。私が幹事をしていた時代で、編集に悪戦苦闘しました。今回の祝賀会の後には、『しのぶ草 創立五十周年記念号』が刊行される予定となっています。

 『しのぶ草 第十号』(國學院大學王朝文学研究会編、昭和60年2月)に、創刊号を発行した当時のことを振り返った拙文を寄せていました。その原稿が再現できましたので、記録として以下に引用しておきます。実は、この創刊号は妻との二人三脚のたまものでもあるのです。


 
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創刊十周年を記念して
  志能風草十年の歩み
 
「創刊号『志能風草』の装釘」   伊藤鉄也
 
 
 王朝文学研究会の会誌『志能風草』を創刊するにあたっては、その内容・構成はもとより、それ以上に頭を悩ませたのは、その装釘であった。
 創刊号の発行日が、昭和四十八年七月四日になっているので、その数週間前であったろうか。渋谷の東急東横店の文具売場で様々な紙を選った挙句に、漸く決めた表紙に使う紙は、紫色の「ミューズコットン」であった。中身のメドがほぼついていた段階であっただけに、それを包む体裁には神経を使った。
 袋綴(和装・和綴)にしようということは、早くから決っていた。しかし、その表紙・題箋・綴じ方の形態はというと、色々な形が想定された。立派なものも考えた。しかし、印刷・紙折・ページ合わせ・仮綴という、初めての慣れない作業に忙殺されていた時である。装釘に凝って多くの時間と要らぬ混乱を招くのは避け、とにかくあまり手数がかからず、それでいてハイセンスなものを求めることにした。
 そこで思いついたのは、室町時代に盛んに作られた「くるみ表紙」の変形のそのまた変形とでも書うぺ巻ものである。つまり、下綴じした冊子の背を一枚の紙で包み、それを二枚の表紙ではさむようにして貼り付けた、室町期の『新古今和歌集』の体裁を借りることにした。但し、和紙ではなくてあくまでも西洋紙を用いての製本であるために、それでは背がすぐに割れてしうように思えた。そこで、創刊号では先に表紙を貼り付け、その上から背を包み込むように覆うという形をとった。今、手許にあるものを取りだして見ても、見栄えはしないが、その背は丈夫なもので、未だに裂け目は入っていない。
 とにかく、手早く丈夫な表紙を付けることができた。次は、書名としての外題である。最初は、表紙に直接書き付ける〈打ちつけ書き〉で済まそうと思っていた。しかし、当時の最上級生であった深井(菅谷)邦子さんが、和紙に一枚一枚、題箋としての〈書き外趣〉を書いて下さった。この〈貼り外題〉が、創刊号の装釘に花を添えることになった。
 題菱を表紙中央に貼り、その右上には打ちつけ書きで「創刊号」、左下には「王朝文学研究会」と筆で記した。二条家の流儀でいえば、題箋を中央に貼った場合には、偶数ページから本文を書き出すのが習わしのようだが、冷泉家などはそういうことには拘っていない。あまり細かい事はともかく、気品の高さを表紙に持たせ得たと思っている。
 この装釘が、「四つ目綴」(明朝綴・四針眼訂法)になったのは、第二号からである。当時、外部から研究室に出入りしていた坂口伸憲君が、その製本法を教えてくれた。現在に至るまで、この第二号のやりかたが踏襲されていることになるのである。尤も、時々表紙に使われている「ミューズコットン」が裏表逆になったものを戴く。紙の裏裏の判別は難しいものである。
 王朝文学研究会が発足してから、丁度十年目に会誌が創刊された。それが今、会誌「志能風草」の第十号を迎えたとのこと。よくぞ十号、やっと十号、とにかく十号。感慨深いものを感じる。どうか、これからもこの会誌の刊行を継続し、この会誌を発行することを通じて、色々な事を学んでいってもらいたいと思う。そして、若い人々の物の見方を、これからも学ばせていただきたいと思う。(昭和六十年二月十五日 記)

 昔の仲間と40年を振り返りながら、楽しいひとときを過ごしました。
 そんな中で、現在の文学部1年生数人と話をする機会がありました。彼らは19歳で、125期生だそうです。私は83期生なので、42年もの時の隔たりがあります。とにかく、コツコツと勉強を続けてくれることを願うばかりです。しかも、1年生が13人もいました。頼もしい限りです。

 4年生も13人いて、その内3人が今春より大学院へ入学するとのことです。ここでは、平安時代の文学研究は当分は安泰(?)と言っていいかもしれません。その3人と話をしました。みんな、『源氏物語』を取り上げて研究をしているのです。すばらしい成果を見せてくれることでしょう。ますます楽しみが増えました。

 前を向き夢を語る若者と話をすると、こちらも新鮮な力をもらったような気持ちになります。
 新年早々、英気を養ういい機会となりました。
 
 
 

2012年12月26日 (水)

2012年の十大出来事

 2012年もいろいろな出来事の中で、とにかく無事に生き抜くことができました。
 折々に支えて下さった方々には、感謝の念でいっぱいです。
 本来ならすでに終えていなければならない仕事が、まだまだ山積しています。
 生き続けている限り、溜まりに溜まった仕事は少しずつでも手を付けていればいつかは終えられる、ということを肝に銘じて、山を移す気持ちで時間を割きながら取り組んでいます。
 お待たせしている多くの方々には、気長にお付き合いのほどを、どうかよろしくお願いいたします。
 
 さて、今年の十大出来事です。


(1)賀茂川の右岸から左岸へ引っ越す
(2)第7回〈インド日本文学会〉開催
(3)第1回池田亀鑑賞の決定と授賞式
(4)娘達が下鴨神社で結婚式を挙げる
(5)國學院大學大学院での非常勤講師
(6)京都大学病院に1ヶ月の検査入院
(7)NPO<源氏物語電子資料館>申請
(8)フィレンツェで国際研究集会開催
(9)京都から発信のブログ2000件
(10)iPhone5をSoftBankからauに乗換

 
 
 なお、これまでに記した各年度の10大出来事を、以下に列挙しておきます。
 
「2011年の十大出来事」(2011/12/27)
 
「2010年の10大出来事」(2010/12/28)
 
「2009年の10大出来事」(2009/12/31)
 
「2008年の10大出来事」(2008/12/31)
 
「2007年10大ニュース」(2007/12/26)
 
■2006年度の記録は、サーバーがクラッシュしてデータのすべてが消失したため、ブログで発信した記録が復元できていません。その年に書いた年賀状から、2006年度の5大出来事を再建します。
(1)アメリカのハーバード大学で『源氏物語』の古写本を調査する
(2)インドのネルー大学へ小松和彦先生と一緒に調査に行く
(3)福田秀一先生から病床で依頼された口述筆記は果たせないままに
(4)海外の日本文学研究者との懇談会が隔月に開催される
(5)ロシアのモスクワ大学とサンクトペテルブルク大学へ調査に行く
 
【5.1-回想追憶】「【復元】2004年と05年の10大出来事」(2010/12/29)
 
 
 

2012年12月24日 (月)

父が遺していた焼けた帛紗の由緒書

 今年の1月に引っ越しをして以来、まだまだ荷物が整理しきれていません。とにかく、なんでもかんでも、段ボール箱に押し込んで、賀茂川の右岸から左岸に移ってきたのです。

 今日、父と母に関するものが入っているパッケージを開けたところ、私が父から受け取るはずだったものが出てきました。

 高校卒業後、東京で新聞配達をしていた時、住み込みの店が火事になりました。大学1年生の冬休みが明けた早々です。成人式の数日前のことでした。晴れ着として作ってもらったスーツは、着ないままに灰になりました。大阪に帰る気持ちがなかったので、私のすべての持ち物を持って来ていたのです。そのすべてが無くなりました。

 しかし、お茶のための帛紗だけは、焼け残っていたのです。このことは、記憶に残っていました。しかし、父は以下のような「由緒書」を付けて、保存していてくれたのです。このことは、知りませんでした。父は、29年前に亡くなっています。
 
 
 

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   由来書
昭和四十七年一月十一日 午前三時二十分頃、東京都大田区○●丁目○ノ● 朝日新聞○○専売所一階ヨリ出火、折柄異常乾燥下、火ハ忽チ燃ヘ拡ガリ約三十分ニシテ同家ヲ全焼セリ 鉄也事、同家二階ニ居住シアリ 出火後 暫ラクニシテ大声ニ目ヲ醒マシタル処、既ニ室内ハ煙入リ込ミ 息苦シク覚ヘタリ。
「火事」咄嗟ニ枕元ノ「ズボン」ヲ身ニ附ケ 「ハーフコート」ニテ 煙ヲ吸入セザル如ク 口ヲ覆イ 襖ヲ開ケタル処、濛々タル煙 流入スルヲ以テ裏ノガラス戸ヲ開ケ 屋根ヨリ飛ビ降リ 一命ヲ拾イタリ。
(コノ間数十秒ニ過ギズ)
深夜且ハ異常乾燥下ノコトトテ、店主Y氏ハ素ヨリ二階ノM夫妻他五名、何一ツ持出ス能ハズ 文字通リ命カラ/\ 奇跡的ニ無事ナリシヲ得タリ。
夜明ト共ニ 無残ニ焼ケ落チ 一切ヲ灰トシタル中ニ 只一ツ コノ帛紗ノミ概ネ原形ヲ留メアリタリ。
余ソノ不思議サト嬉シサニ 記念トシテ永ク後世ニ遺スベク 保存スルコトゝセリ。
因ミニ此ノ帛紗ハ 森下紫鶴氏ヨリ贈ラレタルモノナリ。
           伊藤忠右衛門記
  昭和四十七年一月記

 私が父に話したことを、こうして記録してくれていたのです。「余ソノ不思議サト嬉シサニ 記念トシテ永ク後世ニ遺スベク 保存スルコトゝセリ。」とあるのは、いささかオーバーです。しかし、ありがたいことです。

 写真でも認められるように、帛紗ばさみが入っていた紙箱は、片端がひどく焼損しています。その痕は、帛紗ばさみにも燃え痕が認められます。右上の帛紗と真ん中下の古帛紗には、何かが溶けて付着していました。懐紙は、熱い火を潜り抜けた後、相当水を被ったようです。楊枝は、今でもこのまま使えます。何故か、扇子がありません。

 最後に「森下紫鶴氏」とあるのは、父の同僚で姉のお茶とお花の先生です。私も、姉にくっついて何度かお稽古に行ったことがあります。今から考えると、夏休みだったので風炉のお稽古だったのです。何も知らずに、遊び半分で行き、帰りに未生流のお花の生け方を教わったりしていました。

 我が家の本家のおじいさんが茶人で、自分で小さな庵を持っていたことを覚えています。父も、何度か出雲と松江であったお茶会に連れて行ってくれました。まだ私が小学校入学前のことです。
 生まれが出雲なので、小さい頃からお茶には親しんでいたのでしょう。作法など関係なしに、毎日のようにお茶をいただいていたように思います。近所や親戚の家に行ったときに、よく抹茶がでてきました。

 突然その姿を見せた帛紗と、父の由緒書に驚いています。
 30年越しの、父親からの贈り物に、よろこんでいます。
 
 
 

2012年12月 5日 (水)

従兄弟の喪中を知って思うこと

 歳と共に、喪中につき新年の挨拶を失礼する旨のハガキをいただくことが、めっきり多くなりました。
 今年はすでに30通をこえています。ご両親がお亡くなりになった方が多いようです。
 私が出す年賀状は300枚プラス α なので、1割ということになります。

 その中でも、従兄弟の勲さんが亡くなられたことを知り、はたと時間が止まってしまいました。

 私は大阪の高校を卒業するとすぐに、朝日新聞の奨学生として上京しました。大田区の新聞販売店に配属されました。有楽町の駅前の朝日新聞社で手続きをし、すぐに販売店の所長さんと一緒にお店に行き、その日から住み込みで仕事をすることになりました。身元保証人には、吉祥寺にいらっしゃった勲さんが快く引き受けてくださいました。

 勲さんの吉祥寺の家へ挨拶に行った時の朝食で、生まれて初めて、あのネバネバする納豆というものを食べました。大徳寺納豆は知っていました。しかし、話には聞いていた臭い糸を引くものを、我慢して一口食べて遠慮しました。無理をしなくていいよ、と言ってもらいました。

 新聞配達の仕事を始めて10日ほどで、朝食後に突然腹痛がして、這うようにして2階の自分の2畳の部屋に帰ると、しだいに意識が朦朧としました。すぐに部屋を転がり出て所長さんの部屋の戸を叩いたところまでは覚えています。意識を失ったようです。気が付いたときには、すぐ近くにあった総合病院のベッドの上でした。

 看護婦さんの説明では、十二指腸が破れて体内に食べ物が回っているので、大至急手術をするとのことです。家族ですぐに来られる人に連絡を、ということでした。しかし、両親も姉も大阪の八尾市にいます。
 父か母が連絡を取ってくれたのでしょう。勲さんが保証人になるとのことで、妻の典子さんが吉祥寺から大森まで飛んで来てくださいました。保証人としての確認がとれたとのことで、すぐに手術が始まりました。

 それまでに、私は体毛を剃られたり、鼻から管がいれられたりで、見るも無惨な姿をベッドに横たえていました。
 麻酔がよく効いたようで、あのテレビドラマの「ベンケーシー」の冒頭シーンであった、手術用の寝台車から見る天井が目まぐるしく移動する場面は覚えていません。

 4時間の手術でした。胃液が神経の酷使で濃縮され、その出口にある十二指腸が徐々に濃縮された胃酸で溶けて穴が開いたのだそうです。そのために、胃液の分泌量を少なくするために、胃の3分の2と、穴の開いた十二指腸と、小腸を少々ですが切除されたのです。
 私の胃は18歳ということもあり、あまりにきれいなピンク色をしていることと、みごとにまん丸い穴が空いているとのことで、地下の標本室に飾られることになりました。もっとも、私はいまだに自分の胃と面会はしていませんが。

 無事に手術が終わり、病室に帰って意識を取り戻した時、典子さんが私の脚をずっとさすってマッサージをしてくださっていることに気づきました。心地よい刺激がずっと続いていたことを覚えています。

 このマッサージの意味が、一昨年の胃ガンの手術後にわかりました。エコノミークラス症候群のようにならないために、京大病院では空気を送り込む道具で手術後の脚を一晩中マッサージをしてくれていたのです。あの、43年前に典子さんが私の脚をずっとさすってくださったのは、こんな意味があったのです。そして、あらためて感謝の気持ちで一杯になりました。

 43年前に手術をしたとき、私がそろそろ歩いてもいいというタイミングで、典子さんはスリッパをお見舞いとしてくださいました。
 一昨年の胃の全摘出の手術のときは、切った翌日から歩行訓練でした。しかし、当時はそんな対処ではなかったのです。1日も早くベッドから降りて歩きたかったのです。
 そのタイミングを見計らってスリッパを差し入れてくださった典子さんの心遣いに、さりげない優しさを教えていただきました。勲さんは私の手術の成功を見守ると、慌ただしく出張に行かれたと思います。

 勲さんは、石川島播磨にお勤めでした。今、私がいる東京の宿舎は、その基地があった佃島のすぐそばです。散歩でいつもこの辺りを歩いています。

 私が十二指腸潰瘍で胃の3分の2を切除したのは、大阪で万博が開かれた1970年でした。半年後に、体調も復したので、再度上京しました。
 そして、勲さんに2つの相談をしました。1つは、ブラジルに行って新しい仕事をしたいこと、2つ目は、お茶の水のアテネフランセでフランス語を勉強して、バカロレア制度でフランスへ行って勉強をしたいことを。
 勲さんは、今から思えば突拍子もない私の話を、じっくりと聴いてくださいました。反対はされませんでした。しかし、もっとよく考えたらまたおいで、と言ってくださいました。ブラジルの資料を取り寄せたり、アテネフランセへ行ったりして、私なりに調べました。そして、やはり東京の大学に行こうと決心し、その準備に入りました。

 若い時には、こんな風に、脈絡もなく今の自分の環境を変えて、新しい人生を歩もうと思うようです。これも、成長の一過程なのでしょう。そんなことがあったから、今の自分があると思います。いろいろと生き方に迷ったことは、無駄なことではなかったと思います。いろいろな道を模索し、その結果として今があるのですから。

 勲さんは、ブラジルや中国に何年も行っておられました。私も海外に行くようになってから、海外の様子をお話ししに行こうと何度も思いました。しかし、忙しさにかまけて、ついつい行かずじまいでした。

 今にして思えば、若き日のスタートを見守ってもらいながら、本当に失礼なことをしたものです。
 私のことは、風の便りに聞いておられたようです。頑張っているな、と喜んでおられたそうです。なぜ直接話をしに行かなかったのか、今はしきりに悔やんでいます。

 亡くなられた通知をいただき、早速お供えをお送りしました。
 それでは気がすまないので、知多半島に脚を運ぼうと思っています。あらためて地図で確認すると、なんと京都からは1時間ほどで行けるのです。あー、何と不精をしていたことかと、今はおわびの気持ちと、ご冥福を祈るのみです。

 40年以上も挨拶していません。
 年賀状を差し上げるだけでした。
 ご自宅に線香をあげに行きます。
 その時これまでの報告をします。
 本当にありがとうございました。
 世界を飛び回って大変でしたね。
 どうか安らかにお休みください。
 
 
 

2012年10月22日 (月)

懐かしいパンチカードシステム

 身辺整理をしていると、さまざまなものが顔を覗かせるので楽しくて止められません。特に、思い入れのあったものの姿がチラリとでも見えると、ついついそこに手が伸び、しばし数十年前にタイムスリップしてしまいます。

 パンチカードもその一つです。
 今の若い方々には、これが何をするもので、どのようにして使ったのか、まったく想像もできないことでしょう。

 私がコンピュータに最初に触れたのは、忘れもしない昭和55年(1980)の暮れでした。マイコンキットNEC〈TK−80〉というものです。翌年には、NECのパーコン(今のパソコン)PC−8001で半角カタカナによる『源氏物語』の本文データベースに着手しています。まだ、ひらがなも漢字も自由に使えない時代の話です。
 生まれたばかりの娘は、このPC−8001のキーボードに刻印されていたカタカナをポチポチと押して、カナ文字から覚えました。そんな時代の話です。

 パンチカードを使っていた頃の話は、拙著『新・文学資料整理術パソコン奮戦記』(34頁、昭和61年、桜楓社)に譲ります。その小項目には、妻のこんなイラストが挿絵として添えられています。
 
 
 
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 パンチカードを簡単に確認すると、B6カードの周囲に小さな穴がたくさんあり、その穴の1つ1つに任意の意味づけがなされています。そして、昔の駅員さんが改札口で使っていた切符切りのようなパンチでこの穴を切り落とすと、一枚のカードに一つの情報が付与されたことになるのです。穴が〈ある〉か〈ない〉か、〈0〉か〈1〉か、という簡単な2進数の情報です。
 そして、ソーサーという金属の棒を束になったカードのこの穴に通すことにより、穴が欠けているカードがふるい落とされるのです。簡単な仕掛けの情報検索システムです。

 次の写真は、私が当時勤務していた高校の進路指導部で独自に作成して使っていたものです。高校の成績や事務処理にコンピュータが導入される以前は、こうしたパンチカードを入試の判定処理などに使っていたのです。それからヒントを得て、自力で設計と開発(?)したカードシステムです。当時は、非常に重宝しました。

 表面は、大学受験用の基本カードで、調査書作成依頼書を兼ねています。
 
 
 
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 裏面は、表面と連動する進学用の推薦願書となっています。この面は、パンチカードシステムを補う情報が記されており、書類としての性格を強く持つものです。
 
 
 
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 ただし、この方式では大量のデータ処理に向いていないため、コンピュータの普及と共にパソコンによるデータベースシステムに置き換わって消えていきました。もっとも、成績処理や入試の合否判定にコンピュータが導入されるまでには紆余曲折がありました。しばらくは、教育現場においてコンピュータ導入については、反対意見がまだまだ根強い時代でもありました。いつの時代にも、新しい考え方の導入には慎重な方がいらっしゃいます。

 今となっては苦笑せざるを得ません。しかし、当時は現場へのコンピュータの導入について、本当に真剣に議論をしていたのです。そして、私はいつも推進派でした。最初に赴任した新設高校でも、次に転勤した高校でも、そして短期大学でも、パソコン機器の導入と教室の設計施工およびソフトウェア導入に関わりました。いずれも、部屋の配線から機器の配置やレイアウトまでを担当しました。何でも屋さんを自認していた頃のことです。

 それはともかく、上掲の写真は、私にとっては思い出深いパンチカードのデザインであり、作品でもあります。

 もう一つ、パンチカードシステムの思い出の品を紹介します。
 梅棹忠夫氏の『知的生産の技術』(昭和44年、岩波書店)の影響を受けたこともあり、昭和55年2月に電動式ひらがなタイプライターを購入しました。そして、それと連動させようとして、次のデザインの試作品を作りました。コンピュータと出会う直前のことです。
 
 
 

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 このパンチカードは、私の調査研究のために開発しました。右端の「領域」や「受容態度」に、当時の自分の問題意識がうかがえます。また、中央上にある「昭26以降」とあるのは、私が生まれる前後を弁別するためのものです。
 下段には、当時私が図書や文献資料を、記号と番号で仕分けし、それを台帳で管理していたことと関連しています。
 ただし、これはデザインの設計段階で校正までのものであり、完成までには至りませんでした。それは、パソコンの急激な普及が原因です。

 その後、当時流行していた京大式カードを自分なりに使いこなすために、独自の紙質と色と罫線の幅のB6カードを大量に作成しました。
 
 
 
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 この「いとうカード」と名付けたものは、昭和59年に1万5千枚ほど印刷しました。まだ、このカードは手元にたくさん残っています。それは、この昭和59年の夏に、PC−9801F2という16ビットパソコンを購入し、ひらがなや漢字を自在に扱えるようになったためです。手書きのカードではなくて、パソコンによるデータベースに移行したために、手書きのカードを活用するシーンが減ったからなのです。

 こうした紙のカードは、自分の歴史の一端を思い出させてくれます。
 旧き良き時代というと語弊があります。しかし、いろいろと創意工夫をしながら、効率的な勉強を心掛けていた頃の遺産なのです。生きた証として、少しだけは残しておくことにします。
 
 
 

2012年7月15日 (日)

本ブログ30万アクセスに感謝

 たまたま本ブログのアクセスカウンターを見たところ、私のブログの閲覧回数が30万件を超えていました。

 このカウントのスタートは2008年7月12日です。ちょうど4年間のアクセス件数ということになります。
 毎日200人以上の方が読んでくださっていることになります。ありがたいことです。

 1日で1番アクセスが多かったのは、2008年11月1日の1504件でした。
 この日は、国立京都国際会館で「源氏物語千年紀記念式典」が開催されました。
 前日には、国文学研究資料館で開催していた源氏物語展示『源氏物語 千年のかがやき』が閉幕となっています。
 その前日には、今でもアクセスが絶えない「源氏千年(67)源氏写本発見というエセ新聞報道に異議あり」をアップしています。
 源氏物語に関する情報一色の頃のことです。

 このカウントの対象となっている4年間に書いたブログは1532本です。
 1日に数本アップしたりしているので、とにかく毎日書いていることになります。

 私が毎日ブログを書く決意をしたのは、3年半前の2009年2月27日です。この日から今日まで、1日も休まずに書き続けています。我ながらよく続いていると思っています。
 続けることには、それなりの苦労があるものです。特に、海外への出張が度重なる時には、時差の関係で何かと大変な思いをしています。

 私がインターネット上に〈源氏物語電子資料館〉と名付けたホームページを立ち上げたのが1995年9月でした。日本文学関係のホームページとしては、この〈源氏物語電子資料館〉が最初のものとなっています。私が、草分けとか化石と言われる由縁です。
 個人的なホームページとしては、〈大和まほろば発「へぐり通信」〉も起ち上げました。

 この時から、さまざまな情報をアップしてきました。
 当時はブログという概念もツールもなかったので、ホームページの中に日記のように日々記すコーナーを設けていました。

 その後、話題になり始めたブログをスタートさせたのは、2004年12月13日からです。〈たたみこも平群の里から〉と題したものでした。ホームページを公開してから10年後になります。このブログによって、私の情報発信の姿勢が変わりました。ホームページからブログにシフトしたのです。そのせいもあって、ホームページは今でも手つかずの状態で放置しています。そろそろ、整理をするなり、有効に再活用する方策を探っています。

 なお、私はトラブルに巻き込まれることが多くて、ブログを発信していたインターネットのサーバーが突然クラッシュしたために、それまでの記事のほとんどを消失したのです。忘れもしません、2007年3月中旬でした。インドから帰って、すぐに中国に行き、それらの旅の記をたくさん書いた直後でした。ショックでした。
 いくつかは再建しました。しかし、それらの記事のほとんどは、今につながってはいません。残念なことです。

 サーバーがクラッシュしたすぐ後に、奈良県生駒郡から京都市北区に転居することになりました。そして、すぐに〈賀茂街道から〉と題して、ブログを再スタートさせました。2007年6月24日からです。
 ただし、それもプロバイダが閉鎖されたりでデータを引っ越しさせ、〈賀茂街道から2〉と名付けたサイトに移行して続けました。さらに今年の1月末にまたまた京都市左京区に転居したため、〈鷺水亭より〉として気分一新して今に至っています。

 現時点ですべてを確認できるのは、2007年6月24日からスタートした〈賀茂街道から〉以降のものです。
 このブログの記事は、今日までに公開したものは全部で1891件となっています。これらは、今もそのすべてをこのサイトでご覧いただけます。

 今後とも、〈生存証明と日々の報告書〉としての日録〈鷺水亭より〉を書き続けるつもりです。
 どこまでこのまま走り続けられるのか。自分が一番楽しみにしているところです。
 
 
 

2012年5月10日 (木)

高校教員時代の書類を廃棄

 自宅の荷物の整理がまだまだ続いています。

 大阪府立の高校で教員をしていた11年間、膨大な資料やプリントや試験問題を作っていたことを、あらためて実感しました。指導困難校と言われる学校ほど、プリントが多いと言われていました。確かに、学校に教科書を持ってこない生徒が多いので、勢い教科書を使わなくても授業が成立するように、それを補うための補助教材を配布することが増えます。板書したことをノートに書き取る習慣もないので、何でもプリントにして予習や復習の足しにしました。その結果、プリントが増えるのです。

 廃棄対象となったプリント類は、ダンボール箱に4個分以上ありました。
 自分の過去の一部分をバッサリと捨てることにしました。
 よくやったなー、と、かつての自分の奮闘ぶりを振り返り、若さゆえにできたことと思うことしきりです。

 そんな中に、パソコンと悪戦苦闘していた頃の資料がありました。
 ここに記録として残しておいて、思い切ってこれらも処分しようと思います。

 私がコンピュータに興味を持ちだした昭和55年(1980)は、まだひらがなや漢字がモニタにもプリンタにも表示・印字できませんでした。せいぜい半角カタカナまでで、例外として「年」「月」「日」くらいでした。
 そのような環境の中で、やがて独学でお手製のプログラムを作成し、JIS漢字コードのリストを読み込んで印字できるようにしました。ただし、そのためには、漢字などに対応した文字コードを調べる必要があります。

 当時は、何とかして学級や学年の運営にコンピュータを導入することにより、担任業務を軽減する方途を模索していました。学習指導の何十倍ものエネルギーを生活指導に充てる毎日です。連日の家庭訪問が続いていました。年間に入学生の3分の1の100人以上が退学するので、担任はとにかく学校と家庭とを走り回っていたのです。そのためにも、少しでも担任業務などの軽減が必要だったのです。

 そこで、まずは生徒たちの名前をどの資料にでも、何度でも引用できるようにすることに挑戦しました。それだけで、手書きの手間が助かり、生徒の生活指導の時間に振り分けられます。また、パソコンでできる作業ならば、担任でなくても副担任にお願いしてもいいのです。

 入学式の後は、新入生の名前を一々JIS漢字コードを調べて一覧表にして、必要とする担任の先生方に渡しました。まだ他の先生方はパソコンに親しんでおられなかったので、率先垂範よろしく、私が徹夜をしながら各クラスの名簿をJIS漢字コードに置き換えました。
 
 
 

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 これは、私が担当したクラスの名列表です。例えば、2番の「伊藤」君はJIS漢字コードで表記すると「304B」+「4623」と表現することになります。
 この英数字コードを読み取って漢字表記ができるプリントができるプログラムを作成したのです。

 今なら、日本語ワードプロセッサがあるので、何でもないことです。しかし、当初はこのように漢字1文字を表記・印字するのに、こんな手間がかかっていたのです。

 こうしたJIS漢字コードの文字列がわかると、成績通知表などにも、生徒の名前に漢字が使えます。
 カタカナ表記という不細工なものではなくて、漢字で名前が書いてあると、生徒も成績通知表を貰ったそばからポイとゴミ箱に捨てたりしにくくなります。印刷されたものに対する一定の距離感が、軽率な行動にブレーキをかける働きがありました。

 次のメモは、成績通知表を印字するのに必要な漢字のJIS漢字コードを調べた時のものです。昭和57年(1982)とあるので、私が初めてマイコンキットNEC〈TK-80〉を体験した昭和55年(1980)から1年後には、こうしてコンピュータで漢字を扱うことに熱中していたことがわかります。

 手作業で調べて作成した対応漢字コード表を元にして、さまざまな漢字混じりの処理をするプログラムを作っていたのです。
 次のものは、成績通知表のためのJIS漢字コードの抽出作業メモです。
 
 
 
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 いろいろな先生方の要望を聞き入れながら、折々にJIS漢字コードを調べてメモを貯めていたようです。こんなものも出てきました。
 
 
 
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 この辺りになると、もう学年や学級運営のための資料に、たくさんの漢字が印字できるプログラムを開発していたことがわかります。先生方には、重宝がられたことを覚えています。

 その後のコンピュータの進歩は目を瞠るものがあることは、すでにご承知のとおりです。
 何かと苦労したことの披露ではなくて、学校の現場では、コンピュータで漢字が使えるようになる背後にはこんなこともあったという一例として、ここに記しておきます。
 
 
 

2012年3月 6日 (火)

レガシーデバイスとなった録音録画テープの処分

 京都でも東京でも、庵の生活を実践するために身の回りを整理しています。
 このところ、ビデオテープとカセットテープの処分を続けています。
 録画したビデオテープは1500本くらいはあるでしょうか。そのうち7割はソニーのベータテープです。

 処分の方針として、まず映画のほとんどを捨てることにしました。大半が日本映画です。
 VHSの映画などはコピープロテクトがかかっているものが多くてコピーできなかったのですが、それをベータにはコピーできるものが多かったのです。
 画質は、VHSよりもベータの方が格段に上でした。そのため、老後の映画鑑賞に備えるという名目で、たくさんの映画をベータ方式のテープにコピーしていました。今でも、スクリーンが準備万端用意してあり、いつでも家の中で映画鑑賞ができます。もっとも、液晶テレビが大きくなり、我が家のスクリーンと大きさが違わないのが悩ましいところです。

 録画した映画に関しては、今ではそのほとんどがDVDになっているので、捨てても惜しくはありません。ただし、昔のテレビドラマなどは、まだDVDになっていないものもあります。そうしたものは、しばらく残しておくことにしました。

 今回の整理で一番の収穫は、ずっとネットなどで探していた井上靖の『通夜の客』を絵画化した『わが愛』を、なんと録画していたのです。そのことを忘れて、長い間さがしていたのです。とにかく、気になったものは何でもかんでも録画していたようです。

 家族を撮ったビデオも残します。長女が赤ちゃんの時のものは、すべてベータのテープに収録されています。長男の途中から、Hi8のテープになっています。次男はデジタルテープです。ビデオカメラが歴代のソニー製品だったためです。
 子どもたちそれぞれに、成長の記録もテープが異なるところがおもしろいところです。さすがに、シングル8用のフイルムはありません。

 子どもたちの為に、お子様向け子供番組を録画したテープもたくさん出てきました。ゴジラ、ガメラ、大魔神、ウルトラマン、仮面ライダーなどなど。これは、VHSがほとんどです。ベータほど高画質である必要性がなかったからでしょうか。この処分には、迷いがありません。

 次は、音楽を録音したテープです。
 私は、オーディオのノイズリダクションシステムに関しては、東芝の adres(アドレス)方式がいいと思ってそれで録音をしていました。主流だったドルビーBではない方です。
 その後、ドルビーC方式が出ると、この adres も姿を消しました。今となっては、雑音の処理は問題ではありません。残すか残さないかです。
 ブルックナーの曲は、ざまざまな版を持っているので、すべて残すことにしました。
 ラジオ等でタイマー録音した文芸関係のものも、聴くことがありそうなのでとりあえず残します。
 FMラジオを録音した膨大な音楽テープ群は、すべて処分です。
 そういえば、1980年前後は、複数台のデッキとタイマーを駆使して、FM放送を片っ端から録音していたことを思い出しました。「昼の歌謡曲」などまでも。
 私の部屋は、飛行機のコックピットと見紛うばかりに、機器や計器や切り替えスイッチが書棚の一角をビッシリと埋めていました。

 私がオーディオやパソコンのケーブルを買い漁っていたのは、こうした用途のためだったのです。
 奈良から京都に引っ越しするときに、これらのケーブルの大半を処分し、今回の転居でもビニール袋3袋分を捨てました。それでもまだ残っているので、奈良の家でのこの電線の重さだけでも相当なものだったことになります。
 とにかく、線さえつながれば、音も映像も文字も何とか移動させられます。メディアの違いもクリアできるので、こうしたケーブルは必需品だったのです。しかし、ネットが日常生活に入ってきたので、わざわざケーブルを使ってデータをやりとりする必要がなくなっているのです。

 今回、千本ほどのビデオやカセットやケーブルを処分できたのは、ネットの存在が大きいといえます。また、個人が常時手元に持っている必要がない社会になったことも、大きな要因です。

 今、思案しているのはレコード盤です。LP、EP、SP、ソノシートなどが、まだ手元に残っています。レコードプレイヤーは1台だけ残しているので、これで聴こうと思えば聴けます。しかし、果たしてレコード針を調達して聴くかどうかです。よほど珍しいものは別です。しかし、見たところ、手元にはそのようなものは少ないようです。1970年代のものが大半です。

 オープンリールの録音テープは、1台だけ残している東芝の「カレッジエース」で聴けるものが数本あるだけです。これは、今では貴重な機器なので、残しておきましょう。
 この「カレッジエース」は、高校時代だった1960年台後半にエレキのバンドを組んでいたので、その時に作詞作曲したものを録音してあるのです。秘密の匂いのするテープなのです。自分の過去を消すような気がして、どうしても処分しきれないままに来ています。

 こうしたレガシー・デバイスとでも言うべきものの始末は、思い入れがある内は捨てきれないのです。しかし、庵の生活を意識すると、これらは当然処分対象です。
 すでに大半を処分してきたので、これらは時間の問題としておきましょう

 そんなこんなの日々の中で、こうした過去とつながるものを捨てることは、非常に気持ちが疲れます。悩みを吹っ切るのは、潔さや爽快さと共に疲労も蓄積します。

 こんな、見ようによってはどうでもいいことに頭を悩ませるという、幸せな日々の中にいます。忙しい時に限って、こうしたことが気になってしかたがないのです。
 
 
 

2012年1月13日 (金)

荷物の整理を忘れて伯母たちの文章に励まされる

 父は川柳を嗜んでいました。
 亡くなる直前に、生涯の作句すべてを分類・編集し、『ひとつぶのむぎ』(昭和58年)という川柳句集を刊行しました。
 これまでに私が編集した本で、これが一番誇りとするものです。
 
 
 
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 このことは、以前に何度かこのブログでも書きました。

「わが父の記(1)感謝の念を伝える」(2008年3月26日)

「【復元】縦書き & 横書き」(2010年4月21日)

 たくさんある父の句の中でも、次の句が私は好きです。

錦秋の車窓いっぱい富士の山

横に這う蟹に教わる事なきや

タテに這えと子供をしかる蟹の親

 父はいつも、親は無学だったが口にする格言で育てられた、ということを語っていました。
 その父の姉姉妹も、文章を書くことが好きでした。

 今、引っ越しの荷物を整理していると、いろいろなものが出てきます。
 その中に、父の姉姉妹が書いた刊行物があったので、ここに引用します。
 いずれも、私家版です。

 まず、伊藤イ子さんの『菊根分け』(昭和51年)から。
 
 
 
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 イ子叔母さんは、私が高校を卒業して東京の新聞販売店で住み込みの仕事をしている頃、よく手紙が届きました。その文面にも、格言を引きながら、がんばれよ、というメッセージを送ってくださいました。
 この『菊根分け』は、最後に、吉川英治のことばとして、

菊根分け 後は自分の土で咲け

が引かれています。なかなか含蓄のあるいい言葉です。

 もう1冊、『流灯』(昭和57年)です。
 
 
 
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 ここにも、珠玉とでもいうべき短いながらも読み耽ってしまう文章が並んでいます。
 中身のない冗長な文章を書くだけの私にとって、こうした煌めきのある文章には憧れます。
 人柄が文章の雰囲気を醸し出す、というのは本当のようです。

 本の整理もそこそこに、ついこの冊子も読んでしまいました。

 次は、加藤ヤスさんの『折々に心にとゞめしことば』(昭和57年)です。
 
 
 
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 ヤス叔母さんも、私が小さかった頃から可愛がってもらいました。一人で東京に出てからも、折々に手紙で安否を気遣ってくださいました。
 この川柳句集の巻頭には、次の句があります。

先頭を泳いでいても池の鯉

 この句には左注とでもいうべきものがあり、こう付けられています。
まして我々風情では……

 巻末には、短歌もあります。
穏やかな冬日に木の香ただよいて
  新しき家に幸祈るらむ

 こうして伯母たちに見守られていた幸せを、今になってしみじみと感じます。
 冊子に収められた川柳や短歌に目を通しながら、愛情を注いでもらった日々のことに感謝していると、つい時の経つのを忘れてしまいます。

 そうそう、本や荷物の整理をしているのでした。
 どうも、なかなか捗りそうにありません。
 
 
 

2011年12月28日 (水)

今年 2011年のブログ写真・自選15

 今年も無事に毎日ブログを書き続けることができました。
 常に何かをしようとしていないと書く材料が枯渇します。
 そのためにも健康が第一です。
 今年は、4月から妻が仕事を辞めて上京してくれたので、不規則だった生活もゆったりとしました。
 これが、すべてにおいて、今年の一番の支えとなったように思います。
 そんな1年を通して、たくさんの写真を撮りました。
 その中から、私にとって思い出深い写真15点を選びました。
 
 昨年の「「自選15」」(2010年12月27日)も、ご笑覧を。
 
 それでは、今年の自画自賛です。
 
 
(1)「京洛逍遙(177)上賀茂神社へ初詣_2011」(2011年1月 1日)
 
 元日の初詣は、いつものように上賀茂神社へ行きました。今年の9月に娘は結婚したために、伊藤家の一員としては最後のお参りとなりました。
 
 
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(2)同上
 
 元旦に娘が作った、今年の干支の雪ウサギの和菓子です。私の還暦祝いも兼ねているそうです。
 
 
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(3)「朝日を拝む」(2011年2月22日)
 
 インドのニューデリーにある定宿《ワールド・ブッディスト・センター》から見た、イスコン寺院の背後から昇る朝日です。
 
 
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(4)「西国三十三所の朱印軸」(2011年2月26日)
 
 昨年の手術の後、元気だった日々を取り戻すことを願って回った西国三十三所札所巡拝のお軸が、装いも新たにみごとなできばえで完成しました。
 
 
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(5)「京洛逍遥(182)春を待つ下鴨神社」(2011年3月 6日)
 
 下鴨神社の輪橋(そりはし)の袂に咲く紅梅は、尾形光琳の国宝「紅白梅図二曲屏風」のモデルといわれる「光琳の梅」です。新年3月下旬に、娘の結婚式がここで執り行われます。ブログの記事にある通り、この日も結婚式がありました。
 
 
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(6)「幼馴染みからのお別れの電話」(2011年3月24日)
 
 幼馴染みが持っていた、4歳頃の私とのツーショットです。私は二十歳で火事に遭い、それまでの写真のすべてを消失していたので、貴重な写真といえます。
 
 
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(7)「京洛逍遥(193)祇園祭と鱧-2011」(2011年7月16日)

 和装小物屋「くろちく」の小路は、祇園祭の日にはバーゲン品を求めて必ず足を向けます。
 
 
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(8)「京洛逍遥(195)朝夕元気に散歩しています」(2011年8月14日)
 
 いつも賀茂川を散歩していると、こんな夕景色に出会うことがあります。北山がきれいなグラデーションで霞んで見えます。
 
 
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(9)「京洛逍遥(199)「紫野源水」の茶菓でいただく薄茶」(2011年8月31日)
 
 お茶の先生が娘の結婚祝いとしてくださったお茶碗で、おめでたいお抹茶を娘が点ててくれました。寿命が延びるのだとか。この翌日に娘たちは入籍しました。
 
 
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(10)「読書雑記(42)高田郁『心星ひとつ みをつくし料理帖』」(2011年9月 9日)
 
 江戸深川の黒船橋から中央大橋を見ると、夕焼けがきれいでした。
 
 
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(11)「京洛逍遥(201)白川疎水通りと鱗雲」(2011年10月 2日)
 
 京洛の雲は、さまざまな姿を見せてくれます。平安時代の人たちも見たであろう空は、私たちのイメージを膨らませてくれます。
 
 
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(12)「タイトルを「鷺水亭 より」と改名します」(2011年11月 8日)
 
 賀茂川の鷺たちは、さまざまな姿を見せます。仲良く飛び立とうとする姿は、本ブログの改名を祝福してくれているようでした。
 
 
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(13)「京洛逍遥(205)神々しいまでの朝日」(2011年11月24日)
 
 早朝の如意ヶ岳から昇る朝日です。この日を境に、ラッキーなことが続きました。不思議なものです。
 
 

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(14)「京洛逍遥(206)冬支度の大徳寺境内」(2011年12月17日)
 
 大徳寺の塔頭である高桐院では、紅葉の盛りは過ぎていました。しかし、竹の手すりはいつも絵になります。
 
 
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(15)「京洛逍遥(207)賀茂川の真冬の鳥たち」(2011年12月19日)
 
 寒くなると、ユリカモメたちが琵琶湖から比叡山を越えて賀茂川に大挙してやって来ます。糺の森の周辺は、大変な賑わいです。
 
 
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2011年12月27日 (火)

2011年の十大出来事

 今年も、いろいろとあった1年でした。
 忙しい中を無事に何とか過ごせました。
 皆様方のご理解とご協力に感謝します。
 この1年を1月から順に振り返ります。
 身体と気力も前向きだったと思います。


(1)米国ワシントンとボストンで源氏物語の古写本調査。
(2)第6回〈インド日本文学会〉をニューデリーで開催。
(3)妻の早期退職と上京により単身赴任生活にピリオド。
(4)地道な調査研究者を奨励するため池田亀鑑賞を創設。
(5)『もっと知りたい池田亀鑑と源氏物語』選定図書に。
(6)小林茂美先生の奥様であり恩人の登志子先生ご逝去。
(7)糖尿病の血糖値対策で糖質制限食を導入し成果あり。
(8)英国と仏国へ留学していた娘が結婚して大阪に住む。
(9)本年秋は還暦・結婚記念日・誕生日を同日に迎える。
(10)ブログ「賀茂街道から2」を「鷺水亭より」と改名。

 2012年も実り多い1年となりますように。
 なお新年早々に近所へ引っ越しをいたします。
 郵便物などの配達が混乱するかと思われます。
 ただし電子メールやブログは変更ありません。
 来年も相変わらずよろしくお願いいたします。
 
 
 

2011年6月20日 (月)

お通夜で奥様にお休みのあいさつをする

 小林茂美先生の奥様である登志子先生のお通夜に行ってきました。
 一年ぶりに田無駅に降り立ち、斎場に向かいました。

 三十数年前、高田馬場やこの田無の周辺で、茂美先生と妻共々、夜中に飲み歩きました。
 酔い潰れた茂美先生を奥様に引き渡して帰ったことが、何度もありました。

 斎場では、懐かしい人とあいました。
 みなさん、それぞれに、楽しくもあり、辛くもあった在りし日を思い出しながら、その背景に居られた奥様に想いを馳せておられる様子でした。

 今日は、奥様との寂しいお別れでした。
 お疲れ様でした、大変な85年でしたね、どうぞごゆっくりお休みください、と声をかけてさしあげました。
 あら伊藤さん、そんなこといったら、まるで私がもう死んでしまったみたいじゃないですか、とパッチリ目を覚まし、起き上がってこられるのでは、と思ったりしました。
 まぁまぁ、どうぞお休みを、と言って押し留め、祭壇を降りて斎場を後にしました。
 
 
 

2011年6月18日 (土)

小林茂美先生の奥様の訃報

 久しぶりに、大阪府八尾市高安にある我が家のお墓にお参りをしました。
 もろもろの報告をするためです。
 奈良にいた頃にお世話になっていた薬師寺の御師さんにもお越しいただき、心の籠もったお経をあげていただきました。ささやかな法要となりました。
 お墓は、信貴霊園というところで、高安山の手前にあります。
 眼下には、私が通った小学校と中学校が見えます。
 写真の中央右、鉄塔の右側に薄茶色の学校のグランドが見える所がそこです。
 
 
 

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 帰りに、山を1つ越した所でかつての住まいがあった平群町へ、お茶のお稽古に行く予定をしていました。しかし、体調が思わしくなかったので、無理をせずに京都の自宅を目指しました。

 その帰り道で、恩師小林茂美先生の奥様の逝去の報を受け取りました。

 恩師小林茂美先生がお亡くなりになったのは、2009年5月12日でした。その後、折を見ては本ブログでも先生を偲ぶ文章を書いてきました。そして、奥様のことも、その中で折々に記しました。
 妻と共に、大学に入学して以来、ずっと気にかけてくださったお二人が、あっという間におられなくなったのです。
 奥様とは、下記「小林茂美先生を送る灯」に記した時のことが、今でも鮮やかに蘇ってきます。

「小林茂美先生のご逝去を悼んで」(2009年5月19日)


「小林茂美先生を送る灯」(2009年7月16日)


「小林茂美先生 お別れの会」(2009年8月 9日)


「インドからのお客様を小林茂美先生宅へ」(2009年11月29日)


「恩師の奥様と池田亀鑑」(2010年1月 5日)


 昨年の2月には、茂美先生がお亡くなりになる直前に病床で語られたインドの河の辺から、奥様にお電話をしてもろもろの報告をしました。
 今年の2月にも、インドからの報告を奥様にするためにお電話をしました。すると、奥様はちょうど病院から退院された直後でした。昨年の夏にガンの手術をし、以来入院していたとのことです。私と同じ状況におられたことを知り、インドと日本という距離をすっかり忘れて、長い時間お話をしました。

「朝日を拝む」(2011年2月22日)

 帰国してすぐに奥様にまたお電話をし、お見舞いに行く日時を相談しました。
 4月になってから、妻が奥様にお電話をしたところ、懐かしさもあってか長時間の会話となったようです。そして、近日中に抗ガン剤の治療に入るので、5月の連休明けにでも逢いましょう、ということになっていました。

 その後、連絡が途絶えたままだったので、大変な治療の日々を送っておられるのだろうと思っていた矢先の、今日の訃報の連絡でした。

 今日、その知らせを伝えてくださった出版社のS社長とは、3週間前の中古文学会の折に一緒に見舞いに行く日時を相談していました。その日程を調整していたところだったので、てっきり今日の連絡はそのお見舞いに行く日の件だろうと思っていたのです。
 とにかく、驚きました。

 私と妻が19歳の時からなので、40年にわたり奥様にはいろいろとお世話になりました。お電話をすると、いつも楽しい長話になっていました。にわかに信じがたいのですが、これはいたしかたありません。

 先月刊行した『もっと知りたい 池田亀鑑と「源氏物語」第1集』は、すぐに献本としてお送りしたので、ひょっとしたら奥様はご覧になられたかもしれません。奥様は学生時代に、椎名町にあった池田亀鑑のご自宅に、アルバイトとして写本の書写をするために通っておられたのです。一度詳しくお話をうかがっています。もう一度、さらに突っ込んで『源氏物語大成』を作成していた当時の状況を伺おうとしていたところでした。

 お通夜は、6月20日(月)午後6時より、西武新宿線田無駅から徒歩5分のところにある、田無山総持寺の大日堂斎場です。
 告別式は、翌21日(火)の午前11時より、同じく大日堂斎場で執り行われます。
 私は妻と共に、お通夜に行くことにしています。

 奥様のご冥福をお祈りいたします。
 長い間、我ら夫婦のことを気にかけていただき、本当にありがとうございました。
 
 
 

2011年5月16日 (月)

【復元】映画「ALWAYS(三丁目の夕日)」

 
(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
 
2006年 3 月10日公開分
 
 
 副題︰「子どもたちが生き生きしています」
 
 
 インド行きの機内で、映画「ALWAYS(三丁目の夕日)」を観ました。

 1958年の日本を舞台にした物語です。これは、私が7歳の時に当たります。画面の隅々まで、映し出される何もかもが懐かしい映画です。

 オープニングの模型飛行機は、私も一生懸命に作ったものです。
 冒頭の東京タワーの着工時の姿は、時間と共に形をなしていきます。そして、ラストシーンの夕日を浴びた東京タワーの遠景は、とても綺麗でした。
 明日に対して、大人にも子供にも希望があった時代です。

 私が大阪の高校卒業と同時に東京に出て、大田区で新聞配達をしていた頃を思い出しました。
 今はもういない父と母が早速上京して来た折に、住み込んでいたお店の軽自動車「スバル・サンバー」で東京タワーに連れて行きました。私が免許取り立てでした。バックで車を駐車場に入れた時には、両親が感心してくれました。
 そんな記憶が、映画が始まる早々、急に思い出されました。

 氷の塊を上段に入れて冷やす冷蔵庫は、我が家にもありました。
 当てものの「スカ」は、私もよく引いて残念な思いをしました。
 近所の家へ、テレビを見せてもらいに行きました。「事件記者」「ルート66」「サンセット77」「名犬ラッシー」、大相撲・プロレスや橋幸夫の時代劇。次から次へと連想が引き出されます。
 愛読書は『まんが王』でした。

 さて、この映画の原作マンガは、リアルタイムで読みました。今も読み続けています。作者の西岸良平は大好きな作家です。
 娘の名前を付ける時に、『たんぽぽさんの詩』の主人公であるイラストレーターの名前から、私は「たんぽぽ」と命名しました。しかし、妻や親戚から大反対され、私は命名権を放棄した経緯があります。しかし、2人の息子の名前は、ちばてつやの『おれは鉄兵』とジョージ秋山の『はぐれ雲』から付けました。

 さて、マンガの原作では、六ちゃんは男の子でしたが、この映画では青森から集団就職で上京した女の子の「六子(むつこ)」を「ロクちゃん」にしていました。この設定の変更は、映画なので成功したと思います。
 このロクちゃんが、エンディングで青森の実家に帰省します。そのシーンで、青森行きの切符を貰う場面は印象的でした。人間の温かさを存分に感じさせてくれます。

 いくつか、素晴らしい場面を振り返りましょう。

 小学生の一平君のお母さんが、破れたセーターの継ぎ当てをします。私も、子供の頃には継ぎの当たった服を着ていたものです。そこには、お守りというお金が縫い込まれていたのです。それを使って電車で帰ってきた一平君が、お母さんにお釣りを返すシーンは、なかなかのものです。

 サンタクロースも、いい役割をしていました。
 淳之介(私が好きな作家の吉行淳之介らしいネーミング)に万年筆が届けられます。芥川賞を目指す作家の茶川さんからの贈り物です。このサンタクロースは、親も子供も、一つのメルヘンを共有していた、夢のある時代の話になっています。
 我が家でも、子どもたちにこっそりと、クリスマスプレゼントを枕元に置いたものです。

 居酒屋のひろみに、茶川さんがプロポーズの指輪を贈ります。それも、箱だけで目に見えない指輪を着けるシーンが、とても印象深い場面でした。これは、終わりの部分にも引き継がれています。

 この映画は、人と人とが繋がっていた時代を描ききっています。完成度の高い映画だと思います。何よりも、子どもたちが生き生きとしています。

 私は、今回のインド行きの9時間のフライトで、2回も観てしまいました。帰りのフライトでも観ることでしょう。
 
 
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 

2011年4月21日 (木)

【復元】福田秀一先生を偲んで

 福田秀一先生がお亡くなりになってから、もう5年が経ちました。
 以下に復元する文の中にある、福田先生からお預かりした翻訳文献に関する解題資料は、科学研究費補助金による「日本文学の国際的共同研究基盤の構築に関する調査研究」(課題番号︰18202007)の報告書で、「翻訳事典」の各項目に再編集して収録しました。
 私なりに、福田先生への報告ともなっているものです。

・『日本文学研究ジャーナル 第2号』(伊井春樹編、2008年3月、国文学研究資料館)
・『日本文学研究ジャーナル 第3号』(伊井春樹編、2009年3月、国文学研究資料館)
・『日本文学研究ジャーナル 第4号』(伊藤鉄也編、2010年3月、国文学研究資料館)


(※以下の記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
 
2006年4月26日公開分
 
 副題「依頼された病室での口述筆記を果たせぬままに」
 
 
 中世文学研究者の福田秀一先生が、今週の日曜日にお亡くなりになりました。早速、昨夜のお通夜に駆けつけ、ご冥福をお祈りして来ました。

 福田先生は、まさに国際日本文学研究者でした。海外における日本文学の研究実態に関して、早くから精力的に調査収集活動をしておられました。『海外の日本文学』というご著書もあります。その続編をまとめようとしておられた矢先の訃報でした。その辺りについて、福田先生を偲びながら少し記します。

 今年の1月末日でした。福田先生の奥様から、突然のお電話がありました。それは、福田先生が虎の門病院に入院なさった、ということでした。そして、私にお願いしたいことがある、と。先生がお話しになることを書き取ってほしい、という依頼でした。詳しい事情はともかく、翌日病室に伺うことを約束しました。

 翌2月朔日の午後4時30分に、口述筆記のお手伝いをしてくれるという後輩のIさんと一緒に、大雨の中を、福田先生の病室へ足を運びました。Iさんは、福田先生が収集された海外の翻訳本の整理をしてくれていたメンバーの1人なので、福田先生のお話を聞き取るのは適任です。録音機も持って来てくれました。私が先生のお話し相手となり、相槌を打ちながら話題の進行を手助けする役割を担う心積もりでした。

 病室を訪れて、先生がお元気なのでホッとしました。その日は検査待ちで、予定の時間をとっくに過ぎているのにまだ呼び出しがない、と仰る姿は、いつもとまったく変わりませんでした。
 私がすべきことの確認をしている時に、先生は呼び出しを受けて検査室へ向かわれました。その検査が終わるまでの間、奥様から先生の病状などを伺いました。今回は、手術ができるかどうかの検査だとか。先生は、今のうちに可能な限りの話をして、それを私に書き取ってほしい意向だとのことでした。著名な科学者でもある奥様は、先生の病状や私に頼みたい趣旨などを、懇切丁寧に話してくださいました。ますます自分の重責を実感することとなりました。

 しばらくして、検査を終えられた先生が戻って来られました。私の役割は、先生が語られる海外における日本文学研究の実情について、聞き役となって記録することでした。
 その日は、先生が最初に出席された海外での学会(EAJS)の資料をもとにして、その時のことを語ろうとなさっていたようで、資料が入ったバッグも目の前に置かれました。3年前にポーランドのワルシャワで開催されたEAJSの折に、ホテルの食堂で先生と奥様に私がご挨拶したときのことなど、雑談交じりに少し語りだされました。
 しかし、検査が長引いたこともあり、今後の予定と方針を確認するに留まり、その日の口述筆記はできませんでした。そして悔やまれることに、その機会は2度と訪れないままになってしまいました。病状を案じながら、お呼びがかかるのを待っていたのですが……。

 先生と今後の打ち合わせをしていた折、海外で出版された日本文学に関する翻訳本の解題作業についても、詳しくお話ができました。
 まず、先生がこれまでに執筆のために用意されていた原稿を含む資料などのすべては、すべて私にくださるというのです。そして、もう自分ではそれはしないので、私が先生の資料を参考にして、すべてをまとめてくれ、との依頼を受け、承諾しました。

 これまでに、先生からお預かりしている膨大な量の翻訳本をもとにして、『海外における源氏物語』などのシリーズ4冊を、私は一般向けの解題書として刊行してきました。先生ご自身は、研究者向けの専門性の高い解題執筆を進めておられました。その棲み分けを、お互いでしていたのです。
 しかし、研究者向けのものも私がまとめるように、と託されたのです。自分の資料を活用すればいいから、と。
 その時に、中古文学に関する翻訳書や研究書等のメモや資料が入ったファイル1冊をいただきました。数日後に、古代から中世までのメモを含む資料が入ったファイル5冊が届きました。先生がワープロ「書院」に入力されていたデータの入ったフロッピー(上代から中世までの5枚)も、奥様の手を経て送られてきました。まだ、先生のご自宅には、中世以降の資料があるようです。昨日のお通夜では、奥様に、時期を見てお伺いし、資料の整理などのお手伝いをさせていただくことをお伝えしました。

 福田先生の海外関係の資料は膨大です。あのような状況で私に託されたのですから、誠心誠意、先生のご意思を大切に守り、少しづつでもまとめていきたいと思っています。
 それにしても、あまりにも早い73年でした。教え子でもない私ですが、この件に関しては信頼していただけたことを光栄に思い、お気持ちに叶うものとして形にしたいと思います。

 先生がニコニコして見つめながらお話をしてくださった、あの眼が忘れられません。厳しい先生だったという諸先輩のことばは、最後の4年間のお付き合いだった私には、想像ができません。ニコニコしながら、頼むよ、頼むよ、と仰っていたことしか、思い浮かびません。

 私に、先生のお気持ちを正確な形でまとめることができるのか、今は戸惑いがあります。しかし、先生から依頼されたことは、私なりに報告できるものにしたいと念じています。
 福田先生、ずっとずっと、ニコニコと見守っていてください(合掌)
 
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 

2011年3月25日 (金)

わが父の記(5)名前とお菓子

 私の父の名前は、忠右衛門といいます。
 父は養子で、本名は石川忠右衛門です。
 人をしゃべくりで楽しませていた父は、よくこの名前のことをネタにして、みんなを笑わせていました。
 そんな父が見たら驚喜する品物を見つけました。
 
 
 
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 もし父が生きていたら、これを大量に買い込んで、いろいな人に配り歩いたことでしょう。
 しかも、父は大の甘党でした。カレーに砂糖をかけ、羊羹が大好物でした。

 おまけに、父の川柳句集を見ると、どうやら父の初恋は京都の祇園祭で見かけた人だったようです。

 父は、昭和58(1983)年5月15日に68歳で亡くなりました。
 来る祥月命日には、このキットカットをお供えするつもりです。
 
 
 

2011年3月24日 (木)

幼馴染みからのお別れの電話

 幼馴染みのひろこちゃんに逢うため、急遽新幹線で1時間半ほど西下しました。

 2日前に、突然思いがけない電話がありました。
 どこでどう調べたのか、私の家のベルを鳴らして来たのです。
 もとより年賀状のやりとりもなく、音信不通が続いていたのです。
 元気がなかったので、気になりました。
 30年ぶりに聞く声に、生きる気力が話すことばから欠落していました。

 今朝、起きてすぐに、逢って一言二言でも話をしよう、と思い、家を出ました。

 ひろこちゃんの住む町へ飛んで行きました。
 駅まで車で迎えに来てくれました。
 車を運転できるのがわかり、安堵しました。
 何を食べる? と聞くので、回転寿司と答え、直行です。
 船で運んでくる回転寿司屋でした。
 
 
 
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 30年の時を隔てて逢ったのに、どうして回転寿司? とは聞いて来ません。
 そんな必要はないのです。話さえできれば、どこでもいいのですから。

 生まれてから小学3年生まで、島根県の出雲市で、本当にすぐ近くでお互いが育ちました。
 従兄弟半の関係ですが、兄妹みたいなものです。同級生ですが。

 私は小学校の途中で、出雲から大阪へ転校しました。
 その後しばらくは、何度か往き来がありました。
 しかし、ここ30年以上は逢う機会がなかったのです。

 のどかな中国山地の奥にある、ひろこちゃんの家に案内されました。
 アルバムを出してくれたので、それを見ながら思い出話が続きます。
 当時の友達の名前が、驚くほど正確に出てきました。
 何十年も忘れていた名前が。不思議です。

 50年以上も前のツーショットがありました。3歳か4歳の頃でしょうか。
 
 
 

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 私は20歳の時に、住み込みの新聞販売店が火事になりました。
 そのため、大阪から東京に持ち込んでいた私物のすべてを消失しました。
 小学・中学・高校のアルバムすらありません。
 私には、想い出の手がかりがないのです。
 幼い頃のスナップ写真も何もかもが、今も手元には1つもありません。
 過去を確認するモノを、私はほとんど持っていないのです。

 懐かしい子供の頃の写真を見ながら、時が遡りました。

 こんな写真も、アルバムに貼ってありました。
 紛れもなく私です。
 
 
 
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 もう生きる気力を失いかけていたひろこちゃんです。
 その声が、帰ろうとする頃には、明るく笑う場面もありました。
 私も、たくさんの思い出を取り戻しました。
 忘れかけていた人と人とが、アミダクジのようにつながります。
 時間が右往左往する話を、真面目にしました。

 私と姉に挟まれて、ひろこちゃんがすましている写真もありました。
 小学校6年生の時、大阪に遊びに来たので、天王寺動物園へ行ったときのものです。
 2つ違いの姉は中学生のようです。
 
 
 
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 ひろこちゃんは最近、頭や胸やお腹やら、何度も何度も手術をしたのです。
 壮絶な闘いに身を置いていたのです。
 初夏から抗ガン剤に終生身を委ねることの怖さも、真顔で語ってくれました。

 帰り際に、何のために生まれてきたのかなー、と呟くのが聞こえました。
 生まれて来なければよかった、とも言うのです。
 私は、今日こんなにたくさん楽しかった話をしたのに? と言うだけに留めておきました。

 ここに来るまでは思いもしなかった、またの機会がある、と確信したからです。
 もう、お別れの電話はして来ないはずです。
 その意思表示の方法は、もう使えないのです。
 また話をしようよ、と言う電話しかできないはずです。
 
 
 

2010年12月29日 (水)

【復元】2004年と05年の10大出来事

 昨夜、「2010年の10大出来事」を掲載した後、パソコンのデータを整理していると、かつてプロバイダーのサーバーがクラッシュして無残にも消えてしまったブログの文章が見つかりました。
 5、6年前の自分の足跡を思い浮かべては、一人で懐かしんでいます。そして、何とよく似たことが生起していることか、と感心しています。

 2004年は、父母のために西国三十三所札所巡礼の4周目を始めた時です。今年は、5周目の満願成就を果たしました。この年に上京された伊井春樹先生は、昨年、国文学研究資料館から逸翁美術館に移られました。この年にスタートさせた〈インド日本文学会〉は、第6回の準備を今しています。相変わらず海外の文学情報を収集し、『源氏物語』の古写本の調査をしています。

 2005年は、『源氏物語別本集成 続』の刊行を開始した年です。これについては、今年、中断という苦渋の決断をしました。伊井春樹先生が国文学研究資料館の館長として着任されました。その伊井先生は、今年から逸翁美術館の館長です。中島岳志さんが大佛次郎論壇賞を受賞されました。今年は、小川陽子さんが紫式部学術賞を受賞されました。

 相変わらず、いろんなことにチャレンジしていることに、改めて驚いています。そして、オーバーペースだったことを少し反省する余裕ができました。今夏の病気は、自分を見つめる意味からも、感謝すべきだと思うようになりました。

(※以下の記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)
 
 
********************** 以下、復元掲載 **********************
 
 
「私の2004年の10大出来事」(2004年12月31日)


(1)〈特定非営利活動法人 源氏物語の会〉発足
  (大学院生主体のボランティア活動の母体としてNPO組織を結成した)
(2)恩師伊井春樹先生が大阪大学を定年退官後の再就職は東京となる
  (30年前に東京で出会い大阪で教えを受け再度東京で仕事を共にする)
(3)娘の留学保険の個人裁判で東京地裁で敗訴そして東京高裁で和解成立
  (いいかげんな地裁判事とでたらめなM火災保険の弁護士を知り愕然)
(4)突然意識を失った母が84歳で死去
  (母が旧満州引き揚げ時にいた長春を私が訪問したその日に意識不明に)
(5)西国三十三所札所巡礼の4周目を開始する
  (父のため義母のため娘のため、そして母のために観音霊場巡りをする)
(6)インドでの第1回国際日本文学研究集会が大成功
  (在インド日本大使も来て挨拶をしていただき幸先のよいスタートとなる)
(7)『スペイン語圏における日本文学』刊行
  (海外における日本文学に関する翻訳・研究情報の整理をした第2冊目)
(8)海外出張でインド・イギリス・台湾・中国・トルコへ行く
  (秋のスペインでの学会発表は母が危篤のために断念した)
(9)『源氏物語』の書写状態を詳細に調査研究
  (国文研蔵為家本、尊経閣蔵国宝定家本、陽明文庫蔵重要文化財本)
(10)『伊勢物語』に関する研究発表
  (30年ぶりに『源氏物語』以外の文学作品に関する研究発表をする)


 
 
 
「私の2005年の10大出来事」(2005年12月31日)
 

(1)『源氏物語別本集成 続』(全15巻)刊行開始
   (古写本に書かれた30億字を確認する作業開始)
(2)海外の日本文学シリーズ第3弾『海外における平安文学』が好評
   (世界各国で翻訳された文学作品の解題と研究情報をまとめる)
(3)伊井春樹先生が国文学研究資料館の館長として着任
   (過半数代表者の私は先生と労働協約に調印する)
(4)亡父23回忌と亡母初盆を無事に終える
   (内輪だけではあったが温かく両親を偲んだ)
(5)植村源氏絵がハングル訳『源氏物語』の表紙に改変盗用される
   (権利意識の希薄な韓国の出版社に対して理解と話し合いを求める)
(6)ウィーンにおける国際学会での研究発表が大成功
   (EAJSで『源氏物語』をテーマとしたパネル発表)
(7)職場で初代国際交流委員長となる
   (海外の機関や研究者との交流や情報交換の橋渡しとなる仕事)
(8)アハマド先生との『源氏物語』に関する座談会が大盛況
   (エジプト・カイロにおいてアラビア語訳をテーマに)
(9)〈第2回インド日本文学会〉が成功裏に終わる
   (駐インド国日本特命全権大使からこれまでの活動に対し感謝状拝受)
(10)インドでお世話になった中島岳志君が大佛次郎論壇賞を受賞
   (『中村屋のボース』は、とにかくおもしろい本である)


 
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 

2010年12月28日 (火)

2010年の10大出来事

 押し詰まってきて寒さが厳しい師走です。
 今年も残すところあとわずかとなりました。
 振り返るだけでもたくさんのことが語れます。
 こんな年があってもいいのではないでしょうか。
 また来年はどんな年になるかますます楽しみです。
 
 

1.マイナス34度のモンゴルで『源氏物語』の翻訳者と面談
2.米国ワシントンの議会図書館で古写本『源氏物語』の調査
3.与謝野晶子『新新訳源氏』自筆原稿画像データベース公開
4.インド・ニューデリーで〈第5回インド日本文学会〉開催
5.鎌倉期の古写本『源氏物語』(若菜上残簡)を広島で調査
6.鳥取県の日南町で池田亀鑑と『源氏物語』の講演会を開催
7.『源氏物語別本集成 続』を第七巻で中断することを決断
8.突然胃ガンの告知を受け胃の全摘出手術を受けて療養生活
9.西国三十三所観音巡礼を公共交通だけで四ヶ月かけて満願
10.京都府立図書館蔵の小学校国語教科書823冊の調査終了


 
 

 今年は、7月にガンの告知を受けたために、それ以降の調査研究活動が休止状態となりました。いろいろな方々にご迷惑をおかけしました。しかし手術後は順調に回復し、11月末に国文学研究資料館で開催された国際日本文学研究集会から職場復帰が叶いました。ただし、まだまだ不安を抱えての生活です。2011年は、正月早々にアメリカへ、2月にはインドへの出張があります。体調と様子を見ながらの生活が始まります。これまでと変わらない、ご理解とご協力のほどを、よろしくお願いいたします。
 
 
 

2010年12月27日 (月)

今年のブログ写真・自選15

今年も、無事に毎日コツコツとブログを書き通しました。
いろいろなことがあった1年です。その中で、なかなか出来がよかった、もしくは貴重な写真だと自分で思っているものを、15枚ほど選んでみました。まさに、自画自賛です。
 
 お正月にモンゴルに行ったときの写真から、月を追って並べます。
 
 
 
(1)「亡父の代わりに日本人墓地跡へ」
 
 日本人墓地を守ってくださるネルグイさんは、マイナス30度の極寒の中でもこの薄着でした。
 
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(2)「雪の中のゲルを訪問し馬に乗る」
 
 ウランバートルの郊外にあるゲルに行くため、モンゴルの大平原の中を疾走中に、突然虹が現れました。
 
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(3)「インドの日本語日本文学の教育現場で」
 
 ヤムナー川沿いのニューチベタンコロニーの河原は、日本の昭和30年代の風景が広がっています。
 
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(4)「井上家の疎開先としての日南町(3)」
 
 井上靖の『通夜の客』の舞台となった、日南町の「曽根の家」が取り壊される前に撮影された写真です。
 
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(5)「小さな町を揺るがした池田亀鑑の1日」
 
 鳥取県の日南町総合文化センターで開催された講演会は、150人に届こうかという大盛会でした。
 
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(6)「鎌倉期の源氏の写本を読む」
 
 鎌倉末期の源氏物語の古写本「若菜上」(残巻)の巻末に「月明荘」(反町茂雄氏)の印がありました。
 
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(7)「京洛逍遥(137)糺の森の流鏑馬神事」
 
 みごとに射抜かれた「一の的」に神職の方が文言を書いてくだったものを幸運にも入手できました。
 
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(8)「心身雑記(66)今後の我が身についての巻」
 
 定期検診で胃ガンが見つかり、胃を全部を摘出することになった、その部位の図解です。
 
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(9)「術前術後の病院食」
 
 手術後4日目に出た初めてのご飯は、何と鯛でした。胃を全部切除した直後のこれには驚きました。
 
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(10)「教科書に見る平安朝・小学校—国語(3)学校図書」
 
 学校図書の昭和34年度用「小学六年生」の教科書の表紙は「紫式部」を意識した王朝風な絵です。
 
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(11)「西国三十三所(36)満願の華厳寺」
 
 ガンの告知後に石山寺から始めた西国三十三所巡りは、丸々4ヶ月かかって念願の満願となりました。
 
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(12)「西国三十三所(34)成相寺」
 
 本堂横の木漏れ日の中に石仏たちがズラリと勢揃い。元気になれよ、と今にも聞こえてきそうでした。
 
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(13)「江戸漫歩(27)スカイタワーと佃島」
 
 完成間近の500メートルを超えた東京スカイツリー。鳥たちが飛行船を目指して飛んで行きます。
 
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(14)「図書館でのペットボトル」
 
 寒風の中、新郎新婦の記念撮影に出くわしました。前方の北山をバックにした写真もいいですよ。
 
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2010年8月20日 (金)

宙に浮いている郵便貯金1900万口座

 両親が旧満州で終戦時に没収された通帳のことが、突然の新聞報道で浮上しました。

 8月18日の「京都新聞(夕刊)」に、興味深い記事が掲載されていました。
 
 
 
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 私の両親は、戦時中は旧満州にいました。そして終戦。
 父はシベリヤへ抑留。
 母は命からがら引き揚げて来ました。
 父は、その3年後に帰国。
 そして我が家の放浪。

 このことに関連する記事は以下のものがあります。
 参考までに列記しておきます。

「わが父の記(2)川で流された時」2008年5月20日

「わが父の記(3)父の仕事(その1)」2010年4月 3日


「【復元】母子の絆の不可思議さ」2010年4月29日


 小さい頃から両親には、戦争に負けた時に旧満州で持っていた貯金をはじめとして身の回りのモノすべてを没収された、とよく聞かされていました。
 敗戦によりすべてを失い、無一文から生活を始め、姉と私を育ててくれました。
 姉は、家計のことを考えて高校を出てから銀行に就職。
 私は、国鉄の奨学金をもらってであれば大学へ行ってもいい、と言われました。これは、叔父が国鉄職員だったこともあります。しかし、無事に大学を卒業した後は国鉄に勤めるという条件がありました。その気のなかった私は、新聞配達をしながら大学へ行く方法を探し出し、上京しました。もっとも、その10日後には十二指腸が突然破れ、胃の三分の二を切除して大阪の自宅に帰ることになりました。半年以上の療養生活をしました。今回の病気の、そもそもの発端です。

 さて、折に触れて両親は、若いときに貯めたものを終戦で取り上げられなかったら、お前たちに思う存分に勉強させてやれたのに、と言っていました。
 姉は、結婚してから通信制の大学を修了しました。
 私は、妻の助けを得て大学を卒業し、大学院の修士時代は、世に言う「ヒモ」でした。そして、その後もこうして勉強させてもらっています。

 今回の新聞報道は、消えた年金ならぬ、宙に浮いた郵便貯金のスクープです。

 私の両親の場合は、朝鮮半島で開設した口座がそれに当たります。
 また、父は軍人だったので、軍事郵便貯金の70万口座の内にあるもの、となるようです。

 両親は、敗戦時に資産が没収されたことについて、国策に協力したことと、持っていてもロシアや旧満州の人たちに略奪されるだけの状況の中にあったことから、そのことについては完全に諦めていました。少しでも戻してもらおう、などという気持ちは完全に放擲していました。
 しかし、内心は悔しい思いを抱いていたことでしょう。それが、お前たちに苦労をさせて……、ということばに込められていたと思われます。

 記事には、「引き揚げてきた際、税関で貯金通帳を没収された例が多い」とあります。両親の場合は、外地で終戦となった時点で没収されたと聞いています。

 父は、川柳句集『ひとつぶのむぎ』という本を残しています。
 この本については、「わが父の記(1)感謝の念を伝える」で書きました。

 その本に掲載されている略歴を、以下に引きます。

大正 5・12 現出雲市古志町に生まれる
昭和 7・ 3 現出雲産業高校卒業
        (株)淀川製鋼所勤務
  13・ 1 現役兵として歩21入隊、直ちに渡満、
        ハイラル第119師団獣医部附士官として勤務中終戦、
        この間ノモンハン事件—太平洋戦争に参加、
        (この頃から馬蹄と号す)
  20・ 8 終戦と同時にシベリヤに抑留される
  23・ 6 復員、引揚
        自由業
  35・ 3 山一証券(株)勤務
  53・ 4 内藤証券(株)勤務
  55・ 7 西邦管理(株)勤務
  58・ 3 退職
           ▽川柳折鶴   同人
           ▽川柳からさで 同人
           ▽鬼の会    会人

 また、『ひとつぶのむぎ』の巻末には、次の記述もあります。

蹄鉄工務から始まり、任官後は師団通信隊、師団衛生隊、歩兵聯隊附、終戦時は師団獣医部附(288頁)

 さらには、平成2年に、当時の海部首相から銀杯をもらっています。
 
 
 
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 京都大学病院へ行った折に、こうした情報と資料を持って、院内の郵便局へこの件で相談を持ちかけました。
 対応してくださった局員の方は、非常に親切でした。いろいろな所へ電話をし、新聞記事をコピーし……、こちらが恐縮するほどでした。
 結局は、こうした新聞記事が出たことで、今後はその対応を急ぐことになるが、今は上から指示も出ていない状況なので引き続き調べさせてほしい、とのことでした。

 来週にでも入院のために来ることを伝えると、「貯金照会書 兼 回答書」という用紙1枚を手渡してくださいました。
 この次に病院へ行く時、この用紙を提出するつもりです。
 出来る限りお父さんの外地でのことがわかる資料を持ってきてほしい、とのことでした。

 果たして、この問題がどう決着するのかわかりません。

 両親が健在で新聞報道を見たら、母はのんびりと、もうどうでもいい昔のことだから、と言うことでしょうが、父は直ぐに手続きをするはずです。
 その父に代わって、時間ばかりかかって無駄とは思いつつも、ささやかな労いになればとの思いで、私が手続きを模索するつもりです。
 苦しかったであろう日々を思い出してあげることで、せめてもの感謝の気持ちにかえられるのでは、との思いから。
 
 
 

2010年4月29日 (木)

【復元】母子の絆の不可思議さ

(※本記事は、平成19年3月に消失したブログの復元です。)

********************** 以下、復元掲載 **********************

2004年09月04「ミクシィ」掲載分より


 八月末日に、中国東北地方(旧満州)から帰ってきました。
 海外での日本文学研究者との情報交換をするための出張です。

 戦後に満州で姿を消した『源氏物語』の従一位麗子本(鎌倉末写)の探索もしてきました。
 これは、北小路健氏が『古文書の面白さ』(新潮選書)で書かれている本です。すでに、渡部栄の名前で『従一位麗子本の研究』が刊行され、その本文の異質さが論じられています。しかし、その本を渡部氏以外は誰も見ていないのです。著書に写真が数枚掲載されているだけです。

 今回、長春において、七十六歳になられる呂元明先生(元東北師範大学教授)がこのことに興味を持ってくださり、ご一緒にそれらしき所を訪ねましたが、今回は手がかりがつかめませんでした。
 ところが、吉林大学の先生方にもこの本の流転の話をしたところ、たくさんの先生が本探しの協力を申し出てくださいました。これまで、まったくこの本のことを、知らなかったそうです。今後は現地の方が意識して動かれるので、おもしろくなります。
 本は、探している者の元に現れる、と言いますから。

 とにかく、収穫の多い旅でした。東北地方はあまり日本人の研究者が訪れないので、今後の情報交換に関して、好意的に接してもらえました。

 ちょうど一週間前のことです。
 呂元明先生とご一緒に、従一位麗子本を探して長春(戦時中の新京)を歩きました。そして、今から六十年前に渡満していた両親が、終戦時に彷徨っていた地域を探訪した時のことです。
 
 
 
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 私がその地域を訪れた、ちょうどそのすぐ後に、今年八十三歳になる母が突然意識不明の危篤となったことを知りました。
 遠く離れていながらも、何か通じるものがあるのでしょうか。私が母の思い出の地・懐かしい跡地や廃屋を訪ねたちょうどその時に、母の呼吸と心臓が十分間も、突然停止したのです。
 英国留学からの一時帰国中の娘と、そして息子たちがちょうど側におり、一生懸命に人工呼吸をしたそうです。しかし、一週間経った今も意識は戻らず、もう回復することはないそうです。
 出発直前に、満州の写真集を母と一緒に見たことが思い起こされます。それが私との最後の会話となりました。私には何も言わず、ただ身体に気を付けろとだけ言って、いつもニコニコしていただけの母親でした。

 帰国後すぐの昨日、入院先の近畿大学奈良病院に駆けつけました。植物状態の母の昏睡の顔には、父と共に過ごした満州での苦楽がかいま見えるように思えます。
 戦後、父はシベリアに抑留され極寒の地での強制労働を、母は生死を彷徨いながら帰国しました。戦後生まれの姉と私は、まかり間違えば、凍死か餓死か中国での残留孤児となるところでした。今回行った両親の想い出の地の一つであるハルビンの写真などもたくさん写してきました。しかし、もう母に見てもらえないのが残念です。

 今週末までは母の様子を見て、来週から私は福岡へ出張で行きます。親子の繋がりというものを、今回の件で初めて体験しています。虫の知らせ、というのでしょうか。遠く離れていても、何か人間には通い合うものがあるのではないでしょうか。今回私が、20代の頃に母がいた地を訪れたことにより、母は自分自身もその地にタイムスリップしてしまったようです。

 これまでは、このようなことは信じなかったのですが、今は有り得ることと思うようになりました。
 一昨日から毎日面会に行き、眠りこけている母を見ると、その思いを強くします。非科学的ですが、あっても不思議ではないと思うようになりました。血縁なのかな、などとも思います。

 再来週からスペインの学会で研究発表をすることになっており、帰国後翌日の9月末は、前田家尊経閣文庫へ定家本『源氏物語』の調査に行くことになっています。10月はインド、11月はトルコ、12月はイギリス、年明けはエジプト…… と、予定はギッシリと組まれています。

 母の件で、こうした予定が大幅な修正を余儀なくされそうです。それもまたいいだろう、と思っています。いつも身を案じてくれていた母ですから。少しノンビリしなさい、と言っているかもしれません。


■いただいたコメントへ■
S王さま
先ほど福岡に着きホテルに入りました。そして、コメントを拝見しました。ありがとうございます。
これから四日間、福岡で仕事です。
ホームページを、少しずつ読ませていただきます。
私の母は、もう意識は戻らないそうです。今日は、手が少し温かかったので、少し安心しました。母の手を握るのは、本当に久しぶりでした。息子としては、やはり照れますね。何とか気持ちが伝われば、と思って握りました。奇跡を信じて、見守ってやりたいと思います。
 
 
 
********************** 以上、復元掲載 **********************
 
 
 

2010年4月 7日 (水)

わが母の記(7)叱られると押し入れに

 私が小さかった頃、小学校の低学年の頃のことです。何かいけないことをすると、母は私を押し入れに閉じ込めました。

 当時は、父が大阪に出稼ぎに行っていたので、母と姉と私の3人で、出雲市の町営住宅に住んでいました。私が、小学校の4年生までのことです。

 田舎のことでもあり、一応ささやかな庭というか、畑がありました。
 母は、いつも割烹着を着ていました。
 
 
 
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 この庭から部屋を写した写真が、たった一枚だけ残っていました。
 
 
 
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 南向きの6畳間の奥に、3畳の間と台所がありました。台所では、かまどに薪を入れて煮炊きをしていました。昭和30年代のことです。
 水は、北側の玄関の前に、共同の手押しポンプがありました。冬は、熱湯で溶かしながら水を汲み上げたものです。

 この南向きの6畳間には、一間の押し入れがありました。
 母は、いつもニコニコしていましたが、私が何かよくないことをすると、突然豹変して鬼になりました。そして、決まって、6畳間の押し入れに、小さかった私を持ち上げ、そこに押し込まれました。その怖さに縮こまり、押し入れの中の布団の隙間でシクシク泣いていたことが、何度もあったことを思い出します。怖くて襖を自分で開ける勇気もなく、とにかく出してもらえるまで泣き続けていました。

 当時、私は身体が弱く、虚弱体質として、運動を禁止されていました。運動会で走れたのは、小学3年生の時からです。その時は、リレーのアンカーを走りました。初めて私が走るのを見て、みんながアンカーにしてくれたのです。結構早かったのです。今でも、運動神経はいい方だと思います。

 水泳も禁止されていたので、いつも八岐大蛇で有名な神戸川での水泳の時には、河原で見物でした。水泳は、出雲から大阪に引っ越しをして、大阪市立豊里菅原小学校に転校してから、初めて泳ぎました。というより、泳げないので、水浴びでしたが。

 母が厳しかったのは、この出雲の時代だけでした。それ以降は、いつも私のことを思ってくれていて、私が言うことは、何でもやらせてくれました。何でも許してくれました。これは、亡くなるまで一貫して、私を何事においても信じてくれたのです。父は、高校時代以降に、私がすることをすべて認めてくれました。その意味では、ありがたい両親です。
 何一つ、反対されませんでした。1人でヒッチハイクで富士山から帰ってくる旅の時も、おまえが行きたいなら行ってきなさい、と言って、両親は見送ってくれました。高校卒業後、1人で上京して新聞配達をしながら勉強すると決心した時も、好きなようにしたらいい、と応援してくれました。

 この、両親に信頼され続けたことは、私にとっては代え難い財産です。
 そんな両親に、今、感謝しています。もう、この気持ちを伝えようもないのが残念です。
 
 
 

2010年4月 6日 (火)

わが父の記(4)父の仕事(その2)

 私が小学校に入る直前なので、今から約50年前のことです。
 母と姉と私の3人を島根県の出雲に置いて、父は大阪へ出稼ぎに行きました。人夫として、舗装道路の工事や、千里丘陵を作っていたようです。
 小学生の頃、休みになると汽車で大阪へ遊びに行きました。伯備線のトンネルに入ると、ススが車内に入るので窓を閉めたものです。それでも、駅を降りると、鼻の穴は真っ黒けでした。

 父が寝泊まりしていた飯場は、雨漏りのするバラックでした。よく1人で、雑誌を片手に詰め碁をしていました。
 我々が大阪へ遊びに行ったとき、どこで寝ていたのか、まったく記憶がありません。父の部屋は、2人が寝たら一杯でした。両親が何か配慮をしてくれていたのでしょうが、どこで寝たのかは覚えていません。

 街頭テレビは、大阪の街中で見ました。力道山の空手チョップで釘付けになったものです。
 また、フラフープやダッコちゃんも、あの頃だったように思います。それを父がお土産として買ってくれ、出雲に持って帰りました。

 そのうち、父は山一証券に就職が決まりました。出雲大社の前にあった「ヘルンの宿 いなばや旅館」へ遊びに行ったときなどに、父が出世したと伯母さんたちが話題にしていたことを、子供ながら嬉しく聞いた記憶があります。

 父は、毎年一度は、出雲に帰ってきました。帰省する時、私への土産は、小学○年生と漫画王でした。

 私が小学5年生になった時、姉の中学進学に合わせて、出雲から大阪に転居しました。阪急沿線の淡路駅に近いところでした。一家4人が、8畳の屋根裏部屋での生活が始まりました。ギシギシと軋むはしご段で、2階の屋根裏に上り下りしていました。
 畳の上にベニヤ板を一枚置いて、その上でプロパンガスを使った煮炊きをしていました。今から思えば、怖いことです。水は、階段の下から一々運びました。これは、姉と私の仕事でした。
 この頃にも、まだ姉と私は、ミカン箱と食卓を机代わりにして宿題などをしていました。家庭訪問があったら、それらを隠すことで、大変なことになったはずです。友達なども、部屋に上げるわけにはいきません。そんなドタバタは、結局一度もありませんでした。

 そんな中で、父はよく我々を、いろいろな所へ案内してくれました。
 当時の写真を見ると、父はカッターシャツを着ています。山一証券という大手の会社に勤めるサラリーマンになった父は、幾分無理をして我々を大阪見物に連れて行ってくれたようです。連日、デパートや遊園地に連れて行ってもらいました。楽しかった想い出しかありません。
 
 
 
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 お金がなかったはずなのに、デパートなどの食堂でいろいろなものを食べました。父は、いつも何ものっていないうどんでした。少し贅沢をするか、と言った時には、決まってお揚げさんののったきつねうどんでした。私は、旗の立ったお子様ランチが大好きでした。
 今にして思えば、限られた生活費の中で、子供には不自由な想いをさせないという、両親の思いやりがしみじみと感じられます。

 満州から命がけで日本に引き揚げてきた両親にとって、あるいはこうした自分達の苦労は、大したものではなかったのかも知れません。戦後のどん底の生活の話は、折々に聞いたように思います。地獄をみたからこそ、穏やかな気持ちと、暖かな思いやりで、姉と私に接してくれていたのです。
 父からは、怒られることはほとんどなかったように思います。お互いに、あまり会話をしませんでした。しかし、信頼してくれていることは、伝わってくる対応でした。反面、母は何か悪いことをした時には、非常に怖いときが何度かありました。それは、またの機会に。

 毎年、年末年始になると、父は会社に宿直として寝泊まりしていました。宿直手当という副収入を考えてのことだったのです。そのために、年末年始は、いつも大阪の京橋にあった父の会社に行きました。年賀状やお節料理を持って行ったのです。お年玉は、いつも父の会社で渡されました。そして、会社のソファーで、母が作ったお節料理をみんなで食べました。日頃はお酒を飲まない父も、このお正月の家族とのお節の時には、日本酒を少し飲んでいたように思います。こんな時の、母のニコニコした顔が、今でも思い浮かびます。

 私には、株のことはサッパリわかりませんでした。しかし、会社の中を見渡すと、父が慕われてさまざまな仕事をしていることがわかりました。社内で倶楽部を作ったり、リクレーションや旅行の幹事をしていたりと、面倒見のいいところも、休憩室や廊下などの壁に貼られた写真や文書で知りました。会社では人気者だったようです。女性社員を中心として、伊藤会とでも言うべき親睦会も作っていたようです。
 この、人の世話を率先してする性格は、亡くなる直前まで見ることができました。人を思いやることの大切さを、父は身をもって教えてくれました。今の私に、それがどのように生きているのかはともかく、いい心構えを残してくれたのは確かです。人のことを思いやり、率先して人の世話をするのです。私には、とてもできません。しかし、そのような姿を、父は見せてくれていました。

 息子としては、あまりにも生き様が固くて苦手な面も多々ありました。反発する気持ちもよくありました。しかし、この、人との接し方には、とにかく脱帽です。心掛けてはいます。しかし、とてもできません。敬服します。
 
 
 

2010年4月 3日 (土)

わが父の記(3)父の仕事(その1)

 父は、亡くなる直前に『句集 ひとつぶのむぎ』を刊行しています。ガンで余命幾許もないことがわかってから、それまでに作っていた川柳を整理し、4ヶ月で刊行に漕ぎ着けたのです。
 文字入力は、姉と私がパソコンの PC-8801を2台使って行い、オフセット用の版下を作成しました。原稿は母が病院と自宅を行き来して運びました。献本をすべて発送し終えるやいなや、すべてをやり尽くしたかのように亡くなりました。

 その巻末の略歴によると、昭和7年に島根県の出雲商業高校を卒業後、淀川製鋼所に就職しています。その6年後、昭和13年に、現役兵として入隊し、ただちに満州に渡っています。
 ハイラル第119師団獣医部附士官として終戦。この間、ノモンハン事件と太平洋戦争に参加しています。今年の正月にモンゴルへ行った折に、ノモンハン事件の慰霊碑に足を運んだのは、この父のことがあったからです。

「亡父の代わりに日本人墓地跡へ」

父は、あそこで慰霊されていても不思議ではない時代を生きていたのです。

 昭和20年に、終戦と同時にシベリヤに抑留され、昭和23年に復員し、引き揚げてきています。昭和35年に山一証券に勤めるまでは、さまざまな仕事をしていました。本人は、自由業と書いています。

 この、引き揚げ後の仕事について、その内容はわかりませんが、どんなことをしていたかは、朧気ながら覚えています。

 当時、運搬車といわれた自転車で、父はポン菓子を作っては村々を渡り歩いていました。それに、小さかった私も、よくついて行きました。そして、私もボイラーの横でハンドルを回す手伝いをしていました。

 このことは、「わが父の記(2)川で流された時」に書きましたので、ご参照を。

 出先で作ったポン菓子の残りを持ち帰り、母が水飴を混ぜてお菓子にして、どこかに卸していました。それも、手伝ったことを覚えています。この時、食品の色づけに色素を使うことを知りました。
 屋根裏で、一家4人が天井のない8畳一間の生活をしていた頃のことです。

 その後、父は広島の牡蠣の養殖の仕事をし出しだしたようです。
 牡蠣の養殖には、竹を使います。その竹の節に、ベルトで回転する錐で穴を開け、それを広島へ持って行っていました。どのようにして運んでいたのか、まったく知りません。高速で回転する錐が危ないというので、仕事場の近くに行くことは止められました。掘っ立て小屋の外から、父の後ろ姿を見ていた記憶があります。以来、先端恐怖症になったように思います。
 節の穴を開けた竹を広島に運んだ帰りに、父はひろ子ちゃん事件に巻き込まれています。一緒に連れていた姉が、当時誘拐されたひろ子ちゃんに似ているということで、父は警察で犯人扱いされたことがあったのです。多分に人相の問題もあったかと思います。以来、父に似ていると言われるのがいやでした。今では、父に似ていると言われても、あまり気にならなくなりましたが。

 自分の親の仕事は、子供は意外と知らないように思います。どんなことをしていたのかは何となくわかっていても、その内容は、ほとんど知りません。
 もっとたくさんのことを聞いておくんだった、と思うときには、親はいないものです。
 今は、ごくろうさまでした、大変だったでしょう、と言うしかないのが、非常に残念です。心残りです。元気なときに、このことばを言えたらよかったのに、と思っています。
 息子にとって、父親は少し距離のある存在です。そのため、何となく他人行儀な付き合いに終始したように思います。しかし、本当にありがとう、と、今では素直に言えます。

 父が残した『句集 ひとつぶのむぎ』は、毎年のように読み返しています。この句集を通して、人間はいろいろなことを考えて生きているんだ、ということを教えてもらいます。涙で文字が滲むこともしばしばです。それは、書かれていることがわかるようになったからでしょう。それだけ、私も成長して、父に近づいたのだ、と思う時です。そして、生きていくことが、本当に楽しくなってきます。父ができなかったことを、今こうしてしているのだ、と思うと、何となく誇らしいときがあります。
 こんな自分を見て、父も喜んでくれていることでしょう。何はともあれ、父ができなかったことをしているのですから。
 後は、父の生きた年まで生きることです。それでやっと対等なのではないでしょうか。寿命を、あと5年延ばすための努力をしたいと思います。もちろん、寿命が努力で克服できればのことですが。
 
 
 

2010年1月 5日 (火)

恩師の奥様と池田亀鑑

 昨年五月にお亡くなりになった小林茂美先生のお宅へ、仕事帰りに立ち寄りました。
 奥さまとは、夜の7時から延々3時間半もしゃべりました。とにかく、話が途切れなかったのです。もっとも、8割かたは奥様が話しておられましたが……。……と、私は思っています。
 とにかく、話がおもしろいのです。つい相槌を打つと、またまた話が広がります。
 小林先生の話題になると、お互いに言いたいことがいっぱいあって、止まりません。

 遺影の横に置いてある、昨年7月に刊行した『源氏物語別本集成』の話になったとき、私は急に池田亀鑑のことを思い出しました。いつか、ある宴会での帰り際に、奥様が池田亀鑑の仕事を手伝っていた、ということをチラッとおっしゃったことがあったのです。そのことを思い出したので、改めてこの機会にお聞きすることにしました。

 昭和23年頃の話です。今から60年前です。

 奥様が昭和女子大学の学生時代に、池田亀鑑は講師として『源氏物語』を教えに来ていたそうです。
 好奇心の旺盛な奥様は、いつも一番前で熱心に聞いておられました。今思い起こせば、たくさんの質問をしたものだ、とか。
 そのうちに、下の名前で呼んでもらえるようになり、池田亀鑑のカバン持ちになっていたそうです。
 あるとき、学長を通して、仕事を手伝ってくれる人を探しているとのことで、奥様は名指しで依頼され、その他に5人くらい気の合う仲間を選んで家へ来るように、と言われたのです。学長からは、学校として向けるのだから、友達と行ってシッカリと大先生のお手伝いをして来るように、と言われ、光栄に思って椎名町の池田亀鑑のご自宅に通われたのです。
 ちょうど奥様が二十歳のときです。

 仕事は、『源氏物語』の写本を鉛筆やペンで筆写することでした。虫が食った本や、汚くて匂いのする本もあったようです。だいたいが枡形本(20センチ四方)で、大きな立派な本もあったとか。
 仕事の前に、必ず手を洗わされたそうです。古写本を触ることになるので、本を大切に扱うためです。これは、今でもそうしていることです。
 天井まで堆く本が積み上げられた薄暗い部屋で、池田亀鑑は梯子で上って高いところの本をとっていたそうです。

 筆写する紙は、池田亀鑑が用意することはなく、便箋や原稿用紙を自分で買って行き、ただひたすら写し続ける日々でした。電車賃も弁当代も出なかったので、今のアルバイトとはまったく違う、勤労奉仕に近いものだったのです。
 その仕事の意味はまったく説明がなかったので、何をさせられているのかは皆目わからないままの、とにかく単純作業でした。

 一字も間違うな、ということだったので、書き写したら友達のものと交換し、読み合わせて間違いがないかを確認し合うこともありました。また、文字は声を出して読めとも言われたそうです。
 筆写にあたっては、一行は一行のままに写すことになっていました。末尾に書き残した文字を次の行の頭に書くことは許されなかったのです。本当に、今のコピーマシンの代わりをしておられたのです。
 行間に書かれた注記も、本文を修正したところも、そのまま写したそうです。ただし、字母までの正確さは求められなかったようです。
 ナゾリや抹消されていて読めない文字は、丸印をして「不明」と書いておいたとのことでした。
 朱書きのものは、どうしたのか記憶にないそうです。赤鉛筆はつかわなかったようだが……とも。

 私が推測するに、これは借りてきた本を筆写しておき、『源氏物語』の本文異同を確認する時のための副本作成をする作業だったのではないでしょうか。昭和17年に『校異源氏物語』が、その改訂版である『源氏物語大成』が昭和28年に刊行されています。奥様がこの筆写の仕事を手伝っておられたのは昭和23年なので、ちょうどその中間の年にあたります。

 同じ家の別の場所には、東大の学生さんがたくさん来ていたようです。
 本文の違いを確認するとともに、本文異同の校異の作業は、この東大生たちがやっていたのでしょう。この東大生たちは、写本と共に、奥様たちが筆写された便箋に書いた本文も、資料として手に持っていたそうです。
 とにかく、本を写す作業は女の仕事となっていたのです。

 奥様と話をしていたらキリがないので、今日はこのへんで、ということで打ち切って帰ることにしました。
 池田亀鑑との話は、ほんの40分ほどだったので、次の機会にさらに伺うことにします。一緒に椎名町へ行ったお友達は、もう半分以上いない、とのことでした。1人知っているので、また電話で聞いて思い出しておく、とのことでした。今度は、もっといろいろなことを聞きたいと思います。
 
 
 

2009年12月19日 (土)

50年前の自分に会う

 親戚が出雲大社のすぐ前で「いなばや」という旅館を営んでいました。小泉八雲が執筆活動をした旅館ということや、皇室の宮様や勅使が宿舎にしておられたこともあり、格の高い旅館でした。
 しかし、このご時世に加え、経営者であったふたいとこの勝っちゃんが車イス生活になったことから、思い切って廃業したそうです。

 今回、幼友達でもある手銭さんの車で、大社の神域の中にある勝ちゃんの家まで連れて行ってもらいました。
 今は、出雲大社の本殿のすぐ横、社家通りといわれるところにある北島国造館の前で、リハビリ生活を送っておられます。
 車イスで迎えてもらいました。表情は穏やかでした。安心しました。
 この家は、もとは佐草という、これまた我々の親戚のものでした。佐草は、平安時代の文書や典籍などを伝える家だったそうです。もうそのすべてを処分されたとのことです。もう少し早く、私が古典文学に目覚めていたら、この佐草家の資料を活用できたのに、と思うと残念でなりません。

 亡母は、早くに両親を亡くしていることから、小さい時はこの出雲大社の「いなばや旅館」で育っています。
 私と姉は、父がシベリアから、母が満州から引き上げて来てから生まれています。
 父は復員後は、単身、大阪で人夫として千里丘陵に土を運んで固める仕事をしていました。
 私が小さかった頃は、父が大阪に出稼ぎに行っていた関係で、母と姉と私は、正月や夏祭りの頃には必ず「いなばや旅館」に泊まりに行きました。行くと必ず、小泉八雲が使っていたという「かの間」に寝泊まりしました。八雲の話も、たくさん聞いたように思いますが、すっかり忘れています。
 そして、いつも出雲大社の神域で遊んだものです。
 
 
 
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 今ある、この大国主命とイナバの白ウサギは当時はなかったはずです。しかし、白ウサギの話はよく聞きました。私がウサギ年生まれなので、余計に親近感がありました。正直に生きようと。

 境内の松と鳥居と大注連縄が、今でも眼に焼き付いています。
 日本の神道では、お詣りをするときは「2礼2拍手1礼」をすることになっています。しかし、出雲大社では「2礼4拍手1礼」だ、ということも、小さいときに教えられたことです。
 「神無月」も出雲では「神在月」と言うことも。

 我が家の子どもたちは、法隆寺の境内と平城京跡地と奈良公園の鹿さんたちと遊ばせました。自分が広い所で遊んだから、そうさせたのかもしれません。

 今回は、「いなばや旅館」の隣にある「大島屋」に泊まりました。
 
 
 
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 ここは、「いなばや旅館」に泊まっていた時に、よく使いに行かされたところです。お菓子や食器などを持って行ったりしました。そんな所に、50年も経ってから客として行ったのです。
 そういえば、日本旅館には久しぶりで泊まります。

 朝、隣の「いなばや旅館」の跡地を見に行きました。
 
 
 
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 更地になっていました。思い出の詰まっていた所なので、不思議な気持ちに包まれました。
 目の前の大きな石組みの前で映した写真が残っています。
 台風の時には、2階のガラス戸を押さえに、子供ながらも人足として駆り出されました。
 お正月には、玄関に「番内」という、秋田で言う「なまはげ」がやってきました。私は、いつも玄関先に押し出され、泣き騒いだことを覚えています。本当に怖かったのです。

 この散歩に出たとき、宿のカギ持ったままだったことを思い出したので、旅館へ返しに戻ったときでした。玄関口で「あんた てっちゃんだないけん?」と呼び止められました。
 杖をついたおばあさんが、ジーッと私の顔を覗き込んでこられます。
 「さだちゃんとこの」
 「ゆみちゃん しっとーけんね」

 「さだちゃん」とは私の母の、「ゆみちゃん」は姉の名前です。
 そして、私には「さだちゃん」の面影があるのだそうです。
 狐に摘まれたような話が、今、目の前で展開しかけているのです。

 「いなばや」にいたチカさんだとおっしゃいます。売店や雑用を、つい最近までしていたとのことでした。話をしていると、50年前の話に、思い当たることがたくさんあります。
 結婚せずにずっと1人だから、よかったらうちにおいで、と仰るので、たくさん話を聞きたくなったので、すぐ前の小道を入ったところのチカさんの家に上がり、コタツにあたりながら母との思い出話をたくさんしました。
 
 
 
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 お茶やお菓子やみかんが、たくさん出て来ました。
 話があまりに盛り上がったので、急に思いついて姉に電話をしました。姉はチカさんを覚えていて、電話をチカさんに替わると、懐かしそうな会話がしばらく続いていました。

 突然、50年前にタイムスリップです。

 私には覚えがないのですが、このチカさんに可愛がってもらっていたことがわかり、気持ちが温かくなってきました。
 こんな出会いがあるんですね。
 母や姉や私を愛おしく想ってくださっている方が、この遠く離れた出雲の地にいらっしゃったのです。そんな方が、この地上におられるとは、考えても見ませんでした。そのことを知り、人間の存在というものの不思議さを、改めて思いました。

 人の想いは、時間や空間を飛び越えるものなんですね。
 
 
 

2009年8月 9日 (日)

小林茂美先生 お別れの会

8月8日は、5月12日にお亡くなりになった小林先生のお別れの会がありました。
 
 
 
090808kobayasi2表紙
 
 
 
090808kobayasi3足跡
 
 
 
第一部は「献花の会」、第二部は「語る会」という構成でした。
250人もの方々の参加を得、賑やかなことのお好きな先生を、みんなでお見送りしました。

第一部での弔辞は、日本女子大学名誉教授の後藤祥子先生でした。
その後の献花では、白いカーネーションを参会者ひとりずつがご霊前にお供えしました。
 
 
 
090808kobayasi献花
 
 
 
喪主としての奥さまの挨拶は、会場を笑いの渦に巻き込みながらの、いつもの奥さまらしいお話に、小林先生の人間性がひしひしと伝わって来ました。

第二部では、献杯を跡見学園女子大学名誉教授の室伏信助先生がなさいました。

ゆかりの方々の思い出話の後、再度奥さまが先生の思い出を語られました。これまた、会場は笑いに満ち溢れ、和やかな送る会となりました。
 
 
 
090808kobayasi5追悼文
 
 
 
奥さまのお話の中に、分骨を遺言のままにインドのガンジス川に流したいが、それも難しいので、出身地の最上川に流してごまかそうと思う、と仰っていました。
散会後、私は毎年インドへ行っていることもあり、来年2月にも行く予定があるので、その時に代わりに流してきます、ということで、後日遺灰の一部をいただくことになりました。

お世話になった先生のためです。先日は、送り火を焚いて差し上げました。
こんどは、お望みだったというガンジス川をたゆたっていただこうと思います。

その後の懇親会も、みんな思い出話に話が弾む盛会でした。
みんなが先生のことを思い出しては、お互いの当時の出来事を喋り合っていたその頃、先生はどこを彷徨っていらっしゃったのでしょうか。
みんなは楽しく懐かしみながら、それぞれの大切な思い出として語り合っていました。

どうぞ、気楽なお気持ちで、我々をあの世から見つめていてください。
みんな、それなりに日々成長していますから。

2009年6月27日 (土)

わが母の記(6)未読だった第2信(下)

 未開封のままだった、母からの手紙の中身を翻字します。
 40年ぶりに読んだ亡母からの手紙には、以下のように書かれていました。

鉄ちやん 其の後元気で居ますか 此の所毎日寒くて

大阪は雪が降つたり風もツメタイですよ

少しは仕事の方 馴れて来ましたか 朝が早くて

一人で起きれるやらと心配しています 風引かぬ様

気を付けて カイロでも入れて暖かくして出る事

です 体に十分気を付けて シツカリがんばつて

下さいね 祈つています

家もとう/\電話がついて 鉄ちやんの声も聞き

度ひ時は話せますので 嬉しいですよ

室の方も整理が付きましたか 落ちついた事と思つ

て居ます 電気毛布を買つたそうですが 安い物

で大丈夫ですか 良く注意して使用して下さいね

色々と入用の物が多くなつて行く事でしようが 自分で

キチントかたづけて 人が見ても見ぐるしく無い様に

して置く事ですね 其の人の人がらが知れますからね

お金の方も 心細く無つてる事でしようが 必要な時

には お母さんも少しは手持ちが有りますから 其れに

内職のお金も出来ますから 言つて呉れたらスグ

送つて上げます 何よりも体に十分に気を付け

る事 外に出た時 一日一本はかならず牛乳をノム

事です 其して 生ヤサイを忘れずに自分から食べる

様心掛け 食事に付いてたら残さずに食べて下さい

どんな物を食べてる事やら 又知らせて下さいね

当分は淋しかつたですが 此の頃 仕立物を一生懸命

やり出して 其の間は気がまぎれて居ます 時/\

Iさん所にも 遊びに行く事ですね Nさんは

良い人ですから 此の間はセイター頂いたとの事 又 着

て遊びに行きなさい 喜ばれますから ラヂオも頂い

たとか 鉄ちやんの室も 大分自分の室らしくなつたで

しよう 此れからは又 予備校に入つてシツカリ

勉強にがんばつて下さいね 来年を祈つて居ます

お金の方 四万円は こちらから送金しますからね

入用の時 知らせて下さい 用意していますから

Yが二十日 夜行 大阪立ちますから 其の時に小使

(お金)持つて行きますから 当分のに使つて下さい

給料もらうまで心細いでしようから 残れば預金して

置く事ですね いつでも出せる様に近くで良いで

しよう Yが行けば又話も沢山有る事

でしようから 此の便りが着く頃は行つてる

頃です 家の机の上の箱は チツキで送ります

昨夜(十三日)から Yと二人です 何となく

心淋しい気持ちです 石川屋のMさんが 十五日に

亡くなり お父さんは出雲へ帰つてます 又 Tさん

所 Kさんは大分良くなり 十七日に退院して

出雲大東のTに帰り 来月(四月十二、三日頃)大阪に

Hちやんと一しよに帰つて来られます 今の所 別に

変わつた事も無く こつちは皆元気で居ますから

鉄ちやんも元気に体に呉れ/\も気を付けて

交通事故にはほんとに注意して下さいね

其の中に暖かくなり仕事の方にも馴れて来た

ら 楽しい事も出来て来ますから がんばつて下

さい 又便りしますから 其れ迄 元気に居て下さい

                     母より

左記の所に礼状出すことですね お願ひします

Tにはごちそうになつたお礼

Nへはネクタイ、見送り

のお礼を出して下さい

一 大阪市西淀川区(中略)T様

一 大阪府八尾市(中略)N様


第1信とよく似た内容です。
母は、とにかく私の体を案じていたようです。
私は小学生の頃には、栄養失調でひ弱な子供でした。体育の時間は、いつも見学でした。
小学校の高学年になって、運動をしてもいいようになってからは野球を、中学では卓球を、高校ではテニスをしました。いつも、母は無理をしないようにと、声をかけてくれました。

学校の運動会には、いつもこっそりと見に来ていたことを知っています。
高校の時、私が10キロマラソンを走った時には、長居陸上競技場のトラックのコーナーの端にいた母を、周回しているうちに見つけました。いい所を見せようと頑張り、上位でテープを切ったことも、今となってはいい思い出です。
そのせいもあって、東京で一人で早朝から新聞配達をすることを、母は陰ながら気に掛けてくれていたのです。
いまでも、感謝の気持ちを忘れていません。
照れくさいので、生前は言葉にしては伝えられませんでしたが。

母からは、お小遣いのことが手紙によく書かれていました。
私は、高校卒業後は、予備校の費用も、大学の費用も、すべてを自分で工面しました。
それだけに、両親は私にお小遣いをくれようとしました。姉も、いろいろと気遣いをしてくれました。

成人後、大学院に進学した時には、妻の援助で勉強を続けました。そのことを、両親は妻に申し訳ないと思っていたようです。何かと、生活費やお小遣いを渡そうとしてくれていたことを覚えています。

我が家は貧しく、姉は家の状況を見て大学には行かずに、銀行に就職しました。その後、通信教育で短大を卒業しました。
私も、高校卒業後は家のために働くはずでした。しかし、国鉄に勤めながら大学で勉強してもいいと言われ、それなら自分が興味のある新聞社で働く、朝日奨学生としての生き方を選んだのです。
父は川柳を嗜んでいたので、ものを書くことには理解がありました。
母は、出雲の女学校を出てから、東京の早稲田で奉公生活をしていたので、私が東京へ出ることに理解を示してくれました。母は多分に、東京に行く機会ができることに楽しみを見つけていたようにも思えますが……。早稲田の大学受験の時には、母も一緒に付いてきました。受かろうが落ちようが、関知しないという雰囲気で。結果は不合格でした……。

この未開封だった手紙は、第1信の一週間後に書かれています。それにしても、前便と同じ表現が所々にあります。
とにかく、私に伝えたいことが、母の心の中には、いっぱい溢れていたのでしょう。

40年もしてから読んだことを、今週自宅に帰ったら、仏前に報告しましょう。
いつもニコニコしていて、何でも私がすることは認めてくれ、許してくれていた母なので、今頃この手紙を読んだことも、「いいよ、読んでくれたんだつたら、体に気を付けてね」と言ってくれることでしょう。
両親がいない今、あらためて感謝しています。

2009年6月26日 (金)

わが母の記(5)母からの第1信(中)

 高校の卒業式を終えて上京後、母から最初に受け取った手紙には、こう書かれていました。
 
 
 
090626letter1第1信
 
 
 



鉄ちゃん 元気で居る様子 昨夜お父さんからの電話(注1)で
安心しました 家の中も急に淋しくなりましたが
三人共元気に暮らして居ますから 安心して下さいね
家にも電話が九日に付きました 四帖半の室 水屋の
上に置きました 通話ができるのは一週間位かかる
そうです 三月十五日頃ですね 通話が出来る様になつ
たらスグに知らせますから 九日 こつちへ電話掛け
たそうですね せつかく掛けたのに残念でした
家の前の道の電線の工事等がまだだそうですから
此からは鉄ちゃんの声も聞けるし 嬉しく思ひます
室も前の三帖だそうね ソウジして自分一人の室です
から キチントして置きなさい いつ誰れが入つて見ても

良い様にね 其の中にだん/\荷物も多くなつて行く事
でしょうが 大事な物は U(注2)へ置いて頂く様にね
IさんNさん達 良い人ですから 何んでも話して
お父さんからも良く/\お願ひして有りますから
Iさんも 少しも心配しないで 東京に居る限り自分達が
責任見るからと言つて呉れてます 時どき 遊びに行つて
子供達にチヨコレート位持つて行つたら良いですからね
学校の方も 此れも運だから 来年はがんばつて 二ツか
三ツ位受けたら如何やら(注3)と思つてます
予備校の方も早く手続きをして 一年間しつかりやつて
下さいね お母さんは鉄ちゃんの体だけが心配ですから
食事の方も考へて 外に出たら 一日一本は牛乳忘れ

ずにノム事ですよ お金の方も少し位は 母さんの手持が
有りますから送ってあげます お菓子でも ホシイ
物が有つたら便り下さいね 当分 馴れるまでは
一二ヶ月 一番ツライ事です 誰れも一度は其の体験
を味わひ 一人前になつて行く物です(注4)
Y(注5)も 二十日 大阪を立つて上京しますから 二人で
連絡取つて下さい 其の時に 机の上のボール箱(注6)をチツキ
で送ります 駅止か 配達付きか どちらでも
フトン袋が 信貴山口駅から出したのですが 雪降りで荷物
がヒドクヨゴレて居ませんでしたか フトンや内身は大丈夫
だつたでしようか 出した後の ナイロンや紙類は ボツ/\
少しずゝ出る時に持つて出てステなさい 荷ヅナだけ
は又使うから 取つて置く事です では又便りします
元気でがんばつて下さいね 体に気をつけて 母より

(注1)我が家には、昭和45年当時、まだ電話がありませんでした。
   近所で早くに電話を引いている家からの呼び出しで、連絡を取っていました。
   この文面によると、復員後は証券マンだった父が、上京した折に立ち寄ったようです。
(注2)吉祥寺にいた従兄弟のこと。
(注3)大学は一つ受けただけでした。高校では、クラブ活動と学生運動に精を出していました。
   東大紛争で入試が中止となったのは、高校2年生の時でした。
(注4)戦時中、母は軍人だった父に付いて満州へ行っていました。
   終戦後は、悲惨な状況の中を、母は引き上げ船で舞鶴へ、そして出雲に帰ってきました。
   父は満州からシベリアへ抑留され、極寒の地で2年間の強制労働の後、帰国しました。
(注5)2歳違いの姉のこと。
(注6)私は自分の持ち物のほとんどすべてを東京に運びました。
    そのため、2年後の火事で、20年間のすべてを焼失しました。

2009年6月25日 (木)

わが母の記(4)40年間未開封だった亡母からの手紙(上)

 大阪の高校を卒業したばかりの昭和45年3月に、18歳だった私は1人で東京に出ました。
 そして、新聞販売店で住み込んで配達や集金や販促の仕事をしながら、予備校へ通って勉強をすることにしました。
 上京してすぐの3月10日に、母から新しい生活の様子を尋ねる一通の手紙が来ました。今も、手元に大事に保管しています。
 その一週間後に、第2信が来ていたのです。しかし、あろうことか、そのことに、ずっと気づかないままだったのです。
 突然、手紙類の束の中から、昭和45年3月18日に大阪・八尾の消印が黒々と押された、封をきらないままの封筒が顔を見せたのです。何度も、表裏を確認しました。確かに、裏には母の名前があります。宛先の文字も、母の手です。

 母からは、東京で一人暮らしをしだした頼りない息子を案じた手紙が、毎月のように来ました。それらは、今もすべて保管しています。
 ありがたいことですが、当時は自分の生活でひたすら前を見て生きるのが精一杯だったこともあり、母の気持ちを汲んだ対応をしていませんでした。
 母からの手紙に返事を書いた覚えはありません。
 今にして思えば、本当に申し訳ないことをした、という思いでいっぱいです。

 今、自分の息子が、母(私の妻)からの手紙に返事を書いていないようだし、メールにもあまり返信をしていないようです。
 その気持ちは、自分がそうだったから、よくわかります。
 とにかく、母親に手紙など、照れくさくて書けないのです。書いている自分のことを想像するだけで、もうペンを持とうとも思わなくなります。母に語るために便せんに向かうなど、考えられないことです。変なことですが、そうでした。
 息子も、おそらく同じ気持ちだと思います。

 上京した当時、母からもらった手紙は、内心は楽しみにして読み、元気づけられていました。
 坪井栄の『あしたの風』を読んでいたら、涙が止まらなくなったことを、今でも思い出します。
 それなのに、第2信だけは、どうしたことか、40年も未開封のままで荷物の中に眠っていたのです。
 大学4年間で10回も引っ越しをしました。火事で新聞販売店を焼け出されてからは、まさに転々とアパートを移り変わりました。
 そのたびに、荷物を片付けていたのですが、この一通の手紙は、ずっと隠れん坊をしていたことになります。
 そして、今、40年も前の母が、私のことを気遣った言葉を語りかけてくれています。
 不思議な気持ちです。
 母は、4年前の10月に亡くなったのです。未開封だった手紙だけが、40年の時空を超えて手元にあるのです。

 折しも、娘がおばあちゃん(私の母)のことを英語で紹介するブログを書き始め、それが好評だそうです。
 私にも、おばあちゃんの資料を見せて、とか話してとか言ってきます。
 こんな手紙があったことを、娘に知らせるつもりで、3回に分けて書くことにします。

2009年6月15日 (月)

ベータのビデオで『古都』を見た時のCM

 奇跡的に生き返ったソニーのビデオデッキで、山口百恵主演の『古都』を見ました。
 1980年の師走に公開された『古都』は、山口百恵の引退を記念しての映画でした。
 1984年に、テレビのゴールデン洋画劇場で放映されたものを、録画していたのです。
 その時の映画のパンフレットが、ベータのビデオテープと一緒に出てきました。写真をふんだんに使った、質の高い冊子となっています。
 
 
 
090614koto映画のパンフレット
 
 
 
 ベータのテープはうっすらとカビが乗っていました。しかし、27年間も動き続ける愛機のデッキは、それをものともせずに、きれいな画像をプロジェクターを通して、自宅のスクリーンに映し出してくれました。

 映画は、川端康成の原作以上によく出来ていました。
 山口百恵を再評価しました。

 この作品と舞台については、以下のブログで言及しています。


読書雑記(5)川端康成『古都』

京洛逍遥(19)北山杉の里

 それよりも感動したのは、間に挟まれていたCMです。

 NECのPC-6601SRの宣伝では、キーボードがワイヤレスになっていました。
 いまでこそ、私のパソコンはすべてワイヤレスのキーボードですが、こんなに前からあったのですね。
 これは、MrPCとか六本木パソコンというニックネームが付いていたはずです。
 1984年の冬の放映分の映画のCMのことなので、今から25年も前のことなのです。

 この年の1月に、アップルが元祖マッキントッシュを発売しています。
 私は、まだマイクロソフトのMS-DOS Ver2.11にしがみついていた頃です。

 この年の5月に出た富士通のFM−77は、当時勤務していた高校に30台を導入することに成功し、ワープロを活用した国語科の授業を展開しました。
 いろいろなメディアの取材を受けたことを覚えています。
 ちょうどそのすぐ後に、ソニーがSMC-777の新機種を発売し、松田聖子をイメージキャラクターにして奮闘していました。ただし、ポスターだけが引っ張りだこでした。OSはCP/Mで、これは私もいろいろと勉強した、懐かしいシステムです。

 この頃、日本IBMはPC/JXを発売し、そのイメージキャラクターは、なんと森進一でした。そのギャップが印象的でした。
 パソコンの新製品が各社乱立し、宣伝合戦に突入した時代でした。

 当時の私は、その前年に発売されたNECのPC-9801/F2をフル活用していたころです。
 私が最初に購入したフロッピーディスクは、1枚2000円もしました。この時代には、マウスは一個なんと29,800円でした。今では想像もできない時代です。
 また、あの頃は、NECのPC-8201というハンディタイプのパソコンも使いこなし、友達の会社の会計処理システムなどのプログラムを開発していました。
 これは、カセットテープにプログラムを収録するものです。ピーヒョロヒョロという音で操作をしていました。

 『古都』の合間のCMでは、NECの日本語専用ワープロ文豪NWP-5Nの宣伝も入っていました。その値段が39万数千円ということで、電子文具が民生品として普及する前夜の様子がわかるものでした。
 私は、その頃に文豪ミニというものを数台購入しました。そして、何人かの方々に文豪ミニをお貸ししたり差し上げて、『源氏物語』の本文を入力してもらったことを思い出しました。
 職場でパソコンなどは購入してもらえない時代でした。お小遣いが飛ぶようになくなっていた時代の話です。

 昔の映画を懐かしく見るはずが、それに加えて間にあったCMが、自分の記憶を呼び覚ましたことに驚きを感じています。

 映画は、純粋にDVDなどで見るのもいいと思います。しかし、こうした余録のあるテレビの録画というメディアも、なかなか楽しめるものだということに気づきました。

2009年6月 1日 (月)

ソニーのビデオが27年後も動く

 私は、パソコンはアップルのマッキントッシュを使っていますが、ソニーのパソコンであるバイオだけは、ウインドウズマシンとして認めています。
 バイオの第1号機ともいえる505の初期ロットの製品を、今でも大事に持っています。
 さすがにもう動きませんが、スタイリッシュな形と魅力的な色に心酔しました。
 今見ても、ほれぼれするノートパソコンです。(後掲リンク先参照)


 さて、ビデオデッキは、ビクターなどのVHSタイプではなくて、ソニーのベータタイプを愛用していました。
 昭和57年(1982)に「SL-F11」というビデオデッキを購入しました。


090531sonyb1SL-F11前面


 当時、定価は30万円近い製品でした。重さも10キログラムと、ズッシリとしています。
 HiFiビデオがまだの、ノーマル音声の時代です。音声多重、ステレオ録音という最高機種でした。
 厚さ8cmというデッキの筐体も衝撃的でした。

 そのビデオデッキを、今回動かしてみたところ、なんとまだ動くのです。
 多くのテープにカビが生えていたので、早送りや巻き戻しをして、吹き飛ばしました。
 荒っぽすぎるので、今度なんとかして掃除をしたいと思います。


090531sonyb2背面とベータテープ


 本体の背面の左側に、ビデオカメラと直結するための14ピンK型コネクターがあります。
 この端子に、ベータのカセットテープを入れる方式のビデオカメラを接続して、生まれたばかりの子供を撮りまくりました。3人目からは8ミリビデオテープを使っていますが、この肩に担いでの撮影は、なかなか楽しいものでした。

 平成14年8月に、ソニーはベータの生産を終了しました。そして、VHSの商品を開発したのです。劣勢に見切りをつけたのですが、性能は格段にベータの方が上でした。放送局は、長くこのベータを使っていました。今も、たくさんのベータのテープを保管しているはずです。

 ベータが打ちきりとなった7年前に、ベータのテープに録画した子どもたちの映像を、とりあえずはVHSのテープにコピーしました。直接パソコンのハードディスクに収録しなかったのは、その量が膨大だったので、コンピュータの性能がさらに向上してから一気にしようと思ったからです。

 その後、このデッキは放置していたのですが、今回荷物の整理をしていて出てきたので、試しに動かしてみました。
 ビデオテープを奥まで巻き込む、Uローディングという独特のシステムです。きれいな画像を追求する、ソニーならではのこだわりです。
 そして、まだ鮮やかに映像を再生してくれるのです。

 テープにカビが生えているものが多くなったので、そろそろデジタル画像に変換する潮時かも知れません。パソコンの性能も飛躍的に向上しました。特にマッキントッシュを使っていると、画像処理は簡単です。
 後は、その作業をする時間を確保することだけです。

 それにしても、このビデオデッキは、子供がクレヨンやハサミを入れて、グルグルと回したものです。
 故障すると、いつもソニーのおじさんが修理に来てくれました。(後掲リンク先参照)
 カセットを入れる所にぶら下がって、子どもたちは遊んだりしていたこともあります。

 そんな過酷な環境を生き抜き、いまだに鮮やかに映像を再生するのですから、まさに名機です。

 中は、こんな状態です。


090531sonyb3内部構造


 いつか、テープが出てこなくなったことがありました。
 この重たい本体を、大阪日本橋のソニーショップへ持って行ったところ、小さなギヤとゴムの交換となりました。
 私は手先が器用だったこともあり、部品を受け取り、ドライバーを貸してもらい、お店のカウンターで自分でこのデッキを分解して修理をしました。部品代の100円だけで、立派に再生したのです。
 このデッキには、愛着が詰まっています。
 今では、こんなことはさせてもらえないでしょうが、こんなことが出来る時代があったのです。

 なお、 もう10年も前の記事ですが、 「ソニー「VAIO 505」〈1997.12.19〉」 と題して書いたことがあります。
 すみません。リンクを飛ばしていないので、表示されたページの最後の項目です。
 ご笑覧いただければ幸いです。

2009年5月19日 (火)

小林茂美先生のご逝去を悼んで

 学生時代からずっとお世話になっていた小林茂美先生がお亡くなりになりました。
 先週の、5月12日でした。昭和元年生まれなので、御年84歳でした。

 過日3月29日には、「王朝の会」でお目にかかり、楽しくお話をしたばかりでした。
 その時のブログには、ご一緒に写した写真を掲載しました。

銀座探訪(16)桜の咲き初め

 桜の話と一緒なので、思い出深い記事となりました。

 小林先生には、國學院大學の大学1年生の時から、ずっと教えを受けてきました。
 大学の帰りには、妻も一緒に、よく飲みに行きました。山形生まれの先生と、秋田生まれの妻は、共にお酒が強かったこともあり、いろいろな所に行きました。高田馬場や中央線沿線が多かったように思います。
 私は、いつも、怒られてばかりでした。

 小林先生に提出した卒業論文は、『源氏物語と唱導文芸の交渉』というものでした。
 妻は、『小野小町論』でした。

 ご一緒に、調査旅行にもよく行きました。
 結婚式には、お仲人をお願いしました。

 私の最初の著作物である『新・文学資料整理術パソコン奮戦記』(桜楓社、昭和61年)では、帯に推薦文をいただきました。伊井春樹先生の推薦文も、その隣に並んでいます。
 最初の研究書である『源氏物語受容論序説』(桜楓社、平成2年)では、巻頭に口上をいただき、それが高崎正秀賞を受賞したときには、本当に喜んでくださいました。ご一緒に高崎正秀先生のご自宅に連れて行かれ、高崎先生の祭壇に受賞の報告をしました。
 『源氏物語別本集成』(桜楓社・おうふう、平成元年)では、共編者に名前を連ねてもらいました。刊行の直前には、伊井春樹先生と共に奈良・平群の我が家へ来てもらい、最終の打ち合わせをしました。
 あれから、無事に正編の15巻が完結し、今は続編の第6巻が出るところです。
 第1巻が出来るときには、百万円という当時としては高額の活動資金をいただき、版下作成用のレーザープリンターやパソコンなどを購入しました。その時の機器を活用して、初期の『源氏物語別本集成』の版下が作成されています。

 西国札所をご案内する計画も進めていたのですが、脚の調子が悪くなったとのことで中止となり、それきりとなったことが残念です。

 学生時代には、王朝文学研究会で『源氏物語』の勉強をしました。
 その会誌である『しのぶ草』の創刊号は、妻と共に寝ずに作ったものです。
 研究会では、『源氏物語』の輪読にあたり、『源氏物語大成』を使って異本・異文と、古注釈の確認を丁寧にしていました。そのことが、その後、私が『源氏物語』の本文研究へと導かれた基礎となりました。
 小林先生のもとで、『源氏物語』の本文について鍛えられました。今の仕事の原点です。

 私が二十歳の成人式の時、住み込みの新聞配達店が火事となり、持ち物すべてを失いました。その時、先生は研究会のメンバーに同じ釜の飯を食っている男を助けなさい、とのことばで、たくさんの日用品がもらえました。先生からは、ご本もいただきました。

 いつか、高田馬場の美男子製造所という理髪店へ、妻と共にご一緒しました。先生が助手時代に、よく通われた所でした。
 そして、当時お住まいだったアパートにも連れて行ってくださいました。奥様との新婚生活時代でもあります。
 そのアパートは見つかったのですが、大家さんはすでに亡くなっておられました。ご仏前で号泣なさっていた先生のお姿が、今も忘れられません。お辛い時代だったからこその、感動的なお姿を拝見しました。

 毎日のように教えを受けた30数年前の7年間が、今、どっと押し寄せて来ます。
 先ほど、妻が我が家の仏壇に、お線香を上げていました。

 大手町の産経学園で『源氏物語』の講義をなさっていたころ、毎回妻と一緒に聴講に行き、そのすべてをテープレコーダーに録音しました。
 今も、そのテープの山が、我が家の倉庫にあります。

 先生のご自宅に、奈良から娘を連れて行ったとき、大変喜んでくださり、奥様からは大きな縫いぐるみをいただきました。

 小野小町の資料を私がたくさん収集していたので、それを元にして本を刊行する話になっていました。それが、未だに果たせないままです。お預けしたまの京大カード版の小野小町の資料は、何とか形にして、ご霊前にお供えしたいと思います。

 思い出すと、後から後から出てきて、きりがありません。

 いつもおっしゃっていた先生のご期待に、果たして私はお応えできているでしょうか。
 さらなる精進をして行きますので、これまでと変わらずに見守っていてください。

 小林先生、ありがとうございました。
 ご冥福をお祈りいたします。

2009年1月 8日 (木)

わが母の記(3)扁桃腺を切る

 私は、小さい時から身体が弱く、栄養失調の一歩手前だったようです。
 体力がなかったので、小学校の2年生までは、体育は見学でした。虚弱児童だったのです。
 運動会でも、あまり走らないように、ということで、徒競走には出してもらえませんでした。
 しかし、運動神経はよかったので、3年生以降は対抗リレーなどの選手に選ばれました。
 野球はピッチャーで4番というポジションをもらったりしました。
 水泳は、学校のそばの神戸川というところで泳ぐのですが、この時も、私はいつも見学でした。
 そのせいもあってか、泳いでもいいということになってからも、水に入るのが苦手でした。
 40歳になってから、恩師の助言を得てスポーツクラブで水泳をするようになったのですが、こうしたことは、今の私を知る人は信用しないことでしょう。

 病気も、よくしました。しょっちゅう風邪を引いていました。
 学校を休むと、給食のコッペパンを友達が届けてくれました。
 身体が丈夫になるようにと、家では私のためにヤギの乳を配達してもらっていました。
 少し鼻につく独特の匂いが、今でも忘れられません。

 風邪を引きやすいのは、ノドの奥にあるアデノイドが大きいためだ、ということからだったのか、小学校に入ってすぐの頃に、切除手術をしました。
 出雲市今市というところにあった、今で言う耳鼻咽喉科で、ノドの奥にある肉の塊を、細長いギロチンのようなものの先端にある穴の中に嵌め込み、チョキンと切られた時のことを、鮮明に覚えています。一瞬のできごとでした。
 その時、母親がずっとそばにいてくれたので、縋り付くようにして怖さに耐えていました。
 確か、目の前に、コロンと肉の塊が転がり出たように思います。
 母はいつもニコニコしていたので、一緒にいると不安な思いになりませんでした。
 切られた時も、母はたこ焼きを半分に切ったような肉片を見て、笑っていました。
 口から、たくさんの血が出たように思いますが、母の笑顔に紛れて、他人事のようにその血を見ていた自分が、今も不思議です。

 親の笑顔は、子供にとっては宝物だと、今でも思っています。
 もっとも、自分がそうだったかと思い返すと、子供たちの前ではあまりニコニコはしていなかったように思います。
 その分、妻はいつもニコニコしているので、何とかうまくバランスがとれているのかも知れません。

 笑顔はいいですね。


2008年12月10日 (水)

背景が欠落する青春の記憶

 母校の大学で会議があり、休憩時に1人で外を散歩しました。

 校舎のすぐ前にある、よく行った神社へ足を向けました。この境内に来るのは三十数年ぶりです。
 学生時代の当時は、お昼ご飯を妻が毎日のように作ってくれていたので、この境内でよく2人でその弁当を食べたものです。
 石段に腰掛けて食べた記憶があります。

 帰ってから妻に見せて懐かしがらせようと思って、写真に撮ろうとしました。しかし、あたりを見渡しても、記憶にない光景なのです。
 デジカメの液晶画面に映る画像は、まったく記憶とは無関係のものとしか思われないのです。
 2人で座ったはずの場所らしきところも、どうしても見当たりません。
 神域が作りかえられたとも思えません。雰囲気は、こんな感じだったはずなのですから。

 とにかく、2人で何度も歩いたはずの参道に向かって、シャッターを切りました。

081210hikawa2氷川神社の参道


 側道も写しました。


081210hikawa1黄葉の氷川神社

 このアングルにも、思い当たるものがありません。

 二十歳そこそこの頃のことです。
 若い頃なので、鮮明に覚えているはずです。
 作ってくれたお弁当のおかずや、フレンチフライのサンドイッチの色や形は目に浮かぶのです。
 それなのに、その背景になるこの神社を取り巻く映像が欠落しているのです。

 これは、いったい何なのでしょうか。
 どうしたことなのでしょうか。

 校舎は、もう妻と一緒に通った頃のものはありません。すべて、建て替えられているからです。
 学生時代を思い出させるものは、ほんの少ししかありません。
 それでも、かつてあった校舎などは記憶の中にあり、それは鮮やかに、今でも思い出せます。
 研究室、教室、図書館、学生食堂、立ち食いソバ、事務室、床屋などなど。
 それなのに、あの神社の景色が消えているのです。

 妻に申し訳ない気持ちを感じながら、母校の新しい校舎に戻りました。

2008年5月26日 (月)

わが母の記(2)階段から落ちる

 私が3歳くらいのことでした。
 本家の離れの屋根裏部屋にいたのですが、我が家の生活空間はそこの2階だったので、階段というよりはハシゴで上り降りをしていました。

 あるとき、急にトイレに行きたくなりました。
 母がいないので、上からハシゴの下に向かって呼ぶと、母が下から顔をのぞかせて、ここだよ、と応えてくれました。洗濯か水仕事をしていたのでしょう。
 私は、大急ぎでズボンとパンツを下ろして、降りようとした時です。自分が下ろしたズボンとパンツに、足が入ったままであることに気づかないまま、足を踏み出していたのです。
 アッと言う間もなく、まっさかさまに落ちました。慌てふためいた母のさまを覚えています。着物に白い割烹着をしていたように思います。

 結局、前歯を1本折るだけですみました。母とバスに乗って、出雲市駅の近くにある歯医者に行きました。
 その数年後に、真ん中からいびつな歯が生えてきました。さらに数年後、小学生の低学年の時にその歯を抜き、できた空間を矯正によって中央に寄せる装置を嵌めていました。

 苦労して真ん中に寄せた歯も,いつしか虫歯となり,今では前歯の3本は差し歯になっています。

 以来,高所恐怖症です。特に,隙間のある階段は苦手です。
 あろうことか、立川の新しい職場の階段は,板切れを並べた状態の、下が丸見えのものなのです。また、ガラス張りの空間に階段があるので、否が応でも下が見えるのです。


Gdmero3v_s館内の階段



 私は3階にいるのですが、できるだけ中央の少し薄暗い非常階段を我慢して使うか,エレベータを利用しています。
 階段の踏み板の隙間から下が見えると,自ずと足が竦むのです。
 下に人の姿が見えると,母が下から顔を出した時の記憶が蘇るのか,足が退けることがあります。

 そのせいもあって、ガラス張りのエレベータもダメです。
 新館のエレベータが、そこまで斬新な設計ではなかったことに、救われる想いがしています。




2008年5月20日 (火)

わが父の記(2)川で流された時

 私が3歳の時でした。
 本家の裏にあった、2階の屋根裏部屋で生活をしていた時のことです。
 我が家は、おじいちゃんが保証人になったために家を潰し、それ以来放浪の生活を強いられていました。
 父は職業軍人でしたが、満州で終戦を迎え、シベリアへ抑留されました。
 昭和23年6月に復員、引き上げて来て、それから12年ほどはさまざまな仕事をしていました。
 私が記憶する当時,父はポン菓子を作って村の周辺を回っていました。
 ポン菓子作りの道具は、今では見かけなくなりました。しかし数年前に、たまたま中国の長春で見かけたので、その時の写真を掲載します。


Zeyepavk_s中国で



 これは、私の父が使っていたものとまったく同じものです。運搬車と呼んでいた自転車につないだリヤカーも、バーナーの部分も,そしてバーンと言わせて弾けさせた後に米が飛び散っている様子も、そっくりそのままタイムスリップした光景です。

 父は、相当山の中へも、ポン菓子を作るために出かけていました。お米のはじけたものの残りは、母が夜中に水飴で固めて「おこし」にしていました。父は、またそれを持ち歩いて、道々売っていました。
 私は、父のポン菓子作りに付いて行きました。というよりも、子守りがてら、父は私を連れて行っていたのでしょう。私はわけもわからずに、お米を爆発させる道具のハンドルを回していました。勢いよく燃えるバーナーの炎で、顔や手が熱くなったことを覚えています。ハンドルの真ん中に付いている圧力計が振り切れる頃に、父はレバーを叩いて爆発させます。耳をつんざく、大きな音がしました。
 日が暮れて仕事が終わると、運搬車の荷台に乗せられて帰路につきます。そして必ず、父は次の歌を唄っていました。



庭のサンシューぅのぉ木ーぃに
  鳴ぁるぅ鈴 つけてぇー……




 今でも、そのメロディーを口ずさめます。

 その頃のことだと思います。
 かすかな記憶ではありますが、私は家の側の小川で魚を追いかけていた時に,何かの拍子に川に落ちたのです。
 3歳頃のことですが、今から思えば小さな川に流され,水の中で助けを求めて叫んでいた覚えがあります。水中からみた水面を覚えています。
 怪しい記憶ですが,イメージが浮かぶのです。潜在意識に刻み込まれているのでしょうか。その時、父が必死になつて私を川から救い上げてくれました。なぜか鮮明に、その時の様子も覚えています。

 次の写真は、ちょうどその頃のものです。
 運搬車と呼んでいた自転車は、父の仕事の道具でもありました。
 自転車の左下の小川が、私が流された川です。

Fhgb5wdm_s父と


 父には,いろいろな局面で助けてもらいました。
 何も恩返しをしないうちに、父は他界しました。
 せめてもの息子からの感謝の気持ちは、父の川柳句集を『ひとつぶのむぎ』として1冊の本にまとめあげたことでしょうか。
 この本については、「わが父の記(1)感謝の念を伝える」(http://blog.kansai.com/genjiito/223)で詳しく書いた通りです。
 父も,この本については,本当に喜んでいました。

 覚えていないはずの、川に流された記憶を,時々思い出すのです。これは何なのでしょうか。鮮明な記憶となっているだけに、体が覚えた記憶として深く定着しているのでしょう。



2008年4月 4日 (金)

わが母の記(1)風呂敷が結べない

 父親に対しては、割と客観的に語れます。ある程度距離を置いて接して来たからでしょうか。
 それに対して母親は、郷愁と感傷が入り混ざった回想になってしまうのは、どうしてでしょうか。自分の成長と密接に関わった存在だからでしょうか。

 母に関してまず思い出すのは、小学校の入学前の面談の時のことです。
 島根県出雲市立古志小学校の教室であったことです。
 母につれられて、初めて行った小学校で、入学前の話と面談が先生とあったのです。確か、先生は二人おられたように思います。
 どのような流れからか、突然、机の上に風呂敷が出されました。そして、何か四角い物を包むことになったのです。何を意図したものか、幼い私は知る由もありません。
 包むのはよかったのですが、その風呂敷の端を結ぶのに、蝶々結びがどうしても出来ないのです。仕方がないので、固結びをして終えました。帰り道、悔しい思いをしていたことを覚えています。

 ところが、教室でも、そして帰りにも、母は何も言わずに、終始ニコニコしていました。
 風呂敷が結べないことくらい、そんなことはどうでもいいよ、という母の思いが何となく伝わって来たので、安心したように思います。
 そんなことを覚えているくらいですから、私は今でも実は気にしています。そして、今でも、蝶々結びは苦手です。紐の端のどっちをどう回すのか、いまだに迷います。そして、決まって縦結びになるのです。

 昔から、手先は器用でした。しかし、紐を結ぶのは苦手なのです。
 小さいときから、そのことを母は知りながら、ついに教えてくれることもなく他界しました。母にとって、息子が紐を結べないことぐらいは、どうでもよかったのでしょう。
 勉強しろとも、何をどうしたらいいかとも、まったく私に言いもせず、教えてもくれませんでした。高校を卒業するときに、東京へ行くと言っても、賛成も反対もせず、好きなようにしたらいいと言ってくれました。何をしても、ニコニコと見てくれていました。

 母は、何も考えていなかったのではないか、と今では思っています。今から思うと、これが私にとってはよかったと思います。
 その反面、父が非常に口うるさかったので、うまく釣り合った子育てだったのかも知れません。

 子どもたちは、今でもおばあちゃんを慕っています。何をしても怒られなかったし、いつもニコニコしていたからでしょう。
 黙って見ている、というのも、大きな意味をもっているように思えて来ました。


2008年3月26日 (水)

わが父の記(1)感謝の念を伝える

 井上靖に『わが母の記』という作品があります。
 そのまねをして、折々に〈わが父の記〉を綴ってみたいと思います。

 息子にとって父親とは、元気な時には、あまりいい関係は保てないように思います。
 それは、私がそうだったというだけかもしれませんが……。一般的にはどうなんでしょうか。
 私の父が言うことは、いつも教訓じみていたので、自然と距離を置くようになっていました。
 とにかく、うるさいと思ったことが多いのです。ほっておいてほしかったのです。

 息子のことを気にかけて、心配してくれていたことは、痛いほどわかりました。感謝しながらも、しかし、態度としては冷ややかに接していたように思います。

 父が亡くなって25年が過ぎようとしています。今にして思うと、申し訳なかったと後悔しています。何とかして、「ありがとう」という気持ちを直接ことばで伝えればよかったのですが、それも叶わないままに見送ってしまいました。

 息子としてせめてもの感謝の念は、癌で余命いくばくもない時に、父が作り貯めていた川柳を『ひとつぶのむぎ』という1冊の句集にまとめて出版できたことに込めたと思っています。

V5ngrq6t_s句集作成中




7auqztag_s完成した句集




 燃え尽きる最後の最後まで、父は自分の生涯で唯一の本にサインをして、関係者に発送していました。こうしたことが最後にできるようにしたことが、せめてもの父への感謝だったと思うことにしています。

 そんな父との関わりを通して得たことを、今は息子に接するときに気を配っています。

 父との思い出は、思いの外たくさんあります。
 折りを見て少しずつ思い出しながら、父へ語りかけていくつもりです。



NPO法人〈源氏物語電子資料館〉広報室より

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